第八章



 我々三人は、ハルヒが指定した集合場所に五分遅れで到着した。
「遅っそい! 何やってたの三人とも、もう十一時五分よ」
 いかにも服が入っていそうな紙袋を片手にさげたハルヒはやはり怒っていた。その脇では朝比奈さんがやはりオロオロした表情でオロオロしており、朝比奈さんもまた紙袋を手に持っている。おそらくハルヒに買わされた新しい衣装か何かだろう。この期に及んで。
「あんたたちね、知ってるかどうか知らないけど、この時間帯の五分は生死をさまようのよ? お昼どきは早くしないとお店があっという間に混んじゃうんだから」
「悪かったな」
 口先だけでも謝っておくとしよう。誰が一番悪いかと言えばそれは本屋でハードカバーを片っ端から読み漁ろうとしていた長門なのだが、もちろん口外はしない。ファーストフード店に長居しすぎたってのもあるしな。   
 ショックがでかすぎて思い出すのもつらいのだが、あそこでは古泉の説明に続いて長門の説明も受けたのだ。細部までは記憶していないが、要所はしっかり覚えている。ハルヒが力を失うのは二度目の情報爆発が起こった直後だ。そんな話の内容だった。
「四年前に起こった情報爆発を涼宮ハルヒの覚醒――産声とするならば、今度に起こる情報爆発は断末魔のようなもの。涼宮ハルヒは自らが内包するすべての情報を宇宙空間に放出した上で、情報改変能力を失うだろう」
 そんな感じの内容だ。
 しかし、もし仮にそうなったとして、それから世界や自分がどうなるかを長門は話さなかった。
 言いたくなかったのか、もしかすると長門にもまだ解らなかったのかもしれない。確かにこの間の電話でも、長門は情報爆発が起こってからのことについては不明としか言わなかった。もう一度尋ねてみようかとも思ったのだが、俺は話を聞きながら長門の真摯な黒い瞳に圧倒されてしまい、なんとなく尋ねる機会を失ってしまった。 
 とにかく、そういうことが起こるのである。この夏に。
 


 何も考えずにハルヒにくっついて行った先はラーメン屋だった。いや、正確に言うとラーメン屋ではなくてらーめん屋だ。店名がそうなってた。
「しっかし、どこもかしこも混んでやがる」
 実はこのデパートには食い物屋もいくつか入っていて俺らもそれをあてにしていたわけだが、食い物にはなかなかありつけそうになかった。驚いたことに正午を回る前からあちこちの店の前で長蛇の列ができあがっていたのだ。
「しくじったわ。こんなことなら目一杯遅くなってから来た方がよかったかしら」
 待つことが嫌いなハルヒは列が一番短かったらーめん屋の最後尾に並んでから、誰にともなく延々と文句を吐き続けた。店の外に用意されている長椅子には全員は座れなかったので、女三人が陣取って俺と古泉は立ちぼうけである。
「まあいいだろ、もう少し待ってりゃ確実にうまいらーめんが手に入るんだ。何をやっても出てこない宇宙人どもよりはよっぽどタチがいいぜ」
「そういうのとはまた別の次元の問題よ」
 らーめんと宇宙人を一緒にされたからか、ハルヒは唇を尖らせた。
 ハルヒの横には紙袋をひざに置いた朝比奈さんと、本屋で買い込んだ文庫本に読みふける長門が続いている。朝比奈さんの方は暗い表情で俯いており、やはり何事かありそうな気配をむらむら感じるね。結局古泉と長門からは未来関連の話は聞けなかったから、このことは朝比奈さんから直接聞かなければならないのだろう。
「これは僕の想像ですが」
 朝比奈さんの浮かない表情を観察していると、隣のハンサム野郎がまたしても耳打ちしてきた。
「涼宮さんは現実に妥協したんだと思いますよ。だから平行世界などというものを創り出してしまったのです」
 ハルヒのすぐ隣でそんなことを解説し始めるなよと思ったが、古泉のヒソヒソ声はデパートの喧噪のおかげでハルヒに届くことはなさそうだった。
 俺もヒソヒソ声で古泉に言う。
「妥協とはまた、ハルヒが一番嫌いそうなタイプの言葉だが。納得がいくまで一万回も夏休みをやり直したような奴だぜ?」
「いえ、妥協というのは言葉が悪かったですね。ようは価値観の変容です。涼宮さんの大切にするもの、いえ、大切にしようとするものが変わったんですよ。それ以外にありません」
 妙に嬉しそうな古泉の声を聞きながら、俺はプールでの朝比奈さんとの会話を思い出していた。
 ハルヒは入学当初とは明らかに変わってきている。朝比奈さんはそう言っていた。つまり、ハルヒは最近、友達と一緒に遊ぶ楽しみを素直に認めるようになってきている、と。
 おそらく、古泉の言う価値観の変容とはそういうことである。あれほど宇宙人だなんだと言っていたハルヒが、仲間と一緒にいることこそが大切なのだということを自分の中で認め始めている。
「ところが、ということでしょうね。肝心のSOS団のメンバーは涼宮さんの力がなくなったら去ってしまう、いや、不可抗力によって去らなければならなくなる。それは先ほどお話しした通りです。おそらく涼宮さんはそのことに気づいていたんでしょう」
 そんな馬鹿な。あいつは長門たちが宇宙人やら何やらだってことにすら感づいてないはずだろ。
「いいえ、理屈ではないんです。涼宮さんは超感覚的に、長門さんたちが近いうちに離れていってしまうことを感知していたんですよ」
「そんな――」
 馬鹿な、とは言い切れなかった。
 長椅子にもたれているハルヒの憂鬱そうな表情が、俺を黙り込ませてしまったからだ。ハルヒのそんな表情は飽きるくらい見てきたはずなのに、今ばかりはなんともいたたまれない気分にさせられて、俺は目を逸らすことしかできなかった。
 最近、ハルヒはよくこの表情をする。特に、一人で黙っているときに。
「そこで、平行世界です。いつまでも変わらず近くにいてくれる――いわば不変の――友達を涼宮さんは創り出してしまったんですよ。ですからあちらの世界では、僕たちの誰もが普通の人間なのです。つまり、涼宮さんに特別な能力がなくても去っていかないというわけですね」  
「…………」
 古泉の達観したような口調の話を聞きながら、俺はげんなりして床にへたり込みそうだった。一言では到底語り尽くせんような感情がどっと押し寄せてきたのだ。
 ハルヒにそんなことを思わせちまうことが情けなかったし、なんと言うべきか……残念だった。せっかく現実に向かおうとしていたハルヒの心を、俺たちが閉ざしめてしまったのである。
 それと同時に、俺はもう一つのことを悟っていた。
  ハルヒの二度目の情報爆発と、それに伴う能力の損失。だとしたら、これはハルヒが起こす最後の事件になるはずだ。さんざん世界をおかしくしてきたハルヒの最後の望みが、この事件に託されている。
「しかし、それはあまりにも――」
 かなしすぎるだろう。
 宇宙人だ未来人だと騒いで、おかしな出来事をいくらでも望み通りにしてきたハルヒの最後の望みが、「いつまでも一緒の友達が欲しい」という世の中にありふれた希望だったなんて。
 ガラスの外を降り続ける雨の勢いが、いっそう強くなった。 




 十分待ちだったか、たぶんそんくらいだったと思うが、その店で喰ったらーめんの味はよくわからなかった。鬱々としながら物を食べるとどんなものでもマズくなるという教訓だけは得たね。そういえば帰り際、レジをやってた愛想のいいおっちゃんが、「みんな可愛いけど、どれがあんちゃんの彼女だい?」と訊いてきたので俺は、「カチューシャつけた奴です」と血迷った答えを返してやった。頭が狂っていたに違いない。
 ハルヒは店を出ると、デパートの入り口まで一言も聞かずにさっさと戻った。
 早足で歩くハルヒに続いて自動ドアを抜けると、外に出たとたんむっとした外気が肌にまとわりついてきた。
 ハルヒは傘を片手にうんざりした顔を空に向けて、
「じゃあ今日はここで解散ね。また何か、やることが決まったらみんなに電話するから」
 面倒くさそうに切り上げて、傘を広げた。
 それを合図にして長門がまずひっそりと雨の中へ繰り出していき、古泉も続くように、「それではみなさん、さようなら」と言って一同に背を向けた。たぶん空気を読んでくれたんだろうと思うが、ありがたい。
 朝比奈さんはやはり俯いたまま動こうとしなかった。朝比奈さんの後ろ姿はなんかこう、足もとの崖から飛び降るかどうか迷っている気の小さいサラリーマンのような雰囲気を感じさせる。このままだと本当に飛び降りかねないので、俺は朝比奈さんに近寄って声をかけた。
「あの、朝比奈さん」
「……キョンくん。あの――お願い事があるんですけど」
 小さな呟きが前を向いたままの朝比奈さんの口から洩れた。お願い事?
 朝比奈さんはハルヒに感づかれまいとしているのか俺に顔を見られたくないのか、俺に背中を向けたまま小さな声で言う。
「明日、九時にいつもの集合場所に来てください。その……二人だけでお話ししたいことがあるんです」
「ああ……と。……やけにいきなりな話ですが」
「すみません。でも、お願いです……」
 語尾が消え入るほど弱々しい話し方だ。なんだか初恋の人に告白をした後みたいである。
 が、さすがに俺には喜びの感情は芽生えなかった。朝比奈さんのせっぱ詰まった感じからして、喜んでいる場合ではない。
「解りました。必ず行きます」
 こう答えるしかないだろう。さもなくば朝比奈さんは泣き出してしまいそうなほど不安げな声色をしていらっしゃったからな。
 ここで、やっと朝比奈さんが俺を振り向いた。
「ありがとうございます。その……無理やり決めちゃったみたいで、ごめんなさい」
「いえいえ、俺ならまったく気にしませんよ。夏休みならそこらへんの小学生にくれてやるほどありますからね」
 このあたりは事実である。
  それから二、三語言葉を交わして、「じゃあ明日の九時に駅前で」とお互いに確認して別れた。なんとなく朝比奈さんの後ろ姿が雨の中に去っていくのを見送ってから、さて俺も帰ろうかとしたところでハルヒがまだ入り口付近で立ち尽くしているのに気づいた。別に俺に話しかけてもらうのを待っているというわけではない証拠に、ハルヒは茫然と灰色の空を眺めていた。
 いつもならばいばいとでも言って済ますところなんだがな。
 しかし、今日はどうもそれだけではいけないような気がした。雨のせいかもしれないし、古泉から聞かされた話のせいかもしれない。とにかく、俺はいったん傘を閉じて、デパートの屋根の下にたたずむハルヒに歩み寄った。
「どうした」
「雨ってなんでこんなに憂鬱なのかしらね」
 ハルヒは俺には目もくれず、ただ小さく呟いた。俺も出鼻をくじかれた感じでつい雨の降る駐車場に目をやってしまう。
 ハルヒはしばらく黙り込んだ後、いきなり真剣な眼差しを俺に向けて、
「ねえキョン、正直言うとね……あたし最近、なんにもやる気が起こらないのよ。からっぽ、って言うかさ。今まで、こんなに気力がなくなったことなんて一度もなかった」 
「いきなり何を言い出すんだ」
 どこも見ていない無表情。
 いつかのハルヒを眼前に重ね合わせる俺を尻目に、ハルヒは一人語りを始めた。
「本当に参るしかないわよ。こんなの初めてだもん。なんて言ったらいいのかしら……あたしがあたしじゃなくなったみたいなの。どうしてもやる気が起こらないのよ。ねえキョン、今のあたしには何が何でもこうしてやろう、っていう気持ちが何ひとつとしてないの。きっと今のあたしなら、どんな勝負で負けたとしても楽しければ許せてしまうわ。ねえキョン、あんた信じられる? このあたしがそんなこと言ってんのよ? ねえキョン。ほんと、なんなのかしら、これ……」
「…………」 
 突然、そんなことを聞かされて俺は答えてやるべき言葉を持たなかった。ハルヒがどうやら本気で話しているらしいと気づいて、動揺してしまったのである。こいつはいつも本気だか冗談だか解らんようなことを真顔で言う奴だが、賭けてもいい、ハルヒは絶対、自分の気持ちだけは冗談にしない。
「なあハルヒ」
「なによ」
「何と言えばいいのか解らんのだが……とりあえず俺は、卒業まではしっかりSOS団にいるからな。他に約束できそうなことは何もないが……それだけは今、ここで約束してやる」
 我ながら意味不明のことを宣言すると、ハルヒは傘をひょいと持ち上げて眉をつりあげた顔を俺に向けた。
「何を言うかと思えばそれだけ? そんなの、当たり前じゃないの、だってあんたは団員第一号なんだからね」    
「そうだったな」
 ハルヒは不満げに傘をクルクル回しながら、まだ何か言おうと唇をムズムズ動かしていたが結局、「今日は早く寝ることにするわ」とだけ俺に言い残した。俺ももうちょっと気の利いたことを言ってやろうかとも思ったのだが、何を言おうか考えているうちにハルヒはすたすたと駐車場の方へと歩み去ってしまった。どうしようもない俺はせめて、その後ろ姿が人混みにまぎれて見えなくなるまで見送ってやった。
 …………。
 俺もとっとと帰ろう。                                                                        



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