翌日、改変されてから三日目。今朝の俺の目覚めは昨日以上に最悪だった。
 布団を上げるとその上で眠っていたらしいシャミセンがごろんと転がる。それでも起きないとは、何という神経の図太さだろう。ああ、いっそ俺も猫になりたい。そんな投げやりな願望をぼんやりと頭に浮かべながら、俺はベッドから降りた。
 暑さは昨日より大分収まっていた。生温い空気が辺りを包んでいる。ここ最近の睡眠不足で足に力が入らず、いつもより坂が急なように錯覚してしまう程だ。足も頭も、気分も重い。そのまま地面にめり込んでしまいそうだ。
 教室の入り口で、俺は固まった。なんてことはない。教室の窓際、一番後ろの席にハルヒが座っていたからだ。途端に昨日のあの光景が甦る。俺は今すぐここから逃げ出したい気分になったが、それを堪えて自分の席に向かう。逃げれば、恐らく元の世界を取り戻す手掛かりは見つけられない。もう二度とこの改変世界を元に戻すことはできない。そう思えたからだ。
 それに何より。あの光景は、どう考えてもおかしかった。
 別に、あの二人がくっつくのがおかしいという事ではない。ハルヒも長門も古泉も、恐らく朝比奈さんも元の世界から性格の書き換えはなされていない。俺のよく知るSOS団メンバーそのままだ。それなら何故急にあの二人がくっついたことになっているんだ? 元の世界で俺に隠れてこそこそ付き合っていて、それがそのままこの世界に表れたというのなら分かる。だがそれこそあり得ない。こっそり付き合ってりゃ俺だって当然気付く。それぐらい、あいつらと過ごしてきた時間は長いってことだ。
 つまり、残る可能性は一つ。犯人が改変する際に、新たに二人に恋愛感情を書き加えたということ。
 こんなもんを許せる奴がいるだろうか? 人の感情を弄んでいるとしか思えない。あまりにも最低過ぎる行為だ。
 だから、俺は絶対に世界を変えた犯人を見つけ出してやる。そう心に決めた。
「おはよう」
 ハルヒが頬杖をついたまま振り返る。ハルヒの機嫌は、一昨日の放課後を頂点に下降線を辿っていた。
「……おはよ」
 それを言ったきり、ハルヒはまたそっぽを向いてしまった。溜め息をついて席に座る。俺に特殊性を求められてもな。周囲でどんなに理解しがたい事態が起こっても、俺自身はごくごく一般的な男子高校生のままだ。しかし、俺の立ち位置は見ようによっては、異世界人というハルヒの求め続けている人材なのかもしれない。いや、勝手に周りの人間の記憶やらなんやらが変わっただけで、俺は時空を超えるだのなんだのは全くやっていないから異世界人とは言い難いのか? よく分からん。
「昨日、古泉くんが珍しくあたしに断りも無く遅刻したんだけど」
 ハルヒの口から古泉の名前が出ただけで、思わず肩が跳ねそうになった。落ち着け。ハルヒはSOS団の団長であり古泉はその副団長だ。別におかしいことじゃない。
「最初は何も言わなかったんだけど、問い詰めたらあんたに呼び出されたって吐いたのよ。あんた、うちの団員に何かちょっかい出してるんじゃないでしょうね?」
 ハルヒがきっと俺を睨みつけた。ちょっかいか。出してると言ったら出してるんだろうな。客観的に見れば、俺はどう見てもSOS団の団員を捕まえては頭のねじが一本抜けたような質問をしているただの変質者だ。
「別に迷惑になるようなことはしてねえよ」
「してるじゃない! 古泉くんはたまにバイトで抜けることはあっても、遅刻や欠席をするときはいつもちゃんとあたしに連絡してるの! うちの団員をたぶらかして、あんたは一体何を企んでるの? 答えなさい」
 ハルヒが怒りの感情を隠そうともせず俺の襟首を掴んだ。そんなこと言われたって本当の事など言えるわけがない。そもそもちょっと呼び出しただけで団員をたぶらかすとかちょっと性急過ぎるだろうハルヒさんよ。
「なんだか穏やかじゃないわね。どうしたの?」
 そこにクラスメイトの喧嘩を止めるために近寄ってきたのは朝倉涼子だった。
「あんたには関係ないわよ」
「関係なくない。クラスメイトが喧嘩してるんだもの。止めない訳にはいかないわ」
 落ち着いた声色で朝倉がハルヒを諌める。ハルヒはクラス中の視線がこちらへ向けられているのに気付くと、ふん、と言って俺の襟首を掴んでいた手を放し、そっぽをむいてしまった。
 朝倉はやれやれ、とでも言わんばかりに溜め息をつくと、
「駄目よ、折角同じクラスなのに喧嘩しちゃ。高校生活もあと半分ぐらいしかないんだから。みんなで仲良くしなきゃ勿体ないわ。せっかく出会えた仲間なのに」
 ね? と道徳の教科書にでも書いてありそうな台詞を吐いて朝倉が微笑む。俺はここでクラス委員長である朝倉に感謝すべき所なんだろうが、俺は眉を顰めるしか出来なかった。実に気まずい。
「一体なんなのよあんたは……」
 朝倉がその場を離れてクラスに喧騒が戻った瞬間、俺に聞こえるか聞こえないかの音量で、ハルヒはそう呟いた。



 その後も、ハルヒが猛烈な不機嫌オーラを放ったまま午前の授業は消化されていった。国木田に何があったのか聞かれたが沈黙で答えることしかできない。昼休み、俺はいち早くここを出るためにも弁当をかきこみさっさ教室を出ることにした。
 階段を下りて向かいの校舎につながる渡り廊下を歩く。目的地はもちろん、朝比奈さんの教室だ。嫌に目立ってしまうし、朝比奈さん自身にも迷惑がかかるためあまり行きたくはなかったのだが仕方ない。冬の時みたいに都合良く廊下でばったりと出くわせるかどうか分からないし、部室に行けば朝比奈さんはメイド服姿だ。部室の外に連れ出す訳にはいかない。
 結局朝比奈さんの教室を尋ねるしかないのだ。またハルヒの逆鱗に触れそうではあるが、その時は朝比奈さんに口止めするしかないか。でも、そんなことをしたら余計朝比奈さんに怪しまれるような……。
 ぐだぐだと考えているうちに、もう目の前では朝比奈さんのクラスのプレートがぶら下がっていた。
 なるべく音をたてないように、そっと教室のドアを開ける。突然現れた見慣れない顔に、教室中の視線がこちらへ向いた。う、気まずい。
 早急にここから立ち去るために朝比奈さんの姿を見つけようと見回すと、「あっ」と可愛らしい悲鳴が上がった。声の上がった方に目をやると、鶴屋さんらクラスのお友達らしき人と弁当を囲んでいる朝比奈さんと目があった。申し訳なさそうに会釈をし、こちらに来て欲しいとの意思を手振りで伝える。クラスにいた男子の方々の俺を見る視線がきつくなったように感じられたのは、気のせいだと思いたい。
「なんだいっ? うちのみくるに用があるなら、あたしを通してからにしてくんないかな? 季節が悪いのか知らないけど、最近変な人がちょっかいかけてくることがそれはもう多くてさ、ちょっと困ってるんだよっ」
 教室の外の廊下。冗談めかしつつ俺の前に立った鶴屋さんが笑うが、目が真剣だ。この反応を見る限り、鶴屋さんは俺を知らない。まあ、大体予想はしていた。親しくしていただいていた人に急に警戒される精神的ショックは置いといてだ。
「違います。別に俺は朝比奈さんのファン倶楽部の一員というわけでもないし、ちょっと興味が湧いたからお近づきになりたいとかいう不埒な理由でここまで来たわけでもありません。
 あの、朝比奈さん。俺のことは覚えてますよね?」
 鶴屋さんの肩の向こうで、朝比奈さんがおびえつつもこくりと頷く。何故か既に涙目だ。妙な罪悪感に襲われる。
「俺の事、知ってますか? 俺が一昨日に部室に入った以前からです」
 ふるふると朝比奈さんは首を横に振った。
「じゃあ、もう一つ質問させてください。あなたの……朝比奈さんの生まれた年は?」
「ふえ?」
 朝比奈さんは不思議そうな顔をして俺を見つめた。そりゃ不思議に思うだろうな。朝比奈さんは俺の一学年上なだけなのだから。容易に予想がつくはずだ。その反応だけで充分だった。
 俺が一言お礼だけを言ってその場を立ち去ろうとすると、
「あっはははははは!」
 急に鶴屋さんがお腹を抱えて笑いだした。そのリアクションに俺も朝比奈さんもぎょっとする。
「何それ、誕生日じゃなくて生まれ年かい! 面白いねーきみはっ、あまりにも純真だよ!」
 どうやら俺の質問が鶴屋さんのツボにはまったらしい。朝比奈さんの誕生日を聞きたかったけど、そんな勇気もない。だから生まれ年だけを聞いたと解釈したってことか。それって純真というのだろうか?
「いーよいーよその謙虚さ! 最近の日本男児が忘れていた姿勢だねっ!」
 鶴屋さんが俺の背中をばんばんと叩く。痛い。ハルヒ並の力強さだ。
「ま、きみが悪い人じゃないってことは分かったよ! みくる、みくるの生まれ年っていつだったっけ?」
「あの、ええっとええっと」
 おどおどしながら朝比奈さんが答えたは俺の生まれる一年前の年だった。これで決定的だ。朝比奈さんは未来人組織から派遣されてきたエージェントなんかじゃない。普通の人間だ。
「古泉のボードゲームの相手は、朝比奈さんがしてやってるんですか?」
「え? ああ、はい、たまにあたしが……って、ええっ?」
 そうか、この人は組織の存在にも禁則事項にもしばられていない、笑顔でお茶を淹れてくれるSOS団専属のメイドさん。俺がその恩恵を享受できないのが恨めしい。
「あの、時間とらせてすみませんでした。俺はこれで戻ります」
「ああ、またね少年っ。その清い心を大切に、道踏み外したりするんじゃないよっ」
 俺は苦笑しつつ、会釈してからその場を離れた。鶴屋さんの弾けるような笑顔を見て心が救われる気持ちがした。さらに鶴屋さんにつられて小さく手を振ってくれた朝比奈さんが見えて思わず感動の涙を流しそうになる。冗談じゃなく割とマジで。



 どうやら俺の周囲は思ったよりも割合良い人間に囲まれていたらしい。
 別に嫌な奴ばっかりだと思っていた訳では無いんだが、そこはそれ、失って初めて気づくなんとやらだ。
 だからこそ、俺は元の日常を取り戻したいと思う。分厚いハードカバーを読んでいる長門を眺めつつ古泉とボードゲームで対戦し、ハルヒに時折振り回されつつも朝比奈さんの極上の緑茶で一息つく。それが一番の、俺が望んでいる日常だ。
 やれやれ、自分でもこれほどSOS団に愛着が湧いてたなんて思いもしなかったよ。ま、今さらそれを否定する気にもなれんがな。
 少なくとも昼休み以前よりは明るくなった気分で自分の教室に戻ろうとすると、ちょうど俺の教室の前で珍しい奴に出くわした。常に無表情を保っている――最近はそうでもなかったが――髪の短い小柄な少女。長門有希だ。
 隣のクラスにいるのだから廊下でたまたま出くわしても不思議ではないが、今は昼休みだ。いつもなら部室で読書をしているはずなのだが……。
 直立したまま真っ直ぐと俺の方を見ているが、正直挨拶するべきなのかどうか迷う。俺にとってはよく知っている奴なのだが、向こうからすれば俺と初めて会ったのはつい二日前だ。
 もしかして朝比奈さんに妙に気易く話しかける俺を見かけて問い詰めに来たのだろうか。ハルヒじゃあるまいし。
「今日」
 はいなんでしょう長門さん。
「来て」
 ……なんだか妙に聞き覚えのある会話だ。一応聞いてみるか。何処にだ?
「わたしの家」
 ………。
 今は短い昼休みで辺りは喧騒に包まれているはずなのに、俺と長門の周囲だけ妙な静けさが取り囲んでいた。
 この長門、あの改変世界での内気長門より心の内が読めない。この長門との接触は今までに二回だけ。俺が訳も分からず普通に部室に入った時と、昨日の昼休み。
 突然現れたと思ったら再び部室を飛び出し、翌日再び現れ妙な質問を繰り返し、本棚をさんざ探しては勝手にがっかりしていった変人というだけなのに、何故長門は俺を自宅に呼ぼうとしているのか。思考回路がさっぱり読めない。お前は本当にただの人間なのか長門。
「あなたは、気になる存在」
 長門が俺を指差した。傍から見れば、ちょっとした愛の告白に見えるだろうな。俺も相手が長門じゃなければそう解釈していたところだ。
「午後七時。光陽園駅前公園にて待つ」
 これまた強烈なデジャヴの残る台詞を吐いて、長門は去って行った。物静かなはずのに何故か嵐のような登場と去り方だ。長門の宇宙人属性が無くなると不思議っ子属性になるのだろうか。廊下の真ん中に突っ立ったまま、俺はそんなことを思った。





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