お化粧をととのえながら、わたしは自分の泣き虫さかげんに苦笑してしまっていました。
 なにしろ、長門さんの歌を聞いたあと、涙がとまらなくなってしまったのです。ものすごく心の琴線にふれてしまったというか、ほとんど泣くためのスイッチを押されてしまったような感じになり、しまいには彼女にすがりついたまま、鼻水までたらしてしまっていました。
 さすがの長門さんも、これには困ってしまったようで、わたしの頭をなでて、慰めようとしてくれました。
「泣かないで、朝比奈みくる。わたしがこの世界から消える日まで、今日おそわった歌は、このインターフェースの固有記憶領域からけっして削除しないから」
 ハンカチで、わたしの顔をぬぐいながら、そう約束もしてくれました。
 うわ、いけません。思い出したら、また泣きそうになってしまいました。ほんとうにわたし、どうしちゃったんだろう。
 とにかく、つぎはキョンくんの番です。みっともない顔を見せるわけにはいきません。目が赤いのはしかたないとしても、それ以外のところはきちんとしておかないと。
 長門さんは部室を出るとき、わたしがお化粧をもとにもどすまで、キョンくんを引きとめるといってくれました。彼女のことだから、きちんと時間をかせいでくれるのでしょう。
 それにしても、ひとりあたり十五分、全員あわせても一時間半以内の予定だったのに、ずいぶん大幅に時間を超過してしまったものです。
 しかも、おくれた理由の大半が、泣いてしまったためのお化粧なおしというのは、どうしたことでしょうね。涼宮さんが、イライラしなければいいけど。
 ん、よし。口紅を塗って……。
 さあ、これで完璧です。あとはキョンくんへの任務を達成するのみです。
 すると、ちょうどタイミングを見はからったように、部室の戸がノックされました。
 音だけで、相手がキョンくんであることがわかりました。
「はぁい」
 情報操作のおかげで、外にいる彼には、こちらの声は聞こえないのですが、つい癖で、返事をしてしまいました。ひとり舌をだし、自分の頭をげんこつで小突きつつ、あらためて戸をあけました。
「こんにちはと、いまさらいうのもへんですかね」
 挨拶をして、キョンくんが部室にはいってきました。わたしは彼をいつもの席に案内したあと、まずは戸に鍵をかけました。それから、自分の荷物のところにいって、ぬいぐるみを取りだしました。
「ずいぶんと、有意義な話をしたみたいですね、朝比奈さん。俺、あいつらのあんな顔は見たことがないですよ」
 キョンくんが、うしろから声をかけてきました。
「あんな顔、ですか? 」
 ぬいぐるみが見えないよう、手の動きに気をつかいながら、わたしは振りかえりました。
「ええ。ハルヒのやつは目をうるませてぼんやりしてましたし、古泉はいつもの笑顔なんですが、憑き物がおちたというか、みょうにすっきりしていて、うさんくささがへってる感じでした。あと、長門は」
 そこまでいって、キョンくんは、どこか遠くを見るような顔になりました。
「すごく楽しそうでした。あいつにも、ああいう表情ができたなんて、そう、驚天動地ですね」
 むかしの偉人の名言でも引用したのか、キョンくんは驚天動地の部分を強調していいました。
「ところで、長門がいっていたんですが、古泉と時間移動をしたんですか? 」
「まあ、そのあたりはおいおいお話しますね。さきに、これをどうぞ」
 そういって、わたしはキョンくんのぬいぐるみをテーブルに置きました。
「ほう、これは」
「卒業記念の贈り物です。鶴屋さんがキョンくんに似せてデザインしたのを、わたしが縫ったんですよ」
 すると、キョンくんは得心いったというように、手をぽんとたたくジェスチャーをしました。
「どうかしました? 」
「いやあ、ハルヒのやつがね。古泉や長門が帰ってくるたびにつかまえて、なにかコソコソしていたんですが、これをあとの人間に見せないように隠していたんだなあと」
 どうやら、涼宮さんは、気を利かせてくれていたようでした。
「へえ、でもこれ、顔がながくて、なんだかウマ科の動物みたいですね」
「あっ、えっと、その、なんでも、鶴屋さんはロバをイメージしてデザインしたんだそうです、すみません」
 やっぱり、気づかれてしまったようです。ロバ自体はかわいい生き物だと思いますが、さすがにモデルにされるのは嫌ですよねえ。
「いえいえ、俺もSOS団のなかじゃ、ロバっぽい立ち位置だと思っていたところですから」
 とくに気にしていないのか、キョンくんはからからと楽しそうにわらっていました。
「そ、それならいいんですけど」
「だいいち、せっかくこんないいものを作っていただいて、文句をいったらバチが当たりますよ……む? 」
 ふいに、キョンくんは眉をよせ、指でこめかみをおさえはじめました。そうして、しきりと『ロバ……大がいっていた……ビュリダンの……』などと、よくわからないひとりごとをつぶやきはじめました。
 なにかの拍子にモノローグ・モードにはいってしまうのは、キョンくんの癖のようなものです。とりあえず、わたしは彼の顔をながめることにしました。
 面長で、たしかにウマっぽいところもありますが、どちらかといえばととのった顔立ちです。古泉くんのようなはっきりとした美形ではなく、むしろ噛めばかむほど味のあるスルメのような……うーん、なんだかこれだと、ほめ言葉になってませんね。
 でもね、わたしは好きなんですよ、彼の顔。
 ほかにも、低くてうるおいのある声とか、すこし理屈っぽい話しかた、それにお父さんみたいに広い背中も、みんな好きです。
 だって、キョンくんはわたしの、たぶん初恋のひとですから。
 やがて、こちらの視線に気づいたのか、キョンくんがはっとしたように目を見開きました。
「すみません、朝比奈さん。どうやら俺、考えごとをしていたみたいですね」
「かまわないですよ。……えっと、それでは、本題にうつりますね。さっきの古泉くんとの時間遡行にもかかわる話なのですが」
 肘のあたりを机にのせるようにして、キョンくんは身を乗りだしてきました。
「あいつといっしょに時間移動ってのは、かなりめずらしいことですよね。またハルヒがらみでなにか? 」
「今回のことは、涼宮さんは直接はかかわりありません。単純に、未来からの指令です」
 ほんとうに、二言めには『ハルヒ』なんですね、キョンくん。
「じつは、今朝のことなんですけど、目がさめたときに、自分のなかの禁則とか規制がゆるめられていることに気づきまして……」
 とりあえず、おおまかな現状と、任務の概要について説明しました。
「ということは、朝比奈さん、いまなら実年齢を聞いたら、答えてもらえたりしますか? 」
「それは、禁則事項です」
 ですよねと笑って、キョンくんが頭を掻きました。
「ほかに、やってみたいことがあるの。ねえ、キョンくん、わたしのお願いを、聞いてもらえるかな」
「ええ、俺にできることなら、なんなりと。わが麗しの天使であるあなたの願いなら、たとえ火のなか、水のなか」
 天使ですか。ふうん。
「まずは、立ってもらえますか? そして、ちょっと部室の机をわきにどけるのを手伝ってください」
 ほどなく、部屋のまんなかに、歩き回れるほどの空間ができました。
「あとは、なにをするんです? 」
 質問に答える代わりに、彼のネクタイをつかみました。はじめてあったときほどの身長差はありませんでしたが、それでもわたしより高い位置に顔がありました。
「朝比奈さん? 」
「いつも、涼宮さんがこうやって、キョンくんのこと引っぱりまわしてるでしょう? あれ、すごくやってみたかったの」
 すこし悪戯っぽい感じにそういうと、キョンくんは苦笑めいた表情をうかべました。
「なんだ、そんなことですか。どうぞ轡をおとりください。不肖このキョンめが、あなたのロバになりましょう」
 おどけた態度で、彼はめずらしく自分のことをキョンとよびました。
 まんがいちにもなにかにぶつかったりしないよう、わたしはもういちど周囲の様子を確認しました。
「じゃあ、いきますよ。転ばないように、気をつけてくださいね。えいっ」
 ことさらに明るい声をだしたあと、わたしは彼のネクタイを引っぱりました……下に。
「うおっ? 」
 同時に、体重をうしろにかたむけつつ、彼の両足のあいだに自分の右足を割りいれ、そのまま刈るように払いました。
 一週間のお泊りのあいだに教わった鶴屋流古武術のひとつ、護身技『鶴足払い』でした。かかってしまえば、いかに男性といえど、立っていることはままなりません。
 案の定、キョンくんはバランスをくずし、こちらに覆いかぶさるようにして転倒してしまいました。
 いちおう、鶴足払いは、たおれる瞬間に体をねじり、相手を地面に叩きつける技なのですが、そこまではやりませんでした。そのおかげでか、彼はとっさに床に手をつくことができたようで、押しつぶされたりはせずにすみました。
 ただし、体はほとんど密着状態でした。ひとに見られたら、誤解される体勢でした。
「ちょっ、朝比奈さ、むぐ? 」
 なにかいいかけたキョンくんの頭を引きよせ、口をふさぎました。
 抵抗はされませんでした。というより、キョンくんは完全にかたまっているみたいでした。
 たっぷり数十秒ほどは、そうしていたでしょうか。わたしは彼の背中に腕をまわしました。
 それでも、キョンくんは、うごくのを忘れたように、じっとしたままでした。
 さすがに、息がくるしくなってきたので、くちびるを離しました。
「あ……」
 彼の視線が、宙をおよいでいました。こちらの顔の方向は見ているものの、目はあわせられないようでした。
 せめてほほを朱にそめるぐらいはしてほしかったのですが、それもありませんでした。どちらかというと、むしろ青ざめているとすら思えました。
「これは、偶然の事故ですよ」
 しかたないので、できるだけ無邪気そうなほほえみをつくっていいました。
「足がすべってしまったせいでおきた事故。ほら、わたしはドジだから」
 すると、あからさまに、キョンくんの表情に安堵の色がまじりました。
「偶然の事故ですか、そうですよね。すみません、朝比奈さん」
 笑顔さえうかべて、彼はいいました。
 なんでなのかな。わたしは、そう思いました。
 どうして、そんなふうに、ほっとしたような顔をするの? 
 わたしのこと、天使っていったじゃない。
 ねえ、なんで? 天使にキスされて、うれしくないの? 
 ……などという疑問は、だけど口には出しませんでした。答えなんて、聞くまでもなく、わかりきっていましたから。
「あの……。すみません、朝比奈さん」
 わざわざもういちどあやまってから、キョンくんはわたしを助けおこしてくれました。
 いずれにしても、これで任務はすべて終了です。わたしたちはふたたび机をもとにもどすと、たわいないおしゃべりをして時間をつぶしました。
 卒業式のライブ曲の歌詞は、キョンくんと涼宮さんがふたりで書いたとか、長門さんが、演奏のダウンロードなどの情報操作をほとんどおこなわず、できるかぎりふつうの練習だけでギターをマスターしたとか、そんな話題でした。
 話はそこそこ盛りあがりましたが、最後まで、気まずさは消えませんでした。

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