部室から出ると、思ったとおりというべきか、みんなが戸口のすぐそばで待機していました。
 そこまで、キョンくんがほかの女の子とふたりでいるのが心配なら、轡をつけて寝室にでもつないでおけばいいのに。つい、わたしはそんな物騒なことを考えてしまいました。
「みくるちゃん、最後だからって、キョンにへんなことされてないでしょうね? さっきからぜんぜん物音はしないし、鍵はあかな……い」
 言葉が、尻すぼみになりました。
「ひ、人聞きのわるいことをいうな。俺はべつに」
 ごにょごにょと、キョンくんがなにか言いわけをはじめていましたが、涼宮さんはそれには反応せず、わたしのほうを見ているようでした。
 いっぽう、わたしは古泉くんにアイコンタクトをおくっていました。
 あなたのバイトをふやしちゃうかも。ごめんね、古泉くん。そんな気持ちをこめて、彼の目をみつめました。
 なにもいわず、古泉くんはただ肩をすくめただけでした。
「おい、ハルヒ? どうした? 」
 雰囲気の異様さに、ただひとり原因を把握していないだろうキョンくんが、不審そうな声をあげました。
「あんた、気づいてないの? ほら、見なさい、顔よ」
 あきれたようにそういうと、涼宮さんは手鏡を取りだして、キョンくんに押しつけました。
「んなっ」
 鏡の中の自分の顔――くちびるに、くっきりキスマークがついている――を確認したとたん、キョンくんは目をむいて、絶句してしまいました。
 つまり、さきほど、うっかり落ちやすいタイプの口紅をつけてキスしてしまったため、こうなってしまったわけです。
 誤解のないよういっておきますが、これはほんとうに、単純なミスです。でも、それならなぜ、気づいたあともキョンくんに注意をうながさなかったのかは、自分でもよくわかりません。
 あるいは、だれかさんにあてつけをしたかったのかもしれませんね。正直にいって、わたしにも思うところはありますから。
「どういうことか、説明してもらえるかしら? みくるちゃん」
「ちょっとした事故ですよ。足がすべって、転んだ拍子にぶつかっちゃったんです。ほら、わたし、ドジですから」
 いかにも楽しそうな感じで答えてしまいました。なんだか、気分がものすごくたかぶってきています。
「ほお~。事故ねえ。そりゃまた、ずいぶんなドジだこと」
 ふふふと、涼宮さんが笑いました。
「ええ、事故です。だから、涼宮さん、キョンくんを怒らないであげてくださいね。わたしはぜんっぜん気にしていませんから」
 ほほほと、わたしも笑いました。
 つかのま、笑顔で涼宮さんと見つめあいました。どこからともなく火花が散ったような気がしましたが、たぶん、なにかの勘違いでしょう。
 ところが、ちょうどそのときでした。
 突然、予想外のものが視界に飛びこんできました。あまりのことに、わたしはそちらに目をうばわれ、ついでに声もあげてしまいました。
「あっ! 」
「え? ……ちょ、有希、なにしてんの! 」
 なんと、いつのまにか長門さんがキョンくんのまえに立ち、背伸びをしていたのです。
 ふたりの顔が、重なっていました。
 よく見ると、キョンくんは長門さんを押しのけようともがいている様子でしたが、両手で頭をがっちりはさまれていて、身動きがとれないようでした。
 かすかにもれるキョンくんのうめき声からして、長門さんはそうとうな力を手にこめているようです。
「は、はなれなさい、こらぁ! 」
 すぐさま、涼宮さんはキョンくんと長門さんのあいだにもぐりこむと、むりやりふたりを引き剥がしました。
「ゆゆ、有希ぃ、あんた、いったいなに考えてるのよ! 」
 激怒する涼宮さんに、長門さんはしれっとした顔で答えました。
「足がすべった。わたしとしたことが、うかつ」
 無表情ながら、してやったりという気持ちをこめているように、わたしには見えました。
「くうっ、あんたたち」
 はじめ、涼宮さんは憤懣やるかたないといった様子で、わたしと長門さん、そして呆然としているキョンくんを順番ににらみつけていました。しかし、ほどなく不敵な団長スマイルを取りもどしました。
「オーケイ、つまりこれからは下克上、弱肉強食の世界ってことね。よくわかったわ」
 いうがはやいか、涼宮さんは、キョンくんに向きなおると、ぐっと彼のネクタイをつかみました。
 それから、長門さんとおなじように、背伸びをしました。
 ちゅっと、かわいらしい音がしました。
「あたしも、足がすべったの」
 ふふんと鼻をならし、涼宮さんは得意げな笑みをうかべました。
「おやおや、これは流れ的に、僕も足をすべらせたほうがいいのでしょうか」
 時空震は感じないので、閉鎖空間は発生していないのでしょう。余裕があるのか、古泉くんが笑顔で軽口をたたいています。
 そして、キョンくんはといえば、古泉くんの冗談も耳にはいらないようで、ずっとくちびるのあたりを指でさわっていました。
 顔が、真っ赤になっていました。いま、彼の心のなかで、どのようなモノローグが展開されているのか、ぜひ聞いてみたいものです。
「とにかく、これで全員、同格よ」
 場の空気を切り裂くように、決然とした表情で、涼宮さんが宣言しました。
「だけど、もうこうなった以上、むだな腹のさぐりあいはなし! 正々堂々いきましょう」
「のぞむところ。あなたの思いどおりにはさせない」
 長門さんが、まっこうから涼宮さんの視線を受けとめていました。ふたりのあいだに、小宇宙が見えるようでした。
「まってくれ! 」
 すると、いままで川の流れに翻弄される笹の葉のごとき状態だったキョンくんが、猛然と長門さんたちの小宇宙に飛びこんでいきました。
「いいこと、キョン。べつに、ヘタレのあんたにいますぐ決めろとはいわないわ。でも」
「ハルヒ、聞いてくれ、みんなも。ビュリダンのロバだ」
 いきなり、両手で涼宮さんの華奢な肩をつかんで、キョンくんが彼女の言葉をさえぎりました。それから、ぐるりといちど、周囲を見まわしました。
 彼がなにをいうのか気になったようで、涼宮さんはおとなしく口をつぐみました。
「ビュリダンのロバですか? 」
 解説をする機会と見てとったらしく、古泉くんがまえにでてきました。
「たしか、人間がものごとを選択するさいにやってしまいがちな行動を、ロバと餌場でたとえた話ですよね」
 空腹のロバが、右と左、それぞれおなじような餌場を見つけた場合、どちらも選べず、ぼやぼやしているうちに餓死してしまう。それとおなじく、ひとはときとして、選ばないことで確実かつ重大な不利益をこうむるとしても、選択することでこうむる不利益の可能性に恐怖し、選べない状況におちいってしまうことがある。
 ジェスチャーをまじえつつ、古泉くんがそんな豆知識を披露してくれました。
「ああ、そのとおりだ、古泉」
 片手で古泉くんの発言を制し、キョンくんがあとをつぎました。
「ことこのごにおよんで、ようやく理解した。なんの因果か、神の加護だかしらないが、ここにはその、なんだ。俺に好意をよせてくれている女性が、複数存在しているらしい」
 ひどくはずかしそうにいったあと、しかしキョンくんは表情をひきしめました。
「だが、もしいま、だれも選ばないなんてことをしたら、それは餌場のまえで餓死するロバとおなじぐらい愚かな行為だ。そんなバカなまねができるもんか」
「ですが、あのたとえ話が成立するのは、選ばないと餓死してしまうというロバにとっての確実な不利益が存在するからでしょう? いまのあなたが選択を先送りしても、とくに問題があるとは思えませんが」
 すこし意地悪な笑みをうかべ、古泉くんが茶々をいれました。
「不利益ならあるね」
「んっふ、どのような? 」
 一瞬、キョンくんがわたしのほうに視線をおくったような気がしました。
「俺の男がすたるんだ。ヘタレの烙印をおされて、そのままにしておけるか。いまここで……そう、朝比奈さんがこっちにいられるうちに、きちんと答えをだす」
 その言葉に、全員が、固唾をのんだ気配がありました。涼宮さんも、長門さんも、古泉くんさえも、真剣な面持ちでキョンくんを見つめています。
 もういちど、キョンくんが、こんどははっきりとわたしのほうを見ました。迷いのない表情でした。
 もしかしたら、今日の任務は、これを目的としたものだったのかもしれません。なんとなく、わたしはそう思いました。
「告白する。俺がほんとうに好きなのは、恋人になってほしいのは」
 キョンくんの声が、静まりかえった北高旧校舎部室棟のはじっこ、文芸部部室兼SOS団アジトまえでひびきました。ついに彼が、愛するひとの名を口にしたのです。いえ、さけんだのです。
 古泉くんが、はじめて孫が歩いたときのおじいちゃんのような表情をうかべていました。長門さんが、わたしの肩をぽんと叩いてくれました。わたしは、彼女を抱きよせて、頭をなでてあげました。
 涼宮さんは、泣いていました。

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