(この物語の主人公はオリジナルキャラであり、世界観も原作とは正反対にハードでダークな設定です。登場人物の死亡や若干のグロ描写やメタパロネタが書かれますので、そう言った話が苦手な読者にはおススメできません)

 

 

 どうしてこうなった。
 自身が招いてしまった現状にも関わらず、俺は、ただただ嘆きの声を漏らすことしかできなかった。
 長門有希が暴走し、俺にとって悪夢のような改変世界を創造し、そこから死ぬ思いで帰還を果たしてからは、もう世界を疎んで孤高を気取るバカな真似は止めよう。そう思い、現実を楽しむことにしたはずだった。
 それから月日が経ち、年も明け、真面目な学生風に生活していた。
 煙草も止めたし、金髪も黒に戻した。ピアスだって外した。
 他所がどう言おうが、俺なりに更生してきた。
 急な変化だったので、俺「西野太陽」と「クラスメイト」では、大きな隔たりがいまだに残っているが、それを埋めるのが課題であり、「普通」を選んだ俺の義務でもある。
 時間がかかるのは明白であり、埋まる保証も無い。
 それでもやる意味も価値もあるからこそ、頑張れる。だが、

 


 わけがわからない。
 北高での授業を終え、帰宅するため駐輪場で愛用の原チャリに跨った所までは、いつも通りだ。
 それは運転中に小腹が空いたため、見かけたコンビニでおでんを数本買った後だった。

 

 どこからか視線を感じる。

 

 気にせずに家へ帰ればよかった。だが、俺の卓越して異常すぎる第六感センサーが、視線の主を突き止めることを選び取ったのがケチのつけ始めだった。
 原チャリを視線の方向へと走らせること数分、俺はゴミバケツと放置自転車が場所を取っている狭い路地裏へと招かれた。

 

 この時、俺は逃げるべきだった。

 いや、すでに遅すぎたのかもしれない。

 

 建物と建物で一層影が濃くなっている空間に女の子がいた。
 彼女は、腰までありそうな黒髪を、頭の上できれいに結い上げている。
 毛先の先端まで保湿成分が行き届いているからか、常時風呂上りの様に、数メートル先の暗闇からでも潤いを感じられる。
 この制服は……光陽園学院か。あの改変世界で涼宮ハルヒが装着していた物とは同様の物でありそうだ。
 しかし、その暗闇を切り取って生まれたような出で立ちも十分異様であるが、彼女にはそれ以上に異常を感じる部位があった。

 

 彼女は大怪我か大火傷をおったのか、全身に包帯が巻かれていた。

 

 それは制服の下から露出した皮膚を隠すように巻かれており、そのせいで短いスカートや袖はもちろん、襟からですら、肌が見えない。
 当然、どんな顔かすら判別できない。

 そのエジプトのミイラを思わせる格好に、全身の危機管理信号が赤色点滅した。
 だが、俺の汚れたコンクリートを踏みしめているはずの足は、根付いた植物の様に動かない。
 頼む、動いてくれ。見たまんま命の危機だろうが!
 「好奇心、猫を殺す」なんて上手い事例を語り継いだ奴が居た気がするが、そんなものは実践してたまるか。
 その女は握り締めていた細長い布袋から「何か」取り出し始め、それを視認した瞬間、俺はさらに愕然とした。
 刀だ。それも鞘から柄まで、何もかも真っ黒くて、離れたここからでも重厚な雰囲気を醸し出している。いつからSF物語が、学園伝奇物語になったんだよ。

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 殺意を纏った凶器を見たことで、俺の金縛りが解かれたことは幸運だった。
 路地裏に転がる、赤く汚いビールケースを、彼女目がけて蹴りとばした。
 瞬間、ビールケースは一文字に斬り裂かれる。

 もし命が助かるとすれば、それは後ろじゃない。

 彼女のみぞおちを、俺の飛び蹴りが貫く。
 思わぬ反撃が功を奏したのか、彼女は背中を地面に叩きつけられ、苦しそうに咳き込んだ。
「くそ!着いて来んなよ!」
 逃げるなら今以外無い。二十メートルも走れば大通りに出られる。いくらなんでも、人ごみの中で暴れるわけが、
「な!?」
 彼女は、一足飛びで俺のはるか頭上を跳び越し、何事もなく、俺の前に立ちはだかった。先ほどの奇策による奇襲は、まったく意味をなしていないようだ。
「がはっ!」
 地面を蹴る踏み込みすら見えなかった。一瞬で首に日本刀の鞘を打ち、廃れた雑居ビルに俺の背中を叩きつけた。

 

 包帯の隙間から僅かに覗かれる女の瞳と目が合った。

 そこには何も無かった。

 

 瞳孔はあるはずなのに、空洞としか思えないその瞳は、暗く、冷たい、「無」の光を放つだけだ。
 そうしながらも、着実に呼吸はつまり、少しずつ、確実に意識が弱まっていくのを肌で感じられた。
「ち……ちくしょぉぉぉ!」
 意識が失せる寸前で、最後の抵抗を試みれたのは幸運だったのだろうか。
 手を伸ばし、彼女の細い首を掴んだ。せめて顔くらい確認してやる。
 そんな思いが勝ったのかもしれない。俺は無我夢中で彼女の首に巻かれた包帯を引き裂いた。

 その女の肌を覆い、締め付けていた包帯が解かれる。

 

 俺の中の恐怖と憎悪が甦る。

 

 全身に稲妻が駆け巡る。

 

 二度と見たく無かった顔が、そこにいた。

 

 

 鈍色で、見る者全ての吐き気をもよおすほどに変色している包帯に包まれていた顔は、それとは相反するような端整な美少女であった。
「あ、朝倉ぁぁぁぁぁ!」
 手に残る千切れた包帯を握りしめ、俺は俺に絶望を告げる死神の名前を叫ぶ。
 朝倉涼子。かつて俺を痛めつけ、殺そうとした女だ。なんでお前がここにいる。お前は改変世界破壊と共に、消滅したんじゃないのか?
 だが解かれた包帯を口惜しそうに眺めると、彼女は俺に強い眼差しを向けた。
 その瞳孔には何も宿さない。瞳と言う感情を表しやすい部分であるが、鋼鉄よりも冷たく無機質な感覚を覚えた。
 なぜだ。なぜ朝倉涼子が存在する。朝倉涼子は、あの改変世界で消滅したはずだろ。
「うるぁぁぁぁぁ!」
 咆哮が放たれ、俺の身体の硬直を溶かす。
 光陽園学院の女子制服に覆われた腹部に、蹴りを叩き込めたのは幸いだった。朝倉涼子自身、こんなさきがけクリティカル攻撃が飛んでくるとは想定していなかったのだろうか?
 運命の女神が起こした気まぐれと冥王の職務怠慢があったと勝手に解釈し、暗闇から出づるため、路地終わりに刺さっている夕日まで全力疾走をした。

 

 

 

「そろそろ退いてくれませんか。朝倉さん」
 ビルとビルが隣接することで造られていた路地裏に、人影があった。
 夕日の逆光でその人影誰かまでは視認できなかったが、優しくて冷たい声が聞こえた瞬間、いつか見た碧い蝶が、顔の横を通りすぎた。

 

 狭く、暗い路地裏に爆音と火炎が踊る。

 

 暖色豊かな火の粉の奥で、朝倉涼子は刀を振り下ろし、歪んだ微笑を浮かべていた。
「ふむ、少しあなたを舐めてしまいましたね。謝罪いたします」
 全然謝罪する気を見せずに、喜緑江美里は静かに笑った。
「喜緑さん!」
「無事とは言いがたいですが、何とか間に合いましたね」
 生きていられれば、何でも良いさ。
「まあ、実際あなたが僅かでも抵抗できなければ、間に合いませんでしたけど」
 爆弾発言をサラリと言ってくれたが、マジでギリギリだったらしい。
 あんなのは俺の実力でもなんでもない。運が良かっただけだ。
「ありがとうございます。喜緑さん」
「お礼は、彼女を退ける時まで取っておいてください」
 その彼女、何故か光陽園学院のブレザーを着ているポニーテイルな朝倉涼子は、
「……あいつ、笑ってやがる」
 声も発さず、俺と喜緑江美里を見ながら、頬を歪めるだけだった。
 かつて中世ヨーロッパで大流行した黒死病の風刺画に描かれていても、なんの違和感も感じられない程に様になった不気味さだ。
「なぜ彼を狙うのですか?彼を狙った所で、涼宮ハルヒは情報爆発を起こすとは思えませんが」
 俺の感じている恐怖だが、喜緑江美里は何も感じないらしい。声を裏返させることもなく、いつもの柔和な口調である。
 それに喜緑江美里の言う通りである。涼宮ハルヒから見て、俺とキョン、どちらが彼女と近いか。
 そんなのはキョンに決まっている。それこそニューヨークと東京間の距離ぐらい差があるさ。
「そもそもどうして再構成の許可が下りましたか?」
「許可が下りたにしても、なぜ光陽園学院の制服なのですか?」
 だが、朝倉涼子は何も答えない。その後も続けざまに二・三、喜緑江美里が質問を投げかけたが、朝倉涼子は沈黙を守っている。
 言葉が理解出来ていないのか?いや、あの歪んだ微笑は、嘲笑うかのように不気味だ。そんな笑い方は、意味を知っていなければ出せない。
「……再構成されて随分経ったはずでしょうが、いまだにコミュニケーション機能が発達していないようですね。もしくは、戦闘能力を重点的に上げ、他を疎かにしたのでしょう」
 その問いにも無言を貫いている。ただただ、不気味に笑う。
「そうですか。そんな突貫工事で再構成されたインターフェイス以下の存在に何ができるか、見せていただきます」
 その言葉を合図に、一匹の碧い蝶が喜緑江美里の掌に舞い降りた。
「西野君。あなたは後ろに下がっていてください。邪魔です」
 そうさせてもらう。朝倉涼子に斬り殺されるのも、喜緑江美里に焼き殺されるのもゴメンだ。
「気をつけてくださいよ。喜緑さん」
「心配は不要です。私を誰だと思っているのですか?」
 どうやらよほどケンカには自信があるらしい。どんだけ桁外れの暴力なんだよ。この人達。

 

「さぁ、朝倉さん。悲鳴の歌を歌ってください」

 

 喜緑江美里の掌から、碧い蝶が飛び立つ。

 

 その蝶が飛ぶ早さだが、確かに普通の蝶に比べれば十分早いが、それでも精々、野球のボールを投げつけたくらいのスピードでしかない。
 あのスピードなら、避けるのも容易いだろう。
 予想した通り、喜緑江美里の碧い蝶は、朝倉涼子の身体には触れられず、難なく避けられた。
「朝倉さん。それでは間に合いませんよ?」
 その瞬間、朝倉涼子が避けたはずの蝶が、投げたブーメランがカーブを描くように、彼女の肩に舞い降りた。

 

 炎が暗い路地を碧く照らす。

 

 碧い火の粉の中で、朝倉涼子は苦痛によって、浮かべていた笑みを解かずにはいられなかった。顔を歪ませながら、黒コゲの肩に手を当てている。
「おっと。膝をつく暇があるのですか?」
 第二波、第三波と、立て続けに碧い蝶が朝倉涼子に襲いかかる。
 朝倉涼子に迫る碧い蝶の群れ。それらが牙を剥き、あと数瞬で喰らいつく。だが、
「っな!?」
 一歩退いて見ていた俺でも、それには思わず声を漏らしてしまった。

 蝶達が朝倉涼子の身体に付着しようとする瞬間、朝倉涼子はコンクリートの地面を抉るほどに、強烈なストンピングを叩き込んだ。

 抉られたコンクリートが、壁のように彼女の鼻先まで盛り上がった。
 当然、コンクリートの壁に蝶が直撃してしまい、朝倉涼子が碧い爆炎に包まれることはなかった。

 それだけではなかった。
 続けざまに、朝倉涼子の足がコンクリートの壁を蹴り砕く。そして砕かれたコンクリートが向かった先は、喜緑江美里。
「ふふふ、まあ出来損ないにしては上出来でしょう。たぁっ!」
 叫びに呼応され、碧い蝶の群れが、喜緑江美里を守るように周囲に展開される。

 爆音が響き、衝撃波となり、突風を産み出す。

「うわっぷ!」
 強い衝撃波が全身に襲い掛かり、無様に吹き飛ばされそうになる。なんとか踏ん張ることができたが、こんな異次元バトルに付き合うのは、常人の俺には辛すぎる。
「西野君。逃げない方がいいですよ」
 少しでも情けない考えを起こしたのが、朝倉涼子に伝わってしまったのだろうか。
 爪先数インチ前の地面に、かつて改変世界で俺に襲い掛かった時に振るった肉厚のサバイバルナイフが突き刺さる。
 なんだよそのコントロール抜群さ加減は。逆光照り返されて視界が悪いはずだが、闘っている喜緑江美里の股下を抜けた上で、俺にナイフを投げつけるなんて、プロ軍人でも無理だろ。どこまで常識を超えた存在なんだ?

 

 さらに一歩、アスファルトを踏み抜いた足で、朝倉涼子が間合いを詰める。

 日本刀による斬撃が、喜緑江美里を正中線で分かつように、頭上へ振り下ろされた。
「はぁっ!」
 喜緑江美里の口から短い気合が放たれ、彼女は頭数センチ上で、朝倉涼子が振り下ろした日本刀の刀身を素手で受け止めた。
 掌から溢れ出ている血液が制服の袖を汚しているが、何を気にするわけでもなく、
「マイクロ単位で心臓を狙った正確な斬撃ですね。ここをやられれば、いくら私たちでも機能停止は避けられません。ですが」
 微笑を曇らすことなく、余裕に満ちた言葉を続けている。
「あなたは唯一の誤算をしました」
 その瞬間、喜緑江美里の整った横顔から微笑が消えた。
 冷徹で、朝倉涼子の握っている日本刀にも負けない、刃物の様に研ぎ澄まされた眼光を剥き出しにしている。

 

「私を敵に回したことです」

 碧い爆炎が、二つ、踊る。

 

 

 そして火の粉が晴れた時、俺はその光景に思わず目を背けた。

 朝倉涼子の右腕が、無残にも千切れていた。
 手首から先が消し飛び、それは捥ぎたてのバナナの茎を思わせる。
 地面には彼女の指らしき物が焼け爛れた状態で散らばり、その中に、朝倉涼子が握っていた日本刀の切っ先も混じっていた。
「その出血では機能停止も時間の問題です。はやく帰還したほうがいいですよ?朝倉さん」
 勝敗も力の優劣も明らかだった。今、この場で喜緑江美里に抵抗できる者はいない。
 だが。と、俺はここで思う。

 

 俺の命にそこまで価値があるのだろうか?

 

 死にたくはないさ。俺はあと50年は人生を謳歌したいしな。
 だけど朝倉涼子よ。そこまでボロボロになったのに、なぜ退かない。
 もういいだろ。もう退いてくれ。
 それでも尚、朝倉涼子は撤退の姿勢を見せず、日本刀を握ったままの手で、床に転がっている刀の先端を拾い上げた。

 

 

 ぐしゃ。
 ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ。

 

 

「……朝倉」
 朝倉涼子は、千切れた手首の先端に、折れた刀の尻を、無理矢理埋め込んだ。
 血が吹き出ようが、骨にぶつかろうが、構うことなく。
 無くなった右手の代行品にするように。
 これにはさすがの喜緑江美里も、眉を潜めて苦い顔をしている。おまえは「どろろ」か。リアルに手塚治虫先生の名作を再現してんじゃねーよ。
 そして、さっきまで浮かべていた微笑を再び貼り付け、臆することなく喜緑江美里に切りかかった。
 左腕だけで斬撃を繰り出したからか、折れた日本刀は喜緑江美里に触れることすらできず、ビルの壁に突き刺さる。
 それを好機と見た喜緑江美里は、突き刺さって抜けずにいる刀で悪戦苦闘している朝倉涼子に拳を叩きつけた。
「がぁっ!」
「喜緑さん!」
 叩きつけた拳を縫うように、朝倉涼子は刀を埋め込んだ右腕を喜緑江美里の肩に突き刺した。
 大降りの斬撃は喜緑江美里の攻撃を誘うための囮、本命は右腕によるクロスカウンター。
 壁に突き刺さった刀から手を離し、その手で喜緑江美里を逃さないように肩を掴み、
「おふっ!」


 脇腹に膝蹴りを叩き込む。

 身をよじり、喜緑江美里は辛そうにアスファルトに膝をつく。そこへ、頭に肘打ち。
 その連撃に、喜緑江美里は反射的に朝倉涼子を見上げる形で二人の視線が交じった。
 呼吸すらも感じさせないタイミングで、朝倉涼子は、喜緑江美里の顔面をローファーで踏みつけ、コンクリートでできているはずの壁を瓦礫にするほどに強烈な蹴りを繰り出す。
 喜緑江美里の身体は、アスファルトで出来ているはずの壁を瓦礫に変える程に吹っ飛び、先ほど朝倉涼子が突き刺したままにしてあった刀の真下に背中を打ちつけた。
 ガラガラと、粉々になった瓦礫が落ちる音が聞こえる中、朝倉涼子は壁に刺さっている刀を無傷な左手で握り締める。

 

一閃。

 

 壁に刺さった刀を引き抜くことで、摩擦で数倍に増した剣速が、コンクリートの瓦礫ごと喜緑江美里を斬り裂いた。

 グレーのキャンパスに広がる圧倒的な赤。真っ赤な血飛沫が、アスファルトの地面や廃ビルの壁に飛び散る。
 顔にその血飛沫が跳ねたのだろう。朝倉涼子は自身の頬に付着した血を舐め取り、折れた刀を鞘にしまった。


 この瞬間、朝倉涼子にとって、再び俺が攻撃対象に変わる。
 朝倉涼子は右腕に突き刺した刀の切っ先を、俺に向け、かすかに微笑みを浮かべた。

 

 俺を殺すために。

 

 俺を殺し、世界を壊すために。

 

「斬撃は見事。さすがは攻撃機能特化型インターフェイスです。が、ターゲットの破壊を確認せずに、戦闘形態を解くべきではありませんよ」
 今まさに、捕食を開始するハイエナのように一歩飛び出そうとした朝倉涼子の肩に手を置いて、喜緑江美里は静かに語りかけた。
 斬り捨てられた胴。
 その上、裂けた制服すらも。元の北高冬仕様セーラー服へと完璧に修復されていた。
「夕日に溶けなさい。朝倉さん」
 その言葉は強く、季節外れも甚だしい、碧い花火が暗い路地裏で踊った。

 


「機能の停止を確認してからが、本当の任務完了ですよ。朝倉さん」
 朝倉涼子の着ていた光陽園学院のブレザーが裂け、露わになった白い肌の背中を覆うように、黒焦げの大火傷が広がっている。
「死んだんですか?」
 壊れたのか?の方が正しい気もするが、とっさに出たものは仕方ない。
「あくまでも機能の停止です。完全に消滅をするならば、やはり情報の連結を解除しなければなりません。お望みなら、そう処理しますが?」
 いや、勘弁してくれと答えておいた。理由や言い訳は数あれど、俺の采配一つで存在の存続を左右されるなんて重すぎる。朝倉涼子に対してその決断をするのは、今、この時ではないと思う。
「なんでこいつがこんなことを……」
 アスファルトに突っ伏して、それこそ死んだように意識を失っている朝倉涼子だ。
 俺が殺される理由?怨みを買う理由なら思い当たるが、そこまでの殺意を向けられる言われはない。改変世界のことは片付いたはずだろ。
「朝倉さんの目的、いえ、急進派の目的は多大な量の情報フレアを観測することです。他派閥の見解ですので、私達では推測の域を脱しませんが……」
「続けてください」
「それでよろしければ。おそらく、朝倉さん達は、あなたを刺激することで涼宮ハルヒの中に埋もれた改変世界の記憶に揺さぶりをかけようとしたのだと思います」
 改変世界。俺にとって忘れ難い悪夢の3日間であり、忘れてはならない真実の3日間だ。
「あれは、もう済んだことではないのですか?」
 いいえ。と首を横に振って否定する喜緑江美里。
「事情は済んでも、影響が済むとは限りません。存在しない72時間ですが、遺恨は残り続けます」
 言われて見れば当たり前のことだった。事後処理が完遂するまで、事件が終了するわけがない。
 浅はかであった。浅はかであり愚かだった。
 現実が楽し過ぎたから、つい忘れていた。忘れていても、存在していた事実は変わりないはずなのに。
「畜生が。劣化してどうするんだよ」
 あの3日間で自分を見つめ直し、成長したつもりでいた。「つもり」でいただけで、変わらないどころか平和ボケしてやがった。世界の舞台裏を知った以上、要らぬ災いまで引き込むことだと考えを進めなかった俺自身の失態だ。
「安心してください。最早、あなたは涼宮ハルヒを構成する大切なファクターの一人です。あなたの消滅は、私が阻止します」
 心強い言葉であるが、鵜呑みにするわけにはいかない。信用とか信頼とか以前に、頭空っぽにしてはならない。したからこそ、こうやって朝倉涼子に襲われたわけだからだ。

 自分の身は自分で守る。守れないなら守れる人に守らせる。それでもド頭の判断だけは、鈍らせてはならない。
 今回の事態において唯一の収穫だが、ハッキリ言って及第点もいい所である。お情け以外の何物でも無い。畜生。

 

 

 

 その日はそれだけで解散となった。しかし喜緑江美里は、朝倉涼子に襲われた後も、しっかりと自宅までついて来た。原チャリにまたがって。
 って、あなた確か生徒会役員ってことになってましたよね。
「いえ、走るのダルいですし」
「いえ、さすがに一人だけ歩かせるなんてカット的にひどい事はしませんけど。なんなら原チャリは適当に放置して、付き合いますが?」
 正直、二人乗りはしたくない。
 うちのクラスに、そう言った噂話に眼が無い男がいるんだよな。眼が無いだけなら構わないが、前、たまたま休日に出会った涼宮ハルヒと昼飯喰っただけで、翌日には噂を歪曲して広めやがった。
 どうして知ってるんだよ。やましい事など何一つしてないし、何を言われても構わないが、涼宮ハルヒにまで迷惑かけんじゃねぇよ。眼ぇ潰して、マジで眼を無くしてやろうか?
 と言う苦い思い出があるわけで、俺の変な噂など今更どうでもいいが、喜緑江美里にまで迷惑が波及しないか心配だ。
「風を感じたいのです!」
「あなたでしたら、走れば十分風を感じられると思いますが。高速道路クラスの」
「バカにしないでください。新幹線とだって勝てます」
「まさかの上方修正!?」
「私が本気で走れば、リニアを越せます」
「なんて人だ!現在最高水準クラスの科学力を、生身で超えられた!」
「1.21ジゴワットの落雷さえ受ければ、時間移動も可能です」
「ファンタジーの世界まで体言した!」
「さすがに二十九分で地球を百周はできませんが。地続きではありませんし」
「レッドラインがあれば、ゴテンクスとタメを張れたんですか!」
「でも、走るって疲れるんですよね。瞬間移動も可能ですが、運転してもらった方が楽ですし」
 もしかしたら、ドラゴンボールでヤムチャが空を飛ばなくなったのは、単純に疲れるのが嫌になったからなのか?あいつ、ブウ編から飛行機使い出したし。
 つーかなんでこんな身内から、ヤムチャの気持ちが察せるんだよ。ドンドン日常がファンタジーに押されていく。しかもバイオレンスでサバイバルな。どうせファンタジーならラブロマンスでハートフルコメディーなファンタジーを希望したいぜ。
「ちなみにハートフルとは「心暖まる」つまり人情と言う意味があります」
「なんでいきなり和訳したんですか」
「いや、あなたが適当に発言した気がしたので」
 そもそも発言していない。と声に出したかったが、あまりツッコんではならない気がする……なんでこんな無駄な気遣いをしたいのかはわからんが。
「まあ、それは良いとして、あなたはアレですか?好きな女の子以外、タンデムしたくないと言う痛い人ですか?」
「痛いって決めつけないでくださいよ!それと俺はそんな線引きしてません!」
 さすがに嫌いな奴ならともかく、普通に友達くらいなら後ろに乗せてるよ。……いや、友達少ないってのは無しに。
 つーか、よく考えたら実際二人乗りしたのは涼宮ハルヒだけだ。古泉一樹も後ろに乗せた記憶があるが、あの3日間以外は創られた記憶なわけで……結構凹む事実だ。
 そりゃあ俺は涼宮ハルヒの事は大好きだが……仲良くて、面倒で無ければいいか。
 愛用の原チャリのキーを回し、黒いシートにまたがると、喜緑江美里は俺と背中合わせになるように、後方を向きながらシートに着座した。
「一度してみたかったんですよね。二人乗り」
「いや、あなたの二人乗りは間違ってます」
 ボケてツッコミ待ちか?それとも本気で知らないのか。
「え?こうやって一人が運転に集中し、もう一人が背後からの赤コウラの襲撃に対処するのが一般的な二人乗りではないのですか?」
「マリオカートは64が一番面白かったですね」
 ミニターボ覚えるのには苦労したな。
 この人なら、例えトゲゾーやスター状態のクッパがタックルしてこようが、周囲にバリアを展開してメガフレアすらも回避するだろう。つまりどんな荒い運転をしても大丈夫と言う意味だ。
「数あるキャラクタ物のレースゲームが出回りましたが、勝ち残ったのはマリオカートだけでしたね」
「Nintendoですから。それではサンダーに気をつけて発進しまーす」
 取り合えず、家に帰ったらマリオカート64でも発掘してみるか。久しぶりにクッパで爆走してぇ。

 

 


「なぜかしら。綺麗な部屋の隅に置かれたゴミ箱って、あまり汚いって印象を受けないのよね」
 ゴミはゴミなのに。と、言葉を繋げて、涼宮ハルヒは目の前の堅焼きそばを啜った。
 この女は。正午過ぎのランチタイムだと言うのに、食堂で同席相手にゴミについて話を振りやがって。
 丁度よくクリームコロッケ定食を咀嚼していたので、俺は答えられないことを示しながら聞き流した。
「本当、慣れって怖いわね」
 今は一杯のオレンジジュースが怖い。と言う見え見えのツンデレ旦那みたいな事を考えながら、浄水器から汲み上げた冷水を流し込んだ。
「……はぁ」
 チラリと俺の顔を一瞥して、涼宮ハルヒはため息と共に、堅焼きそばを食す動作に戻る。
 三学期になり、俺の昼休みが劇的に変化した。良いのか悪いのかは分からんが。
 端的に言えば、一緒に飯を食う相手が増えた。そう涼宮ハルヒである。
 二週間くらい前だったかな。お互いに学食派だった俺達は、三学期初めの通常授業後の昼休みに、学食で顔を合わせた。
 その日は学期初めだったからか、学食では、戦後の食糧危機で配給を待つ難民達がひしめく様に、生徒で溢れかえっていた。
 床食いを覚悟していた俺であったが、上手く幸運が重なったからか、二人がけの小さなテーブル席を確保できた。
 そこに現れたのが涼宮ハルヒだった。
 目障りだから床で食え。お前が食え。というお互いが譲り合いの交渉を続けること数分、涼宮ハルヒは渋々と、空席に腰を下ろした。
 そんなことが数日くらい続くと、なんか無視しあって別々の席に座るのもガキ臭いと感じたらしく、それからはどちらが言うまでも無く、同じテーブル席を使用している。
 最初こそ殆ど話しもせずに黙々と昼飯を咀嚼していたが、俺も彼女も騒ぐのが好きな人間である以上、いつの間にかお互いの愚痴等を肴に食事をしていた。
「安心してくれハル。お前の皮肉はちゃんと伝わっている。俺が気にしていないだけだ」
「そっちの方が質悪いわよ」
 こう言う下らない会話が、心地よい。
 そう。改変世界では、あっちの俺達も、こうやっていた事を思い出すからだ。
 作り物の記憶でも、手軽に切り離せそうにない。その必要も無いが。
「ふっ、ならば仕方無い。俺はここを退散してやる。もう二度と帰ってこないからな。今更止めても遅いぞ」
「うん、わかった。諦める」
「なんでこんな時に限って素直なんだよ!そこはホラ!?ツンデレで返してくれよ!ちょっと期待してた俺が、死ぬほどかっこ悪いじゃねーか!」
 危なく食器落としかけたわ!まだクリームコロッケ半分以上残ってるんだ。ツンデレにツンデレられないほど悲しい展開はねーよ!
「ツンデレって、好きな相手じゃなきゃデレるわけないじゃない」
「そーですね」
「なに、あんたまさか自分でハーレム系漫画の主人公補正が宿ってるとでも思ってるの?うわ、痛い。痛い奴」
「そーですね」
「……もしかしなくても、あんたあたしの話聞いてないでしょ」
「そーですね」
「テレフォンショッキングにでも出……られるわけないか。友達いないし。ギネス記録を止めるだけね」
「そーですね……つーか、あれって本当に友達なのかな」
「んなわけないでしょ。仕事でしょ。し・ご・と」
 うん。そんなことは大体の視聴者が重々気が付いてるだろ。多分。
「やれやれね。……はい、もしもし……はい、わかりました。いいともー!」
「呼ばれた!?テレフォンショッキングに呼ばれた!?」
「と言うわけで、あたし明日学校休むから。ついにSOS団のTVデヴューよ!」
 誰に呼ばれたんだ。そして誰に回すんだ。スッゲー気になる。
「大体、あんたツンデレ萌え?あんなのリアルでいたら、ただのコミュニケーション能力の低下したバカよ。いないいない。夢見てんじゃないわよ」
 まるで自分の事のように語るな。ツッコミ待ちか?
「そーですね」
「そーですね。言っとくけど、あたしは別にツンデレなんかじゃないんだからね!」
 うん、それだけでお腹一杯です。本当にありがとうございました。

 

 


 心もお腹も満たしたが、俺の気分は、昨日のことが影響し、一向に晴れなかった。
 こんな時、金髪時代の俺なら、煙草に火をつけて気分が晴れるまで紫煙に溺れていた。
 しかし今の俺はオイルライターは持っていても、煙草は持っていない。よって屋上に流れる一月半ばの寒風を肺に流し込むことしかできない。
「はぁ、こんなんで禁煙完遂できるのかよ」
 まだまだ一ヵ月目なのに、もう身体は煙を欲しかけてる。四年近く吸っていたから、何年我慢すれば気にならなくなるんだ?
 ランチタイムを終え、腹ごなしと気分転換を兼ねて屋上へとあしを向けた。
「ん、携帯が」
 屋上直前の階段室に差し掛かった瞬間、ブレザーの裏に忍ばせた携帯電話が小刻みに振動した。
 一体誰からだ?俺の番号を知ってる奴なんて、母親と、(改変世界の)涼宮ハルヒと古泉一樹くらいだ。……実質母親だけだが。
 淡く光るディスプレイに映し出された番号には、当然のことながら見覚えは無い。
 無視しようか応答しようかしばらく考えていたが、携帯の振動回数が三十を超えたあたりで通話ボタンを押してみた。
「良かった。やっと出てくれる決心がついたみたいですね」
 意外にも、スピーカーから漏れ聞く声は女性だった。それも声だけで判断するならば、かなりの美人だ。
「西野君ですよね?初めまして、あ」
「違います」
 出るべきでは無かった。そんな直感が働き、無駄の無い高速の所作で電話を切った。
 だが、電話越しの相手はそれを許さず、数秒後に再度ダイヤルしてきた。
「いきなり切るなんて酷いじゃないですか。あなたは女性には優しいと聞きましたが?」
「俺は誰にだって優しく真摯な態度をとりますよ。俺が敵意を剥き出しにするのは、いつだって外道だけです」
「それは相手が女性でもですか?」
 否定はしないのか。
「外道は外道。男も女も大人も子供も関係ありません」
「ふふ、なら私も気をつけないとなりませんね」
 電話の相手は、色艶良く微笑むと、呼吸を正して言葉を続けた。
「今から話す私の言葉、信じてくれますか?」
「見ず知らずの女からかかってきた電話の内容を信用しろですか。冗談じゃない。振り込め詐欺だって、もう少し紳士的ですよ」
「私はあなたのことを知ってますよ?」
「どこの誰で、何の用だ。俺の不服を買う前に答えろ」
 もう勘弁してくれ。なんだこの電波で送られた電波なコミュニケーションは。
「ごめんなさい。今はどこの誰かは言えません。ただ、今から私のお願いを聞いていただければ、その質問には答えられます」
「実はこのまま間違い電話として処理したいくらいなんでね。よって、あなたのお願いとやらは聞けない。さようなら」
「待ってください!私、あなたにお願いをしなければならないんです!聞いてくれないと泣きます!?20代の女性とは思えないくらいに無様にわめき散らしますよ!」
 それ、お願いじゃなくて命令だよな。俺に対しても、彼女に対しても。
「それはそそる物があるな。ぜひ見てみたい。が、電話では声しか送ることができないのが悔やまれる。さようなら」
「ううう……キョンくんならこのやり方で聞いてくれるのに……やっぱりあなたには通じませんね……はぁ、どうしよう」
 泣き落としを使うなら、心がもっと綺麗で、あとついでに十代の童貞少年に使えよ。俺は十代の童貞少年だが、心は真っ黒だから。泣き落としなんか効くわけが、
「……今、キョンって言った?」
 この女、キョンと知り合いなのか?
「あんた、SOS団の関係者か?」
「あ!やっぱり私のお願い聞いてくれる気になりましたか!?良かった、これで上司に叱られないですみます」
 電話越しだが、明らかに彼女は声を輝かせて、はしゃいでいるのがわかる。
「聞くだけ聞いてやる。で、何の用だ?」
「電話ではちょっと伝わりづらい所があるので、学校を出て来てもらえますか?あ、大丈夫ですよ。あなたが懸念している朝倉さんは動かないはずです」
「何でそんなことがわかるんだよ」
「それが既定事項です」
「……わかった。どこに行けばいい?」
 電話越しの彼女は、指定の場所と時間を言ってから電話を切った。今日は帰りが遅くなりそうだ。
 くそ、家族の団欒を大切にしたいが、俺のダチと俺の住む世界を守るためだと思うことにしよう。

 

 


 電話の女が指定してきた場所まで原チャリを走り出させ、エンジンを落としてハンドルロックをかけた頃には、陽は落ち始めていた。
 レストラン。それも、全国チェーン展開を完成させた、どこにでもある有名なファミレスだった。
 同い年くらいでバイト中のウェイトレスに、一人である旨を伝えると、カウンター席の最端まで案内された。着席。
 一体何なんだか。とりあえず晩飯代わりにおろしハンバーグとオレンジジュースでも頼んでおくか。
 先程のウェイトレスが通りかかったため、メニューを注文しようと呼びかけた瞬間、制服のポケットに忍ばせた携帯電話が、昔懐かしな黒電話風の着信音を奏でた。
「良かった。ちゃんと来てくれたんですね」
「……おあずけにされる犬の気持ちでも味合わせるためにレストランに呼び出したのか?味だけに美味くねーぞ」
「……?味だけに?あの、言ってる意味がよく……」
「いや、なんでもない。わかんなきゃいい」
 どうせわかんないだろうとは思っていただけに、あまり真面目に捉えられても困る。
「当然あなたもこの店にいるんだよな?だったら顔ぐらい出したらどうだ?」
 耳に携帯電話を当てながらも、視線だけで店内の客を見回した。ダメだ、電話中の女ってキーワードだけじゃ、誰か特定できるわけがない。
「いえ、私はそこにはいません」
 当然のように不在を暴露した電話相手に、俺の苛立ちは更に募るばかりだ。
「呼び出しといてそこにいないなんてどういうつもりだ?マジで帰るぞ」
「ごめんなさい。でもこれが規定事項なんです。だから最後まで聞いていただけませんか?」
「勘弁してくれ。今から俺は晩飯を頼む。それを食べ終わるまでに顔を出さなければ、あんたとはこれっきりだ。二度と電話かけてくんな」
 乱暴にケータイの電源を落とし、近くにいたウェイトレスにさっき頼もうとしたハンバーグとオレンジジュースを注文した。

 


 うぷっ。早食いすぎて味が楽しめなかったか。だが、残りはオレンジジュースだけだ。
「あの……西野太陽さんですよね?」
 一気飲みの最中、いきなり中学生くらいの男の子が声をかけてきたが、そんなことはファミレスじゃ良くあること。世界規模で見れば、毎日百万回ぐらいある出来事に決まっている。
「違います」
 これでタイムアップ。あの電話はイタズラ電話と言うことにして、早速着信拒否に設定しておかなければ。
「あの……あなたにこれを渡せって言われたんですけど……」
「人の話を聞け。違うって言ったのが聞こえなかったのか?」
 こっちは大して空いてもいない腹に、大急ぎで肉料理と果汁飲料をつめこんだから、軽く吐きそうなんだよ。話かけんな。
「ヒィ!ご、ごめんなさい!でも本当にあなたに渡せって言われて……」
 ウンザリした気分で、その少年が握っていた封筒を奪い取って、乱雑に中身を開いた。
 そこには綺麗な便箋が入っており、ただ一文、素っ気なく記されていた。

 


『ーーしばらくその子を預かってくださいーー

 

                   ~親愛なる太陽さんへ~』

 


 ……落ち着け俺、感情の赴くままに目の前の少年に拳を振るうな。それはただの八つ当たりでしかない。そんなことは理性的な人間のすることではないし、この日本において、忍耐は美徳という文化が浸透しているではないか。今ここで日本人の誇りを見せずに、いつ見せると言うのだ。
「あの……もしかして本当に人違いですか?だったらごめんなさい」
 俺の思案顔が長すぎて怖すぎたからか、少年は顔中の血の気を失せさせたような顔で謝ってきた。
「……いや。残念なことに、キミの行動は当たってるさ」
 本当に残念だ。
「良かったー。僕、これが始めての任務だから間違えたかと思って心配しました」
 少年は瞳を少しだけ潤ませて、嬉しそうに笑った。一瞬でも八つ当たりを考えた俺を殺したくなったが、それは言わなければ伝わらないことである。
「……とりあえず色々聞きたいことがあるが、まずは名前を聞かせてくれ。キミの名前は?」
「あ、はい。僕は……」

 

 


「……です」
「は?」
 少年は酸欠した金魚みたいに口をパクパクさせただけだった。
「聞き取り辛かったですか?僕は……あれ?なんで名前が出ないんだろう?」
 ガクッと、四十肩を体験するかのようにテーブルにウナ垂れてしまったのを許して欲しい。
「……俺が知るかよ。ふざけてんのか?」
 実際の所、そっちの方が嬉しいが。
「ヒィ!ち、違うんです!本当に名前が喋れないんです!」
「……下手なアイドルの口パクライブじゃないんだから、そんなことがあるわけねえだろ」
「……多分ですけど、禁則事項に設定されてるんだと思います。でも名前まで禁則に設定されるなんて聞いたことありません。なんでだろ……」
 よくわからんが、どうやら本当に喋れないらしい。名前が言えませんなんて、そこらの迷子よりよっぽどタチ悪い。
「……勘弁してくれ」
「ごめんなさい……」
「わかった。呼び名なら俺が適当につけてやる。とりあえずしばらくはそいつで通してくれるか?」
「は、はい!よろしくお願いします!」
 少年は年相応に素直な性格をしているのか、元気良く返事をしてくれた。しかし名前か。我ながら無茶なフリを振っちまった。そうだな……。
「…………藤原君」
「……へ?ふ、藤原ですか?なんか普通……いえ、ごめんなさい」
 特にアドリブが思いつかなかったので、さっきオーダーを取ってくれたウェイトレスの苗字を使わせてもらった。本当にそれだけ。他意は無い。
「わかりました。それではこの時間平面では、僕のことは「藤原」と呼んでください!」
「はいはい。よろしく、藤原君」
「よろしくお願いします!」
 少年、藤原君は嬉しそうに頭を下げた。藤原(仮)でも、自分の存在が確立できたら嬉しいもんなのかな。少し適当に考えすぎたから、ちょっとだけだが罪悪感を感じてるのだが……本人が気にいってるっぽいから良いか。
「ところで藤原君は、この封筒の中身は知らないよな?」
 藤原に渡された便箋を、彼に見えるようにテーブルの上へ置いてあげた。
「はい。あなたに渡すまで内容は見るなと言われました」
そりゃそうだ。ウンザリするくらいに簡素な内容だが、これは彼らにとっては最重要書類だと思われる。それを一構成員である彼が盗み見ることは
 有り得ない。第一、俺が封筒をビリビリに破くまで、傷一つ無かったわけだし。
「ホラ、手紙にはこんなことが書いてあるぞ」
 藤原は中身を確認するや否や、小さな眼を瞬かせて、口を大きく開いていった。
「……な、なんですか、コレ?」
「俺に聞くな。俺がコレに関して感じたことを直接行動に現せば、間違いなくパトカーがやってくる」
 改変世界じゃ、嫌と言うほど国家暴力の恐ろしさを感じたんだ。現行世界まで身に染みて理解なんかしたくない。
 だからそんなことにはならないようにするから、怯えた羊みたいに身体を震わすな。何もしないよ。君には。
「あの……それでどうするのですか?」
「どうするもこうするも、このままガキ一人を見知らぬ時代に放り出すなんてマネはしねーよ。母親には適当言っといてやるから、家に来い」
 藤原がマーティ・マクフライなら、俺がDr,エメット・ブラウンくらいにはなってやるよ。デロリアン作ってやれないが。
「よかったぁー。最優先強制コードだったから、あなたが僕を見捨てたら、僕は任務失敗になるとこ……あれ?なんで僕が未来の人間だって言うのがわかったのですか?まだ一言も」
「……いや、普通気付くから」
 非日常に足突っ込んだ奴なら、ここまでの会話を聞けば誰だってな。
「藤原、お前はもう少し手の内を隠せるようになれ。そんなんじゃ口論には勝てないぜ?」
 未来人ってのは、時間移動能力以外は普通の人間なんだろ?ケンカができないなら、暴力を論破できるくらいに口と頭脳で強くならんとな。
「そうなんですか……が、がんばります!」
 頑張りすぎて嫌な奴になってほしくもないんだが……素直な性格してるし、そこん所は少し心配だな。
 つーか俺はどこぞのお兄ちゃんだ。なんでこんな細かな心配しなきゃならんのだ。

 


「太陽さんのお母さんって、良い人ですね」
 帰宅してから一時間後、藤原は子供らしい満面の笑みを浮かべていた。
「まぁな。いまだに俺の遺伝子の半分が母親だと信じられないからな」
 母には「中学の後輩の両親が離婚したから、その弟を一時的に預かることになった」と苦しい言い訳をしたら、二つ返事で居候を許可してくれた。
 まず間違いなく、母親は俺の言い訳を信じたわけではないだろう。
 それでも、息子が嘘をついてでも、身元も不明な少年を連れて来たんだ。なにか裏にあるくらいは感じ取っているはずだ。
 だから何も言わずに許容してくれた。
 親にとって子供の嘘を見破ることなんてたやすい。だけど、子供の嘘を容認することは、簡単なことではないだろう。
 だから俺はあの母が好きなのだ。マザコンだと揶揄されようが、産んでくれた母を嫌うより、はるかに素晴らしいことだ。
 そんな母親に嘘をついたことに罪悪感は覚えているが、それはそれ。これはこれ。ゴメン!
「ふぅ、初めての長時間移動でしたので……ふわぁ……」
 目から涙を零して、藤原は大きなあくびを繰り返している。
 俺が藤原くらいだった頃は、まだまだ目が冴えていた時間帯だが、時差ボケみたいな物だろうか?
「ちょっと待ってろ、今布団を敷いてやるからな」
 襖から客用布団を取り出し、畳の上へ広げると、今度はクローゼットへ。中学ん時のジャージがまだ残ってるはずだ。
「その格好じゃ寝苦しいだろ。俺のお下がりだが、こいつで我慢してくれ」
 藤原がジャージに着替えている間に、俺も自分の着替えと布団を取り出し、藤原の布団の隣に敷くと、寝仕度を整えた。
「明日、学校終わったら、薬局にでも行って、お前の持ち物でも買いに行くぞ」
「そんな……おかまいなんかしなくても良いですよ」
「バーカ。ガキは年長者の脛をかじるもんだ」
 掛け布団から頭だけ覗かせている藤原の髪を撫でて、電灯から垂れ下がっているスイッチを引っ張る。
「そんじゃな藤原。おやすみ」
「はい、おやすみなさい。太陽さん」

 


 翌朝、隣の布団で寝息を立てていた藤原を起こし、朝食を堪能して学校へ向かった。
 家に藤原を置いていくのは少しだけ不安だが、学校へ連れて行くわけにも行かない。適当に家事の手伝いをさせてやってくれと、母に伝えてあるので、自分で何とかしてもらおう。
 いつも通り愛用の原チャリを北高から少し離れた駐輪場へ駐車した時だった。
 駐輪場の中に、同じ北高制服を着た男子生徒が佇んでいる。
「これはこれは西野君。こんな所で会うなんて、奇遇ですね」
 その男は古泉一樹だった。
 古泉一樹は物腰柔らかな微笑を顔に貼りつけて、俺の側へと歩んで来た。
「奇遇ねぇ。どれぐらい待ったんだ?」
「ざっと一時間程」
「待ちすぎだ!つーかお前らだったら、俺が到着する時間くらい割り出せるだろうが!なんで一山いくらな芸人軍団の出るロケ番組みたくスタンバってるんだよ!」
 律儀過ぎるわ!律儀過ぎてひいたわ!先ほど古泉一樹の笑顔を「貼りつけている」と表現したが、この寒空の中一時間も外に放り出されたら微笑も凍るわ!むしろ笑っていられるのがスゲーよ!すまん!なんか悪かった!
「ふふふ、その言葉。やはりあなたは「関係者」でしたか」
「まぁ、ご覧の通りな。お前も、俺に話があるんだろ?」
「ええ、一緒に登校しながらでよろしければ、道すがらお話しします」
「構わねーさ。むしろ遅すぎだと思ってたくらいさ」

 


「どこまでご存知ですか?」
 通学路中に設置されている自販機からホットコーヒーを買い、古泉一樹に手渡したあたりで、古泉一樹は言葉を発した。
「キョンが知るくらいか、それ以下だ。基本、お前のとこの文芸部員から又聞きした程度しか知らない」
 実際に経験したことなんて、あの改変世界での出来事くらいだ。
「そうですか。それは良かった。僕も妙な探りを入れずに、ありのままに質問できます」
「尋問だろ」
「ご自由に」
 勘弁してくれ。なんで同級生、しかも一度は友人関係を築いた奴に尋問されなきゃならん。
「まずは、僕の第一印象から聞かせていただけますか?」
 勘弁してくれ。なんで同級生、それも一度は友人関係を築いた奴に、合コンみたいな質問をされなきゃならん、しかも同性。
「97%の胡散臭さに加え、2%の気持ち悪さと、1%の水分で形成された変態」
「せめて超能力者を要素に入れてください」
「だって見たことないし。証拠も無いのに超能力者って決めつけたら、悪いだろ?」
「あなたの暴言の方が、よっぽど悪いと思うのは、気のせいでしょうか」
 まあ、そこら辺は俺流のシャレだ。
「苦労人……だな。その上、ストレスも貯めやすい生粋の中間管理職って所か」
 苦労してるんだろうね。表向きには真面目な秀才で、涼宮ハルヒにも信頼され、彼女の思いつきを実現させる。だが、裏では昼夜問わず世界のために尽力する。
「良くやるよ。俺みたいなヘタれでビビりなチキンには到底真似できない、正真正銘のヒーローだ。報われる報われないは別にしてな」
 古泉一樹は涼宮ハルヒに選ばれたヒーローであり、涼宮ハルヒに翻弄される被害者でもある。
 神も悪魔も同一な存在……まるで神話みたいな存在だな。あいつは。
「あまり興味無いフリをしながらも、あなたは見てますね。この世界と、涼宮さんを」
「ハルを見てれば、勝手にわかるさ」
 それが望ましいとは思えんが。
「あの女こそ世界その物みたいに思いたくないね。涼宮ハルヒはそんな大層な存在なわけがない。どこにでもいる、普通の女だ」
 涼宮ハルヒは知らないんだろうね。普通が一番大変で、一番厄介で、一番面白いことにさ。
「……あなたと言う方は。どこまでも涼宮さんが好きなんですね」
「当たり前だろ?あいつ、すげぇおもしれーし」
 涼宮ハルヒは毎日毎日面白いことを探してるが、多分、あいつには永遠に見つけられない。だってあいつより面白いことなんて、存在するわけないだろ?
「俺はさ、ハルには普通になって欲しいのよ。普通の事で喜んで、普通の事で怒って、普通の事で哀しんで、普通の事で楽しめるような、普通の人間。それが一番面白い涼宮ハルヒだからさ」
 そして、それができるのは俺じゃない。涼宮ハルヒが普通に好きなキョンだ。
「もし、この話を涼宮さんが聞いていたら、閉鎖空間じゃ済みませんね」
「ヒーロー参上じゃないか。カッコイイカッコイイ」
 そうやって、この世界を守ってくれ。
「守りますよ。それが僕の使命ですから」
「使命に指名されて、死命を賭して戦うか。立派だね」
 わざと蚊が囁くような声量で言ったため、この言葉が古泉一樹に届いたかどうかはわからない。
 でもな古泉一樹、お前の信じる意思は、本当に善良な存在なのか?力に善意も悪意も無い。使う存在が、初めて力を善か悪か決める。
 俺が懸念しているのは、そこなんだよ。涼宮ハルヒの思想が破壊に傾いた時、お前はそれでも世界を守るなんてことが言えるのか?
「お前の意思は無いのかよ。古泉、お前はどうしたいんだ?」
「……どうかされましたか?」
「言葉通りの意味さ。お前の望みは何だ?何がしたい」
「決まっているでしょう。この世界を守ることです」
 さも当たり前のように言ってのけたが、違うんだ。そうじゃないんだ古泉一樹。
「危険だぜ古泉。闘う理由を盲信してたらヒーローじゃない。ただのヒーローごっこだ」
 使命だから闘う、守る。じゃない。
「闘う理由も守る理由も人のせいにして欲しくない。それだけだ」
 もうすぐ北高が視界に入ってくる。古泉一樹も口を止めたし、ここでタイムアップだろう。

 

 


「ただいまっと。お母さん、帰って来たぞー」
「あら、おかえり」
 台所から母の伸びやかな声が届いてくる。晩飯の支度をしているようだ。鞄と制服を片付け、母のいる台所を覗いた。
「あ、太陽さん。おかえりなさい」
「……藤原君、なにしてんの?」
 台所は里芋の煮っ転がしを作る母。それは和食メインの我が食卓にて、何ら不思議の無い光景である。唯一の違和はそこではない。
 母の隣で藤原は、なぜか当たり前のように味噌汁を作っていた。
「藤原君かい?どこのお子さんか知らないけど、中々できた良い子ね」
「そんなことないですよ。お母さんが家事をやっているのに、僕だけ怠けるなんてできませんから」
 健気な事を言う。本当に良くできた少年である。これから藤原と言う漢字には「健気(けなげ)」と振り仮名を振ってあげよう。……が、お前、未来から派遣されたエージェントだったよな。家庭的過ぎるわ。そのファンシーなエプロン、どっから持ってきた。間違っても俺の物でも無ければ、母の物でも無い。
「お母さん、悪いが藤原君と街まで出かけて来るわ」
 未来人も常日ごろからファンタジーチックな生活をしていないなんてのは当然だが、あまり夢を壊すような光景を直視もしたくないわけで。
 あの青い猫型ロボだって、毎日毎日未来的な道具を使ってるわけが無いが、必要の無い描写は、省いていただきたい。
「……そう、晩飯までには帰って来なさいよ」
 そうしたいさ。なんだかんだで、家庭の味が一番美味いし。

 

 


 光陽園駅の駅ビルに到着する頃には、夕日も落ち掛けていた。
 原チャリを敷地内にに設置されている駐輪場に止めた。……よし、超能力者が一時間も前からスタンバイしてるなんてことは無さそうだ。
「まずは生活必需品だな。薬局は……あぁ、こっちだ」
 案内表示の看板にそって、館内を興味深げに眼を輝かせている藤原の手を引いて案内する。

 


「つっても、思ったほど量が無かったな」
 購入した物は、歯ブラシに着替え用の衣類くらいであり、原チャリの小さいトランクに収まる程しか無かった。
 藤原に「別に高い物じゃないんだから、遠慮とかいらんぞ」と聞いてみたが、藤原は「本当に良いんですよ。必要な物だけで」と返すだけだった。
 物欲が薄い、ストイックな奴である低燃費で、周りの人間の迷惑をかけようとしない、まるで携帯電話のマナーモードだ。
「そんじゃ藤原、そろそろ帰るべ」
「はい、お母さんが待ってますからね」
 いつもとは違う、藤原が参加した家族の団らん風景を思い浮かべ、似合わない穏やかな笑いを作った時だ。
「……は、はい!こちら……です」
 隣を歩く藤原が、いきなり耳に手を当てて何か話し始めた。
「はい、はい。わかりました。すぐ移動します」
「藤原どうかしたか?」
 なんだ、その無駄に上手い携帯電話のパントマイムは?
「すいません太陽さん。僕の所属する組織から、任務がダウンロードされました」
「どんな任務だ?」
「えーとですね……光陽園駅内にある開発中の区画に侵入す……良かった、禁則では無かったようです」
 侵入って。それは枕言葉として「不法」と言う二文字が前につかないよな?
「それは……」
「なぜ眼を逸らす藤原」
「……あぁ!は、早く行かないと!先行ってますね!」
「藤原ぁ!」
 良くできた良い子、撤回。やっぱり少しは悪い子だった。いや、俺に比べたら可愛いもんだけど。

 


 光陽園駅駅ビル開発中区画。昨今の都市開発ブームの煽りを受け、数年前から光陽園駅は細かく内部を改築し続けていた。
 だが、その分店舗の入れ替わりも激しく、廃れた店はすぐに壊され、また新しい店が参入する。そしてその店もまた……の繰り返しだ。
 そんなハイスピードな開発を続けて行くうちに、駅ビル内の一部には工事用に機材等を常備される区画が出来るようになり、いつしか「開発地区」と呼ばれるようになった。
「ふぅ、表とは全然違って、埃っぽいな。藤原、こけんなよ」
「大丈夫で……ぐぎゃっ!」
 言った側から何をやってるんだか。
「おいおい、大丈夫かよ」
「いたたたた、太陽さんも気をつけて下さいね」
「お前と一緒にす……ぶるぁ!」
 こけた藤原を起こそうと腕を掴んだ瞬間、今度は俺が足を滑らせた。情けねえー。
「いってぇー!なんだこの紙くず」
 足元には、すべすべと手触りの良い白い紙が敷かれており、確かに足を滑らせやすい。
「ゴホゴホっ!藤原、もう帰ろうぜ?埃だらけで喉が痛くなりそうだ」
「ならここで待ってて下さい。僕だけで良いですから」
「それこそできるか。勘弁してくれよ」
 一人で歩かせるなんて薄情な真似をするかよ。帰らないなら、着いてくさ。
「こっちの方だと思うのですが……あ、あそこの部屋です!」
 藤原が指し示す先の扉には、どこかで聞いたようなインテリア会社のプレートがついていた。
「すいませーん……あれ?誰もいませんね」
「本当に、ここなのかよ。藤原」
「おかしいですね……ここにいる女性に逢うはずなんですが……」
 逢えと言われても、この部屋の中には展示用のバスタブとかトイレとか、
 あとは鍵つきのクローゼットくらいしか……。
「……なんだこの水溜まり?」
 何げなく眼を向けたクローゼットの隙間から、わずかに水が漏れ、床の方にまで垂れ落ちている。
「中身の材木が腐って、水分でも漏れたか?」
 施錠してある鍵は、俺ならこじ開けられそうだ。
「うるぁ!」
 取っ手のすぐ下めがけて、裏拳を叩き込み、手が通りそうなくらいの小さな穴を開けた。
「……ん?誰かいるぞ」
 手を突っ込んだ指先に、制服に使われそうな固めの生地が触れる。
 その奥に、確かな人肌の感触も感じられる。ちょっと待て。まさか、この水溜りは……。
 握力だけで鍵を覆っている金属部品を引き剥がし、クローゼットを全開にする。
「…………」
 ガムテープで覆われいる口。
 オモチャの手錠で封じられている、背中に回された手。
 自身の尿で汚された市外の有名進学校の女子制服。
 クローゼットをこじ開けた俺に、涙を流しながらも無言の圧力をかけ続ける女子高生が、そこにいた。

 

 

第二章へ続く


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