どうして気づかなかったのだろうか。どうして気づいてやることができなかったのだろうか。誰よりも、誰よりも二人の傍にいると思っていたのに。誰よりも二人のことを理解していると自負していたのに。
なのに、どうしていまのいままで気づくことができなかったのだろうか。
立ち止り、焦点の定まらない目で宙を見つめる俺に、周囲の視線が集中する。誰も声をかけてくる者はいなかった。この事件の謎を解く重大な事態に遭遇していることが誰の目にも明らかだったからだ。皆は静かに俺の動向に注目していた。
そんな周囲の状況が気にならないくらい、俺は後悔と自責の念で一杯だった。ようやく開くことのできた重い重い記憶の扉の向こうにあったものは、想像を遥かに超えたとても償いきれないほどの、原罪ともいうべき罪であった。
告白しなければならない、真実を。たとえ、それがどれほど残酷なものであろうとも。隠し通せるものではない。もうすぐすべての真実が、そのベールを脱ぎ棄てて、白日のもとに晒されようとしているのだから。
だから、せめて今、自分の口から真実を告げるのだ。それが、償いきれないほどの罪を犯してしまった事へのせめてもの贖罪。
意を決し、ゆっくりと背後を振り返る。そんな俺の一挙手一投足を、周囲は固唾を呑んで見守っていた。長い長い永遠とも思われる刹那の時間。かつて経験したことがないくらいの心音の高鳴りに気づく。やがて、視界の中に少女の姿が現れた。
「な、ど、どうしたの? キョン」
少女は戸惑いと不安の入り混じった表情で、それでもひきつったような笑顔見せ、一歩後ずさりしながらようやく言葉を紡いだ。
今ならば、はっきりと思い出すことができる。あの日、決意を秘めた瞳で部屋から出ていくハルヒの顔を。ぼんやりと靄に覆われていたはずのハルヒの顔が、まるで目の前にあるかのように、鮮明な映像として頭に思い浮かぶ。
そして、谷口といっしょに映っていた少女。引き込まれそうになるあの魅力的な瞳を見て、どうして気づくことができなかったのだろうか。いまから思い返せば、ワザと目を背けていたとしか思えない。
いま、目の前で追いかけている謎の女性、彼女の顔が部屋から出て行くハルヒの顔と、谷口の傍にいた少女の顔と重なったのだ。つまり、俺たちが追いかけていた謎の女性とは『涼宮ハルヒ』だったのだ。
では、『涼宮ハルヒ』が追いかけている、俺たちがハルヒだと思い込んでいる少女はいったい誰? 振り向いた俺の目の前にいるのは……いったい……誰?
視界の中にいる少女の姿を確認する。ショートのボブカット、小柄な身体、薄い胸……彼女のことを、俺は誰よりも理解していたはずではないのか? なのに、なのになぜ古泉よりも早く真実にたどり着くことができなかったのか。
大きく息を吸い込んで、おそるおそるゆっくりと小さく静かな声で、彼女の名前を告げた。
「長……門……?」
「え!?」
長門はひきつった笑顔をさらにひきつらせて、何が起こっているのかわからないといった表情で俺を凝視する。
「ははっ、あ、あんたなに言ってんのよ? なんであたしが有希に見えるわけ? 冗談は……」
少し震えた声で、精一杯強がりを言っているその姿が、さらに俺の心を掻き毟る。おそらく、長門は自分自身を本心から涼宮ハルヒだと信じて疑わないのだろう。だが、周囲の反応は違った。
「まさか……」
呆気にとられた表情で長門を見つめる佐々木。目を見開き、口をポカンと開けて、初めて見せる驚愕の表情で長門を凝視する藤原。皆一様に、九曜すらも、長門を見つめて驚きの表情で絶句していた。
「しまった……」
しばらく沈黙が漂った後、小さな声で新川さんがつぶやいた。
「そうだ、確かこの日を境に情報統合思念体が消えていたはずだ。我々はそのことをもっと疑問に思うべきだった。いやむしろ、そのことを疑問にすら思わなかった時点で、我々も含めたここにいる全員が情報操作をされていた可能性が高い」
珍しく感情を表に出し悔しがる新川さん、一方で森さんはあくまで冷静を装いながら状況を分析する。
「詳細は分からないけど、どうやら事件の背後には情報統合思念体がいると考えて間違いなさそうね」
「危ないところだったな。このまま僕たちが文芸部室に突入していれば、全滅していただろう。おそらくあそこにいるのは……」
「ちょっと待って! みんな何を言ってるの?」
森さんや新川さん、藤原の話を制止し、長門は、目の前で起こっていることが信じられないといった様子で、周囲を見回す。だが、誰一人として彼女の言葉に耳を傾けない。ただ、新川さんと森さん、藤原の哀れと疑いの入り混じった視線に晒されただけだった。
「でも、いったい誰が情報操作を?」
呆気にとられた表情で長門を見つめたまま、佐々木が、誰に尋ねるでもなく、疑問を呈する。
「情報統合思念体よ。我々はまんまと出し抜かれていたってわけね」
「いや、それはおかしいよ! だって……」
「コラー!! あんたたち、あたしの有希に何をするつもりよ!!」
佐々木と森さんの会話を強制的に終わらせるように、廊下の遥か向こうからハルヒの怒声が聞こえてきた。その怒声は、まるで厳正な裁判官の判決のように、長門の中にあった微かな期待に冷徹に鉄槌を下し、木端微塵に打ち砕いた。
声のした方向を見て、愕然とする長門。後悔と自分を責める言葉は後から後から浮かんでくるのに、こんなときに長門にかける慰めの言葉が一言も思い浮かばす、自分の無力感と不甲斐なさに途方に暮れる。
「早く! こっちへ来い」
藤原がみんなに手招きをする。佐々木達が藤原の先導に従うように移動する。だが、長門はうつむいて何か独り言をつぶやきながらその場に立ち尽くしていた。彼女の肩に手を回すようにして言葉をかける。
「行こう。いまはすべてを見届けるのが先だ。たとえそれがどんなに辛い真実でも」
俺にこんな言葉をかける資格があったのかどうかはわからない。何よりこれが長門への言葉だったのか、それとも自分自身へ言い聞かせたものだったのかすらも……
長門はショックから覚めやらない様子で、それでも小さく首肯し無言のまま俺に従った。
俺たちは佐々木の後を追うように近くの教室の中に入る。教室の中では九曜が、長門が情報操作をする時と同じように、高速で何かをつぶやいていた。突然、周囲に数体の人の形をした光が現れたかと思うと、それはすぐによく知った人物の姿に変わった。
「いま、九曜周防が文芸部室の中の様子をここに再現した。この後で何が起こったのか、見届けることにしよう」
藤原が提案し、新川さん、森さん、佐々木がうなづく。藤原と佐々木がこちらの様子を窺い、俺も三人に続いて力強くうなずいた。
文芸部室の中の様子は、長門が魂の抜けたような表情で部屋の中央に置かれた椅子に座り、その背後には喜緑江美里と朝倉涼子が立っていた。そして長門を挟んだ向かい側にハルヒが怒りを露わにしながら対峙していた。
「ようこそ、涼宮さん」
「いますぐ有希を開放しなさい! 言うことを聞かないと、力ずくで聞かせるわよ!!」
「ふっふっふっ、威勢がいいのね」
いまにも飛びかからんとするハルヒを、喜緑江美里は普段と変わらない余裕の表情で眺めていた。
「罠にかかったとも知らずに……」
朝倉がボソッとつぶやく。罠……とは、いったい……?
「あなたは自分の意思でここに来たと思ってるかもしれないけど、わたし達にとってこれは想定済みよ。むしろ、わたし達は長門さんではなくあなたに用事があったの」
「用事って何よ! 用があるなら正々堂々とあたしの前に現れればいいじゃない」
あくまで冷静沈着な態度を崩さず、喜緑江美里はハルヒに自分の描いた計略を説明し始めた。
「わたし達はもうこの惑星を去ることにしたの。これはあなたもよく知っている彼女との話し合いの中で決定したわ」
「彼女って誰よ?」
「ふっふっふっ、そうねぇ~、朝比奈みくるって言ったらどうします?」
敵意を持って問い質すハルヒの質問に、小悪魔的な笑みを浮かべて、喜緑江美里は冗談っぽく朝比奈さんの名前を出した。驚愕する。まさか、本当に朝比奈さんがこの事件の黒幕なのだろうか? 告白されたあの日の情景が脳裏をかすめる。
チラリと森さんに視線を向けると、彼女は、あくまで見た目は冷静さを保ちながらも、彼女らの言葉を一言一句聞き逃すまいという鬼気迫る雰囲気を醸し出し、事のなりゆきを見守っていた。
「でも、わたし達はこの惑星を去るにあたって一つの条件をつけたの。いつか、わたし達の進化のカギとなるであろうあなたを連れて行くと。彼女は快く承諾してくれたわ。むしろそれは、自分の望みでもあるとまで言っていたわよ」
「それは嘘ね。仮にみくるちゃんが犯人だとしても、みくるちゃんはそんなことは言わないわ。たとえあたしのことが嫌いだったとしても、キョンのことであたしが邪魔だと思ったとしてもね」
即座に喜緑江美里の言葉を否定するハルヒの姿を見て、ハルヒが朝比奈さんに対して全幅の信頼を抱いているのがよくわかった。その揺るぎない信念は、まるで一瞬でも喜緑江美里の言葉を信じた俺を責め立てているようにすら感じられた。
「…………」
ハルヒと喜緑江美里が無言で火花を散らす中、朝倉が横から口をはさむ。
「とにかく、あなたはこの惑星の住人に見捨てられたってことなのよ。有希は最後まであなたを連れて行くことに反対してたけどね」
朝倉は椅子に座ってぐったりと呆けている長門を一瞥する。それにつられてハルヒも視線をチラリと長門に移した。
「だから、いまはちょっと静かにしてもらってるのよ!!」
隙ができたと見たのだろうか。言い終わるのと同時に朝倉がハルヒに飛びかかる。
「おとなしくわたし達に従いなさい!!」
ハルヒは見事な体さばきで攻撃をかわすと、飛びかかってきた力を利用して、朝倉を背後へと投げ飛ばした。
「ふん、この程度であたしに言うことを聞かそうなんて、百万年早いわ」
手をパンパンと払い、背後の朝倉を一瞥してから、再びハルヒは喜緑江美里を睨みつける。ふたりのやりとりを見ていた喜緑江美里が呆れたようにため息をつく。
「涼子、力ずくで向かって行っても勝てるわけないじゃない。だからあなたはバックアップにしかなれないのよ」
笑顔まま喜緑江美里は懐から刃物を取り出して長門の喉元に突きつけた。
「しばらくの間、おとなしくしてくれますか」
あくまでお願い口調ではあるが、その凄惨な微笑からは相手に有無を言わせぬ凄みが滲み出ていた。その微笑みに圧倒されたわけではないのだろうが、人質を取られてはハルヒも手が出しようがない。
朝倉が立ち上がり、服の埃をはたいてから、悔しさで歯を食いしばりいまにも飛びかかろうとしているハルヒの背後に近づくと、ハルヒを羽交い絞めにした。
「確保したわよ。江美里」
「上々ね。計算通りだわ」
喜緑江美里は「ふっふっふっ」と不敵な笑いを浮かべながらハルヒに問いかける。
「涼宮さん、あなたはここに来る前から、わたし達のことも、そしてこの計画を画策した犯人のことも、なんとなく感づいていたはずよ。勘のいいあなたならね。
なのに、どうして彼女に会いに行くことなく、ここに来たのかしら? 彼女とはそれほど仲が良かったわけではないでしょ? 彼女をかばう理由がないはずなのに……」
「ふんっ、あんたにとやかく言われる筋合いはないわ!」
朝倉涼子に羽交い絞めにされながらも強がるハルヒに、喜緑江美里は観察するような視線を向けた後、
「どうやら、あなたのその辺の行動に、わたし達の進化のカギが隠されているような気がするわ」
ひとりで納得したかのように結論を導き出す。
彼女……か、喜緑江美里は黒幕のことを彼女と呼び、ハルヒもそれ自体は否定していない。犯人は女か? もしそうなら、いったい誰だ?
「あんたが何を知りたいのかわからないけど、こんなことをされて協力するわけないでしょ! たとえどんな拷問を受けようが絶っ対に協力なんかしないからね!!」
ハルヒの言葉を聞いて、喜緑江美里は古泉のように両手を広げるポーズで首を横に振った。
「おやおや、何か誤解してるんじゃないですか? わたし達は別にあなたをどうこうしようとしているわけではないわ。明日から、今日と変わらない日常を送ってもらうだけよ。ただし、思念体の中に創った、こことそっくりの世界でね。
そこには当然、あなたの大好きなキョンくんもいるわよ。わたしたちはそこでのあなたの日常を観察するだけ。たまに、あなたの私生活に干渉して反応を観察することもあるかもしれませんけどね」
「そのほうがわたし達にとっても都合がいいのよ。他勢力からの干渉を受けないからね」
「だから涼宮さんは明日からも普通に暮らしていただいてかまいませんわ。今日のことは記憶から消去しておきますから」
「そんなこと! 許すわけないじゃない!!」
猛り狂い朝倉に羽交い絞めにされながら必死にもがくハルヒを、あくまで冷静沈着に観察する喜緑江美里。まさか、いまも本物のハルヒは情報統合思念体にさらわれたままなのか? それで、ハルヒの代わりとして長門がここにいるのだとしたら……
長門に視線を向けると、長門は目の前で起こっている事態にショックを受けている様子で、ふと目が合い、俺が見ていることに気づくと、明らかに動揺を隠せない様子で顔を背けた。
「では、思念体内部へ帰還するわ」
喜緑江美里がスッと片腕をまっすぐ上に上げる。その指先に黒い球体のようなものが現れ、それは瞬時に大きくなり校舎の敷地全体を包み込んだ。その瞬間、喜緑江美里の表情から平静さが消え失せる。
「涼子! この校舎内に誰かいるわ」
「まさか……情報操作は完璧なはず……」
喜緑江美里と朝倉涼子がこちらの方を向く。壁越しに見られているような恐怖感がこみ上げてきた。
「やばい、僕達の存在がばれたぞ!」
「ここは撤退するべきですな」
「待って! もうちょっとだけ」
「そうよ、何としても真実を突きとめなくちゃ」
男性陣と女性陣の間で意見が割れた。恐怖と焦りと不安とを抱きながらも、そのやりとりを横目に見ながら、ハッと気づき、咄嗟に俺は長門の傍に寄り添う。
「大丈夫か?」
長門は答えることなく無言でうつむいていた。ただ、俺の手をぎゅっと握りしめて。
文芸部室では、一瞬動揺した朝倉の羽交い絞めを振りほどいたハルヒが、喜緑江美里に強烈な体当たりを仕掛ける。不意をつかれた喜緑江美里はハルヒの体当たりをまともにくらい、三メートルほど吹っ飛ばされて尻もちをついた。
「この役立たずがぁ!!」
「ご、ごめんなさい」
立ち上がりながら、喜緑江美里は戸惑う朝倉涼子を鬼のような形相で叱責する。その後、元の冷静沈着を装いハルヒに優しく言葉をかけた。
「涼宮さん、無駄な事は止めなさい。この校舎はもう空中に浮いているのよ。逃げる術はないわ。なにより、いくらあなたでも、有希を守りながら二対一では勝てっこないわよ」
「そんなこと、やってみないとわからないわ」
言い終わるのと同時に、喜緑江美里がハルヒの背後に瞬間移動する。だが、ハルヒはそれにすばやく反応して背後を振り向き、喜緑江美里と組み合った。
「涼子! 有希を」
「させないわ!!」
ハルヒは懐から銃のようなものを取り出すと、喜緑江美里の身体に密着させて引き金を引き、そのまま椅子に座らされている長門に近づこうとしていた朝倉にとび蹴りをくらわせた。
「大丈夫、有希」
長門に近寄るハルヒ。長門の反応は無い。喜緑江美里がよろよろとよろけて膝をつき、驚愕の表情でハルヒの持っている銃のようなものを指さす。
「あ、あ、なんで……あなたが……それを……」
「これはみくるちゃんがくれたのよ」
「どうして朝比奈みくるがそんなものを持ってるの」
同じく驚愕の表情でハルヒを見つめる朝倉。だんだんと喜緑江美里の表情が鬼の形相に変わっていく。
「あの女!! 裏切りやがったな!」
文芸部室からここまで届きそうなぐらいの雄叫びをあげる喜緑江美里。その様子を見ていた藤原が大きな声で告げた。
「ヤバい! 爆発する!! ここら辺一帯が崩壊するぞ!!」
「なんだって!!」
みんなの視線が藤原に集中する。本能的に次に何をすべきかを皆が悟った。全員が瞬時に藤原の周囲に集合すると、藤原が時間移動を行い、すぐさま例の無重力状態でぐるぐる回る感覚が襲ってきた。
目を開けると、すぐそこに真っ暗な深淵の闇があった。本能的な恐怖を感じて、思わず目を閉じる。後で知ったことだが、その時見たのは時空間の断層で、落ちれば決して戻ってくることのできない領域だったとのことだ。
すぐに、頭の中に直接映像が流れ込んできた。
いつか夢で見た建物の残骸の中、大きなコンクリートの破片に足を挟まれて仰向けになったハルヒ。その傍らで長門が泣いていた。周囲は暗く、しとしとと雨が静かに降っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
必死で謝り続ける長門に、ハルヒは優しく手を差し伸べる。
「いいのよ有希、これはあたしが勝手にやったことだから。あんたは何も悪くないわ」
「でも、わたしを助けるために……わたしを助けなければ助かっていたのに……」
寄りすがり泣きじゃくる長門を、仰向けのままそっと抱きしめ、優しく微笑むハルヒ。
「なに言ってるのよ、団員が困った時に助けるのは団長の務めよ。有希が大丈夫だったんだから、あたしは嬉しいわ。あたしのことは心配しないで、大丈夫だから」
ハルヒの身体にはいくつも鉄筋やコンクリートの破片が突き刺さり、とても大丈夫には見えなかった。声も弱々しく、いまにも消えて無くなりそうな感じがした。痛々しくて目をそらしたくとも、映像が頭の中に直接流れ込むためそれもできない。
長門は必死で周辺を見回す。しかし、喜緑江美里と朝倉涼子の情報操作が効いているのか、まったく人の姿が見当たらない。だんだんと呼吸が乱れて行くハルヒの様子を見て、長門の表情に焦燥感が滲み出てくる。
しばらくして、ハルヒは長門の方を見ず、仰向けで空を見上げたまま絞るように声を出す。息も絶え絶えに苦しそうに話しかけるハルヒは、生きていることすら奇跡だと思えるくらいだ。
「ごめん有希、あたし……もしかしたらもうダメかもしれない。有希の顔が……見えないよ」
みるみる長門の表情が絶望の色に染まっていく。
「ダメ! ダメ! そんな!! か、彼が! 待ってる。だから!!」
必死で訴える長門、ハルヒが弱々しく声のする方向に差し伸べた腕を、すがりつくように抱きしめる。長門にもハルヒにも、もうどうしようもないということが分かっていた。雨は音もなく、しとしとと降り続いていた。
「有希、お願いがあるの」
驚いた顔でハルヒを見る長門。
「な、なに?」
「あ、あたしの代わりに、キョンの傍に……いてあげて。アイツ、ああ見えてけっこう寂しがり屋だから……あ、あたしが帰らなかったら、いつまでも……あの下宿で待ち続けるかもしれない……だから……」
「そんな……」
長門は息を呑みハルヒの顔を見つめる。ハルヒはもはや長門の方を見ることなく、ただ空を見上げている。おそらく、もう目が見えないのだろう。
「できない! そんなことできないわ! 彼を裏切ることになる。それに、彼はなによりもあなたの、涼宮ハルヒの帰りを待ちわびているのに」
「お願い……お願いよ、有希。あたしの……最期の……」
ハルヒの頬を涙が伝った。長門は躊躇する。誰の目から見てもハルヒの命の灯はもう長くは持ちそうにない。唇を噛みしめ、迷った挙句に、
「わ、わかったわ」
絞り出すような小さな声で、長門は了承した。
「ありが……とう」
お礼と同時にハルヒは微笑み、長門が握りしめていたハルヒの腕から力が抜ける。ハルヒが死んだことを理解し、その場に泣き崩れる長門。
いつのまにか、自分の頬にも涙が伝っているのがわかった。これが、これが真実なのか! 深い絶望と悲しみ、どうしようもない自分の無力感がないまぜになった感情が胸に渦巻く。
同時に無重力状態が消え、気がつくと、俺は薄暗い瓦礫の山の中にたたずんでいた。周囲には黒い靄のようなものが漂っていた。夢の中の風景。しかも周囲に漂う得体の知れない不気味な雰囲気。なにより……この夢の結末は確か…………
「思い出した、すべて思い出した……」
背後で声がしたため、振り返ると、長門がさっき見た情景と同じ絶望に打ちひしがれた様子でわなわなと身体を震わせていた。
「わたしは……涼宮ハルヒを……」
「長門……」
「来ないで!!」
差し伸べようとした手を払いのける長門。目に涙を浮かべた顔を見せて、長門は震えた声で言葉を紡ぐ。
「わたしが、わたしが涼宮ハルヒを殺したのよ。わたしさえいなければ、涼宮ハルヒは助かったのに……彼女はその能力をウイルスを打ち込まれ消滅する思念体を消し去らないために使ってしまった。わたしを消滅させないために」
長門の発する言葉の一つ一つが、長門自身を責め立て傷つけているように思えた。まるで、わざとそうしなければ、自我を保っていられないかのように。
「長……」
「わた、わたしには、あなたの、あなたの傍にいる資格がないわ。だって、だって、わたしは涼宮ハルヒを殺して! あなたを裏切ったのだから!!」
抑えていた感情が堰をきったように溢れだし、それでも気丈に立ったまま俺を見つめ、涙を必死でこらえる長門。かける言葉が見つからなかった。情けないことに、俺自身も真実を見せつけられて頭の中の整理が追いついていない状態だったからだ。
「そういうことは後でしてくれないか」
頭の上から声がした。見上げると、瓦礫の山の上に藤原が立っていた。その横には佐々木や九曜、新川さん、森さんがいた。
「そんな言い方はないだろ! キミは……」
「来るぞ、真打ちの登場だ。僕達を、一年前の時間平面へと導いた」
感情を露わにする佐々木の言葉を遮って、藤原が視線をあらぬ方向へと向ける。周囲を漂っていた黒い靄が段々と一ヶ所に集まってくる。まさか……
黒い靄は人の形を形成し、やがてそれは見覚えのある女性の姿になった。まさか……、まさか……
「ハルヒ!?」
思わず叫ばずにはいられなかった。まさか、この事件の真犯人がハルヒ自身だっただなんて。長門も目を丸くして目の前のハルヒを凝視する。
「キョン……」
恨めしそうな視線を向けてくるハルヒ。驚きのあまり身動きが取れない。飛びかかってくるハルヒの右手には軍用のサバイバルナイフが。
『死ぬ』
そう覚悟した瞬間、上から飛んできたコンクリートの大きな破片がハルヒの頭部に直撃した。目の前で横側にもんどりうって転げるハルヒ。
「何やってるんだ!! そのまま殺されるつもりか!」
藤原が俺たちを一喝する。
「涼宮さん!?」
佐々木が驚愕の表情でハルヒを見ていた。さすがに一般人の佐々木にはショックだったのだろう。新川さんと森さんが瓦礫の山から飛び降りてきた。
「下がってください! 戦闘は我々の守備範囲です!」
一瞬ためらったが、俺は傍にいた長門の手をつかむと、そのままハルヒのいるのと反対方向へと走り出した。数十メートル走り、角を曲がる直前に後ろを振り返ると、ちょうどハルヒと新川さんが闘っていた。
森さんはなぜかその傍でうずくまっている。やられたのか? ハルヒが手をそっと上にあげると、新川さんの身体が宙に浮き、ハルヒが手を下げるのと同時に新川さんの身体は地面にたたきつけられた。
「なんだありゃ」
思わず声に出してしまった。とても敵いっこない。まるでレベルの違う相手を敵にしているみたいだ。新川さんに向けられていた視線がこちらを向く。七十メートルほど離れているはずなのに、はっきりと目が合ったことが分かった。
瞬間、瞬く間にハルヒの姿が大きくなり、一呼吸もしないうちにすぐ横にハルヒの姿があった。おおきくナイフを振り上げるハルヒ。息を呑む。俺の背後からレーザー光線のようなものが飛んできて、ハルヒの身体を貫いた。
「早く逃げろ!」
振り向くと、藤原が光線銃のようなものを構えて立っていた。長門が心配そうにこちらを見ている。必死に俺は長門の方へと駆けだした。長門の下にたどり着き、手を握ろうとした瞬間、飛んできた何かの下敷きになって、俺はその場に倒れこんだ。
飛んできたのは藤原の身体だった。ぐったりしていて、どうやら気絶しているようだ。なんとか藤原の下から這い出て、後ろを振り返ると、ハルヒが一歩一歩こちらに近づいて来ているのがわかった。もう、すぐそこまで来ている。
「どうして逃げるの? キョン。いつまでも、あたしといっしょにいてくれるって言ったじゃない。なのに、なのに……」
悲しげなハルヒの声を聞くと、罪悪感が胸にこみ上げる。逃げようとする気力すら失われてしまう。
「どうしてあんた! 有希の傍にいるのよ!!」
ハルヒが雄叫びをあげた瞬間、空から落ちてきた無数の光の槍が、ハルヒの身体を貫いてその場に串刺しにした。ハルヒの向こう側に佐々木と九曜の姿が。
「キョン! キミの懐にある銃を使うんだ!! それで涼宮さんを撃て!」
懐だと! あわてて懐を探すと、ハルヒが喜緑江美里を撃ちぬいた銃のようなものが出てきた。いつの間に、こんなものが懐に。
銃を握り、ハルヒの方に視線をやると、ちょうどハルヒを貫いていた光の槍が粉々に崩壊するところだった。ハルヒは振り向きざまに拳を突き出すと、辺りから青白い無数の光の矢が飛んでいき、咄嗟に佐々木をかばった九曜の身体に突き刺さる。
「九曜さん!」
「大――丈夫――……」
九曜はその場に片膝をついた。その様子を見てから、ハルヒはゆっくりとこちらを振り向く。俺は両手で銃を構え、銃口をハルヒに向けた。
「来るな! ハルヒ」
「それで……あたしを撃つの? 永遠に共にいようと誓ったあたしを、死ぬ時はいっしょだとまで言ってくれたのに……、あたしの事が嫌いになったの?」
目を見開いてこちらを睨みつけるハルヒ。その瞳からは涙が溢れている。だんだんとこちらに近づいてくるハルヒに銃口を向けて、グリップをギュッと力強く握りしめるが、引き金が引けない。
撃たなければ殺される。目の前にいるのはハルヒの亡霊、ハルヒではない。
頭ではわかっていても、実際に面と向かって対峙すると、とても撃つことができない。ハルヒと過ごした想い出の日々が、その時のハルヒの顔が、笑顔が次々に思い浮かんでくる。ダメだ! 俺にはハルヒを撃つことはできない。
ハルヒはすぐ目の前まで来ると、左手で銃身を握り、狙いを自分自身からそらして、右手で大きくナイフを振り上げる。
「これで、いつまでもいっしょだよね、キョン」
優しい声で、ハルヒが声をかけてくれた。なぜか安堵が胸にこみ上げる。仕方がない。ハルヒに殺されるのなら本望だ。そう思った瞬間、背後から長門が飛び込んできて、ハルヒにタックルをくらわした。
「彼女の死を汚すな! 朝倉涼子!!」
長門がいままで見たこともないような迫力で叫んだ。ふたりはもみ合ったままその場に倒れこむ。それよりもいま何と言った? 朝倉涼子……だと?
起きあがったハルヒの顔を見て思わず息を呑んだ。ハルヒの顔の半分が崩れ落ち、中から朝倉涼子の顔が覗いていたのだ。こんなことに気がつかなかったとは……
「よくも!!」
朝倉涼子の右腕が鋭利な刃物に変化し、長門の身体を貫いた。ずるずるっとその場に崩れ落ちる長門。
「朝倉! 貴様!!」
もう一度、銃口を構える。そんな俺を見て、朝倉は不敵な笑みを浮かべた。
「いいの? キョンくん。わたしは涼宮ハルヒにとり憑いているのよ。わたしを撃てば、この世界に残された涼宮ハルヒの最後の残留思念も消える。それでも……わたしを撃てる?」
引き金を引こうとした俺の指を、朝倉涼子の呪文のような言葉が止める。ニヤリと笑い、一歩近づこうとした朝倉の足に、長門がしがみつく。
「あなたになら、あなたにならわかるはず、涼宮ハルヒが何を考えているか、何を願っているか」
「うるさい!」
息も絶え絶えに必死で叫ぶ長門を、朝倉は虫を踏み潰すように蹴りを入れる。ミシっと骨の潰れるような嫌な音がした。ハルヒが何を考えているか、何を願っているか……
気づく。残された半分のハルヒの顔は泣いていた。それは悔しいから、俺たちが恨めしいから泣いていたのではない。ハルヒが泣いていた理由は…………
大きく息を吸い込み、もう一度力強くグリップを握りしめる。
「スマン、ハルヒ」
パン
あっけない空気の抜けるような音がして、銃口から発射された弾は朝倉涼子の眉間を貫いた。
「ぎゃああああぁぁぁぁ…………」
こちらからはハルヒの表情を窺うことはできなかったが、驚愕の表情をした朝倉涼子は、無念そうにこちらを睨みつけてから、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れ伏して、そのまま光の粒子となって姿を消した。
一瞬、脱力してその場に銃を落とした後、
「長門!」
長門のもとへと駆け寄る。倒れていた長門の華奢な身体を持ち上げて抱きあげると、べとっと手に嫌な感触がした。手を見ると血で真っ赤に染まっている。あらためて長門を見ると、腹のあたりがべたべたの血まみれ状態でとても助かりそうにない。
絶望感がこみ上げる。ハルヒの最期に立ち会った長門と同じ感情が俺の中にわき上がってきた。
「な、なが、長門……」
絶望する俺に、長門は小さく首を横に振った。
「あなたのせいじゃない。もう一度ウイルスを撃ちこんで情報統合思念体が消滅すれば、どのみちわたしは消える運命。あなたが気にすることではない」
優しい眼差しで俺を見つめ、淡々と話す長門。だが、そんな風には割り切れない。俺が……俺にもっと勇気があれば……
「ごめんなさい…………」
「え!?」
突然、長門が謝罪の言葉を口にする。一筋の涙が長門の頬を伝った。
「わたしは……わたしはうすうす感づいていた。真実に。自分が……涼宮ハルヒでないことはわからなくても、あなたのくれるこの温もりが、自分のものではないということに……わたしは気づいていた」
「…………」
「この温もりは借り物、いまのあなたとの関係は偽り、いつかあなたがこの真実に気づき、わたしの下から去っていくことが怖かった。だから、わたしは必要以上にあなたを縛りつけ、あなたの行動を制約した。
この温もりの真の所有者である誰かがあなたを奪っていかないように、あなたが真実に気づいてわたしの下から去っていかないように……結果的にわたしはあなたを騙した。あの日から今日まで、ずっとあなたを騙し続けてきた」
長門の魂の叫びのような告白。俺の傍で涼宮ハルヒを演じていた時間、ずっと長門は悩み、苦しみ続けてきたのだ。なのに、どうして気づいてやれなかったのか。自分の無力さが、不甲斐なさが恨めしくなる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
長門はしがみつくように俺の服をつかみ、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。目からは涙が溢れだす。
「謝ることはない。俺は……お前といっしょに過ごした日を後悔はしてないぞ。一時たりとも、窮屈だと思ったことも、逃げ出したいと思ったこともない。お前がいてくれて、傍に寄り添ってくれて、本当によかったと思ってる」
この言葉は、俺の本心だ。たとえハルヒを演じていたのだとしても、ずっと傍で俺を支えてくれていたのはお前なのだから。ハルヒ以上とはいかなくても、俺はお前のことが好きだった。
俺の言葉を聞いて、長門は声をあげて泣きだした。こんな風に感情を露わにして泣く長門の姿は初めて見た。
「わたしは最悪だ。最悪の女だ」
「え!? 長門?」
「涼宮ハルヒはわたしを助けるために犠牲になった。最期はコンクリートの瓦礫の下で、あなたに見守られることもなく、独り寂しく死んでいった。なのに、わたしはいま、あなたの胸の中で、温もりの中で最期を迎えようとしている。
そして、わたしは最期にあなたに抱かれていることを……嬉しく思っている。涼宮ハルヒに後ろめたいと思いながらも、申し訳ないと思いながらも、この感情を抑えることができないでいる。
最期に、消えゆく間際に、涼宮ハルヒを演じるわたしにではなく、わたし自身に、あなたが好きと言ってくれたことが、なによりも嬉しい。涼宮ハルヒに対する優越感を、命の恩人を超えた喜びを、抑えることができない。わたしは最低だ」
「…………」
「あなたに抱かれる喜び、あなたと別れる悲しみ、あなたに嫌われる恐怖、涼宮ハルヒへの憧れ、嫉妬、優越感、後ろめたさ……さまざまな感情がわたしの中に渦巻いていて、制御することができない。
きっと、これが……わたしの、思念体の追い求めた答えだったんだわ。消えゆく最期の最期に、わたしは答えを見つけることができた。自律進化の答えを。あなたと涼宮ハルヒのおかげで…………」
「長門…………」
涙がこぼれ、長門の顔に落ちる。赤い血で染まった顔に。このまま別れてしまうのか。言いたいことがたくさんあるはずなのに、あまりにもありすぎて咄嗟に言葉が浮かんでこない。
「涼宮ハルヒに会えてよかった。あなたに会えてよかった。あなたを……好きになって……よかった」
「な、待て! 長門!!」
「さようなら」
「長門ー!!!」
最期に優しい微笑みを残して、長門は光の粒子となって腕の中からこぼれおちるように姿を消した。
同時に、背後から強烈な光が差し込む。周囲の漆黒の闇を振り払うように、閉鎖空間が解除され、俺たちは元の世界に戻ってきた。ちょうど日出の時刻に重なって。
そのまま俺はその場に跪いて呆けていた。もう涙すら出なかった。大声を上げて泣くことができれば、どんなに楽だっただろうか。だが、さっきまで流していたはずの涙が出てこなくなるくらいのショックと絶望が胸に渦巻いていたのだ。
どれくらいの時間、地面とにらめっこをしていただろうか。陽がもう十分に昇った頃、俺はようやく顔を上げて立ちあがった。ふと前を見ると、そこには一体の白骨死体。頭には錆びて黒ずんだ見覚えのあるカチューシャ。
まるで、絶望した俺を見守ってくれているかのように、それはそこにあった。
「ハルヒ…………」
呼びかける、当然返事はなった。周囲には北高の残骸とおぼしき瓦礫の山。そして、おそらく何時間も無言のまま俺を見守ってくれていた佐々木、藤原、九曜、新川さん、森さん。
彼らに声をかけようとした時、一陣の風が辺りを吹き抜けた。その瞬間、確かに聞こえたのだ。空耳ではない。長門有希の演じるハルヒでも、朝倉涼子にとり憑かれたハルヒでもなく、正真正銘の涼宮ハルヒの声が。
 
「ありがとう、さようなら、キョン」と
 
 
エピローグへ~
 
 

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最終更新:2010年09月22日 01:03