第四章

 

 


「キョンくん、ごはんー」
 どれくらい眠っていたのか、うとうとと浅く覚醒している意識に誰かの声が鳴り響いている。起きなければと意識の片隅で思いながらも思考の中枢はまだ寝ていたいという欲望が占拠しており、その欲望に抗うことなくぐずぐずしていると声が止んだ代わりに何かが俺の顔を直撃した。
「こらー、おーきーろー」
 子猫みたいな声をしてやがるくせに侮れない奴である。飛んできたのが枕だったからよかったが、放っておくとそのうち包丁が飛んできかねないので俺は渋々半身を起こす。と、俺を見下ろしている妹と目が合った。
「あ」
 とか何とか俺はマヌケな声を発したんだろう。 
 寝ている場合ではなかったのである。俺は床に手をついてアホみたいに口を半分開けたまま、ここはどこだと首をキョロキョロさせた。
 まず目に入ったのは俺の隣に鎮座しているベッドだった。青色の布団。こいつは俺の部屋の備品で間違いない。視線を斜め後ろに投げると勉強机があって、そこに積まれている課題は夏休み初日の姿を維持している。後ろを振り向くと背後のガラス戸から暮れかけの夕焼け空が見えた。そういえばと思って時刻を確認すればもう六時を過ぎており、俺の部屋は黄金色に染め上げられていた。 
「晩メシか……」
 なんだかすっかり肩の力が抜けてしまい、俺は大きく息を吐いた。
 「早く来てよねー」と言い残して『ごはんのうた』とともに妹が階下に消えた後、俺はまた床にごろんと転がった。夕方になったせいか、窓の外から聞こえてくるアブラゼミの合唱はだいぶ下火になり、その代わり巣に帰るカラスどもの鳴き声が夕空にこだましていた。
 ふむ。と俺は鼻で唸る。
 俺の目には部屋の白い天井が映っている。これはどうやら俺の部屋の天井らしく、部室のものではないらしい。そして、今度は時間も正常に進んでいるらしかった。刻々と暮れゆく空を見れば解る。今は午前中ではない。
 ということは、だ。
 さっきまで起こっていたおかしなことは、もう終わってしまったのだろうか。
 なんだか妙に気抜けした思いで、俺は気怠さに任せて寝返りを打った。
 あっけなさすぎる、ような気もした。午前中を二回繰り返しただけ(だけと言っていいかどうかは主観の問題だろう)で終わり、では事件と称するには少し物足りないし、俺はまだ何が起こってたのかすら解ってないのだ。それだってのにもうこれ以上はもう何も起こりませんってのはちょっと物足りんな、と欲求不満にも似た感情が芽生えてきやがって、いや俺もいよいよヤバイのかもしれん。 
 一方で俺は、アレは本当にただの夢だったのではなかろうか、とも思い始めていた。
 うむ。改めて考えてみるとそっちの方が現実味があるような気もする。なにより、長門や古泉が気づかなかったような大事件が現在進行形で発生しているとは思えなかったのだ。
 だって、そう、ほら、この窓から差す西日や、空に響きわたるカラスの無情な鳴き声、世界はこんなに平凡なのである。こんな平和な世界がもしかしたら揺らいでいるのかもしれないなどと誰が夢想しようものか。常に世界の存在基盤の不安定さを疑ってるような奴は往々にしてひねくれ者であり、俺もけっこうなひねくれ者だったが、あいにく一日中そんな不健康なことを考え続けるほどひねくれてはいなかった。安心できるものに包まれたなら、その不自然を疑わずに身を任せるのが一番さ。少なくとも今のところは、俺はまだその気概を持ち続けている。
 さしあたりこの世界の平穏たる所以を確認しようかと思い立って俺が夕飯を食べに行くべくもぞもぞ身体を起こしていると、妹の「キョンくん、遅い!」といういくぶん苛立ちのこもった声が階段を駆け上がってくるのが聞こえた。
     

 

 
 で、数十分後。
 晩飯にヒ素が混入されていたり風呂場の入浴剤が青酸カリだったりということはなく、俺は平々凡々な食事と風呂を済ませると即座に部屋に引きこもり、クーラーつけてベッドへ倒れこんだ。いったんこの怠惰な姿勢を取ってしまったからにはよほど意志が強くなければ起きあがることなど不可能であり、俺はもちろん意志薄弱だったので欲望のまま大の字になって十分間くらい天井眺めながら呆然としていた。
 ホカホカと湯気を立てていた身体がだいぶ冷めてきた頃、この手持ちぶさたな時間をどう埋めようかと思案していると、枕元に置いてあった携帯電話が突如として着信音をがなり立てた。俺は電話に出るためというよりは電子音を止めるために片手伸ばして携帯を手にする。 
 着信は谷口だった。
『おう、キョンか?』
 俺の携帯にかけて俺以外が出るわけなかろう。
『久しぶりだな。元気か?』
「時候の挨拶は抜きでいい。用件を言え」
『なんだよ冷てえな』
 冷たいもクソもない。普段ならともかく今俺は絶賛お取り込み中であり、用もないというのにお前と無益な会話を続ける気にはならんのだ。悪いがな。
 電話線の向こうではしばらく不服そうな声がうなっていたが、やがて、
『課題の範囲を忘れちまったんだ』
 とダミ声が告げた。 
 くだらんにも程がある。そんなことで、しかも今このタイミングにいちいち電話してくんな。俺はこいつに他の用件がないのを確認すると、夏休み前に教師から手渡されたプリントをさっさと読み上げてさっさと電話を切った。
 なんだか不毛な気分を植え付けられた俺が携帯電話を放り出してひたすら惰眠を貪っていると、またしても電話が鳴りだした。なんだってんだ一体。俺はベッドに寝そべったまま右手だけ伸ばして携帯をつかむと、電話の主も確認せずに通話ボタンを押した。
『明日のプールのことなんだけどさ』
 誰かと思ったら、なんだハルヒか。
『なんだって何よ。彼女か誰かから電話がかかってくるのを心待ちにでもしてたの?』
「んなわけねえだろ」
 もし俺に彼女でもいたとしたらこんな妙チキリンな団体にいつまでも所属してないね。そんでもって甘い学園生活を満喫してやる。お前なんか真っ先に着信拒否だ。
 俺が一人妄想の海へと漕ぎ出していると、ハルヒの高揚した声が一方的に喋りだしていた。
『んーと持ち物だけど、まず水着でしょ、あと充分なお金と、それから有り余るほどの体力ね、あとは……まあそんくらいでいいわ。重装備でプールに行くこともないし』
 持ち物が少ないのは助かるが、体力はもう残ってねえな。この間の合宿で海にすべて搾り取られた。たぶん今頃は太平洋あたりをプカプカと漂ってるはずだぜ。
 と俺が言う前にハルヒの声が、 
『じゃあ九時に駅前集合ね』
 と言い残して、俺の返答も待たずに切れた。つくづく身勝手な奴だ。
 俺はまたしても携帯電話を放り出すと、ごろんと寝返りを打った。
 しかし、まだ八月にもなってないってのにプールなんざよくやったもんである。そのエネルギーはどこから湧いているのだろうかね。ヤツの身体の中には原子炉が四つくらい内蔵されているに違いない。
 などと考えてから、俺はふと違和感を感じた。
 受け身で聞き流していたからまったく気づかなかったが、そういえばおかしなことがある。
 『明日のプールのことなんだけどさ』とハルヒは言った。プール?
 嫌な予感が背中のあたりを走り抜けていく。俺は身体を起こしてハルヒの電話番号にかけ直してみた。
『なによ』
「明日、プールなのか?」
『はあ? なにわけのわかんないこと言ってんのよ。部室でそう伝えたじゃないの』
「いやだから、不思議探しじゃなくて、プールなのか?」
 ハルヒの呆れ返った気配が電話越しに伝わってくる。
『プールよプール。もうみんなにも言っちゃったから今さら変更なんかできないわよ。文句があるなら部室にいるときに言ってよね。……でも、そうね、あんたがそんなにやりたいなら不思議探しを予定に入れてあげてもいいわ』  
「いや、そうじゃなくてだな……」
『うるさい。文句があるなら明日、駅前で聞いてあげるから。じゃーねっ』
 プツ。       
 勝手に切れた電話をしばし眺めながら、俺はやっぱりまだ何かあるなという不穏な気配を感じ取った。まだ、何か起こっている。事件は終わってなどない。
 俺は携帯を枕元に置いて窓際に歩み寄り、カーテンを開けて外を眺めてみた。夜はすでに街を支配しており、俺の顔を映すガラス戸ごしに街なかのネオンサインが見えた。一見、いつもと変わらぬ夜の風景である、が。
 ここはおそらく、二回目に寝たときの世界とはまた異なる時間軸を持つ世界だ。
 さっきの電話でハルヒは、明日はプールに行くと言っていた。不思議探しではなくて、である。
 もしここが二回目の続きだったとしたら、明日プールに行くというのはありえん。なぜなら二回目にハルヒが宣言したのは、プールではなくて不思議探しだったからだ。プールに行くと言い放ったのは一回目の午前中である。
 だとしたら、と俺は思う。
 ここは一回目の世界の続きなのか?
 もちろん確証などない。証明材料がハルヒの電話しかないのは明らかだ。だが、他にどう推測しようがあろうか。
「キョンくーん」
 俺が頭をひねっているとドアの向こうから間延びした声が聞こえた。俺はとりあえず思考を中断し、カーテンを閉めて「どうぞ」と返事をする。
 妹がドアの隙間から顔をのぞかせた。
「ハルにゃんたちとまたどっか行くんでしょ」
 さっきの電話を盗聴でもしていたのか、そう言う妹の声は不満そうであり、自分も仲間に入れろと言外に言っているようでもあった。
「まあな。夏休みだし」
「ずるぅい」 
 兄の交友関係に混ざりたい気持ちは解るが、ほどほどにしとけ。小学校のうちは小学校の友達と遊んでりゃいいのさ。どうせ今年で卒業なんだし。
「でもさ」
 と妹はしみじみした声を出して、
「キョンくん、三年生になったらジュケンがあるんでしょ? だったら、たくさんあそべる夏休みって今年が最後なんだねえ」
「ああ、そうかもな」
 「それって、短いよねえ」と珍しく感慨にふけったような声を出す妹に、俺は「そうだな」と適当に返事をした。たくさん遊べる最後の夏休みに何やってんだろうかね、俺は。 
 あんまり長く部屋にいられるわけにもいかないので、「八月になったら宿題手伝ってよねー」と言う妹をなだめすかして追い出すと、俺はまたしてもベッドに横になった。
 とにかく寝てみるのが一番である。どうやら寝ることで時間が巻き戻っているらしいからな。部室で目覚めたりしたら、その時はその時だ。
 まだ夜九時にもなっていなかったが、俺は部屋の電気を消して無理やり目を閉じた。
 確かに手放しで遊べる夏休みは今年が最後だが、運命はそう簡単には俺を解放しないつもりらしい。もういっそのこと気が済むまで振り回してくれ。誰の気が済むまでなのかはもはや知らん。
 やけっぱちに考えているうち、やがて意識が闇にまぎれた。 

 

 

 

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