※このお話は『餅を焼きませ』の後日談です※

 

 

 気が付くと俺は夕日の差し込む天井をぼんやりと眺め、じんわり汗ばんだ感覚と、喉に若干の渇きを覚えていた。


(あー、コタツで横になったまま眠っちまったのか…)


 恐ろしい事に、自分が寝入った瞬間の記憶が無い。コタツというのは、まさしく悪魔的存在の暖房器具だと言えよう。何が恐ろしいって、その“堕ちて行くような”感覚にはある種の抗いがたい快楽があって、分かっているのにまた性懲りも無くゴロゴロしてしまう、という点だ。


(まあ、正月だしな。風邪を引いた訳でもなし、それは別に良いんだが)


 どうしたものかね、という眼差しで、俺は右脇を見る。いつの間に占拠されたやら、そこでは俺の右腕を枕にした喜緑江美里が、くーくーと寝息を立てていた。ポジションから察するに、コタツの中を通ってここまで潜り込んできたらしい。猫かこいつは。いや、体を丸めてスヤスヤ寝入っている様はさながら冬眠中のシマリスか。

 ふう、と俺は溜息を吐いた。これでは水を飲みに席を立つ事も出来ん。ここまでグッスリ寝付いているものを、無下に起こすというのもなんとなく忍びないしな。それほど切迫した状況でもないし。
 というか喉の渇きよりもっと別な欲求が、わっふるわっふると鎌首をもたげてきた。俺も若く健康な男であるからして、これも当然な反応と言えるだろう。鬼も十八、番茶も出花――と言っては江美里が憤慨するかもしれないが、年頃の女の子に密着されて催さない奴がいたら、むしろその方がよっぽど問題である。ああ、そうなのだが。


(…………)


 実際の所、俺は江美里に手を出すのを躊躇していた。別に、寝込みを襲うのに罪悪感を覚えている訳ではない。そういう領域はとっくに通過済みだし、ぶっちゃけ江美里の方もその辺は期待した上での添い寝だろう。つまり俺が考慮しているのは、そういう事柄では無くて――


(コタツ布団が汚れるよなぁ、ここでヤると…)


 そんな、現実的と言えば現実的すぎる問題だった。布団自体は洗って干せば済むかもしれないが、その間はコタツが用を足さなくなる。予備の布団があるかは江美里に確認していないし、あったとしても敷き直したりなんだりはそれなりに手間だろう。せっかくの正月にそういうドタバタは避けたい。

 それにもうひとつ、現実的な問題がある。このコタツは、二人で入っても足が触れ合う程度の小ぢんまりとした代物なのだ。普通に使用している限りはそれで何の問題も無いし、二人きりで過ごす分にはむしろこのくらいがちょうど良い。だが上下に重なってドスンバタンは、さすがに無理があるだろう。湯飲みやら急須やら籠盛りのみかんやらが、四方に飛散してしまう。こうして二人横に並んで眠るだけなら、まだ少し余裕もあるんだが…アレの最中は、ぶっちゃけ我を忘れてしまうからなあ。


 折を見て寝室の方へ移動するという手も考えたが、どう考えても廊下を通る途中で凍えて縮こまってしまいそうだ。いろんな意味で。途中で役に立たなくなるというのはやはり男の沽券に関わるというか、相当な精神的ダメージを喰らってしまいかねないので、それは避けたい。
 さて、どうするか。悩む俺をよそに、江美里の方は絶賛熟睡中である。


(…こいつめ)


 正直、俺はちょっとイラッとした。雄たるもの、ヤりたくなったら後先考えずにヤっちまう、というのがあるべき姿というものだろう。それが理想論であるにせよ、あれやこれやと理屈で己の行動を制限してしまっている時点で、俺が自分という人間に多少の嫌悪感を抱いているのは事実だ。だというのに。


「幸せそうに寝こけやがって」


 あまりに無垢すぎる江美里の寝顔に、俺が加虐心を抱いたのも無理からぬ事だったろう。という訳で、空いている左手の人差し指で柔らかな頬をぷにぷにと突いてやる。ささやかな意趣返しという奴だな。うりうり。
 小悪党すぎる俺の攻撃に、江美里はむずがるように眉をひそめ、顔を横にそむける。と、その拍子に唇がぽかっと半開きに開いて、端から透明な液体がつーと、下に向かって流れ始めた。

 

「おっと!」


 とっさに、俺は人差し指を江美里の頬に添えた。もとより量としては大したものでもなく、即席のダムは江美里の涎を難なく塞き止める。まあ涎の一滴や二滴こぼれた所でどうという事もないだろうが、かと言ってそのまま見過ごす訳にも行かんからなあ。

 ともかく何か拭ってやる物を…。両手を塞がれた状態のまま、俺は首だけ巡らせて、辺りを見渡した。お、少し遠いがどうにか腕の届く範囲にティッシュの箱があるぞ。よしよし。右腕の方は塞がれたままだが、左手で涎を拭い上げると同時に素早くティッシュを引き抜けば問題なく…。
 と、脳内でのミッションシミュレートに気を取られていたために。俺は次の瞬間、情けなくも裏返った声を上げてしまったのだった。


「うひぇ!?」


 自己弁護になるが、何しろそれは想定外の出来事だったのだ。江美里が、頬に添えられていた俺の人差し指の先を、突然かぷっと口に咥えるなんてのはな。
 



 しかめっ面で、俺は江美里の方へ向き直った。コレは目を覚ました江美里の悪ふざけだな、とそう思ったのだ。ところがそれは、俺の早合点だった。意に反して、江美里は相変わらず夢の世界の真っ只中だったのである。どうやら寝惚けて、俺の指をおしゃぶりか何かと勘違いしたらしい。
 はあ、と俺は再び嘆息した。まったく、タオルケットの端を口に咥えていないと眠れない幼稚園児でもあるまいに…。


 …………いいや、と俺は思い直した。改めて向き直ってみれば、こいつの寝顔はまるで幼子のようにあどけない。普段はテキパキと仕事をこなし、生徒会のメンバーからも慕われ頼りにされる、しっかり者の彼女だが、その実は結構な“構って貰いたがり”なのだ。ちょうど4、5歳くらいの、自己顕示欲が育ち始めたばかりの子供のように。だからこそ、正月からこまごまと俺なんぞの世話を焼いたりしていたのだろう? 俺自身にだって覚えがある。幼少の頃、ただ親に褒められたいだけでお使いや手伝いを買って出たり、運動会の駆けっこでやたらと張りきったりした事が。

 やれやれ、と気付けば俺は苦笑を洩らしていた。何というか、娘の寝顔を眺める父親のような気分になってしまったのだ。宇宙製端末のこいつには、他に身寄りは無い。俺が構ってやらなければ、いったい誰がこいつの手際を褒めてやれるというのだ?


 さっきまで身体の奥で狂おしくたぎっていた物が(具体的に言うと、指じゃなくて別のモノを咥えさせてーなーとかいう考えが)すーっと引いていく。が、まあそれも仕方が無い。指の一本ぐらい好きなだけ吸わせてやろう。別に溶けてなくなる訳でもなし。
 穏やかさに満ちた心持ちで、俺は江美里のいたいけな寝顔を見守った。ところが世の中というのは、どうにもままならないもので。気の済むまでゆっくり休めとそう思った矢先、不意に江美里の両目がぱちりと開いた。


「ふあ…かいちょお…? おはようごじゃいま………」


 まだ焦点のおぼつかない目をこすりながら、江美里は身体を起こして、もごもごと俺に挨拶しようとする。実の所こいつは寝起きが悪く、俺の指先に吸い付いていた事にもまるで気が付いていない様子である。
 しかし、だ。人間の口というのは、物を咥えていると自然に唾液が出てくるような仕組みになっているのだ。それは宇宙人であっても変わらないらしく、起き抜けに喋ろうとした江美里の口からは、つつーっと一筋の涎が糸を引き、それは仰向けに寝転がっていた俺の頬にぽたりと落ちた。途端、江美里の両目が大きく真ん丸に見開かれる。

「あああっ!? も、申し訳ありません、会長! わたしったら、とんだ粗相を…」


 さすがに眠気も吹っ飛んだのか、平謝りに謝る江美里。きょろきょろと目が泳ぎ、これ以上ないくらいの狼狽っぷりである。その様子に俺は危うく、ぷっと吹き出しそうになってしまった。俺がそう思っていたように、こいつ自身も自分の事をしっかり者だとばかり思い込んでいたのだろう。それ故のプチ人格崩壊なのだろうが…。


「いいから少し黙れ。騒々しい」
「きゃ!?」


 俺は出し抜けに、自由になった両腕で江美里の頭をぎゅっと抱きかかえてやった。

 

「あ、あああの、会長…?」
「黙れと言っている。下手な言い訳は無用だ。
 お前、まさか俺がこの程度で機嫌を損ねるような男だとでも思っているんじゃないだろうな」
「い、いえ、それは…」
「寝惚けて涎を垂らしたぐらいの事で、いちいち腹なんぞ立てていられるか、馬鹿馬鹿しい。
 大体いまさら涎がどうこうで騒ぎ立てるような間柄か? 俺とお前は」
「…………」
「1リットルでも、1バレルでも。これから先、俺は何度でもお前と唇を合わせ、唾液を交えてやるつもりでいたが。それは俺一人の勝手な思い上がりか?」


 後ろ髪をさすりながらそう訊ねると、ようやく落ち着いてきたのか、俺の胸に顔を埋めた状態の江美里は静かに首を振った。よしよし、と俺は頭から背中の方へと江美里の髪を撫ぜる。まあこれくらいのフォローを入れてやってもバチは当たるまい。つか、こいつが涎を垂らしたのには俺のいたずらにも一因があった訳で、そこら辺がバレたらちょっと怖いしな、うん。


「それに涎を垂らすというのは、熟睡していた証拠でもある。これが俺だけに許された姿だと思えば、まんざら悪い気もしないな。
 お前の無防備な寝顔は、なかなか可愛いらしかったぞ」
「まあ、人の寝顔をまじまじと観察なさってたなんて。会長ったらいやらしい」


 耳の先まで真っ赤に染めた江美里は、気恥ずかしそうに俺を咎めた。と、その瞳に不意に挑発的な色合いが宿り、上目遣いに俺を見据える。


「分かりました」
「何がだ?」
「会長がとても寛大なお心の持ち主だという事が、です。
 でも、このままではわたしの気持ちが収まりません。せめて、わたしの不首尾の後始末くらいは…わたし自身にさせてください………」

 

 妙に艶っぽい声でそう言うと、江美里は俺に覆いかぶさるように上体を預けてきた。吐息が皮膚をくすぐり、次いで、柔らかな唇の感触を頬に覚える。先ほど、江美里の涎がこぼれ落ちた箇所だ。その跡が丁寧に舐められ、そして熱い舌先は下の方へと降って行った。
 涎は俺の頬を滑り落ち、耳たぶの辺りに小さな水溜りを作っている。江美里の舌は、当然のようにそこも拭った。ちろちろ、ねちねちと、必要以上なほど念入りに、執拗に。子猫が皿のミルクを飲み干すような音が、俺の耳の穴にこだまする。

 そうして、ようやく江美里は顔を上げた。俺の頬も熱いが、江美里の顔もまた上気して熱い。少々コタツに当たり過ぎた…という訳ではないな、お互いに。そのまましばらく、江美里と俺は上と下から視線を交わしていたが、やがて我慢がならなくなったように、江美里は一息に俺の唇を塞いだ。


(ふうむ? 今日のこいつは、やけに積極的だな)


 一瞬、「あんまり恥ずかしい思いをさせたせいでどこかバグっちまったんじゃないだろうな?」などと考えてしまうが、いや、案外これが地なのかもしれん。
 普段は俺の方からコトを仕掛けるのがほとんどなのだが、むしろそれは当然の展開と言える。なにせ江美里が俺の唇を奪うのは無理があるからな、主に身長差の関係で。だからか。こうして横になっていればそんなの関係ない!とばかりに攻め立てているのか。
 そういえば、「二人だけに通じる秘密のサイン」というのを取り決めてきたのも江美里の方からだったな。小指の外側に薬指を引っ掛けるというもので、要約すると『今日はちょっとエッチな気分です☆ だから、後で…』という意味なんだが、つまりこれは小指=江美里に薬指=俺が襲い掛かっているの図らしい。女というのはこういった事柄をよく考え付くものだと呆れつつも感心したものだが、いやまあそれはともかく。

 

(ま、こちらが受け身というのもたまには良いか…)


 多感な年頃の男子としては、相手にリードされるというのは少々シャクではあるが。今日はとことんゴロゴロする日だ、と決めたからな。江美里の好きなようにやらせてやるさと、俺はされるがままに身体の力を抜いた。姫初めがこれでは、今年一年の先がいささか思いやられるがね。
 しばらく口の中での鬼ごっこを楽しんだ後、俺たちはどちらからともなく、ぷはっと息を吐く。再度、熱のこもった眼差しを注いでくる江美里を、俺はわざと意地悪く突き放してやった。


「おいこら、江美里。こいつはどういう事だ」
「はい?」
「不首尾の後始末はともかく。唇の方まで許してやった憶えは俺には無いぞ」
「うン、会長のいけず!」


 安い挑発にわざとらしく頬を膨らませた江美里は、問答無用とばかり再び俺の唇を塞ぎに掛かった。俺も苦笑しながらこれに応じる。
 まあ、アレだな。コタツ布団が汚れるだとか何とか、こうなってしまうとどうでもいい。ぶっちゃけ俺が江美里に発情した結果布団が汚れると事後に身の置き場がなくなる訳だが、この情勢だとたぶん両成敗だし。スペースの問題も、そうだな、対面側位でそれほど激しく動かなければ、多分どうにかなるだろう。人間、大事なのは創意工夫だ。

 などと脳内でいろいろ考えている内に、コタツの中の俺の両手は江美里の尻を、勝手に掴みまさぐっていた。うむ、これもまた恐ろしい事だ。コタツにある種の魔力があるように、女の身体というものにも抗しきれない魔力がある。つい先程まで、俺はこいつに娘に対する父親のような感情を抱いていたはずだったんだがなあ。
 今はもう抑えようも無く、思考能力が溶けていく。スカートの下に遠慮なく手を這わせ、パンティの上から荒々しく指を喰い込ませる。弾むような感触と柔らかで滑らかな布地の手触り、そして江美里が一瞬歯を食いしばるようにして洩らす息に甘い物が混じっていくのが、なんともたまらない。

 

 そう、俺はこのまま、至上の悦楽に溺れて逝ってしまえばそれで良かったのだ。そうしていればどれほど幸せだった事か。ところが、俺はある端的な事実に気付いてしまった。そして脳味噌が原始人に近い状態になってしまっていた為か、その事実を深く考えもせず、ありのまま口にしてしまったのだった。もう少し、あともう少しだけ慎重に物事を判断できたなら、この後の悲劇は回避できたかもしれないものを。




「ん? 江美里、お前…少し太ったか?」




 むにむにと尻肉を弄びながら俺が吐いた、その一言に。
 瞬間、ビキッ!とこう、化学実験でフラスコの水を沸騰させた際にガラスにヒビが入った時の音が聞こえた、ような気がした。そーっと、俺は胸の上を窺う。そこには、幽鬼のように青ざめた江美里の顔があった。
 



 と、次の瞬間には俺の胸の上に、ぽかっと何も無い空間が広がっていた。
 嘘だろ?、と俺は目をぱちくりさせる。俺の両手が確かに掴んでいたはずの尻も、胸板の上で振り乱れていた光沢の美しい髪も、触れ合う頬の熱さも幻のように消え失せ、その何もない空間にコタツの掛け布団がぱさっと落ちてくる。俺がどうにか視認できたのは、ここに居たはずの江美里が神風のような疾さで脱衣場の方へと向かう、その後ろ姿のみだった。そして。


「きゃあああ!? そんな、馬鹿な…ありえないっ…どうして、こんなっ………!」


 脱衣場の方から聞こえてきたのは、か細い悲鳴と世をはかなむ怨嗟の声だった。ああ、うん…気持ちは分かるが江美里、たとえ非情な結果であったとしても正確な数値を示すのがそいつらの役目なのだから、体重計のメーターに罪は無いぞ?
 やがて、身体を引きずるようにして江美里が再びリビングに現れる。その表情は、まるで四月を目前にして内定先の企業から「ごめんねー、キミ採れなくなっちゃった♪」と突然宣告された就職浪人もかくやという程の凄惨さだった。


「そ、そんなにひどかったのか?」

「ええ…ふふふ、どうぞ会長も嘲笑ってください…。5キロ…5キロも太ってたんですよわたしは…」


 なんだ、たったの5キロか。やけに大騒ぎしているから何事かと思えば。
 そりゃまあ5キロくらい増えるだろう。俺の世話を焼きつつも、何だかんだでこいつも俺と同じように飲み喰いし、ゴロゴロ寝転がっていたのだからな。特に餅などは消化が良いからつい食べ過ぎてしまうが、実は茶碗一杯のご飯と同程度のカロリーがある。ご飯にマヨネーズと醤油を掛けたものを、うまいうまいとパクパク喰らっていれば、太らない方がどうかしているだろう。何もおかしな事はない。


「おかしいですよ! ペットボトルで言うと3本ほどですよ!? それだけのお肉をプラプラぶら下げた女子高生がどこにいますか!」


 いや、確かにペットボトルを何本もぶら下げて歩いてる奴がいたらそれはおかしいが、体重ってのはそんな特化して表面に現れる物じゃない。それに、適度に脂肪が付いている方が揉み心地が良いんだぞ尻とかむちむちしてて。
 キリッ!と出来る限りのイケメン顔で、俺はそう断言してやったのだが。


「いいえ、そんな欺瞞は結構です!
 わたしは…自分の自堕落っぷりが許せないんです…! ですから、会長! 申し訳ありませんが、今日はもうお引き取りくださいッ!!」

「な、おい、ちょ………!」


 あ、ありのまま今起こった事を話すぞ…。俺はコタツに当たりながら彼女とうふんあはんしていたと思ったら、いつの間にか上着と手荷物を持たされてマンションの扉の外へ追い出されていた。な、何を言ってるのか分からないと思うが、俺も何をされたのか分からなかった…。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じて無い。宇宙人の本気って奴の片鱗を味わったぜ…。

 などと、しばらく現実逃避していた俺だったが。容赦のない外気にピューッ!と首筋を撫ぜられて、ようやく我に帰った。慌ててコートを着込む。目が覚めた頃には夕方だったのが、あっという間に陽は落ちて外はもう真っ暗だ。さっきまでコタツでぬくぬくしていたというのに、この寒暖差はさすがにたまらん。身震いすると同時に、理不尽な扱いに対する怒りがふつふつと沸いてくる。


「おいコラ、江美里! 少しは人の話を…」


 拳を振り上げ、高級マンションの分厚い扉をドンドン叩いてそう大声を張り上げ――ようとして、しかし俺はすんでの所でそれを自重した。周囲の人目を気にした、というのももちろんある。だがどちらかと言えば、言うだけ無駄だろうな、という結論に至ったのがその理由だ。


『お前がそこまで体重の変化に過敏に反応するのは、突き詰めれば俺に嫌われたくないからだろう? だのに自分の容姿を恥じ入るあまり、俺を無遠慮に外に叩き出してしまったのでは本末転倒ではないか』


 という俺の意見は、間違いなく正論だろう。今の江美里は明らかに、物事の優先順位というものを見失っている。
 だからこそ、だ。判断力を失くしているからこそ、江美里は俺の意見を聞き入れられまい。なにしろ江美里の心の中のスイッチを押してしまったのは、他ならぬこの俺なのだからな。正論で諍いが収まるなら、世の中から戦争なんてものはとっくに根絶されている。裏を返せば、高ぶった感情のために正論に耳を傾けられないから、戦争はなくならないのだ。

 江美里は今、「太った自分はみっともないに決まっている」という偏執的な自己暗示に囚われている。故に俺の正論は江美里に届かない。聞いて貰えない正論を「俺の方が正しい!」と声高にがなり立てた所で、それは単なる自己満足でしかない。


(打つ手なし、だな。仕方がないか)


 ひとつ嘆息すると、俺は江美里の家に背を向け、重い足取りでエレベーターに乗り込んだ。いま俺が何をしたところで、全て逆効果なのは目に見えている。時間の経過があいつに落ち着きを取り戻させるのを待つ他ない。何にせよ、このまま突っ立っていても事態の進展は見込めない訳で――とりあえず今日は実家に帰って、冬休みの課題の残りでも片付けるか。その内にほとぼりも冷めるだろう。


「…何だかな。考え方がまるで、夫のDVに耐える健気な妻のようだ」


 下降するエレベーターの中で一人そう呟いて、俺は思わずフッと自嘲の笑みを洩らした。

 せっかくのイイ雰囲気を台無しにしてしまったあの一言を、悔やまないでもない。だが、ボタンの掛け間違いと感情の行き違いは起こるべくして起こるものだ。恋人付き合いをする以上、こういった状況は必ず来る。むしろ今日は、普段の江美里が絶対に人前で見せない部分を垣間見れた訳で――非常に貴重な体験が出来たのかもしれないな、考えようによっては。


 強制的に退去させられたのには、さすがに閉口したがね。しかしながら、あれが俺の彼女なのだ。可愛いし料理もうまいし気立ても良いし普段は奥ゆかしい割にベッドの中ではなかなか良い具合にエッチだったりするが、取り扱いを間違えると致命的な結果を招きかねない、グレムリンもビックリの宇宙産ヒューマノイドインターフェース。それが喜緑江美里なのだ。それが分かっていて付き合っている俺はよほどの物好きだなと、そんな事を自覚すれば苦笑いも洩れる。
 自動ドアをくぐって表に出た俺は、はーっと白い息を吐きながら振り返り、背後のマンションの高層階を見上げた。


「お預けを喰らうのは、まあいいが。無理なダイエットなんかで身体を壊してくれるなよ?」


 呟きにもちろん返事は無く、身を裂くような北風がビュウウウ!と甲高く唸るだけだ。まあ俺自身の経験に照らし合わせるなら、今頃は頭から布団をかぶって「うぐ~!」などと変な呻き声を上げているか、風呂場でシャワーに濡れながら壁のタイルにゴスゴスと無言でパンチを喰らわせている所かね、あいつは。やはり、ここはそっとしておくのが一番の薬なようだ。

 正月だけあって、往来に人影はほとんど無い。本来なら二人で鍋でもつついているはずが、水の一杯も飲めずに放り出されたため、そろそろ胃が不平不満を述べ立ててきている。だがこの分だと、ラーメン屋の屋台も何も出てやしないだろうな。


「コンビニで肉まんでも買って帰るか…」


 冬の空は晴れ渡って星の瞬きも鮮やかだが、その分寒気を遮る物は無く、独り言をかき消すほどの突風が耳元で渦を巻く。俺は背中を丸めてコートの襟を立て、醒めた街灯の光に照らされた夜道を、一人わびしく帰途に就いたのだった。

 



会長の一言で喜緑さんはスイッチが入ってしまったようです   おわり

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最終更新:2020年03月12日 20:28