口を覆い隠すガムテープの端をつまみ、彼女の髪を巻き込まないように剥がしてあげた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫?君は、この状況の人間を見て、無事に見えるのかい?」
 そんだけ口が達者なら大丈夫だろ。
「少し大人しくしろよ。動くんじゃねーぞ……うるぁっ!」
 監禁少女の背後に回り込み、手錠の鎖を引き千切った。
「……凄い力だね」
「こんなのただのオモチャだ」
 これが警察の使うような本物の手錠なら無理だったが、ちんけな安っぽいメッキの手錠で良かった。
「……髪の毛」
「ん?」
「……髪の毛はどうなってる?」
 おもむろに彼女は自分の髪を指差した。
 そう言えば、クローゼットの下には彼女の髪と思われる長い毛が、美容院に厄介になった後くらいバサバサと散っていた。
「いや、何も言わないでくれたまえ。君の沈黙が雄弁に語っている……また伸ばせばいい。それだけさ」
 自分に言い聞かせるかのように彼女は弱々しく笑顔を作った。
 突然の救済者の登場により、彼女は些か混乱しているようだが、理解させる間も与えない。
 先ほど藤原用に購入したシャツとジャージを彼女に手渡した。
「とっとと着替えろ。俺たちは見ないでやるからよ」
「……すまない」
 小声で何か言った気がしたが、聞こえなかった事にして、藤原のと共にインテリア会社跡地から立ち去った。

 


「……藤原、これがお前の任務か?」
「……はい。恐らく、彼女を助けることが、僕の任務だったのだと思います」
「そうか。それとすまんな。お前の服だってのに、勝手に貸しちまって」
「そんなの良いですよ。今は、あの女の人が一番大事ですから」
 あの子、クローゼットから出そうと手を差し出した時、明らかに怯えていたな。手を差し伸べただけで、だ。
 条件反射に近い反応で怯えていたことから、彼女の傷の深さが窺い知れる。
 いや、簡単に理解できる事ではない。赤の他人である俺の心配など、彼女にとって煩わしいだけなのかも知れない。
「……クソが」
 俺の魂が、凄まじい早さで闇に堕ちて行くのがわかる。
 彼女をあそこまで傷みつけた存在。
 彼女の傷みを想像することしかできない無力な自分。
 その虚無感と絶望感が、俺にかつての暴力性を思い出させるには、十分過ぎた。
「手間をかけたね、君たち。もういいよ」
「……なにがもういいだ。全然良くねぇよ」
 小声で、正直な感想を吐き出した所で、俺の憎悪は全く軽くならなかった。
「誰か存じあげないが、ありがとう。あのまま夜を明かさずに済んで良かったよ」
 まだ一月の半ばであるからか、ジャージとTシャツだけの格好では寒いのは明白だ。体を震わせ、何とか寒さを凌いでるその姿は、とてもじゃないが直視に耐え難い痛々しさを感じる。
「こいつも貸してやるよ。とりあえず羽織っとけ」
「それは君のコートだろ?見るからに上質な部類の物だし、気にしないでくれ」
「いいか、こいつはお気に入りの奴なんだ。転んだりすんなよ」
 そんなことはどうでもいい。いいから甘えろ。
 渋々ながらも了承し、コートのボタンを全部閉じ、かろうじの防寒対策を取った。
 さすがに彼女の制服が丸められている紙袋には触れないで置くべきだろ。しっかりと取っ手を握り締められているし、あの中には汚れた制服の他に、自分の下着も入ってわけだから、おいそれと他人に渡せるわけがないか。
「ところで、君たちは一体どうしてここに?」
「別に大したことじゃねーよ。こいつ、藤原が迷子になっちまってさ。探してたらお前を見つけただけだ」
 俺の発した適当な言い訳に納得がいかないのか、藤原は複雑な顔で俺を見据えている。さすがに本当のこと言うわけにはいかないだろうが。
「その少年は、君の弟……にしては似ていないか。親戚の子かい?」
「そんな所だ」
「……ふーん。まぁいいか」
 どういいんだか。
「さてと、じゃあ俺たちは帰るぜ」
「え?!」
 いきなり言葉を振られ、藤原が甲高い素っ頓狂な声を上げて驚いた。俺の方が驚いたわ。
「それとこいつは俺のケータイ番号だから、後で連絡くれ。ちゃんとコート返せよ」
 さっき買い物した時のレシート裏に俺の携帯電話番号を走り書き、コートのポケットにねじ込んだ。
「……聞かないのかい?」
「聞いて欲しいのか?」
 なぜ私がこんな目にあってるのか聞かないのかって意味だろうが、聞けるわけないだろ。
「吐き出して楽になれるなら、いくらでも聞いてやるよ。だけど吐き出して辛くなるだけなら、止めとけ。俺はお前を救える聖人でもなければ、お前を傷つける外道でもない」
 こんな出会い方、俺が逆の立場だったら勘弁して欲しい。はっきり言って嫌だ。黒歴史もいい所だ。
 男の俺でさえ、だ。女である彼女にとって、思い出したくもない出来事に決まっている。
 俺が出来るのは、お前に服を貸してやれるくらいだ。
「……すまない」
「いいさ」
 藤原は少しだけ納得いかないようだが、そんなことは気にせずに、出入り口へ向かった。
「まぁ、待ちたまえ。表くらいまでは送ってくれてもいいだろ?僕だって仮にも女性だからね」
「仮にもって、どっからどう見ても女だろ。それも飛びっきりの美じ……僕?」
 今、彼女は「僕」と名乗ったか?
「俗に言う僕っ娘って奴か?変わった趣味をしてやがる」
「変わったとは酷いね。これは僕が相手と同じ目線になるための心構えだ。相手が男性なら男性の気持ちに立ち、相手が女性なら女性の気持ちになる。まぁ、癖みたいな物さ」
 それを聞き、俺は変な女だと思うと同時に、どこか可愛らしい維持の張り方だとも思えた。
 涼宮ハルヒと言い、彼女と言い、素直じゃない女の子がよく目に映るなだけど俺がラブコメの主人公になどなれるわけが無く、こいつらに対して恋愛関係が成立するとは思えない。そんな感情、二人に対して失礼だ。
「悪いが、外に誰かいないか確認しながら歩いてくれないか?あまり人に見せられる格好ではないからね」
 白いロングコートにジャージとローファーだもんな。出で立ちを気にする状況でも無いが、正直、ダサい。当然な感情であるので、俺と藤原で彼女を、少しガードするように隠しながら「開発地区」を進んで行くことにした。
 彼女の歩むスピードに合わせて足を進めること数分、「開発地区」の出口である工事看板を通り抜ける。
 直に華やかなショッピングモールに出るはず。駅のホームに着き、彼女の乗る電車が到着すれば、彼女ともお別れだ。いや、コートは後日返してもらうけどな。

 


 俺が看板の横を通ると、、藤原も看板をくぐり、彼女も看板を固定していたロープを跨いで「開発地区」から脱出した時だった。いきなりカメラのシャッターの様な短い電子音が耳に届いた。
「誰だ!」
 声を上げて周囲を見回した。
「誰だ!だって。君、カッコイイこと言ってるね」
「こいつも撮っちゃおうよ。それで学校に晒しましょ。不純異性交遊の現場だぁー!ってさ」
「ギャハハハハ!そしたら佐々木、もう学校来なくなるぜ?よし、やっちまえ」
 俺と同年代くらいの女二人と男が、こっちに携帯電話のシャッターを向けて、不快な笑みを零していた。
 間違いない。彼女、佐々木をこんな場所に監禁した奴らだ。どれくれい監禁したかはわからんが、ここに様子を見にくるくらいなら、相当な時間閉じ込めていたのだろう。
 俺は抑えていた激情を解き放つべく、拳に力を込めて、一歩踏み出そうとした。ふざけやがって。
 不意に、握り締めた拳に温かいぬくもりを感じて、背後を振り向いた。
「離せ」
「ダメだ。暴力では何も解決しない」
 佐々木だった。佐々木は俺があいつらに殴りかかる寸前、力を放つ絶好のタイミングで、俺の拳を止めた。
 筋肉に力を込め、力を伝達させるその時に、見切った様に反対の力で押さえつけられた。こうなると、重心の関係上、いくら制止している相手が女性でも、振り切るのは難しい。
 俺と佐々木のやり取りを見て、藤原は遅れて怯えの色を顔に映しだした。俺が何をするか、やっと察したのだろう。
「ちょっ!手を握り合ってるんですけど!」
「なに佐々木、あんたマジでその男が好きなの?先輩振ったくせに」
 うるさいクソ野郎共には耳を貸さず、背後の佐々木に、拳の解放を訴えた。
「いいんだ。僕のことはいいんだ。放っておいてくれ!」
 佐々木は叫ぶ様に俺に告げると押さえている力を一層強くした。どうあっても引かないらしい。
「……わかった。お前が言うなら、お前のために引いてやる。だから離せ。歩き辛い」
「……ありがとう。そしてすまなかった。君たちにまで迷惑をかけた」
「迷惑には慣れてるよ」
 藤原は水に濡れた犬の様にブルブルと首を振るわして否定した。ほらね。こいつでさえ、気にしてないだろ。だから離せ。
 それを見て、やっと解放を了承したのか、押さえていた拳を放してくれた。
「さぁ、早く帰ろうか。出口まで送ってくれるのだろ?」
 佐々木は、何も気にしてない素振りで、俺と藤原の背中を押して、笑顔を作った。
 どう見ても無理矢理顔を歪ませた様にしか見えない。
「あんた……佐々木って言ったか。悪いな。俺、嘘つきなんだわ」
 そう呟くや否や、拳を握り締め、腐れ外道三人組の男に突撃した。

「うるぁぁぁぁぁ!」

 スニーカーの靴底が、鼻っ柱を踏み潰す様に男の顔面に直撃。
 完全無防備な状態で喰らった不意打ちによる奇襲だ。男はつむじを床にぶつけ、頭と鼻を押さえて無様にのたうち回っている。
「キャァ!」
 残りの二人が女らしく悲鳴を上げたのを尻目に、男の手から放られた携帯電話を、怒りを込めて踏み潰した。
「おい、このクソ野郎。なに寝てやがる。もう少し男見せろよ」
 ブレザーの襟を掴み、男に聞こえる様に憎悪を吐き捨てた。
「どっちだ?どっちの女が頭だ?」
 最初っからこの男が主犯とは思っていない。
 根拠は、佐々木の髪が切られていたことだ。
 髪を切るなんてこと、男の場合、あまりメジャーなイジメではない。どちらかと言えば女性らしい粘着さ。恨みめいた感覚を感じる。
 こいつは恐らく実行役。頭は後ろで固まっている女二人のどっちかだ。
「答えられないのか?だったらもう二、三発ぶん殴れば気が変わるか?おい、どうなんだ?」
 その言葉がトドメになったのか、男は背後の一人、「先輩」がどうのこうの喚いた女を指差した。
「ちょっと!なに言って……ひぃ!」
「お前が頭か?エグいことするねぇ」
 頬を吊り上げ、なるべく怖がらせる様に、優しく語りかけた。
「ち、違うわよ!まさかあんた、女の子に手をあげる気!?最低ね!」
「まさか。僕は誰にだって真摯に向き合う紳士ですよ?か弱い女性に手を上げるなんてことはしませんよ。この外道がぁ!」
 握り拳を女の腹に叩き込む。
 顔を狙わなかっただけ、ありがたく思え。クソアマ。
「お前は何をしたんだ?」
 俺の暴力を黙って眺める事しかできなかった最後の一人を睨みつける。
「わ、私は何もしてないわ。そ、そう!この子に誘われて、仕方なく佐々木さんをイジ……見てただけよ!本当は嫌だったの!ごめんね佐々木さん!」
 自分勝手に今更謝っても、もう手遅れだぜ?俺の暴力に火をつけた以上な。
「女子供を傷つける奴。それの尻馬に座る奴。どれも外道だ。地べた舐めて反省しろ。クソアマ」
 膝蹴りを脇腹に入れ、その女を一撃で壁にまで叩きつけた。
「仲間売ったテメーもだ!」
 四つんばいでコソコソと姑息に逃げようとしていた男の尻にサッカーボールキックをお見舞いし、やっと気分が晴れた。
 この間、一分にも満たない数十秒だった。
 藤原は俺の暴力性を目の当たりにし、怯えを通り越して泣きだしている。
 予想通りの反応だし、何も言い訳も弁明もしないさ。そして佐々木は、
「このバカ野郎!」
 激昂と同時に平手打ちを飛ばしてきたが、容易にその手を受け止めた。
「君は最低だ!最低の男だ!なぜこんな事をした!答えろ!」
「はっ、気にいらないからぶっ飛ばした。喧嘩にそれ以上の理由がいるか?」
 なかなかキレイな平手打ちだったが、そんなのは怖くも何とも無い。むしろそうやって睨みつける眼力の方がよっぽど恐いね。
「貴様ぁ!少しでも君が良い奴だと思った自分を殺してやりたいよ!僕は何も気にしてないって言っただろ!?それをお前は!」
「お前が気にしなくても関係ない。俺が気にするんだよ。だから勝手にぶっ飛ばした。それだけだ」
 俺は俺の魂に従って外道共を沈めた。お前の意思なんか知るかよ。
「ふざけるな!暴力は暴力だ!僕が我慢すれば全て済んだのに……勝手な事をするな!」
「お前本当に進学校の生徒か?言葉の意味間違えてんぞ。笑わせんな」
「な!?どう言う意味だ!」

「お前がしていたのは我慢じゃない。ただの似非平和主義だ」

 更に強くなる眼光と腕の力。だがそんくらいじゃ俺の口は止まらない。
「我慢ってのは、その先に幸福があるから耐えられる物だろ?だけど、お前の先には幸福があったのか?あるわけないよな。幸せをつかみ取るために耐えていたいたわけじゃない。苦しみを耐えるために「耐えていた」だけだろ」
 例えるなら、ダイエットのためにケーキを我慢するとかならわかるさ。
 ケーキを食べることを我慢し、いつしかダイエットを完遂すれば、スリムになってキレイになったと言う幸福が生まれる。
 だけど、ケーキを食べないことを目的にダイエットするなんて成立しない。なぜなら痩せるのが目的であって、食べないことは目的ではない。
 少しの違いだが、大きな違いだ。
「その先に目的が無い以上、そんなのはただのマゾ野郎がすることだ。耐える事のみを美徳と勘違いし、波風立たないようにする似非平和主義。反吐がでるわ」
 佐々木の手から力が抜けていくのを肌で感じ、まぶたからは涙が溢れ始めている。
「お前は逃げても良かったんだ。逃げて誰かに助けを求めるのは、何も恥ずかしいことじゃない。……痛いなら痛いと言えよ!助けて欲しいなら這いずり回れよ!そのキレイな口と細い足は飾りか!?」

 


「僕だって、本当は嫌だったさ。でも、止めてって言えなくて言ったらもっと怖い目に合わされるんじゃないかって……」

 俯いて静かに口から吐き出されるその言葉は、弱弱しく、儚げで、どこか抑えるような攻撃性を感じられた。

 


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!怖かったよぉぉぉぉ!」
 予想以上に佐々木の泣き声は大きく、思わず耳に手を当てた。ずっと感情を溜め込んでいたのだろう。吐き出せ。好きなだけ吐き出せ。
「わた、私を、たすけ、助けてくれて、ありがとう……」
「俺は暴れただけだ。とてもじゃないが、感謝されることはしてないからな」
「それでも、軽くなった……だから、ありがとう。あなたのおかげね」
 不意に変化した女言葉。
 その涙に濡れた微笑。

 それら全て、目眩の症状を訴えるほどに可愛かった。

 だから俺は、佐々木の頭を優しく撫でながら、こう返した。
「よく頑張ったな」

 

 

「何から何まで世話になったね。この礼は、いつか必ず」
 泣き止んだ佐々木は、「ここで閉店だ」と言わんばかりに女言葉を元の癖に戻してしまった。
 っち、もったいない。あのままだったら、マジで涼宮ハルヒを超える程に可愛かったのに。まぁ、たまに戻るからこそ良いのだろう。だけどなぁ……
 そんなこんなで駅の外に出た頃、もう完全に月が世界の主役に躍り出ていた。
「おお、楽しみにしてるぜ」
 貰える物は貰っておきましょう。もったいないですから。
「ああ、それともう一つ。確かに僕は君の暴力で救われた。だが、そのことに関しては、僕は君を許容できない。だからもう、自分と相手を傷つける行為は止めたまえ。それだけだ」
「俺だって止めたいさ。だが、約束はできない。俺は……火が着きやすいんだよ」
「くっくっ、損な性格だね」
「今更だ」
 その言葉が合図だったかのように、光陽園駅のロータリー前に一台のタクシーが到着した。
 市外にある進学校の制服だったから、てっきり実家はそちら方面だとばかり思っていたが、実は佐々木の実家は西宮市周辺、意外にも近所にあるようだ。
 案外、北高に知り合いなり友達なりがいるのかもしれない。機会があったら聞いてみるか。
「それじゃな。佐々木」
「あぁ、君たちも」
 さてと。俺たちもそろそろ帰らないと。晩飯が冷めちまう。まぁ、その前に。

「藤原、正直に答えてくれ。俺が怖いか?」
 さっきからほぼ無言で、俺と佐々木の後を着いて来るだけだった藤原に、言葉をかけた。特に抑揚をつけたわけでもなければ、変な声色で言ったわけでもない。普通の、普段通りの声だ。
「……はい、怖いです」
 藤原もまた、いつも通り、普通の声の張り方で話した。
「それが正常だ」
「でも、悪い人ではないと思います」
「そうか」
「はい」
 俺は、これからも、拳を振り上げ続けると思う。
 だが俺は、俺の中の悪を倒すためにしか闘わない。
 暴力でしか答えを出せない俺も悪だが、悪にしか倒せない悪がいる。そいつらを倒すためなら、俺はいつだって悪になってやる。

それがあの改変世界で、俺が考え出した答えだ。

「帰るぞ、藤原」
「はい!」

 

 

 久しぶりに暴力を剥き出しにしたからか、次の日、俺はいつもより明らかに気が抜け気味にダラけきっていた。
 あれだな、やっぱり俺にシリアスは重すぎる。こう、日常を淡々と過ごすような、まったりとした毎日を送りたい。さらに、そこへ恋愛要素が加われば言うこと無しなんだが。
「あんたって、大人しくてもキモいわね。なに?なんかエロい妄想でもしてんの?」
 涼宮ハルヒの筋違いな勘違いを聞き、ドッと疲れが押し寄せて来る。ここはあれだ。誰かさんらしく、あれをやろう。
「やれやれ」
 言って見た物の、大方の予想通り、大して気分が向上しなかった。だったらなんであいつは毎回毎回連呼してるんだ?余計気分が滅入りそうだ。
「ちょっと太陽、あたしの前でキョンみたいに溜め息吐かないでちょうだい。なんかイラッと来る」
「そうかい。やれやれ」
「また。いい、太陽?溜め息を吐くと幸せが逃げるって言うのよ。まぁ、あんたの幸せなんてたかが知れてるけど、それでも既に二回も逃してるのよ?もったいないと思いなさい!」
「あーそうだね。もったいなーい。もったいなーい」
 たかが知れてるとは結構な言い草である。俺の何を知ってるんだか。
「ムキー!なんかすっごい腹立つ!次、溜め息吐いたら死刑だからね!」
「キーキーと。プリンやるから静かにしてくれ。それとも何か良いことでもあったのか?」
「判決、死刑!覚悟しなさい!太陽!でもプリンは貰うけど!」
 俺の持ちかけた司法取引を無視した上で、賄賂だけを掻っ攫いていきやがった。本当ならスキャンダル物だ。
 涼宮ハルヒは怒りの炎を瞳に宿して冷水入りのグラスを手に取った時、その怒りを制する絶好のタイミングで、俺の携帯電話が着信を示した。
 携帯電話のディスプレイには、見憶えのない11桁の電話番号。
 同時に、藤原を押し付けた女性の声が頭に響き、一瞬だけ身構えたが、よく見るとあの時映し出された電話番号とは、明らかに違う数字である。
 あの人が違う電話で掛けてきた可能性もある。だが、別の可能性も思い当たった。
「はい、もしもし」
「ふむ、やけに無反応が長かったから、もしかしたら間違い電話を掛けてしまったと解釈しかけたが、無事に君が出てくれて良かった。僕は人見知りをするからね」
 電話相手は佐々木だった。
「すまんな。ちょうど昼飯を食べていて手が離せなかった。うちの食堂の飯はうめーぞ。急ぎの用事か?」
「いや、大したことではあるが、急ぎの用事でもない。ゆっくり食事を堪能してくれたまえ」
「そうさせてもらう。後で掛け直すわ。じゃな」
 そこで通話を終え、食堂のテーブルに広げられた昼飯を食べる作業に戻る。つっても八割方片づいているし、そう時間もかからないはずだ。
「誰?まさか、友達?」
「まさかとは結構な言い草だな。まぁ、そんな所だ」
 出会ってまだ一日も経ってないが、涼宮ハルヒにそこまで説明しなくても良いか。
「あんた、友達いたんだ。意外。超意外。意外過ぎて気持ち悪い」
「お前にとっての俺って何?もう、何をしてもしなくても気持ち悪いの?死ねってか」
「いや、多分死に様も気持ち悪いから、死なないで」
「どんなに好意的に解釈しても、絶対ツンデレじゃないよね!?なんで俺の相手する時だけ、ツンデレ属性捨てるんだよ!ツンデレが無理なら、せめて普通につっこんでくれ!」
 ツンか!ただのツンか!?希少価値もギャップも全く感じねーよ!
「うわ、本当は構ってほしいだけだったの。もう思考が小学生よね」
 そりゃぁ、まぁ。あの金髪ピアスだって、それが目的だったわけだし。うん、マジでガキだな。カッコわりぃ。
「背も低くて、軽く童顔だし、明日からランドセル背負ったら?そしたら購買までヤキソバパンのお使いに行かせてあげるわ」
「パシリ!ただのパシリ!」
『おやおや~?はたして太陽君は、無事にヤキソバパンを買ってこれるのかな~?』
「初めてのお使いなら、せめてカレーの材料とかを買わせろよ。なんで完成した料理買わせに行くんだ。親の愛が微塵に感じねーよ」
 そんな初めてのお使いは嫌だ。
「あたしが食べたいからよ」
「しかも自分のためかよ。そこはせめて子供と分け合え」
「あんたには「ヤマザキ春のパン祭り」の三点シールを譲ってあげるわ。それで使いにくい小粋な皿でも貰いなさい」
「不平等条約過ぎる!ペリーだってもう少し日本に優しかったわ!」
「所詮この世は弱肉強食。それがこの世の摂理」
「摂理でも拙者はゴメンでござる!」
 ……いや、本当は志々緒の方が好きなんだけど。
「ごめん、実はあたしは武装錬金派なの」
「……振っといてそれは無いだろ」
 そんなこんなで、本日の無駄話、終了。

 


「待たせたな佐々木。で、どうした」
 無駄話を終え、いつしか日課になっていた昼食後の屋上での深呼吸をしてから、改めて佐々木に電話を掛け直してみた。
「先ほど述べた通り、ただの雑談みたいな物さ。むしろ、報告かな。うん、それが一番近いか」
 ……報告?
「昨日、君が暴力を与えた三人を覚えているかい?」
「忘れたいね」
「ならば、これを最後に忘れてくれ。実はあの三人、朝、教室で僕に絡んで来たよ。どうやら僕で鬱憤を晴らすつもりだったようだ」
 佐々木の声は昨日とは違い、若干明るい。おそらく、次に続くのは吉報だろう。
「……僕は君に言われた通り、耐えるのを止めたよ。「そんな暇があったら学年末試験の対策でもするべきだ。話しかけるな、底辺」と言ってやったさ」
「ハハッ、底辺か。それで?」
「それだけだ。それっきり、彼女らは僕から立ち去った。あぁ、スッキリしたさ」
 多分、俺へチクらせないために、佐々木に絡んだのだろう。
 あの三人のビビった顔が頭に浮かぶ。今まで何もしなかった佐々木が、いきなり豹変して言葉の牙を剥いたんだからな。元が根性無しのヘタレ共には効果的だったのだろう。まぁ、俺が後ろに居るってのもあるが。
「僕はさ、この世界でイジメはなくならないと思うんだ。どんなお題目や弁論を振りかざしても、それが事実だ。なぜなら弱者を倒し、征服することは、人間として当然の欲求だからさ」
 もう何十年とイジメはいけないことだと言われ続けて来たが、それでもイジメが「完全」になくならないのは、それが「欲望」だからだ。
 悪いと言われることだからこそ、人間は、やりたがる。俺たちは本当に下らない存在だよ。
「そんな征服欲をぶち壊し、僕を救ってくれたのは、君だ。無骨で、スマートとは言い難いやり方だったが、救われたのも事実だ。ありがとう。 この言葉を、どうしても伝えたくてね」
「忘れたのか?俺は自分勝手に暴れただけ。感謝される言われは無いさ」
「だから僕は、自分勝手に感謝してるのさ。それなら文句は無いだろ?」
 その瞬間、思わず笑いが吹き出て来た。
「あぁ、その通りだ」

 


「ところで、君はどこの高校へ通学しているんだ?それとも、もしや中卒者かい?」
「んなわけあるか。ちゃんとした高校一年生だよ」
 さすがに高校は卒業しとかないと、就職が難しすぎる。本当、中卒で働いてる人達って、マジで根性あると思うよ。
「どこの高校だい?いや、特に深い意味は無いが、すこし気になってね」
「普通の県立、北高だよ北高校。ここら辺に住んでるなら、場所くらいわかるか」
 特に隠しだてする理由も無いし、正直に答えた。が、
「北高……それは本当かい?」
「おいおい、俺の学力は意外とあるんだぜ?金が無いのと近いから北高を選んだけど、頭だけなら、もう二つ上の高校に行けたんだ」
 本当は、それと内申点の問題で行けなかったのだが。
「いや、そう言うつもりで言ったわけじゃ……そうか。北高か」
「……どうかしたか?」
「何でもないさ。こっちのことだ」
 少し引っかかるが、まぁいいか。
「それじゃ、そろそろ授業が始まるから切るわ。じゃな。佐々木」
「あ、ちょっと待ってくれたまえ」
「どーした?」
「その……なんだ、また、こうやって……僕の話を聞いてくれないか?……たまにでいいからさ」
 電話越しだから佐々木の顔が見えないのが非常に恨めしい。なぜTV電話で掛けなかった俺!
「そこはあれだ。お前の黒歴史になるくらいに可愛く振舞ってお願いって言えば……」
「…………ぁ?」
 あれ?いつの間に電話相手がヤンキーになったんだ?
「おっと、これはヤバい雰囲気だぞ」
「さよなら……永遠に」
「ごめんなさいごめんなさい。調子こきました。だからまた電話ください。むしろ友達になってくださいごめんなさい」
「……仕方ないね。友人の少なそうな君の頼みだ。特別に答えてあげよう」
 やっりー。さっすがささきさんだ。ふところがふかーい。あれ?でもなんか発音のニュアンスが違うよね。
「答えはNoだ!」
「Noかよ!そっちに答えるちゃった!傷ついた!胸にこたえた!」
「まぁ、僕も友達が少ないし、君の提案には乗ってあげるよ。これからもよろしく、太陽」
「あぁ、よろしくなサキ」
「それではま……サキ?なんだその愛称は。そこはせめてファーストネームをもじってくれ」
 愛称の設定には賛成のようだ。絶対つっこまれると思ったんだが。
「いや、俺、お前の下の名前、知らないし」
「そう言えばそうだったね……僕は逆に、君の苗字を知らないのだが」
「西野だよ」
「平凡だね。しかし「にしのたいよう」か。それは「バカボン」の歌詞にある「西から登ったお日様が~」と関係があるのかい?」
「関係ねーよ!……多分」
 いや、あの母だからな。バカボン世代だし。
「僕のファーストネームもありふれているが……」
 本人の前置きどおり、確かにありふれた平凡な名前だった。
「平凡だな。大して面白い奴が思い浮かばんし、サキで良いや」
「む。……まぁ、好きに呼びたまえ」
「ならやっぱ「ササッキー」で」
「それは止めてくれ!中学時代、不本意にもそれがあだ名だったから!」
 なかなかハイセンスなネーミング技術を持つ人が、佐々木の中学時代にいたようだ。
「ちっ、二番煎じはつまらんし、「ササッキー」は御蔵入りか」
 ほんじゃ当初の予定通り、佐々木はサキと呼称しよう。
 しかし「ハル」と「サキ」か。奇しくも二文字で呼びやすいあだ名だな。
「それじゃな、サキ」
「あぁ、太陽」
 佐々木は昨日に比べ、幾分か明るくなっていた。いや、ここは戻ったという表現が正しいのかもしれない。
 小難しい変則的な語り口ではあるが、中身は結構普通な女の子のようだ。
「うぉ、寒い。早く教室戻るか」
 寒風が身体を突き刺し、皮膚の下まで冷やしていく。このままじゃ風邪引いちまう。あーさぶさぶ。

 


「よく、こんな寒い所に入られますね。自家我慢大会ですか?良い趣味しているのです」

 


 屋上出入り口の扉を解放した瞬間だった。
「……ここが落ち着くんだよ。一人ん時はな」
「あー、わかるのです。何とかと蹴鞠は高い所が好きですからね」
 謎の少女の頬が吊りあがり、うまい事言ってやったと言わんばかりに、ニヤニヤと勝ち誇っている。
「蹴鞠?……あぁ、煙のことか。なんで平安時代の貴族が好む遊びで使われた道具とバカが同列なんだ。どっちがバカだ」
 ボッと、目の前に季節外れのリンゴが現れた。
 なんだこの女?挑発なら、もっと小粋な台詞回しでカッコ良く挑発してくれ。俺までカッコ悪く見えるだろうが。
「い、今のは西野君のボキャブラリーを試しただけなのです!ふわぁ……どうしてこうなるのでしょう」
「俺が知るかよ」
 真新しい北高のセーラー服に身を包んではいるが、どうもあまり着慣れていないらしく、リボンやスカートの裾を何度も弄っている。
「誰だおま……ふぃっくしょん!」
 この物語は架空の物であり、実在する団体、地名、及び名称とは一切関係ありません。うーん、さすがに身体の芯まで冷えてやがる。鼻水と唾が光ってら。汚ぇ。
「ぬぁぁぁぁ!汚い!汚いのです!うぅぅ、初めてのセーラー服がぁ……」
 すまんすまん。それとやっぱりなんちゃって北高生か。
「……ぬん!あぁ、スッキリした。誰だお前?」
「なんですか、その鼻をかいだついで感丸出しで投げやりな質問は!あたしは、もうちょっと普通な対応を要求するのです!」
 ここら辺で若干面倒になってきたので、取り敢えず見なかったことにするべきか。そうだな。そうしよう。
「って、待つのです!あたしのことに興味無しですか!?気になりません?謎の美少女が、あなたにつっかかってるのですよ!?ホラホラ!学園伝奇ラブコメストーリーの導入部みたいで燃えません!?」
「美少女じゃなくて微妙女だろ」
 自分で美少女なんて言う女は微妙だ。
 もっとも、俺基準で言えば、彼女は充分美少女の部類だが。光の加減で少しだけ明るく見える黒神のロングヘアーのおかげで活発な印象を受ける。ツインテールなんか似合うんじゃないだろうか。言ってやらんが。
「誰が微妙な胸をした少女なのですか!」
「んな事、一言も言ってねーよ。自分で弱点晒すなんて、どこの親切設計バトルマンガだ」
 本当さぁ、相手に自分の能力を逐一解説するなよ。そいつが生き残ったらどうする。タネのばれた攻撃能力なんて当たるわけねーだろ。
「大体、あんなの邪魔なだけなのです。朝比奈みくるは、あの胸だから運動神経が無いのです。絶対」
「……さすがに運動神経はあるだろ」
 タコじゃないんだから。いや、タコにもあるだろうけど。
「それなら、今度拉致して確かめてやるのです。こう、1.21ジゴワットの電流流して」
「禁書も無いのにフランケンシュタインが造れるか」
 その復讐は誰の物でも無い。
「うぅぅ、何食べたらあんな風になるんでしょう?それともまさか遺伝!?はぅぅ……絶望的なのです」
「所詮無い物ねだりだな。それなら俺だって身長欲しいわ」
「無いとか言うの止めてください!今は打ちのめされてナーバスな時だから、そう言う言葉には敏感なのです!」
 望めるなら、あと8センチほど。せめてギリギリ170代には入りたかった。煙草止めたから伸びないかな。もう遅いか。
「どうせ西野君だって、おっきいのが好きなんでしょう。ふん、これだから男は」
「そりゃぁ、見る分には十分楽しめるけど……どうだろね。あんまり気にした事無いな」
 どんなに外見が良くても、それで惹かれるのは、ただの偶像崇拝みたいなもんだし。
 世に出てるアイドルが可愛いって思えても、それはやはり自分とは一個先の世界であって、現実味が湧かないんだよな。
 まぁ、そのアイドル達だって、俺たちの事をそう思ってるかもしれないが。だからあんな風に人前に出る事が苦じゃ無いのかもな。
「それでもスタイルが良い事に越した事はないのでしょう?」
「今、俺が考えた事、丸ごと無視すんな!」
 そりゃそうだけど!俺だって思春期のガキだし、好みのタイプはいるけど!お前には伝わってないが、大したことじゃないって言ったから!心の中で!
「ほらやっぱり!あーぁ!西野君なんか死ねばいいのに!」
「どんだけ卑屈になるんだよ。……俺としては、お前みたいな女の子は結構好みなんだが」
 会話のキャッチボールが弾んでるし。会話を大事にする俺としては、この上なく楽しい相手だよ。お前は。
「えぇ!?……あ、その、ありがとうなのです」
 さっきまで披露していたハイテンションとは正反対に、いきなり照れて、意気消沈してしまった。
「お前、何のために出て来たんだよ」
「……そんな、いきなり言われても……そりゃぁ嬉しくないわけじゃないですけど……」
「うぉい!」
「へぐぅ!」
 勘弁してくれ。
 無駄話だけが円滑に滑り、本題は全く進んでない。本当、何のために出て来たんだ。
 提示すら拒否してる俺が言うのも変だけどさ。
「そうだな。俺としてはここまで楽しく無駄話が出来て、とても面白かった。よって、あなたの正体を聞く事にしよう。誰ですか?」
「と言うより、ここまで無駄話しないと本題に入らせてくれない事に驚いたのです」
 至極真っ当な指摘である。いや、だって楽しかったし。むしろ本題なんか どーでもいい。

 

「では気を取り直して……フフフ、北高セーラー服に身を包んだ美少女の姿は仮の姿」
 まだ美少女推すか。確かに美少女だけど、それ以上に微妙な少女だ。
「あたしの名前は橘京子。佐々木さんに選ばれた超能力者、らそれが本当のあたしなのです!どうですか!」
 聞くんじゃなかった。色んな意味で。
「わー、凄い凄い。超能力者なら、あそこから飛んで」
「なんで屋上の手すりを指差して言うのですか!無理なのです!そんなこと出来ないのです!」
 橘京子は、あたふたと小動物のように身体を強張らせた。
「うぅ、西野君って、噂通り無茶振りな人なので……あぁ!」
 橘京子の注意が俺から逸れた瞬間、一気に駆け出した。
「ま、待つのです!まだ話が!」
「こっちは話す事なんてねーよ!じゃあな!」
 とにかく、全力で振り切れ。考えるのはそれからだ。

 


 階段の手すりを飛び越えながら、一目散に一階まで駆け下り、数秒後には橘京子の姿を視認することが不可能になった。
 教室に戻った所で、橘京子に見つかるに決まっている。さすがに俺のクラスくらいわかってるだろうし。
 考えた結果、昇降口に到着した。仕方ない。今日はサボるか。
 上履きを革靴ではなく、運動靴に履き替え、そのまま下駄箱を後にした。 原チャリで街まで行けば、とりあえずは捲けるだろう。
「だけど、今日はそれでいいが、明日はどうしよ」
「あー!いたのです!」
 橘京子の高い声が耳に届き、慌てて背後を確認する。
 彼女は昇降口の上に仁王立ちしながら、俺を指差していた。片手に携帯電話が握られており、おそらく、あれで俺を探していたようだ。
 だが、そんなことよりも、俺の中にある気配りセンサーとツッコミ技術が警鐘を鳴らしている。ここは言ってあげた方が良いよな。つーか俺が困る。
「……なぁ橘。お前、今、自分がどんな格好してるか、わからないのか?」
 そう。橘京子の服装は、現在北高セーラー服である。セーラー服、つまりスカートのわけであり、さらに本日は風が強い。
「……勘弁してくれ。見てるこっちが恥ずかしい」
 見てるつーか、見えるわけで。
「ぬぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 微妙な美少女の羞恥の叫びが、広大な寒空に拡散した。うわ、橘京子の頬が、下着の色と同じだ。
「み、見られた!西野君に汚されたのです!」
 今更遅いが、橘京子は羞恥を露わにしてスカートを両手で抑え込んで、涙目で訴えている。
「人聞きの悪いこと言うなよ……まぁ、その、なんか悪かった」
 いや、特に悪いことをしたわけではないが、なんか凄く罪悪感を感じる。
「うわぁん!バカぁ!」

 


 つむじに強烈な鈍痛が走る。

 


 涙を空に零しながら、橘京子は昇降口上の屋根から飛び降り、体重の乗った綺麗な軌跡で、脳天にかかと落としを頭に振り下ろした。
「……ハァハァ、あたしを怒らせたらどうなるか、わかりましたか?本気を出せば、西野君ごとき、一撃で……あれ、西野君?やられたフリですか?……に、西野君?西野君!?……大丈夫。落ち着くのです京子。とりあえず落ち着いてデロリアンを……って!あたし免許無かったのです!ど、どうしよう!あの嫌身上司に怒られるのです!とにかく救急車を呼ばないと……救急車ー!いやいや!違う違ーう!と言うより、なんで一人でボケてるんですかー!」

 

 


 太陽は落ち始め、店内に流れる穏やかな有線放送が雰囲気の良さを演出している喫茶店の中に、オレンジの光りが差し込んでいる。
「…………」
 痛み続ける脳天をさすり、ついつい、橘京子を苦々しく睨んでしまう。
「その、ごめんなさいです。少しやり過ぎました」
 確かに下心が無かったわけじゃない。微妙な美少女橘京子のパンチラハプニングに「ラブコメ来たー!」と思わなかったかと言えば嘘だ。
 かと言って、下校時間まで気絶させられるような事かよ。俺、そこまでヒドかったか?
 気絶していたので橘京子の又聞きではあるが、あの後、彼女は俺を保健室まで担いで行ったようだ。
 病院連れてけよ。と言ったが、「病院だと障害事件になるので、嫌なのです!」と逆に訴えられてしまった程だ。
 嫌なのですじゃねー!現に障害事件だろーが!実際、打ち所がズレてたら打撲じゃ済まなかったらしいじゃねーか!後で校医さんから聞いたんだからな!
 目を覚ましてからは、厄介ごとに巻き込まれないよう、即座に原チャリで帰宅しようと思ったが、駐輪場にいたのは橘京子だった。
 嫌な予感しかしなかった俺は、無視して帰宅しようとしたが、そこは謎 (今更謎でもなんでもねーよ。ただの残念な女だ)の微妙女。どうやって手に入れたんだか、俺が愛用している原チャリの合鍵を所持してやがった。
「あたし「達」の話を聞いてくれないと、これからずっと着きまといますよ!どこに行っても後ろから「話話話話……」って呪いのように連呼するのです!」
 痛い。頭と合わせて痛過ぎる。俺も彼女も。
 どうせ話を聞いても着きまとうだろうが、聞いてやった方が回数は減るはずだ。
 よって、渋々と承諾を受ける事にした。払いはお前「達」が払えよ。それぐらいはしてくれ。
「あ、ストロベリーサンデーが来たのです。いただきまーす。うんうぅん、むにゃむにゃむにゃむにゃほわわわわぁ~」
 唇を突き出してデザートスプーンを舐め回すその姿は、まさしくヤギだった。橘京子はあれか?脊髄反射だけで生きてるのか?
「……橘、お前、本当に話すことあるのか?」
「待ってください。あたし、糖分無いと何も出来ないのです」
 とんだジャンキーだった。
「橘ぁ!」
 もうめんどくせぇ!
 橘京子が堪能しているストロベリーサンデーカップの足をつかみ、彼女の手から取り上げる。
 そのまま一気に俺の口元まで持って行き、食道に流し込んだ。
「にゃぁぁぁぁぁ!?」
 猫の悲鳴によく似た橘京子の叫びが耳に届いたが、そんなことは気にせず、水で胃袋に押し込めた。あぁー、頭痛ぇ。
「もう勘弁してくれ!こっちは本人すら知らないダチの秘密を知りかけて、マジで気が狂いそうなんだ!話すことあるならとっとと話せや!余す事なく聞いてやるよ!だから真面目に話せや!」
 佐々木に選ばれた超能力者?正直、聞きたくねーよ!
 あいつは普通の女だと思ってた俺の固定概念を、いきなり崩壊させんじゃねー!
「もう俺はサキを普通の人間に見れない。これがどんなに辛いことかわかるか?ダチに隠し事なんかしたくないってのに」

 必要な秘密なら黙るさ。

 それでも、欺くことに罪悪を感じないわけがない。

「……わかりました。それでは本題に移らせてもらうのですが、西野君にとって、聞き苦しいことかもしれません」
「口と耳のウォームアップならできてるよ」
 後は心の問題だけだ。
 橘京子は出で立ちを整え、ナプキンで口周りのクリームを拭いてから、瞳に力を込めた。その緊張感は、さっきまでのハイテンションとは真逆で、別人とすら思える程だ。
「西野君、閉鎖空間は知ってますよね?」
「ハルがストレスを発散するためのハタ迷惑な遊び場。だったよな」
 灰色の空と、青カビ色の巨人達。
 改変世界での光景は、記憶が色褪せ始めた今でも、恐怖と畏怖しか感じない。
「その閉鎖空間なのですが、それに良く似た空間を、佐々木さんが持っているのです」
「……マジかよ」
 全身に重い虚脱感が駆け巡る。
 俺は喫茶店の天井を仰ぎながら、現実逃避ができないかと、バカな事を考えていた。
「……西野君?」
「悪いな橘。このまま聞かせてくれ」
 そんなこと、聞きたくなかった。何度も言うが、俺は佐々木を普通の人間と思いたかったんだ。

 

 甦った母。

 

 神に等しい力を持つ涼宮ハルヒ。

 

 世界を壊し、創り直した長門有希。

 

 元の世界を望み、全てを変えたキョン。

 

 俺を殺し、もう一度世界を壊そうとした朝倉涼子。

 

 そんな俺を守ると言った喜緑江美里。

 

 俺を頼ることしかできない藤原。

 

 使命のために死命をかけて涼宮ハルヒを盲信する古泉一樹。

 

 そして橘京子。

 

 改変世界から帰還した俺を出迎えたのは、全て「異常」だった。
 俺はそれでも良いと思った。「異常」であることが「正常」なら、受け入れるべきだと。
 なぜなら俺には選択権は無かったのだから。
 そんな中、出会ったのは佐々木だ。
 最初は気まぐれと同情だった。
 でも、佐々木の心を垣間見た時、手を差し伸べたくなった。

 

 

 そうじゃない。そうじゃないんだ。

 

 

 あの手は佐々木を救うための手じゃない。
 あれは……俺が佐々木に救いを求めるための手だ。
 俺は、いつだって自分の事しか考えていない。俺はお前を助ける。だから俺を助けてくれ。
 ふざけるな。そんなギブアンドテイク、重過ぎる上に勝手過ぎる。
「……と言うわけであり、安定はしているのです。確かに佐々木さんの閉鎖空間には神人は確認できないのですが、でも閉鎖空間がある以上、いずれはあの世界にも神人が現れる可能性が……西野君?」
 思考の裏で細かい事を語ってくれた橘京子だったが、そんなことはどうでもよかった。聞いても俺にはわかりそうもないし、どうにもできない。
「聞いてるよ。つまりサキにも情報創造能力が備わってるんだな?」
 そして橘京子は、そんな佐々木選ばれたヒーロー。いや、ヒロインか。そんな彼女は首を横に振り、否定の仕草を露にした。
「違うのかよ。だったら放っておいてもいいだろうが」
「それが……わからないのです。確かに佐々木さんには、涼宮ハルヒと似た性質の閉鎖空間を持っています。ですが、三年前から今日までで、佐々木さんが情報創造能力を使用した形跡は無いのです」
「なんでそんなことがわかるんだ」
「わかるんだから、しょうがないのです」
 証拠は無いけど根拠はあるのか。笑えるわ。
「佐々木さんは、あんな風に酷いイジメを受けていました。それなのに強い心で無意識に自身の力を戒めていたと考えれば、彼女こそ、涼宮ハルヒに変わって神になるべきなのです」
「そうか……お前らはサキのイジメを知ってたのか」
「はい。佐々木さんの事なら何でも知ってるのです」
 その言葉は明らかな自信に満ち溢れており、自分こそが一番の理解者だとでも言いたげだった。
「……それで?そんなことを俺に話して、どうするつもりだ?」
「西野君は、佐々木さんを助けたいと思いませんか?」
 いきなり何を言う。俺なんかが誰かを助けられるわけが無い。
「あたし達の「組織」に協力してください。佐々木さんと友達、それこそ恋人になれるなら、なってもらっても構わないのです。そして、佐々木さんを支えてあげてください」
 まさかの協力要請だった。
 筋は通っている。佐々木と友人になった俺から、佐々木の情報を仕入れる。
 それは佐々木の安定に繋がるし、組織も大助かり。あまり自分達から表に出る気は無いみたいだしな。
「確かに、言い方を悪くすればスパイです。でも、少しの嘘で佐々木さんが安定するなら、あたし達はそれで構わないのです。だから」
「もういい。お前達の言い分はわかった」
 言いながら手のひらを広げ、橘京子の言葉を制止させる。
「答えはNoだ。クソ野郎共が」
「……え?」
 いきなりの罵声が理解できないのか、橘京子は目を見開いて呆気に取られている。
「サキのことを何でも知ってる?俺は何にも知らねーよ。だけどな、サキがどんなに弱って傷ついていたかはわかるさ。それなのにお前は何でも知っているなんて抜かしやがった。一番肝心な所を知らなかったくせに……あいつは強くなんかない。俺と同じ、怖がりで臆病だ」
 それでも佐々木は、勇気を振り絞って、俺に心を開いた。そして俺も、あいつに手を差し出した。
 助けてほしかったから。世界がどうとか関係無く、普通に仲良くなって、普通の仲間になってほしかった。
「お前達は何をした?そう、何もしなかった。気になるけど、神様に近付きたくない。結局ただの偶像崇拝じゃねーか。サキの一挙一動に怯え、あいつに近い人間にお守りをさせる。……ふざけんな!」
 溜めに溜めた憎悪を吐き出しながら、握り拳でテーブルの天板を叩き割った。
「……サキは俺のダチだ。この縁がどこまで続くかなんてわからねーが、俺のダチ傷つけるなら、迷うこと無く暴力振りかざしてやるよ。だから、もう二度と俺の前に姿を見せるな」
 この話は、これで終わりだ。何も言葉を発すること無く、北高のエンブレム入り鞄を肩にかけて席を立った。
「西野君!待ってください!」
 ……残念だよ。お前には、佐々木の弱さを知っていて欲しかったのに。

 

 


 体を突き刺す寒波が痛い。今年は暖冬になると思っていたが、天気予報なんて、いつだってあてにならない。
 もうすっかり夜である。早く帰ろう。あー、寒い。
「これはこれは西野君。またまた奇遇ですね」
「……古泉」
 何食わぬ顔で古泉一樹は喫茶店の駐輪場で待機していた
「どれくらい待っていた?」
「あなたと橘京子が、店内に入る前から」
「……そうか。ご苦労だったな」
 ボケるためには最高のパスであったが、そんな気分にはなれず、古泉一樹の横を通り過ぎ、原チャリに跨った。
「困った物ですね。普段のあなたも十分扱いづらいですが、今のあなたは飛び切りだ。何か嫌なことでもありましたか?」
「別に」
 どうせ会話内容を知ってて聞いているんだろう。それなら適当に察してくれ。俺をお前達の理屈に混ぜるな。
「……やれやれですね。僕達とは、無駄話すらしたくないですか」
「そう言うわけじゃない。ただノラないだけだ。タイミングさえ良かったら、いつも通りなノリで、バカで無駄な話をしていたさ」
 今は、とにかく休みたい。
「では忠告だけ。答える必要はありません。聞くだけ聞いてください」
「何だよ」
 エンジンキーから手を離し、振り返らずに聞く体勢だけを作る。
「彼女、橘京子ですが、気をつけてください。言動こそは十代の少女と変わりませんが、危険人物です。自身の所属する組織のためならば、どのようなことでもするはずです」
「まるで知ってるような口振りだな」
「えぇ。僕と同じですからね。所属する組織こそ違いますが、僕と同じで、信じる神のためなら、なんだってできます」
「そうかい」
 キーを回し、エンジンに火をつける。
 原チャリの小さな廃気管から爆音と煙が流れ出た。
「……お前と橘、どちらも危険だよ。なんでお前らみたいな子供が、世界の命運をかけて闘ってるんだ」
 日本の終戦から約六十年。この国から戦争は消えた。そう思っていた。だが、平和なんか幻想だった。ステージとグレードが変わっただけで、人間は争い続けている。
「着いていけない。そう思う俺が、おかしいのか?」
「……いいえ。それが普通です」
 俺は、一体どうすれば良いんだ。

 


「ただいま」
 帰宅した頃には、いつもより何倍も身体に疲労感が溜まっており、今、こたつに潜れば、絶対に朝までぐっすりと眠るはずだ。
「……今日は夜勤だったか」
 母の姿が見えないことに、一瞬、動揺したが、そう思い出し、安堵した。
「あ、太陽さんおかえりなさい」
「おう。ただいま」
 すっかり居候が様になっている藤原が出迎えてくれた。
 藤原に鞄を預け、制服を脱ぎながら、自分の部屋へ。
「晩御飯なら、お母さんが作っておいてくれたので」
「そうか。悪いが温めておいてくれ。着替えたらすぐ行く」
「はい」
 満面の笑顔で了承し、藤原は部屋を出て行った。
「……あいつも、自分の組織のためなら、何でもするのか?」

 


 母と息子の二人暮らしで生活するのにちょうど良い広さの居間には、本日の晩飯がラップで包まれて、食卓を彩っていた。今日は焼き鮭か。
「あちち。僕の時代でも電子レンジはありますが、あまり変わってないですね。食材を温めるから、安易に小型化しても無意味ですし」
 せいぜい詰め込んだ食材をセンサーで判断し、自動で温めるのに最適な温度と時間を検出するくらいかもな。
 藤原が自分の分の焼き鮭を、ラップを剥がして食卓に戻した。
「あれ?太陽さんは温めないんですか?」
「いや、俺はそのままでいいよ」
 コンロに置かれた鍋から味噌汁を二つのお椀につぎながら答えた。
 今日は疲れたからさ。とっとと食べて寝たい。
「そうですか。あ、お味噌汁ありがとうごさいます」
「ほら。それではいただきます」
「いただきます」
 晩飯を腹に収めていくも、さっきの会談の影響からか、楽しいはずの団欒だが、なかなか気分が上がらない。
 どんな願いも、思うだけで実現する力、か。一見すれば、これほど魅力的なことはない。

 金が欲しいと思えば、金貨が空から振ってくる。

 彼女が欲しいと思えば、学習机から女が出てくる。

 美味いもん食いてーと思えば、この晩飯が五つ星に跳ね上がる。

 どんなことも思いのまま。そう言う力らしい。
 しかし、ここで問題がある。
 さっき例に上げたことくらいなら可愛い物さ。基本的には自分が幸福になってるだけだしな。
 だが、もしもその力を負の方向に使用したら?

 あいつが気にいらない。消えろ。と思えば、そいつは消える。

 みんな死ねば良いのに。と思えば、みんな死ぬ。

 こんな世界、大っ嫌いだ。と思えば、世界の終わりだ。

 どんなことも思いのまま。そう言う力らしい。
 重過ぎる。俺なら耐えられない。いや、誰にだって耐えられない。
 それならば、なぜ涼宮ハルヒが耐えていられるのか。
 それは、涼宮ハルヒが力を知らないからだ。
 力を知らないからこそ、力の重さに気がつかない。弾丸が装填されていて、安全装置も外れ、引き金を引くだけのピストルでも「持っていないと思い込めば」無害であるように、無知であるから、涼宮ハルヒは涼宮ハルヒでいられる。
 だけど全てを知った時、涼宮ハルヒは、それでも涼宮ハルヒでいられるのか?
「……太陽さん?」
 そんな考えが顔に出ていたのかもしれない。藤原が戸惑いながら首を傾げている。
「いや、何でもない。少し考え事をしていただけだ」
「何をですか?」
 掘り下げないで欲しい。と思ったが、
「別に。ハルの力の事さ」
「涼宮ハルヒさん……の?」
 何となく振ってみた。そう言えば、未来人側のことは何も聞いていなかった。いい機会だ。聞くだけ聞いてみるか。
「答えられる範囲で良い。お前達は、どう考えてるんだ?」
「そう……ですね。必要な力、でしょうか」
「必要な力?」
「はい。この時間平面から三年程前に現れた時空断層。涼宮ハルヒさんの力により生まれ、それが全ての始まりでした」
 らしいな。三年前……もうすぐ四年前か。涼宮ハルヒが中学校に上がる前、何かがあって、彼女に力が備わった。
 一体何があったんだか。よし、今度聞いてみるか。……そう出来たら、どんなに楽か。
「その時空断層を埋めなければ、僕達の未来が不安定なままです。当然ですよね。それより過去の繋がりが、全て断絶されているんですから」
「糸の切れた風船みたいな物か?」
「そうですね。それが1番近いと思います。糸の切れた風船を、飛んで行かないように手で押さえている。ですが、手で押さえていては、いつかは疲れて離してしまうかもしれない。だから涼宮ハルヒさんの力が必要なんです。彼女の 力で、切れた糸を繋ぎ合わせたい。そのために、彼女の力を観察している……それが僕達の役目です」
「なるほどね。だけどわからない。なんでお前達が直々に過去にやって来てるんだ?」
「……え?」

「観察なら監視カメラでも何でも良いだろ?何でわざわざ、その上、バレる可能性も跳ね上がるのに、危険を冒してまで過去に来たんだ」

 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者と一緒に遊ぶことが涼宮ハルヒの望みだから。願望を具現化した結果、朝比奈みくるがSOS団に現れ、藤原が来た……本当にそれだけか?
「キナ臭いんだよ。観察以上に、何か別の目的を感じる」
 俺が未来人ならどうするか……。

 


「俺が未来からのエージェントなら、あの液体金属ターミネーターみたく、自分達の都合の良い未来に変えるね」

 


 それが一番わかりやすい目的だ。
 未来人は時空を「直す」ために、この時代に来たのではない。「直す」以上に、「変える」ために来た。
「まぁ、ただの妄想さ。何百年先の未来か知らないが、お前達の思想が、俺みたいなただのガキと同じとは思えないし」
 未来の思想が、過去と同一とは思えないのも事実だ。
 時代が変われば、人間も変わる。思想も文化も変化する。
 それでも、人間の欲望だけは変わらない気がする。
「……ごめんなさい。僕は何も知らされていないので……考えた事もなかったです」
「いや、こっちこそ悪かった。お前に言ってもしょうがないよな。済まなかった」
 未来は藤原に、名前すら名乗らせなかった。藤原自身も言ったように、よほど重度な縛りらしい。そんなエージェントに権限があるわけない。
「……でもな、藤原。忘れるな」
 藤原とは仲良くなった。最初こそは勘弁してくれと思ったが、この二日間で、藤原の居る生活も悪くないと感じている。あのまま見捨てるわけにもいかなかったしな。

「俺たちは歩み寄ることを許されても、馴れ合うことは許されない。そうなったらどちらも破滅だ」

 最大のバッドエンドであり、誰もハッピーエンドを迎えない。
「俺はお前が危険になったら、すぐ助けに行く。だけど、お前の未来には干渉しない。未来の危機は、お前が何とかしろ」
 藤原は口をつぐみながらも、強く頭を下げた。
「まぁ、俺には未来のことなんか、わからねーからさ」
 食卓に置かれた味噌汁は、既に冷め切っていた。

 

 

第三章へ続く


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