今の今まで力の限り抱きしめていた読書少女の身体。その感触が瞬きをした一瞬の内に消失していた。
見ているのも辛くなる様な顔、華奢で簡単に折れてしまいそうな身体、声。いつもの、声。
読書少女が今の今まで喋っていた事で理解出来たのは正直全体の一割にも満たなかったが、咄嗟に浮かんだほんの1ワードをヒントに、あたしの脳は右腕にポケットから携帯を取り出すよう命令を下した。
『21:00:12』
日付の下に表示されたデジタル表記の携帯備え付け電波時計がその時刻を指す。読書少女は何と言った……?
本日二十一時を持ってパーソナルネーム長門有希の廃棄が施行される。
その一言に激昂しそうになったあたしを激しいデジャヴが襲う。
「何よ……これ…………!?」
無くなっていた。小さなテーブル、湯飲み、カーペット、本棚、カーテン。そこにあったはずの物が手の中の温もりと共に消え去ってしまっていたのだ。そして、この床の光沢感にはやはり見覚えがある。
「みくるちゃんの家と……」
同じだ。昨日訪ねたマスコットの家と同じ。人が住んでいた形跡が微塵も見えない、分譲したてのような状態の家。
悪い夢でも見ているのか?とびっきりの奇術?それともドッキリで誰かが今のあたしを見て何処かで笑っているのか?
……面白くない。仮にどれか一つが正解だとしても、まったく面白くない。
「ん……あ………」
この部屋に上がった時から閉まったままだった襖。その奥から聞き覚えのある声がした。あたしは縺れる足を必死に動かしながら、沸き上がるごちゃ混ぜの不快感を必死に振り払おうと目一杯の力で襖をこじ開ける。至って普通の襖だったのでそんな事をすれば当然跳ね返ってくるのだが、それを受け止めなければならないという当然の事にすら感情が昂る。
「キョン!!」
……居た。この一大事の最中、顔すら見せなかった雑用係がそこで横になっていた。真っ青な顔。いかにも具合が悪そうだ。
「キョン……! 大丈夫……!? 返事してよキョン!」
その傍に駆け寄る。意識があるのか無いのかも分からないその顔を間近で見ると軽めに身体を揺さぶる位しか出来なかった。
ん……、と顔を顰めながら僅かに口を歪ませるキョン。その口からは苦悶の呻きが細々と漏れ、額には尋常ではない量の汗が滲んでいた。
「ん……ぁ………………、ハ…………ル…ヒ………?」
耳を限界まで酷使しないと分からないような声。その声で自分の名前を呼ばれた事に気付く。
「キョン!大丈夫なの?!ちょっと待ってて!今救急車呼ぶから……!」
慌てて手に握りしめていた携帯を開く。だが全く頭が回っていない。救急の時に掛ける番号が浮かばない。情けなさと疲労と焦る気持ちが涙腺を緩め、脳を掻き回していく。まただ……またあたしは何もできないのか……?
「!!! ハルヒ、長門は?!!」
突如響いた声にあたしは思い切り身体を震わせた。
「今何時だ!!?」
そう言い放ち、恐らく自由にならないであろう身体を必死に起こすキョン。そしてあたし以上に震える手で掴んだのは、あたしの手と身体と手の中に握られた携帯だ。
「長門……」
青かったキョンの顔から更に血の気が引いて行く。
「長門っ!!!何処だ!!!」
あたしの身体から手を離し、叫びながら立ち上がるキョン。生まれたての小鹿の様に頼りない足取りで部屋を出たその背中をあたしは追う。
「長門!!!長門っ!!!!!」
鬼気迫る表情でドアというドアを片っ端から開けていくキョン。それを見る事しか出来ないあたし。そのキョンはドアを開ける度に読書少女の名を叫ぶが、当然というか何というか……返事は無かった。そして、全てのドアを開いても読書少女の姿が見当たらない事を確認したのか、キョンは先程まであたしと読書少女が話をしていたリビングに戻るなりその場にへたり込んでしまった。
「長門………」
その時、あたしは初めてキョンの目から流れ落ちる粒を見た。苦悶の表情にだんだんと混じっていく激昂の証。
「ふざけんな!!!!」
一体キョンはカーテンの無くなったガラスの向こうに何を見ているのであろうか。
「てめぇらの勝手な都合でいらなくなったらポイかよ!!? あ?!! 長門はてめぇらが作ったかもしれねぇがな!!
もうてめぇらみたいに感情も持たねぇ塵以下の存在とは違うんだ!!!!」
物凄い剣幕だ。こんな恐ろしい顔、あたしは見たことが無い。
「返せ!!!! いらねぇんなら俺達に渡しやがれ!!!! あいつはな……!!!! あいつはな……!!!!」
SOS団の一員なんだ!!!!!
……その言葉を最後にキョンは崩れ落ちた。身体を痙攣させ、半開きの目からは涙を流したまま、それでも尚あたしと読書少女の名前を交互に呼んでいる姿は、意外にもあたしを冷静にさせたのだった。
赤色エピローグ 6章