第三章

 

 


 ところで、眠っているといつかは目を覚ますわけである。
 眠ったのにそのまま目を覚まさなかったというケースは眠りの前に「永」という字がつくときくらいで、俺はまだ死んでいない、したがって俺は目を覚ますということになる。
 そしてそれは大抵、目蓋を閉じたのと同じ場所だ。
 ベッドで眠ったらベッドで目を覚ますし、公園のベンチで眠ったら公園のベンチで目を覚ますのである。疑うようなら、自宅のベッドで眠ったら富士山の頂上で目を覚ましたという事例がいくつあるか調べてみるといい。たぶん少ないだろう。
 ようするに俺が何を言いたいかというと、夢遊病患者でない限り寝る場所と目覚める場所はイコールで結ばれるということだ。夢を見ようと幽体離脱しようと、肉体がベッドの上にあるのなら起きるのもベッドの上なのである。ああそうとも。まともな世界ならな。
 さて、俺はなんでこんな何の役にも立たない話をしたかと言えば、それはこの世界が必ずしもまともな世界とは限らないからである。まず「まとも」の定義をはっきりさせておかなければならないだろうが、まさか宇宙人製の有機アンドロイドが読書好きだったり、未来人が過去でメイドを演じていたりするような世界がまともであるとは誰にも言えまい。
 だとすれば――ここからが重要なのだが――たとえ俺が富士山頂で目を覚ましたとしても、ここがまともな世界でないというなら俺は誰にも文句をつけることはできないのである。そればかりか、頂上から自力で下山せねばならんという事態にもなりかねないのだ。 
 そんなん断ると言っても富士山頂で目を覚ましてしまったからにはもはや断りようがなく、俺が目を覚ましたときには時すでに遅し、俺はどうやら自力で富士山を下るハメになってしまったらしい。
 ところで、毎度毎度ご丁寧に俺を富士山頂まで運送してくれるのはいったい誰なのだろうかね。
 ふん。そんなん言うまでもない。
 涼宮ハルヒ以外に、そんな奴はいないのだ。

 

 

  

 眠りに就いて数分ぐらい経ったのだろうか、そろそろ俺が夢の世界に入ろうとしたとき、不意に現実世界で頬をペチペチ叩かれた。
「こら、起きなさいよ!」
 覚醒しきらない頭に声が響く。
 なんだってんだうるさい。俺はまだ眠り足りていないのである。ああいや、それとも晩飯の時間になってしまったのだろうか。しかしせっかく起こしてくれて悪いが妹よ、俺はいま食欲よりも睡眠欲の方が勝ってるんだ。だから妹よ、クタクタになるまで疲れ果てたこの兄を不憫だと思うなら、俺をもう少し寝かせておいてはくれまいか――。
 という思いをこめて俺は俺の顔をのぞき込んでいるであろう妹を見上げたのだが、そこで俺は思いがけない奴の顔を目にすることになった。
「なに、じろじろ見てんのよ。あたしの顔になんかついてる?」
「いや」
 一瞬息をするのも忘れていた俺は、今一度目を擦り、再びそいつの顔を凝視した。
 意志の強そうな大きくて黒い瞳。結ばれた唇と、なにより黄色のカチューシャ。
 いくら寝起きでボンヤリしているとはいえ、俺がこいつの顔を見間違えるわけがないだろう。だとしたらこれは俺の目がおかしいのかと、俺は充血するくらい目を擦ったのち十回ほどまばたきをしてみたのだが、目の前にいた人物はいっこうに変わる気配がない。
 そこにいたのは、どこからどう見ても涼宮ハルヒその人だった。
 ここで俺ははたと考え込む。 
 なぜハルヒが俺の部屋にいるのだ。学校だけでは俺をからかい足りなくなったのか。いや、だがそれにしても、俺には自宅においてまでこいつに安眠を妨害される筋合いなどない。ただでさえ妹のせいでろくに眠れないってのに、ハルヒまで現れたらこれはもう人権の問題である。早く訴訟を起こさなければ一週間後の新聞には「高二男子、妹らに睡眠を妨害されて死亡」とかいう記事が掲載されるに違いない。
 と、俺はハルヒに理由を問いつめようとしたのだが、まさに声を出さんとした一秒前、俺は文字通り開いた口が塞がらない事態に見まわれたのだった。   
 おかしい。
 俺は床の上で寝ていてベッドにはシャミセンが寝ていたはずである、が。 
 俺の記憶がどうかしていたのか、現在俺は制服姿でパイプ椅子に座っており、目の前には長机があり、その長机には将棋盤やらオセロ盤やらが並んでいるのだ。そして対面に座っているのは見間違えようもない、ハンサム面の古泉である。窓辺には読書人形モードの長門がいて、窓の外には青空、グラウンドの野球部のかけ声とセミの大合唱――。
 俺はさぞかしアホなツラをしていたことだろう。そりゃそうだ。俺の部屋にあるはずのベッドやら勉強机を求めてさまよう俺の視線は、ことごとくパイプ椅子やら長机にぶちあたるばかりなのだからな。どのくらいの間、虚空を眺めてポカンとしていたのか知らないがそのうち一つだけ悟ったことがあった。
 どうやらここは俺の部屋ではなくSOS団部室らしい。
「あ、キョンくん。お目覚めですか?」
 反射的に声の発生源に顔を向けると、そこにはやはり制服姿の朝比奈さんがいる。相変わらず可愛らしいが、それは今はいい。
 なんで俺は部室にいるんだ。
 俺は確か自分の部屋で寝ていたはずである。ハルヒたちと昼飯を喰いに行って、家に帰って寝た。確かに自分の家の俺の部屋で寝た。しかし目覚めたのは部室ということは、これは一体どういうことだろう。
 まさか寝ている間に空中飛行でもしたのか。いや、俺はそんな特技は持ち合わせていない。だとしたら俺の記憶が間違っているのか? そうか、それならありえる。いよいよ俺の頭が痴呆の症状を呈し始めやがったのかもしれん。いや、まてよ。しかし、それはあまりにも早すぎるだろう。俺はまだ高校生であって年寄りではない。記憶力には自信がそれなりにあるつもりだが……ああ、しかし、最近は若年性の認知症もあると聞くな……。などとアホなことを考えている場合ではなかった。
「どうぞ、モーニングティーです」
 コト、と机に湯飲みが置かれたあたりから、俺は額にうっすらと嫌な汗をかき始めた。
 なぜかと言うと、もしかすると俺は空間ジャンプさせられただけでなくさらに厄介な事態に巻き込まれたのかもしれんという予感が脳裏をよぎったからである。座標平面で考えるならх軸を空間座標とすればу軸は何だということさ。
 言うまでもない、時間座標である。
 この光景。
 ハルヒに起こされた俺と朝比奈さんのモーニングティー、そして黙々と本を読む長門と詰め将棋をする古泉。この場面はどこかで見たばっかりじゃねえか。これこそ俺の記憶に問題がないことの証明である。俺ははっきりと覚えているぞ。
 これは今朝の情景とまったく同じなのだ。
 
 ――どうやらマジに何か起こっちまったらしい。
 
 とはいえ、そこは俺である。決して名誉なことではないが、妙な事態になるのは慣れていると言っても過言ではない。そのうえ俺はあろうことかこういう妙なことを心待ちにしてたというのだから、こんなところでシロウトのように取り乱すわけにはいかないのである。
 そこで俺はこう、何か紳士的に振る舞えないものかなどと考え、とりあえず朝比奈さんの淹れてくれた緑茶に手を伸ばしてみた。飲むと普通に緑茶の味がして、しかし、その熱さが胃に染みわたっていくにつれて俺は思いだしてきた。
 そうだったそうだった。俺は今朝もこんなふうに朝比奈印のお茶を飲んだのである。ハルヒに起こされ憮然とした俺は、朝比奈さんの優しさに感動して、汗かきながらお茶を飲んだ。
 そうだ。もしこれが今日の朝だったとするなら、確かこの次は古泉が――。
「やあ、気分はどうですか。ずいぶんよく眠っていらっしゃいましたよ。三十分弱、終始気持ちよさそうな顔でね」
 ほら、やっぱりだ。ビンゴである。
 将棋盤に向かいながら話しかけてくる古泉に「そうかい」と返し、俺は今度は時計を確認してみた。八時五十七分。一分たりとも違わず、今朝と同じだった。
「よう古泉。ちょっと尋ねたいことがあるんだが、いいか?」
 手のひらで促す古泉に俺は言う。
「今日は何月何日だ」
「珍しいことをお訊きになるんですね。というと、何か特別な予定でもあるんですか?」
 嫌味な野郎だ。俺は夏休みには田舎の親戚のところに遊びに行くぐらいしか予定がねえんだとあれほど……ああいや、この古泉はまだ知らなかったのかもしれんが。
「七月二十六日ですよ。間違っている可能性は、まあまずないでしょう」
 そうか。ありがとよ。
 しかし、ということは俺はやはり過去に来ちまったのか。何らかの理由があって今日の午後から今日の朝に。
「何かあるようですね」
 ドキリとするようなことを言いやがる。教えてやってもいいが、とりあえずその気味の悪い表情をやめろ。顔を近づけるな。
 俺は極力古泉と距離を保ちつつも、ハルヒに聞こえないよう小声で囁いた。
「どうやらタイムスリップしちまったらしいんだ」 

 

 


 数分後。
 額の嫌な汗はすでに乾き始めていたが、それは決して室温が下がったからではないし、ましてや安心したからでもない。首筋の裏あたりに寒気を感じ始めたからである。
 どうも俺の思考回路は生まれつきマイナス回線に接続しやすくできているらしく、時計のカチコチいう音とともに俺はわけもなく重暗い気分を募らせていた。
「いい、みんな? 今年の夏休みは特に計画は立てずに、その紙に書いてある事項をとにかく全部消化するという目標でガンガンいくからね! ちゃんとあたしについてきなさい!」
 とはいえ、俺にはまだまだ余裕があったことも事実だった。どのくらい余裕かというと、暴走するハルヒにツッコミの合いの手を入れてやれるくらいである。 
 この状況下においてなぜ余裕があるのかと訊くかい?
 訊かれなくても答えてやる。それはSOS団の団員が全員、この部室にいるからだ。
 ハルヒはもちろん、可憐な顔に不安げな表情を浮かべて紙に見入っているのは朝比奈さんで間違いないし、自分の夏休みのスケジュールにはさほど関心がないような顔をして淡々と紙に目を落としているのは長門であり、俺の対面席で営業スマイルを維持しているのは古泉である。
 そう。俺ははっきり言って真っ先にそのことに安心していたのだ。ハルヒがいなかったり長門がいなかったりすることはなく、この部室にいるべき人間が全員いることこそが、俺の最高の精神安定剤だった。
 だってそうだろ? 誰かが欠けていたりしたら俺の不安は二倍にも三倍にも膨れ上がるだろうが、五人全員が揃ってさえいれば案外どんな状況下でも何とかなっちまうもんなのである。野球大会の時も、映画撮影の時も、雪山の山荘の時もな。俺はそんなことを、今までの経験から悟っていた。
「だから、ここで全員分の予定を訊いて暇な日にやればいいじゃないの。そんくらい頭を働かせないよ」
「悪かったな」
 と言ってから、俺はどうやら無意識のうちに誘導尋問的なツッコミをハルヒに入れていたらしいことに気づいた。いやはや、習慣というのは恐ろしいものである。かといって嬉しいというわけでもなく、きっと俺が仏頂面をしていたからだろう、何を勘違いしたのか古泉がまたヒソヒソ声で尋ねてきた。
「おや。まだ何か懸案があるようですね?」
「何もねえよ。無意識にツッコミを入れてる自分の才能が怖くなっただけだ」
 不機嫌を隠すことなくあしらってやると、古泉は「そうですか」と苦笑して顔をひっこめた。こいつは唯一、俺がタイムスリップしたらしいということをうち明けた奴であり、それに対して「『機関』からはまだ何も通達がありませんが、夢ということはないですか?」と返答した奴でもある。俺が不機嫌なのは理不尽な役割分担のせいだけではなく、そのせいでもあった。
 確かに最初、古泉に夢という単語を持ち出された時は、ああそういやそういう可能性もあったなと思ったさ。ただし、である。言うまでもなくそれは一瞬のことだった。
 なぜなら、俺がさっきまでいたのは夢の可能性など入り込む余地もないほど現実感を帯びた世界だったからだ。だいたい仮にあれが夢だったとして、それはまるで完璧な正夢であり、だとしたらそれ自体が怪しい。そんなに高確率で現実と合致するような夢があるわけがなく、もしあったとしたら、それはきっとどこかで確率を自由自在に操ってる奴がいるに違いないのである。
「こらキョン! ミーティング中にぼーっとするんじゃないわよ」
 ああ悪い悪い、うかつだった。最近、こういう状況下に立たされるとどうも思考の方ばかりが先に出ていかん。以前はわりと行動重視だったんだがな。
「だから、あんたはどうなのって訊いてるの。夏休みに予定とかあるわけ?」
「いいや、なんも」
 と俺は答えた。
 どうせ家族ぐるみで帰省すると言ったってハルヒに小馬鹿にされるのは経験済みさ。これぞ正夢の正しい利用法であろう。
「なんだ、結局みんなヒマなんじゃない」
 ハルヒはメモ帳を閉じ、シャーペンをしまって拍子抜けした声を出した。
「とりあえずお盆のあたりは休みにするとして、あとはみんないつでもオッケーってことね。解ったわ。じゃあ、やることが決まったら、その前日にあたしがみんなのところに電話するから。いいわね?」
「了解しました」
 ハルヒと古泉がどこかで聞いたことのあるやりとりを交わしているのを横目で眺めつつ、俺はパイプ椅子に座ったまま伸びをした。ちらりと見ると、やはり、朝比奈さんと長門は両者とも神妙にうなずいている。
 そういえば明日はプールだったっけと俺が意識の隅で思っていると、ハルヒは意外なことを口にした。
「じゃあとりあえず、明日は不思議探しにしよっか。みんな、よろしくね」

 

    
 
 さて。
 ミーティングが終わった後、俺が明日はプールセットを持って行くべきなのかそれとも五人分の喫茶店代を持って行くべきなのかを思い悩んでいると、長門の襟首をつかんだ状態のハルヒがやはり同じように宣言した。
「お昼、どっかで食べてからにしましょ」     
 俺は昼飯もう二回目なのだが。
 と誰かに愚痴りたい思いではあったが、ハルヒの今にも自然発火を起こしそうなくらい輝きに満ちている笑顔を見てやめにしたね。昼飯二回目だろうと不都合なんかないしな。さっき喰ったばかりなのに満腹ということはないし、ちょっと気になってサイフを確認してみると、スパゲティ代として店に支払ったはずの小銭どもはどうやってレジから脱出してきたのか見事に復活していた。だったら結果的には得したようなもんだろう。何が起こっているのかはよく解らんが、俺はとりあえずそう思うことにした。
 そんなわけで俺は呑気にも、十二時になるまで古典的ボードゲームにひたすら興じていたのだった。長門に何が起こっているかを訊いてみたくはあったが、もしこの場でそんなことを訊いたとしたらハルヒが魚を見つけた猫のように「なになに?」と興味津々で聞き寄ってくるに相違なく、俺は実は未来人なんだと明かすわけにもいかないので、長門と話すのは外に出るまで我慢することにした。
「なんかさ」
 ボードゲームを脱して五人でトランプの大富豪をやっているとき、ハルヒがしみじみとした口調で言ったのを俺はよく覚えている。
「のどかよねえ。夏休みに部室に集まって五人でトランプしてるなんて。本当に高校生のやることかしら。……なんか変な気分」
 俺の心象風景はちっとものどかではなかったが、しかし、そのハルヒの言葉には俺を黙り込ませてしまうような妙な重みがあった。
「別にいいだろ。楽しけりゃさ」
 朝比奈さんも長門もそれぞれの手札に意識を集中させており、古泉は緩やかに微笑んでいるだけで何も言う気配がないので俺がそう言ってみたのだが、なぜだかしっくりこなかった。
 理由は解らん。こういうフツーの高校生活というのがそもそもハルヒには落ち着かないものだったのかもしれないし、もしかすると俺も心中を言い当てられたみたいな気がしていたのかもしれん。ついでにその後、古泉が俺に向かって肩をすくめて見せた理由もまったく解らなかったということも付け加えておく。
 そんなふうにして、あっという間に三時間が過ぎた。
 

 

  
 時計の針が十二時を回ってそろそろ腹の減り具合が気になってきた頃、俺たちは部室を辞してちらほら下校する生徒たちの中に混じった。朝比奈さんと無理やり手をつないでいるハルヒが意気揚々と先頭、その後ろに長門、俺、古泉が続くといういつもの構図である。俺の前で小柄なショートヘアがちょこちょこ揺れる光景はついさっき見たばかりだ。
 俺はその制服をまとった宇宙人に近寄ると、声を潜めて話しかけた。
「長門。ちょっといいか?」
 音量としてはノミの足音くらいのものだったと思うが、それでも反応するのが長門である。
「いい」
 俺は長門が首肯するのを確認してからさらにボリュームを絞って、
「何か変なことが起こってるらしいんだ」
 洗いざらい全部話した。
 俺は実は今日の朝から昼までをすでに経験しているということ。何かが起こってどうやら過去に戻ってきちまったらしいということ。昼過ぎに俺の部屋で眠りに落ちたはずが、起きたのはなんと午前中のSOS団部室だったのだ、と。
 長門は俺の話を聞いた後、白皙の顔に無表情を張り付けたまま考え込むように沈黙し、そのまま足だけを動かし続けて数十秒、店が間近に迫ってきて俺がそろそろ不安になってきた頃になってようやく、ごくわずかに唇を動かした。
「解らない」
 万能宇宙人の第一声はそれだった。
「何も、か? 原因とか、誰がやったとかも?」
「感知できない」
 あっさり返されて、俺はしばらく言葉もなかった。
 ちっ。と舌打ちしたい気分だ。半ば長門をアテにしていたのだが、どうやらコトはそう簡単には運んでくれないようである。
「情報統合思念体にアクセスして探査した。でも現時点では異空間らしきものはどこにも見あたらない。時空間を跳躍した痕跡はいくつか見つかったけれど、すべて未来人のもの。あなたの記録はない。そして涼宮ハルヒや他のインターフェースが改変を行ったという形跡も認められていない」
 そんな馬鹿な。
 俺は反射的に長門の肩をつかんで俺に向き直らせていた。
「じゃあ、じゃあアレは、マジに夢だったとでも言うのか?」 
「他に仮説がない以上、そうとしか言いようがない」    
 そんな……。
 馬鹿な、ともう一度言おうとして俺は思いとどまった。長門がそんな痕跡はないというのだから、これはもう本当にないに決まっている。いくら問いつめても無駄だ。
 しかし俺は、だからといって夢だという仮説をそのまま呑み込む気にもなれなかった。
 だいたいこのあたりで俺の危険感知レーダー、ありもしない第六感が騒ぎ始めたのだろうと思う。
 古泉ならともかく、長門にも感知できない事態が発生しているのかもしれないんである。
 俺の経験からすると、そういう場合は大抵ロクなことがない。冬休みに行った雪山の夢幻の館や今年の春にあった事件もそうだった。あの時のことは思い出したくもない。
 俺はにわかに不安になって、長門の耳元で囁いた。
「今年の夏休みはループしたりしないんだろうな。これから俺が寝たりして、部室で目覚めたりしないよな」
「大丈夫」
 すぐ答えが返ってきた。
「涼宮ハルヒが情報改変能力を使う気配はない」
 そうか。そりゃ、誰のどんなセリフより頼りになる。
 よろしく頼むぜ、と俺は言おうとしたが、しかし、数歩ののち前を向いたままの静かな声が、
「今のところは」 
 と付け加えた。

  

 

 
 昼飯は二回目であり、しかも同じ店で同じメンバーだったが、それでも俺は案外楽しむことができた。というか、むしろこの状況下で食事を楽しむことができる俺の能力を誉め讃えて欲しいもんだ。こんな真似ができるのは日本中の高校生で俺だけだろうと自負しているが、残念ながらそんなことを誉めてくれそうな奴はこの団体の中には皆無であり、俺は憮然としてアイスミルクティーをストローで吸いまくっていた。
 ハルヒと朝比奈さんは飽きることなく巨大パフェに決闘を申し入れ、古泉はドリンクバーと軽めのパン、長門はワカメスープ、俺は今度はピザにした。ついさっき食べたばかりのような気もしたが、俺はたやすくピザを平らげてしまった。 
 結局ビリはスプーンでアイスクリームの山と闘っていたハルヒと朝比奈さんで、俺たちは二人を待って会計を済ませ、店から出た。
 帰り際、ハルヒが思い出したように、
「明日は九時にいつもの駅前集合だからね。午後もやるからお金はたっぷり持ってきなさいよ。特にキョン、あんたは人の二倍は持ってきた方がいいかもしれないわね」
 遅刻しなけりゃ奢らなくてもいいんだろと思ったが、明日だろうと明後日だろうとどうせ俺は遅刻するんだろう。理屈じゃなくて、そういうことになってるんだから仕方ないさ。見え透いた未来を思いやって俺は嘆息したい気分だったが、その気分が嫌な気分かどうかと訊かれればハッキリとは断言できないということも言い添えておく。
 はたして、家に帰ると玄関にシャミセンを連れた妹が待ちかまえていた。
「あ、キョンくんおかえりー。ハルにゃんたちとお昼ごはん食べてきたの?」
 ああそうだよ。お前は何だ、俺が帰宅するのをここで待ってたのか?
「ううん。偶然」
 ならよかった。もし俺とゲームをするためにソフト片手に俺の帰宅をずっと待ってたと言うなら断り方が思い浮かばなかったところだ。だから遠慮なく言わせてもらうが、しばらく俺を一人にさせてくれ。俺は疲れてるんだ。
「えーなんで? やろーよ、ゲーム」
「また今度な」
 と言って二階へ上がりかけた俺だったが、ふと思いついて妹に向き直り、試しに訊いてみた。
「そういやさ、ちょっと教えて欲しいんだが、そのシャミセンはどうしてウチに来たんだったかな」 
「んん? ハルにゃんたちが映画を作ったときに使ったのをもらったんだよねえ。ねえシャミ?」
 妹は猫に同意を求めていたが、この怠け猫は首を縦に振ることもなければ横に振ることもなく、どうやら寝入っているようであった。
「だったらいいんだ。気にしないでくれ」
「なーにキョンくん、キオクソーシツ?」
「いーや、俺の記憶は正常さ」
 おかしくなったとすればまた世界の方だ、と無言で呟いて俺は、妹に耳を引っ張られながらもまだ眠り続けるシャミセンを眺める。妹のおかげというかせいでこいつは最近ますますたくましくなってきたようで、もはや多少のダメージでは目を覚まさなくなった。そのうち腹を斬られても火をつけられても目を覚まさなくなるんじゃないかと思う。
 毎度のことであるが、今度もまた飽くことなく猫になりてーとか思い始めた俺は、本気でにゃあとか言い出して頭がおかしくなる前にそそくさと二階の俺の部屋に避難した。
 密室の状態だった部屋には蒸されたような熱気がこもっていやがり、俺は部屋に足を踏み入れたとたん出がけに部屋の換気を怠ったことを後悔した。とにかくガラス戸を全開にして空気を入れ換えたのちクーラーを効かし着替えをして、することもないのでベッドに横たわってから、どうもしっくりこなかったのでベッドから転げ落ちて床に寝転がった。視界の端には勉強机に山積みされた夏休みの宿題が映っている。今年はまさか最終日にやるなどということをするつもりはなかったが(というかさせん。無理にでも勉強の日を作ってやる)、かといって自主的にやるほどの意欲も湧かず、俺は現実逃避という素晴らしい手段を思いついて大人しく目を閉じた。クーラーの冷気で汗が退いていって心地いい。
 もう何度も寝たはずだが、俺はそれでもすぐ眠りに落ちた。
 ――今度はしっかり俺の部屋で目覚めろよと強く念じながら。
     

 

 

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