1, Tektite
俺はひとり、部室へと歩いていた。
一人、そう、一人なのである。
ホームルーム終了直後、ハルヒが「今日は用事があるからあたしは帰るから、アンタはさぼらないでよね」というや否やカバンを掴むと教室を飛び出して行ってしまった。何事よりも団活動を優先すべきと豪語するハルヒが休むのだからよっぽどのことがあるのだろう。
ハルヒがいないSOS団で、今日は何をしようか。古泉が新しいボードゲームを入手したと言っていたので、それがどんなものか気になっていた。今度こそ古泉が勝つのだろうか、いや、実際にどんなものか見てみないとそれは分からないな。
部室の扉の前に立ち、いつものようにノックする。
「……はい」
…………。
その返事を着た瞬間、俺の手はドアノブを握ったまま動かなくなっていた。
ドアノブがカチカチに凍っていて手の平がくっついてしまったとか、接着剤がべっとり塗られていたとかそういうことではない。
ただ、入るのをためらっているだけだ。
俺の知らない人物が、この部室にいるのである。
先程俺が聞いた声は、少なくとも俺の知り合いではない。SOS団に遂に入団希望者が現れたのだろうか、いやまさか、この時期になってそれはあるまい。
ええい、扉の前で考えていても仕方あるまい。向こうが返事をしているというのに、扉をノックしたまま放置だなんて、小学生のいたずらではないか。
俺はドアノブを握ったままの手をひねり、 思い切って扉を開けた。
部室のずっと奥、カーディガンを羽織った女子生徒が、窓に手を置いて外を眺めていた。
髪型はポニーテ……何を言っているんだ俺は。そんな余計なことを考えている場合じゃないだろ。目の前にいるこの女子生徒は一体誰なんだ。
「……誰だ?」
そう言ったのは、向こうが先だった。それはこっちの台詞である。勝手に部室に入っておいて「誰だ」はないだろうに。
「そっちこそ、誰だ」
今振り返れば、俺の言葉も結構な憎たらしさである。俺の返答と呼べない返答を聞いた彼女の眉間にしわが寄ったのがここからもはっきりと見えた。
「はぁ? ふざけてんのか」
向こうも俺に負けず劣らずの憎たらしさであった。
初対面にしてこのケンカ腰、まるでお互いに知っているかのような無礼さである。
この後は互いに何も話さず、にらみ合いが続いていた。
ああ、自分でも思うさ「どうしてこうなった」ってな。後から考えるのは簡単だが、実際その場にいるとそう簡単にもいかないモノなんだぞ。
「どうした」
「うおぁ!」
後ろからいきなり話しかけられて驚いてしまった。そのリアクションたるや、さっきまで睨みあっていたというのにその剣幕はどこへやら。醜態である。
長門か・……、ビックリするからもう少し居る気配を出してくれ。
すると、驚くべき台詞が部室の奥から聞こえてきた。
「なあ長門、こいつは誰なんだ?」
俺が部外者だと思っていた彼女が、長門と、確かにそう言った。
「お前、長門を知ってるのか!?」
すると、彼女は不思議そうな表情をして答えた。
「知ってるも何も……ってどうしてお前が知ってるのかこっちが訊きたいくらいだ」
その言葉に、俺は驚きあきれた。お前は何を言っているんだ、と、そう言ってやりたかったが、この生意気口の女子生徒が長門と知り合いで、俺と共にSOS団に属していることを知らないならば仕方のないことかもしれない。にしてももっと違う言い方があるだろうに。
「状況はある程度把握した。とりあえず中へ入って」
俺達二人では全く進展しないが、長門のおかげでようやく動くことが出来た。
それにしても長門が把握した状況とは一体何なのだろうか。
俺と長門が部室に入ったところで、長門が扉の鍵を閉めた。その瞬間、部室に良く分からぬ緊張感が張り詰めた。
鍵を閉めた、つまりこれからのことは外部に漏れてはならない情報だということだ。長門が把握したというその状況は俺の想像以上に深刻なもののようである。
「座って」
長門に言われる通り、なんとなくぎこちない動きで着席した。椅子が床を擦るガチャガチャという音がしなくなって静寂に包まれたところで、長門が口を開いた。
「私は貴方の知っている長門有希ではない。貴方は異世界同位体」
「……どういうことだ」
上記の台詞の発信源は彼女である。
一方の俺はというと、「貴方は一体何を言っているのでしょうか?」などと突っ込みたくなってしまっていた。いや実際にするのはさすがに空気が読めていないし事態の深刻さとやらを理解していないことになるからするなんて暴挙には及ばないが。
……異世界?
「位置座標はほとんど一緒、ただ一つの座標平面に対してのみ全く異なる値を持つ空間」
「パラレルワールドってやつか」
「そう。私達の力の及ばない領域のひとつ」
「つまり、オレが異世界人というのか?」
彼女(一人称が「オレ」だというのにそれほど違和感を感じない)がそう尋ねると、長門は僅かに頷いてから続けた。
「彼女が存在する世界は、私達が存在する世界とは明らかな違いがある。その一つが、貴方達二人の性別が逆転しているということ」
これを驚くべき言葉とせずして何とやら。長門の言葉に俺と彼女はこう答えた。
「「ハァ?」」
見事なシンクロである。まるで双子だ、いや、同一人物ではあるのだが何もここまでそっくりでなくてもいいだろう。
「つまり、彼女は向こうの世界で『キョン』と呼ばれている人物」
さっきまで憎たらしいなと思っていた女子生徒が、「もう一人の俺」なのか。つまり、俺は客観的にみるとあんな憎まれ口をたたく奴だったということなのか……? 少し反省しなければならないのだろうか。
要するに……向こうでは俺は女性になっていて、古泉がSOS団ではただ一人の男性ということになるのか。古泉め……いや、何を考えているんだ俺は。
「こいつが、オレと同じってことか?」
こいつとは何だこいつとは。
「性別以外は全く同じ」
いや、少しは否定してくださいよ長門さん、全くは無いでしょうさすがに、ちょっとは違うでしょちょっとは……。
そりゃあ、とある人物の染色体が一文字くらい違う世界があるかもしれないが、それでも同じ人物と言われてもなあ。性別が違うわけだし……。
「ところで、何でオレは異世界とやらに迷い込んだんだ?」
それを聞いた長門の表情が少し変わった気がした。話題が遂に「深刻な状態」というところに向かっているのだ。
「詳細は貴方の記憶から読み取らなければ分からない。いい?」
「元の世界に戻るためなら記憶くらい見られたって仕方ないか、いいぞ」
彼女が同意すると、長門は立ちあがって彼女に近づいた。
「こっちを向いて」
彼女が横を向き、長門と向かい合わせになった。長門が彼女の額に手を当てる、彼女が目を閉じた。長門も集中するためか同じく目を閉じた。
………………………
無言、というより無音になってから十数秒が経過したころだっただろうか。記憶の読み取り作業が終ったらしく、長門が目を開けた。
「…………終わった」
呟くように彼女に知らせると、彼女も目を開けた。
「で、原因は分かったのか?」
その問いかけに対し、長門は答えるのをためらっているように思えた。
「長門、原因は分かったのか?」
彼女の問いかけに対し、長門は何も言おうとしなかった。
「どうした?」
俺には嫌な予感しかしなかった。何事もさらりと言ってのける長門が、答えるのを躊躇しているのだ。
「貴方には、私から詳細を知る権利を持っている。しかしそれは涼宮ハルヒの願いを裏切ることになる」
「どういうことだ」
何を言ってるんだ。意味深過ぎる発言に、俺は寒気までしてきた。
「ハルヒの願いを、裏切る? それはどういうことなんだ、何がどう、ハルヒを裏切るんだ」
「……言えない」
ここまでくると、奇妙という形容詞が似合う程である。長門がここまでためらうのはなぜなのだろうか。
「それでも、知りたい?」
この先、恐怖の宣告が待っているのか、そう思うと鳥肌が立ってしまう。
「ああ、それでもだ。オレは元の世界に戻りたいんだ」
「分かった」
彼女の決意表明から数秒、長門が遂に前代未聞の宣告を始めた。
「涼宮ハルヒの能力は、こちらの世界のそれとは格段に違っていた」
いきなり何を言うかと思えば、結論はまだ先のようである。恐ろしい宣告には、この前置きが必要なのだろう。
こちらの世界のハルヒを凌駕するほどの力を持っていたというこのまえおきが意味するのは何なのだろうか、部室にはさらなる緊張感が漂っていた。
「統合思念体の影響外、つまり銀河の外側にさえ容易に到達するほどの力であった」
それはいったいどのくらいの強さなのだろうか。銀河のはるか向こうにさえ、ハルヒの力が及んでいるというのだ。
それは『強力な』の一言では済まされないようなものだろう。ただでさえ地球上に限っても影響があればそれに対応するために各勢力が動くというのに。
「脅威に感じた統合思念体は、弱体化を図ろうとした。しかし、涼宮ハルヒに察知され、防衛策を講じられて幾度も失敗している」
この後も、長門にしては珍しい長台詞が続くのであったが、なかなか理解が難しかったので割愛かつ要約させてもらう。
長門によると、向こうの世界のハルヒは統合思念体でさえもてこずる相手だったようである。
監視している組織、つまり古泉が属している機関のような組織を虱潰しに消去させても、ハルヒによってなかったことにされてしまったのだという。つまり、いくらハルヒを守る組織の芽を潰そうとしてもことごとく失敗していたらしい。
ハルヒの力を簡単にいえば以下の言葉が説明しやすいのではないだろうか。
「統合思念体の情報操作を持ってしてもそのペースを上回る勢いで情報が想像されてしまう」
落書きを消している横で、それ以上の速さで落書きをしている様を思い浮かべた。スピードが違うので、それはいたちごっこではなく、消している側の負けである。
「そこで統合思念体は最終手段に出た」
彼女は、時期に来る宣告に身構えた。
「自らの自立進化に対する可能性を捨て、涼宮ハルヒを消滅させようと総攻撃を仕掛けた」
恐ろしいことを言った。端末同士でさえも意見が合わないほどにいくつも派閥があるらしい統合思念体が、全て涼宮ハルヒを敵視していたということなのだ。
「思念体のもくろみは成功し、涼宮ハルヒもろとも、世界は消えた」
それを聞いた瞬間、彼女の表情が一変した。
ここは極寒の地ではないというのに、彼女は震えていた。
世界が消えた。それはどのようなものなのだろうか。宇宙空間を漂う地球が、忽然と消えてしまうのがイメージとして浮かんだ。この想像が正しいのかは定かではないが、論ずるべきはそこではない。
「しかし涼宮ハルヒの残存意思の最後の力によって、貴方は統合思念体の手の及ばない異世界へと飛ばされていった」
「そんな……」
すでに驚愕の事実に精神がずたずたの彼女に対して、長門はまだ話すのを止めない。
「そして、同時に関連する記憶も一切消去された」
彼女はもう震えが止まらず、いまにも椅子が音を立てそうなほどであった。
「それが、貴方がここにいる理由であり、涼宮ハルヒが知ってほしくなかった事実」
ようやく、長門の恐怖の宣告が終わった。
自分の住んでいた世界の消滅。それがどれ程のショックなのか、想像することは出来ない。
「……どういう、ことなんだよ、おい」
ようやくそれだけを言うことのできた彼女に、長門はさらに選択を迫る。
「その記憶、思い出したい?」
「おい長門、いくらなんでもそれはきつすぎるんじゃないのか?」
「……ああ、やっちまってくれ」
俺が長門を制するように言ったが、彼女は俺の言葉にかぶせて答えた。
「本当にいいのか」
「ああ……、オレは本当のことが知りたい」
俺がこの立場だったら、どうしていただろうか、やはり彼女と同じ答えを出すのだろうか。
そして、俺も彼女と同じように、この後絶叫するのだろうか。
2, Then She said...
「あの馬鹿!!」
机の天板が割れん勢いで拳を叩きつけた。
部屋に反響したその馬鹿でかい打撃音に驚いた俺と長門は一瞬接地面から数ミリほど浮き上がった。
世界の終焉の、その一部始終を思い出したのだろう。一体、どんな光景だったのだろうか。
彼女の発した『馬鹿』という言葉は誰に向けたものだったのか。
「ふざけるのもいい加減にしろよ…………!!!」
叫びながら額を打ち付けるようにして机に突っ伏し、涙を流す彼女に対して、俺は何と声をかけたらよいのか分からなかった。
むしろ、何も言わない方がいいのかもしれないとすら思った。
この件に関してあまりにも無知な俺が、何を言ったってそれは墓穴を掘る以外の何物でもないような気がした。
「それが、貴方の世界で起こったことで間違いない?」
俺が話しかけるのをためらっている中、長門が彼女に対してかけた言葉がそれであった。
彼女は何も言わず、ただ頭を上下させただけであった。制服の生地がこすれる音がしただけであった。
長門は、そのすべてを知っているのだろう。彼女の記憶を覗いたのだから、それは間違いない。
俺はそれがどんなものだったのか聞こうとしてしまいそうになりながらも、その残酷な好奇心から逃れようと無言で抵抗していた。
長門の質問に対して無言で答えて以降、彼女が叫ぶことはなかった。
発狂すること数分が経過し、彼女はようやく落ち着いたのだ。
だがそれは落ち着いたというよりも、狂い暴れる体力を消耗しただけのようにしか見えなかった。
まるでついさっきマラソンを完走したかのような疲労困憊の様相で、力無く椅子に座って重力に任せるがままに机に伏したまま、酷く乱れた呼吸をするのみであった。
「落ち着いた?」
長門のその問いかけに対して、彼女は顔を上げた。
誰の顔も見ようとすることなく、どこか遠くを見つめるような視線のまま何も言うことはなかった。
「はあ」
彼女はため息をついただけであった。そのひと吐きにどれ程の悲しみがたまっていたことだろうか。
「もう、どうにもならないんだな……」
涼宮ハルヒも含め世界が消滅してしまった以上、その世界を元に戻すことは出来ないのだろうか。彼女は元の世界に戻ることが出来ないのだろうか。
「貴方には、二つの選択肢がある」
またしても唐突に長門が話しかけた。
「選択肢、か」
「消滅すること、又は、この世界で生きること」
また極端な選択肢である。簡単にいえば生か死かの選択を迫っているのだ。
「私は貴方の意思を尊重する。どちら答えも受け入れる」
こんなとてつもない重要な選択を、今この瞬間に決めるように迫るとは、それはあまりに厳しいのではないだろうか。
まだこの世界に漂着してその理由を知ってからまだ1時間も経っていないし、精神も落ち着いていないというのに、いまここで決めるというのは
「ただ」
この逆説の接続詞が聞こえた瞬間、俺の思考がストップした。一体何を付け足すつもりなのか、まるで自分に直接関係あるかのように身構えていた。
「私は、後者を推奨する」
おい、矛盾してないか、それ。
厳しい選択を迫った後の『生きて』というメッセージに呆気にとられたのか、彼女は『は』とも『へ』とも聞き取れる中途半端な発音のリアクションをとった。
「貴方は、涼宮ハルヒの最後の願いを叶えるべき」
「ハルヒの……か」
長門が何度も言うハルヒの最後の願いの一つが、世界崩壊のことを忘れてほしいというものだったのであろうが、それは早速破られることとなった。
では、今長門の言う願いとは、何なのだろうか。国語力がればそこまで考える必要もないだろう。さっき長門は、この世界で生きることを推奨した。つまり、それだ。
「それにしても、馬鹿だよなアイツ」
彼女は天井を見上げてぽつりとつぶやいた。ハルヒとの最後のやり取りを思い出しているのだろうか。
「『どうかアンタだけでも』とか言っちまってさ、自分はどうなった? 一緒に逃げれなかったのかよ」
「その時にはすでに統合思念体に捕捉されていた。それが一緒に逃げることは出来なかった原因と考えられる」
間髪いれずに事実を述べるのは、少なからず冷たい態度と捉えても間違いないのだが、どうも腑に落ちない。
どうして、長門はそんなに彼女に生きるように言ったのだろうか。いや、まだ彼女は答えを出してはいないのだが。
彼女が長門を見た。数十分ぶりに視線を合わせている。その表情は、だいぶ落ち着きを取り戻しているように見えた。
少し深く息を吸うと、長門に問うた。
「じゃあ訊くぞ。お前は、余所者のオレがこの世界にいることに対して反対しないんだな?」
「しない」
「オレの存在は統合思念体は反対しないか?」
「その可能性は低い」
「その時は、どっちの立場に立つ?」
「貴方を守る」
暇を与えぬ質問ラッシュに対し、長門も即答する。
「最後まで?」
最後のその質問は、長門に覚悟があるかを訊いていた。
彼女は、自分がこの世界にいることがどんなことか、あまり前向きにも考えられないのだろう。それも仕方ない、彼女の世界ではその存在が認められなかったハルヒが消されているのだから。
「分からない」
長門は、とても正直だった。少しくらい不利な答えであっても、包み隠さずに答えた。
「そうか、その答えで間違いないんだな」
長門が頷くと、彼女もそれに応じて頷いた。
「分かった。ありがとな、長門」
彼女が感謝の辞を述べ、長門がまた頷いた。ずっと絶望的な表情しか見ていなかったが、ようやく彼女の柔らかな表情を見ることが出来た。
「分かったってことは、この世界で生きるってことだな」
久しぶりに言葉を発したような気がする。そんな俺に、彼女は少し照れくさそうにこう言った。
「ああ、よろしくな」
「ところで、いくつかきになることがある」
俺がそういうと、二人はほぼ同時に視線をこちらに集中させた。
「まず一つ、どこで暮らすんだ? 俺の家族に対して情報操作をするとk」
「それは推奨できない。しばらくは試験的ではあるけれども私の部屋で生活してもらう」
その答えは俺にとっても意外なものだったし、彼女にとっても同様であった。
「え、お前の?」
「何か」
驚く彼女とは対照的に、長門は『何かおかしなことでも言った?』とでも言いたいようであった。
「いや、め、迷惑じゃないのか?」
「別に。むしろ賑やかになる」
「そ、そうか、本当にいいんだな?」
彼女は動揺しきっていた。
「勿論」
「じゃあ、これから世話になるな」
「よろしく」
「ああ、よろしく……」
「質問はもう一つある」
彼女が長門とぎこちない握手をしているところに、少々迷いながらも質問を再開する。
「どう呼べばいい」
「ああ、そうだったな。オレもお前も、それぞれの世界で『キョン』と呼ばれているわけだからな」
「ややこしいな。新しい名前を作るのか?」
俺のその言葉に対して彼女が何やら嫌そうな表情をしている。そりゃあ、いきなり自分の名前を変えなければならないのは嫌だろうが、今回は仕方ないのでは……。
「時期に必要にはなるのは確か。でも、それはまだ後でもいい」
長門が割り込んでそう答えた。とりあえず、俺達の間だけでも通じるような簡単な呼称はないのだろうか。
「メアリー」
いきなりそう呟くものだから、彼女が何を言いたかったのか分からなかった。
「ん? それは誰だ?」
オレが無意識に発したその言葉に、彼女が眉間にしわを寄せた。
「誰だも何も、オレだ。メアリー・スミスだ」
スミス、その名前を聞いて俺ははっとした。そうか、あの時に使った偽名か!
「ああ! どういうことか。なるほどな。じゃあ俺も言っておいた方がいいな、俺はジョン・スミスだ」
「ジョンか……もっといい名前が思いつかなかったのか?」
腕を組んであきれたような表情を見せるメアリー。そこにいちゃもんをつけられる程度に精神は回復したようであった。その憎まれ口を聞いて少し安心したものであった。
「それはこっちの台詞だ」
「まあいいや。とりあえず改めて、ジョン、長門、これからよろしくな」
変にかしこまった挨拶を交わし、握手をした。
初めてメアリーに触れたわけだが、その手は結構温かかったと記憶している。
まあ、これがこれから続く騒動の第一章といったところか。
3, I know I know I know
―――
帰り道、オレは長門と一緒に歩いている。
終始無言で、辺りに聞こえる音は周期の違う二つの足音だけであった。
「俺も一緒に言った方がいいのか?」
「来るべきではない」
「そうか。二人で大丈夫なのか?」
「問題無い。彼女を守るのが私の役目」
「頼もしいな。じゃあ、気をつけてな」
ジョンも一緒に来ようとしたが、長門がそれを拒否した。あいつがオレと一緒にいるところを誰かに見られるのを防ぐためなのだろうとオレは勝手に推測する。
無言になっているこの間を利用して、これまでのことを整理して先のことを考える。
今、オレがこの世界であった人物はたった二人だけだ。長門ともう一人の自分、それも性別の違うジョンという男。
ジョンは見た目こそ全く違うものの、性格としては似ているのかもしれない。オレは普段あんな言動なのだろうか。
明日には、長門の情報操作によって学校に通うことになるのかもしれない。それについては後で長門に聞けばいいのだが、不安な要素があまたの中をぐるぐると回っている。
オレはSOS団に入ることは出来るのか。ハルヒに会うことは出来るのか。古泉は、朝比奈さんは、俺の存在に対してどういった立場に立つのか。
そうやって色々と考えていると、この世界に本当に居てもいいのだろうかと思ってしまう。
疑問は山積している。その山は不安定で、今にも雪崩となってそのふもとから見上げているオレを潰そうとしている。
ええい、こんなことばかり考えていてどうする。もっと前向きになれないのかオレは! 少なくともこんなこと考えてないで、もっと別のことにしたらどうだ!
他にも長門に訊きたいことがたくさんあるだろうが!
「長門」
そう言った後で口を塞いだ。これは不覚だ。まさか声になっていたとは思わなかった。
呼びかけられて、数歩先を進んでいた長門が足を止めた。
「何」
しかし、こちらを振り返ることはなかった。
その態度に少し違和感を感じたが、このついでだ、気になっていることを訊いてしまおう。
「どうして、お前と一緒に暮らすことなったんだ?」
すると、先程部室でジョンと三人で話していた時とは違った態度を見せた。
「答える必要のないものもあると、判断した」
長門は小さな背中をこちらに見せたままそう言って、答えることを拒否した。
「オレは知りたい」
「そう。私は必要な時に答えることにしている」
俺の要求も、軽く流されてしまった。その時とは一体いつなんだよ。オレは今すぐに知りたいことなのに。
「…………」
長門は未だに背中を見せたままだ。しかし、歩き出すこともなかった。オレがまだ言い足りないことを知ってのことだろうか。
オレは別の質問をぶつけてその答えを手繰り寄せることにした。
「あの時に言った理由は嘘ではないんだな」
あの時の理由。ジョンの家族に対する情報操作が危険だという理由だ。
長門がそう言った時、ああ、オレに家族はいないのだと、悲しい現実を突きつけられたのだった。
その事実を受け止めるしかない。だから、オレは『ジョンの家族』と、そう表現した。あいつも、俺の妹ではないのだ……。
「嘘ではない。あれは理由の一つ」
一つ。一つだけしか言わなかったのか。別の理由はジョンの前では言えないものだったのか。
「他の理由は何だ?」
オレは間髪入れず説明を求めた。
すると今になってようやく、長門が振り向いて視線をこちらに向けた。
オレの姿を映すその目は、どこか不安げにも見えた。
「……貴方は私を信用していない」
「分かってるのか」
そりゃあ、オレの記憶を覗いたのだから、それくらいは分かってしまっているだろうな。
「私は、二の舞にはなりたくない」
積極的にオレを守ろうと動いているのはそのせいなのだろうか。
そう思うと、少し申し訳ない気持ちが芽生える。
「私は貴方を守ると決めた。しかし、信頼されていないのであれば」
「それもうまくはいかない。だから、まずは信頼関係を得ることから始める、か」
オレが割り込むと、それに対して何の文句もなく、その通りだと頷いた。
「信頼関係、か」
その声を聞き、長門の表情が急変した。
素早い動きで気配を察知すると、声のした方向を睨んだ。
「朝倉涼子」
その声まで、警戒心に満ちていた。
オレにも、その声の主はすぐに分かっていた。が、正直驚いた。もうオレの存在は察知され、消そうという動きになってしまっているのだろうか。
「なかなか困ったお客さんが来たみたいね」
後方10メートル。朝倉涼子が柔らかな笑顔を見せて立っていた。
「長門、逃げたほうがいいんじゃないか?」
「不可能。この周囲は既に朝倉涼子によって封鎖されている」
「周りに聞かれたりしないようにするためよ。そんなに警戒しなくても大丈夫よ、彼女には手を出さないから」
「今回はね」
その笑顔は、いつかの朝倉と大して変わりはなかった。
長門は姿勢を少し下げて構えている。戦闘態勢だろうか。
「まだ何も決まってはいないはず」
「そうよ、何も決まってないわ。だから長門さんも勝手に決めちゃダメなのよ?」
朝倉の言葉に対し、長門は何も言い返さなかった。
これは長門の独断行動なのだ、それが許されるものなのか。朝倉は前進しながら更に言う。
「彼女はこの世界の『鍵』と同一人物なのよ。彼女が涼宮ハルヒに与える影響を考えると」
「分かっている、しかしそれが悪影響であるとは断言できない」
長門が朝倉の言葉を遮る。しかし、それはただ遮ることだけしか出来なかった。長門のその言葉はより一層、自身の不利な方向に追い詰めているようにしか思えなかった。
「それすらも予測できていないからこそ、注意深く行動すべきなのよ?」
「分かっている」
返す言葉が無いからそう言っているだけのような長門の返答に、朝倉はあきれたような表情を浮かべていた。
長門は遂に、下を向いてしまった。
「『分かっている』だけじゃダメなのよ。私情を挟んじゃダメ、特に今回の場合は。下手をしたら取り返しのつかない事態になっちゃうんだから」
「分かっている……」
最早、その言葉しか返すことが出来ていなかった。なぜここまで反論できないのだろうか、自分の決定が間違っていることを暗に認めているのだろうか。
朝倉はオレの横を素通りすると、長門の目の前で足を止めた。
「私達には勝手な行動は許されていないの。それを忠告しに来てあげたの」
長門のほほに触れながら、朝倉は相変わらず微笑んでいる。
ふと朝倉がこちらを見た。思わず2歩ほど下がった。
「今後どうなるかは分からないけども、よろしくね」
それは向こうからすればただの挨拶だったのかもしれない。だが、
「キョンちゃん」
寒気がした。
朝倉が立ち去った後も、長門は下を向いたまま歩き出そうとはしなかった。
「長門」
「…………」
「早く行こう、日が暮れちまう」
あえて先ほどのことには触れなかった。
無言で頷くと、視線の高さを変えぬまま歩き出した。オレは黙ってその後をついて行った。
その小さい背中を見ていると、朝倉に言い返せなかったことに対し、長門は明らかに落ち込んでいたのは明らかであった。
本当に、こいつに頼っても大丈夫なのだろうかと、そう思ってしまう自分を責めたくなる。
朝倉の言うとおり、これは独断行動であって、それはパトロンの方針に逆らっていることだったのかもしれない、それでも正当な理由を探そうとしていた。
そこまでして、オレをこの世界で生かそうとしているんじゃないか。
「長門」
「何」
やはり、こちらを見てはくれない。しかも、今回は立ち止りもしない。
「さっきのは……だな、気にするな。あれはちょっとした意地悪だろう」
こんなことしか言ってやれないのかオレは。
再び無言になってしまった。
しかもその静寂を打ち破ることは出来なかった。さっきの朝倉の言葉に対して、長門は勿論のこと、オレも色々考え込んでしまっていたのだ。
ダメだ、ネガティブになるなとさっき決めたばかりじゃないかよ!
そう心の中では意識したつもりでも、実際長門に話しかけることが無いまま、部屋に到着していた。
かつてオレが暮らしていた部屋とはまるで違う。すっきりして綺麗な部屋だ。ここで二人で暮らすことになるのか。
「ほぼすべての部屋が共有。いい?」
居間の中央付近で立ち止まると、こちらを見て確認を求めてきた。
「ああ。いつまでかは分からんが、しばらく世話になるな」
「それは間違い」
突然のその言葉に少し驚いた。
「ん?」
オレがどういう意味だと訊こうとした時、長門はこう言った。
「ずっと」
長門、その気持ちは凄く嬉しいのだが……。まあ、暗かった雰囲気を変えてくれたのだから、その言葉はありがたく受け取っておこう。
一段落したところでテーブルに向かい合って座る。
目の前には温かいお茶があるが、まだ熱くて手が出せない。長門はもうもうとのぼる白い湯気を見つめていた。
お茶が適温まで下がるのを待つ間、オレはこんなことを訊いてしまっていた。
「なあ長門、お前はどうなると思う」
「何」
「オレの存在の是非だ」
すぐには答えなかった。オレは長門には酷な質問ばかりしているのかもしれない。そのことについてオレは今夜反省すべきだろう。
長門の視線はオレの手元にある湯呑に向かっていたが、すっと俺を真っすぐ見た。
「私は否定したくない」
答えた時のその視線には、強い意思があると感じた。
「それは、お前のパトロンと揉めることになるのか?」
「不可避」
やっぱり、オレはこの世界で面倒を起こす種なのだろうな。
「しかし私は、自分の意思を変えたくはない」
長門がここまで固く決意をしているというのに、オレときたら……。
「長門、ごめんな、こんなことばっかり訊いて」
オレの言葉は長門の意に反した唐突なものだったのだろうか、一体どうしたのとでもいいたそうな表情だった。
「……」
「もう信頼してないなんてことはないから、な。あれは酷いことがあった直後だったから、そう思っていただけさ。そんな疑いはもう晴れた、だから、」
なんかこう、改まって言うのは恥ずかしいものである。
「ありがとう」
「いい」
長門はそう答えながら視線をそらした。その様子が、微笑ましく思えた。
「そろそろ適温。これ以上放置すると冷める」
「おっと」
オレは慌ててお茶を飲む。長門の言うとおり、ちょっと熱いくらいで飲むには丁度良いものだった。その温かさは、身体中に伝わっていった。
久々に飲むお茶は、とても美味しかった。
4, Like a magnet -S & S-
真っ暗で静かな寝室。見上げても天井が見えるだけ。
二つ並んだ布団のうち、俺の横にあるもうひとつはまだ主を待っている。長門はまだ起きているようだ、こんな時間まで何をしているのだろう。
眠れない。
あれだけのことがあって散々疲労しているはずなのに、眠ることが出来ない。
目に見える範囲に時計がないので今が何時かは分からないが、長門に寝るよう勧められて11時に床に就いてから結構な時間が経過しているはずである。
無音のはずなのに、何か聞こえる。
それは、あの世界の崩壊の音。
誰かの叫ぶ声。
「ダメだ」
一人そう呟いて幻聴をかき消した。畜生、こんなこと思い出してたらいつまでたっても眠れなくなっちまう。
しかし、意識的にこの記憶を思い出さないようにするには常に何かほかのことを意識していなければならず、そんなこと、現実には不可能であった。
慣れるしかないのか? あの惨劇に……、
「はあ」
再び布団から出る。これで何回目だろうか。体温で暖かくなっていた布団から出た瞬間、冷たい空気が肌をさす。
「どうした?」
「ふおっ」
その呼びかけに驚いて超高速で振り向くと、暗闇の中に長門の姿があった。長門、頼むからもう少し気配を出してくれないか。
「眠れない?」
まさにその通りだ。長門はオレの心配をしているのだろうか。
「ああ、ここに泊まったことは元の世界でも無かったからな」
「違う」
長門にあっという間に否定されてしまった。……バレたか。
「隠す必要なかったな……。ちょっと思い出してしまってな」
「大丈夫、私が一緒」
そう言うと、オレの隣の布団に寝転んだ。
俺も横になる。しばらく互いの目を見つめあったまま何も話さない状態が続いた。
無音の中、どれくらいこのにらめっこが続いたのだろうか。
「心拍数が標準よりも多い。異常な数値」
触れてもいないのに分かってしまうなんて、さすがである。隠し事は出来そうにないな、等と無理矢理お気楽な考えをしてみる。
「まだ落ち着かないんだ」
「ここは安全。それに、私が守ると、そう言った筈」
長門は、この台詞の時はいつも即答している。本当に、不思議なくらいオレの味方になってくれる。
「ところで、お前はどうしてこんな時間に起きているんだ?」
「古泉一樹と朝比奈みくるにこの事態を連絡し、各組織へ伝えるよう頼んだ」
こんな時間まで相談していたのか……。みんな、大変なんだな。
オレは、みんなの手をわずらわすような行動を控えなきゃな。
「無理、するなよ?」
「貴方も」
思わず笑ってしまいそうになった。やっぱりバレてるんだな。
隣に長門がいてくれる。オレは深い呼吸をすると、もう一度目を閉じた。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
―――
翌朝、いつもの如く妹自慢のボディプレスで強烈な目覚めをすると、携帯に一通の未読メールがあった。
送信者は長門だ。寝ぼけ眼を擦って読むと、それは寝起きの低速回転では読んでいられない内容だった。
冷水で顔を洗い、視界もすっきりしたところで改めて小さな液晶に集中する。
とても長い内容であったが、要約すれば以下のとおりである。
情報操作によって、メアリーは早速転校生という形で北高にやって来ることになった。
ハルヒに与える影響を考えた結果、メアリーは別のクラスに入ることとなったのだそうだ。
最後に、構内では出来るだけメアリーとの接触は避けるべきだという注意があった。
『特に涼宮ハルヒの周囲では危険』
下手をすれば、メアリーの存在が危うい。遵守しなければならないだろう。
朝から妙に緊迫したまま、学校へと向かった。
しかし寒い。上着も制服も貫通して体を冷やしてくる。
縮んだまま教室へ入る。ハルヒは既に登校していた。
「おはよ」
「おう」
言うまでもなく、ハルヒはいつもどおりである。俺が教室に入った時、ハルヒは眠たそうに外を眺めていた。
「うう寒いな、雪でも降るのか?」
「空を見れば分かるでしょ、雪雲なんてどこにもないわよ」
メアリーは新しいクラスでどうなっているのだろうか。気になるが長門に接触は避けるように言われているので見に行くことはできそうにない。
ところがだ、二日前までいた元のクラスのことが忘れられないのだろう。メアリーは長門の忠告も無視してたびたび俺達のクラスに顔を出した。
よせばいいのに、昼休みにも廊下を通るついでに教室を覗いて行く。
たびたび目があった気がするが、互いに反応することはなかった。
長門から注意されていたにもかかわらず、危なっかしいなとは思うのだが、自分が同じ立場であったらどうしていたかを考えると、その行動を否定することは容易ではなくなってしまう。
「なあ、あの女子生徒って、今日転校してきた人だよな」
まだ廊下を往復しているメアリーの姿を確認した谷口がそう尋ねてくる。
「ああ、やめとけよ」
俺が卵焼きを頬張りながら答えると、谷口は箸でつまんだ芋を口に運ぶのを止めて眉間にしわを寄せた。
「な、何をだよ、まだ何も言ってねえだろ」
「この次の瞬間に早速何かのお誘いの言葉でも掛けるんじゃないかと思ってな」
「うん、谷口君だとやりかねないね」
国木田がオレに賛同する。
「お前も言うか。おいおい、盛大に勘違いしているぞ。いいか? 俺が手あたりしだいにしてると思ってんじゃないだろうな」
「まさにその通りなんだが」
俺の返答に、谷口が大げさに頭を下げた。
「はあ、情けないねえ。俺はだな、それなりの時間を書けて相手の分析をした上で……」
「それってストーカーだよね?」
「お、おい、人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ」
国木田の間髪いれぬ突っ込みに、俺は思わず口の中にあったひじきを弁当箱の中に噴出した。
「おいキョン、汚ねえな」
「すまん、今のはツボだった」
むせながら視線を一瞬だけ廊下にずらすと、メアリーの姿はもうなかった。
昼休み以降、メアリーが姿を見せることはなかった。長門に注意されたのだろうか、ただ単に転校生であることからクラスメイトから質問攻めにあっているだけなのか。
放課後、ハルヒは昨日のようにカバンを掴んで何も言わずに教室を飛び出して行った。
呼びかけることも出来ず、一瞬で姿を消したハルヒに茫然としていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。
「至急、部室へ来て下さい」
古泉からの呼び出しだった。
「何だ」
「お話したいことがあります」
口調からして、真面目な話のようである。
「ハルヒはそっちにいないのか」
「涼宮さんは他に用事があるとのことで先に帰ったようです」
帰った? 一体どうしたのだろうか。昨日も同じことを考えた気がするが、あのハルヒが二日連続して団活動を休むのだから本当によほど大切なことがあるのだろう。
通話が終了してすぐに部室へ向かった。
既に古泉も長門も朝比奈さんもそろっていた。
「集まって早速なんですが、本題に入らさせて頂きますね」
古泉の表情がやけに真剣である。まさかとは思うが、その本題ってのは、
「今日転校してきた生徒が異世界人であると、長門さんから聞きました」
やっぱりな。
「全部話したのか?」
「そう。事実を正確に述べることが最善だと判断した」
「長門さんからの報告をもとに検討した結果、今回は機関としてはこの事態に関与することは無いということが決定しました」
「どういうことだ」
「彼女はメアリーさんとおっしゃいましたね」
「ああ」
「その名前にどういった意味があるかは分かりませんが、機関として彼女を保護することは一切ないと思ってください」
「つまり、不干渉ってことか」
「その通りです。むしろ彼女を涼宮さんから遠ざけるように努める可能性もあります」
ハルヒに接触する前に予防策を講じるのか。そのセリフを訊いた直後から、長門はじっと古泉を見ている。瞬きもしないで、真っすぐに古泉を貫くように見ている。
「手段は問わない?」
「出来れば避けたいですが、機関の方針が今後どのようになるかは……」
「僕個人との関係に関しては何の問題もないのでご安心ください。しかし、あまり好ましい状況とは言えません。涼宮さんに悪影響がないとは決まってはいませんから」
「あの……」
朝比奈さんが何か言いたげに小さく手を挙げた。段々緊迫感を増す中で意見を述べるチャンスを失ってしまわないようにするためか、半ば強引に割り込んだ。
「とても言いにくいんですけども、メアリーさんが涼宮さんと接触することはとても良くないことである可能性が高くて、その……」
俺も含めて皆の真剣な視線が自分に集中してしまったせいか、朝比奈さんはすっかり委縮して今にも震えそうだった。
「ごめんなさい、私としてはみんなと一緒にいたほうがいいとは思うんですけど……」
「仕方ない。彼女の世界の二の舞になることだけは避けなければならない」
長門が朝比奈さんにそう言う。
「もし、メアリーがSOS団に加わることを望んだ場合は」
「先程も述べたように、それは回避する方向で動くと思います。不本意なのですが、仕方ありません」
「わ、私もそれには賛成できないんです……」
朝比奈さんが下を向く。古泉も放すのを止め、静まり返ってしまった。
目の前に、二つの青票が突き出された。
あくまでも自らの属する組織の意見を代弁したものではあるが、長門のように上の意見や指示を無視するという危険を冒すことは出来ないようだ。
統合思念体がどのような意見になるのかは分からないが、機関と未来人組織は否決の立場をとっている。
「ハルヒが自ら接近する可能性についてはどうなんだ」
「検討中です」
古泉はそれだけ言って明確な答えを避けた。ところが
「そうならないようにする可能性が高いです……」
今度は未来人がはっきりとした意向を示した。
「どういうことですか、『そうならないようにする』って」
「それは、その……」
いかん、朝比奈さんがおびえてるじゃないか。
「過去を書き変えてメアリーの存在を消す?」
長門がそう言うと、朝比奈さんは慌てて首を横に振った。
「そそそそそんな物騒なこと……」
「おい長門、いくらなんでもそれは言いすぎじゃないのか?」
「発言が行き過ぎた。ごめんなさい」
朝比奈さんはどんどん縮んでいく。古泉も発言をしなくなる。長門も反省のためか下を向いている。
何だこの嫌な空気は。打開できるのは俺しかいないのか?
「ところで……だな、長門」
「……何」
長門が顔を上げたところで、
「長門はどうしてそこまでメアリーを守ろうとするんだ?」
その質問に対して、長門はなぜそう言うことを訊くのとでも言いたそうであった。俺も言い方が悪かったと思って慌てて訂正した。
「いや、別に悪いとかそういうことではなくてだな、俺もメアリーがいることには賛成なんだが、長門がここまで積極的になるのが少し意外でな」
すると、長門は少しためらいがちに、こう言ったのだった。
「彼女の世界で、涼宮ハルヒを殺したのは、私」
5, Mary & John Smith
「……なんだって」
俺達はただただ絶句した。
しばらくの間誰も応答できないでいると、長門がこちらを向いた。
「聞こえた?」
「ああ、ちゃんと聞こえてる。だが長門それh」
「紛れもない事実。その記憶を彼女の視点からの映像として再現可能。見る?」
そう言うと希望者を募るように俺達を見回す。勿論朝比奈さんに至っては、長門と目があった瞬間に小さく声を漏らして委縮してしまった。
メアリーが最後に見た、世界の様を見ることが出来るのだという。
しかし、それを見たいとはとても思えなかった。勝手に人の記憶を覗くことに対する罪悪感だけでなく、ただどんな光景を見ることになるのか分からないという恐怖感があった。
誰も閲覧を希望していないことを確認した長門が視線を俺に戻した。
「遠慮しておくよ」
最後の確認を俺に求めているように思えたので、一応言葉で意思を表した。
「……そう」
どうしてか、部室の空気が冷たく感じる。緊張感ではない何かが、音を立てることさえ拒んでいるように感じた。
「長門さん」
俺が黙ってから数秒、口を開いたのは古泉だった。
「何」
「メアリーさんの世界の貴方は、どうして涼宮さんを殺したのですか」
「それが統合思念体の決定だった」
即答、とはいかなかった。一呼吸置いてからの回答だった。
「『私』は当初はそれを無視した」
長門は視線を古泉に向けることはなかった。
「しかし、最終的にそれに屈した」
だからといって、俺や朝比奈さんを見ているわけでもなかった。
「涼宮ハルヒも、それを分かっていた。だから、無抵抗に殺された」
長門が見ていたのは、壁だった。
ハルヒは、もう逃げられないと悟ったのだろうか。だが、大人しく殺されるなんて、そんなことをハルヒがするとは考えられないのだが。
「……すみません。余計なことを訊いてしまったようですね」
答えている間の長門の様子を見ていて、古泉も俺と同じことを思っていたようだ。
「大丈夫。答えるかどうかは私自信の判断」
そうはいっても、その言葉は細々としていた。
長門は一人立ち上がって歩き出した。壁を向き、こちらに背を見せると、こぼすように言った。
「今のことは忘れて」
その台詞は、言わなきゃよかった、という意味にもとれるものだった。
俺達に罵られるとでも思っているのだろうか。それとも、こんなこと口に出さずに心の中にしまっておくべきだったと思っているのだろうか。
では、長門がそんなことを口にしたのはなぜなのか。
「長門」
とうとう俺の呼びかけにも、視線を動かすことは無くなっていた。
「無理すんなよ」
その言葉を聞いて、ようやく振り返った。
「自分を追い込みすぎるのはよくないぞ。俺達がいるじゃないか。それぞれの組織のどうこうじゃなくて、個人として出来ることはあるだろ」
その後に「なあ」と言って古泉に同意を求める視線を向けると、古泉は頷いていた。
「メアリーさんのことに直接触れることは出来ないかもしれないんですけど、なにか長門さんが困った事があったらいつでも相談にのりますよ」
朝比奈さんもそう言った。
長門の表情が、少しゆるくなったような気がした。しかし、それもまたすぐに引き締まった。
突然歩き出したかと思うと、自分のカバンを手にした。
「帰るのか」
頷くと、無言で扉を開けた。そこで振り返ると、俺を見つめた。
「貴方は、やはり彼女と似ている」
なんだか引っ掛かるような言葉を残し、扉を閉めた。
廊下に響く長門の足音が段々と小さくなっていき、終いには無言になった。
「……解散、ですか」
古泉が浅くため息をついた。
「状況が悪化しないことを祈るばかりです」
「機関がその予防に動くことはないのか」
「全く無いとは言えませんが、長門さんほど積極的ではないことは確かです。現在もなお、メアリーさんの影響については意見が分かれています。そうですよね」
不意にパスを受けた朝比奈さんは慌てながらも答えた。
「え、あ、はい。こちらも、まだはっきりとしていないので大きな動きはないと思うんですけど……」
「では、僕もそろそろ失礼いたします」
「じゃ、解散ってことで。部室閉めましょう」
「はい」
二人欠けたSOS団は、なんだか静かというか寂しいものであった。
「良く考えたら、まだ二日しか経ってないのか」
帰り道、暗くなりつつある空を見上げながら呟いた。
「目の前に解決しなければならないものがある時には、時間が長く感じるものですよ」
メアリーがこの世界で暮らすことになって、ようやく二日経過したのである。
時間というものは感じる長さが等しくないから困ったものである。
こういう時にはもう少しぱぱっと過ぎてしまえば、メアリーも精神的には楽だろうし新たな生活にも慣れるのではないのだろうか。
「ん」
「どうかしましたか?」
ポケットの中で、携帯が震えていた。誰からだと独り言を言いながら通話を始める。
「もしもし」
「ジョンか。オレだ、メアリーと言えば分かるだろ」
オレの表情が変わったのを見てか、古泉と朝比奈さんもこちらを注視している。
「お前か、どうした」
「ジョン、今どこにいる」
「帰っているとちゅうだ。まだ学校の近くだが、どうした」
「ちょっと時間をくれないか? 一人で来て欲しい」
「分かった。俺だけでいいのか」
「ああ、その方がいい」
「メアリーさんからですね」
通話を終えた瞬間、古泉が言う。勿論正解である。
「どのようなご用件だったのですか」
「俺に相談があるらしい。そういうわけで、俺は学校に戻ることになった」
「では、僕達は失礼いたしますね」
「また明日」
俺は再び部室の前にいた。ここは俺が指定した場所だ、ここならメアリーとの話も周りに警戒すること無く出来るだろうという判断だ。
扉の前に、メアリーが待っていた。
「急に呼び出して済まんな」
「いや、特に用はないから大丈夫だ。中に入ろう」
二人が中に入り、扉を閉める。
「あー、やっぱりここは落ち着くよ」
メアリーは座ろうともせずに話し始めた。
「とっとと終わらせたいだろうから、率直に訊くぞ」
メアリーが俺だけに言いたいことだ、簡単なものではないだろう。どんな質問が飛んでくるのか、少し構えた。
「お前にも経験あるだろ? 目覚めたら違う世界だった、みたいなことが」
予想通りと言っては何だが、なかなか難しい話になりそうだ。
「それに類することが無かったとは言えない。だが、今のお前のような経験はない。どこまで相談に乗れるかは分からないぞ」
「いや、いいんだ。ただ聞いてくれさえすれば」
メアリーは微笑んでいた。といっても、それは弱々しいものであった。
「オレは、どうすればいいんだろうな」
Yes/Noで答えることのできない5W1Hの疑問文に対して、俺は黙っていた。
この世界で新たな人生を始めたらいいじゃないかと、そんな簡単な答えではないことくらいは分かっていた。
「オレは皆のことを知っている、なのに皆はオレのことを全く知らないんだからな」
俺が何も言わないこともお構いなしに、メアリーは部室を歩きまわりながら淡々と自嘲の句を並べていく。
「ただの転校生なら、お互い初対面だからまだいいだろうさ。オレはあの学校につい二日前まで通ってんだぜ? それが今じゃあ……」
今の俺に、どんな言葉がメアリーに対して使えたのだろうか。
「もうやめろ」
俺に言えた言葉は、そのたった五文字だけであった。
割り込まれたメアリーはそれに対しては文句を言わず、そうだなと呟いて続けた。
「塞ぎ込んだところで、どうにもならないのは承知だ。長門が助けてくれてるんだしな」
この後に続くのが逆接の接続詞であることは、ごく自然に分かった。
「だけどな、溜ったもんは出さないとそのうち破裂しちまうんだよ」
愚痴を聞いてもらう為に俺を呼んだ。それを聞いたところで、怒るとかいう感情の変化はなった。
「だよな」
こういう役目は俺にしか出来ないのだろうしな。それに、世話を焼いてくれている長門に更に心配をかける訳にはいかないと思っているのだろう。
「ははは、こんな世界クソだ。この世界が無くなっちまえばよかったんだ……」
もう、言いたいだけ言わせることにした。俺には、メアリーを今の慰められる自信はなかった。
特に大した意思もなく、俺は歩きだした。
「ん?」
まだ二日しか会ってない、ちょっとした知り合い程度だというのに。
メアリーに近づくと肩に手を伸ばし、そのまま強引に引っ張った。
「……」
「……」
今、メアリーは自分の頭を俺の肩にあずけている。互いの体温が伝わっていく。
メアリーもそれに抵抗することはなかった。きっと、お互いなんとも思わなかっただろう。
今この瞬間を誰かに見られていようとも、この状態を続けていただろうな。まあ、そもそも部室の中にいるんだからそんなことは
「あら、お邪魔だったかしら?」
撤回。
二番目くらいに見られたら面倒な人物がいた。
一番が誰かくらい想像がつくだろ?
「朝倉、わざわざ部室にまで来て何の用だ」
「お熱いところ失礼。ちょっとばかり報告に来たの」
自ずと視線が鋭くなる。それは冷やかされたからと言って変わることはなかった。
「二人とも、顔が怖いわよ」
朝倉が自分の頬を両手の人差し指でつついている。俺達に「スマイル」を求めているらしいが、俺達はそれに応えずただ睨むだけだった。
俺達の表情が変わらないと判断した朝倉は、両手を下して背面で手を組んだ。
「現在、貴方の世界で何があったのか、長門さんからの報告をもとに詳しく分析しているところなの」
長門、お前、メアリーの記憶をパトロンにも教えちまったのか。大丈夫なのか?
「その結果も元にしてこれからの方針が決まるかもしれないわ」
「それを言いに来たのか?」
俺は若干の皮肉をこめて言ったつもりだったのだが、朝倉は「そうよ」と答えた。
あっさりとした答えに、俺は内心驚かざるを得なかった。まさか本当に報告だけだとは思わなかった。
一クラスメートである朝倉をそこまで信用してないとかそういうのではないが、ナイフを握って排除にかかる可能性もあると警戒していただけに、これは驚きだった。
「長門さんは全てを貴方達には言わないだろうから、私が教えてあげたの」
意表を突かれて俺達の表情が変わったのを見てか、朝倉の口元はますます緩んでいく。
不思議だ。『病んでる』とかそういう恐怖を駆り立てるような要素は微塵も感じられないにも関わらず、朝倉の笑顔を見ていると鳥肌が立ってくる。
自分から勝手にそうさせるものをくみ取っているのだ。先入観が、勝手に視界を塗りかえている。
「涼宮さんにとって、いい刺激になりそうだしね」
メアリーを利用しようとしているのか。それとも単純に協力しようとしているのか、さっぱり意図がつかめない。
相手の立場がよく分からない以上、警戒は解けない。
「どういう考えかは分からんが、悪い方向に持っていこうとするのであればそうはさせないからな」
「そう? 頼もしいわね。じゃ、報告は以上だから私は帰るわ。さっきの続きをどうぞ」
もう返す言葉が無い。そのまま無言で朝倉を見送った。
朝倉が出て行ってから、メアリーは「何だアイツ」という俺が思っていたことと一字一句違いなく言った。
「変なことに巻き込んで、すまんな」
「いや、お前が謝るようなことじゃないさ」
お前『が』……。自分で言っておきながら、何か引っかかる言葉だ。
―――
「命令が来たわ。予想通り、排除の方向ね」
「……」
「一応反対はしたわよ、『このまま存在させた方が涼宮さんに対するいい刺激になるんじゃないか』って」
「返答は」
「ううん、無視されちゃった。私達の知らない部分で都合が悪いのかしら」
「なぜ拒否しない」
「上からの命令は絶対だもの。逆らうことは許されないわ」
「保身……」
「当り前じゃない。自分の存在まで危うくなるようなことを率先してする長門さんのことが理解できないわ」
「……そう」
「明日」
「……」
「聞いてる? 明日の下校時よ」
「……」
「そこで殺すからね」
「……そう」
「……来るなら、早めにね。今回動くのは私だけじゃなさそうだし」
「分かった」
最終更新:2010年03月12日 22:23