~ the third person ~

 

  


 

 雪だけが降っていた。
 灰色の薄暗い宙からそれを染めなおすように降る銀白の結晶が街を代わりに染めていた。
 そしてその銀世界に一人佇む少年。
 時折彼の口から零れる白い吐息と眼差しが彼の思いを表しているかのようであった。
 彼の周りを舞う粉雪はけれど干渉せず見守るように優しく飛び交い、そして地面の層を少しずつ厚くして行っていた。
 彼以外に通りを行きかうものはなく、世界は閉塞したかのように静かだった。
 もう小一時間以上この場所で彼は立っていた。
 違う、彼は待っていた。
 だが彼にとってはまるで答えが分かっていた。
 では何故この場所にいるのか。
 彼なら答えるだろう。
 自分にとってそれが意義のあることなのだと。
 彼は溜息を一つ吐くと、薄く曇った宙を見上げた。



 雪が降っている。
 切り取られた宙は薄く灰色に染まり、真っ白の輝く雪が次々と舞い降りてくる。
 そしてそれを唖然として眺める少女。
 彼女はベッドから跳ね起きると急いで窓に手をついて見上げた。
 彼女の眼には真っ白に染まった世界と白い庭が映っていた。
 午前だというのに世界はまるで闇夜のように静まりかえっていた。
 はっと彼女は気づいたように窓から離れると、急いで身支度を始めた。
 ものの数十分で服を着替え鏡を確かめると、彼女は玄関から飛び出した。
 そして、駆け出した。
 彼女は期待を膨らませていた。
 何のために走っているのか。
 彼女なら答えるだろう。
 それは自分にとって最後のチャンスかもしれないのだと。
 彼女は少し止まって呼吸を整えると、白く染まった山の手を見つめた。



 静寂を保っていた世界に、降り積もった雪の上を歩く音がした。
 そして響く声。
「ねぇ、」
 道路は一面が新雪の銀白色に染められて、宙は鼠色の雲が覆っていた。
 普段は深い緑色の山々も雪化粧をしていた。
「もしかして、有希だと思った?」
 彼女の踏む足音に反応したと思しき彼に対して、彼女はそう訊ねた。
「ねぇ、どうなの? ちょっとは思った?」
 茶色いコートのポケットに手を突っ込み佇んでいた青年は、向き直って彼女の姿を確かめると、微かに笑った。
「思わなかった、といえば嘘になるかもな」
 彼の声を聴いて彼女は少し身じろぎした。
 雪を踏む音が聞こえたときは思わず声を掛けそうになった、と彼は溜息混じりに答えた。
 すると彼女も少しだけ寂しげに笑った。
「やっぱり? そっか……でもそうかもしれないわね」
 ダウンコートを着込んでマフラーを巻いた彼女は、少し口元までマフラーを引き上げながら雪の上を静かに彼の近くへと歩み寄った。
 彼女の顔にも彼の顔に浮かんでいるのと同じような憂いを帯びていた。
 彼が口を開くと同時に、今日何度目かの白い吐息が現れた。
「なぁ、ハルヒ。何年ぶりかな、こうして逢うのは」
 彼女は少し宙を仰いで考え込む仕草をしてから落ち着いた声で答えた。
「そうね……5年、以上はとっくに過ぎてるわね」
 彼が眼を細める。
「そうか。……長いこと逢っていなかったんだな」
「……言われてみればそうね」
 さむっ、と彼女は腕を摩り、白い息で手袋をした両手を温めた。
「雪、ね……」
「雪、だな――」
 宙を見上げて二人はそう呟いた。
 この街に雪が降り、そしてそれが今日のように積もることはかなり珍しいことだった。
 この地域一帯では二、三年に一度それもかなり少量の雪が降ればいいほうで、今日のような日は考えられないものであった。
 宙は途切れなく雲に覆われ止め処なく雪は舞い降りた。
 今は数時間前よりも弱まって、ふわふわと小さな雪の結晶が光を反射して綺麗に輝きながら積もった。
 二人以外に人影は見当たらずそれらしい気配すらもなかった。
 彼はちらりと彼女の表情を一瞥したあと声を掛けた。
「その髪、伸ばしてるのか?」
 彼の言うとおり彼女の黒髪は背中の方まで伸びていて、前髪も胸の辺りまで下がっていた。
 彼女は少し驚きを表すと、
「へぇ、あんたもそういうトコ、気付くようになったんだ」
 と感嘆の声をあげた。
「それだけ、大人になったってことさ。……何か恥ずかしいな、この台詞」
 彼は顔を顰めると小さく嗤った。
 彼女も合わせるように一緒に笑っていた。
 そして大きく嘆息すると、
「そう、伸ばしてるの。色々吹っ切るためにもね」
 と少しだけ胸を反らしながら言った。
「そうなのか。……ん? じゃあ、そのカチューシャはどうするんだ。それは外すのか?」
 彼がポケットの手を出して彼女の頭を指差す。
 彼女もそれに呼応するように軽くその黄色のカチューシャを押さえると、
「何言ってるのよ、これは私のアピールポイントなのよ? そう易々とは外せないわ」
「アピールポイントか。お前らしいよ、ハルヒ」
 彼はまたしても小さく微笑むと、道路の上の雪を見つめてから今度は彼らの前に建つ建物を見上げた。
 彼女もまた、彼の動きに釣られてそれを見つめた。
 その建物はところどころに歳月による劣化が見えていたが、雪のおかげもあってか、今は白く目映く光っていた。
 少し勢いの治まった宙は、僅かに白色が混じって見えた。
「妹さんはどう? 元気してる? もう二十歳は超えてるわよね」
 沈黙を断ち切るかのように彼女は声を絞り出して訊ねた。
 まるでそれは世間話をするような雰囲気で二人の間の距離を如実に示していた。
「あぁ、あいつか。相変わらず元気にやってるさ。……小学校のときはどうなるものかと不安だったが、今では俺よりもはっきりとした目標を持って人生を歩んでるさ」
「目標?」
「確か動物関係の仕事だ。そのために大学まで選んでいたな。俺とはまるで違う」
 彼の皮肉に彼女は小さく笑った。
「確かにキョンとは大違いね。やっぱりそれって、シャミの影響なのかな」
「可能性は大いにあるな。何せあいつはシャミセンにべったりだったからな」
 彼が懐かしむ表情をするのを見て、彼女は少し俯きながら訊ねた。
「ねぇ、シャミにさぁ……会いに行っても、いい?」
 何故か彼が答えるまでに間があった。
 彼は躊躇しているようだった。
「シャミセンは……死んださ。一昨年ぐらいに」
 しかしそう答えた彼の表情はそれほど悲嘆したものではなかった。
「そう……なの。知らなかったわ。……ごめん」
「別に構わないさ。付け加えるとしたら、それもあって妹が余計動物に傾倒したってことぐらいだ」
「そうなんだ」
 彼女は小さく言ったあとまた溜息を吐いた。
 この季節は口から漏れる吐息が白い。
 普段は透明で眼に見えることのない呼吸の流れが、この季節にはよく見える。
 たとえその核となるのが大気を流離う塵や埃なのだとしても。
 それは風情とともにその者の心情を微かに示していた。
 過ぎた年月はやっぱり戻せないものなんだと彼女は寂しげに笑った。
 もちろん、彼には見えぬところで。
 姿ではなく内面が彼の若かりし日よりも遙かに成長していた。
 彼は、誰かの容姿の違いを気づく人間ではなかったのだ。
「ねぇ……古泉くんやみくるちゃんとは逢った?」
 それを聞くと彼は小さく笑った。
「そうだな、古泉……とは最初の頃は連絡を取っていたりしたな……。朝比奈さんは、」
 久しぶりだなこの名前、と彼はまた笑って、
「お前と多分同じだ。質問しなくても分かるんじゃないのか?」と答えた。
「やっぱり? そうよね、もしかしたらとは思ったんだけど」
「流石に俺も逢っていないぜ。……未来人には」
「私もあっていないわ。古泉くんは……ねぇ。機関のこともあったけど……もう三、四年くらい前かも。……それでもやっぱり残ったのはこの時間の人達だけね」
 彼女の力はとっくに消滅している為、当然のように超能力者たちの力も失われていた。
 また寒さが強くなってきた。
 宙がまたしても濃く染まってきている。
 けれど雪はまだその大きさを小さいままに保って降ってきていた。
 舞い降りる粉雪はすぐに融けて無くなり、またその上に雪が降った。
 少しだけ、時間が過ぎた。
 どこか遠くで、でも近づいてくる車の音がする。
 二人ともお互いを見ぬふりをして遠ざかっているその間の道に、街のほうからやってきた漆黒の車は綺麗に停車した。
 俄か、彼女が驚いた表情をして口元を隠す。
 やがて車のエンジンが止まると、運転手がドアを開けながら彼らの前に姿を現した。
「おい……まさか、だろ?」
 彼はその姿を認めて既に半分笑いながら訊ねた。
「ええ。そのまさか、でよろしいかと」、と突然の来訪者は柔和な微笑で挨拶した。
「お久しぶりです。貴方にも、もちろん同じくらい涼宮さんにも」
 彼はコートの裾を直すと道を跨いで駆けてきた彼女のほうを向いて微笑み返した。
「ホントに古泉くんなのね!」
 彼女が特有の感嘆符をつけて叫んだ。
 眼を輝かせて彼を見つめる彼女と、大人びて優しく微笑を浮かべる青年は随分と対照的に見えた。
「本当に久しぶりだな、古泉。一体何年ぶりだ?」
 彼女にした質問と同じのを彼はまた訊ねた。
「さぁ、どのくらいでしょう。七、八年くらいはお会いしていませんよね」
 古泉は笑顔で彼の質問に答えた。
 まるで気にしていないとでも言うように。
「かもしれないな。……まさかとは思うがその車、お前のか?」
 彼は話題を変えようという風に古泉が乗ってきた漆黒の車を指差した。
「ええ、間違いなく僕のです。自分で購入したんですよ。流石にローン、ですがね」
「それだけでも、大違いだ。俺なんか高校出て取りあえず免許取ったペーパードライバーだ」
「ねぇ、何で今日ここに来たの? もしかして……監視とか?」
 二人のやり取りを聞いていた彼女が笑いながら詰め寄った。
「いえいえ、機関は既に解体されています。僕一人じゃなんともできませんよ」
 古泉も苦笑しながらそれに答える。
 ねぇ、とでも言いたげな視線を彼に送った。
「何となくです。この天気、ですから。彼が毎年ここにやってきているというのは知っていましたが」
 といって古泉は手をポケットに突っ込んで彼らを眺めていた彼のほうを見つめた。
 それに対して彼は目線を逸らして余所を向いて喋った。
「良いだろう、個人の自由さ。……あぁ、今更なんでそんなことを知ってるかなんて訊かないぜ」
「相変わらずの配慮、恐れ入ります」
 古泉が軽くお辞儀をするのを見て、彼も口元に微かな笑みを浮かべた。
「でもさぁ、何で来たの?」
 彼女は思わず無意識でそう訊ねた。
 彼がそれに対して何か言いたげな表情をすると、古泉も、
「涼宮さんがそれを訊かれるのですか?」
 と切り返した。
 口を開けて動揺したように見える彼女は体裁を整えようと矛先を急遽変更した。
「な、何ニヤニヤしてるのよ、バカキョン!」
 しかし彼女の急の展開にも彼は冷静に、
「まったく、相変わらずだなお前のその動揺っぷり。バレバレだぜ」
 と笑った。
 古泉も腕を組みながら二人の対話を聞いていた。
 彼女は暫くの間悔しそうに唇を噛み締めていたが、ふと表情を和らげて口を開き何かを言おうとしたが、それすらもすぐに止めたように閉じた。
 まるで降りしきる雪が彼女が話すことを阻んだようだった。
 そして再び世界がもとの静寂に舞い戻った。
 二人の間に立っていた青年は鋭い目を交互に向けると、息を吐きだしながら虚空を見上げた。
 彼女もまた、顔を俯かせ思案顔になった。
 言おうとしてやめる、を数回彼女は繰り返したあと、徐にしゃがんで雪を触った。
 古泉が驚いたように片眉をあげるなか、
「それっ!」
「ぐはっ!」
 彼女はいきなり丸めた雪を彼に向かって投げつけた。
「ナイスヒット」
 古泉が称賛の言葉を口笛とともに告げる。
 呻き声を上げ後退った彼に彼女は三発続けて投げ入れた。
「えいっ! やあっ! とうっ!」
「お、おい、ちょっと待てって……くっ、仕返しだ!」
 すかさず雪を投げ返す彼。
 それをワンステップで避け、口の端に不敵な笑みを浮かべる彼女。
 彼は小さく舌打ちをしながら懐かしんだ表情で再び雪球を彼女めがけて放った。
「しまっ……た」
「!」
 彼の放った雪球は彼女には届かず、弧を描きながら斜で傍観していた古泉に当たり粉砕した。
 彼女が彼を睨む。
 コートの雪を落とした古泉は、
「宣戦布告もなしに奇襲攻撃とは……それでは、私も!」
 と今度は長い腕で掴み取った雪をそのまま勢いよく彼に投げつけた。
 瞬時に身体の重心を右にずらす彼。
「ふっ、甘いな古泉。これぐらい、ぐほわぁ!」
 得意の顔の彼に今度は別の方向から雪球がぶち当たる。
「ちっちっちっ。あんた気を取られすぎよ」
 腰に手を当てて彼を指差して彼女は傍若な態度を取った。
「くっ、ならば二連発!」
「それっ! あんたの玉が私に当たると思って、きゃっ!」
 突然可愛らしい声をあげた彼女の顔には白い雪が覆い被さっていた。
「冷たい!」
「ナイスだ、古泉」
「はて、何のことやら」
 古泉は我関せずとしている。
「うぬぬ……コラァ~、古泉くん!!」
 顔の雪を払いのけた彼女は、指を突きつけてそう叫んだ後、せっせと雪を掻き集めはじめた。
 負けじと二人もも雪を丸めていく。
「こ~なったら、三つ巴戦争よ!」
 「戦争よ!」のあたりで既に彼女の手に雪球は無く、彼が瞬時に腕を振り上げた。
 彼女の顔はまるで子供のような嬉々とした表情になっていた。
「おい、古泉! お前も手伝え!」
 雪球の応酬を次々に繰り広げながら、彼が叫ぶ。
「わかりました!」
 彼女を一瞥してにこやかに笑いを浮かべた古泉は、彼女、ではなく彼に得意の剛速球を投げた。
「……って、おい古泉!」
「三つ巴、だそうですから」
 と言いながら、古泉は再度彼の不満顔に雪球をぶつけて声を立てて笑った。
「こらぁ~、私も入れなさぁい!」
 彼女も少し拗ねた表情で、弾丸のように雪球を投げはじめた。
「それでは……」
 それから三人はただただ笑いながらまるで童心にでも帰ったかのように、雪遊びに没頭していた。
 主に古泉が彼女の相手をするように雪球を鋭く投げ返し、彼は隙を見てはどちらかにぶつけようとしていた。
「ねぇ、キョンと古泉くん」
 彼女がゆるく雪球を投げながら声を掛けた。
「何だ」
「何でしょうか」
 異口同音の返事をしながら雪球を二人は投げ返す。
「もしさぁ……私が気がつかなかったら、」
 彼女がそれをふわりと避けてまた投げ返す。
「二人はずっと……本当のこと、黙ってた?」
 彼女の問いかけが終わると同時に、古泉の飛ばした雪球が揺れる弾道を描いて落ちた。
「どうなのかなぁって、思って」
 彼女は顔色一つ変えないまま――顔色の変化を見させないよう緩やかにそれでも投げ続けていた。
 驚愕が一瞬表情に現れた古泉はすぐに自分を落ち着かせると、雪球を彼女に投げ返した。
 彼も道路の上の真っ白い雪の塊を手に取ると、丸めて彼女に向かって飛ばした。
 そうして暫く無言で雪球を投げていた。
 古泉は真剣そうに眉根を寄せながら、彼は明らかに困惑した表情で。
 彼女はと言うとまだ何かを迷っているような躊躇している表情で。
 三人は三人とも雪球を投げ続けることで自分の表情、感情を隠そうとしているようだった。
「ねぇ、どうなの?」
 暫くして催促するかのように彼女がもう一度声を上げた。
 さっきまで雪を投げていたその腕もぴたりと身体の横に添えられている。
 その姿を認めた二人は同じくやっと動きを止め、そして眼で合図を送りあった。
 彼の目配せに肩を竦めて古泉が返事する。
 納得したか彼は目線を逸らすと彼女のほうを見つめ直した。
 古泉は軽く咳払いをすると彼女と真正面になるように向き直った。
 そして古泉のほうから喋りだした。
「正直言いましょう、涼宮さん。どちらか分からない、などとは誤魔化しません。彼はともかく、」
 古泉は身振りで彼を示すと、今度は自分のことを指した。
「少なくとも私には涼宮さんに真実を告げるつもりはありませんでした」
 彼女の眼がかっと見開かれる。
 古泉の眼差しは射るように彼女を見定めていた。
 予想外だったか彼も少し驚いているようで、古泉のほうを見つめていた。
 数秒間古泉を彼女は凝視すると、一度その視線を下げて、今度は彼を見据えた。
「……キョンは?」
 少し掠れ声の呼びかけに彼は一瞬逡巡するように瞳を揺らした。
 古泉は腕を組んで瞼を閉じている。
「俺は……古泉とは違う。いつか明かせる日が来るはず、そう……信じていた」
 そう告げた彼の声はどこか、遠く響いた。
 古泉の後のため、余計答えるのが厳しいのかどちらも重々しく口を閉ざしていた。
 彼女は考え込むように俯き「そう」と小さく呟くと、心を決めたかゆっくり顔を上げた。
 そして凛とした瞳で古泉を見据えた。
「どうして秘密のままなの? 古泉くん」
 そしてそう問いかけた。
 またしても返答に沈黙があった。
 鋭く芯から身体を凍えさすような山颪が吹いた。
 けれども古泉はその冷たさにも身じろぎ一つせず、宙を見上げて長く息を吐き出した。
 そして応えるように彼女をしかと見ると、口を開いた。
「それは……この自分は決して『鍵』たる存在ではないからです」
 その言葉に二人ともが反応を示した。
 古泉の瞳は、温かく透き通っていながらも、諦念とそして覚悟を決意しているように見えた。
 古泉は続けた。
「私は彼の存在にはなりえません。ただ答えを導く者達の一人というだけです」
「なによそれ――」
 彼女が嗚咽を漏らしながら呟いた。
「貴方に全てを打ち明けるのは、この私が奪う役目ではない。この意味がお分かりですか?」
「そんなの……答えになって、ないじゃない」
 コートの袖で濡れる眼元を拭う。
「かもしれませんね。ですが、私にとっては答えとしてそれで充分なんです。……これ以上ないほどに」
 抑揚をつけてそう告げた古泉は二人のもとを離れると、彼らの背後にそびえ立つその建物――彼らの母校、北校の門前でその歩みを止めた。
 そして独り、二人からは眼をそらしながらも、まるで世界に言い聞かせるように話しはじめた。
 それは彼の得意とする演説の如き独白。
「今、この世界は大きな閉鎖空間の中にあります。ご存知でしたか?」
 古泉は問い掛けた。
 それに対する反応はない。
「この世界を覆い尽くすほどのとてつもなく巨大な閉鎖空間が今、構築されていることに。そして面白いことですが、確かにその中でも時の針は止まらず進み続けているのです」
 古泉の言葉だけがの世界に響き渡った。
 ですが、と古泉は続ける。
「この世界に未来はありません。あのときからずっと――何故でしょうか。我々が望んだはずの、そして苦労して繋げたはずの世界は、未来は……この閉鎖空間で包まれた世界には訪れないのです」
 そこで古泉は振り上げた腕を下ろすと、ズボンのポケットにそのまま突っ込んだ。
 彼の言葉は巧妙なメタファーであった。
 それに二人が気づいていないはずがなかった。
「それは、この世界に存在するはずの『神』とその心の扉を開くことの出来る『鍵』。その二つの存在がこの空間を、この時間を、この世界を閉ざしてしまっているからです」
 彼女がマフラーの中に顔を埋めた。
「ですが、超能力者はそれを認めません。お分かりですね。……そう、閉鎖空間の拡大を許した世界はいずれ破滅を迎えるからです」
 そこまで言い切ると、彼は二人のほうを振り返った。
「もちろん私もそれを認めません。昔、私は言ったことがあります。この世界に愛着があると。今のこのかけがえのない世界が好きだと。だからこそそれを……神様と救世主のわがままで終わらせたくないんです」
 自然と彼と彼女が視線を合わせた。
「幸か不幸か、今我々を閉じ込めているこの閉鎖空間は何故か、その拡大をあと一歩のところで止めています」
 古泉が再びゆっくりと歩き始めた。
「幕は……お粗末ながらこの私が引きましょう。結末は……お二人でお決めください」
 彼は溜息をすると軽く瞼を閉じた。
「心から僕は……この世界の平穏を願っています。――それでは、また逢う日まで」
 彼は既に車のドアを開け乗り込もうとしていた。
 さようなら、と彼の小さい声がしたのを最後にドアが閉まり、彼を乗せた車は勢いよくこの場を離れて行った。
 彼のその一連の行為は何かを振り切ろうとするようにも見えた。
 やがてその車の音も聞こえなくなった。
 この広い宙を覆いただよう灰色の雲は、静かに真っ白の輝く雪を降らせていた。
 時が過ぎ、彼の口から白い息が現れたまさにその瞬間、まるで狙ったかのように彼女のほうから声を掛けた。
「ねぇ、キョン」
 彼は黙っている。
 その姿を見て溜息を一つ吐いた彼女は、
「……有希に逢いに来たのね?」
「!」
「何そんなに驚いてるの……。そう、よね。だって毎年この日に、この場所に来てるんでしょ?」
 彼女の質問攻めに、彼は黙ったままだったが彼の意識はその身体に反映されていた。
「やっぱりね」
 そう呟くとともに溜息を彼女は漏らした。
 彼は彼女の表情を伺おうとしたが、生憎と視線を足元にやっている彼女の横顔を眺めただけになっていた。
 彼女は自分が黙ることで主導権を握り彼に話させようとしているようだった。
 彼もどうやらその意を汲んだ。
「……ここにくれば、長門に逢えそうな気がしてな。しかも今年はこの――あの時以来の大雪だ。今年は何かあるんじゃないか……そう、思ってな」
 彼女がごくりと唾を呑んだ。
「だからずっと、待っていたのね」
 彼は答えなかった。
 黙っていることで肯定を彼は示した。
 彼女は彼の表情を伺い見た。
「そう……なんだ。……ねぇ、キョン?」
 彼は敢えて口を挟まず、彼女は唇を強く噛み締めた。
「有希のこと……好き?」
 彼は視線を上げると彼女と見詰め合った。
 息の詰まるような沈黙だけがした。
 やがて、
「その質問、果たして俺はどう答えるべきなんだろうか」
 彼女は辛抱強く待った。
 そして――
「……いいえ、って答えることは嫌いって意味だろ? だったら、」
「誤魔化さないで!」
 彼女が――涼宮ハルヒが激昂した。
 火を噴くかのように怒りを露わにした彼女は、もう自制すら出来ずに為すがままにそれを爆発させた。
 彼女の叫び声が唯一辺りに響く。
 彼の顔から一筋の汗が流れ、見る間に青褪める。
 彼女が掌を満身の想いで握り締める。
 そして再び、彼女の切実な叫びが響いた。
「何で! いつも、いつもそう! 何でキョンはそんなに身勝手なのよ!」
 一度箍の外れたそれはもう留まるところを知らなかった。
「身勝手で、一度も私の質問に真面目に答えたことなんてないじゃない! なのに……それなのにいつも私に押しつける!」
 思わず、無意識に彼が後退る。
 逃げ腰状態の彼に対して彼女は執拗に、あまりにも悲痛すぎる言葉を重ねた。
「ずっと私に押しつけてたわ! あれこれ言うくせに、くせに……一度も私のことを解った例がないじゃない! いつも! 自分を貶めた言葉で自分を守ろうとする! 有希もみくるちゃんも古泉くんも皆、私との間に心の壁を創ってた。でもね……キョンだって、そうだったわ!」
 いつしか彼女の瞳から涙が溢れ出し、彼は痛々しい表情で眼をそむけた。
「私に気づいてくれない! 私の心を解かろうとしない! 私を助けようとしない! ……大人になって、いつからキョンは古泉くんみたいに言葉を並べるようになったの?」
「おい、それは古泉への侮辱じゃないか!」
 彼が沈黙のあと発した言葉は彼女をあからさまに失望させた。
 彼女が蔑む表情をする。
「……そうだったわね。……古泉くんのことは謝る。でも今……キョンは自分のことは否定しなかったわ。やっぱり思ってるんだわ! 遮ろうとしないで! 謝らないで!」
 既に情緒不安定となり、絶叫を続ける彼女の身体は早くも限界に近づいていた。
 必死になりながらその身体を支える彼女に、彼は差し伸べた手をただただ不自然に硬直させていた。
 苦悶の表情を浮かべる彼。
「ずっと、ずっと、ずっと! 私だけが一人ぼっちだった! 私だけが取り残されていた! 私のいないところでずっと……私が望んだ世界が、動いていた! なんで……なんでなのよ!」
 彼女は両手で顔を覆い泣きじゃくりながら感情を爆発させていた。
 彼女の頬を大粒の涙が伝い、雫となって雪の上に零れ落ちていく。
 しかし依然彼女はその涙を拭おうとはしなかった。
「さっき古泉くんが言ったときね、私、本当にびっくりした。まさか永久に今の全てが秘密のままだったかもしれないって思ったら、背筋が凍りついたわ」
 言いざまに彼を鋭く睨みつける。
「キョンだって! ……曖昧な返事しかしない! いつも最大公約数のような希望論しか答えない!」
「違う!」
 彼も呼応するかのように声を荒げた。
「俺は初めから思っていた! 全部話せる、真実が明かせる日がくればいいって!」
 彼女は不遜な態度で憫笑した。
「……残念だけどね、キョンの言葉だってもう信じられないわ。だっていつも、キョンと古泉くんは私から遠ざかっていた。そして古泉くんの後がキョンの言葉よ。……信じろって言うほうがどうかしてるわ!」
 彼がその言葉に反射的に虚空を見上げた。
 薄暗く灰色に覆われた宙。
 まるでそれは、閉鎖空間の如く。
 彼の口が小さく動いた。
 ――本当にここは閉鎖空間じゃないのか。
「もう……ほんとに嫌、こんな世界。大キライ! 私なんか大嫌い! ……いっそのことこの世界が終わってくれればいいのに。古泉くんだって、そう言ってたわ」
「そんなことは古泉は望んでいない」
 しかし反論する彼の声は弱々しく呻きのような声と息が漏れた。
 彼女がそれを見てまた嘲るように嗤う。
「はぁ……まるで、あのときみたいね。他に全然音がしなくて、世界が灰色に覆われてて…………叫ぶ私達だけで。あのとき私は言ったわ。こっちの世界のほうがいいって。何とかなるかも、って」
 彼は苦虫を噛み潰すような声で呟いた。
「それは……間違っている」
「そう? そんなことは誰にも分からないわ。超能力者達にも、無論私にだってね。……ねぇ、私の力って本当にもう消えたの?」
 彼は黙ったまま俯いていた。
 彼女はそれを冷たい瞳で一瞥すると、わざとらしく声を上げた。
「そうよね。キョンに分かるはずはないわ。でも多分……本当にもう無い。そんな気がする。あぁ残念。今、心の底からこの世界を壊したいって思うわ」
 それから彼女は演技らしくはっと気づく素振りをした。
「これね、皆が恐れてたことって。私が力に気づいちゃいけない。当然だわ。だって私……本当に世界を壊しそう。古泉くんには申し訳ないけど、想い叶えられそうにないわ。みくるちゃんにも謝らないといけないわね」
「ハルヒ……」
「有希も、みくるちゃんも、古泉くんもみんな私の前から居なくなっちゃった。そして結局そのままバッドエンドみたいね。誰の願いも叶わないまま……」
「ハルヒ!」
「なによ!」
 二人の絶叫が重なった。
 急ぎ足で彼女に近づくとその肩をつかんで激しく彼が揺さぶった。
「そんなことを言うな! そんなことをお前が! 言うなよ!」
「どうして!」
 二人が大声で叫び続ける。
 だが二人を取り囲む空気は異様に冷たく、全くの静寂が支配している。
 彼女が真正面に坐ってる彼の顔を睨みつける。
「どうして!」
 すぐに彼女の瞳が潤み始める。
 間髪入れず彼が再び吼える。
「お前は……知らないからだ! あいつらが……お前の周りにいた皆がどれほど……お前のことを思っていたかをだ!」
「!」
 彼女の両目が強く見開かれる。
 明らかに彼女は動揺し畳み掛けるように彼は激しく言葉を続ける。
「あいつらは――SOS団は、一度たりともお前を疑ったことはない! 全員が、お前に関わる全ての人々がお前を信頼し、お前が決して悲しむことがないように、この世界を、この世界のままであり続けさせたようと全力を振り絞ったんだ!」
 「なによ! どうやってそれを分かれって言うの! 今だって、私に押しつけているだけ。あの時どんな思いで私が――有希を護ろうとしたかキョン達に分かるの! 無理よ! 想いは伝えてこそ初めて分かり合えるのよ! 分からないでしょ!」
 彼は首を横に振った。
「だったら、何故分かろうとしないんだ!」
「だからそれはキョンがよ!」
 もう彼女の頬の両側を涙の筋が流れていた。
「じゃあ、俺達が、世界が破滅するかもしれない瞬間にどんな思いで――決断したか分かるのか! 今、お前に伝える! 俺達は、全員がお前を信頼していた! 心から、ちらとも疑わずにだ! お前に全てを預けた、だからこその――」
 彼が言い淀む。
 彼女の顔は泣きはらして赤くなり、瞳は真っ赤になって涙を溢し続けている。
 だがその中でも彼女の視線は彼に釘付けになっていた。
 そして――。



「だからこその! ハルヒ! 俺は! お前が好きだ!!」



 殻に閉じこもりその身を閉ざした『神』の心を再び開く『鍵』。
 世界を見捨て、何もかもを疑った一人の『少女』の凍った心を再び溶かす言葉。
 そしてようやく『鍵』がその扉へとたどり着いた。
 破滅に奔ろうとした人であり創造の『神』の心をもう一度、ただ素直にさせること。
 彼が長く息を吐いた。
「なぁ、ハルヒ。俺は……お前のことが、好きだ。出会ったときから、今でも、変わらず」
「なによ、今更そんなこと……」
 少しの沈黙のあと彼女は俯いたまま小さく呟いた。
 けれどその言葉はただの強がりにしか聞こえず、彼は小さく微笑んだ。
「だから俺が、お前の心の扉を開いてやる」
「えっ……!」
「大好きだ」
「!」
 驚いて顔を上げた彼女の唇に彼はそのまま彼は自分の唇を重ね合わせた。
 彼はその瞼を閉じ、彼女の瞳は見開かれて行った。
 彼は強く抱きしめるようにその腕を背中の方に回した。
 暫く驚愕の色を隠せなかった彼女も優しく微笑むと力を抜いて身体を預けた。
「私もよ」
 ゆっくりと彼の唇から離してそう答えると、今度は彼女のほうから口付けた。
 真っ白い宙からは混じり気のない純白の雪が舞い降り、しんしんと優しく降り積もって行った。
 それはまるでこの広い宙が、『雪』が二人を祝福しているかのようでもあった。




 そして静かに雪を降らす雲に覆われたこの宙の天辺がひび割れた。




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