涼宮ハルヒの遭遇Ⅳ


 ――キョンくん……
 誰かの俺を呼ぶ声が聞こえる。
 ――起きて……
 まだ目覚ましは鳴ってないぞ……
 ――お願い……目を覚まして……
 って、ちょっと待て! このシチュエーションは――


 俺の意識は一気に覚醒した。


 場所は北高校舎の玄関前。ふと視線を向けるとそこには記憶の通り北高制服姿の涼宮ハルヒが俺を見つめていた。
 そして記憶と違うのはその涼宮ハルヒがポニーテールであることだ。
 つまり、ここにいる涼宮ハルヒは俺の知っている涼宮ハルヒではなく、金曜日にパラレルワールドから迷い込んだ涼宮ハルヒである。
 俺は半身だけ起こし、空を見上げた。
 その空は灰色の夜に包まれている。
 閉鎖空間……
 悟ると同時に俺は再び、ポニーハルヒへと視線を向ける。
 もちろん、俺もブレザー姿だ。
「ここ……どこだか分かる……? 確かに部長の部屋で寝させてもらった覚えがあるのに気がついたらこんなところにいたんだけど……」
 ポニーハルヒの今にも泣き出しそうな不安げな瞳。
 はたして俺は何と答えてやればいいのだろう。
「あと……部長も一緒に……」
 なんだと!?
 即座に俺はポニーハルヒのいるところからは逆の方を振り向いた。
 確かに無表情のままではあったが、俺に何かを言いたげな色彩を込めた瞳の、いつも通りのカーディガンを羽織ったセーラー服姿の長門有希がしゃがんで俺と視線を合わせる形でそこにいた。
「……」
 しかし今は沈黙の置物と化している。ただ、困惑はしておらず今、自分が置かれた状況がどういったことではあるかは理解しているようではあった。
 という訳で、
「なあハルヒ、ここにいるのは俺たちだけか? 古泉を見なかったか?」
「分からない……あたしは気がついたら部長が傍にいて、キョンくんが横になってたので起してあげただけだから……まだこの場所から動いてないの……」
 なるほどな。
「あの……どうして古泉さんのことを……?」
「何でもない。とりあえず――」
 呟き俺は立ち上がる。つられて長門もポニーハルヒも。
 ……おそらく校舎の外に出るのもどこかと連絡を取るのも無駄だな。なら――
「二手に分かれよう。ハルヒと長門で向こう側を見てきてくれ。俺はこっち側を見てくる。んで三十分後に文芸部室で落ち合おう」
「分かった」「キョ、キョンくん……?」
 長門の肯定とポニーハルヒの戸惑いの声が交錯するが、長門は即座にポニーハルヒの手を取って引きずるように校舎の向こう側へと消えていった。
 すまんハルヒ。後からいくらでも文句を聞いてやるから今はちょっと一人にさせてくれ。
 と心の中でポニーハルヒに謝罪を終えると同時に、そいつは予想通り現れた。
 むろん、長門には気づかれていただろうが、ポニーハルヒには気づかれなかったそいつは茂みの物陰から、あたかも蛍の光のように小さな赤い玉で俺の方へと漂って来る。
 そして俺の目の前で赤いヒト型へと姿を変えた。
「やあどうも」
「今回は早かったな。あと昼の休眠くらいじゃ疲れは抜けきらなかったみたいだが……」
「どうやらお見通しのようですね……」
「まあな」
 気さくに挨拶してきた赤いヒト型と化した古泉が俺の予想を聞いて苦笑を浮かべていることが一目瞭然で想像できる声で切り出してきた。
「で、何だってまたハルヒは俺と長門とポニーハルヒをこの世界に閉じ込めたんだ? この世界からパラレルワールドに繋がるのか?」
 さらに俺は自分の予想を口にした。ややヤケクソ気味ではあったがな。
 が、古泉は妙に深刻な声で俺の考察を否定した。


「いいえ。あなたと長門さんをこの世界に閉じ込めたのは僕たちの世界の涼宮さんではありません。ここにおられる向こうの世界の涼宮さんです」


 はい?
 しばしの時間停止があって、俺の生返事と供に古泉が語り出す。
「はて? てっきり僕はあなたも察しているものだと思っていたのですが見込み違いでしょうか?」
「どういうことだ?」
「そのままの意味です。この閉鎖空間は向こうの世界の涼宮さんが創り出したものだということです」
「なんだと!?」
 思わず声を荒げる俺。
「いやまあ……僕も昨夜は、《神人》のあまりの暴れっぷりに完全に失念していましたからあなたのことは言えないのですが、今、はっきり認識しました。
 間違いありません。あの涼宮さんも閉鎖空間を創り出すことができます。本人ですから当然と言えば当然ですけどね」
 俺は古泉の苦笑っぽい説明を聞いてしばし呆然自失した。
 あまりの焦りにそんな俺に構うことすらできないのか、俺が聞いているかどうかも分からないまま続けてくる。
「どうやら昨日の《神人》二体の内の一体は我々の知る涼宮さんが生み出したもので間違いないのですが、もう一体はあちらの涼宮さんが発生させたもののようです。
 よく思い出してみましたら、どちらも暴走機関車状態だったことは確かなのですが、片方は行き場がなくて右往左往して走りまわっていたような感じがしましたからね。あちらの涼宮さんの心理状態とも一致します」
 ということは何だ。ポニーハルヒも世界を改変できる力があるってことになるのか? しかし、ポニーハルヒは朝比奈さんはともかく、古泉のことを知らなかったのは何故だ? お前はハルヒの精神安定剤(トランキライザー)じゃなかったのか?
「それ(トランキライザー)はあなたもなのですが……まあ今は置いておきましょう。
 ちなみにあの涼宮さんが僕のことを知らなかったことについては簡単な理屈が成り立ちます。まず、こちらの世界でどうやって僕と朝比奈さんが涼宮さんと行動を供にするようになったかを思い出していただけますとご理解いただけるのではないかと」
 何言ってやがる。今は心境に変化があったかもしれんが、元々はお前、長門、朝比奈さんはハルヒを監視するために近づいたんじゃなかったか? あのポニーハルヒがこっちのハルヒと同じようなものなら向こうの世界の長門、古泉、朝比奈さんもポニーハルヒに近づくはずだ」
「その通りです。ですが長門さんと僕たちにはSOS団入団に大きな違いがあったことをお忘れではありませんよね?」
 ――!!
 そうだった……朝比奈さんと古泉はハルヒが連れてきたんだ……けど長門は違う……おそらく偶然ではないだろうが元々、文芸部室にいたんだ……
「まさか!」
「今、あなたが想像した通りです。おそらく向こうの世界にも僕と朝比奈さんは存在することでしょう。ですが、向こうの涼宮さんの性格を思えば向こうの世界の僕たちが出会う可能性は限りなくゼロです。おそらく、学校内ですれ違うことくらいしか接点はないことでしょう。まさか、あなたも学校内でたまたますれ違った生徒たちの一人一人の顔と名前を覚えてはいないでしょ? 理屈はそれと同じです。おそらく向こうの僕はあの涼宮さんが知らないところで閉鎖空間の粛清に勤しんでいることと思われます」
 なんてこった……
「そしてもう一つ、僕たちにとって、大変好ましくない状況に陥ってしまっていることをお伝えしなければなりません」
「……俺と長門がここにいる理由か……?」
「察しておられましたか。では話が早いですね」
 赤いヒト型の古泉がいつもの肩をすくめるポージング。もし表情が見えていたなら苦笑していること間違いなしだ。
「そうです。あなたと長門さんはあの涼宮さんに選ばれたんですよ。こちらの世界からたった二人だけ、あの涼宮さんが一緒に居たいと願ったのがあなたと長門さんです。
 おそらくあの涼宮さんは元の世界に戻れないと絶望したのでしょう。元の世界に戻れないということは向こうの世界にいる彼女が誰よりも頼りにし、また一緒に居たいと願うあなたと長門さんにもう二度と会えないと考えたものと思われます。ですから、せめて別人ではありますが本人でもありますあなたと長門さんを連れ込んだのです」
 やっぱりか……
 だがな、むろん、あのポニーハルヒがそんなことをやるとは思えん。本人も間違いなく否定するだろうぜ。
 てことは、おそらく深層心理でそう願ったんだ。
 んで、これは相当ヤバいぜ……なんたって去年の五月にハルヒとこの世界から元の世界に帰還した方法が使えないってことと同義語なんだからな。
 何故かって? それはポニーハルヒが本当に望んでいるのは俺じゃなくて向こうの世界の俺だからだ。無理にあの時と同じことをやろうものなら逆にポニーハルヒを傷つけるだけだ。ますます自分の殻に閉じ籠ってしまうことになるかもしれんし、今度はこの世界に俺と長門を残して一人別世界を創造するかもしれん。
 俺が呻吟している表情が目に入ったのか、古泉が切り出してきた。
「そして危機はあなた方だけではありません。僕たちの世界も、そして、あの涼宮さんがいた元の世界も崩壊の危機に陥っていることを意味します。なぜなら、あなたがあの涼宮さんと供にこの世界に行ってしまえば、残されたこっちの涼宮さんがどうなるかを想像いただければこっちの世界がどうなるかを想像するのは容易いでしょうし、向こうの世界はこの世界の誕生で前に僕たちの世界が直面した危機とまったく同じ理屈が成り立ちます」
 はははははは……随分と飛躍した壮大な話だな、おい……
「む.……どうやら僕も限界のようです……」
 確かに古泉の言うとおり、赤いヒト型が徐々に細く小さくなっていく。で、今回はどんな理屈でお前の力が消滅するんだ?
「いえ、僕の力が消滅していくのではありません。単に限界が来ただけです。精神不安定からくる人の内面を表した閉鎖空間と違って、この閉鎖空間は時空に生まれた新しい現実世界ですからね。そこに入り込もうとすれば、通常の閉鎖空間以上の力が必要となる訳でして、そうなれば力の消耗度も格段に違うということです」
 なるほどな。
 もうすでに古泉は最初に登場した時のような小さな赤玉だけになって漂っていた。
「今回は何も伝言を預かっておりませんが、僕はあなたと長門さんを信じております。何とかこちらの世界への帰還を――では――」
 そう言い残して古泉は消滅した。
 俺は一度深いため息を吐く。
 やれやれ、今度はいったいどうすりゃいいんだ?
 心の中で嘆息しつつ、俺は文芸部室へと足を向けた。


 言うまでもなく長門とポニーハルヒは先に文芸部室に来ていた。
 長門はいつものポジションに腰をかけ、しかしその視線はハードカバーではなく、窓の外を眺めているポニーハルヒを見つめていた。
「キョンくん……」
「どうした?」
「どうなってるの……? 何なの……さっぱり分かんない……ここはどこで……どうしてあたしはこんな場所に来ているの……?」
 去年のこっちのハルヒと異口同音でほとんど同じセリフを窓の外に視線を向けたまま、しかし、その声から今にも泣き喚きそうなポニーハルヒの背中が震えているのを見てとれて、俺はなんと言葉をかけてやればいいのか――
「昨日……気がついたら突然、違う世界に飛ばされたのに……また違う世界に飛ばされて……あたしは……元の世界に戻れないの……?」
「戻れるさ」
 俺はあえて言った。
「君が元の世界に戻りたいと心から思えば必ずな」
 俺のセリフは気休めでも慰めでもない。この世界から元の世界に戻る方法はたった一つしかなく、それはハルヒが元の世界に戻りたいと思うしかないのである。
 現に俺とハルヒはそうやって元の世界に戻ったんだ。それに何の特殊能力を持たない俺でさえ、去年の十二月にいくつかのヒントや何人かの協力があったおかげとは言え、変えられた世界を元に戻すことができたんだ。
 その時、俺が願ったのはたった一つだ。世界を元の姿に戻したい、というたった一つの思いで突っ走って結果、元に戻せたんだ。
 だったら、ポニーハルヒだって一心に願えば戻れるさ。
 ここでポニーハルヒが俺に肩越しに視線を向けた。
 その表情にはちょっと無理はしているし瞳に涙を溜めていたが笑みが浮かんでいた。
「ありがと……こっちのキョンくんも優しいね……」
「そうかい」
 言って俺は苦笑を浮かべるしかできないけどな。
 なぜかって? 仕方ないだろ。何度も言っていることだがポニーハルヒが本当にその胸で泣きたい相手は俺じゃなくて向こうの世界の俺なんだ。
 んでポニーハルヒもそれが解っている。だから俺の苦笑の意味も解ってるさ。
 そんなどこか今置かれた立場を忘れてしまいそうな場の雰囲気。
 しかしやっぱり安穏とした空気が続くほど甘くはないよな。ついでにのんびり打開策を考えさせてくれるゆとりも与えてくれないらしい。
 前にハルヒに使った手はご法度で古泉はいない。
 にも関わらずだ。
 当然予想はしていたさ。前にも同じことがあったからな。
 それでもだな。
 いきなり外から照射された青白い光が部屋を覆いつくしてしまったらいったいどうすりゃいいんだ?


 一番恐れていた事態が俺たちに降りかかってしまった――


 どうする?
 俺は呻吟しながら駆けていた。もちろんポニーハルヒの手を掴んで。
 そのポニーハルヒは思いっきりおろおろしながら俺と青白い巨人を交互に見つめながらそれでも俺に離されないよう、手に力をこめて握り返して付いてくる。
 ちなみに長門は俺の前を走っている。
 そのまま三人で走ることしばし。
 んで、校舎の中庭に出たところで、
「ね、ねえキョンくん!」
 声をかけてきたのはポニーハルヒだ。
「あの巨人さ! たぶん悪い人じゃないわ! あたしには解るの! だからそんなに慌てなくても……」
 走り疲れてきたのかそれとも俺の握る手が思った以上に痛いからなのか。
 まあ両方なんだろうぜ。
「分かってるさ。君がそう言うならそうなんだろうぜ。けどな、仮にあの巨人が俺たちに襲いかからなくても俺たちに気付かないで校舎を破壊する可能性はあるんだ。
 だったら安全圏まで行かないとマズイだろ?」
「あ。」
 どうやら俺と長門があの巨人から逃げているんじゃなくてあの巨人の破壊範囲外へ避難していることを悟ってくれたらしい。
「疲労?」「うわ」
 え?
 いきなりポニーハルヒの傍から声が聞こえてきたわけだがその声の主はついさっきまで俺たちの前を走っていた長門なものだから俺もびっくりした。
 一体いつの間に?
 てな訳で少し足を止める俺たち。
 もちろん悠長な真似はできないので、
「背負う」「はい?」
 再びポニーハルヒのおっかなびっくりの声が届くと同時に、彼女の返事を待つことなく長門が無理矢理ポニーハルヒを背負い俺に視線を向けてきた。
 その瞳はいつもどおり無色に近いものがあるのだがそれでもはっきりと認識できる。なんたって俺以上に長門の言いたいことが分かっている奴なんて居やしないからな。
 んで、その俺が認識するところ、長門は『走れ』と言っている。
 むろん即座に従うだけだ。
 駆け出すと同時に長門が俺の横に並んだ。
 もし長門に変な裏設定がなければ結構グサッとくるものがあるぜ。なんせ俺とタメの小柄な女子高生が人ひとり背負って同じスピードで走っているんだ。
 なんか情けない気持ちでいっぱいになるな。
 しかし今はそんなことに構ってなんていられない。
 俺たちは何の会話も交わさずグランドまで走り続けた。
 そして、
「あなたに先に言っておくことがある」
 俺と長門とポニーハルヒが校舎の破壊活動に勤しむ青白い巨人を眺めながら、突然、長門が切り出した。
「わたしにあの巨人を抹消することはできない」
 ――!!
「なぜならアレは物理的存在ではない。本来、あれほどの大きさであれば自身の重力で身動きできなくなるにも関わらず、あれは重力を感じずに動き回っている。それがあの巨人が物理的存在でない理由。物理的な存在でないものを情報操作することは不可能」
 だろうと思っていたよ。ただ改めてはっきり言われると相当ヤバいことを実感させられるな。
「対処はまったく無しか?」
「無いことはない」
 長門が肩越しにポニーハルヒへと視線を向ける。つられて俺も。ポニーハルヒは少し戸惑った表情を浮かべるのだが。
 しかし長門は何も言わなかった。
 何か言いたそうではあったが何も言わなかった。
「あ、あの部長……?」
 ポニーハルヒの声にも何も答えない。
 ……そうか……そういうことか……
 俺にも悟れた。このあたりは長門の言いたいことが解ってしまう自分をちょっと呪ってしまったが。
 そう。
 この場合、打開策は二つに一つ。
 ポニーハルヒに能力を自覚させて何とかしてもらうか、この世界の創造主であるポニーハルヒを抹消して世界を消滅させるか。
 前に俺が元の世界のハルヒに使った手段が使えない以上、その二つしか方法はない。
 もっとも後者を選んだ場合は正直言って俺と長門がどうなるか分かったもんじゃないし、前者を選んだとしても問題の解決にはならないだけでなくもしかしたら古泉の危惧が現実になるかもしれん。
 ……元の世界のハルヒもそうなんだが、このポニーハルヒの究極の選択もどっちを選んでもあんまり芳しい結果が待っていない気がするのはなぜなんだ? それともこれが涼宮ハルヒの涼宮ハルヒたる所以ってやつか?
 ならどうする。三つ目の選択肢を見つけるか。
 三つ目の選択肢だと? そんなものがあるのか?
 あるとすればそれは何だ。
 言っておくがヒントはどこにもない。長門はここにいるし何もヒントらしいものは持っていない。もし持っているならとっくに俺に言っている。ポニーハルヒには悟られないよう、回りくどくではあったろうけどな。
 んで古泉は朝比奈さんから何も聞いていなかった。
 いちばん何とかなる気がするご都合主義は俺たちの世界の涼宮ハルヒの世界を都合よく変革する力だが、むろん、そんな展開はありはしない。なんたって今、ハルヒが俺と長門の置かれた状況を知っているはずがないからだ。
 くそ……
 数がどんどん増えていく青白い巨人を眺めながら俺は一人、歯ぎしりをしてコブシを握りしめながら佇むしかできなかった。

 

 

 

涼宮ハルヒの遭遇Ⅴ

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最終更新:2010年12月05日 19:53