第一章

 

 


 七月二十六日――。
 記念すべき高校生活二度目の夏休み四日目にして、俺は部室の長机に額をつけ、カエルのごとくひしゃげていた。部室にいる人間は俺ただ一人であり、じりじりと太陽の焼き付ける部室内には安物の扇風機のブーンという耳障りな音だけが響いている。窓の外では夏真っ盛りのセミどもが種類を越えて大合唱を繰り広げていて、それに混じってグラウンドの野球部の野太い掛け声や、金属バットがボールを弾く小気味いい音が聞こえた。
「しかし、暑いな」
 じっとしていても汗が噴き出てきやがる。俺はたまらなくなって窓際で呑気に首を振っている扇風機を長机の上にセット、「強」のボタンを押して顔に風を当ててみたが、それでも暑かった。なにしろこんなチャチな扇風機ではこの部室のだるい空気を引っかき回しているだけで、今やこの役立たずの風車は熱風生産機と化している。仕方がないので俺は部室の窓を片っ端から開放して澱んだ空気を入れ換えた。
 クーラーが欲しい。
 などと思うのはさすがに甘ったれだろう。俺はひとしきり外の新鮮な空気を吸い込むと、パイプ椅子に腰掛けて再び机に伏せた。このままあと二十四時間は目を閉じていたいものである。
 さて、いきなりだがここでクイズだ。
 
 Q.俺はなぜここまでだれきっているのか。
 
 ……………………。
 答えなら無数にある。妹にいつもより三十分も早く起こされたからとか、学期末試験の結果がアレだったからとか、夏休みなのに学校にいるからとか、そもそも夏だからとか。だれるのに理由などいらないというのもまた一つの正解だろうが、俺はそんな裕福な生活を送れるような身分ではないね。残念だが。
 で、この場合ダントツで俺の体力ゲージを奪っているのは、本当言うと眠気でも暑さでもなくて、精神的肉体的疲労だった。
 いやいやそんなもん、この理不尽の塊みたいな団体に所属している以上、疲労と縁を切ろうなどというのはカタツムリを殻から引き剥がすのと同じくらい不可能だろうとどこかの誰かから反論が飛んできそうであるが、それでもここ最近、俺はひどく疲れにまみれていたのだ。
 最近というのは三日前から昨日までである。
 なんでそんなに限定的なのかというと、それは言うまでもなくこの三日間に限定的なイベントが開催されていたからだ。夏休みに行われる三日間のイベントで、団体で行って、普段以上に疲れるもの。
 もうお解りいただけただろうか。
 そう、夏合宿である。なんと、SOS団はつい昨日まで合宿をしていたのだ。
 いやあ、驚いたね。
 夏休みが始まったかと思えば即合宿に連行され、三日間遊び倒してクタクタで本土に帰り着いたかと思えば翌日には朝っぱらから部室でミーティングがあるというのだから疲れるのも当然さ。ハルヒと丸三日も一緒にいて疲れないなんてヤツは宇宙人か未来人か超能力者のどれかと相場が決まっていて、俺はそのどれでもない。したがって疲れるのである。
 さて、ここらでちょっと合宿に関する余談をしておくとしようか。余談と言うよりは愚痴と形容した方が正しいような気もするがな。
 舞台の説明からしておくと、先日開催された二度目のSOS団夏合宿はやはり、去年と同じ孤島であった。スポンサー兼ツアーコンダクターは相変わらず古泉の組織らしい。ご苦労なこった。
 あと、同じと言えば、これは知る人ぞ知る秘密なのだが、実は日程までもが去年と同じなのである。やはり、例のごとく合宿したくてウズウズしていたハルヒが去年と同様、終業式が終わった次の日には総員引き連れて孤島へと出かけやがったのだ。
 去年と違うのはオプションとして鶴屋さんと俺の妹とシャミセンがついていったことと古泉企画によるインチキ殺人事件がなかったことぐらいで、後は基本的に昨年度と同じ遊び満載の合宿旅行だった。多丸さん兄弟と荒川さん森さんとも再会を果たしたし、島の探索もハルヒが「サバイバルツアーin孤島」と称し、全員で丸一日かけて森から浜辺から隅々まで歩き回った。もちろん海では男女ともども水着に着替えてさんざん遊んだ。夕食は相変わらず豪華だったし(アルコールはなかったが)、夜には枕投げもやった。
 楽しかったさ。ああ文句なしに楽しかったね。
 だが、正直言うと、若干期待はずれの感も俺の胸の内にはあるのだ。
 実は俺は、この合宿でハルヒが思いもかけない事件を起こすのではないかとひそかに考えていた。キテレツな生命体を発見するとか古代人の遺産を発掘するとかな。ハルヒならいくらでもやりそうなことである。もちろんそんなアクシデントが起こるのを楽しみにしていたなどとぬかすつもりは毛頭ないが、それでも、何事もなく三日が過ぎてフェリーに乗る頃には、俺はすっかり拍子抜けの思いだったことは認めなければならない。
 まあ、そんなことがあったのさ。昨日までな。
 おかげで疲れた。
 ハルヒという女はトラブルこそ起こさなくなっても俺を荷物運び兼雑用係から解放する気はさらさらないらしく、合宿の間中こき使われた俺は全身が筋肉痛である。そのうえ今から開催される予定のミーティングでハルヒが宣言する夏休みの超ハードスケジュールを考えれば気分が重暗く沈むのも仕方がないと言えよう。だから今ぐらいはゆっくりさせてくれって話さ。それなら誰にも文句は言えまい。  
 俺が襲いかかってくる睡魔にいよいよ白旗を掲げんとした時だった。
 ガチャリ、と部室の扉が穏やかに開かれた。
「おや、これはこれは。どうもおはようございます。僕が一番だと思っていたのですが、先を越されましたね」
 第一声だけで部室に入ってきた人間を即座に判別した俺は、しかし、面倒なので机に伏したままだった。どうせこいつの顔を見たところで幸せになれるわけもない。余計に暗澹たる気分が募るだけである。
「ふうむ、お疲れですか? まあ無理もないでしょうけど」
 その俺の反応を見てか、苦笑したような様子の声が俺に存分に降りかけられた。聞いているだけでもイライラするその美声に不快になった俺は、眠る気力もそがれて顔を上げる。と、もちろんそこにあったのは誰の無表情面でも怒り面でもなく、古泉一樹のナチュラルスマイルであった。合宿の終わった次の日とは思えんくらい忌々しいほど爽やかな笑顔である。
 俺の対面の席に座り、早速バッグから合宿へ持っていったボードゲーム各種を取り出す古泉を見て俺はだるい声を発した。
「ずいぶん余裕のありそうなセリフだが、自分はどうなんだよ。お前には疲れるって概念は存在しないのか」
 古泉はオセロとチェスと将棋と囲碁で「どれにしようかな」を行いながら苦笑した。
「それは愚問ですね。僕だって人間なんですから、疲れないなんてことはありませんよ。あなたと同様に、合宿で三日間も遊び通したら疲れますし、眠くもなります。もう一年以上お付き合いしているのですから、そのくらいはあなたにも察して欲しいものですが」
「いいや」 
 何か誤解されているようだが、一年以上一緒にいても俺はいまだにお前のことなんか何一つ解っていないぞ。はっきり言ってSOS団員の中ではお前がもっとも解らん。
「まあ、そうかもしれませんね」
 と古泉は案外素直に認めて、
「しかし、ある意味、それが一番正しい答えなのかもしれませんよ。なにしろ僕はまだ自分というものをこの団体の中で出していませんから。偽の人格を使っている僕と一緒にいたとしても、本当の僕が解るわけはありません」
「その偽の人格は涼宮さんのための特別コーディネートです、って言うんだろ。どうせ」
 古泉はやんわりと微笑んだ。
「ええ、その通りです。このキャラクターは涼宮さんが求めているキャラクターであって僕自身のものではない。だから、あなたが本当の僕を解らないのも当然でしょう。でも安心して下さい、あなたは自分が僕について何も解っていないということを知っているという点で、僕のことをよく解っていますよ」
 無知の知ってやつか。別に古泉のよき理解者なんぞになっても何も嬉しくはないのだが。
 古泉は将棋盤を選んで手早く駒を並べながら、哀愁のこもった口調で言った。
「ずっと偽の人格を使って人と接していると、時々――本当に時々ですが――僕を理解してくれている人なんていないのではないかと思って虚しくなるんです。やっぱり怖いですよ、人間、自分を知っている人がいないかと思うと。ですから、あなたみたいな人がいてくれると本当に助かります。多少なりとも、僕というものを解ってくれている人がね。――いえ、これは僕の本心ですよ」
 真面目な声の古泉に俺がどう返そうかと迷っていると、また部室のドアが、今度はすっと音もなく開いた。小柄なショートヘアが静かに入ってくる様子を俺は目の端で捉える。
 第三者の入室によって俺と古泉の会話はなんとなく中断され、古泉は苦い顔で肩をすくめてみせた。
 心配するな。俺は少なくとも卒業まではお前を裏切ったりはしねえよ。間違ってもお前のためではなくて、俺の意地のためにな。
「…………」
 一方、音もなく部室に入ってきた無表情娘は機械的な動きでドアを閉めているところだった。真夏のくせに汗一つかかずに直立しているそいつ――長門有希は、古泉と俺の「おはようございます、長門さん」と「よう、長門」という挨拶に小さくうなずくだけという反応を示して、吸い込まれるように窓際の椅子に腰を落ち着かせた。小脇に二、三冊抱えていた分厚い本はいずれも市立図書館の蔵書らしく、その印であるラベルが窓から降り注ぐ夏の日差しを反射している。わざわざ直射日光の当たる窓際なんぞで読書をしなくても、と思うのだが、ひとたび読書する石像化した長門は暑さなど感じないらしく(というか素の状態で暑さを感じているかどうかも怪しいが)、あっという間に本の虫と化してしまった。合宿でハルヒと妹に読書をさんざん邪魔されたせいで欲求不満だったのかもな。
 俺は読書娘を眺めておよそどうでもいい思考を巡らせてから、目の前の古泉に視点を戻した。
「ところで、古泉。いい機会だからこの場で訊いておくが、あれからハルヒの様子はどうなんだ」
「どう、と言いますと?」
「合宿が終わって異変が起こっていたりしないだろうな、という意味だ」
 古泉は将棋の駒を手でいじりながら緩やかに微笑んだ。 
「涼宮さんについて言うならば、あなた以上に彼女をよくご存知の人も少ないと思いますが」
 うるせえ。俺はハルヒじゃなくてあの灰色空間のことについて訊いてるんだよ。ただでさえあいつの付き人は疲れるのに、青カビ野郎の退治業務まで俺の管轄に置かれるようなことは断じて認めん。認めてたまるか。
「解ってますよ。僕にしろ、せっかく拝領した貴重なアルバイトを他人に譲るつもりはありませんから」
 古泉は歩兵を打ちながら続けて、
「非常に落ち着いています。彼女の精神状態も閉鎖空間もね。しかも、それはここ二、三日の話ではなく夏休みに入る前、もっと言うと七月の頭ごろからずっとなんです。僕はもう《神人》とはご無沙汰ですし、閉鎖空間が発生したという話も久しく聞いていませんね。おかげで僕たち超能力者は商売あがったりですが、それは裏返せば涼宮さんの精神がいつになく落ち着いているという証拠でしょう」
 そうかい。まあ、そうだろうな。
「というと? 何か思い当たる節でもあるんですか?」
「このところずっと静かだからさ。考えてもみろよ。最近は変な事件なんか起こってねえし、ハルヒも宇宙人だの異世界人だのと言わなくなっただろ? それに、そういや市内パトロールだって久しくやってないな。不思議探しも飽きたってなら、いよいよ正常な女子高生になってきたんじゃねえのか?」
 俺の若干投げやりな言葉を聞いて、古泉はフフッと小さく笑った。
「何だよ」
「だとしたら、涼宮さんの能力も僕の超能力者としての力も、そろそろ有効期限切れだろうな、と思いまして」
 一瞬凍り付いた古泉の口調に俺は不快感を覚えつつも、将棋盤上の桂馬を動かした。
「有効期限切れね」
 ハルヒの力がだんだんと弱まっているという話は前に聞いていたが、いよいよ限界が近いということか。それで、もうすぐ古泉の力もハルヒの力も完全に失われる――。
 でも、別にいいんじゃねえのか、それで。
 俺がそう言うと古泉は意外そうな顔をした。
「へえ。あなたはそれで構わないんですか。どうしてです?」  
「どうしてってお前、それが目的だったんだろうが。あいつがただの女子高生に戻ることを、お前らの組織は望んでいたんじゃないのか?」
 古泉は困ったように笑った。
「それはそうですけどね。でも、忘れないでくださいよ。涼宮さんが普通の女子高生に戻ったとしたら、その日はおそらく、SOS団の最後の日でもあるということをね」
 はん。
 俺は聞こえよがしに鼻を鳴らしてひたすら将棋盤に目を落とした。
 そんなことはこいつに言われるまでもなくハナっから解っていたさ。力を失ったハルヒに情報統合思念体は興味を示さないだろうし、未来人はさっさと問題を解決して未来に帰っちまうだろう。もちろん、超能力者は世間にごった返すフツーの人間の一人になる。
 しかし俺は一瞬喉元までせり上がってきた言葉をすんでのところで呑み込んだ。
「でも、それは仕方ないことだろ。この団のメンバーの役割がそもそもハルヒの監視なんだから、そうなるのは避けようがないんだ。運命ってやつさ」
 と、言った後に俺は奇妙な居心地の悪さを感じた。
 何だと思ってキョロキョロしてみると、なるほど、長門がハードカバーから顔を上げて氷のような視線を俺に向けていたのである。こいつはどうも存在感よりも眼力の方が強い気がするね。一瞬だけ俺と目が合うと、長門はすうっと本に視線を戻した。
「運命、なのかもしれませんね。正直言って、僕たちにはもう、以前のように何体もの《神人》と渡り合うだけの力はありません。おかげで『機関』の上部層は慌てふためいてますよ。どんどん力が失われていっているんですから、当然と言えば当然ですが」
 なんだか頭が重たくなってきた。雲の上の話だと思っていたことが急に現実味を帯びて地上に降りてきたような気分である。 
 ハルヒの持つかつての変態パワーがどんどん弱くなっている。
 古泉たち超能力者の持つ力も徐々に薄れていく。おそらくは長門も、朝比奈さんも。そして、SOS団最後の日。
 俺は見通した将来の暗さにすっかり滅入って、げんなりと机にほおづえをついた。
「で、その日は近いってことか」
 呟きめいた俺の言葉を古泉が律儀に拾う。
「そうであるのかもしれません」
 油断したのが悪かった。古泉は将棋盤の駒を動かして微笑み、
「王手です」
 もしかするとこうやって古泉とボードゲームに興じることのできる日が数日しかないかもしれないなんて、そんなこと考えるわけねえだろ、普通。
 

 

 

 結局、俺はハルヒと朝比奈さんが部室に入ってくるまでそんなだるい気分をぐずぐずと引きずって、古泉が次から次へと取り出すボードゲーム各種にただひたすら耽っていた。
 じっとしているだけでも汗が滲むような夏の日、窓からたまに吹き込む心地よい風と、窓辺にたたずんで分厚い本に目を落とす文学少女、正面にはオセロのコマの置き場所を真剣に考えているハンサム男。変わらない生活。くだらない日常。ようするにこういうのを時間を無駄にしていると言うのだろうなどと眠気にさいなまれつつ悟った俺は、その不毛さを呪った。こうしている間にも空の雲はゆっくり流れていやがり、世界は平和で、そしてSOS団で俺が過ごせる時間は刻一刻と失われていっているのである。だからといって特別何かしておかねばならないことも思い浮かばず、形容しがたい焦りだけがじりじりと募っていき、俺は倦怠感に任せて長机にひしゃげた。このまま時間が止まってしまえばいいのだ。俺もハルヒも、それを取り巻く連中も、世界も、何もかもがさ。
 目蓋を閉じると眠気が膨れ上がった。
 視界がフェードアウトするように薄れていって、俺は眠りに落ちた。
 

 

 

 さて、結果からすると、ここで物語の中でひとつの大きな区切りがついたことになる。何もしてないと言えばその通りなのだが、何もないからこそ事態が進展したとも言えよう。
 しかし、まだ誰も気づいていなかった。もちろん俺も、長門も朝比奈さんも古泉も、そしてハルヒも。それどころかこの世界にいる誰のどんな能力を持ってしても手を出せない領域で、何かが起ころうとしていたのだ。
 俺が何か手頃な事件が起こらないものかなどと不謹慎なことを考えていたのがまずかったのかもしれん。
 起こるべくして事件は起こった。しかも、ちっとも手頃ではなくて俺の手にはとても負いきれんような事件がな。いや、俺だけではない。誰の手にも、もしかしたらハルヒですら制御しきれないような凄まじい規模の事件なのだ。
 そしてそれは、俺がもっとも怖れていた種類の事件だった。
 SOS団のリミットは、もう目前に迫っていたのだ。  

 


  
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最終更新:2010年05月12日 18:16