まだ名前のない私。誰の為でもなく、ただ生きている。
それはなんだかとても楽であり、けれど悲しくもある。

しとしと。
雨が落ちる音。

ふやけたダンボールの居心地は、酷く悪い。
けれど此所――いわゆるコンビニエンスストアの側から離れる事で起こり得る、宿や空腹に対する愁いが私を引き止める。

――――まぁ、どうにかなるだろう。

そんな程度の悩み。


ほとほと。
毛から水が垂れる音。


「……ねこ」


小柄な女の子が、ぽつりと零す。

……やば、見つかった。

この雨の中を逃げる気力はないのだけれど、どうするべきだろうか。
先日受けた小さな手足からの様々な暴行を思いだしながら、私は相手を観察する。

澄んだ目をした少女だった。

後ろに背の高い少年を従えて、こちらを見据えていて。
なんだかひどく蠱惑的な手で、傘とビニール袋を握っている。

雨の似合う少女だった。
今が冬ならば、降っていたのが雪ならば、もしかしたら彼女に対して永遠の忠誠を誓ってしまったかもしれない。
綺麗な目をした、人形のような少女だった。


「ねこ」


声も、なかなかに素敵。


「……そうですね、猫です」


初めて声を発した彼。
二枚目なのだろう。人間の美醜の感覚は酷く分かり辛いが。
こちらは、能面のような面立ちだと思った。
好きになれない表情だ。
何かを、腹に隠しているような。

こつこつ。
少女がこちらに来る足音。


「行かないのですか?皆さんきっとお待ち兼ねですよ」
「濡れている」
「では傘を一つあげて、相合い傘でもしましょうか?」
「連れて行く」
「はは、相合い傘はお嫌いでしたか。大変失礼致……」
「飼う」
「……マジですか」
「まじまじ」


あれ、なんだこの可愛い生き物。
胸の奥から突き上げて来る、叫びだしたいような泣きたいような笑いたいような感情。
後に、愛情だと気付くそれ。


「あなたのマンション、ペットは禁止でしょう」
「ばれない」
「いや……、まぁ、ばれないでしょうけど。お世話が出来ないでしょう」


……そうだろうね。
突然黙りこくる女の子。
この光景を、何度繰り返し見た事か。
謝りながら泣く姿を、幾度此所で見送った事か。
別に、野良だって生きていけるのだから。
私が此所にいるのはあなたの所為じゃないのだから。
そんな顔しなくたっていいのに。

おかしな生き物だ、と思う。


「確かに、困難」


あなたの世話で、手一杯。
そう言って、彼に目を向ける。
照れた顔で、手厳しい……と呟くその言葉に、彼女は逆接を被せる。
それでも。


「あなたと二人でなら、頑張れる」


私には、少女の顔は見えない。
けれど、先程私に向けたような、真っ直ぐな目で彼を見ているならば。


「全く……、適いませんね」


彼の負けは必然だろう。
若人よ、こういう時は折れてあげるものなんだ。
偉いね。


「感謝する、古泉一樹」
「長門さんのお願いなら、仕方がありません」


これは私が名付けられる前のお話。
私のご主人である両名が、絆を深める切っ掛けとなる物語。
そして私の一世一代の、彼らの為の奮闘記の始まりでもあるのだ。


まだ、雨は止まない。
かけられたタオルはふわふわで、花の匂いがした。


 

「……猫だな」
「そう、ねこ。嫌い?」
「嫌いじゃないが、どこでそんなの……」


大きな建物の中に入った。
此所に住んでいる訳ではなさそうだし、《学校》っていう認識で良いのだろうか。
床に下ろされた私は、木の持つ温もりと初めての接触を果たした。
命ある物にしか宿る事のない、暖かさだと思った。

この部屋にいるのは、先程の両名を合わせて5人。
髪飾りを付けた女の子が、興味深げに私を見ている。
悪い気はしないが、そんなに面白い事もないだろうに何を熱心に見ているのだろう。
人間というのは、不可解すぎる。


「有希、この子どうしたの?」
「拾った」
「あら、一目惚れ?」
「そう」
「素敵ね!みくるちゃん、抱かせてもらったら?」


はぁ、と溜め息を吐く先の彼。
また始まったとぼやくその姿は、なぜだろうか、父親と言う言葉を連想させる。


「ひ、引っ掻きませんかぁ?」
「へいき」


多分、と彼女は添えて、私を手渡す。
あうわーとかひゃわーとか言いながら、私をその豊かな桃源郷へと誘って下さった。

なんたる至福の時間だろうか。上手く言葉で表現できない柔らかさがもどかしい。
こんなに優しく抱かれて引っ掻くなんて致しませんよマドモアゼル!


「おとなしいですぅー」


貴女の笑顔の為ならば髭先一つ動かしませんとも。


「長門、それ飼うのか?」
「そう」
「一人暮らしの高校生にそんな余裕はないだろう。少しでも難しいと思うなら、今返して来い」


あ、やっぱりお父さんだ、なんて確信。
娘にせがまれて、どうしようもなくて断る時の顔してる。


「へいき」
「本当か?」
「大丈夫」
「生き物を飼うのは大変だぞ?」
「キョン、有希が大丈夫って言ってるんだから!」


渋々、と言った所か。
彼は「何かあったら言え」と席に座った。


かぱ、と音がする。
《ねこかん》の開く音だ。
コンビニを塒(ねぐら)としていた時に、よく人間に貰った。
本能のまま私は天国から降りて、美味しい音の方へ向かう。


「わかりますか?あなたの餌です」


うるせぇ早く食わせろと鳴いてみるも、ニヤニヤと私を見下ろすイケメンは微動だにしない。
自分より弱い物にいじわるしたらいけませんって、その年になってもわからんのか。


「古泉、動物虐待はよくないぞ」
「おや、心外ですね。そんなつもりはなかったのですが」


紙皿に開けられた餌を摂取しながら、聞くともなしに二人の会話を流す。
ショートカットの少女は、私を見据えて動かない。
そこはかとなく、こそばゆいきもち。


「いじわるは、駄目」


二人で飼うのだから、と長門が漏らした瞬間、《おとーさん》の肩がぴくりと跳ねた。


「長門、今二人でって言ったか?」
「言った」
「それはあれか、同棲的なあれか」
「違う。通い妻」
「おや、嬉しいですね」
「あなたが、通い妻」
「あ、そうですか……」


ふるふると震える拳を握り込み、同じように震えた声で、《おとーさん》は長門にこう言った。


「長門、いいか?年頃の男女が二人きりで一つ屋根の下なんて、何があっても文句は言えないんだぞ?
早く今すぐ早急に、考え直すんだ」


確かに正論。
ていうか、私も女の子と二人暮らしの方が遥かに嬉しいんだけどな。
餌を食べ終えた私は、この部屋を探索しながらそんなことを思う。


「……いや」


長門は後ろから私を抱き上げ、古泉の腕にすがりついた。
ささやかな天国と野郎の腕との間に挟まれた私は、このサンドイッチに疑問しか感じない。
イヤイヤ期だかなんだか知りませんが、反抗するなら父性を逆撫でするやつじゃなくて、
もっとこう、普通にしましょうよ。


「……長門?」
「いや」


あ、この顔はやばい。咄嗟に首を竦めた直後、少し張りが抜けた声が部室に響いた。


「……っもう勘弁ならん!!!!古泉いいかよく聞け俺は一度も貴様を認めてなどいないからな
ていうかこれから一切認めるつもりとかないからな俺の目の黒いうちは長門に指一本たりとも
触れさせないぞ。いいか長門お前も聞きなさいまだ意味が分からないかもしれないが男は狼だ
という事を覚えておくんだ隙さえ見せればお前なんか一口!それと古泉みたいな羊の皮を被っ
た狼は他より数段タチが悪いぞいいかあいつに近寄っちゃいけません通い妻とかもっと駄目絶
対認めませんだーめーでーすッッ!!!!!」


すっさまじい。世間一般の父親ってこんなふうなの?
息切れを隠さずに古泉を睨み付ける彼に向けられるのは、唖然とした表情だったり、呆れ返った顔だったり。
反応はそれぞれだったけど、みんな同意はしていないようだ。
長門も……、ちょっとすねてるように見える。


「き、キョンくん。そんなに心配しなくても……」
「いいえ、朝比奈さん。まだ俺らは未成年です。不純異性交遊は慎むべきでしょう」
「ばっかじゃないの?あんた頭が昭和のカミナリ親父以上に古いのよ!」
「おい失礼だぞ、ハルヒ!」


少女と少年は喧嘩を始めた。
何やら、痴話喧嘩……いや、夫婦喧嘩と呼んで良さそうな雰囲気ではあるが。
どちらも、笑みをたたえた目が隠せていないのが微笑ましい。


「……ながとさん、今のうちに逃げませんか?」


ちょ、おまえさぁ。
出すのに技術がいるようなウィスパーボイスで彼女に甘く囁く古泉は、殴りたくなるほど楽しそうだ。
でも無言で古泉に鞄を渡し、私を抱く腕に力を込める長門は、もっと楽しそう。
だから、私は大声で鳴いて邪魔してやる事も出来たのに。
長門におとなしく抱かれていた。


「では涼宮さん、すみませんがお先に失礼します」


言うが否やのうちに、長門と古泉は全速力で廊下を駆け出した。


「あ、こら!待てコラこいずみぃぃぃ!」


ごめんね、キョン。
でも、ちゃんと見ておくから。
高校生らしい、不純でない付き合い方をさせますから。

だから、私たち二人と一匹の最初のデート。
どうか、許してください。

長門は、直後に聞こえたキョンと朝比奈さんの悲鳴を聞いて、笑いを噛み殺す古泉を不思議そうに見ていた。
なんだか、肺の辺りに空気が入ったみたいな。
言い表しがたい幸福感が、抜けなかった。


 

皆様に伺いたい。
物語を読むという行為には、往々にして二つの理由が伴う。
私が思うに、それは快楽と空白だ。楽しいから、暇だから、私たちは本を読む。
何も生み出さない、酷く非生産的な行為。
それは、なんだか生きる事に似ているような気はしないかな?
生きてるのなんて、死ぬまでの間の暇潰しだと嘯いたのはだれだったかと思いながら、私は今日も物語を紡ぐ。
出来る事なら、あなたの胸に何かを生み出したくて。

――宇宙人と超能力者の恋は、何を生むだろう?


「いやぁー、買いましたね。散財の楽しさって一生理解出来ないと思ってたんですけど、
新しい快感に目が眩みそうです。……でも、本は要らなかったんじゃないですか?」
「最重要」
「あ、そうですか……」


私の一言には三つの言葉で返事する事、とは言うものの、古泉の場合はそれ以上の物があるね。
痛々しいまでの反応されなさ。

さて、ロミジュリ張りのロマンスめいた逃避行の後に、この辺りでは一番大きな商店街に赴いたモンタギュー夫妻は、
私のためと思われる様々な物を買い揃えていた。餌入れとかトイレは分かるけど、首輪はいらないんじゃないか……。
「ぬこさまのきもち」と書かれた雑誌に読み耽る長門を置いて、古泉は淡々と設備を整えて行く。

フローリングはひやりと冷たくて、日陰の路面を思い出す。心地よかった、独りの空気を。
一声、鳴かなければならないような気がした。


「……長門さん、呼んでるみたいですよ?」
「……」


ちら、とこちらを確認して、無表情のまま撫でくりまわされた。
無言で顎をくすぐられるのは、ちょっと怖い。


「これ、そんなに気に入ったんですか?」
「……、そう」


瞬間、視線がかち合った。
そんな綺麗な目で見ないで欲しかった。焼かれてしまいそう。
私にはわからない感情が、彼女の瞳から彼の指先から部屋からしがらみから絆から、流れて。


独りを貫き、弱きを厭い、何も作らぬはずだったのに。
孤独を恐れる心が生まれてしまう。愛を求める心が芽吹いてしまう。
永久を願い、永久を厭う、矛盾だらけの感情が、私の毛先から、爪先から、耳から、沁みて滲んで広がって。


あぁ、この人は。
この人達はこんなにも。


「どうしたんですか、そんなにこちらをじっと見たりして」


ご飯ならまだですよ、と笑う彼は、こんなに近くにいる恋人を恐れている。
自分の好意が染み入って、白雪を汚す事を。
拒絶より、享受を恐れている。

彼女は、それを知っている。
自分から歩み寄る事は彼を追い詰める以外の何者でもなく。
手に触れ言葉を紡ぐ事、それも罪だと恐れてる。

……冗談じゃ済まされない。
こんな、遠慮と気遣いと優しい嘘に塗れた空間に、私もいなきゃいけない?
お断りだね。

何故、恐れる。
進めよ、思う通りに。
何故、触れぬ。
手を握って、体温を、愛を紡いで、言の葉を、伝えようとはしないのか。


そんな歪な恋情、許さない。


そんなに純粋にお互いを思っていながら、実らないなんて。
そんな喜劇はいらない。


「……なんか、長門さんに懐きますよね」


その言葉に、長門はついと目線を向ける。どことなく不機嫌めいた古泉に、すこし驚いているように見える。


一線の、手前。
彼に、僕も構ってくださいと言う勇気はない。
彼女に、それを察する技能はない。
それならば、それならば。


私が、やりましょう。


その一線を越えるための踏切板に、スタートを切る合図のピストルに。
当て馬にも、友人にも、悪役にも成りましょう。


拾ってもらった野良猫の、できる限りの恩返し。
――幸せにしてやろうじゃないの。


私は長門を見上げて鳴くのを止めない。
こうすると、抱き上げてくれる事を知っているから。

そして目論見どおり、長門は私を抱き、古泉の笑みは引きつる。

よし、食いつけ。


「こらこら、長門さんにそんなに迷惑を掛けてはいけませんよ」
「別に構わない」


いえいえ構いましょうよと、彼は私を奪い取る。


「抱き癖が付くとよくないですよ」
「……これは猫で赤ん坊ではない」
「いえいえ、同じような物でしょう。そもそも、猫と赤ん坊の間には切っても切れ
ない深い縁があります。僕ら人間が猫を可愛いと感じるのは、猫の体躯が人間の
赤ん坊と構造がそっくりだからと言う話を聞いたことがありますよ。それに発情
期のあの鳴き声と言ったら……」


必死だな、お疲れさん。


「やきもち」
「ちがっ、違いますよ。猫に嫉妬するほど器小さくないです」
「……本当に?」


いや、そのですね。そう言ってあからさまに目を泳がす。
長門に嘘を吐くのは確かに難しいだろうけど。
いくらなんでも動揺し過ぎだろう。


「猫に、やきもち……」


ユニーク、と彼女は少し楽しげ。
流石にもう言い訳する気力はないのか、黙り込む。
私がこの家の力関係を把握した瞬間だった。


「安心して。今の所、私はあなたで満足」


どこまでも男前な長門だった。


「長門さん……」


どこまでも乙女な古泉だった。
ていうか頬を染めるな、気色悪い。

あれ、ていうかむしろ手助けなんかするまでもないんじゃないか。
ちょっと背中押しただけなのにべたべたイチャつきやがって。
しばいたろうか、古泉。
苛つきながら目を向けた先の二人は、当然のように嬉しそうだった。
古泉は笑みを押さえきれていないし、長門の表情も当社比3%増である。
矛を納める以外に、選択肢はなかった。

不意に長門が手を伸ばす。
白い指先が彼の指と絡み合い、その光景は少し神秘的。
当然の結果として、私の肉球はフローリングと感動の再会を果たす。
そして見上げて思うのも、同じ。
一枚の風景画みたいに、綺麗な光景だ。


「いつでもあなたが一番」


指きり、と彼女は目を真っ直ぐ見て宣言する。


「他の誰にも、靡かない。だから、あなたも」


はい、はい、と相槌を打つ古泉は、繋いだ手に力を込める。
それはまごう事なく、祈りだった。


「ずっと隣にいます」
「浮気なんてしません」
「いつでもあなたを守ります」
「絶対に離しません」


約束です。約束です。
小さな長門に縋る古泉の姿は、信者が偶像に誓言する様によく似ていた。
途方もない願いのように聞こえる、小さな小さな祈りだった。
私はただ、その《指切り》を眺めている事しか出来なかった。


……あれ、指切り?


「古泉一樹、これと《手を繋ぐ》とは同じ物?」
「行為は同じですが、約束をする時に《指切り》と名前が変わります。お互いの
指を全て絡ませて行うのは恋人同士だけで、普通は小指同士を絡ませます」
「そう」
「少しずつ覚えればいいんですよ。わからない事があって当然です」
「感謝する」


いえいえ、と笑う古泉の顔は曇りなどなかった。
指切り、ねぇ。
本当にあれが指切りなのかどうか、判断する術はないけれど。
それで長門が納得しているのなら、私に文句は何もない。
でも手を結んだままニヤニヤと長門を眺める古泉に、私は彼の脛を蹴らずにはいられなかった。

もしかしたら、宇宙人と超能力者の恋で生まれるものは、端で見ていると否応なく感じるストレスと苛立ちだけかもしれない。

けれどきっと、当事者の彼らはきっと何かしら得るものがあるのだろう。
言葉にできない暖かい気持ち。

それを想像する事しかできない私だけれど。
ただ、祈った。

私に指切りはできないけれど、約束する。
大好きな君達のために、精一杯の努力をしようと思います。

空気は甘く、木々は当然のように青い。
そのように、彼らも幸せであったらいいと思った。

これもまた、途方もない祈りなのかも知れなかった。


 

今、私は再び学校にいる。
何故だと聞かれれば、成り行きだと言う事しか出来ない。
学び舎に不法進入というのは心擽られるイベントではあるが、しかしながら今現在、私は一匹の猫であり、目眩くロマンスとは無縁の生活である。可愛い女子生徒に声でも掛けようものなら追い出されるのが関の山。据膳食わねど高楊枝、と言う風を気取ってはいるものの、実際悔しくて仕方ない。せめて人の姿であったら誤魔化しようもあるのにと、由無し言を誰にともなく吐き捨てる。

実に実に、不愉快極まりなかった。

事の発端を、私は知らない。
しかしながら朝早くから叩き起こされて、涼宮さんのご所望ですからと無理矢理鞄につめこまれた恨み、いつか必ず晴らしてみせる。

何が涼宮さんのご所望だ。人のせいにして私を苛め倒したいだけに決まってる。
古泉なんて長門に嫌われてしまえ。

ふて腐れて部屋の隅で寝そべっていると、派手な音を立てて扉が開いた。


「やっほぉ……って誰もいないか」


あたしサボりだし、とメランコリックな表情で呟く少女。
って、サボっちゃ駄目でしょうが女子高生。


「みくるちゃんはいないし有希はメールしても反応ないし古泉くんは体育だし……」


なんてつまんないの、と小さな声で呟いて机に伏した。

これって、バレたら弄り倒されるオチか。
四つ足の裏に付くクッションに盛大に感謝しながら、私は見つからないようにそっとドアに向かうが。


「……キョンのばか」


ぴたり、と足が止まる。
なんて面白そうな独り言。
盗み聞く以外の選択肢が見当たらない。


「何よ何よ。お昼にちょっと引っ張って行こうとしたぐらいで、そんな大袈裟に怒る事ないじゃない」


ぶすっと膨れたハルヒは、正直に言おう、私の《どストライク》だった。
辛抱たまらん。


「どうせ谷口国木田あたりと中身ない事ぐだぐだ喋ってるだけのくせに……」


私の誘いを断るなんて信じらんないわ、と表情を曇らせている。
その手には、女の子にしてはかなり大きめな弁当が一つ。見た所、中身は入っていそう。


「もう……」


やってられるかー!と、ハルヒは跳ね起きた。


「何よ!馬鹿!鈍感!なんで弁当箱大きいな、とか昼に誘うなんて珍しいな、とか思わないわけ?
大体私はどうしてあんな奴の事で一喜一憂しなくちゃいけないの?こんなの、こんなんじゃ、こんなのまるで……」


まるで、普通の女の子みたいじゃない、と。そう言って、彼女はまた机に伏した。
独り言と言うには、余りに切なく熱かった。殺人的なまでの、ツンデレだった。

これを黙って見ていなければならないなんて……。
世の中間違っている。
手を差し出したい時に手はない、口を出したい時に声はない。
あるのは毛皮と爪と牙。
……畜生、と悪態を吐く事さえも冗談になってしまう我が身を恨みながら、私は彼女の足に擦り寄った。


「うわ、ななな何!」


やっぱり訂正。恨んでないです、超役得。ハルヒさんの御足、堪能致します。


「猫?あれ、なんで……」


おい古泉なんでとか言ってるぞおい古泉どういう事ですかコノヤロウ。


「あんた、有希の所の猫ね?なんでこんな所に……」


そういえば私が言ったんだっけ、と毛むくじゃらの塊、つまり私を抱き上げた。


「一人でこんな所にいたの?……もう。古泉くんも有希も叱ってやらなきゃ」


どうやら私は全然ご所望じゃなかったらしい。軽くショック。


「……いいわ。折角だから聞いてくれない?私、愚痴る相手がいなくて困ってたのよ」
「……私は?」
「有希?メールも返ってこないし、忙しいんじゃない?
それに、キョンに悪意なしでダイレクトアタックしちゃいそうで怖い、し……。ちょっと、授業は?」


自然に会話に混ざる技術、是非とも伝授して頂きたいのですが、流石にちょっとびっくりします。
長門はまるで部室の備品のように、とても自然に立っていた。
最初からここにいました、みたいな顔して。


「……サボタージュ?」
「なんでそんなことするのよ!ちゃんと出なくちゃダメでしょう!」
「メールが」
「そ、それは昼休み中に済ませるつもりだったのよ……」


長門は窓際にあった椅子をハルヒの真横に持って来て、またも当たり前のように腰を下ろした。
私はいつものように長門の膝の上を独占すべく、彼女の足下に向かう。


「話して」
「うーん……」
「話して」
「メールではそう言ったけど、考え直したらちょっとねぇ……」


長門は私を顔の前まで持ち上げる。
一瞬の浮遊感の後に、望み通り足の上に着地する。
テンションが急上昇するも、何やらいつもとは体勢が違って落ち着かない。
っていうか、人間のように座るのは苦しいから勘弁して欲しいんだけどなぁ。
私の腹を左腕で支えながら、右手で私の前足を握る。
嫌な予感しかしないのに、心の奥で喜んでいる私がいた。
そして、長門は話して、と再度告げた。

……いやね、長門。


「私は猫」
「え?」
「話して」
「いや、有希は有希でしょう……」
「猫」
「ただの猫に相談なんてしないわ……」
「なんと喋れる猫」


私の手をふらふらと動かす。


「ふーん。名前は?」
「……ねこ」
「え、名前それ?今、適当に決めたんじゃないでしょうね」
「……話して」

声色くらい変えようよ。
ハルヒさん面白がってませんか?
長門で遊ぶのやめてください!


「そうね、有……ねこがにゃって語尾につけてくれたら話すわ」
「わかったにゃ」
「……あ、そう」


さりげなくひどい名前が定着してしまいそう。
いや、それよりも。
にゃって……。にゃって…………。


「成績が上がらないわ」
「あなたの成績はとても優秀にゃ。もし不満なら、更に勉強すべきにゃ」
「友達ができないわ」
「私達はあなたの友達にゃ」
「甘い物が食べたいわ」
「現在、私もあなたも食物を所持していないにゃ」


淡々とした、お悩み教室。
このまま延々と続ける訳にもいかないと思ったのだろう。
ハルヒは躊躇しながら、いつもの笑顔からは考えられないほど、おどおどとした態度で言い出した。


「……きょ、キョンが鈍感なの」
「もっとアピールが必要にゃ」


そうそう、言わなきゃ。
長門にさえ伝えられないのに、キョン相手じゃ喧嘩になるのが関の山だ。
しっかり話して、きっちり悩んで、バシッと告白しちゃいなさい。
どうせ両思いなんだからさ。

ハルヒは何故か、頬を赤らめながら呟いた。


「あ、アピールって具体的には?」
「……胸部を露出するにゃ」


そんなアピールは今時動物でもやらない。
全くもって、けしからん。
は、ハルヒの裸なんて全然本当に想像なんかしてないんだから、勘違いしないでよね!


「有希、まさか古泉くんにそんな事やらされてるの?」
「私はねこにゃ。人間の雄に、強烈にアプローチするために適切だと思われる方法の一つにゃ」
「えっと、ちょっと違うような……」
「恥ずかしがるからいけないにゃ。普通にしてればいいにゃ」
「ただの変態じゃない!」
「いやなら違う方法ですればいいにゃ」
「……キョンはきっと気付かないわ」
「その程度の勇気も出せないのなら、あきらめるべきにゃ」
「そこまで言うの……」


語尾が語尾なので、切迫した感じが見受けられない。
まぁ、ハルヒがそんな感じを狙ったんだろうけれど。

あと、しょうがないからフォローもさせてもらう。
胸部露出騒動は、決して古泉の強制ではなかった。
ただちょっと、お互いの価値観に相違があっただけの、どうしようもないあれでした。
まぁ、このお話は今度にしましょう。


「もー、どうしろって言うのよ……」


……やれやれ、しょうがないなぁ。
本当はとてもシンプルな答えが目の前にあるのに。
あまりにも単純すぎて、誰の心も引きはしない。

遠回りで、傷つけあって、そうじゃないと楽しくないなんて。
人間の恋愛って、本当に難しい。


「そういう相談には、私よりも古泉一樹の方が向いていると思われる」
「そう、かもね……」


そうだわと、ハルヒは言った。


「古泉くん、男の子だしね。もしかしたらそうなのかも知れない」
「彼ならば、きっとあなたによいアドバイスをくれるはず」
「……聞いてくれてありがとね、有希」


瞳の奥が揺れる。
滅多に見られない、極上の顔だと思う。
自分の在り方を根底からひっくり返されたような、ある種儚げで、空虚な表情。
それでも私は知っている。
その目をした後の長門は、いつもより少しだけ素直。
正しく幼子のように、有りのままを口にする。


「……話してくれて、ありがとう」


思った事を、そのままに。
特に彼女は、言わない感情が多いから。
言葉は、相手の心を深く打つ。
ハルヒも、いつものようにではなく。
月のように、微笑んだ。

お互いに違う形で不器用な、何でもできるもの同士。
惹かれ合う事もあれば、喧嘩だってするんだろう。
それでも願う。
彼女らの間に、障害なんてなければよいと。
いつもこんな風にじゃれあって、仲良くしてくれればよいと。


「そろそろホームルームも終わりかしら?」
「あと三分で終了」
「そう!今日はスペシャルゲストもいる事だし、楽しい活動にするわよ!」


どうやら、思いがけない歓待を受けそうだ。
私は苦しい体勢から脱却し、長門の膝の上で丸まった。
朝っぱらから一人でここにいたのだから、このぐらいの事は許されるだろう。
さて、これは古泉とハルヒの面談もぜひ見物しなければならないと訳の分からぬ義務感に追われながら、私は欠伸を一つした。
束の間の平穏を味わうのだって、悪くはなかろうと思いながら。


「……有希、もう一回鳴いてみて」
「にゃー」
「それ、古泉くん以外の男の子の前でやっちゃだめよ。キョンとかキョンとか」
「……?」


結局一歩も進まないままの、喜劇めいた恋愛相談はこれでお終い。
かみさまの気紛れな暇潰しのお相手は、存外、満更でもなさそうに見える。
これも幸福の一つの形だと、彼女にわかったらいいのにとふと思った直後に、睡魔に敗北した。
瞼の裏に映った長門の顔は、無表情からは程遠く、春の雪のような儚さを持っているような。
そんな気がした。そんな夢を見た、気がした。


 

「しまって!長門さんしまってください!」
「何故?人間の男性として正常な生殖機能を備えているなら、女性の裸体には恐怖よりもむしろ歓喜を」
「しまってください!!!」


古泉の悲鳴は、ご近所一体に響き渡ってもおかしくないだろう大声量であった。
マンションなのだから、もう少し気を使えと思うのだが、私はそれを伝える術を持たない。
古泉は壁際まで一気に下がり、何も見るまいとぎゅっと目を閉じている。
そんな情けない超能力者に、長門は少しずつ近づいて行った。

説明させて頂く前に、まずは古来の形式に則って自己紹介をさせて頂こう。
吾輩はねこである。名前がねこである。
何処で生まれたものか、とんと見当も付かないが、坂下のコンビニなる商店の近くで拾われた事は鮮明に覚えている。
飼われている身として、飼い主たちに対するフォローをするのは義務なのかもしれない。
そんなあやふやな思いから、この日の思い出を語る事にした。
何度でも申し上げよう。決して、二人とも悪くはなかったのだ。

私が長門の異変に気付いたのは、事件の少し前。
継続的に警鐘は鳴っていたにも関わらず、それはどうやら超能力者の耳には届かない仕様だったらしい。
単刀直入に申し上げれば、長門は悩んでいたのだ。
こと古泉に関して言えば、相談相手は私ぐらいではなかろうか。
いや、ハルヒや朝比奈さんにに相談する事もあったのかもしれない。私には窺い知れないが。

そうそう、長門のお話。
何といっても食欲不振が顕著だ。分量だってカレーライスを2杯ほどになってしまった。
そして一番の変化が読む本の種類。

《あなたを魅力的に見せる30の方法》
《草食系男子のオトシ方!》
《衝撃の告白―同性愛編―》

うん、何これ。


「興奮した?性的な意味で」
「僕ムードとか大切にしたいタイプなんですが!」
「そう、あなたはやはりホモセクシュアル」
「違います。どこでそんな言葉を覚えたん……涼宮さんですか!」
「違うのなら証拠の提示を求める」
「あの、僕たち好意を伝えあった仲だと思うのですが……」
「カモフラージュの可能性を捨て切れない」
「そんなわけないでしょう!」


私が思うに、キョン辺りがぼやいたのを、誰かが面白がって大袈裟にした噂だ。
愚痴る友達は選んだ方がいいという教訓になる。
古泉がホモセクシュアルであると耳にした長門が、一体どのような段階を経て半裸で古泉に迫っているのか。
そこには彼女なりの論理が存在し、私や古泉のごとき下賤の民には理解しがたいものなのだろう。
古泉に盾突く長門。大いに結構ではありませんか。もっとやれ、やっちまえ。
ただ、苦言を呈すべきなのはやはり格好だ。

半裸って何、長門さん!
下は制服って何、長門さん!


「僕、何か悪いことしましたか?」


古泉はマジ泣きだった。彼女が半裸で「お前はホモである」と主張している。
泣きたくなる気持ちもわかるし、針の先ほどで良ければ同情もしよう。
ただし、この異常行動の原因は古泉のそんな態度にこそあった。


「何もしていない」


何もしないから、だめなんだって。


「ですよね!じゃあなんでそんな嫌がらせをするんですか!」


違う、古泉。
嫌がらせなんて言っちゃいけない。長門なりに頑張った、精一杯の愛情表現だ。
それをあんたは、踏み躙って泥まみれにしている。
俯いて黙る長門は、私が今まで見た中で、一番悲しそうな顔。

いつだって、いつだってそう。
こいつらは足りない言葉で全てを伝えようとする。
機微を伝える術を持つ古泉は何も言わず、長門は伝える術を持たない。

誰かが助けてやらなくちゃ、一歩たりとも進めない。

まったくもって焦れったい。私が頑張るしか、なくなってしまうではないか。
そんなことのために拾われたんじゃないはずなんだけどなぁ、と思いながらも、世話を焼かずにいられないのは長門の可愛さ故。断じて古泉などのためではないが、結果として古泉が喜ぶ形になるのが実に実に忌々しい。

取りあえず、その辺にあった衣類を彼女の足元まで引き摺る。
恐らく古泉の物であろう。片付けなんて私にだって出来るのに。


「……着るべき、なの?」


話はそれからにしましょうか、長門さん。
素直に着衣する彼女を尻目に、私は古泉を威嚇する。


「ちょっ、僕は何も悪くないでしょう……」


黙りやがれこのホモ野郎。てめぇのその賢い頭使って、少しは解決策見つけようとしろや。
伝える術を持たない私はただただ思う。

なんで聞いてやらない。
なんで話してやらない。
なんで言ってやらない。

長門が欲しいのは、否定でも言い訳でも慟哭でもない。
女心も把握しないで、どうやって世界なんざ守るんだよ。

「どうしてこんな事をするんですか」って。
(嫌がらせだなんて言いやがって)

「僕があなたにキスもしないのは、正直手を繋ぐだけでもいっぱいいっぱいな程に緊張しているからです」って。
(本当はムッツリなくせに。私にだってそれくらいわかる)

「僕はそれほどまでに、あなたを愛しているのです」って。
(長門が求めないからって、言わなくていいわけないじゃないか)

何もしないで伝わると思うなんて、酷い男だ。確かに、言葉に意味などない。
誰もが薄々、サンタクロースの正体くらいには勘付いているその事実。
それでも、人間には言葉しかないのだから。もっと言葉に対して、真剣かつ誠実でいなければならないと言うのに。
甘えるなよ、古泉。長門に甘えるな。今のままのお前なんて、救いようのない阿呆だ。
こんなんだったら、私が。
この私が、長門を――――。


「長門さん……」
「……何?」
「機嫌を直してはくれませんか?」
「私は今、正常な状態にある」
「じゃあ、どうしてそんな……。そんな顔で泣いているんですか?」


泣かないで下さい、お願いします。
そう言って手を差し延べる古泉は、まるでおとぎ話のおうじさま。
我らが白雪姫に躊躇無く触れて、遠くお城に連れて行ってしまう。


「泣いてなどいない。人間にとって泣くと言うのは声を上げ涙を流す事。私はそのような状態ではない」


羽織ったワイシャツをきりきり握り締めて古泉を見上げる長門の目に、涙は確かに浮かんでいない。
浮かんでなど、いないけれど。


「わかりますよ。あなたが泣いているか、いないかぐらいは。だって僕は、あなたが好きで好きでしょうがない」


しがないヒーローですが、なんて気障ったらしく笑って、長門の手を脆い物を持つようにそっと握る。


「先ほどは取り乱してすみません。どうしてそんな事言うんですか?僕の事、信じられませんか?」


白雪姫の無言のSOSを受け取れなくちゃ、王子でいる資格なんて無い。
私は生きている。あなたのキスを、愛の言葉を待っている、なーんて。
まったく、恥ずかしいご主人共だ。

私はどんなに頑張っても、単なる飼い猫で。
こんな状況にもちゃんと応じられる古泉は、やっぱり根っからのヒーローなわけで。


「もういい」
「な、長門さん……」


そんな、とか言いながら情けない顔を晒すそいつの事でさえ、許してしまう長門だから。


「満足」
「何が?え?」


私は抱き締めて撫でくり回して、応援したくなってしまうのです。


「もういいんですか?疑い晴れました?僕、ちゃんと女性に興味のある人だって、わかってもらえました?」


こいつはやっぱり、まだまだ全然わかってないけど。
ま、長門が認めてるならそれはそれで良いでしょう。


「もう一回、好きって言って」
「……っ、今の誰かに教わったんですか?」
「単なる願望」
「光栄です……」


顔を真っ赤にしながら、隠し切れないニヤニヤを零す古泉のだらしない表情!
前言撤回、長門はやっぱり貴様にはやらん!
私は決意も新たに、爪を出し、古泉の靴下を強く踏んだ。


「好きで、痛!痛い、こら!痛、血が!」
「ユニーク」


今日はこのくらいで許してやろう。一応、長門は満足しているんだし。
だから、私は知らない。背後の男女が小さく愛を囁き、抱き締め合っている事なんて。
今までの埋め合わせかのように、好きだの愛してるだの、ピンク色の声が舞い狂っている事なんて。
所詮は蛇足にすぎない。白雪姫は、幸せなのだから。ドワーフ役にすぎない私には、物語には。
何の関係もないお話だ。


「長門さん、長門さん! 好きですよ!」
「もう良い、分かった」


関係ないんだから、腹も立ててはいけません。
自分に精一杯言い聞かせて、私は情報の取得を止めた。
今日も、平和で何よりです。いや、ほんとに。


 

吾輩はねこである。名前がねこである。
どこで生まれたか、とんと見当がつかぬ。
ある商店の近くで、珍妙な組み合わせではあるが何かと息のあっている宇宙人と超能力者に拾われた。
二人で飼う、なんて名目で半同棲状態。
まぁ詰まるところ、甘さに当てられっぱなしだ。

と、それっぽい言い回しから始めてみるこの話。
私の大切な日常の事だ。
長門がいて、私がいて、ついでに古泉もいて。
もう私にしか語れない、甘やかな日常。
戻らない毎日。
日溜まりのように幸せな、あの休日の昼間の事。


「古泉一樹」


愛すべき我がご主人、長門が恋人を呼ぶ。
ただし、前文から一般的に想像されるようなテンションとは真逆の、絶対零度の目線と口調で。
今度は何をなさってくれやがりましたか、古泉。


「冷蔵庫の中の私のプリンがない」
「え、あのプリンなくなってましたか?」
「白々しい」


うさん臭い笑顔だ。私はこれがどうにも気に食わない。
笑うならきちんと笑えばいいのに、中途半端に顔を捩じるから泣き顔に見える。
まぁ、そんなことはどうでもいいのだけど。
長門はと言うと、名前を書いたのにと珍しく自己主張。
ちなみに名前を書かないと確実に古泉が食べる。
意外と悪戯好き、と呟く長門のかわい――そうな顔を見たのは一度や二度じゃない。
しかし対する古泉はまだ嘯く。


「名前ですか。書いてありましたね。だから僕は手を付けなかった。
実においしそうでしたけどね、焼きプリン。――――にもかかわらず」


まるで、探偵のように。
見得を切ってから。


「いつの間にか消えていた。 まさにミステリーじゃないですか」


肩を竦め、やれやれというような仕草をしてみせる。
満面の笑みは、そいつを知らなければ確実に疚しい所などないに違いないと思わせるほどにはよく作られていた。
僕じゃありませんよ、みたいな。
嘘つき古泉。私はしっかり見ていた。
ぽんと手を打って、そうですよと悪魔がのたまう。


「ねこが食べたんじゃないですか?」


責任擦り付けやがった、このニヤケ野郎。
長門の罪なら喜んで承るが、野郎、特に古泉からの濡衣なんざ死んでもごめんだ。
と、抗議の意を一言で表現する。


「あなたとねこを一緒にしないで。物理的に不可能だし、この子は利口」


私を優しく撫でる長門。
喉がぐるぐると。
貴様の普段の悪行は、宇宙人様にはまるっとお見通しなんですー。
ざまあみやがれと、見えないように舌を出した。


「僕が食べたという証拠はないでしょう」
「ない。でも状況証拠は十分」
「状況証拠だけでは不十分です。疑わしきは罰せずですよ、長門さん」


む、といつも無口な彼女がさらに無口になる。
黙ってても絵にはなるが、私の好みでない事は確か。
こんな黙り方なら尚更だ。
原因のはずの奴は、疑われたままってのも嫌ですし、と普段通り飄々と言う。


「無実証明、しましょうか」
「どうやっ……」


あ、そう言うオチ?

なぜ長門の言葉が途切れたか、聡明な皆さんならもうおわかりだろう。
私や皆さまにとって、かなり腹立たしいことだと言うのが第一ヒント。
あぁ、甘ったるい。見てられない。
長門に抱かれたままだったので、古泉に噛み付くのは容易だった。


「……痛」


それを合図のように離れる二人。シカトすんな、馬鹿泉。


「ねぇ長門さん、プリンの味しました?」
「した。やっぱりあなたが食べた」
「おや、おかしいですね。するはずがないのに」


もう一回確かめてください、だとさ。
あぁ、甘ったるい甘ったるい。砂糖吐きそうだ。
長門が幸せそうだから、許してやりますけどね。
ちょっとどころでなく、腹立つけど。
まぁ、たまになら。
私がお邪魔になってしまうほどの戯れ合いがあるのも、悪い事では。


「……何?」
「可愛いなって思ってたんです」
「……不可解」


幸せそうな二人の顔を見ていると、本当に何もかもどうでもよくなってしまって。
私は外にでも出て行こうかと、ぼんやり思った。
・・・・・・、本当にたまにだけならね!

たまには古泉が攻めだって、長門が「あたしのプリン食べたでしょ!!」って言ったっていいじゃない保守。


 

さて、梅雨のある日、私は散歩に出る。
私は雨の日が好きだ。何と言っても世界の景色全てが素晴らしい。
世間一般の猫は水を嫌がるらしいけれど、わたしにはその気持ちがさっぱり理解できない。
こんなにも世界が優しくなって人気の少ない午後の日を、外に出ないで過ごす?
人生の、失敬、猫生の半分以上を損している。
雨の素晴らしさとか、何処で爪を磨いだら気持ち良いかとか。
そんな本当にくだらない事柄を考察しながら歩いていると、幼めの二つの声が聞こえてきた。


「あー!ねこだねこ!猫がいるよ、ミヨキチ!」
「本当、雨なのにね。あぁ、びしょびしょ……」


小学生と思しき女子が二人、こっちに来る。
一瞬だけ昔を思い出して身を固めるが、彼らのような人間ばかりではないと日々学んでいる最中だ。
しかも、口調からして心配してくれているようだ。もちろん、わざわざ逃げることはしない。


「おとなしー!すごーい、逃げないよ!?」
「きっと飼い猫だよ、首輪もついてるし」


視界が高くなり、雨の匂いが弱くなる。抱き上げらてしまったようだ。
子供の視線の高さは初体験だが、この景色もなかなか悪くない。
世界が広く、見えない素晴らしい出会いがどこかに転がっていそうな。
希望に満ちた、視界だった。


「風邪引くよ。だめじゃない、おうちにいなきゃ」


どうやら傘に入れてくれるらしい。必要ないのに。


「うちのシャミとは全然違うねー。しゃべんないよ、この子」
「鳴く、だよ。映画じゃないんだから、猫はお喋りしないよ」


小学生女子の、たわいもないお喋りを聞く機会にはなかなか恵まれない。
一言一句逃すまいとは思うが、どうやら彼女らは自宅に向けて歩き始めるようだ。
このまま抱かれている事には何の不満もなく、むしろ望ましい展開ではあるが。
そちらは個人的に歩いた事のない道だ。つまり、帰れなくなる。
名残惜しいけれど、そろそろお別れを選ぶべきだろう。
そう決心をして、飛び降りようとしたとき、私の飼い主の声が聞こえた。


「ねこいた。あっち」
「ようやく見つけた……。ってあれ、一緒にいるの彼の妹ではないですか?」
「わー、古泉君と有希だぁー!」
「知ってる人なの?」


どうやら古泉の口調からして、この元気なポニテっ娘はキョンの妹らしい。
似て……ない気がする。似てるのかもしれないけど、性格が違いすぎる。
人間とは斯様に不可解なものだ。なんでおなじ親から生まれてこんなに違うんだ。
思わず二度見するも、邪気のない笑顔がこちらを見つめているのを確認するだけに終わってしまった。

そして気づく。私がいない間になぜ相合傘をしてるのですか、長門さん?
いつもより口角が二ミリほど上にありますね。うれしいんですか、相合傘。
幸せなのはわかるけど、小学生の前なんですから自重するとか離れるとかした方がいいと思います。
そう念じても、まぁ通じるとは思っていない。私の思いに関係なく、抱き上げてくれている彼女は自己紹介をした。


「お兄さんのお友達だったんですか。はじめまして。私、彼女の友達の吉村美代子と申します」
「ご丁寧にどうも。古泉一樹と言います」
「長門有希」


お見合いのような空気だ。
いや、お見合いした事ないけど。


「一方的にですが、お名前は存じておりますよ」


くすくすと、と言えばいいのだろう。古泉は気色悪い笑顔とともに語る。


「彼が、あなたと映画に行った時のことを話してくれたことがあります。
いやいや、お楽しみだったみたいですねぇ。そういえば、その映画のできた背景ってご存知で」
「話が長い。後でいい」


長門にしてはきつい言葉だな、なんて思うけど。
そんな子じゃないのは、私以上に古泉がよく知っている。
いやな顔一つせずに、というか一層笑みを深くした。


「濡れてる」
「え?」


そう、濡れ鼠だった私を抱き上げた彼女、ミヨキチが濡れていないわけがない。
猫の癖に鼠とは、これ如何に。
長門は手早くミヨキチから私を引き剥がし、タオルに包み抱きしめる。


「服、乾かすから、来て」
「有希のおうち? ミヨキチ、行こう行こう!」
「これくらいなら大丈夫ですよ? どうぞ気にしないで」
「来て」
「で、でも」
「来て」
「いらしてくださった方がこちらとしてはありがたいです。
長門さん、頑固ですし、きっとあきらめないですよ」


そういえば忘れていたけど、こいつはそこらの女子なら半分は振り返るようなイケメンだった。
すぐそこですからなんて、にこにこしながら言われたら。


「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」


小学生の女の子なんかイチコロだな、古泉、いやロリズミよ。
そうなんじゃないかと思っていたんだ、うすうすと。
いや、長門がそういう系だとか、断じて思ってないけどね?


「ねーねー、有希のおうちどっちー?」
「あっち」
「あのマンションですよ」
「おっきいー!!」


いまだに相合傘のままの二人を羨ましそうにながめるミヨキチの顔は、ありがちな恋に恋する少女のそれではないように見える。古泉を誰かと重ねているような、長門を自分と重ねているような。決して自分はそうなれないと知っているような。
小学生の女子がそんな顔するもんじゃないと思うんだけど、と懸念していると、ばちりと目が合ってしまった。
本当にごめんね。でも幸せそうだろ、そっとしておいてあげてね、と心の中で呟く。
ミヨキチの叶わぬ恋のお相手を夢想しつつ、自己嫌悪。
あぁ、なぜ私は犯罪者の肩を持たなければならないのだろう。
しとしと、から、ざーざーという効果音に変わりつつある、
低い天の涙を見ながら、私はそんな、捻くれたことを思っていた。
マンションまでは、もう少し歩かなければならなかった。



「服、乾くまではこれを」
「ありがとうございます」


古泉を追い出して、着替えている女の子三人を見つめながら、私は姦しさの欠片もないこの空間、雰囲気を楽しんでいた。有希のお洋服可愛いー、とか、これ、どこで買ったんですか、なんて普通の女の子みたいな会話を、ちゃんと成立させている。いささかぶっきらぼう感はあるけれども、丁寧に答える長門に安堵して、孤独にされた古泉でもかまってやるかと部屋を出ようとすると。


「お、おねえさん……」


ミヨキチが大変言いにくそうに不具合を訴える。


「せっかく子供時代の服出してもらって悪いんですけど……ちょっと、きついです」


おなかは見えてるし袖も足りていない。
少しだけ、胸囲も足りていないかもしれない。
確かそれは、今現在、長門が部屋着としているもの。
子供時代の服なんかではない。
それってつまり……、そういうことだ。


「なら、こっち」


情報操作を施したんだろう、彼女にぴったりのサイズの服を出す。


「すみません、ありがとうございます」


恥ずかしそうに言うミヨキチには、悪意の欠片もなかった。
そう言っておこう。思っておこう。じゃなきゃ困る。すっごく困る。
いや、て言うかミヨキチの発達が素晴らしいだけだし。全然、長門とか普通だし。
寂しそうな目で部屋着を見つめる長門から、変な色をしたオーラが出ているような気がした。

みんなでお茶を飲んで、小学校の話をしたり聞いたりして。
そんなまったりした午後は、乾燥機の音を合図として終わった。


「帰れますか?送りますよ」
「だいじょーぶっ!ありがとー、古泉くん!」
「何から何までお世話になってしまって、すみませんでした」
「いい。ねこを見つけてもらったお礼」


言っておくが、私は別に迷子になってたわけじゃない。
飼い主ってのは本当に勝手。そもそも野良だったんだから、心配など無用なのに。
ばーいばーいと傘を振る彼女と会釈をして前を向くミヨキチに、私の手をもってそれをぶんぶん横に振る長門。
そんな小技を仕込んだのはきっと古泉だろう。あとでしばく。
その小さな背中が見えなくなるまで、長門は読めない瞳で彼女たちを見つめていた。

小さなお客さま方のお見送りが終わり、私たちは部屋に戻る事となる。
マンション内で誰ともすれ違わなかったのは、時間帯のおかげだと信じたい。
まず、口を開いたのは長門。


「古泉一樹」
「なんですか?」
「私は今、とても傷ついている」
「……一応、理由をお聞かせ願えますか?」
「服」
「はぁ。服ですか」
「彼女の丈と合わなかった」
「そういうこともあるんじゃないですかね」


かなり珍しいケースだと、思いますけどね。
成長期真っ只中、五歳差と言えば結構な体格差が出て当然だ。
いろいろ、思うところもあるだろう。


「悔しい」
「あの、サイズは人それぞれですし、大きければ勝ちというものでもないですし」
「胸囲が」
「そんなの、関係ないですよ」
「でも、大きいほうが。生物学的に考えても」
「……いいんです、長門さんなら」


時が止まった。
あまーーーーぁい、とか叫んでやろうかと思った。


「恥ずかしい台詞」
「本当の事を言っているだけですよ」


まて、古泉。近い。よるんじゃない待て。長門に近いぞ。顔が近い!


「悩まないでくださいよ、そんなことで。長門さんがどんなスタイルだろうと、どんな性格だろうと、どんな顔だろうと。僕は、長門さんが長門さんだからそばにいるんです。離れたりなんか、しませんよ」


してあげません、とか。
二人の表情がフォンデュのように蕩けていくのが目視出来た。


「……買い物行く」
「あ、照れてます?」
「どちらかというと、あなたのほうが照れてる。顔真っ赤」
「慣れてないんですよ、それだけです。ところで、買い物ほんとに行くんですか?」
「顔の真っ赤なあなたを連れて練り歩く」
「誰かに見られたらどうするんですかっ! 僕が必死に作り上げてきたキャラクターが!」
「スリリング」


もう、長門さんは! と言って長門を抱きしめる古泉。
長門がいまだふぐふぐ言ってるけど、正直くぐもってしまって聞こえない。
聞こえなくて正解だったんだと思う。これ以上は、胸やけを起こしてしまう。
あぁ、どいつもこいつもいちゃこらいちゃこらしやがって。
梅雨だって言ってるだろ。恋人たちの季節には遅すぎて、刺激的な季節にはまだ早いんだ。
独り身の悲しさを霧散させるためには、罵倒をするしか方法はないのかと、天を仰いだ。

見事な夕日だった。
空がオレンジに染まって、小さく千切れた雲が形容しがたい色に染まっている。
こんな夕日を見るのは初めてだった。世界の終わりのような、荘厳さを持っていた。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
何もかも忘れて、この空気に溶けてしまいたいと願った。


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