あ、皆さんこんにちは。橘京子です。
 ご機嫌いかがでしょうか? あたしはとっても元気です。
 ……誰ですか、今「脳天気の間違いじゃないのか」何て言ったのは……んん、もう。
 まあ、いいです。それより、今のこの現状、どこかおかしいと思いませんか?
 そう、そうなのです。いつもならここでキョンくんが延々と回りくどく経緯を説明した後真相をお伝えするんですよね。
 ですが、今回はなし。代わりにあたしが説明しようと思います。
 え? 何故かって? だって、前回までの事件、あれが全てじゃないんですもの。
 キョンくんったら『事の発端は俺にある』とか『思い出しちまったものはしょうがない』とか思わせぶりな発言をしながら、実際起きたことを全て話してないんですもの。卑怯ですよね。
 だから今回、あの時に発生した、全ての経緯を説明したいと思います。
 ……本当はあたしも言いたくないんですが、でもこのまま真実を公表しないのはフェアじゃないですし、何よりあたし一人が悪者にされているのが気に入りません。ったく、あのフラクラ野郎……。
 ……コホン。他者への愚痴はさておき、さっそく事件の真相へと迫りましょう。
 ああ、因みにこれから先は例の如くキョンくんの口調になるんで、その辺は察してやってください。悪しからず。


 あれは、あたしが記憶を失って直ぐのこと。
 キョンくんは何とかして記憶を取り戻そうと、とある病院へと向かったのでした――。

 ………
 ……
 …


「うーん……脳波に異常は見られませんし、MRIからも損傷部位は確認できませんでした」
 バタークリームを塗りたくったかのような診察室の中で、先生――以前にも診てもらったことのある医師――は、朗らかにそう答えた。
「だ、そうですよ」
 まるで他人事のように喋るのは、元凶且つ患者の少女。その口調は記憶を失ったことにまるで恐怖を感じてない。
 だから、代わりに俺が口を開く。
「あの、今後記憶が戻る可能性は……?」
「今回の記憶喪失、恐らくは一時的な記憶の混乱によるものと思われます。時間が経てば治る可能性があります。暫くはこのまま様子を見ましょう。また一週間後にでも来てください」
 さも当然といった口調で、カルテにペンを走らせながら先生は答えた。
 やれやれ。これは長丁場になりそうだ……。


 あの後。
 記憶がなくなったのにも関わらず全く気にすることの無かった橘を引き連れ、私立の総合病院――俺が一度かつぎ込まれたあの病院――へと足を運んだ。
 ここを選んだのは他でもない。古泉の口利きで医療費の心配が要らないと踏んだからだ。
 当初、「別に記憶が戻らなくてもいい。お金もかかりますし」と息巻いてた橘だったが、自覚症状が無くても頭蓋骨とかにヒビとか入ってたらやばいことになるぞと脅した末、しぶしぶ病院へと行くことを決意させた。
 続いては古泉を説得。ベッドの上に置きっぱなしにしていた携帯電話をとり、発信。四コール目で繋がった。古泉にしては珍しく遅い。
 一言二言交わした後事情を話すと、胡椒の粒を噛んでしまったかのような声で不満を洩らした。
「お気持ちは察しますが、敵対する組織に対し金銭を提供するなど……」
 しかし俺にとってこれは想定内の返答である。
「なら、ハルヒと佐々木の力が変に干渉している現状において、お前らだけで何とかできるって訳だな」
「あ、いや……流石にそう言うわけには……」
「な? アイツやアイツの組織の力が必要だから、お互い結託したんだろ? ならコイツの力を借りるためにも、失った記憶を呼び覚ますのは当然だと思うぜ」
 古泉は「しょうがないですね」と愚痴を零しつつも、
「実はあなたが倒れて以降、『機関』は脳外科に特化した医院を設立しましてね。涼宮さんの力が作用していた可能性があったとは言え、今後とも同じような事件が発生した際、速やかに治療や検証を遂行する必要があったのでしょう」
 そうか。そりゃいいことだ。
「ただ……『機関』の最高レベルの機密も同時に扱っています。あなたが治療を受けるならばまだしも、我々に敵対している橘さんを迎え入れるのは甚だ無理があります。ですので、今回は以前入院された例の総合病院で勘弁していただきたいのですが」
 どこだって構わない。と言うかあの病院だってかなり大きいところだし、それよりこの橘を引き取ってくれるなら大歓迎だ。
「そう言ってもらえると助かります。ところで、病院の位置は覚えていますよね?」
 ああ。
「申し訳ないのですが、僕はこれからミーティングがあるのでそちらに行けません。すみませんがお二人でそちらに行って貰えないでしょうか? もちろん診察の手配はこちらでしておきます」
 俺は構わん。記憶が無いだけで、それ以外の行動は普通だからそれほど手間になるわけじゃないしな。
「そうですか。ではお願いします」
 ここで古泉は一拍起き、何故か溜息を洩らした。
「……正直なところ、ミーティングには参加せずそちらに行きたいのですが……そう言うわけにもいかないので」
 何故だ? と聞き返そうとしたところ、
「こいずみぃ~酒が足りねえぞぉ~買って来ぃ~……ひっく」」
 携帯電話のスピーカーの奥底から聞こえる、妙に艶かしい女性の声が聞こえた。
「す、すみません、只今!!」
 慌てたように返答し、そして何も言わずに通話は途絶えた。
 何となく現場を察した俺は、未成年に酒を買いに行かせる行為も罰則の対象になるぞなんてKYなツッコミはせず、代わりに携帯電話のマイクに向かって十字架を描き、主に助けを求める神父の如く祈りを捧げた。
「……古泉に祝福を」


 ちょっと余談が過ぎたかな。ともかく、こうして病院へと行くことになったのである。
 余談ついでにもう一つ。病院で診察を受けるまでの間、記憶を失った橘と会話のキャッチボールを行っていたのだが、どうも彼女の様子がいつもと違うところがあるのに気付いた。
 いつもと違うのは二点。
 まず一つは、先ほどからも言ってるように記憶を失っている割に全然慌てた様子が無い点。正直演技じゃないかと思うくらい飄々としている。
 もう一つは……こちらは記憶を失っているからこそ、とも言えなくはないが……性格がいつもと妙に異なる点。
 いつもの橘は、バカ……とまでは言わないが、天然っぽい性格と甘いものには目が無い習性のせいで、どちらかと言うと見てて飽きない存在だったのだが、記憶を失ったこの少女の性格はそのどちらとも異なるものだった。
 中途半端な敬語はそのままに、だが馴れ馴れしくも言葉の一つ一つが研ぎ澄まされた鍼のようにチクチク障るような物言いがどうも気になってしょうがない。
 他にも……いや、止めておこう。言葉で説明するより実際に見てもらった方が早い。例えばこんな感じの会話である。


 診察が終わり、病院に滞在する理由の無くなった俺たちは続いての目的地を探すために病院の玄関を跨いだ。瞬間、纏わりつくような熱気に全身の汗腺から一斉に汗が吹きだす。
「あ、暑い……喫茶店かどこかに行って涼しみましょうよ」
 同じく汗だくの記憶喪失少女はキャミソールの胸元を掴み、パタパタと仰いだ。
「……何見てるんですか?」
 いや、何にも。
「嘘です。絶対あたしの胸元見てたでしょ」
「見てない」
「見・た」
「見・て・な・い」
「…………」
「…………」
「……まあ、いいわ。いくら暑いからといって、こんなカッコをしてたら否が応にも目に入っちゃいますしね」
「なんだ、分かってるじゃないか」
 そうだ、そのとおりだ。いくら暑いからと言っても、そうやって胸元をパタパタされれば自然に目線がそっちに向かうもんだ。
「やっぱり見てたんじゃない!」
 あう、しまった。
「変態! スケベ! 痴漢!!」
 炎天下の中、やたらとヒステリックな声を上げる橘。真夏の日差しと相まってうっとおしいことこの上ない。
「わー、悪かったって! 謝るから、スイーツご馳走してやるから、な?」
「あたしが食べ物で釣られると思ってるの!?」
 あれ……いつもならこれで大概機嫌直るんだが……? 頭打ったせいで性格にまで異変が生じているのか?
「もう許せない! あなたがあたしとどういう関係だったか知らないけど、警察へ突き出してやる!!」
 実際に触ったとかならともかく、チラ見、しかもたまたま目線がそこに入っただけとなれば警察も真剣に掛け合ってくれないだろう。見ず知らずの関係ではない俺たちならば尚更だ。
 しかも格好が格好なだけに、お前が注意されるだけだぞ。「見られたくなければ服装に気をつけてください」ってな具合にな。
「……ふん。まあいいわ」
 機嫌は治まっていなさそうだが、俺の言葉に理解を示したのか、一方的な歩みを止めそこで立ち止まる。
「今あなた、面白い事言ったわね。『見ず知らずの関係じゃない』って」
「そりゃ、まあ」そうじゃなきゃ何で俺がお前の面倒見る羽目になってるってことになる。
「バカがつくくらいの親切さんか、或いは邪な考えをもっている野獣か、どっちかね」
 まだ怒ってるのか、お前は。
「ならどういう関係だったのか、答えなさいよ」
 腕を組み、口をヘの字に曲げ、おまけに限界ギリギリまで目を吊り上げるその表情は、まるでどこかの団長さんソックリであった。
「どういう関係か、ね」
 そう言われても、そこまで深く考えたことは無いから直ぐに答えられるはずも無い。知人って言うほど疎遠な関係でもなかったし、友人と言えるほど仲の良い関係でもない。
 なので俺が出した結論は、こんなとろである。
「腐れ縁、ってところだな」
「腐れ縁?」
 三角眼が一転、真ん丸眼んに切り替わった。
「何よそれ。それじゃああたしが迷惑かけてたっての?」
「ああそのとおりだ。お前の存在自体が迷惑なんだよ」
 などと言えるはずも無く、再び釣り目傾向にある瞳を見据えながら言い繕った。
「言い方が悪かったか。……そうだな、切ろうにも切れない縁、ってところだ。悪い意味じゃないぜ。言いたいことを言い合える、なかなか稀有な関係だとも取れる」
「……ふぅん、そう」
 一言呟いた記憶喪失少女は、少し儚げに、
「じゃあ……あたし達、どっちかってと仲は良かったのかしら?」
「そう、だな。もう少しは仲は良かったか。ただ今のお前はどこかギスギスした空気をだしてるんだよな。記憶を失って性格が変わってしまったせいかもしれんが、とっつきにくってやりにくい」
 橘は「え、そうなの?」みたいな顔をする。
「記憶を失う前のお前は、そうだな……もっと陽気で明るくて、ユーモラスタップリな性格だった」
 つまりノー天気って言いたいんだが、それは黙っておく。
「さっきのやり取りだってそうだ。通常のお前なら『もうお嫁にいけませんっ! 責任とって下さいっ!!』って泣き叫ぶところだ」
「え……? あ、あたしそんなこと言うの? あなたに?」
 おっかなびっくりの顔を向ける橘に、俺は鷹揚に頷いた。
「……そ、そんなこと言われて恥ずかしくないの?」
「最初はちょっと、な。でも最近じゃ慣れちまった。公衆の面前で言われても別にどうってことないぜ」
 イタイのは俺じゃなくて橘自身だからな。最近じゃそう思うことにした。
「…………そ、そうなの……そんなに…………」
 俺の言葉に、何故か意気消沈した橘は、何度か俺の方をチラチラ見つめ、目が合うと何故か視線をそらした。
「……わかった。あんまりアレコレ言うのは止めるわ。こっちも大人気なかったし、それに……」
 それに?
「……な、なんでもないわ! 余計なこと詮索しないでください!」
 余程気に障ったのだろう、顔を瞬間湯沸し器のように沸騰させた橘はのぼせきった顔を見せまいとあさっての方向に背けた。
「さ、喫茶店に行きましょう! もちろんあなたのオゴりですから!」
 俺がオゴるのはいつも駅前と決まっているんだが……ま、今はしょうがない。記憶が戻った時にでも『組織』に請求しておくことにしよう。


 程なく喫茶店についた俺たち一行は、時間帯という事もあり、オススメランチ――ふわとろ卵の半熟オムライス(辛党の方は謹製アラビア―タソース、甘党の方は禁製チョコレートソースで――と、一緒に冷たい飲み物を注文した。
 ここで一つ後悔すべきことがある。それは決してチョコレートソースなるものの存在を作り上げた喫茶店の店主に対する愚痴でも、そのソースを迷わず注文した甘党ツインテールへの畏怖でもなく、単にいつもの癖で飲み物は食後でと言ってしまったことだ。
 異常気象と言っても過言ではないここ数日の酷暑は、俺達をスルメにさせんがばかりに勢いを増しており、事実俺の体重がここ数日で何キロか落ちているが、それは決して夏バテでも団活動のせいでもなく、単に身体の水分が蒸発しているだけに相違ない。
 身体が水分を求めている。それだけは分かってもらえただろう。というか、
「水はいつになったら出してくれるんだ?」
 これが本音だったりする。
「そりゃ出てこないですよ」と橘。「ここ、セルフサービスですから自分で取りに行かないと」
 よく見たらそんな張り紙がしてある。て言うか気付いたんなら言ってくれるか、自分から取りにいってくれ。
「なんであたしがいかないといけないんですか。こう言う場合は普通男の人が行くモンでしょ」
「普通ならな。だがお前は普通じゃない」
 俺がそう言うと橘はジジジと音を立てて目尻を上げた。実に本日二回目。
「あの、『普通じゃない』って言い方は変な人みたいに聞こえるんでやめてもらえませんか?」
 そうだな。ならアブノーマルってのはどうだ?
「それ、ただの変態って意味でしょ」
 こいつのことだから横文字なら大丈夫と思ったのに……。しかたないので、作戦を変えることにする。
 俺は「ふう」と溜息一つつき、顔を伏せた。
「……な、何よ」
 顔を伏せたまま、篭った声で言った。「スマン、確かにそのとおりだ」
「あら、わかってるじゃない」
「しかし……だ。記憶の戻る前のお前は、」ここで若干の上目使い。「もっと素直で心優しい娘だったのにな」
「え?」
「セルフサービスの水を取ってくるのはもちろん、注文も本来ならお前が取ってくれるし、食べ物で口が汚れたらさっとハンカチを出してふき取ってくれたりもしてたな」
「……そ、そうなの?」
「ああ、他にもある。授業中先生に当てられた時、解らない問題をこそっと教えてくれたり、弁当を忘れたら自分の分を半分分けてくれたり。究めつけは俺の体調が悪いのいち早く気付いて、一緒になって早退して看病してくれた時。あの時はホント嬉しかったぜ」
 念のために断っておくが、全て嘘、口からのでまかせである。第一俺と橘は同じ高校に通ってなどいない。
 しかし、嘘も方便とはよく言ったものである。橘は「……ふ、ふぅん…………そうなの…………」とどこか納得した様子で俺の言葉を聞き入れた。
「けど、今思えば俺はお前の優しさに慣れ過ぎてしまったようだ。それが当然と思い込んでいた。……そうだよな。お前みたいなヤツが俺に優しくしてくれるだけで十分なのに…………甘えすぎてたよ。悪かった」
「……え、えと…………あの…………」
「俺が取りに言ってくるよ。それにお前、一応病人だし」
「き、気にしないで!」
 ガタン、と音を立てて席を飛び出した。
「病人って言っても普段の生活に障害があるわけじゃないし、何でもできるし……水を取りに行くくらいヘッチャラよ」
「本当に大丈夫か?」
「当たり前です! 見てください、一世一代の水汲み技術を見せてあげますから!」
 興奮しているのだろうか、やや鼻息が荒く、そして頬を朱く染めた橘はそのまま振り返ってウォーターサーバーまで一直線。
『……性格は変わってても、習性は変わってないのな……』
 俺は心の中でそう思いながら、彼女の煽てられ易さに賞賛を送りつつ、一世一代の水汲み技術とやらと楽しみに待つことにした。


「ふー、生き返る~」
『持って来ましたぁ! さあ、飲んでくださいっ!』と、息巻いて戻ってきた橘からコップを手に取り、間髪入れず一気に喉の奥へと流し込んで出た一言がそれであった。
「どうですか!? どうですかっ!?」
 コップを口につけた瞬間、橘はお子様ランチを今まさに食べようとする五歳児のように目を輝かせ、逸る気持ちを待ちきれなかったのか俺に問い質し、
「まあ、普通だな」
 正直に感想を述べた。水は水。しかも水道水なのでこれと言って特別な味がするわけでもなし。
 強いて言うなら冷やされている分塩素臭が抑えられていてうまく感じなくもないといったレベルだが、生憎俺の舌は千載一遇の味覚を持っているわけではない。一般人ならではの妥当かつ無難な回答だ。
 もしこれ以上の賛辞が欲しければコップの中身をビールとかにしてほしいね。ビールは飲んだことがないので味など知る由も無いが、家の親父も含めた大多数の親父共が「プハぁー! うまいっ!!」とやっているのを見れば本当に美味いんだと思う。
「なるほどっ! では今度はビアガーデンにでも行きましょうっ。あたしの腕を見せて差し上げますっ!!」
「ダメだろ、法的に」
 等と言ったところで素直に聞く橘ではない。一人クククと笑いつつ、意味不明のドヤ顔を繰り広げた。
「んふっふっふっ……自分の才能が怖いわ。あたしったら何でもできるオールマイティなパーフェクトウーマンだったんですね」
「水汲みくらい誰だってできるだろ。普通の人間なら」
「何言ってんですか。普通じゃないんでしょ。普通じゃ。あなたさっきそう言ってたじゃない」
 何やら嫌みったらしい目つきで俺を睨みつけた。さっきのあてつけのつもりだろうな、きっと。
「なるほど、確かにあたしは普通じゃありませんでした」やおら橘は旅立つ夫の安否を気遣う妻のように胸元をキュっと握り締め、「つまり、あたしは非凡な才能の持ち主だったんですね!」
 とんでもない電波発言をかましやがった。
「……ああ、そうか。つまりあたしの才能にシットした誰かさんが妬んで、あたしの記憶を消去した。これが真実だったのですね!」
「もういい、止めろ。止めてくれ」
 どうしてコイツはここまで自画自賛できるんだろう。ある意味非凡なる才能(妄想癖ともいう)があるのかもしれないが、聞いている俺の方が具合が悪くなる。話を切り替えるしか軌道修正する他はないな、こりゃ。
 意を決し、「ところで」と言葉を口にしたところで始めて何の話題を振ろうか悩んで言葉を詰らせた……が、それも一瞬のこと。文字通り橘が瞬き一つしたその直後に前々から疑問に思っている事を聞いてみた。
「お前、妙に堂々としてるな。記憶が戻らなくて困らないのか?」
「うーん、困ることがあるかもしれないけど、それは記憶が戻ってからの話でしょ。記憶の無い現状じゃどう困っていいか分からないわ」
 俺の突拍子もない質問に、橘は嫌な顔せず答えた。
「それはそうだが、だからこそ困るんじゃないか?」
「今困ってても仕方ないし、ね。なるようになると思うわ」
 記憶喪失前の橘とはまた違った意味でノー天気な性格である。
「お前が困らなくても俺が困るんだよ」
「何故? 別に関係ないじゃない」
 ボソッと吐き捨てるように呟いたつもりだったが、しかし橘の耳に届いていたようだ。「関係なくない」
 いいか、よく考えろ。お前は記憶が無いんだろ。名前はもちろん、生年月日や自分の年齢すら思い浮かばない。そうだよな。
「ええ」
 ってことは、お前自分の家がどこにあるかも思い出せないってことになるな。
「うーん……」少し考える振りをした橘はツインテールを揺らし「そうですね、思い出せません」
 だろ。そうするとお前、今日はどこで寝泊りする気だ?
「……あ」
 ようやく分かったか、俺の言わんとすることが。
 言うまでも無いが、俺は橘がどこに住んでいるかなんて知らないし、知らない家に案内することなど出来はしない。つまり橘は本日自分の家に帰れないと言うことになる。
 となると、俺が今さっき発言した問題が現実となって浮上してくるのである。
「ええと……仕方ないですね、今日はホテルか、最悪漫画喫茶にでも」
「身分を証明するものがなくて泊まれると思うか?」
「あうっ……」
「それにお前、金持ってるのか?」
「あううう…………」
 ったく。
「こうなったら公園にでも行って野宿するしかないな。真夏だし凍え死ぬことは無いだろうし」
「そ、それはちょっと……一応こんなんでも年頃の乙女ですし。住所不定無職のオジサマ方に見つかったらマワされちゃいます」
 さすがにそれは無い……と思うが、万一のこともあるだろうし、誘拐未遂の大罪人とは言え、ムサイおっさんたちの良い様にされるサマを想像するのは忍びないものがある。乙女とは言わないが、こいつも女だしな、一応。
「あの、それで……申し訳ないんですけど、もし宜しければ……」
「言っとくが、」身をプリプリと揺らしながら流し目を送ってきた奇妙な物体(橘のことだ)に対し、
「俺んちに泊まるってのはカンベンしてくれ」
「えええっーーーー!!!」
 店内に響き渡る声で絶叫した。
「な、なんでですかぁ! こぉんなに可愛い女の子が懇願してるんですよっ!?」
 自分で可愛いとか言うな馬鹿野郎。
「よく考えろ。俺ん家に泊まるとして、お前どうやって俺の両親を説得する気だ?」
 うちの親はそれほど頭が固いとは思わないが、だからと言って自分の息子が同年代の少女を連れ込んだのを見て「バリオッケーっすよ。はははっ。若いっていいなぁ~」等と気楽に返答する両親とはとても思えない。というかそんな親こっちから願い下げである。
 少なくとも橘の両親に連絡を取るだろうし、その上で許可を得てから宿泊させるってな具合になるだろう。
 しかし、橘は絶賛記憶喪失中。自分のことすら覚えてないのに両親のことなど覚えているはずもない。……ま、『組織』に組している時点で両親との繋がりが平穏な家庭を築いているとは思えないのだが。
 どちらにせよ、両親に連絡を取り辛いであろうこの少女に、不審な目を向けるのは火を見るより明らかである。
「ううむ……な、なら、黙って宿泊するってのは?」
 それこそバレた時とんでもないことになるぞ。それにお前、俺の部屋で俺と枕を共にする気か?」
「……うっ」
 いつに無く気後れしたのか、橘は軽く目線を外した。
「…………わよ」
 この橘にしては珍しく口がどもった。「何だって?」
「しょ、しょうがないじゃない…………寝る場所がないんだし……べ、別にどうってこと……寝るだけでしょうし…………あたしは全然気にしてなんか…………」
「橘……」顔を背けたままの彼女の肩にポンッと手を置いて、
「冗談だ。いくらなんでも本気にするな」
「わ、わかってますってそれくらい!!」
 再び叫びだし、
「な、なんか面白そうなネタを振りまいてるからノッテあげただけよっ! か、何勘違いしないでよねっ!」
 ツンデレのテンプレートみたいなセリフを吐いた。しかし、一体何を勘違いしていたんだろうねコヤツは?
「あなたとあたしが同じ毛布に包まって一夜を共にすることよ!」
 俺はそこまで言ってない。
「そりゃあ、こんなに可愛いあたしと一緒に寝たいってのはよーっくわかるけど、あたしにだって選ぶ権利があるわけで……で、でも、あなたが何にもしないって誓うなら、あたしだって融通が利かないって訳じゃないし、慈悲だってあるわけで……」
「橘」
「何よっ」
「とりあえず今の話、店員さんに丸聞こえだぞ」
「うへ!?」
「あ、あの…………」
 謀ったかのように俺たちの前に現れたのは、先ほど注文したランチを両手に抱えた、ウェイトレスのお姉さん。
「……お、お待たせ致しました。ほ、本日のランチ……でございます……あの、チョコレートソースの方は……」
「……あ、その…………あたしです…………ええと、お粗末さまです…………」
「…………」
「…………」
 お互いそれ以上は何も言葉を交わさず、ただただ配膳に没頭するウェイトレスさんと、その様子すらまともに見ることができない妄想癖ツインテール。
 因みに、お粗末さまというのは普通ウェイトレスさん側が言う謙遜の言葉なのだが……今ここで突っ込んでも聞いてないだろうな、きっと。
 やれやれと手を上げつつも、手前に置かれたフォークを手に取り、ミニサラダのセロリを口元へ。シャクシャクと気持ちいい咀嚼音が辺りに響き渡る。
 対照的に、給仕が終わっても食べるどころか顔すら上げる気配のない橘。その表情は見て取れないが、髪の隙間から見える肌が日焼けしたみたいに真っ赤で、火照りが冷める様子は一向に見られなかった。
 あたり省みずわきゃわきゃ騒ぎ散らす習性はそのままに、人として普通の羞恥心を持ったであろう性格改変後の橘は、今後この世界でどれだけやっていけるだろうか。正直かなり厳しいだろうな。
 ある意味被害者な橘に対し、俺はと言えばとある妙案が頭の中を過ぎり再び罪悪感に苛まれた。
「検査入院、って形にしとけばよかったな」


 とまあ、記憶を失っていようが性格の一部が改変されていようが、大元の部分はまぎれもなくあの橘京子である以上、トラブルが好き好んでやってくるのは自明の理であり、むしろそれこそが橘京子本人であることを裏付けているに違いない。
 なのに本人ときたら自覚が全く無く、暴走しまくったのは自分のせいなのに『何でもっと早く注意してくれないのですか!』などとブチキレるあたり本当に勘弁して欲しい。
 ……正確に言うなればこの性格も橘京子オリジナルのものなんだが。
 余程恥ずかしかったのか、注文したランチを殆ど食べもせず、食後に出されたミルクティーですら一口啜っただけで再びお地蔵様の如く固まってしまった。
 それでいて、「飲まないなら俺が貰うぞ」とグラスにあったストローをくるりと半回転させた瞬間、真っ赤な顔して怒りやがった。飲みたいのか飲みたくないのか、はっきりしてほしいものである。
 そう言うと何やらブツブツ言い始めたが……ハナっから聞く耳持ってないので適当に受け流し、その代わりに一言「出るぞ」と言ってこの喫茶店を後にした。
 レジを担当したのは店のオーナー兼シェフだったが、始終意味深なスマイル表情を俺達に向けているのが気になった。古泉がよくやるスマイルと同じ気質のもので、気になるというか無性に腹が立ってしょうがない。
 もちろん橘にもその笑みを向けているのだが、意外や意外、サラリと受け流すと思われた橘はあからさまに動揺した様子で顔を背けた。
 ……よっぽど、あの発言が恥ずかしかったんだろうな、きっと。



 喫茶店を出て早々、俺よりも後に店を出たはずの橘はいつの間にか遥か前方へと進んでいた。
「おい、待てったら」
 言えども止まる気配は無く、寧ろスピードアップ。蜃気楼の影響もあって橘の姿はどんどん霞んでいく。記憶が戻って、自分の家に帰ろうとして……ってわけじゃなさそうだ。なので、仕方無しに俺も追いかける。
 橘の下へは直ぐに追いついた。俺が走って追いかけたってのもあるし、向こうも全力疾走してたわけじゃないから当然と言えば当然であるが。
 クソ暑い中疾走したせいで再び汗が伝い落ちる。が、それを拭おうとすらせず、
「どうしたんだ、いきなり」
「…………」
 そっぽを向き、橘は口の紐を固く閉ざした。
「まさかとは思うが、さっきの発言で気を悪くしたんじゃないだろうな」
「……だったら、どうなのよ」
「どうってことはないさ。いつものことだ」
「どう言う意味ですか、それ」
「公衆の面前で人様に聞かれたらマズイようなことを、平気で口にしてるからな、お前は」
「本当のあたしって、そんなに分別ないんですか?」
 ねえよ。全く。金輪際。
 断言したかったが、拗ね気味の彼女にそんなことしたら本気で拗ねかねん。
「そうだな……自分に正直というか、思ったことを直ぐ口にしてしまうと言うか。よく言えば正直者なんだよ」
 何とか言い繕った俺の言葉に、橘は再び口を閉ざした。
 俺はさらに付け足す。「いいことだと思うぜ。虚栄と虚構にまみれた少女より、実直で厳格な少女の方が好きだぜ。どちらかと言えば俺は」
「……うん、そうですよね…………わかりました。素直なあたしの方が……その、いいんですよね?」
 ようやっと朗らかな笑みを見せる。チラリと俺の顔を見た橘の瞳は若干潤っているようにも感じた。
「そうだな」
「じゃあ……あたし、もっと自分に正直にしたいと思います」
「ああ、そうしてくれ」
 そう言うと彼女は再び笑みを見せ、今度は本当に先へと走り去っていったのだ。まるで俺が追いかけてくるのを見越したかのように。
 俺はと言えばやれやれと思いつつも、アイツが走り去っていった方へと向かっていったのだった。

 ……辞書で引いたような適当な言葉を並べた割に上手く説得できたもんだ。助かったぜ。



 記憶を失った橘京子は、良くも悪くもオリジナルの一面を見せており、同様にオリジナルとは異なる一面を醸し出していた。
 どこが同じでどこが異なるかは先述の言動行動にて把握していただけると思うので詳しい説明は割愛するが、記憶が正常であれ異常であれ、迷惑千万なヘタレツインテールであることには間違いなかった。
 しかし。
 それは『俺にとっては』である。
 その『俺以外の誰か』は、彼女が記憶を失っていることに対して憤りを感じ、不甲斐ない現状に活路を見出そうと独り獅子奮迅していたのだ。

 一体、それは誰なのか?
 ――ハルヒ?
 ――佐々木?
 ――古泉?
 ――それとも…………。

 結論を言うと、それらの誰でもない。
 もっと身近で、この件に関して最も不安を抱いていた人物だった。
 そして、ある人物の乱入をきっかけにして、その人物はある結論に達するのであった。



 前年比150パーセントを誇るであろう今夏の太陽はいよいよ最高点に達し、日陰に隠れたりジュースを飲んだりするだけでは到底おっつかなくなってきた。
 早く家に帰ってクーラーの効いた部屋でゴロゴロしたいのだが、橘の記憶の現状を鑑みるにそれは当分先のことになりそうである。
 念のため言っておくが、これでも橘の記憶を呼び起こすために色々回ったんだぜ。朝比奈さんを誘拐した時と同じモスグリーンのバンが展示してあるカーショップに行ったり、ハルヒと佐々木が初めて出会った北口駅前の広場。
 ――そして、初めて佐々木の閉鎖空間に入ることとなった、いつもの喫茶店。
 事細かい説明は抜きにして、とりあえず印象深かった場所やモノを橘に説明してあげたのだが、当の本人は「全然知りません」「なんですか、それ」と俺を落胆させるのに足る、有難くもなんとも無い言葉を頂戴するに留まった。
 無駄足だとわかった瞬間、暑さと疲れが思い出したかのようにのっかかり、暗澹たる気分で気が滅入っていくのがよーくわかった。
「そうですか? あたしは結構楽しいですよ」
 バニラソフトクリームをペロペロ舐めながら脳天気な言葉を発するは言うまでも無い、橘京子。
『暑いから買ってください』とダダをこねられたので仕方なく買ってやったのだ。もちろん記憶が戻った時にランチ代と含めて請求するつもりだ。気分はもう保護者である。
 自発的行動をしないお気楽ツインテールは口の周りを汚しながら俺に手を引かれている。と言うか、本気で幼児化してないか?
「うわ、失礼な」
 失礼と思っているならせめて口の周りだけでも拭いたらどうだ? 見ているこっちが恥ずかしい。
「んん……こりは失礼」
 清楚にハンカチで口の周りを拭う……わけもなく、口紅を塗るかのように指で唇を一周。綺麗にはなったが、代わりに指が溶けかかったソフトクリームで覆われる。
「舐めてみます?」
 いや、いい。
「んもう、照れなくてもいいのに」
 言って橘は自分の指を咥え、纏わりついた白い液体をさも美味しそうに舐めつくした……って、自分で言っといて何だが、何だかもの凄く卑猥な印象を受けるな。
 かと思えば、
「…………」
 どうした、橘?
「んあ? あ、いいえ。何でも」
 遥か見当違いの方向を見つめていた彼女は、俺の言葉に慌てて、
「ねえねえ、ここら辺はもう飽きました。別の場所行きましょ、別の場所。……あっち!」
 おねだりするように抱き着いてきた。
「こら、止めろ。暑いだろ」
「あらあら、恥ずかしがっちゃって」
「当たり前だ」
 公衆の面前で男女が抱擁するのが許されているのは月9と火10だけの特権だ。それ以外、ていうかリアルでやるヤツなんざ頭のネジがブッ飛んでるに違いない。そして俺はそんなヤツの仲間入りをした覚えはアオミドロの産毛すら無い。
「むぅー。もうっ、知らないっ」
 突如俺から離れ、パンパンに頬を膨らませたまま先に歩みだした姿は誰がどうみても不機嫌モードである。
 このまま一人で行動してくれるならそれはそれで有難いのだが、橘のことだ。そう簡単にことが運ぶとは思えない。
 迷子になった挙句お巡りさんに引き取られ保護者として呼び出されるか、俺の家に先回りして「何で追いかけてくれないんですかっ!」と意味不明な主張を繰り返すに違いない。
「……ったく、わかったよ。悪かったよ」
 甚だ不本意ながら、一歩前を行く橘を引き止める。すると彼女はツインテールを反転し、「んふっ」意味深なウィンクをしやがった。まるでそう来るのが解ってたかのように。
「分かれば、いいんです。さぁ行きましょ」
 言って俺の手を絡めとった。即座に振り払おうと思ったが、それをするとまた同じやり取りが繰り返されるに違いない。
 擦れ違う人々の目線が異常なまで生暖かく感じる中、俺は頼朝に捕らえられながらも義経の為に舞う静御前の如く毅然とした態度でこの場を乗り切ることに専念した。


 橘に連れられ……というか、引っ張られて辿り着いたのは繁華街の中心にある総合デパート。小さい時は親と一緒に何度か来た事があるが、最近はとんとご無沙汰していた。
 一介の高校生に興味のあるような品物は置いてないし、あるにしても高級品ばかりでとても手が出るシロモノではないからだ。あと、家から遠いってのも理由の一つだが……さて、橘は一体なんでこんなところに用事があるのかね?
「外は暑いから、涼しもうと思いまして」
 確かに、クーラーの効いた店内は熱風吹き荒れる外界とは雲泥の差である。しかしそれだけの理由ならば喫茶店やファミリーレストランに長居でもすればいい。さっきみたいに。
「んん……違います。店内で涼しむんじゃなくて」
 こっちこっち、と再び手を引かれ、とある売場まで足を運ぶことになる。
 歩く事数分、俺たちがやって来た場所は――
「……おい」
「どうですか? このアイデア?」
「……まさかとは思うが、コレ…………」
「ええ、そうですよ。今からここで購入して行きましょうよ」
 ――プールに。

 ……さて、解ってもらえただろうか。
 橘が俺を引き連れやって来た場所。それは今を時めく夏のデパートの風物詩。水着売場だった。
 季節が季節と言う事もあり、売場の三分の一近くが水着売場として設置されていた。
 最も、男モノのコーナーは端っこで申し訳程度に陳列しているだけで、メインは言うまでも無く、女性モノ。
 そして、まだ間に合う夏の風物詩を求めて数人から十数人の女性客が「最新モデル」や「流行モデル」の水着を手に歩いていた。
「んんん…………どれがいいですかね……これか……ううん、こっちかな……」
 ブツブツいいながら、橘は手近にあったオレンジ色のツーピースを手にとった。
「これなんか、いいと思いません?」
「……あ、ああ」
「それとも、こっちの方が似合うかな?」
「……あー、いいんじゃないか?」
「……なんか心が篭ってないわね」
 そりゃそうだ。分かってはいても、ある意味下着よりも扇情的なデザインの水着を突きつけられて「似合うかな?」何て言われた日にゃ色々な意味で夢現となること請け合いである。
 というか橘。お前が選ぶ水着がやたら露出の高いものばかりなのは、本日の処理が未遂に終わった俺に対するあてつけか?
「じゃあこれ、試着しますね!」
 俺の心の叫びを無視するが如く、やたらとハイテンションなツインテールは水着を数点持ち込んで試着室へと駆け込む。
 店内はBGMが流れ、他の客も喋っているはずなのに、試着室の奥でキャミソールを外すホックの音だけが気になって仕方なかった。カーテンも薄いように感じられるし、よーく目を凝らせばシルエット位は浮かび上がってきそうな雰囲気である。
 ……あ、あそこにカーテンの綻びがある。おいおい、下手したら全容が明らかになるんじゃ……いやいや、橘の着替えシーンなんか見て何が嬉しいんだか……いやしかし……。
『あ、そうそう、言い忘れました』
 突如、カーテンを少し開き、片方のツインテールがぴょこっと飛び出した。
 慌ててそっぽを向き、まるでそちらなど見てなかったかのように振舞いながら「なんだ、どうした」とだけ言った。
『……覗いちゃ、ダメだからね』
「…………あ、ああ」


 よくよく考えると、俺は自分の水着を持ってきてないし、時間の都合上家に帰って取りに行くよりはここで買った方がてっとり早いのだが、余計な出費は抑えたいし、そもそも橘自身の水着の代金は誰が出すんだ? アイツ金持って無いだろ?
 などと今後数分内に起きるであろう出来事をシュミレーションしていると、突如カーテンが開く音がした。
「へっへー。どうですか?」
 モデル宜しくバッチリ決めポーズを取る、水着姿の橘京子。着ているのは最初に手にとったオレンジ色のツーピース。
「結構、似合ってるでしょ?」
 俺は何も答えない。答える気もなかった。
 正直に言おう。似合ってるなんてモンじゃない。かなりイイ。良すぎる位だった。
 可愛いと自負しているだけあって容姿は平均を逸しているし、スラリとした足、見事なまでのくびれを見せ付けている彼女の体躯に文句があろうはずも無かった。
 もし性格に難が無ければ……いや、性格は記憶喪失になって少しはまともになったから及第点として……去年の冬に誘拐事件を起こしていなければ、素直に賞賛していただろう。「ああ、似合ってるぞ」と。
 しかし……惜しいかな。そのプロポーションには欠点があった。
 橘京子が橘京子であるが所以の、致命的な欠点。それは……。
「ふっふっふー。どうやらあたしの色気にもう夢中なご様子ですね。無理もありません。ほんっと、あたしってば罪な女……」

「見つけたっ!!」

 俺のモノローグ、そして橘の独り言を遮る声がこだました。思わず反射的に振り返ると、
「……ここでしたか」
 そこに居たのは、若い男性だった。若いと言っても俺よりは少し年上の、大学生のような風体。古泉よりも更に背が高く、スラリと伸びた四肢と甘いマスクは古泉のファンすら陥れそうな勢いである。
 俺の知らない顔……といきたいところだった。
 が、
「お久しぶりです……あの時は、失礼しました」
 まるでホストクラブで接待を受けているかのように振舞った。
 俺はその場で仁王立ちし、橘は突然の来訪者にビックリしたか、或いは俺以外の男の姿に驚いたか。裸体に近い身体を試着室のカーテンで覆った。
 ……間違いない、アイツだ。
 去年の冬、朝比奈さんを誘拐した犯人。主犯は間違いなく橘京子。
 しかし、犯人は一人だけではない。実行役として若い人間が何人かいたのを覚えている。
 ――その中の一人、大学生風の身なりに面識があった。
「何しにやってきたんだ?」
 努めて冷静に振舞っているつもりだが、あの時の感情が再燃しつつある今の俺にとってどこまで感情を抑えられたかは定かではない。
「そんなに怪訝な顔をなさらないで下さい。僕は彼女を引き取りに来たんです」
 ……へ?
「先ほど、『機関』より連絡がありまして。『橘京子が記憶を失い、『彼』に迷惑をかけている。ついては出来るだけ早く回収し、『彼』に迷惑をかけないよう配慮してくれ』、と」
「ああ、そう言うことか」
 俺は一人大きく納得した。恐らく、古泉辺りが連絡をしてくれたのだろう。流石は副団長。見えないところで頑張る、縁の裏の力持ち的存在である。
「ってことは、後はあんたが面倒見てくれるって訳か」
「ええ。こちらも不手際があり申し訳ない」
 名前も知らない『組織』の一員は、深深と頭を下げ、俺はといえば自分の中にあったイメージ――『組織』の構成員は皆橘京子みたいなヤツばっかり――を払拭させた。
「まともなヤツもいたんだな」
「さすがに……それでは『組織』として成り立てません……」
 彼も自身がどう思われているか察しているらしく、橘に聞こえないよう俺の耳元でボソッと呟いた。
「苦労してるんだな……あんた」
「お分かりいただけましたか……」
『……はあ』
 俺達二人の溜息が同時に漏れた。なんかこう、親近感が沸いてきた。
「どう言う意味ですか、それ」
 カーテンに包まったままの橘が何故か不満の声を荒げたが無視。
「ともかく、ここからは僕が彼女の面倒を見ます。早く連れて帰らないとこの方の……いや、ボスに怒られます」
 何でもいい。早く引き取ってくれ。
「……では」
 と踵を返し、試着室に篭っている橘の元へ。
「さ、帰りましょう。あなたの家までお送り致します」
 橘は俯いたまま答えない。
「もう宜しいでしょう。彼に迷惑をかけてはいけません」
「…………」
「父う……いいえ、あなたの帰りを待っている人が他にたくさんいます。さあ、帰りましょう」
 無理にでも橘の手を引き、帰ろうとしたその瞬間。
「…………いやっ!!」
 彼女が見せたのは、拒絶の行動だった。
「あなた、一体誰なんですかっ!? あたしを引き連れまして一体何をする気?」
「いや、ですからあなたの家に……」
「そう言って変なトコロに連れ込んで変なコトする気でしょ!」
「あー、いや……それはさすがに…………」
「わかってんだから、あたし!」
 包まっていたカーテンから右腕を伸ばし、彼――『組織』のお仲間であろう彼を思いっきり指差した。

「あなた、あたしの元カレでしょ!?」
 ……おい。

「あたしに振られたのに、ヨリを戻そうと企んでるんでしょ」
「ええっと……」
「あなたが追いかけてきてるの、ずっと知ってたんだから!」
「えええっと……」
「新しいカレが出来たのにショックを受けて、言葉巧みに別れさせようとしたんでしょ!」
「ええええっと……」
 って、ちょっと待て。その新しいカレって、まさか……まさか……
「俺のことを言ってんじゃないだろうな?」
 言うなり、橘は頬を紅らめた。
「……う、うん……決まってるじゃない……」
 な、
『なんだってー!!!』
「だって!」
 ホオズキのように熟れた顔を背けながら、俺達の絶叫に勝るとも劣らぬ声で張り上げた。
「あたしのこと、『切っても切れない縁』だとか、『素直で良いヤツ』とか言ってたじゃない!」
 た、確かに言ったが、それは……。
「それに! あたしに対して『正直なお前が好き』だとか、『甘えすぎてる』とか、どう考えても恋人同士としか見えないことやりまくってるじゃないですか! だからあたし、自分の心に素直になって接しようと……」
 うああああ…………こ、こいつ…………見事に的を外した勘違いをしてやがるぅぅぅぅ……!!
「ふむ……なるほど。記憶を失った少女に思わせ振りな記憶をチラつかせ、『実は自分の彼女』だと思い込ませる。所謂『刷り込み教育』ってヤツですね。ヒヨコが自分の親と思い込んだものをずっと親と思い込む、アレですよ。いやいや、お見逸れ致しました」
 お見逸れするなぁぁあ!! と言うか古泉みたいな解説止めろぉぉぉ!!
「俺とコイツを恋人同士にしてメリットなぞ存在せん!!」
「いえいえ。我々は生暖かく見守っていますから」
 すっげー嫌らしい目でこちらを見つめる『組織』の末端Aは、何を思ったのか橘の前に現れ、
「……そうか。あなたの決意がそれほど固いのなら、僕はあなたのことを忘れます。では、カレとお幸せにっ! じゃっ!!」
 人が集まりつつある(そりゃ、あれだけ騒いでいたからな)この水着売場をすり抜け、フェードアウト。
「逃げるなこらぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「邪魔者は消えました。今こそ二人だけで愛を育む時が来たのです」
 そして、公衆の面前でお馬鹿な発言をしでかす変態ツインテール。因みに水着姿のまま。
「あなたが居れば、あたしは他に何も望みません。あなたの愛で、あたしは救われるからです。お願いです。あたしに愛を」
 そう言って目を閉じ、唇を突き出した。
 こ、こいつは……完全に勘違いしやがってらっしゃる…………。


 辺りは時計の針の音も聞こえないくらいの静寂に包まれていた。
 この場にいるのは、キスを待つ少女と、俺。――そして。
 騒ぎを駆けつけ、やって来た奴等、わんさか。
 大多数の人間が、二人のラブストーリー(?)の行方を固唾を飲んで見守っていた。
 正直、こんな茶番に付き合ってなどいられないのだが、当座の主役が俺になっている以上、ここでフェードアウトしてしまったらブーイングの嵐に晒されかねない。
 しかし、このままでは俺はこの橘にキスをするハメに……。いや、それよりも、だ。
 キスをする=コイツと恋人関係を締結する、って構図が出来上がり、それをこの場にいる大勢の皆様に認めてしまうことになり、「デパートの水着売場で愛を誓い合った二人組」なんてタイトルで地方新聞の三面記事に載ってしまうかもしれない。
 こうなればもうお手上げだ。記事を見た直後のハルヒと佐々木の形相を思い浮かべるだけで……ううっ、今にも失神しそうだ。
 一体、どうやってこの場を切り抜ければ……。


「橘」
 俺は彼女の両肩に手を添え、優しく諭すように彼女の名前を囁いた。瞬間、彼女がビクッと震えるのが分かる。いよいよかと奮い立たせたのか、単に驚いただけなのかは分からないが。
「……は、初めてなので優しくお願いします……」
 彼女の吐息が俺の鼻にかかる。その香りはカカオのフレーバー。先ほど食べたチョコレートソースがまだ残っているのだろうか。
 甘い香りでクラクラしそうだが何とか踏ん張り、俺は彼女の想いに対し、解答を突きつけた。

「悪いが、お前と恋人同士になることなどできない」

 ……ざわざわ……ざわざわ。
 あれだけ静まり返っていたこの場は、今や喧騒で見る影も無かった。恐らく、俺がそう返すとは思っていなかったから。
 対照的に橘は静寂を保っている。呆然と俺を見詰め、何のことか分かってないような表情を続けていたが、
「な……何で……何でですか……」
 慈悲を求めるシスターのように虚ろな目を捧げた。
「あたしのどこが悪いんでしょうか? 悪いところは直します。嫌なことがあれば修正します。終生、あなたに尽くします。ですから、ですから……あたしを捨てないで下さいっ!!」
 藁にも縋るように……と言うより、俺に縋りながら咽び泣く少女。こうしてみると、コイツも確かに立派な乙女である。先ほど乙女じゃないと発言したのは撤回しよう。
 だが、俺の意志は変わらない。
 それは、橘の性格に難があるから――ではない。
 ハルヒと佐々木が嫉妬して世界を崩壊しかねないから――でもない。
 俺個人の、俺がどうしても受け入れられない、ある理由があったからだ。


「わかった」
 瞳を涙で煌かせている少女に、俺は優しく声をかけた。
「なら言おう。お前の想いに答えられない、その理由を」
 橘の目が、真剣なものに変わる。俺も負けじと見つめ返す。
 そして、俺の思いを告げた――。


「俺はな、もっと胸の大きい女性が好みなんだ」


「…………え゛っ」
「いや、もう。気になってしょうがなかったんだ。キャミソールをパタパタやってくせに色気ないし、抱きつかれても全く凹凸を感じないし。究めつけはその水着姿。正直、ブラトップなんていらないくらいじゃないか」
 胸の無い人を洗濯板や大平原と比喩するが、いやはや、上手い例えだ。命名者を表彰してやりたい気分である。
「お前の胸は、うちの妹……は言い過ぎか。けどその辺の女子中学生にすら負けてるぜ。そんな魅力もへったくれも無いヤツに靡くなんて、数十年早い……って、どうしました橘さん。ワナワナ震えてますが?」
「いっ…………」
 い?
「いっぺん死んでこーい!!!!!!」
「へぶぅぅぅうぅぅ!!!」

 ――手近にあったマネキン人形を軽々振り回し、見事ジャストミート。
 放物線を描きながら俺は数メートル離れた特価品のワゴン棚に蹲ったのだ。


 ものごっつう怒り狂った橘は水着姿だってのにまま立ち去り、その後を付ける『組織』の末端Aさん(まだいたのかよ)。
 観衆となっていた客も疎らに散り始め、俺は赤札のついた水着に埋もれたまま『面白かったぜ、あんちゃん』とか『女の敵めっ』等と賛否両論を聞かされる羽目になり……。
 最後、コツコツと歩み寄ってきたデパートのフロアマネージャ(見た目から推定するに30代女性独身)に、水着の請求書を突きつけられたのだった。


 …
 ……
 ………

 さて、如何でしょうか。
 記憶を失っていたとは言え、あたしが勘違いしてしまったことは否めません。
 また、彼なりにあの場を脱出する方法を考えた故の発言だったかも知れません。
 ですが。
 それを差し引いてもカレの所業は酷すぎると思いませんか?
 あたしが一番気にしている……と言うか、トラウマでコンプレックスでもある胸のことについて、ああもはっきり言うなんて。
 しかも公衆の面前の前で、ですよ。
 もう、引きました。ドン引きです。千年の恋も一気に冷めちゃうってやつです。
 おまけに『組織』の一員にも見られたから『組織』内でも延々からかわれて、しまいにゃあたしの役職も更迭される始末。
 正直、記憶との代償に空気が読めなくなった一件よりもこっちの方が悔しいのです。


 あたし、決めました。
 何が何でも胸を大きくして、あの人……キョンくんを見返してやる、篭絡して手玉に取ってやる、って。
 そう、心の中で堅く堅く誓ったのです。
 その思いはあの件を通じて本懐を果たし、そして……。
 あたしの胸は、よりぺったんことなってしまうのです。



 ……うるうる。


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