SOS団部室。
 
授業が終わり放課後になると、約束があるわけでもなく誰ともなく所属団員は集まってくる集いの場。
今日もそれは違えず、団長を含む四人は全員出席していた。
涼宮ハルヒ。キョン。古泉一樹。長門有希。
去年までなら唯一年上の先輩だった朝比奈みくるも居たはずなのだが、学校を卒業してしまった為に、部室には顔を見せなくなっている。
無論、SOS団に一度入部させられたからには卒業如きでは簡単に解放されず、土日に開催される不思議探索には行動を共にしているのだが。少なくとも彼女達が卒業してSOS団が解散するまでは、付き合うことは規定事項だろう。
「ちょっとキョン、次の探索日なんだけどみくるちゃんにコレを着させてみない?」
「お前は朝比奈さんに一生物のトラウマをこれ以上刻み付ける気か? 却下だ馬鹿者」
「なによっ――!! 団長の意見に反対する気?」
仲良く肩を並べながらパソコンの画面を覗き見る二人の意見は真っ二つに割れて、激しくも楽しげな口論が開始される。
 
それを微笑みを貼り付けた少年――古泉一樹はどこか遠くを見るような目で見守っていた。
胸に秘めた想いを殺し考えるのは、二人の関係が安定し、これから先の未来は明るいと安堵する心。
卒業まで二ヶ月に迫った期日、楽しく大切な集まりからも必然的に決別が訪れようとする中、二人の関係が望ましい位置に届いているのは少年にとって、なによりの安定剤になっていた。
まだ二人は友人以上恋人未満の関係を持続しているが、何か一押しがあれば、それはすぐさま一転して華を咲かせるであろう。ならば、このグループが決別したとしても、きっと落ち込むであろう彼女を、間違いなく彼は支えてくれるだろうから。
 
古泉は目線を落とし呟く。信じていますよ、と。
 
その表情は柔和な微笑みというよりも、儚さと憂いが入り混じった形容し難い感情に彩られていた事を自覚していただろうか。
「ねぇ、古泉くん? さっきからずっとこっちを見つめてたけど、何かあったの?」
「気色悪いぐらい見てたぞ、お前」
古泉の視線に気付いていたのか、ハルヒは物珍しそうに、キョンの方は胡散臭いとばかりに眉を顰めていた。
「おや、これは失礼しました。お二人とも仲がよろしいですね、と、つい微笑ましくなったものでして」
「なっ――?! ち、ちちちがうからね、これはそんなのじゃないからっ!」
「そ、そうだぞ古泉! お前はいつもいつも勘繰りすぎなんだよっ!」
「くすっ、それは失礼しました。その割には息がピッタリですけどね?」
古泉の仄めかす言葉に、二人は喉を詰まらすと頬を赤らめそっぽを向いた。
巧い事誤魔化すことに成功した古泉は、いつも通りの仮面を貼り付けながら含み笑いを漏らす。その表情には先程まで浮かんでいたはずの感情は残滓も残さず消失していた。その感情が何を意味していたのか――それは本人である超能力者の少年にしか知りえない。
「もう古泉くん、団長であるあたしをからかわないでよね……罰則者だわ」
小さく怒ったようにいう口調とは裏腹に、隠しきれない嬉しさが口元に浮かぶハルヒ。それを横目で確認していたキョンが少女の本心に気付いたかは定かではないが、目に優しげな光を灯し盗み見ていた。
束の間の沈黙を挟み、また広いとは言えない部室に疎らな音が戻ってくる。
そのまま暫くは穏やかな時間が過ぎ去っていき、唐突に音が鳴り響いた。
 
パタン、と。
 
今まで黙し、決してアクションを起さなかった長門が今日初めてのアクション――読み耽っていた本を閉じた音である。その音は彼らにとって本日の団活終了を報せる合図である。
「今日の活動はこれにて終了っ! 皆、お疲れ様! 明日も遅刻しないように急ぐように。もし遅れたら――わかってるわよね?」
ニヤリと不吉な笑みを浮かべたハルヒは、返事を聞かずに次の行動に移る。
「あとキョンはあたしに付き合いなさい。みくるちゃんの為にもいま見たサイトのコスプレをゲットしに行くわよ」
「ちょっと待てハルヒ。何故に俺が連行されなきゃいかん。そもそも俺は朝比奈さんにアレを着せるのは却下だと言ったはずだが?」
「誰も雑用係の意見なんて聞いてないのよ! い~い? 重要なのは団長であるあたしが決めた事に問答無用で従うのが雑用の役割なのよ。判ったら、行くわよ。あまり遅くなると、お店が閉まっちゃうわ!」
「グエッ……ッ」
そのままキョンのネクタイを引っ掴むと、遠慮なく走りだすハルヒ。
口を開きかけていたキョンは蛙の轢き声に似た悲鳴を上げながら、引き摺られていった。
恒例ならこのまま二人して姿を消すのだが、今日は違ったようだった。
キョンはちゃっかりと回収していた鞄を摑む腕とは違う手で、ネクタイを引っ張るハルヒの手を握り締めると制止を掛ける。
 
「お前は俺を殺す気か!」
「なによ? モタモタしてるあんたが悪いんでしょう!」
「俺にも都合ってもんがあるんだよ。直ぐに片付くから、少しは待ちやがれ」
「むぅ~」
頬を膨らますハルヒを軽くあしらい、キョンは鞄に腕を突っ込み中身をゴソゴソと漁りながら、座ったままの長門に近寄っていく。
「長門。借りてたコレ、返すな」
鞄から抜き出されたのは一冊の文庫。
「活字は苦手でな。読み終わるまでに時間が掛かっちまって、借りっ放しになったのは申し訳ない」
「……いい。どうだった?」
「あぁ、長門が勧めてくれた一冊なだけはあったよ。面白かった。詳しい感想は今度にしてくれ。どうやら我らが団長様は、雑用係りの俺を酷使したくてウズウズしているらしくてな」
「わかった。楽しみにしている」
「俺もだ」
長門とキョンは視線を絡め合わせる。
長門は相も変わらず無表情だが何処となく嬉しさが混じり、キョンに限っては日頃見る事が稀な優しげな顔付きで微笑んでいた。
二人だけの遣り取りに取り残されたハルヒは眉を逆八の字にし、古泉は注意深く三人の動向を見守っている。
 
「ほらっ! もう用は済んだんでしょう?! さっさと動きなさい、エロキョン!」
「だから少しは落ち着け――グェッ?!」
「行っくわよ~~!!」
 
待たされるのに限界が来たハルヒは、もう待たない! とばかりに今度こそキョンのネクタイを締め上げると返事も聞かずに走り出した。
首を絞め上げる苦痛に、顔を顰めながらも素直に付き従うキョンに怒りはなく、仕方ないなぁこいつは、という苦笑交じりの穏やかな気配を伴って姿を消していく。
 
「鍵の戸締りはお任せを。お気をつけて」
古泉は恭しく一礼しながら送りだす。ありがとう、と凛と張り上げられた声を最後に部室に静けさが舞い戻ってきた。
「長門さんも、お疲れ様でした。鍵の戸締りは僕に任せて、先に上がってください」
「……」
無言を返答にした長門は鞄に文庫を直すと、物音を立てずに席から立ち上がり、静かに立ち去ろうとする。
長門を見送る古泉の目には確かな違和感が映っていた。もう見飽きる程に感じる違和感を。随分判りやすくなった彼女だが、それでも普段の日常を共に生きてきた仲間としての感想から指摘するならば、判らない方が多い。
にも関わらず、確かな違和感として捉えている理由は……そこまで考えて古泉は自嘲の笑みを浮かべた。自分には関係ないことだから我関せずを貫けばいいだけのこと、今まで通りに。どうせ、もう決まった定めなのだから、介入する必要性は皆無だ。
「……」
無言の壁を突き破って、長門は部室から退室していった。
独り取り残された古泉は、憂鬱な溜息を吐き出すと、パイプ椅子に身を預けた。常日頃から欠かさず携えている仮面が剥がれ落ち、素のままの少年の面が晒される。
「僕はどうしたいのでしょう……」
独白は空気に混じり、何処にも届かずに溶けていく。
ふと窓際に視線を移すと、真っ赤に燃え盛る夕日がカーテン越しから窺えた。
……気怠い身体を引き摺り上げながら、古泉は行動を開始する。
まずは戸締りを。その後は……。
 
古泉は戸締りを終えると、ある場所に向っていた。
同じテンポで足音を響かせながら、階段を上っていく。
目の前には屋上にへと続く扉が現れる。一般生徒が出入りするには危険として開放されていない場所だが、古泉は躊躇いなく扉の前に立つと、ズボンのポケットから束になった鍵を取り出すと、その内に一つを使用し開錠する。
 
開かれる扉。
その向こう側からは一月の、痛さを伴う冷気が押し寄せてくる。存分に身を打たせるに任せて、古泉はそのまま歩を進めた。
狭い通路から解放され、だだっ広い空間に迎えられた身は少しの開放感を得る。空には眩く輝く夕焼けが、全てを焼けつくす壮大な光景を生み出している。
「息抜きには丁度良いですよね」
溜まった憂鬱を吐き出すように力を抜く。
屋上がお気に入りの場所になったのはいつ頃からだろうか。三年に進級して暫くすると、通い始めるようになった気がする。
どこか独りになれる場所を探すために。
誰にも邪魔されることなく、静かに休息を挟むために。
「……精進が足りませんね、僕も」
歩き、柵まで進もうとした時に気付いた。
通いに通ったお気に入りの場所に異物を認めたのだ。
目指そうと歩を進めた先に、明らかな異物――少女の影絵。
「……長門さん?」
見間違えようがない。その背中は先に帰宅したはずの少女のもの。
疑問が首を擡げる。
どうして此処にいるのか。彼女は此処で何をしているのか。
それらの答えが導かれる前に出てきたのは、黒い感情だった。自分のお気に入りの場所を穢された、という子供染みた妄執。自己嫌悪しながら、古泉は長門にへと接近していく。剥がれ落ちていた仮面を完璧な形で貼り付けながら。
「このような場所でどうしたのですか長門さん? 風邪を引いてしまいますよ」
背後からの呼び声に、微細だが肩を跳ね上げ驚きの反応を示す長門。
「……。古泉一樹、あなたこそどうしてここに?」
「ここは僕のお気に入りの場所でして。三年に進級してからは足を運んでいたのですが、気付きませんでしたか?」
「……そう」
会話が途切れ、二人の間に居心地悪い沈黙が横たわる。
だが、構いはしなかった。
出会った当時よりかは緩和されたとはいえ、二人の間ではそれが普通なのだから。タイミングが悪かったというのもあるのだろう。
古泉は孤独を求めて屋上に赴き、長門もこんな辺鄙な場所をあえて選んでいたのだ、きっと似た様な理由で孤独になるのを望んでいたはずだろうから。故に、お互いの間に和やかな雰囲気が生まれることはなかった。
 
古泉と長門は身体一個分の距離を置いて、夕焼けが昇る空へと視線を向けている。
真冬の冷気がジワジワと体温を奪っていく中、まるで畑の中央に放置された案山子のように、身動ぎすらなく一つの風景と化すように佇んでいた。
 
 
時間の概念が存在しないように、その風景が崩れ去る事は無く、ただ紅く染まった空だけが時間の流れを教えてくれている。
両者のどちらかが、静かに舞台から立ち去るまで終わらないと思われた静寂に、亀裂が入った。
 
「ねぇ、長門さん」
本当は声をかけるつもりはなかった。
 
常の古泉一樹なら紳士的な気配りを配慮したかもしれないが、今はそのような余裕もなく、気分でもなかったのだから。だけど、こうして古泉は長門に対してアクションを仕掛けている。
苛立ちからだったかもしれないし、沈黙に耐えられなかったのかもしれないし、ふとした気紛れだったのかもしれない。
一つだけ断言できたのは、これは決して親切心からの行動ではないということ。
 
「貴女は未だに諦めがつかないのですか?」
象徴的な問い掛け。明らかに核心を省いた、当事者達にしか解読できない暗号文。
「…………」
「おやおや、黙りですか」
いつもと変わらない仮面を貼り付けた少年に変化が滲み出す。笑みはそのままだが、口調に微かな嘲りが含まれていた。 
「まぁ別に今に始まった事じゃないですから無視されようと気にしませんし、答えていただけるとも思っていませんでしたから。それとも……意味が伝わらなかったなんて事はないですよね?」
僅かに身を屈め、長門の顔を覗き込むようにしながら、古泉は喉から含み笑いを漏らす。
「ククッ……そんなことは有り得ません。昔の貴女ならいざ知らず、今の貴女は僕が何を言いたいのかなんて、理解できないはずがない」
何故なら、
「貴女はオズの魔法使いという有名な童話に登場する、ブリキの木こりそのものなのですから」
心を入れ忘れられた悲しい人形が心を求め、とある少女達の旅に同行し幾多の試練を乗り越えた末に、願いを叶えるのである。
似ていた。
その物語の本質は、どうしようもないほどに長門有希という少女そのもの。
「つまり僕の質問に答えたくなかったが正解ですよね?」
 
「……」
無機質で硬く透明な眼差しは揺れる事はなかった。
外界を絶ち、内面に沈みこんだ長門の無関心な態度に、神経が逆撫でされる。
汚したくなる。
純粋で真っ直ぐな、穢れを知らない純白な少女の心を。
もう、止められない。
ヤメテオケ。という声が何処かから聞こえるが無視した。
古泉を繋ぎとめていた理性と良心の鎖は、簡単に綻び砕け散る。
 
「答えたくないんなら、僕が言葉にしてあげますよ」
理解不能な感情が荒れ狂い、口が勝手に滑り出す。
「貴女の行為は無駄なんですよ。どれだけ願おうが、どれだけ欲しようが、叶う事はありません」
なのに、
「貴女は諦めようとしない。自分でも無理だと、届かないと判っているのに足掻くのを見せられると、酷く苛立つのです。辛くないんですか? 一方通行の想いなんかに縛られているなんて。……僕には理解も共感もできそうに有りませんね」
仮面が剥がれ落ち、その下からは醜態な面が覗かせる古泉。
見下ろす眼には冷たい光を宿し、嘲笑を忍ばせる唇は歪んでいた。
「それほど迄に心惹かれましたか? ブリキの木こりに心があるのを自覚させたのがドロシー達のように、貴女に心という物を教えてくれた――」
 
「……めて」
決定的な台詞を言い切る前に、囁くような、だけど間違いのない制止が割って入った。
「……あなたには関係ないはず」
 
漸く引き出せた長門の反応に、古泉は濁った泥のような暗い満足感が胸に満ちるのを実感しながら、視線を自分に向けてきた長門を観察する。
涼やかな目元は何かを堪えるために鋭くなり、口元は硬く結ばれている。常人には見分けがつかない変化を、古泉の観察眼は見逃さなかった。
 
「話している最中に横槍とは感心しませんね。あそこからが面白い部分でしたのに」
古泉は笑った。
それは禍々しい“嗤い”だった。
「現実を叩きつけられるのが嫌だったのですか? 言葉にされてしまっては、それが事実になりそうで」
言葉にしなくてもその願いは叶わないのに。
「……古泉一樹。あなたは疲れている。休むべき」
「度し難い人ですね、長門さん。この後に及んでまだ僕の心配ですか?」
憤りという名の、真っ赤に煮え滾る屈辱感に目の前が暗転しそうになる。
「僕がこれだけの醜態を晒してしまっているのに、貴女はまだ自分を偽ろうとしている。
 でも違うでしょう? もっと曝け出してくださいよ。心を持つ人間なら誰しもが、隠したくなる醜い本性というものが裏側に潜んでいるはず。無いとは言わせませんよ、貴女は僕と似ているのですから。いいや、認めたくないけど、僕と同じなんですから」
 
 
そう。
古泉と長門は同じ。たった一つの共通点が食い違っただけで、まったく同じ道を辿っていた。
その差異は。
諦めたか、諦めてないか。
故に古泉は苛立つのだ。
長門を見ていると。
まるで違う選択士を選んだ自分自身が、叶わぬ願いと知りつつ愚かにも這いずり回っている光景を無理やり見せつけられているようで。
突拍子もなく口汚い唾を長門に向けて吐いてしまったのも、そのせいだと古泉は判断していた。
そう――欺いていた。己自身を。
「それに僕にも関係ありますよ。僕の立場をお忘れですか? この世界の平穏を影ながら守る立場と義務を背負っているのですから、憚らずとも関係はありますよ」
「これはわたしの問題。あなたが何を伝えたいのか理解できない」
「少々回りくど過ぎたでしょうかね。“彼”にも注意されているのですが、こればかりはそう簡単に直らないのですよ」
「……」
「ふふっ。何時になく解りやすいですね、長門さん。“彼”の名が出たとき動揺しましたよ? 僕から見たら羨ましいぐらいに純粋だ」
「……止めて」
「そんな目で見ないでくださいよ。思わず……」
 もっと虐めたくなってしまう。
「……回りくどいのは終わりにしましょう。僕が言おうとしてるのは、世界の、彼等の、ひいては貴女の為でもあるんですから感謝してください」
笑う。哂う。嗤う。
ワラいながら、少年は身勝手な――
 
「“彼”は貴女には振り向きませんよ。だって“彼”が好きなのは――涼宮ハルヒなんですから」
 
――善意を押し付ける宣言をした。
 

 
         ●

 



言い切った瞬間、古泉の胸に渡来したのは快楽ではなく衝撃だった。
無重力を感じたかと思うと、視界がブレ、同時にガシャンッと音が鳴り全身に衝撃が襲い掛かってきたのだ。
「ガッ……、――」
古泉の脚は地から隔絶され、宙に浮いていた。
長門に胸倉を摑まれ、強引に背後の防波堤の柵に叩き付けられたことにより。
「……わたしは止めてと言ったはず」
静かな圧力を伴い長門は声を零した。
「ゴホッ……ご挨拶ですねぇ。何か良いことでもありましたか?」
せせら笑う古泉の表情が苦しげに歪む。
吊り上げられた身体が、更に天高く昇る。
「……あなたに何がわかる」
「わかりますよ。言ったでしょう? 僕と貴女は同じだと」
「……おなじ」
「僕の親切心はお気に召さなかっ――」
「黙れ」
再び背後の柵に叩きつけられ、肺から酸素が吐き出され古泉の戯言は途切れる。
痛みを堪え、見下ろした少女の瞳には、これまで拝んだことのない色に彩られていた。
禍々しく蠢く感情の色彩。
それに“黙れ”など、口汚い命令調も初めてだったはず。
……あぁ、と古泉はこの場に似つかわしくない無邪気な笑みを浮かべた。
漸く本性を曝してくれた、と。
「何故、笑う?」
「面白いからですよ」
「そんなに……わたしが惨め?」
古泉の背中からミシミシと防波堤の役割を果たす柵が不気味な音を響かせる。
「ええ。無様なほどに――」

物理的な圧力により軋む身体を無視して、古泉は火に油を注いでいく。 
少年は愉悦に目を細め、少女の瞳には狂気が蠢き。
一発触発の空気が、周囲を侵食していく。
息が詰まる緊張感の中。
少女が瞳に新たな光を宿し問いかけた。

「古泉一樹。可哀相な人」
「――っ?!」
「驚く必要はない。わたしは当然の事を口にしたまで」
「なにをっ――」
「あなたがわたしにしたのは、八つ当たり」
「仰る意味がわかりませんね」
「わたしが“彼”にコンタクトを取る姿を見て嫉妬した。あなたは自分にはできないからと臆病風に吹かれて目を逸らした腰抜け者。だから八つ当たり」
「人形風情が人間みたいに語りますね」
「あなたの言葉。ブリキの木こりがドロシー達といっしょに旅をして、心を自覚したように。わたしも“彼”に教えて貰い、あなた達といっしょに行動して育んだ宝物」
人間1人を片手で吊り上げながらも、微動だにせず長門は言葉を連ねていく。
だから、と一つ溜めを作り、重大な真実を告げた。


「あなたがわたしに八つ当たりしたのは――“涼宮ハルヒ”を好きだから」


ククッ、と古泉は動揺すらせず喉を震わせる。
身体の自由が束縛されていなければ、腹を抱えて笑っていたかもしれない。
「もっと愉快な話を期待したんですが、案外詰まらないことを仰りますね。……否定はしません。今更ですし、貴女は僕と同じだと言いましたからね。えぇ、僕は涼宮さんの事が好きでしたよ」
だけど、
「勘違いしないでください。僕は貴女と違って、諦めましたので。それに貴女に八つ当たりしてしまったのも認めますが、半分は世界と“彼等”の為でもあるんですから。付属物として、報われない恋に縛られる貴女に忠告も含んでいましたが」
真意の計れない言葉を聞き遂げた長門の判断は簡単なものだった。
瞳に宿した光――憐憫の情を更に輝かせながら、古泉の言葉を戯言と片付け真実を叩きつけた。
「もういい。あなたはやっぱり腰抜け。それも卑怯で卑劣な最低の腰抜け。あなたは自分という固体を全くもって理解していない」
面食らう古泉に、不満? と首を傾げる長門。
「でも事実。受け入れるべき。あなたが自分を自分で理解していないと。正確に言うならば自分で自分を欺いている」
「……僕が自分を欺いてるですって?」
「そう。そんなあなたが、わたしの心に土足で踏みにじろうとするから、卑怯で卑劣で最低の腰抜けと言った」
「甚だしい言い掛かりも大概にしてください! 自分でもどうかと思うほど見っともない八つ当たりでしたが、僕は自分を偽ってなどいない。少なくとも――この場では隠したかった本性を曝け出してしまいましたよ。それとも僕をこれ以上苛立たせるために挑発しているのですか?!」
「ならば何故――あなたは八つ当たりをした?」
一週回って元の位置に辿り着いた問い掛けに、古泉は怪訝な顔になる。
同時に、胸の奥底がザワつき、肌が粟立つ。
「感情の機敏さでは何歩もあなたが先んじているのに、解を見出せないのが自分を欺いている証明。常の知的な振舞いを古泉一樹ならどのような状況でも『客観的な視点から数パターン』の可能性を模索して無理矢理にでも解を導き出しているはず。だが、今回に限っては『主観的な視点での一パターン』に凝り固まっているのは、何故?」
淡々と真実を叩きつけていく長門。
深く、深く古泉の心を覆った硬い膜を刺し貫ら抜いていく。
「古泉一樹は単純な“苛立ち”から八つ当たりを実行に移す可能性は低いと断定する。もしそうならば、もっと昔に古泉一樹とわたしは衝突していなければおかしい」
「……その根拠はどこに?」
「古泉一樹の過去は情報端末に登録されていないが推測ならば可能。一般人であったはずのあなたが突然に超能力に目覚め、閉鎖空間と対面しなくては行けない現実は、相当なストレスになると判断される。わたし達が言うならばエラーと称するもの。故に昔からストレスの負荷を受け慣れきってしまった古泉一樹にとって、この程度の“苛立ち(ストレス)”程度では、我慢できてしまえるから」

真実という名の断罪の刃は、真っ直ぐに容赦なく古泉の心臓を貫いていく。
吊り上げられた体勢とは別の理由で、呼吸が乱れ、喉が干上がるのを感じつつ、古泉は長門の言葉を必死に否定していた。


自分の考えが間違っているとは思っていない。
なのに。
どうして激しく心を乱されているのだろうか。
鼻で一笑に付してしまえば終わることだろうに、こんな時に回る舌は上手に回転してくれやしない。


焦燥感を募らせる古泉に、追い討ちをかけようとする長門が視界に映る。
これ以上は言葉を口にさせてはいけない。
――じゃないと、大事ななにかが壊れてしまう。
咄嗟に判断し、無我夢中で取った行動は。
吊り上げられ宙に虚しく垂れ下がっていた右脚からの強靭な蹴り。
最低の行為という自覚はあったが古泉も必死だった。まるで追い詰められた獣が、狩人に決死の覚悟で襲い掛かるように。
でなければ、女の子に向って物理的な力の行使を良しとはしなかっただろう。例えどれだけ醜い本性を晒してしまおうが、最後の一線だけは死守していたはずだ。
「――――ッ!」
至近距離から不意打ち紛いに放たれた右脚の蹴り上げが、口を開こうとしていた長門に直撃しようとした寸前――古泉の視界は地から天にへと切り替わった。
続く頭、首、肩、背中、腰――全身を強打する鈍い刺激に、呻きすら漏らす事を忘れ痛みに悶えた。
「わたしの話はまだ終わっていない。最後まで聞くべき」
アスファルトに古泉を叩き付けた長門は、何事もなかったかのように古泉を見下ろしていた。絶対零度ですら生易しいとしか言いようがない冷酷な閃きを視線に宿しながら。
長門の唇が音を紡ごうと蠢き歪む。
その唇の動きと微かな表情筋の動から形作られたのは、これ以上ないという程の生々しくリアルな、人間の業という業を煮詰め蒸したドス黒い感情に取り憑かれた――古泉一樹に対して初めて見せた長門有希の笑みだった。

「……あなたは。古泉一樹は涼宮ハルヒが好きだったと過去形で言った」
古泉が逃げられないように、長門は仰向けに叩きつけられた古泉の身体の、お腹部分から覆いかぶさり重圧を掛けながら声を発する。
「本当に? 本当に古泉一樹は過去の想いとして忘れられた?」
鼻と鼻がぶつかりそうになる距離にまで、長門は顔を古泉に近づけてくる。
逃がさない、と。
「だったら何故、あなたは苛立つ」
古泉は逃げ出せない。身体を拘束され、視線すらも、至近距離にまで近づいた長門の視線に射られ逸らせなくなってしまう。
「本当は気付いていたはず。だけど弱いあなたは認められなかっただけ」
長門の言葉は続く。古泉から抵抗はない。
「認めてしまっては壊れてしまうから。だから弱い。自分自身を欺いた」
長門の言葉は続く。古泉から抵抗はない。
「だからわたしが教えてあげる。認めさせてあげる」
長門の言葉は続く。古泉から抵抗はない。
「わたしは遠慮しない。元はといえば古泉一樹から接触してきたのが、こうなった元凶。あなたが見ないふりをするつもりなら、わたしもそうするつもりだった。お互いに不干渉を貫こうと。だけどその条件はもう適用されない」
長門の言葉は終わらない。古泉は抵抗しようにも出来なかった。
「あなたは同じと言った。だけど違う。まだ同じじゃない。わたしの言葉を聞いて――あなたが無様と評したわたしと同じになればいい」
言葉は重なり積もっていく。
ただ傷つけるためだけに。ただ苦しませるためだけに。
そう。
この遣り取りに救いはない。ただお互いに傷つけあうだけの同属嫌悪の証明。
断罪の刃に斬りつけられる少年も、断罪の刃を降り注ぐ少女も、同じ様に心を磨り減らしていく救いの無い自傷行為だった。


「古泉一樹は涼宮ハルヒを――」
ボロボロになった古泉に最後の刃が放たれた。
「――諦めたのではない。諦めたふりをしていただけ」


硬く覆われていた障壁は崩れ、剥き出しになった本体にへと切っ先はズブッと鈍く突き刺さっていくのを古泉は感じた。
長門の言葉が浸透していくタイミングに合わせて、切っ先が全身を引き裂くような激痛を持って、深く深く突き刺さっていく。
「……っ……あぁっ……」
あれだけ饒舌だった長門は伝える事は終わったとばかりに口を噤んでいる。
だけど数センチも離れていない合わさった視線だけは語っていた。
この言葉に嘘偽りはなく、真偽を確かめる必要性すらない、と。
古泉一樹は突き付けられた現実を直視する。
なにを認めたくなかったのだろうか? なにを欺いていたというのだろうか? 
それらの答えは全て目の前の人物が物語ってくれている。
左右非対称でありながら、根元部分で“まったく同じ自分自身”が存在しているのだから。まるで鏡に映る見たくもなかった醜い自分自身をマジマジと見せ付けられる拷問。
「は、は」
古泉の唇が乾く。舌が乾く。喉が渇く。否定を放ったはずの声が口の外に出ない。
だからこそ、古泉は無言の沈黙のまま結論を出す。出さずにおえなかった。
「ははっ……ははは」
そもそも自分は初めにこう言っていたではないか?
理解不能な感情に踊らされ、長門を傷つけるために古泉が発言した内容の一つにこうあったはずだ。


――貴女は僕と似ているのですから。いいや、認めたくないけど、僕と同じなんですから、と。


……始めから答えなど出ていたのだ。
涼宮ハルヒを見て憂鬱な気持ちになっていたのも、仮面が剥がれ長門に八つ当たりしてしまったのも。
「ははははっははっは」
古泉は信じていた。
涼宮ハルヒに抱く淡い恋心を忘れられたと。
だって仕方ないじゃないですか。僕の役目は世界を守る事。そしてもっと大事なのは……“彼女”の笑顔。それを守るためならば、自分の気持ちなど度外視だと考えていたのだから。
その間に付け入る隙はなく、古泉も満足していたはずだ。
だけど信じていたのに、答えは違った。
自分は。


世界の為や“彼ら”のためと思いながらも、汚い自分を隠しながら平然と彼らを裏切っていたのではないか。心の奥底で、彼らの破滅を願っていたのではないか。自分だけが報われないと悲劇のヒロインみたいな自己満足に浸り、守りたいと思う彼らを傷つけようとしていたのではないか。本当は憎くて憎くて、常の微笑はその裏返しだったのではないか。
 
思い詰めた思考は、一瞬にして莫大な負の思想を生み出していく。
あくまでもこれはifの話……のはずだった。
だが一度、そういう結論に達してしまえば人と云うのは簡単に疑心暗鬼に陥ってしまう生き物。
自分以外の誰がなんと擁護してくれようとも関係がなかった。
己の中でそう位置づけされた答えが最後の一押しとなり、ズプズプと沈んでいた刃が完全に柄部分まで埋まった時に。
必死になって築き取り繕ってきた、古泉一樹の自我は壊れ去った。
「は、ァ……ァ、がっ、ガアアァあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
人間の声とは思えない発狂した絶叫が古泉の喉から迸る。
唯一自由だった両腕は圧し掛かり拘束する長門の両腕に、服ごと爪を食い込ませるが頭になく。叫び、吼え、顔面の筋肉を存分に歪ませて、腹の底に溜まっていた物を全て吐き出すように狂気の産物をばら撒いていく。
「が、あァ!! あ、あ、あ、ああああああああァァはははははっハハははははははははははハハっはははっ!!」
狂気に錯乱する古泉を、真近で眺めながらも長門は微動だにしなかった。
暴れる古泉の身体を拘束するためにより重圧を仕掛け、決して逃れられぬよう――苦しみから解放させないために視線を合わせ続けている。古泉だけに見せた笑みを持って。


この目に余る惨状の中で、少女がどうしてそう在れるのか他者には共感できないだろう。
だが少年にはそれが解る。
錯乱し自我を失った中でも、少女の笑みの意味が。
愉しいから。
純粋に愉しいから、そう在れるだけなのだ。
解る理由は簡単。
少年と少女は他者なのではなく、鏡に映し出されたもう一人の自分自身だったから。


もし。
この光景を当事者たち以外の第三者が見ても、咎めることは出来なかっただろう。
考えて見て欲しい。
もし、醜く汚れ果てた自分自身が目の前に存在したとしよう。そんな自分自身を果たして人は許容できるものだろうか? 否。認められるはずがない。だから傷つけ合う、苦しめ合う、憎しみ合う。
古泉が長門に八つ当たりしてしまったのも。長門が降りかかる火の粉を払う為とはいえ、誘導めいた手腕で古泉の自我の崩壊にまで追い詰めてしまったのも。
全ては同属嫌悪の成れの果て。それがこの惨状に至った一つの真理だった。
故に、これは起こるべくして起きた悲劇。
少年が悪いわけでも、少女が悪いわけでもなかった。
ただ普通の人とは違う、特殊な環境化に置かれた事により、壮絶な負荷による感情の爆発が起きただけの結果論。用意周到に仕掛けられた時限式の爆弾が爆発してしまったように……。


真っ赤な血潮を印象付ける夕焼けが沈んでいく。
周囲を包む色は赤から黒へ。
まるで物語がこのまま幕を閉じようとするかのようなタイミング。
だけど、まだ。物語は終劇を許されなかった。
ばら撒き続けられていた狂気の産物が突然急停止し、不気味な沈黙が辺りを占めだしたことにより。
少年が口を開く。
――カーテンコール。
壊れた少年と少女が織り成す輪舞曲は加速の鼓舞を奏でさせようとしていた。




【続く】


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