~ the first person : from the boy ~
静かな音の無い世界に、誰かの足音がした。
「ねぇ、」
俺を呼ぶ誰かの声。
――俺以外、誰もいない。
そして同時にその声を聴いたとたんに俺の身体の緊張が解けた。
道路は一面が銀白色に染まり、宙は鼠色の雲で覆われていた。
着重ねた防寒着の上からも身を突き刺すこの寒さは、当分なくなることはなさそうだった。
「もしかして、有希だと思った?」
思わず足音に反応した俺に、あいつ――見紛うことなき涼宮ハルヒはそう訊ねてきた。
「ねぇ、どうなの? ちょっとは思った?」
俺は向き直ってハルヒの姿を認めると、静かに笑った。
どうしてそう思うんだ――。
そんな言葉は必要ない、今の俺達には。
そう言えば、昔から――記憶の中のハルヒの質問はしつこかったな。
本音をいうことにしようか。
微笑みながら。
「思わなかった、といえば嘘になるかもな」
実際、かなり――もっと最上格を付けても良い――期待していた。
今日初めての俺以外のヒトの登場に、俺の両耳は隠しきれないほど素直に反応していた。
確かに今までにこの場所に『彼女』が現れたことこそ無かった。
それでも……今年こそは、という思いは確かに胸の内にあった。
――雪を踏む音が聞こえたときは思わず声を掛けそうになったさ。
それを聞いたハルヒは、寂しげに笑った。
「やっぱり? そっか……でもそうかもしれないわね」
ダウンコートに身を包みマフラーをしている彼女は、雪の上を特有の音を心地よく鳴らしながら、俺のほうに近寄ってきた。
そのハルヒの顔に浮かんでいた表情はやはりというべきか少し憂いで見えた。
口を開くと同時に、白い吐息の連なりが出た。
「なぁ、ハルヒ。何年ぶりかな、こうして逢うのは」
彼女は少し宙を仰いで考え込むと、
「そうね……五年、以上はとっくに過ぎてるわね」とさも当たり前のことのようにかえした。
五年――。
「そうか。……長いこと逢っていなかったんだな」
「……言われてみればそうね」
さむっ、とハルヒは少し身体を摩ると、白い息で両手を手袋の上から温めた。
「雪、ね……」
ハルヒが虚空を見上げて呟いた。
「雪、だな――」
この街――この俺の住む街に今日みたいな雪が降り、それが道路一面に積もることはかなり珍しいことだ。
この地域一帯では二、三年に一度、それも少量の雪が降ればいいほうであり、その雪でも見渡す限り全面真っ白になるというわけではない。
というか逆に生まれてこの方、俺は二度しかそんな体験をしていない。
今日、を含めての二回である。
だからこそ、この場所に俺はやって来たくなるのかもしれなかった。
――余計に思い出して感慨が深くなるのかもしれない。
その日も――雪が降っていた。
まるで比べものにならないそれは、雪の嵐のようだった。
視界を縦横無尽に走る粉雪が覆い、宙は灰色で暗かった。
凍て尽す寒さ、というものをあの時俺は身に沁みて知った。
さっきまでの強かった雪はその勢いを弱めて、ふわふわと輝く小さな雪の結晶を舞い降らせていた。
こんなに寒いと流石に道を行く人影は全くと言っていいほど見当たらなかった。
ここが、市の中央から離れている、というのもあるかもしれないが。
澄ました顔で佇むハルヒの姿を一瞥して、
「その髪、伸ばしてるのか?」
と俺はその憂いだ横顔に訊いた。
三年間――ばっさりと長髪を切ったあの時からずっと短かった黒髪が、背中の方にまで伸びているのに気づいたからだ。
その姿は、光陽園女子にいたハルヒを俺に彷彿させた。
俺としては何気なく訊ねただけなのだが、ハルヒは驚きを表して、
「へぇ、あんたもそういうトコ、気づくようになったんだ」
と感嘆の声を漏らした。
「それだけ、大人になったってことさ。……何か恥ずかしいな、この台詞」
俺は小さく嗤った。
まるでドラマの中のような気障な言葉だ。
――似つかわしくない。
ハルヒは少し笑うと、大きく溜息を吐いた。
「そう、伸ばしてるの。色々吹っ切るためにもね」
そう言って何故か少しだけ胸を反らした。
またしてもその姿は高校生の頃の記憶と重なった。
「そうなのか。……ん? じゃあ、そのカチューシャはどうするんだ。それは外すのか?」
俺は手袋をした手でハルヒの頭を指差した。
それを見ているせいもあってか、俺は余計に懐かしさを感じていた。
ハルヒは気づいたように視線を上げて自分の黄色のカチューシャを軽く押さえると、
「何言ってるのよ、これは私のアピールポイントなのよ? そう易々とは外せないわ」
と吐いた。
「アピールポイントか。お前らしいよ、ハルヒ」
どうやら俺もそのカチュ-シャでお前を認識していたようだ。
……大人になるとどうやら溜息を吐く回数は格段に増える。
当然のことだ。
俺は一度視線を地面に落としてから、眼前にそびえたつ白い建物を眺めた。
過ぎ行く年月による劣化は否めないが、雪のおかげもあってか今は白く目映く光っていた。
隣のあいつ――涼宮ハルヒはどうやら『普通』の大人の女性になったようだった。
昔のようなあの気性の激しさはどこかに消えさっていて、今はただ物静かに同じくその建物を見つめていた。
何よりも彼女の眼が落ち着いた静けさを持っているのが、あの頃との大きな違いだろう。
この数年間、ハルヒに何があったのだろう。
ふとそう思って、俺は自虐的に嗤った。
俺にはそれを知る術は確かにあったのだ。
ただ、それを選択しなかったというだけの。
ハルヒの言った吹っ切るというのも、もしかすればその何かの影響なのかもしれなかった。
また少し勢いの静まった宙は、そのところどころに青色が覗かせていた。
雪も、止むか。
「妹さんはどう? 元気してる? もう二十歳は超えてるわよね」
そう訊ねたハルヒの口調はまるで当たり障りのないようなことを告げるものだった。
だが同時に彼女を責める気は全然無いことも確かだった。
それだけの年が経ち、事があったのだと俺は思っている。
俺はハルヒに乗ることにした。
「あぁ、あいつか。相変わらず元気にやってるさ。……小学校のときはどうなるものかと不安だったが、今では俺よりもはっきりとした目標を持って人生を歩んでるさ」
「目標?」
「確か動物関係の仕事だ。そのために大学まで選んでいたな。俺とはまるで違う」
それは事実だ。
ハルヒはくすりと小さく笑った。
「確かにキョンとは大違いね。やっぱりそれって、シャミの影響なのかな」
「可能性は大いにあるな。何せあいつはシャミセンにべったりだったからな」
俺は久々にまだ元気だった頃の我が家の愛猫を思い出した。
ハルヒが偶然選んだオスの三毛猫――。
「ねぇ、シャミにさぁ……会いに行っても、いい?」
ハルヒがそう訊いてきた。
心なしか俺に見せている横顔が強張って見えるのは気のせいか。
気のせいなんかじゃない――俺は何と言おうか迷った。
真実を告げると悲しそうな表情をするのは眼に見えていて、同じくらいハルヒが何を期待して訊ねているのかも痛いくらい分かっていた。
だが、真実は告げなければいけない。
「シャミセンは……死んださ。一昨年ぐらいに」
俺の口から出た言葉は不思議と静かだった。
昔の俺なら言っただろう。
冷静、では無く冷淡と。
或いは冷徹であると。
「そう……なの。知らなかったわ。……ごめん」
予想通り、肩を落とすハルヒ。
だが伝えなかった俺を咎めはしなかった。
「別に構わないさ。付け加えるとしたら、それもあって妹が余計動物に傾倒したってことぐらいだ」
そうなんだと小さく言ったハルヒは、また溜息を吐いた。
この季節は溜息までもが白い。
普段は透明で目に見えない呼吸の流れが、この季節にはよく見える。
つくづくわが妹を見ているといかに俺達の過ごした年月が短かったのかを数年前、俺は思い知らされた。
思い返すたび、高校生の三年間はその密度と反比例するかのごとくほんの僅かだったと俺は再認識をしていた。
「ねぇ……古泉くんやみくるちゃんとは逢った?」
少しの間があった後、そう訊ねてきた。
もちろん、あの後から、ということだろう。
俺も確認したりはしない。
「そうだな、古泉……とは最初の頃は連絡を取っていたりしたな……。朝比奈さんは――何か久しぶりだなこの名前――お前と多分同じだ。質問しなくても分かるんじゃないのか?」
「やっぱり? そうよね、もしかしたらとは思ったんだけど」
ハルヒはまたぎこちなく笑った。
「流石に俺も逢っていないぜ。……未来人には」
果たして今はどんな外見になっているのだろうかと俺は想像した。
幾度と無く俺達を助けてくれたあの朝比奈さん大人バージョンは最後まで年齢不詳だったが、多分その上ぐらいになっているだろう……そう考えたところで俺は気づいた。
未来での時間の推移を考えるのは馬鹿らしいか。
俺にとって朝比奈さんはあの朝比奈さん(小)であり、朝比奈さん(大)は朝比奈さん(大)なのだから。
「私もあってないわ。古泉くんは……ねぇ。機関のこともあったけど……もう三、四年くらい前かも」
それでもやっぱり残ったのはこの時間の人達だけね、と慨嘆口調でハルヒは囁いた。
あれ以来、ハルヒの力はとっくに消滅している為、当然のように超能力者たちの力も失われていた。
もしかすると彼女の力が消滅したことにより、我々を惹きつける力も失われたのかもしれません――あいつは確かにそう、別れ際に言った。
当たっているよ、お前も含めてな。
僅かばかり寒さが増してきた。
ところどころ青色だった宙も、また薄く灰色に染まってきている。
雪はその量を増やして、けれども静かに降り積もっていた。
俺は寒さに首を竦めると、ポケットに突っ込んでいた手を外に出して開いた。
俺の手のひらに落ちてきた粉雪はすぐに融けて消え、その上にまた雪が舞い降りる。
幾度かその様子を眺めた後また俺はコートのポケットに手を突っ込んだ。
降りゆく雪の中で大人になったハルヒは――数年前よりも綺麗に見えた。
場の効果というものだろうか、それとも……――
まぁ、どちらでもいいさ。
今の俺にはな。
沈黙のなか、時間だけが過ぎた。
どこか遠くで車のエンジン音がした。
寒い中ご苦労様だ。
こんな時にこんな場所まで来る酔狂は俺くらいのもんだろうと半ば俺は自負していた。
ハルヒはどうか知らん。
思い当たる理由は無くもないが俺が言うことではない。
すると、さっきのエンジンの音は確かに近づいてきていた。
俺はゆっくりと音のほうへと――街へと続く道のほうへと身を翻した。
ヘッドライトを点滅させて進んでくる漆黒の車のために俺は雪の中歩道のほうへと避けると、何故か車はちょうど道の真ん中で停まった。
反対側のハルヒが何かに気づいてあっ、と口を開けるのを眼が捉える。
俺はその正体を知るため黒いガラス越しのその運転手の顔を注視した。
運転手はエンジンを止めると、ドアを開けゆっくりと俺らの前に姿を現した。
――そんなことだろうと思ったぜ。
「おい……まさか、だろ?」
「ええ。そのまさか、でよろしいかと」
お久しぶりです、と彼は会釈をすると柔和に微笑んだ。
「貴方にも、もちろん同じくらい涼宮さんにも」
「ホントに古泉くんなのね!」
道を越えて周って来たハルヒの眼は懐かしい輝きを取り戻していた。
そしてそれを見て俺は安心した。
今日ようやく、ハルヒの感嘆符をつけた喋りを聴いたな。
高校生のときより幾分大人びて古泉の顔は見えた。
そして対称にハルヒの顔は随分と高校生の頃のように俺の眼に映った。
「本当に久しぶりだな、古泉。一体何年ぶりだ?」
「さぁ、どのくらいでしょう。七、八年くらいはお会いしていませんよね」
古泉は何も感じさせない笑顔で返した。
その間の疎遠に対して古泉も言うことは無いようだった。
それともハルヒの前だからだろうか。
「かもしれないな。……まさかとは思うがその車、お前のか?」
俺はさっきから気になっていた、という素振りで古泉の乗ってきた黒い車を指差した。
「ええ、間違いなく僕のです。自分で購入したんですよ。流石にローン、ですがね」
「それだけでも、大違いだ。俺なんか高校出て取りあえず免許取ったペーパードライバーだ」
俺は軽口を叩きながらも心からはその再会を祝福していた。
流石に古泉の言葉が誇らしげに聞こえたのは本当だろう。
「ねぇ、何で今日ここに来たの? もしかして……監視とか?」
ハルヒは笑ってそう訊ねていた。
当然、冗談だというように。
いきなりの不躾な質問にも古泉は苦笑してかえした。
「いえいえ、機関は既に解体されています。僕一人じゃなんともできませんよ」
ねぇ、と言いたげな視線を俺は受け取った。
知らん。
今更機関のネットワークは行き続けているんですよ、と言われたって天地が引っ繰り返りはしないさ。
さっきの車だって実は機関で所有していましたっていう可能性も拭いきれないしな。
多分、違うだろうが。
俺は、機関が解体されたと俺に直接伝えてきた時の古泉の顔を忘れはしないだろう。
「何となくです。この天気、ですから。彼が毎年ここにやってきているというのは知っていましたが」
と古泉は俺の方を見ながら続けた。
だから何ださっきからその眼は。
高校のときもずっとこいつはそうだった。
――それも今となっては、いい思い出か。
随分と老け込んだ感じがする。
まだ二十代のはずだぜ――。
――ちょっと待て、何でそれをお前が知ってるんだ?
「良いだろう、個人の自由さ。……あぁ今更、なんでそんなことを知ってるかなんて訊かないぜ」
「相変わらずの配慮、恐れ入ります」
そう言って、古泉は微笑んだ。
一体何年ぶりになるんだ、そのスマイルフェイスとも。
らしくなく俺も微笑んでしまったじゃないか。
だが俺はそうすることで彼に自分の行動を見抜かれたことを隠した。
ハルヒのほうは見てられなかった。
「でもさぁ、何で来たの?」
ハルヒはやり取りが終わるのを確認するとまたしてもまた同じ質問をした。
なぁ、ハルヒさん?
質問というもには何時それをするのが相応しいかと同じくらい、誰がその質問をするのが相応しいのかが重要なんだぜ?
「涼宮さんがそれを訊かれるのですか?」
古泉は眼を細くしながら答えた。
ハルヒは眼を見開くと、口を小さく開けて声を漏らした。
少し瞳を揺らした後、突然ハルヒはこっちに矛先を向けた。
「な、何ニヤニヤしてるのよ、バカキョン!」
俺は思わず予想通りの展開に更ににやけてしまった。
どうやら根本的な部分でのハルヒの性格は以前と変わっていない。
「まったく、相変わらずだなお前のその動揺っぷり。バレバレだ」
俺がそう告げると、ハルヒはうっと身を引いた。
古泉は腕を組んでまるで保護者のような微笑みを浮かべた。
ハルヒが困ったときの対応に誰かに感情をぶつける。
それは俺が高校時代に知ったハルヒの個性の一つだ。
ハルヒは少しの間悔しそうにしていたが、ふと気づいたかのように表情を和らげた。
彼女は俺に向かって何か言おうとしたようだったが、それも止めたらしく口を閉ざした。
それはまるで降りしきる雪がハルヒが話すのを防いだようにも見えた。
そしてそれぞれが笑みの中、世界がもとの寂寥とした空気に戻った。
古泉は俺にさっと鋭い一瞥をくれると、息を吐き出しながら空高く見上げた。
ハルヒはまたさっきみたいに何かを考えているようだった。
そしてひとり納得したように頷くと、やにわにしゃがみこんで雪を触った。
ハルヒの手つきからして……それは俺には球体のように見えた。
「それっ!」
「ぐはっ!」
すばやく起き上がったハルヒはいきなりその白い雪を――やはりというか雪球――を真正面に俺の顔へと投げつけた。
「ナイスヒットです」
黙れ古泉。
無慈悲にもハルヒは不意打ちを喰らってあとずさった俺に、続けざまに「えいっ!」「やあっ!」「とうっ!」と三発も超速ストレートを投げ放った。
「お、おい、ちょっと待てって……くっ、仕返しだ!」
俺の渾身の一投は無残にもハルヒの後ろへ飛んで行く。
ちろりとハルヒが赤い舌を覗かせた。
流石だなハルヒ、相変わらずの運動神経のようだ……そう思いながら二発目を投げ、た。
「しまっ……た」
「!」
俺の放った雪球は綺麗に弧を描き……古泉のコートに砕け散った。
俺をじろりと睨むハルヒ。
「宣戦布告もなしに奇襲攻撃とは……」
当の古泉は組んでいた腕を解いてコートを掃いながら、
「それでは、私も!」
俺の動物的勘が右に避けろと叫んだ。
耳のすぐ左をかすめる古泉の速球。
そういや確かこいつ、何かスポーツやってたって話だよな。
「ふっ、甘いな古泉。これくらい、ぐほわぁ!」
「ちっちっちっ。あんた気を取られすぎよ」
人差し指をふるハルヒ。
「くっ、ならば二連発!」
「それっ! あんたの玉が私に当たると思って、きゃっ!」
ぼすっ、とハルヒの顔に俺のじゃない雪球がぶつかり、あいつは珍しく可愛い声をあげた。
「冷たい!」
ハルヒが顔の雪を払いのける。
「ナイスだ、古泉」
俺は親指をつきたてた。
「はて、何のことやら」
古泉は関係ないと言ったように素知らぬ顔をしながら微笑んだ。
これが古泉の変わったところ――変われたところなんだろうか。
「うぬぬぅ……コラァ~、古泉くん!!」
腕を振り上げてハルヒが叫んだ。
大声を出すな!
言うだけ言うとハルヒはマジの戦闘態勢に移行した。
簡単に言うと雪球の備蓄だ。
俺も古泉に目配せをして、同じく作り始めた。
「こ~なったら、三つ巴よ!」
「こ~なったら」の段階で俺の手元に奴の剛速球が飛んできた。
ちょっと待った、台詞は全部言えよ!
「おい、古泉!」
合い間に雪球をハルヒに投げ返す。
「お前も手伝え!」
ヤベッ、足元近くにハルヒの雪球が落下する。
「わかりました!」
よし、じゃあそろそろこっちも反撃――
「……って、おい古泉!」
古泉の見事なまでの投球は俺の手にあった対ハルヒ用雪球を打ち砕き、振り向き様の俺の顔に2発目をぶつけた。
にこやかに微笑みを浮かべる古泉は、
「三つ巴、だそうですから」
と言いながら、更にもう一発呆気に取られている俺の顔に投げてきた。
そして声を立てて笑った。
超能力者として例の世界で鍛えられたと思われるコントロールは見事としか言いようがない。
「こらぁ~、私も入れなさぁい!」
少し拗ねた表情でそう叫んだハルヒは、古泉の背中に猛スピードで雪球をぶつけはじめた。
古泉が、「それでは」と言ってハルヒに向かって投げ始めた。
――どうやら、俺の出る幕は無いか。
今の古泉にとってハルヒの機嫌どうこうは無関係となっているはずだ。
機関から解放されて、古泉のご機嫌とりの役目も終わった――そういう言い方も出来なくはない。
古泉はかつて言った。
今の自分は仮面であるとも。
いつかこの俺と一対一である友になりたいとも。
だったら、古泉――。
仮面なんてとっとと剥ぎ取ってしまえよ。
それはお前の何を隠そうとしているんだ。
――教えてくれ。
古泉は人の視線に答えることはしない。
気づいていない――そんなわけはない。
……俺達は暫くそうやって――いわゆる童心というものに帰って、雪遊びを続けていた。
数分後、雪球を投げるペースも遅く戦闘というよりはただの投げあいをしていると、ハルヒがのどかに――投げ続けながらも喋りはじめた。
まるで――何でもないという風に。
「ねぇ、キョンと古泉くん」
ハルヒが軽く雪球を投げる。
「何だ」
「何でしょうか」
眼で追えるゆるい雪球をよけ、俺と古泉は投げ返す。
「もしさぁ……私が気がつかなかったら、」
俺に向かって再び投げる。
「二人はずっと……本当のこと、黙ってた?」
古泉の飛ばした雪球が、揺れて雪面に落ちた。
一瞬――ほんの一瞬眼が見開かれる。
「どうなのかなぁって、思って」
ハルヒは顔色一つ変えないまま緩やかに投げ続けた。
だが――。
――そんなはずはない。
俺はそう確信していた。
核心的なことを訊ねたハルヒはまだ投げ続ける。
驚愕が一瞬現れた古泉もすぐに落ち着いた雪球をハルヒに投げ返してはいた。
はたまたどちらも自分を落ち着けようとしているのか。
俺も道路の上の白雪を掴むと、丸めてハルヒに向かって飛ばした。
――何がしたい、知りたい?
俺と古泉は暫く無言で雪球を投げていた。
古泉の考えはハルヒのと同じく相変わらず読めない。
ただ……彼の真剣そうな眉根を除いて。
全くハルヒも困惑させやがる。
一体どう答えろっていうんだ。
ハルヒはまるで雪球を投げ続けることで自分の心情を隠しているようでもある。
全く古泉並の策士か。
……いや、茶化すところじゃないか。
「ねぇ、」
痺れを切らしたかハルヒが催促してきた。
強く一つ投げ飛ばす。
「どうなの?」
ハルヒは投げた腕の動きをやめると俺達をまっすぐ見つめた。
呼応するように俺は動きを止めて、古泉に眼で訊ねた。
――何て答える?
肩を竦めて古泉が返事する。
――分かった、任せたぜ。
古泉次第か。
オホン、と古泉はひとつ咳払いをするとハルヒと真正面になるように向き直った。
息を吸う音が聞こえた。
「正直言いましょう、涼宮さん。どちらか分からない、などとは誤魔化しません。彼はともかく、」
古泉は俺のほうをさしたその手で、自分の胸を指し示した。
「少なくとも私には涼宮さんに真実を告げるつもりはありませんでした」
まさか――。
ハルヒの眼が大きく見開かれ、唾を呑む気配がした。
ハルヒを見据える古泉の瞳は真剣そのものであった。
少なくとも、嘘はついていない……。
ハルヒは数秒古泉を凝視すると、小さい声で今度は俺に訊ねてきた。
「……キョンは?」
何と答えるべきだろうか――。
いや、決まっているかもしれないな。
これは……本当だ。
「俺は……古泉とは違う。いつか明かせる日が来るはず、そう……信じていた」
――嘘ではない。
果たしてハルヒは俺の言葉を信じるだろうか。
古泉のあとだから余計厳しいかもしれない。
腕を組んで固く眼を閉じた古泉を見て、彼が何かを背負ったことを俺は感じた。
それが何かを俺はまだ知らない――。
ハルヒは俺の言葉を聞くと考え込むように俯いて「そう」と小さく呟いてから、顔を上げ古泉を見据えた。
「どうして秘密のままなの? 古泉くん」
そう問いかける。
何故なんだ、古泉。
またしても返答に沈黙があった。
鋭く冷たい風が山のほうから街のほうへと下りてきた。
古泉はその冷たさにも身じろぎ一つせず宙を見上げると、長い息を吐いた。
そしてハルヒに視線を戻した古泉は口を開いた。
「それは……この自分は決して『鍵』たる存在ではないからです」
古泉の声がはっきりと辺りを響き渡った。
俺はその言葉にはっとした。
古泉の眼は温かく透き通って――そして諦めと覚悟を決意していた。
「私は彼の存在にはなりえません。ただ答えを導く者達の一人というだけです」
「なによそれ――」
「貴方に全てを打ち明けるのは、この私が奪う役目ではない。この意味がお分かりですか?」
「そんなの……答えになって、ないじゃない」
ハルヒが嗚咽を漏らしながら呟いた。
コートの袖で眼元を拭う。
それに対して古泉は口元に僅かながらも微笑を浮かべてさえいた。
「かもしれませんね。ですが、私にとっては答えとしてそれで充分なんです。……これ以上ないほどに」
古泉はいやに抑揚を付けてそう喋ると徐に歩き始めた。
止まない雪の中、背景にそびえ立つ建物――母校、北校の門前のところまでその歩みを進めた。
そして一人、世界に背を向けてまるで演説の如く語りはじめた。
「今、この世界は大きな閉鎖空間の中にあります」
両腕を大きく広げて古泉は喋った。
「ご存知でしたか? この世界を覆い尽くすほどのとてつもなく巨大な閉鎖空間が今、構築されていることに。そして面白いことですが、確かにその中でも時の針は止まらず進み続けているのです」
少しも面白くないぞ、古泉。
ですが、と返答を待たずに古泉は続ける。
「この世界に未来はありません。あのときからずっと――何故でしょうか。我々が望んだはずの、そして苦労して繋げたはずの世界は、未来は……この閉鎖空間で包まれた世界には訪れないのです」
そこで腕を降ろした古泉は、そのままズボンのポケットに手を突っ込んだ。
何故でしょうか――俺達にみせる背中はそう問いかけていた。
もちろん、言うまでも無く俺には伝わっている。
閉鎖空間――それはあくまでメタファーでしかないのである。
もちろん……全員にとって。
高校生の自分は果たして古泉の言葉の真意に気づけていただろうか。
分からない。
その証拠に今の俺は高校生の頃の自分とは違うからだ。
彼は続ける。
「それは、この世界に存在するはずの『神』。そしてその心の扉を開くことの出来る『鍵』。その二つの存在がこの空間を、この時間を、この世界を閉ざしてしまっているからです」
ハルヒがマフラーの中に顔を埋めた。
「ですが、超能力者はそれを認めません。お分かりですね。……そう、閉鎖空間の拡大を許した世界はいずれ破滅を迎えるからです」
そこまで言い切ると、古泉は俺達のほうを振り返った。
「もちろん私もそれを認めません。昔、私は言ったことがあります。この世界に愛着があると。今のこのかけがえのない世界が好きだと。だからこそそれを……神様と救世主のわがままで終わらせたくないんです」
わがまま――。
自然と俺とハルヒは視線を合わしたが、向こうのほうからすぐそれを逸らした。
古泉は無表情な眼でそのやり取りを見つめていた。
「幸か不幸か、今我々を閉じ込めているこの閉鎖空間は何故か、その拡大をあと一歩のところで止めています」
古泉が再びゆっくりと歩き始めた。
「幕は……お粗末ながらこの私が引きましょう。結末は……お二人でお決めください」
俺は溜息をして軽く瞼を閉じた。
古泉は綺麗に自分の思いを全て言い換えて伝えていた。
回りくどい――それは古泉の個性だ。
「心から僕は……この世界の平穏を願っています。――それでは、また逢う日まで」
さようなら、と彼の小さい声がして、エンジンがかかる音がした。
瞼を開くと、古泉の乗った車は勢いよくこの場を離れて行った。
果たしてそうすることであいつは振り切ったのだろうか。
――自分の想いも。
暫くすると再び車の音も聞こえなくなり、最初の、一番初めの静けさがようやく戻った。
この広い宙を覆う灰色の雲は静かに、真っ白に輝く雪を降らせていた。
……本当にこんなのは珍しい。
古泉の独唱の間、一度を除いてまともに俺はハルヒと眼を合わせていなかった。
合わせられやしない。
俺は思わず判断を迷った。
役目、それ自体は分かっている。
どちらから声を掛けるべきなのかは分かっている。
もちろん俺だろう。
――『鍵』、なのだから。
だが俺は紡ぐべき言葉を探していた。
そして決心がつかないでもいた。
――そしてそれが、愚かだった。
俺は溜息を吐いて話しはじめようと全身の力を抜いた瞬間にハルヒは、
「ねぇ、キョン」
と不意打ち気味に声を掛けてきた。
一瞬で全神経が集中するのを身体が感じた。
だが眼の前にいるハルヒは決して視線を合わせようとはしなかった。
はぁ~、っとハルヒは息を吐いた。
「……有希に逢いに来たのね?」
「!」
「何そんなに驚いてるの……。そう、よね。だって毎年この日に、この場所に来てるんでしょ?」
――危ない。
俺は必死で口から発せられようとした驚愕の声をやっとの思いで封じ込めた。
だが俺の不自然な素振りをハルヒは逃さなかったようで、
「やっぱりね」
と、再びの溜息とともに呟いた。
少し目線を下げているハルヒの横顔からは最初と違って何も読み取ることは出来なかった。
幾度目かの静寂が訪れた。
ハルヒは自分が口を閉ざすことで、俺に続きを繋げることを促しているようだった。
――言うべきだろう。
もう迷ってはいられなかった。
ハルヒに嘘をついてはいけない。
それは自分が一度固く誓ったことだ。
「……ここにくれば、長門に逢えそうな気がしてな」
ハルヒがゆっくりと息を呑むのが分かった。
俺は慎重に言葉を繋いだ。
「しかも今年はこの――あの時以来の大雪だ。今年は何かあるんじゃないか……そう、思ってな」
そう考えた自分を一体誰が責められる。
俺は本当に今朝窓の外から見える銀白の雪を見て運命の存在を感じたのだ。
「だからずっと、待っていたのね」
俺はそれに返事しなかった。
この場所は、始まりであり終わりである。
それはSOS団だとも言えるし、彼女が選んだ世界改変でもある。
そして今日ここが本当に終焉なのかどうかが決まる。
ハルヒは俺の表情を確かめると、
「そう……なんだ。……ねぇ、キョン?」
俺はハルヒがその先を紡ぐのを待った。
唇を強く噛み締めるのが分かった。
「有希のこと……好き?」
――やっぱり、そう来たか。
全身の力が抜けた。
内心、いつそのことをハルヒは訊ねるだろうかとずっと考えていた。
別に自惚れてなんかいない。
これも高校生の頃に気づけなかったもののうちの一つだ。
ハルヒがその質問を避けては通れないと思うんだったら、そういうことだ。
今になってあの頃を思い返してみると、後悔するようなことが山とあった。
古泉、朝比奈さん、長門――三人の言動のその全てがあったことに何故あの頃ちらとでも気づけなかったのだろうか。
俺は眼をあげて、俺を真っ直ぐに見つめている視線と重ねさせた。
答えて欲しい、か――。
「その質問、果たして俺はどう答えるべきなんだろうか」
辛抱強くハルヒは待っていた。
――そして俺はここで、やってはならないことをした。
下手にものを分かったように思い込んでいる自分が確かにいた。
「……いいえ、って答えることは嫌いって意味だろ? だったら、」
「誤魔化さないで!」
ハルヒの叫び声が俺の声を掻き消して辺りに反響した。
しまった――そう思ったときにはもう既に遅かった。
そして拳を握り締めたハルヒがその内側の感情を爆発させた。
「何で! いつも、いつもそう! 何でキョンはそんなに身勝手なのよ!」
ちがう――。
「身勝手で、一度も私の質問に真面目に答えたことなんてないじゃない! なのに……それなのにいつも私に押しつける!」
そんなことは――。
「ずっと私に押しつけてたわ! あれこれ言うくせに、くせに……一度も私のことを解った例がないじゃない! いつも! 自分を貶めた言葉で自分を守ろうとする!」
それは――。
「有希もみくるちゃんも古泉くんも皆、私との間に心の壁を創ってた。でもね……キョンだって、そうだったわ!」
まさか――。
「私に気づいてくれない! 私の心を解かろうとしない! 私を助けようとしない! ……大人になって、いつからキョンは古泉くんみたいに言葉を並べるようになったの?」
「おい、それは古泉への侮辱じゃないか!」
「……そうだったわね。……古泉くんのことは謝る。でも今……キョンは自分のことは否定しなかったわ。やっぱり思ってるんだわ! 遮ろうとしないで! 謝らないで!」
ハルヒは喚き、叫びながらも必死になって自分の身体を細い両腕で支え続けていた。
だが俺は何も出来なかった。
制そうと右手を挙げた状態で不恰好に固まっていた。
俺が差し伸べる言葉は彼女にとっては慰めにすらならない。
ハルヒは両手で顔を覆い、泣きじゃくりながら感情を発露させていた。
「ずっと、ずっと、ずっと! 私だけが一人ぼっちだった! 私だけが取り残されていた! 私のいないところでずっと……私が望んだ世界が、動いていた! なんで……なんでなのよ!」
彼女の頬を抑えきれなくなった大粒の涙が零れ伝い、眼の周りは赤くなっていた。
涙混じりの声でハルヒは続けた。
「さっき古泉くんが言ったときね、私、本当にびっくりした。まさか永久に今の全てが秘密のままだったかもしれないって思ったら、背筋が凍りついたわ」
キッ、と顔を挙げて俺を睨むと、人差し指をハルヒは突きつけた。
「キョンだって! ……曖昧な返事しかしない! いつも最大公約数のような希望論しか答えない!」
「違う! 俺は初めから思っていた! 全部話せる、真実が明かせる日がくればいいって!」
「……残念だけどね、キョンの言葉だってもう信じられないわ。だっていつも、キョンと古泉くんは私から遠ざかっていた。そして古泉くんの後がキョンの言葉よ。……信じろって言うほうがどうかしてるわ!」
俺は自分の耳を疑った。
これが……ハルヒなのか?
反射的に宙を見上げた。
本当にここは閉鎖空間じゃないのか。
この灰色の雲は無味乾燥な閉鎖空間の天井じゃないのか。
今すぐにでも眼の前の建物が蒼く輝く腕によって崩れ落ちる爆音がしそうだった。
「もう……ほんとに嫌、こんな世界。大キライ! 私なんか大嫌い! ……いっそのことこの世界が終わってくれればいいのに。古泉くんだって、そう言ってたわ」
「そんなことは古泉は望んでいない」
俺はハルヒに向かって語りかけた。
ハルヒは自嘲気味に嗤っていた。
「はぁ……まるで、あのときみたいね。他に全然音がしなくて、世界が灰色に覆われてて…………叫ぶ私達だけで」
俺はすぐにハルヒが高校のときの閉鎖空間のことを言っていると気づいた。
だがこれは違う……はずだ。
「あのとき私は言ったわ。こっちの世界のほうがいいって。何とかなるかも、って」
「それは……間違っている」
呻きのような声が漏れた。
「そう? そんなことは誰にも分からないわ。超能力者達にも、無論私にだってね。……ねぇ、私の力って本当にもう消えたの?」
俺に答えられるはずもなかった。
「そうよね。キョンに分かるはずはないわ。でも多分……本当にもう無い。そんな気がする。あぁ残念。今、心の底からこの世界を壊したいって思うわ」
一瞬だけ、朝倉の顔が頭に浮かんだ。
あは、あはははははははは――――
「これね、皆が恐れてたことって。私が力に気づいちゃいけない。当然だわ。だって私……本当に世界を壊しそう。古泉くんには申し訳ないけど、想い叶えられそうにないわ。みくるちゃんにも謝らないといけないわね」
「ハルヒ……」
――違う、違う、違う!
「有希も、みくるちゃんも、古泉くんもみんな私の前から居なくなっちゃった。そして結局そのままバッドエンドみたいね。誰の願いも叶わないまま……」
「ハルヒ!」
大声で名前を叫んだ。
「なによ!」
俺は急ぎ足で近づいてハルヒの肩を強く揺さぶった。
「そんなことを言うな! そんなことをお前が! 言うなよ!」
「どうして!」
まっすぐハルヒが俺を睨み返してきた。
どうしてだ――。
決まっている!!
「お前は……知らないからだ! あいつらが……お前の周りにいた皆がどれほど……お前のことを思っていたかをだ!」
「!」
ハルヒがかっと眼を見開いた。
今しかない――。
そう、確信した。
「あいつらは――SOS団は、一度たりともお前を疑ったことはない! 全員が、お前に関わる全ての人々がお前を信頼し、お前が決して悲しむことがないように、この世界を、この世界のままであり続けさせたようと全力を振り絞ったんだ!」
「なによ! どうやってそれを分かれって言うの! 今だって、私に押しつけているだけ。あの時どんな思いで私が――有希を護ろうとしたかキョン達に分かるの! 無理よ! 想いは伝えてこそ初めて分かり合えるのよ!
分からないでしょ!」
そう――。
――確かにそれはそうだハルヒ。
だがな。
「だったら、何故分かろうとしないんだ!」
「だからそれはキョンがよ!」
「じゃあ、俺達が、世界が破滅するかもしれない瞬間にどんな思いで――決断したか分かるのか! 今、お前に伝える! 俺達は、全員がお前を信頼していた! 心から、ちらとも疑わずにだ! お前に全てを預けた、だからこその――」
――何だ?
何を続ければいいんだ?
ハルヒの泣きはらして赤い眼からはまたも涙が溢れ出ている。
だがしっかりとハルヒは俺を見つめていた。
そうか――。
俺は答えに気づいた。
閉ざすために鍵があるんじゃないんだ――。
――開くために、だから『鍵』なんだ!
この世界の未来への扉を、この世界を疑ってしまったちっぽけな少女の心の扉を。
「だからこその! ハルヒ! 俺は! お前が好きだ!!」
どちらから声を掛けるのだろうか。
まぁ、どっちがその役割かは既に分かりきっていた。
誰がこいつに全ての真実、想いを打ち明けるのだろうか。
その役目を初めから俺は背負っていた。
何故ならこの俺こそが、世界の望む、ちっぽけなそれでも『神』である『少女』の望む『鍵』なのだから。
俺はその事実を再確認して長い息を吐いた。
「なぁ、ハルヒ」
返事はなく、俺の声だけが響いた。
「俺は……お前のことが、好きだ。出会ったときから、今でも、変わらず」
あぁ、ようやく言えたのかもしれない。
あの時からずっと伝えられなかった言葉を。
SOS団が解散してからずっと伝えたかった言葉を。
「なによ、今更そんなこと……」
ようやく反応があった。
俺はその声音を聴いて、そして確信した。
迷う必要があるのか、ハルヒ?
それはお前のプライドってヤツさ。
……少し恥ずかしいぜ、この科白。
心して聞けよ、ハルヒ。
一生に一度だけだ。
「だから俺が、お前の心の扉を開いてやる」
「えっ……!」
「大好きだ」
「!」
――俯きすぎだ、ハルヒ。
驚いて顔を上げたハルヒの唇に俺はそのまま自分の唇を重ねあわした。
こういうときのエチケットなのだろうか、俺は自分の瞼を閉じた。
固まった華奢な肩に俺はそっと優しく手を回した。
この冷たさの中、ハルヒの唇は温かく俺の心をも溶かしていくようだった。
感謝するぜ、雪。
一瞬、驚愕で身を固まらせたハルヒも、すぐに力を抜いて俺に身体を預けてきた。
「私もよ」
僅かに唇を離してそうハルヒが呟くと、今度は彼女の方から再び唇を触れ合わせた。
たぶん俺は、この温かみを一生忘れないだろう。
俺は心から誓った。
二度と彼女を放さないように。
そしてこれ以上彼女を悲しませないように――
そして静かに雪を降らす雲に覆われたこの宙の天辺がひび割れた。