『君の太陽』

 

 

 

 

 

一面の白が僕を包んでいた。


起伏のない平面の世界。果ては見えず空さえも白いここでは地平線は存在しない。

降り積もる雪はこの世界の音を全て吸い込んで、ただ自分の呼吸だけが聞こえる。

自分と、この雪の他に何も見えない。存在を感じさせるものもない。
ただ雪が降り続ける世界。

 

だが僕には、確信があった。

 

ここは彼女の世界だ。何故という疑問もない。ただ、わかるのだ。
僕がそう理解したのが、自分の超能力者としての力によるものではないこともわかった。
ぴたりとはまったのだ。
この世界を形作るものが、僕の中にある、ピースが欠けたそこに、すとんと。まるではじめからそこにあったかのように。

そして僕は理解した。

彼女の願いと、絶望を。

 

 

 

 

 

予兆がなかったといえば嘘になる。
涼宮さんの能力の減衰が明らかになった2年の冬、そのきっかけとなった彼の告白は、なんとか均衡を保っていたSOS団を見事に崩壊させた。
僕の個人的な見解を述べるなら、この結果はある意味当然で、またある意味では全く意外なことだった。
涼宮さんが彼を想っていることはSOS団の中では最も鈍感である彼にさえ知れた周知の事実であり、またその彼が涼宮さんを想っていることも同じぐらい当然であったはずだ。
なんだかんだ理由をつけながら、彼自身も涼宮さんの破天荒な行動を受け入れ、また誰より近くで楽しんでいた。
その姿はまるで父のようであり、兄のようであり、そして恋人のようだった。そんな彼を心から信頼し、思うままに振る舞う涼宮さんはとても幸せそうで。
いつか彼に本気で叱られてからの彼女は、団員に対するそれまではうまく表現できなかった不器用な優しさを、ちゃんと伝えようとするようになった。彼が彼女を成長させたのだ。

 

長々と説明してきたが、つまりは、二人はお似合いだと言う他なかった。
互いを大切に思い、互いに互いを必要としていた。もうどちらかの告白を待つだけだったのだ。

 

 


僕は能力に目覚めてからの5年間、彼女に選ばれたという理由でずっと戦ってきた。一度も辛くなかったと言えば嘘になるだろう。命の危機を感じたこともある。だから恨んだこともある。選ばれなかった人生について何度も考えた。

だがあの日、涼宮さんと初めて話した日、そういったもろもろの黒いものが消えてなくなったのだ。

 

自信と活力に満ちた目に、ぴんと伸びた背筋。

あの時見せてくれた笑顔が、彼の言う100万ワット微笑みなのかは僕にはわからないけれど、まさしくそれは太陽だった。
じめじめとした僕の感情なんて一瞬で蒸発させてしまう力を持っていた。
あの時に僕はきっと、彼女に恋をしたのだと思う。だけど、僕のこの淡い初恋は実ることなく終わる。
 

涼宮さんが選んだのは、なんの特殊性も持たぬ彼だった。
僕はそれまでの3年間、一方的にではあるが、彼女の心と共にあり続けてきた。だから、彼女が求める人間は理解しているつもりだった。
でも彼女が選んだのは彼だった。

 

それはつまり、そういうことだ。

 

宇宙人や未来人や超能力者として彼を求めたのではなく、
唯一無二の代替不可能な存在として、彼そのものが必要とされたのだ。

僕は納得していた。
何故なら彼は、僕たちの中でただ一人彼女と対等であった人だ。
隣を歩き、時に手を引かれ、時に手を引き、本当の意味で彼女と共にあった人だ。
そんな彼に彼女が惹かれたとしてなんの不思議があるだろうか。何もない。

こんな風に納得してしまえる僕の気持ちは大して強いものではなかったのかもしれない。
元来僕は何事にも強く執着できない弱い人間だった。欲しいものを欲しがれない人間だった。

 

 

 

――だけど

 

 

 

彼女は、長門さんはそうではなかった。
彼女の想いは僕よりもずっと強く、深く、重かった。

彼女という固体を形成する要素において、彼の存在はおそらく、彼女に許された自由にできる場所のほとんど全てだった。

喜びも悲しみも安らぎも困難も、全てが彼と共にあったのだろう。
そして彼女はどこまでも純粋だった。

欲しいものを欲しがることのできる人だった。

だが、全てのものが硬ければ硬いほど、もろく崩れやすいように、固すぎる彼女の意志も、限界を超え、ばらばらに壊れてしまった。


そして、ここができた。
彼女は、世界を拒絶した。

 

 

 

 

「長門さん……」

どうして僕がここに入ることが出来たのか。それはわからない。だけど、この世界が彼女ごと終わろうとしていることはわかった。
この世界のどかかで、彼女は一人膝を抱え、あの濁りのない瞳に涙を貯めているのだろう。拭うことさえできず、頬にいくつもの筋を作って、ただじっと世界の終わりを待っているのだろう。

当てもなく歩き続けた。
雪は積り続け、もう僕の太腿まで来ていた。最初にここに入った時には膝までしか積もっていなかったのに。

もう時間がない。

雪は僕の足をどんどんと重くする。だけど、立ち止まることだけは絶対にしたくなかった。その思いだけで足を動かした。
僕は自分にこんな強い意志が存在することを初めて知った。

雪をかき分けながら必死に足を動かし、彼女の名を叫んだ。

僕の声なんて届かないかもしれない。もしも聞こえたって、彼女はきっと嬉しくないだろう。彼女が待っているのは僕ではない。
それは十分わかっている。


何故なら僕は誰より彼女を見てきたのだから。

 

 

 

 

 

涼宮さんへの初恋とも呼べない恋に破れた僕は、いつしかこの部屋の中にあの頃の自分と同じ目を見つけた。

長門さんだ。

彼女の静謐な目は、いつもずっと彼を見ていた。涼宮さんや彼には気づかれないように、ずっと、そっと、彼を見ていた。

その眼はいつも真剣で、初めての恋に対する戸惑いがあった。彼女は、彼を見つめるとき、どこにでもいる一人の少女だった。

だけど、時間は待ってはくれなくて。
彼女が初めての恋に戸惑っていたあの頃から、いつしか自分の想いにも気づき、その眼に隠しようもない熱が現れたころ、――彼が自分の想いに気づいた。

誰よりも彼を見つめていた彼女がそれに気づかないはずはなかった。

そして彼女は感情のすべてをふさぎ込んだ。

最近になって僅かに伝え始めた親愛の情も、隠しきれない恋情も、彼女はすべてを仕舞い込んだ。

 

僕はそんな彼女を見ていられなかった。

自分の殻に閉じこもり、目を背け、無感情になろうとする彼女。
開きかけた小さな蕾が、咲くことを諦め、ただ枯れて冬を待つように、
彼女は自分の恋を終わらせようとしていた。

僕は思った。

 

彼女の、笑顔が見たいと。

 

それからの僕はちょっとみっともないくらいに、彼女に関わろうとした。
ことあるごとに話しかけて、不思議探索のくじでは涼宮さんに頼んで細工もしてもらった。
何も答えない彼女に必死に語りかけた。
彼女の興味のありそうな本は手当たり次第に読んだ。
遊びにも誘った。彼女が行きそうな場所には何度も足を運んだ。

だけど彼女は一度として僕に笑いかけることはなかった。
返事をすることもなかった。
部室以外で出会えたこともなかった。

 

 

 


そしてあの事件が起きた。長門さんによる世界改変である。

 

 

 


僕は事の顛末を彼から聞いただけだ。僕には何もできなかった。当然だ。僕はずっとこちらの世界にいた。
僕は、彼女に選ばれなかったのだから。

もう、僕は認めざるをえなかった。

どれだけ彼女が彼を想っても、その想いが届かなかったように、
どれだけ僕が彼女を想っても、この想いが届くことはない。

諦めようと思った。僕には無理だ。僕に彼女を笑わせることなんてできない。

僕なんかの気持ちで笑えるほど、彼女の想いは安くない。

彼女がしたのは、人生を決めてしまう恋なのだ。

 


そして、戻って来たきた彼は、今までの彼ではなかった。
もうその目に迷いはなかった。
彼は涼宮ハルヒに告白した。

 

 

 

 

 

 


もう目を開けているのも困難だった。
静かに振り続けていたはずの雪はいつしか吹雪に代わり、僕の行く手を阻んだ。雪の高さは既に腰を超えて、一歩ごとに体中のエネルギーの半分が持って行かれる気がした。

だけど、僕は倒れなかった。荒く肩で息をしながら、何度も彼女の名前を呼んだ。

何度も。何度も。何度も。

 

やはり、返事はない。

 

当然だ。今までだって答えてもらえたことがない。
不思議探索で隣にいても、僕たちはいつも一人と一人だった。

彼女にとっての僕は、きっと道端の石ころとたいして変わらない。この声は、雨が窓を叩く音と変わらない。

いてもいなくても、あってもなくても、気づかない。その程度のものだろう。

 

悔しかった。

悲しかった。

 

彼女に見てもらえないことがじゃない。彼女に望まれないことがじゃない。彼女のために何もできないことが、どうしようもなく悔しかった。


どうすれば、この声は届くのだろう。どうすれば彼女を救えるのだろう。

絶望の淵で、独り心を殺し、自分を終わらせようとする少女に。

自分は何もできないのか。

 

――僕には、何も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ながとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

吹雪の雪原に男の声が響く。

「返事をしてくれ! 長門! 俺だ!」

その声はひどく枯れていた。吹雪にかき消されるはずのその叫びが、雪原に響き渡る。
喉からは血が出ているのだろう、時折飛ぶ液体が、雪原を赤く染める。
男は構わず叫び続ける。

「ながとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

男の視界に一本の木が現れる。

「おれだぁああああああああああああああああああ!」

叫びながら、それに向けて歩き続ける。

「……し…………こ」

男のものとは違う、小さく今にも消えてしまいそうな声が聞こえる。

「どこだぁああああああああああああああああああ!」

その声は男の問いかけに応える。

「……たし……ここ」

男は叫び続ける。

「ながとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

「わたしはここ」

はっきりと音になる、少女の声。
涙声が雪原を揺らす。その振動が、彼に届く。

 

 

 

 

 

 

 

 

木が立っていた。


その木が、少女を雪から守っていたのだ。
いつのまにか吹雪はやみ、今はただ雪が静かに舞い降りる。
少女はその木の根元に座り込み、抱えた膝に顔を伏せている。少年はゆっくりと彼女に近づいた。
少女はそっと顔を上げて、ゆっくりと彼を仰ぎ見る。

 

男物のローファー。

 

強く握りしめられた手。

 

着崩した制服。

 

 

 

 

 


――長い、前髪。

 

 

 

 

 


我ながら汚いやり方だと思う。
彼女の大切なものを、純粋な想いを利用するこんな方法は。


恥ずかしくないのかといえば、違うなんて言えないけれど。

僕にできなくても、彼にならできることがあるのなら、たとえ模造品でも、僕はそれになりたいと思う。
コピーがオリジナルに敵うわけがないことぐらいわかっている。

でも、僕自身であるより、それが彼女のためになるのなら、僕は喜んで自分を捨てる。
僕にとってはそれこそが僕だ。

彼女は怒るだろうか。

それもいいな、怒られてみたい、なんて割と本気で考えてしまう僕は歪んでいるのかもしれない。
多分彼女に飢えているだけだけれど。
どんな感情でも、彼女が僕に向けてくれるなら僕はそれを全て受け入れたいと思うから。

「すみません、僕です」

一度顔をあげ、『僕』が僕であることを確認した彼女は、もう一度膝に顔をうずめた。

僕は彼女に一体何が言えるだろう。何を言えばいいのだろう。

それを考えながら歩いていたのだけど、結局何も思いつかなかった。

彼女が失ったものは、僕で埋められる大きさじゃない。
わかっていたけど。
そんなことはちゃんとわかってはいたんだけど。

拳を握りしめる。爪が掌に食い込むのがわかる。

悔しい。悔しい。悔しい。

 

 

「……な……さぃ」

「え?」

「ごめんなさい」

 

彼女は今にも消えそうな声で言った。

 

「あなたが来るとは思わなかったから」

そう言って彼女は自分の腕を握り締める。

僕もここに来られるなんて思っていなかった。自分に、ここに来る権利があるなんて思っていなかった。

「あなたを私のわがままに巻き込んでしまった。この方向に向かって歩いていけば、外に出られる」

彼女はうつむいたまま、そっと指をさす。
その薄い肩は震えていて、僕は彼女を抱きしめてその小さな体を温めたいと思うけれど。
それは彼女の望むことではない。

踏み出しそうになる足をぐっとこらえて、僕は言った。

「長門さん、一緒に行きましょう。 あなたもここを出るんです」

だけど彼女は頷かない。

「この世界は私のエラーの暴走が生み出した。私はこれを受け入れている。これが私の願いだから。あなたは何も気にしなくていい」

 

彼女はゆっくりと顔を上げて、ほんの僅かに微笑んで、言った。

「さようなら。――来てくれてありがとう」

 

なんて悲しい笑顔なんだろう。
彼女の頬の幾筋もの涙の痕が僕の胸を締め付ける。

初めて見る笑顔が、別れの挨拶だなんて。そんなのあんまりだ。


どうしてあなたが泣くんだ。どうしてそんな顔をして笑うんだ。
どうしたらいい? 僕はどうしたらいい? 僕はどうしたら彼女を救える? 僕に何が出来る? 彼女は何を望んでいる?

わからない。
どうしても、わからない。

 

 

 

 

 

 

――――もう考えるのはやめだ。

 

 


 

 

このままなら彼女はここで消える。たった独りで、消える。


脳裏によぎる、たくさんのあなた。


   窓際で本を読む姿。
   あなたはいつも部室に一番乗りで、僕が来たときにはいつもそこにいましたね。
   二番目に僕が来たときは二人っきりで、毎回どきどきしていたんですよ。
   実はあなたの涼しげな横顔をいつも見つめていました。


   あの夏のどこかつまらなそうな顔。
   あんなことになっていたなんて全然気づかなかった。
   本当はずっと謝りたかったんです。
   僕はあの時も、何もしてあげられなかった。


   楽しい思い出もたくさんありましたね。
   5人でいろんなことをしました。
   映画製作も合宿も探索も何もかも。
   全部本当に楽しかった。


   彼を見上げる姿。。
   何度それが自分であったならと、夢見たかわかりません。
   絶対の信頼と、親愛と、恋情が込められた眼差し。
   恋を知ったあなたは、とても美しかった。

 

あなたは今、僕の前で、泣きながら笑っている。さようなら、と。自分は消えたいんだと。

「初めてですね。あなたが僕に笑いかけてくれたのは」

嬉しかった。こんな時ですら、そう思ってしまった、

「ここに来るまでずっと考えていました。僕に何ができるのか。あなたのために何ができるのか」

彼女が僕を見ている。僕だけを。怖いくらいに心臓が脈を打つ。
これが今じゃなければ、僕はきっと喜びで涙を流してしまっただろう。

「だけど、何も見つからないんです。あなたの気持ちを考えれば考えるほど、僕にできることなんて何もないって、そう思い知るんです」

あなたへの想いに気づいた時に、わかっていたと思っていた。
でも、認められなかった。認めたくなかった。

だけど。

「あなたがどれほど彼を想い、どれほど彼を見てきたのかは、僕が一番知っています」

それは自信を持って言える。

「だから、その代わりが誰にも務まらないこともわかっています。あなたの恋はそんな安物じゃない」

 


――でも。

――それでも。

――あなたがここで、独り消えること。

――それだけは、認められない。

 

――それだけは絶対、認められない。

 


「僕もここに残ると言ったら、あなたはそれを認めてくれますか?」

答えなんてわかっているけど、最後にこれだけは聴いておきたかった。

「あなたが付き合う必要はない。これは私の問題」

優しいあなたが、誰かを巻き込むなんて望むはずがない。

 

だったら僕は、僕のやり方で、君を守る。

 

「実はさっきわかったことがあるんです」

僕は彼女から数歩離れて言った。そして丹田に力を込める。いつものように。
僕の周りの空気が揺らぎ、赤い球体が僕を包む。

「どうして……」

長門さんが驚いている。当然だ。僕は超能力者だからここにいるわけではない。ここは閉鎖空間でもない。

「さて、どうしてなんでしょう。僕にもわかりません。多分これはきっと神様が僕に与えてくれたチャンスなんだと思います」

僕はさらに力を込めて、空に浮きあがる。球体は通常の大きさを超え、なおも膨張を続ける。

「その木のそばにいれば大丈夫ですから。あなたはそこにいてください」

 


この世界にただ一つだけ、存在が許されたもの。

それがこれ。

 

一本の樹。

 

まるで僕のことじゃないか。

偶然か、あるいは意味があるのか。それは僕にはわからないけれど。

この彼女の悲しみと絶望と願いの世界の中で、もしもその木が僕であるというのなら。こんなに幸せなことはない。

「ねえ、長門さん。一つだけ覚えていてください。これから僕に何が起きてもそれは僕の選んだ結果です。僕が僕自身のために選んだことです。僕の望んだことなんです。あなたの責任ではありません」

ここで言葉を切った。もう充分なはずだ。余計なことは言わなくていい。

でも、止められなかった。

 

「僕はただ、あなたに笑っていてほしいんです」

 

優しい彼女は、きっと自分を責めるだろう。
僕の勝手な行動で、背負わなくてもいい十字架を背負ってしまう。それは本当に申し訳ないと思う。

でも、これだけは譲れない。

あなたに恨まれても、あなたを傷つけても、僕はあなたに生きてほしい。あなたはもう一度笑えると、僕は信じている。

 

 

 


吐血。

 

この球体が赤くてよかった。彼女には僕の血が見えていなければいい。


全身が熱い。目がかすむ。意識が飛びそうになる。

全ての力を一気に解き放つ。限界以上に絞り出す。

 

 


彼は君の太陽だ。君の悲しみを本当に溶かすことができるのは彼だけだろう。


だから僕は、今、この瞬間だけ、君の太陽になる。


「この降り積もる雪が、あなたの悲しみだというのなら。溶かしてみせる。僕の全てを懸けて」
ありがとう、長門さん。あなたを好きになれて、僕は本当に幸せでした。

 

 

 

 

 

 

 

 


雪。

 

無音。

 

 

 

 

 

 

 

閃光。

 

球体は一瞬収縮したあと、一気に爆発した。


膨大なエネルギーが拡がり長門のいる木を中心に周囲の雪を溶かしていく。それと共に、球体は輝きを失っていく。

もう長門の周りには一欠けらの雪もない。
木はそのエネルギーを受けながらも、微動だにせず、長門を守り続ける。雪はもう視界のはずれに僅かに残るのみだ。
だがなお、球体は光ることをやめない。明らかに輝きを落としながらも、その小さな太陽は燃え続ける。
明滅を繰り返しながら、輝く。


「やめて! もういい! もうやめて」

雪解けの草原に少女の叫びが響く。
その声に応えるように球体は一瞬ゆらめくが、形を変えない。
少女は小さな太陽に向けて泣き叫ぶ。

「もうやめて! いなくならないで! 私を一人にしないで!」

少女は球体に向かって跳んだ。
降り注ぐ熱にじりじりと少女の髪と肌が焦げる。

彼女はそれを臆してはいない。彼女が恐れているのは別のことだ。

だから彼女は叫ぶ。小さな太陽に向かって。本当の心を。

「お願い! そばにいて!」

彼女がその燃え上がる赤い玉に触れようとした瞬間、球体は光を無くし、人型に戻り、頭から落下を始める。
力の入っていない彼の手は慣性によって自然と上に持ちあがる。
その手を少女が握り、空中で少年を抱きしめ、ふわりと着地した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うっ……うっ……」

声が聞こえる。誰かが泣いている。

体中の感覚が、薄い。全身に違和感と倦怠感があるが、痛覚が麻痺しているのか、それを上手く感知できない。

「……ひぐっ……うっ……」

この声は誰なんだろう。泣き声なのに、とても綺麗だ。

ねえ、君はどうして泣いているの?

「うっ……うっ……」

瞼が重い。

でもここで目を開けなかったら、もう二度と起きられないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降っていた。眩しいほどの緑が濡れて光っている。

あの雪の世界はこんなにも美しく、優しい世界だったのだと知る。
僕は驚かなかった。こうだと思っていたのだ。
長門さんの心はとても綺麗だから。

僕は長門さんの膝に頭を乗せているらしかった。彼女が、彼女の顔がとても近い。
多分、出会ってから今までで一番近くだ。

「長門さん?」

「……うっ……うっ……ひぐっ……」

 

あの時、彼女の声が聞こえた。
僕はその言葉にひどく動揺して、声のした方を向いたら、彼女が近付いてくるのが見えた。
だからとっさに力を抑え込んで、なんとか彼女を傷つけずにいたつもりだったけれど、上手くいかなかったのかもしれない。

だって彼女がこんなにも僕の近くで、まるで僕のために泣いているように見える。

そんなのありえない。天国でもない限り。

もし天使の姿が死者に選択できるとしたら、僕の天使はきっと長門さんの姿だ。それなら僕のために泣いてくれてもおかしくない。

でも天国にしては結構体は痛いままだったりするんだな、なんて、そんなことを考えた。

 

「ねえ長門さん、どうして泣いているんですか?」

彼女は嗚咽を漏らし続けるだけで、応えない。

「まだ、悲しいことがあるんですか?」

僕は出来るだけ優しく言った。
今の長門さんは帰り道を忘れてしまい泣いている小さな子供のようだった。

「……この木は、あなた」

彼女が言った。嗚咽を噛み殺し、必死に声にしていた。

「私の中の、あなた」

「……そう、だったんですか」

彼女は僕を見つめながら頷いた。そのひょうしに彼女の目から涙がこぼれて、僕の顔に落ちた。温かかった。

「あなたはいつも私に話しかけて、そばにいて、守ってくれた」

「僕がそうしたかったんですよ」

「でも、私は彼が好きで、あなたの優しさは嬉しかったけど、嬉しいと伝えてはいけないと思って、もし伝えたら、あなたを傷つけることになると、そう思って……」

彼女は必死に言葉を繋げた。不器用に、だけど誠実に。

「大丈夫です。わかっていました。嬉しく思ってもらえていたのは初めて知りましたが」

僕は冗談めかしく言って笑おうとしたが、上手く笑えずに咳込んだ。彼女がそれを見てまた目にいっぱいの涙を溜める。

ゆらゆらと揺れる目がとても綺麗で、僕は初めてこんなにも真っ直ぐに彼女と見つめ合えていることが嬉しかった。

「本当は返事をしたかった。遊びにも行きたかった。探索も楽しかった。でも、私が渡せるものは一番ではなかった。あなたが私に望んでくれるものではなかった。だから、これで終わらせようと思った」

「この世界で、あなた自身を、ですか?」

そう、と彼女は頷いた。

「どんな理由でも、彼が来てくれたら、それに応えるつもりだった。それがたとえ愛情ではなくても。来てくれなかったら……」

「終わらせるつもりだったんですね」

僕の言葉に彼女は一瞬声を詰まらせたが、そう、と応えた。

「だけど、来たのは……違う、来てくれたのは、あなただった」

彼女がそっと僕の頬に手を当てた。

「お呼びでないのはわかっていたのですが、すみません」

今度は多分上手く笑えたと思う。

「本当はわかっていた。あなたが来たことも、あなたが彼のふりをして私を呼んだことも」

「……そう、だったんですか」

「気付いたら、声を出していた。どうしても、あなたにお礼が言いたかった。この木はいつでも私の中にあった。ずっとこうやって私を守ってくれていた。雨からも、雪からも、あなたはいつもこうして私を守ってくれた。あなたの優しさが、どれほど私を慰めてくれたのか伝えたかった」

「……そう言って頂けると、報われます」

あとからあとから感情がせりあがってきて、僕は涙を堪えるのに必死だった。

 

「でも、あなたは死のうとした。私のために!」

「違います。言ったはずです。僕は、僕のために、自分の命を賭けたんです。あなたのためじゃない」

「違う! あなたは私を助けようとして、命を賭けた!」

彼女はきっとめをつむり、強く首を振りながら僕の言葉を否定した。彼女の目に溜まっていた涙が雫になって僕に降り注ぐ。

ずっと彼女に笑ってほしいと思っていたのに、僕は今彼女を泣かせている。

「あなたが……わ、私のために、……命を賭けて、ゆ、雪を溶かして」

彼女は必死に途切れ途切れに話す。嗚咽が混じり、上手く言えなくて、何度も言い直した。

「……それで、あ、あなたが、いなくなると思ったら、……怖くなって、し、死ぬより、怖くなって、それで……」

「とめてくれたんですね」

彼女は両手で顔を覆い、大きな声で泣く。

「恋なんてしなければよかった! 誰も好きにならなければよかった! そうすれば私も、あなたも傷つかずにすんだ!お願い。いなくならないで。あなたがいないのは嫌なの! 絶対嫌なの!」

 

ゼロだと思っていたものがそうではないと知った。もしそれがゼロではないなら、僕は賭けてみたい。これはもうずっと前に諦めていた選択だった。

心臓がどくどくと脈を打つ。僕は体を起こし彼女と向き合った。痛覚が蘇り、全身がひどく傷む。でもこの痛みが誇らしくも思えた。

「長門さん、僕は涼宮さんが好きでした。いつも自分に自信があって、前を向いていて、僕たちを引っ張っていってくれて。彼女を見ていると元気になれたんです。でも、彼女は彼を好きになりました。辛くなかったと言えば嘘になります。でも今はそれでよかったと思っています。どうしてだかわかりますか?」

 

彼女は目元を何度も拭いながら、僕を見た。

「あなたを好きになったからですよ、長門さん。僕はあなたを好きになるまで、自分が嫌いでした。ずるくて、臆病で、嘘吐きで、自分が一番かわいくて。本当に大嫌いでした。でもね、長門さん。僕はあなたを好きになって変われたんです。たとえ傷ついても、誰かを傷つけても、恨まれることになっても、あなたに笑ってほしいと思いました。できるなら、僕の力で、笑ってほしいと思いました。純粋で真っ直ぐなあなたを、僕も真っ直ぐ好きになろうって、そう思えたんです。

 ねえ、長門さん。確かにあなたの想いは届かなかった。じゃあその恋は無駄だったんですか?恋なんてしないほうがよかったんですか?違います。絶対に違います。僕は、彼に恋するあなたを好きになりました。彼に恋をしたあなたは、どんどん変わっていきました。僕はあなたをずっと見ていたので、よく知っています。不器用に、でも一途に、真っ直ぐに、彼を想うあなたはとても眩しかった。何度、その笑顔の先に自分がいたらと思ったかわかりません。僕は彼が羨ましかったんです。長門さん、あなたは彼に恋をして変わったんですよ。
 今のあなたがいるのは、あなたが、僕のために泣いてくれる優しいあなたになったのは、彼に恋をしたからですよ。だから、恋なんてしたくなかったなんて、そんな悲しいこと言わないでください。僕が大好きなあなたを、否定しないでください」

彼女は途中から嗚咽を漏らしていた。
でも僕の言葉を聴いてくれているのはわかった。嬉しかった。本当に、嬉しかった。

 

でも、彼女はまだ笑っていない。
今もまだ泣いている。僕の目の前で。その小さな体を震わせながら、泣いている。

彼女は僕に、いなくならないで、と言ってくれた。

もちろんそれは恋ではなくて、別のものだと思う。そんなことはちゃんとわかっている。
でも、彼女にとっての僕は道端の石ころなんかではなくて、彼女を守るこの木だった。
雪からも雨からも、彼女を守っていたのだ。僕の声は、ちゃんと彼女に届いていたのだ。

 

 

 

 

 


――だったら

 

 

 

 

 


僕にできるのはここで諦めることじゃない。彼女が泣くのを見守ることじゃない。


僕は、この手で、その涙を拭ってあげたい。彼女の笑顔を取り戻したい。

 

「長門さん、僕はあなたが好きです。世界で一番、あなたが好きです。だから、僕を選んでくれませんか?」
「――私は、私は今でも、彼が好き」

「知っています。でもそれでいいんです」

「いいの?」

「はい」

「私は、彼を忘れられないかもしれない」

「大丈夫です。あなたは必ず僕に恋をします」

「絶対に?」

「はい。この樹に誓って。あなたを必ず幸せにします。今度こそ、僕の全てを賭けて」


彼女は俯いて考え込む。腿の上に置かれた手がぎゅっと握られて戸惑いに震えるのがわかる。すうっと息を吸う音が聞こえた。

彼女は唇を噛んで僕を真っ直ぐに見た。涙の後はまだ消えていない。

「古泉一樹」

「はい」

「私はあなたを傷つけるかもしれない」

「構いません。たとえ傷つけられるとしても、僕はその傷さえ愛おしく思います」

「でも、私は……私は……」

彼女の迷いはもっともで、僕は横恋慕をしているだけなのだけれど。今ここで肩を震わせるあなたを愛おしく思う気持ちは、誰にも負けないと思うから。

 

「長門さん」

「何?」

少しだけ、なあに、と甘えるように聞こえるのは、僕の耳の都合がいいだけなのだろうか。

「僕を信じて下さい」

「……うん」

「ありがとうございます」

「古泉一樹」

「なんですか?」

彼女は僕の制服の袖をぎゅっと握って言った。

「……抱きしめてほしい」

「喜んで」

 

僕は彼女を抱きしめた。片手を背中に、もう一方は彼女の頭に添えた。
彼女の孤独が埋まるように。冷たくなってしまった体が温まるように。彼女を包みこんだ。

「ずっとこうしたかった。あなたを抱きしめたかった。僕の夢でした。ああ……、あなたはこんなにも温かいんですね」

彼女はぎゅっと僕にしがみつくことで僕の言葉に応えてくれた。背中から伝わる彼女の腕の圧力と、全身に感じる温もりが僕の中にずっと留められていた感情を揺さぶる。

嬉しかった。ただただ嬉しかった。愛しかった。どうしようもなく愛しかった。

「……うっ……うっ……」

僕は堪え切れず泣いてしまう。涙が堰を切ったように溢れだす。今は僕が泣く時じゃないとわかっているのに、どうしてもとめられない。

今までのことや、報われた喜び。孤独だった今日までのこと。たくさんのことがごちゃごちゃになって蘇る。

「泣いているの?」

僕は答えられなくて、彼女を抱く腕に力を込めた。少し痛かったかもしれない。

「ありがとう」

「……え?」

彼女の言葉の意味がわからなくて僕はなんとか疑問を伝える。
彼女は僕の背中にまわされていた腕の片方を僕の頭に動かして、そっと撫でてくれた。

「あなが私を想ってくれているのがわかる。それがとても嬉しい」

「……うっ……うっ……」

「私はあなたを好きになれると思う。ありがとう、古泉一樹」

 

………
……

 

 

 

 

 

 

 

 

今朝、僕はいつもより少し早く起きた。
 

寝不足のはずなのに頭はすっきりしている。
起きて最初に考えることは今日も変わらないけれど、こんなにも胸が温かくなるのは初めてだ。

今日は何をしてみよう。内緒で迎えに行ってみようか。彼女はどんな顔を見せてくれるだろう。驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。
悪戯を企む子供のように僕はわくわくしていた。

いつもより念入りに寝癖を直して、ネクタイも完璧だ。
手なんか繋げたら幸せだろうなあ、なんて、一人でニヤニヤしてしまいそうになって我に返った。
彼女は僕を好きになってくれたわけじゃない。そばにいて、好きになろうとしてくれるだけだ。
だから僕は精一杯の想いを届けなくてはならない。もちろんそれは義務なんかではなくて、僕の意志。僕の願い。

声に出して、よし、と言ってみる。

僕はドアを開けて今日最初の一歩を

 

――踏み出せなかった。

 

「おはよう」

「な、長門さん!?」

玄関のドアを開けたら、そこに長門さんがいたのだ。僕は一瞬自分の目を疑う。どうして彼女がここにいるんだ。

「何をしてるの? 早くしないと始業に遅れる」

「いやまだ時間に余裕は、ってなんでいるんですか!?」

「一緒に登校したい」

「え?」

一瞬耳を疑った。

「あなたと一緒に、登校したい」

彼女は、だめ? と首を少し傾けながら上目づかいに僕を見た。な、なんだこの可愛い生き物は……。

「いや、それはもちろん僕も一緒に登校出来たらそれはもう本当に幸せですが……」

なら、と彼女はその小さな左手を掌を上にして差し出した。
僕はドアノブを握ったままの姿勢で固まっていたことにやっと気付き、改めてその手を見た。さすがに僕でも彼女の意図するところはわかる。
ここで主導権を握られては、彼女に好きになってもらうなんて夢のまた夢だ。

握られっぱなしだったペースを取り戻そうと、僕は思いっきり恰好をつけて言ってみせた。膝をつきかしずくように。僕の愛しいお姫様に。

「喜んで、我が愛しの姫君」

文化祭での演劇の練習がこんな時に役に立つとは、人生とはわからないものだ。
僕は彼女を盗み見る。ほんのりと頬を赤く染め、既に差し出していた左手をゆっくりと僕の右手の上に乗せた。

彼女の手は小さくて、柔らかくて、とてもとても温かくて。僕はちょっと泣きそうになる。

「では、いきますか」

彼女はこくりと頷き、僕等は一緒に歩き出す。
僕の手を引き、少し先を行く彼女を見ながら、随分と急ぐんだなあ、なんてのほほんとしていた僕の目に、彼女の真っ赤な耳が映った。

「もしかして、照れてるんですか?」

「照れてない!」

 

 

 

 

 

 

おわり

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最終更新:2020年03月11日 19:00