第七章



 次の日(と言うべきか)の朝、俺は珍しくも自力で目を覚ました。
「なんとまあ」
 意外なこともあるもんだ。昨日はプールで疲れたために今日は絶対に寝過ごすと思っていたのだが、起きてみたら身体にはほとんど疲労感がなかった。ひょっとすると俺もハルヒ並の超人的肉体を手に入れてしまったのかもしれん。そんなわけないか。
 半身を起こして背伸びをしながら深呼吸すると、鼻孔に入ってくる空気が妙に湿っぽいことに気づいた。さらには朝だというのに部屋が暗く、ポツポツと屋根を叩く音が聞こえて、立ち上がってカーテンを開けると街はどこまでも灰色の風景である。
「雨か……」
 ガラス戸を開放すると雨音はいっそう激しさを増し、土の匂いとも何ともつかない雨の匂いを運んできた。雲は見渡す限り横たわっており、この雨はしばらく止みそうにない。
 ガラス戸をしっかり閉めきって部屋の電気をつけると、俺は勉強机に歩み寄った。放置された夏休みの宿題の傍らに携帯電話が置いてある。ここに携帯電話があるということはつまり、と瞬時に思考を巡らす。
 ここは元の世界だ。
 携帯電話に表示されている日付を見ても解る。これはプールに行ったはずの昨日と同じ日付である。
 ハルヒの話していた予定では、今日は不思議探しを開催することになっていた。まさかこの雨の中で不思議もへったくれもないだろうが、遊びに行く準備くらいはしておいた方が身のためだろう。そもそも不思議探しなんてのは名目であり、ハルヒの目的は俺たちと遊ぶことにあるみたいだしさ。口には出さないが。
「なんだー、キョンくん起きてたの? ご飯できてるよ」
 ガサゴソ着替えをしていると、妹が遠慮なく部屋に立ち入ってきた。
「ああ、わかった」
 でも、せめて兄が服を脱いでいる時ぐらいは勝手に入ってこないで欲しいものだ。世の中には常識があるんだぜと思いながらも、俺はちゃっちゃと着替えを済ませると妹とともに部屋を出た。眼前にピョコピョコ揺れる髪を眺めながら、俺は妹がこうして起こしに来てくれるのはいつまでだろうなとか考えていた。  
 


 朝食を食べ終えて部屋に戻り、手持ちぶさたな時間をひたすら持て余しているとハルヒから電話があった。
 会話文を全文掲載することもやぶさかではないのだが、めんどいので要約すると以下のような内容になる。
 雨だから不思議探しは中止。その代わり駅前の総合デパートで買い物するからお金はたっぷり持ってくるように。集合はいつもと同じ九時に駅前で。じゃーねー。
 だそうだ。
 しかしよりにもよって買い物とは、もうちっと金のかからない屋内娯楽はなかったのだろうか。と、俺が文句をつけようとしたときには電話はとっくに切れていた。無論、切れてなくたって文句なんか聞き入れてくれるような団長じゃないけどな。
 しばらく自分の部屋でゆっくりしてから、俺は玄関端にある傘をつかむと徒歩で家を出た。
 


 傘を差して小走りで駅前にたどり着くと、SOS団のメンツはみんな雨に降り込められたように駅舎の屋根の下で待ちかまえていた。
「まったくもう、頭にくるわ!」
 俺がそろりと近づいていくとハルヒはひどく憤慨している様子であったが、どうやらそれは俺に対してではなく本日の空模様に対してのようだった。その証拠にハルヒは赤色の傘を非常識に振り回しながら、いまいましそうな顔をして天を仰いでいる。
「せっかくの夏休みなのにこの辛気くさい天気は何なのかしら。せっかく街なかを歩き回ろうと思ってたのに、これはきっと天の神様があたしたちに宣戦布告してるのね。いい度胸よ、受けて立ってやるわ」
「やめとけ。負けるだけだ」
 他の団員もすでに揃っていた。  
 朝比奈さんは淡いピンク色の傘、古泉は地味な紺色のやつを、長門は家に傘がなかったのか知らないが、そこらへんのコンビニで売ってそうな透明なビニール傘をそれぞれ手にしていた。
 俺はどうしようかちょっと悩んでから、長門の制服姿に向かって小声で、
「昨日、と言っていいのか解らんが……平行世界ってところに行って来たよ。お前の言った通りみんな普通の人間だったけど、一日中プールで遊んでさ、なんというか……楽しかった」
「そう」
 長門は一瞬だけ俺と目を合わせたが、プールの内容にはそれほど興味がなかったのか、すぐに降りしきる雨に視線を戻した。
「調査に進展はないか? 何か判明したこととか」
「向こうに着いてから話す」
 確かにここでは話しづらいだろうが。 
 それっきり黙り込んだ長門の様子を見てか、隣のハンサム男が耳打ちしてきた。
「どうも、おはようございます。『機関』も遅ればせながら情報をつかみましたよ。またしてもあなただけが愉快な状態になっているそうで」
「なんだよお前は」
 天気に似合ってモノクロな服に身を包んだ古泉は苦笑して肩をすくめ、
「どうもこうも、羨ましい限りです。僕も平行世界というところに一度は行ってみたいものですね」 
「残念だが」
 そういう欲深い奴は絶対行けないことになってるんだ。大昔からな。    
 俺は古泉を一蹴して、朝比奈さんにからんでいるハルヒを眺めた。何が不満なのかは知らないが、仏頂面をして朝比奈さんの所持品チェックなどを行っていやがる。
 よくよく見るとハルヒにされるがままの朝比奈さんの方もなんだか表情が暗かった。いやいや、もちろん可愛らしいお顔なのであるが、心なししおれているというか何というか。雨の視覚効果かとも思ったが古泉は偽善者スマイルを保ち続けているわけで、これはどうも朝比奈さんに個別の憂鬱があるようだ。後で尋ねてみることにしよう。
「じゃあみんな、行くわよ」
 朝比奈さんの小物を返却すると、ハルヒが鈍い声で全員に呼びかけた。昨日とはうって変わって天気も雨なら、SOS団員の心持ちもすっかり曇天である。
 一行は傘を差して雨の中に繰り出した。




 ハルヒの後に続いて俺たちが向かったのは駅から少し歩いたとこにあるデパートだった。
 食品、衣料品がメインになっている大手のデパートだ。ゲームセンターや本屋も入っているので、俺も暇なときには訪れることがある。これといってやることのない休日を潰すにはもってこいであり、すなわち今の我々の状況に他ならない。
 雨だからか、入り口の自動ドアをくぐると広いフロアはどこもかしこも人で賑わっていた。たいした用があるわけでもない客が大半だろうが、みんな考えることは同じだな。 
 ハルヒはエスカレーターのそばにあるフロア図に近づいて内容をざっと眺めると、
「じゃあ、今からは自由時間でいいわよね。お昼はみんなで一緒に食べたいから、十一時になったらもう一回ここに集合ってことで」
 と言って一同の顔を見回した。相変わらず朝比奈さん、長門、古泉の三人はだんまりだが、俺も今回は特に文句があるわけでもないので口を閉ざしたままだ。ハルヒは誰からも異論が出ないのを確認すると、「じゃあ、また後でね」と言い残して当然のように朝比奈さんの手を引き、エスカレーターに足を乗せた。
「え、あっ、涼宮さん?」
 という朝比奈さんの動揺の声と、「みくるちゃんに着て欲しい服があるのよ」というハルヒの声がエスカレーターとともに遠ざかっていく。
 俺はその後ろ姿が二階フロアへと消えるまで漠然と見送っていたが、二人の話し声も聞こえなくなると近くにある時計に目をやった。十一時となると今から二時間弱ほどの余裕がある。いい歳した男子高校生が二時間も潰すにはこのデパートはちと設備が足りてないように思われるが、さてどこに行こうか、などと俺は考えたりしなかった。こんなところで悠長に遊んでいる場合ではないのである。
 俺は他に残された長門と古泉の顔を交互に眺めて、
「で、都合よくこの三人組になったってわけか」
 なんだか都合がよすぎる気もするね。どっかの誰かさんがお得意のチートパワーを発動させたんじゃないかと勘ぐってしまうほどだ。今さらどっちだっていいが。
 そう。さしあたり俺は、この二人に手ほどきを受けなくてはならないのである。昨日の長門の曖昧な説明だけではまだまだ解らんことが山積みになっている。
「朝比奈さんには申し訳ありませんけどね。毎度毎度、涼宮さんに振り回される役になっていただいて」
「なっていただいて、って、別に朝比奈さんは狙ってハルヒに振り回されてるわけじゃないだろ。半分くらいは素の性格のせいだと思うぜ」
 と、そこで今朝の朝比奈さんの暗い表情を思い出した。
「そういや長門、朝比奈さんは何が起こっているかを知ってるのか? 朝からなんだか気分がすぐれてなかったみたいだが」   
「未来から既に通達を受けているはず。確実性はないが、おそらく彼女の未来はひどく混乱していると思われる」
「――というと?」
「現在と未来の連続性が失われつつある」
 長門はまたしても謎めいたことを口にして目をパチクリさせた。
 なんじゃそりゃ、と言おうとしたがその前に爽やか声が割って入った。 
「まあ、まあ。何を議論するにしてもとりあえず場所を移動しましょう。立ち話で済ませるほど気軽な話でもありませんし」
 この提案には俺も長門も異論はなかった。
 古泉はその沈黙を肯定と受け取ると、フロア図を少し眺めてからエスカレーターに乗った。俺らも黙って後に続く。
 


 向かった先はデパートの一角を占めている全国チェーンのファーストフードである。  
 古泉にしてはなかなかぶっ飛んだ感じの選択だと思っていたが、よくよく考えてみればこのデパートには長居できそうな喫茶店など皆無だった。いつも行ってる駅前喫茶のありがたさが身に染みるね。どーでもいいことだが。
 店内にはチャラけてる感じのカップルや高校生らしき女子グループがいくつか見受けられたが、我々はそれらとは距離を置いて席を確保した。何も頼まないでいるのもアレなのでとりあえずシェイクだけ注文してから改めて腰を据える。
 三人ともストローをくわえている風景がしばらく続いた後、口火を切ったのは古泉だった。
「さて、いつまでもこうしているわけにもいきませんし、本題に入るとしましょうか」
 俺はシェイクをテーブルに置いて背筋を伸ばす。古泉は続けて、
「早速ですが、少し質問させて下さい。あなたは長門さんからどこまで聞いているんですかね。僕も詳しいことは知らないので、できればこの場で教えていただきたいのですが」
 俺は長門の方を見やる。お前は構わないのか? 
 視線だけの質問にショートヘアの無表情面がわずかに首肯するのを確認してから、俺は、 
「平行世界ってのが存在しているという話は聞いたぜ」
 長門との会話を思い返しながらとりとめなく話し出した。
 その平行世界とはハルヒが創ったものであること。どうやら俺だけがこの世界と平行世界を行き来できるらしいこと。そしてそこでは朝比奈さんや長門、古泉は普通の人間で、ハルヒにも特別な力はないのだということ。
 古泉は終始、真面目な顔で優秀な聞き手を演じた。理解も早いし話があっという間に進む。最近思うのだが、こいつには説明する才能よりも説明される才能の方があるんじゃないかね。
 俺は長門に「そうだったよな?」と確認を取りながら話を進めて数分後、近い将来に情報爆発が起こるかもというところまで話し終えて口をつぐんだ。
「なるほどね」
 古泉はうなずくと俺に倣って黙り込み、ひとたび三人の間に沈黙が流れた。古泉はシェイク片手に神妙な顔をしていたので、どうやら話題が尽きたわけではなさそうである。考え込む古泉を俺が目の端で観察していると、やがてその口が重たそうに開いた。
「これは本当に――」
 古泉は言葉を探すように間を空けて、 
「大変な事態ですよ」
 深刻そうな声で発音した。
「…………」
 この三点リーダは俺と長門の分だ。
 古泉にしては珍しい真面目なセリフにちょっと気圧されてしまったである。一瞬、ファーストフードにはそぐわない冷たい空気が場を支配した。長門が表情一つ変えずに俺をまっすぐ見ていたからかもしれない。
「どんなふうに大変なんだ」
「その問いには順を追って話さなければならないでしょうね。そこで僕は超能力者、涼宮さんの精神の専門家ですから、涼宮さんがなぜそのような世界を創り出したのかを披露することにしましょうか」 




 涼宮さんはいつまでも仲良しでいられる友達が欲しかったんですよ、と古泉は言った。
 とっくに飲み終えたシェイクを片手でもてあそびながら話す古泉は、すでに朗らかな顔に戻っている。
「えらくいきなりな話だな」
「結論から申し上げましたからね」
 解りやすい話し方でけっこうだが、もちろん古泉がそれで満足するわけがなく、こっから長ったらしい補足説明地獄が始まるのである。久しぶりだし、付き合ってやるとするかね。
「どこから説明すればいいのか解りませんが、そうですね……人間が基本的に変わらないものを求めようとする傾向にあるのはあなたも御存知ですよね」
「……ああ、存じてるが」 
 こいつは何を話し出すんだと思いながらもリアクションしてやる。
 いきなり解りにくい説明だが、ちょっと考えてみると日常風景にもよくあることだ。
 具体例として頭の中に真っ先に浮かぶのはクラス替えだろうな。一年間をともにしたクラスはたいてい、どんなクラスでも三月になると名残惜しくなるものさ。卒業までこれでいい、とか言い出す奴が一人はいる。同じような例では、四月からはバラバラになっちまう卒業式もそうだろうし、できることなら一生、学生でいたいと思うのも人間の心理だ。
「それで? ハルヒもやっぱり、俺たちといつまでも一緒にいたいとか思ってるってことか?」
「まあ、そういうことです」
 しかし、ハルヒほどの積極性を持ってる奴なら、どこの大学に行っても友達がわんさかできると思うけどな。
「それとこれとは話が別ですよ。一年以上をともにしてきたこのメンバーだからこそ愛着があるんです。別れたくないというその気持ちはあなたも理解できるでしょう?」
「そりゃあ、まあな」
 長門は二人の会話を聞いているのかいないのか、どこも見ていないような感じで視界全体を均一に眺めている。こいつにも愛着とかいうのがあるんだろうか。四六時中着ている制服には何かしら思い入れがありそうなものだが。 
「おそらく、二年生になって意識せざるを得なくなったのでしょう。まもなく大切な団員が一人、どうしようもない理由で活動から抜けなくてはならないということを」 
「朝比奈さんのことか」
 俺は愛らしい上級生の姿を頭に思い描いた。
 三年生である。朝比奈さんがこの夏休みいっぱいで部活からいなくなってしまうのはどうしようもないことだ。ハルヒは全員の前でこそ平気な顔をしているが、あいつが時々窓の外を物憂そうに眺めているのを、俺は知っている。
「それだけではないんです」
 古泉は言った。
「朝比奈さんもそうですが、長門さんや僕だっていつまでも涼宮さんのそばにいられるという保証はない。いえ、自らの意志とは関係なしに、無理やり引き離されるときが来るかもしれないと言った方がいいでしょうか。とにかくそういうことです」
 どういうことだ。
「思い出して下さい。SOS団というのは涼宮さんに世にも稀な力がそなわっていたために結成されることができたのです。宇宙人、未来人、超能力者がその力に呼び集められるようにね。では逆を考えてみましょうか、ということですよ。もし仮に涼宮さんが普通の人間だったとしたら。あなたはこのメンバーで構成されたSOS団などという団体ができたと思いますか?」
 断言してやる。絶対にできない。
「そうでしょう?」
 古泉は空っぽのシェイクをもてあそびながら微笑んだ。
「涼宮さんに特別な力がなければSOS団は成り立たなかった――これは過去形ですが、怖いのはこの文章が現在形にもできるということなんですよ」
「ハルヒにそういう力がなければ、SOS団は今でも崩壊しうるというのか?」
「その通りです」
 今の会話のどこらへんに興味深いところがあったのか知らないが、伏し目でテーブルの角あたりを凝視していた長門がふっと頭をあげた。ように感じたのは俺の気のせいか、はたまた俺の願望か。
 さすがにそれは寂しいぜと思ってから、俺は知らぬ間にSOS団にひどく愛着を抱いていたことに気づいた。でも、だってそうだろう。俺なりに親近感を抱いているこの五人をつなぐのがハルヒの力だけだなんて、なんだかとても憂鬱な話である。
「もちろん、僕がSOS団にいる理由はそれだけではありませんけどね」
 古泉が付け加えたが、そのあと急に冷えた表情に戻って言った。
「ただし現在、冗談抜きでそういう状況になりつつあるんですよ。つまり、SOS団が崩壊するという状況に、です」
「……まわりくどいな。何が何だってんだか、はっきり言えよ」  
 古泉は長門に確認を取るようにちらっと目をやってから、「解りました」と落ち着き払った声で答え、そして落ち着き払った声で断言した。  
 
「近日中に、涼宮さんは情報改変能力を失います」  


 フロア中に響きそうだった冷たい声は、すぐにそこらの雑踏によってかき消された。ただし、俺の頭にしっかりと焼きついてからだ。
 どのくらい経ったか、俺はとりあえず何事か言葉を発しようと口を動かしてみたのだが、声の出し方を忘れちまったのか、開いた口からは大きなため息が吐き出されるだけだった。  
 ハルヒが情報改変能力を失う――。
 覚悟はしていた。そうなる予感もあった。ハルヒの力が弱まっているという話を古泉から聞かされた時から。しかし、どうすることもできずに先送りにしていたのだ。それが――。 
 ついに。
 ついにこの日がやって来ちまったのである。



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