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 第十章


 

 その次の日の朝、平行世界での話になるが、またしてもハルヒから電話があった。 
 長門宅で勉強会をやるから、夏休みの宿題を全部持って集合するように。時間は午前九時。遅れたら殺す。
 だそうだ。やることは前日に連絡するというルールはすでに廃棄されたらしい。
 昨日の重暗い感情がずるずると尾を引いていたため俺は電話口のハルヒの元気な声に元気でもって返答できず、ただ生返事で了解の意を伝えた。本当は勉強なんかする気も起きないんだけどな、俺は今。
 そんな俺をよそにハルヒはやけにハイだった。
「ねえあんた知ってた? 今年の夏休みの宿題ってメチャクチャ多いのよ! 今、確認してみたら驚いたわ。きっと去年の三倍はあるわよ。三倍よ三倍。一年の宿題なんかぜんっぜん、もう比べ物にならないわ」
「二年生だしな」
 テキトーに返す。今年の宿題量が多いか少ないかなんて、今の俺にとってはノミかダニかぐらいの違いにしか感じられん。なにしろ、宿題なんかよりもはるかに巨大な懸案事項がこの夏休みには横たわっているからな。
 いくつか言葉を交わした後、俺は電話を切って机の上の宿題の山に目を向けた。もちろん一切手をつけられることもなく、夏休み初日とまったく同じ状態をキープしている。しかしホント、こんな宿題なんかやってる場合じゃないよな。他に何かやっておくべきことがありそうなもんだが……。
 俺はため息をついた。
 ま、それが活動のうちってならやるけどさ。
 いつまでも暗い雰囲気に取り憑かれたままデフレスパイラル的思考の渦に飲まれていてはきりがない。考えているだけでは事態はどんどん悪化するだけだ。
 俺は起きあがり、通学鞄に宿題を詰め込み始めた。

 


 で、数時間後。
 朝飯を食べてからの暇な時間を持て余して早くに家を出たせいもあって、長門の家がある高級マンション前には予定より十五分も早く到着してしまった。
 時間調節のために自転車をゆっくり漕いでもよかったのだが、外にいるだけで汗だくになるのでそんなことはやる気も起こらなかった。とっとと屋内に入って涼みたい。
 マンションの玄関口で708号室を呼び出してから待つこと数秒。プツ、とインターホンに反応があった。
「…………」
「長門、俺だ。通してくれ」
 やや間が空く。
「……どうぞ」
 カシャン、と音を立てて玄関の鍵が外れた。俺はそのまま玄関を通ってたいした感慨もなくエレベーターに乗り、七階まで上昇したところで降りて八号室の前で立ち止まった。
 ここに来るのもすっかり慣れちまったもんだ。とか思う。
 大抵はこっちから迷惑事を持ち込むときだけどな。七夕の時も十二月の時も、あと二月に世界を正しに行ったときも。借りはまだ返せていない。
 玄関ベルを鳴らすと戸口で正座して待ってたかのような早さでドアが開いて、隙間から制服姿の長門がひょっこり顔を出した。長門は俺と少し目を合わせてから、挨拶でもするみたいに首を二センチほど傾ける。
「他の奴らは」
 とは訊くまでもなかった。奥の部屋からハルヒがドタバタと無駄に足音を立てて登場してきたからである。お前はどこの小学生だ。見るとその後ろには朝比奈さんと古泉も控えており、当日に呼び出されたってのに相変わらず集合だけは早い連中だな。
 (こっちの世界では)プールの帰りぶりに見るSOS団のメンツは、長門を除いてみな一様に日焼けしていた。少し黒くなった顔はやけに新鮮な感じがして、それはそれでちょっと恥ずかしい気もする。長門はこちらの世界では常人のはずなんだが、日焼けしてないってことは本気でメラニン色素がないのかもしれん。皮膚ガンには注意しておいた方がいいだろう。
「キョン、あんたはどこに集合って言ってもやっぱり遅いのね。早くしないと今日中に宿題終わんなくなるわよ」  
 俺が靴を脱いでいると、こんがり焼けたハルヒが非難の声を浴びせてきた。
「十五分前に来て文句がつくとは心外だな」
「あんたはバカで一番時間がかかるんだから、本当は一番早く来ないとダメなの。そんくらい頭を働かせなさい」
「お前はどうなんだよ。もう終わってんのか?」
「大方ね」
 そりゃけっこうなことだな。少し利用させてもらうぜ。
「そんなんじゃあんたね、本当に大学なんかどっこも行けないわよ」
 ハルヒは俺の母親みたいなことを言って機嫌悪そうにそっぽを向いた。 
 長門に通されたリビングには、やはりコタツ机一つしかなかった。ばかでかいガラス戸には申し訳程度にカーテンがついているものの、殺風景といえばその通りである。
 ただし唯一、新しい備品としてボロっちい扇風機が部屋の隅っこで首を振っていた。あまり涼しそうには見えないのだが、これはどこで手に入れたんだろうか。
「もらった」
 俺の問いかけに対する長門の答えは実に簡潔であった。
 聞くと、ハルヒがいらなくなったやつを持ってきてくれたのだと言う。それはいいとして、ハルヒが扇風機かついでマンション登ってくる風景を想像したら冷や汗が出た。てか、クーラーつければいいのに。
「地球環境に配慮してのことよ。有希に訊いたら、クーラーなんか年に一回もつけないらしいわよ。あんたも見習いなさい」
 そりゃあ身体の動きが極端に少ない長門だからこそ成せる業だな。
 しかし、それよりも驚くべきはハルヒが持ってくるまではこの家には扇風機すらなかったということだろう。長門家の備品が極端に少ないのは知っているが、いやはやさすがは長門と言うところか。
「それでも、だいぶ賑やかになったと思いますけどね、この部屋も」
「何回も来てるみたいなこと言うな」
 話に割り込んできた古泉はツッコまれて苦笑した。
 だいぶ賑やかになった、というのはもちろん長門が自主的に調度品を買い集めたわけではなくて、SOS団団員による寄付活動の賜物である。巨大な窓ガラスには安物のカーテンがかかっているし、部屋の隅にはボードゲームがたてかけられており、おそらくキッチンにはお茶っ葉があるはずだ。ちなみに言うまでもないが、ボードゲームは古泉、お茶っ葉は朝比奈さんの献上品である。クリスマスに五人で遊んで以後、ずっと放置されているっぽい。
「まあ長門だしな」
 栞を三年も保存していた奴だ。きっと虎だってバターになるまで保存してくれるだろうよ。
「ほらキョン、無駄話はいいからさっさと席に着きなさい」
「ん……ああ」
 俺は少しばかり逡巡してから古泉の隣にどっかと腰を降ろして、勉強道具と筆箱を取りだした。高級マンションだけあってコタツ机もそれに見合う大きさであり、五人分の勉強道具くらい簡単に広げられる。
「いい? とにかく午前中に国語と英語の半分くらいを終わらせるからね。それで午後は残りの英語と数学を三時くらいまでに終わらせて、残りの一、二時間で社会系と理科系の科目をやるのよ。これでなんとかなるわ」
 お言葉だが、どうにもならなさそうだぜ。
 なにしろ今しがた確認してみたところ、今年の宿題は本気で多いのである。一年分の教材じゃないかと勘違いするほどだ。国公立進学を少しでも増やそうとする教師連中の陰謀が見え隠れしてるね。俺は普通科文系なのでまだいいが、理数科の古泉なんか悲惨なものがある。ドンマイ。気にするな。 




 そんなこんなで勉強会は始まり、しばらくカリカリと五人してシャーペンを走らせる光景が続いた後、十時ぐらいになるとハルヒが「終わった!」と宣言しだした。まことに許せん奴である。見せびらかすように棒アイスくわえて鞄からマンガを取り出しやがるのもいちいちシャクに障る。
 ところで今、五人の前には麦茶が並んでいた。これは長門が無言で給仕してくれたものであり、ガラスのコップも中身もすべて長門印のものだ。気を遣わなくてもいいのに、空になると長門が黙々とおかわりを注いでくれるので俺はされるがままに四杯目まで飲んでリタイアし、五杯目の飲みかけが三十分弱ほど放置されていた。
 現国をなんとか終わらせたところで俺はコップに口をつけて残りを飲み干した。長門がすかさず麦茶を注ぐのを横目で眺めながら、俺は難題に向かっている仲間に目をやる。
 小論文に向かう朝比奈さんは、考えるとき口許に手を持っていくのが癖のようで、しかもその仕草がいちいち可愛らしい。宿題なんかやるより朝比奈さんを観察してた方が今日という日を有効に使えるだろう。昨日のこともあって何となく気を遣ってはいたのだが、考えてみればこっちの朝比奈さんは未来人などではなかった。
 長門はというと、無表情に正座して背筋伸ばして、手だけをひっきりなしに動かしていた。しかもその速さで書き出される文字はすべて印刷したみたいな明朝体なのだから驚きである。
 古泉についてはあえて特筆してやる必要もない。見ていても何の面白みもない、ただの男子高校生の勉強風景である。特に声援を投げかけたくもならないのだが、義理でがんばれとでも言っておいてやろうかね。
 俺もこんなことをしているヒマはないのである。次は古典だ。古文と漢文の問題集を計三冊も片づけねばならんと思うと気が遠くなるが、遠くなってるわけにもいかないので俺はシャーペンを持って宿題に向かう。
 そんなふうにして二時間が過ぎた。




 結果を報告しよう。
 午前にせっせとシャーペンを動かしてやっと終わらせたのは現国と古文の問題集だけであった。国語系でもあと二冊も問題集が残っていやがるし、英語なんか丸残りだ。一日で終わるような量じゃないことぐらい予想はしていたけどな。
 町内放送のサイレンが十二時を告げた頃、ハルヒがやおら立ち上がった。
「さ、そろそろお昼ご飯にしましょ」
 そういえばもうそんな時間である。
 と言っても、何も準備などないし外食に行くのかと思っていたのだが、なんと驚いたことに、昼飯は女子部員が用意してくれるらしかった。メニューはそうめんとスイカとかき氷。夏の風物詩を思いつくままに並べただけの、凄まじく食べ合わせが悪そうな献立である。そもそも長門宅にそうめんやらスイカやらがあるとは思えなかったのだが、尋ねてみると今日のためにわざわざハルヒが買い込んできたらしい。文芸部費で。  
「よくやるよな、あいつも」
 そんなわけで三人娘がまとめて台所へと消えた後、リビングには俺と古泉と宿題だけが残された。あまりに手持ちぶさたなので先程、何か手伝おうかと古泉と二人して台所を覗いてみたのだが、ハルヒに「食べてもらう人がいないと作りがいがなくなるじゃない」という理由で追い返された。
 古泉は腕組みして微笑を浮かべながら、
「楽しむためには手を抜かない人ですからね。涼宮さんは」
「そりゃまた、おかしな言い方だな。楽しむために苦労するってのは、なんか本末転倒な気もするが」
「そういう人なんですよ、涼宮さんは。楽しめるならいかなる苦労もいとわない。そういうわけです」
 台所からは氷を削るシャリシャリという音が洩れ聞こえている。かき氷機とシロップもハルヒの持参によるものだった。    
「宇宙人を探してるときとなんにも変わんないな。不思議を見つけるためならどんなことでもやってのけてさ」
「そういう人なんですよ、涼宮さんは」
 古泉が念押しするようにもう一度言った。
 男二人では勉強をする気にもならず、アブラゼミの声を聞きながら高層マンションの眺めを満喫していると、しばらくして「お待たせしましたー」と言って朝比奈さんが入ってきた。朝比奈さんは御盆に割り箸と五人分のめんつゆを載せていた。その後には竹ざるにそうめんを山盛りにした長門が続き、最後に五等分されたスイカを抱えたハルヒが入室する。大名行列を見物してるみたいだ。
「かき氷は台所に置いてあるからセルフサービスでよろしくね。あたしはさっきブルーハワイで食べてきたけど、すっごくおいしかったわよ」
 割り箸とめんつゆを配りながらハルヒは嬉しそうに言った。大きな机の真ん中にはそうめんと大皿に載ったスイカが配置されている。こりゃ、ちょっとした御馳走だな。 
「どれもおいしそうですね。夏にはぴったりですよ」
 スマイルを最大限に広げて感謝の意を伝えているのは古泉であり、「がんばりました」と微笑んでいるのは朝比奈さんである。確かに、夏にはぴったりな献立ではあるな。ちっとばかし腹が冷えそうな予感もするが。
 最後に長門がまったく感情のこもらない冷淡な声で、
「召し上がれ」
 と言って、俺たちは各々の席について割り箸を手にした。
 いただきます、と思わず丁寧語になっちまうくらいうまそうだった。



 はっきり言って、今日の昼食は大当たりだった。
 さすが夏の風物詩だけあって、夏に食べるとマジでうまいんである。これが。今日のメインは勉強じゃなくて食事だったと言っても過言ではないくらいだ。 
 五人で食べたからってのも一つの理由だったかもしれない。
 そうめん一玉を一口で片づける長門やスイカをちまちま齧る朝比奈さんを眺めながら、俺はなんだか幸せだった。つい昨日までの憂鬱も吹き飛んでしまうくらい。そんなもんだろ、高校生なんて。
 そんな中で開催されたSOS団かき氷早食い大会はハルヒと長門のタイマンだった。両者ともかき氷が飲み物化していたが、結局わずかな差で長門が優勝を果たした。ハルヒはよほど悔しかったらしく再戦を申し込んでいたが、腹壊すからやめとけ。ちなみに朝比奈さんはかき氷を一口食べるごとに顔をしかめていて、きっと俺が古泉に負けたのはそんな朝比奈さんに見とれていたからだろう。
 そんな感じでインターバル的食事風景が三十分ほど続いた。  
 食事の片づけ(これは俺と古泉も手伝わされた)を終えた後、俺はそのまま帰りたい気分だったが、ハルヒは容赦なく勉強を強制した。
「今日やることは今日中にやっちゃわないとダメよ。でも、苦しくてもやり終えたら明日からはまた思いっきり遊べるんだからね」
 そんな何の慰めにもなってないようなことを笑顔で言って、ハルヒはまた一人、マンガの世界へと入っていくのだった。
 ロクにできなかったけどな。
 午後にやる勉強ってのは雑念が入ってどうにも集中できん。結局この日は国語を終わらせて英語の問題集をちょっと齧ったあたりでお開きになった。残りは英数と理社、あとは小論文くらいか。まあ俺にしてはよくできた方だろうよ。
 そんなこんなで、あっという間に一日が経過した。
 


 夏の日が過ぎ去るのは早い。 
  そんなふうにして俺は元の世界と平行世界を行ったり来たりしながら、ただ淡々と時間が流れるのに身を任せていた。事態に進展はなし。常人の二倍の時間を経ながら、しかし着実に夏休みは過ぎていった。
 物語は七月を越え、八月を迎える。
 妹に教えてもらったのだが、どうやら甲子園は知らぬ間に始まっていたようだった。例年なら暇に飽かして開会式くらいは見てやるのだが、今年はそんなもんを気にする余裕もなかったわけだ。
 勉強会のあった日から二週間ほどが経過していた。といっても、それは日付上の話であるから、俺の体感時間からすると一ヶ月くらいは経過していることになる。お盆には二回田舎へ遊びに行くという珍しい経験もさせてもらった。 
  無論、お盆休みを挿んだとはいえその間にハルヒ召集が一度もないわけがない。街を練り歩いて映画鑑賞にも出かけたし、よく晴れた日にはハイキングにも行った。ハイキングの方はでっかい自然公園の湖岸をぐるっと歩くコースで踏破までに三十分とかからなかったが、ハルヒは太陽光でチカチカ輝く湖を眺めながらやけに楽しそうだった。
 バーベキューもやった。場所は山奥を流れる川の河畔。材料とバーベキューセットを満載した自転車で山道を登るのはクタクタに疲れたし、河原で火をおこすのは古泉とともに一苦労も二苦労もしたが、そこで喰った焼き肉は本当にうまかったからいいとしよう。人工の娯楽も悪くはないが、やっぱり自然の中のレジャーはひさしぶりにやると底抜けに楽しいね。男二人がせっせと焼き網に食材を補給する間に片っ端から食い物を片づけていくハルヒと長門を眺めながら、俺はやはり満足したような気分だった。長門の大食い姿が、読書と同様に平和を象徴するものだからかもしれない。
 そんなこんなで。
 とにかく何をやっていても、何を思っても、時間だけはしっかりと過ぎていくのである。
 冷蔵庫の脇にかけてある日めくりカレンダーを破るたび、俺は妙な感慨とともに焦りがじわじわ自分の身体に満ちてくるのを感じていた。ハルヒによる情報爆発、それに伴う世界の封鎖が起こるまでの時間がカウントダウンされてるみたいに感じていたのかもしれない。
 俺だって何もしなかったわけではないのだ。長門には何度も何度も情報爆発を止めることはできないのか、俺に何かできることはないのかと尋ねてみたし、自分でも何かできることはないのかと考えてみた。しかし長門は簡潔に「できない」と答えるだけであり、俺のできの悪い脳は何のアイデアも提供してくれないのだった。
 どうしようもないのである。本当に。
 夜になってベッドに寝ころぶたびに、俺は暗い思考に取り憑かれた。情報爆発はまず間違いなく起こる。そんな確信があったのである。ハルヒが宇宙人や未来人ではなく「一緒にいられるただの友達」を望んでいる今、世界がそのまま元通りになるというのはありえないのだ。世界を元通りにするにはハルヒの不思議に対する興味を回復させるしかない。ないがしかし、そんなことをして意味があるか解らなかったし、そもそも俺がハルヒの興味を回復させることができるとは思えなかった。ハルヒは以前よりもはるかに、はっきりとした「自分」というものを持ち始めているのだ。俺が手出ししてどうこうできる問題じゃない。
 そうしてある時、俺は思い立った。
 この事態の結末はすべてハルヒに任せよう、と。どういう思考と思考が絡みついてそう考えついたのかは忘れた。ただ、世界をここまで思い通りにしてきたのだから、最後の決断くらいは自分でやるべきだと思ったのである。最後の最後で、元の世界と平行世界のどっちがいいかなんて俺に振るのは、それはやっぱり無責任だ。自分でやりだしたことは自分でカタをつけるべきなんである。だからそのかわり、どっちの世界を選ぶかはハルヒに任せる。そして、結果としてハルヒがもし平行世界を選んだとしても、俺は文句なしにそれを受け入れる。そう決めた。
 ――さて。
 そんなことがあって物語があらたな局面を迎えるのはお盆休みが明け、八月も終盤に差し掛かった頃のことであった。 



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