「ちょっと出かけてくるね」
普段と同じ様子を装いながら、部屋から出ていくハルヒ。見た目は普段と何一つ変わらなくても、目の前のハルヒが何か尋常ではない雰囲気を纏っていることはすぐに分かった。
自然体を装って発したその一言に、その声に、ただの凡人である俺にさえわかるくらいの決意が秘められていたからだ。
だが、そんなハルヒの違和感を指摘することも無く、いつもと同じように部屋から出ていくハルヒを見送っていた。本当は止めなければいけない気がしたのだが、なぜかそれを指摘してはいけないような気がして、ただ見送ることしかできなかったのだ。
ハルヒを止めようと心の中に焦りがこみ上げてくるのだが、止めてはいけないと訴える俺が一方に存在する。なによりもかける言葉が見つからない。そうこうしている内に、ハルヒはドアを開けて、まさにいま部屋から出て行こうとしていた。
ドアノブに手をかけて部屋を出ていくハルヒは、心配そうに見送る俺を案じてか、こちらを振り向きチラッと俺の顔を一瞥してから微笑んだ。
『すぐに戻ってくるから心配しないで』
その微笑みにはそんなメッセージが込められているように思えた。でも、ハルヒの顔はぼんやりとぼやけていて、まるで靄に覆われているように見ることができない。ただ微笑んだということが認識できるだけ。
ハルヒのトレードマークであるカチューシャが電灯の光に反射して一瞬だけ輝くのが分かった。
『待て! ハルヒ!』
ハルヒを止めようと言葉をかけようとするが声が出ない。ハルヒはそのまま俺のほうを振り返ることなく部屋を出て行ってしまい、ドアが閉まる音がした後、部屋の中には奇妙な静寂が訪れた。
独り部屋の中に残された俺は後悔と孤独と不安に苛まれた。なぜかハルヒがもう二度と戻ってこないという理由もない不安が俺を襲い、なぜハルヒを止めなかったのかという後悔の念が容赦なく俺を責め立てる。
時間の経過は意味を為さず、ハルヒが出て行ってから何年もの年月が経過したようにも、ほんの数分しか経っていないようにも思えた。突然、どこからか女性の声が聞こえた。長門? 朝比奈さん? それとも……
背後に人の気配を感じた。背中がゾッとするような恐怖、唐突に朝倉涼子に襲われたあの日の光景が鮮明に思い起こされる。誰かに監視されているような気配がして恐る恐る部屋を隅々まで見回すが、部屋の中には誰もいない。
そして、部屋の中が家具もベッドも机すらも無いがらんどうだということに気づく。心の奥から恐怖がこみ上げてきた。同時に、どこかで誰かの囁く声がしていることに気づく。それもひとりや二人ではない。たくさんの人の声。
「わたしはただ、キョンくんといっしょにいたかっただけなのに……なのに……」
「まさか、わたし達が裏切られることになるとは思わなかったわ」
「どこにいるんだ姉ちゃん。いっしょに帰ろう」
「世界の安寧のために多少の犠牲は仕方がないわ」
「気づいてキョン! あたしはここよ」
「わたしたちはもう、彼女に寄生してしか存在することはできないのね。こんな世界なら……いらないわ」
「ごめんなさい……わたしは……わたしは……」
全て聞き覚えのある声。なのに誰一人思い出せない。思い出さなくては大変なことになると焦る一方で、思い出せば後戻りできなくなるという不安がこみ上げる。直感が、本能がそう告げるのだ。思い出そうとしても、一向に声の主の見当はつかず、やがて途方に暮れる。
どれほど時間が経ったのだろうか。やがて、ハルヒの出て行ったドアの向こうに人の気配がした。ハルヒが戻って来たのだろうか。急いでドアのもとに駆け寄ろうとした瞬間、ある考えが脳裏をかすめて、俺はそのまま動けなくなった。
『今、ドアの外にいるのは本当にハルヒなのか?』
なぜか言い知れぬ恐怖に襲われる。ドアの向こうにいるのは人智を超えた得体のしれない何か。その場に立ち尽くし固唾を飲んで扉の一点を凝視する。やがて、ドアのノブが回転し、ゆっくりと扉が開かれる。そして扉が開いた瞬間……
俺は自分のベッドの上で目を覚ました。全身が汗でびっしょりと濡れていた。さっきまでの恐怖が夢だったことに安堵して、大きくため息をついてから体を起こし、時計を確認する。時間は午前六時。
窓の外から鳥のさえずりが聞こえる。ベッドの隣に目を移すと、ハルヒがすやすやと寝息を立てている姿が確認できた。そのあどけなさの残る寝顔を見て、さっきとは違うため息が漏れる。
この夢はいったい何なのだろう。いつごろからかは覚えていないが、なぜか周期的にこの夢を見てしまう。自分の中の無意識が何かを訴えているのだろうか。最近では夢を見るたびに、そんな突拍子もない妄想を膨らませるのだが……
別にいまの生活に不満も無いし、ストレスを感じることも無い。ハルヒの我儘もだいぶ治まって丸くなっているし、古泉から超常現象その他その類の話は最近つとに聞くことはない。いったいなんなんだろうか。
もう一度小さくため息をついてから、二度寝をするために、寝息を立てているハルヒを眺めながら横になり目を閉じた。
 
 
 
「ふうん、それは実に興味深いですね」
目の前の優男が考えるようなそぶりを見せながらつぶやいた。お前はそれしか言うことが無いのかとツッコミたくなった衝動をぐっと堪えて我慢する。こんなことを相談できるのはコイツくらいしかいないからな。
ここは大学近くのカフェテラスの片隅の席。そして目の前にいるのは、高校時代にひょんなことから知り合いになった超能力者、いや元超能力者の古泉一樹だ。
高校時代、ハルヒの我儘に振り回されていた俺たちだったが、俺がハルヒに告白し、つきあうようになって以来、急速にハルヒの能力は影を潜め、今ではハルヒにその能力が備わっているのか疑わしいくらいに平凡な毎日を過ごしている。
長門と朝比奈さんはいつの間にか俺とハルヒの前から姿を消してしまい、一般人に戻った古泉一樹だけが同じ大学へと進学することになった。古泉だけが傍にいることから、もしかしたら機関だけがいまでもハルヒを監視しているのかと勘繰りたくなる。
「もちろんそうですよ」
「な!?」
「まあ、監視とはいっても、別に四六時中あなたや涼宮さんを見ているわけではなくて、何かあった場合にすぐに駆けつけられるように待機している状態と言った方がいいでしょうか」
そんなことは当然だと言わんばかりの口調で微笑みながら、紅茶の入った紙コップを口元へと運ぶ。
「プライバシーの侵害だ。俺たちにも平凡な学生生活を営む権利があるぞ」
「そんなことよりも、さっきの夢の話ですが……」
ずいっと顔を近づける古泉。話をはぐらかすのが上手いのは相変わらずだが、気持ち悪いから顔を近づけるな。男同士でそんな趣味は無いぞ。
「これは失敬」
「まったく……」
「それで、話をもとに戻しますが、あなたが周期的に見ているその夢ですが、なにか心当たりはないのですか? たとえば……あなたと涼宮さんがつきあっていた頃の思い出とかには……」
コイツ、知ってて聞いているんじゃないだろうな。ジトっと睨みつける俺の視線をものともせずに、いつものポーカースマイルで、古泉一樹は俺の回答を待っていた。
「確かに、ちょうど一年ほど前に、夢と同じようなシチュエーションはあるにはあったが、別にその時、ハルヒが目の前からいなくなるといった不安に苛まれたことはない。もちろんハルヒはちゃんと帰って来たしな」
「そうですか……」
「どうかしたのか?」
「いえ……」
表情から笑みが消え、珍しく真剣に悩む古泉の姿が目の前にあった。目の前のテーブルに視線を落として考えるそぶりをした後、再び視線を戻して真剣な表情で俺を見る。
「この際ですから、あなたには話しておきましょう」
「なんだ」
真剣な表情で古泉に見つめられて、周囲の空気が変わったように緊張する。コイツのこんな表情を見るのはいつ以来だろうか。何かまた世界の存続を危ぶむ何かが起こったのだろうか。戸惑う俺を前に古泉は重々しく口を開く
「実は……いつのころからかははっきりしないのですが、涼宮さんの能力が顕在化し始めている雰囲気を感じるのです。それも、絶望の色で世界を覆い尽くすような……」
「な、なんだって!」
にわかには信じられなかった。ハルヒと同棲し、ともに暮らしている俺の目には、とてもハルヒが不満を抱いているようには見えなかったからだ。
「何かの間違いじゃないのか」
「だといいのですが……」
「しかし……それはいくらなんでもありえないだろう」
「あなたの言いたいことはことはわかります。涼宮さんはあの時と違って全てを知っています。僕たちの正体や自分の能力についても。それらが消滅したという前提で今の世界の平穏は成り立っている。
だからもし、涼宮さんの能力が再び顕在化すれば世界は今の状態を保ってはいないはず、そう言いたいのではないのでしょうか」
「うぅ……ああ、それに……」
「僕たちが危惧しているのもその点なのです。もし、何かの拍子に世界が均衡を失うようなことになれば……」
声の雰囲気からして、だいぶ深刻な状況であることが分かった。言葉を失い、真剣な表情で悩んでいる古泉を見つめる。俺の知らないうちにそんな事態が起こっていたとは……
「おおい! キョン」
威勢のいい声が背後から聞こえた。振り向くと、そこには佐々木、橘、国木田、谷口といったいつものメンツが揃っている。
「話の続きはまた後ほど」
いつものポーカーフェイスに戻った古泉は、佐々木達を一瞥し、無言のまま伝票を持って足早にレジへと向かった。
「あれ、古泉くんとの話はもういいのかい?」
レジへと向かう古泉の後ろ姿を眺めながら佐々木がつぶやく。そこへ谷口が疲れ果てた様子で割り込んできた。
「そんなことよりもキョンよ~、お前就活はどんな調子だ。俺は全っ然ダメだ! いままで受けた企業すべて全滅。俺を慰めるつもりで、お前の不甲斐ない活動内容を聞かせてくれ~」
なんて失礼な奴だ。と言いたかったが、失礼なのはいまに始まったことではない。高校からずっとこんな調子なんだから指摘するのもバカらしい。
「なに余裕ぶっこいてんだお前はよ。まさか就活してねえのか? お前いまのままだとフリーター決定だぞ!」
「キョンは理系だから就職活動はしなくていいんだよ。僕達と違ってね」
「え!? そうなの?」
素っ頓狂な声を上げて国木田を見る谷口。そこに橘が追い込みをかける。
「理系の学生は教授から推薦をもらって、教授のツテで就職できるから、あえて企業を訪問する必要はないのです」
橘の言葉を聞いて、口をあんぐりと開けたまま制止する谷口。おいおい大丈夫か? まぬけな顔が余計にまぬけに見えるぞ。
「う、う、裏切り者!!」
叫ぶや否や、谷口は俺の目の前から走り去って行った。なんなんだありゃ?
「気持ちを察してあげなよ、キョン。あれでも谷口君は20社近く企業面接を受けて、ことごとく不採用だったらしいから、いまは精神的に参っているんだよ」
俺の座っている椅子の端にちょこんと腰を下ろして、顔を近づける佐々木。ちょっと顔が近すぎやしないか。椅子は他にも空いてるだろう。
「そ、そんなことよりも、お前はどうなんだ? そ、その、就職活動とやらは……」
「僕かい? 僕はもう官庁訪問をして内々定をもらったよ。来年の四月から晴れて中央の官僚さ」
流し眼で吐息が感じられるくらい近くに顔を寄せて囁く佐々木に、戸惑ってしまい頭の中がパニック状態になる。いつの間にか俺の手の上に佐々木の手が重ねられている。
「そ、そうか、それは良かった」
「でも、正直疲れたよ。最近の就職面接は格段に厳しくなってるから、厳しい質問とハードなスケジュールで、みんな精神的にも肉体的にも参ってしまうんだ。僕だって女の子だから、こういうときは誰かに慰めてもらいたいんだけど……」
この時、俺は周囲が全く見えないぐらいパニックに陥っていたらしい。コツコツと頭をコツかれていることになかなか気づかなかったぐらいに。
「ちょ、ちょっと待て、佐々木って、痛えよ、国木田! さっきからいったいなんだ!」
振り向くと、国木田は俺の頭をコツきながらカフェテラスの入り口の方に視線を向けている。ふと、橘の方に視線を移すと、橘は壁の一点を凝視して他人のフリ。あれ? これはまさか……
恐る恐るカフェテラスの入り口に目をやると、案の定ハルヒが鬼のような形相でこちらを睨みつけている。周囲の気温が急激に下がり背筋がゾッとするのが分かった。体中の毛穴からイヤ~な感じの汗が吹き出てくる。
「いらっしゃ……」
声をかけようとした店員が、ハルヒのただならぬ雰囲気に圧倒されて思わず黙ってしまう。周囲に近寄りがたい怒気のようなオーラを振りまきながら、ハルヒはツカツカとこちらに歩いて来ると、俺の目の前にあるテーブルをドンっと思いっきり叩いた。
一瞬、店内の喧騒が静まり視線がこちらに集中したが、ハルヒが周囲を睨みつけると、みんな視線をあらぬ方向へと向ける。国木田と橘も隣の席に座り、黙ったまま決してこちらを見ようとはしない。
「どういうことかしら」
「い、いや、これは……」
「黙りなさい!! あんたには聞いてないわ!」
佐々木を睨みつけるハルヒ。俺や周囲の態度とは対照的に、佐々木は平然とした様子で両手を広げてあきれたポーズをとる。
「どうやらキョンの彼女も来たようだし、これでお暇するよ。またね、キョン」
「待ちなさい! 泥棒猫!」
「あら、泥棒とは失敬ね。あなたとキョンはまだ単なる異性の友人であって婚約者でもまして既婚者でもないのよ。だから、キョンには自由に恋愛をする権利があるわ」
「な、友人なんかじゃないわよ! 正式な恋人、いや、あたし達は将来を誓い合った仲だわ!」
「そう思ってるのは、涼宮さんだけじゃないかしら、ねぇ、橘さん」
「え!? あ、うぇ」
いきなり話を振られて、橘もさぞかし迷惑だろう。なによりそれ以上ハルヒを挑発するのは止めてくれ。後からその何倍もの怒りが俺の身に……
「お、お客さま、あ、あの、店内での……」
新人と思しき店員が、一オクターブくらい高い声で、恐る恐る俺たちを注意に来た。後ろの方でベテラン店員や店長と思われる面々がこちらの様子を窺っているところを見ると、おそらく人身御供に差し出されたのだろう。
新人君には災難だったかも知れないが、俺には不幸中の幸いだった。なぜなら、店内から追い出された後、佐々木は橘、国木田といっしょに知らぬ間にどこかに消えてしまったからだ。もちろん、だからといってハルヒの怒りは収まらなかったのだが……
「ハルヒ、いいかげんに機嫌を直してくれよ~」
カフェテラスを出た後、こちらを見ることなく無言で歩くハルヒを追いかけながら、身振り手振り事の顛末を説明し誤解を解こうとしたのだが、ハルヒは、俺を無視するように一向に反応せず、怒りのオーラを振りまきながら駅へと向かって歩いて行く。
為す術もなく困り果てたまま、ハルヒの後を無言でついて行くしかなかった。改札口を通り抜け、電車を待つ間もハルヒは一向にしゃべることをせず、険しい顔つきで近寄りがたい雰囲気をまき散らかしていた。そうこうしている内にプラットホームに電車が到着する。
車内は帰宅途中のサラリーマン風の乗客で込み合っており、座席に座ることができなかったため、吊り皮を持ってハルヒとふたり並んで立っていた。電車に乗り込んだ後も、ハルヒは一言もしゃべることなく流れていく車窓の景色を眺めていた。
最初はハルヒの様子を窺うようにちらちらとハルヒの方を盗み見ていたのだが、やがてハルヒの機嫌がそう簡単に直らないことを悟り、いつの間にかハルヒと同じように窓の外の景色を眺めていた。
窓の外に見える山際に陽が差しかかり、見慣れた街並みを赤く黄昏色に染めている。なんとなく郷愁のような感情が胸にこみあげてきて寂しい気持ちになる。カフェテラスでの情景を思い出しながら二駅ほど過ぎた頃、
「何かしゃべりなさいよ!」
こちらを向くことなく、沈んでいく夕陽を眺めたままハルヒが言った。いきなり声をかけられて戸惑う俺。
「え!? あ、えーと……」
頭の中がパニックになりながらも、かける言葉を捜していると、
「あたしね……、高校生の頃は、ずっとあんたたちの行動を外から眺めているだけだったわ」
こちらを振り向くことなく、窓の外を眺めたままハルヒが胸の内にある思いを打ち明け始めた。その横顔は黄昏色に染められていて、思わず見惚れてしまうほど綺麗だったが、同時にどこかもの悲しく感じられた。
「あんた達があたしに内緒で何かをしたり話し合ったりしていることは、なんとなく気づいていたわ。でも、あたしはそれを問い質しはしなかった。問い質すと、今の関係が崩れてしまいそうだったから。だから、高校生だった頃は、ずっとあたしだけがいつも蚊帳の外だった」
高校時代のSOS団での活動が走馬灯のように思い浮かぶ。ハルヒの言うとおり、ハルヒに内緒で行動したことは多い。
「どうして今の関係を壊したくないんだろうって悩んだこともあった。それも一度や二度じゃないわ。だっておかしいじゃない。明らかに仲間外れにされていることがわかってるのに、そのままの境遇に甘んじているなんて。
それでも、あんたや有希やみくるちゃんや古泉くんにそれを問い質す気にはならなかった。なんでだろうって考えて、考えて、ようやく気づいたの。あたし、あんたのことが好きなんだって。だから、いまの関係が壊れて、あんたがあたしの傍から離れていくことが怖いんだって」
高校時代のハルヒがどんなことを思っていたかなど、当時は想像すらしなかった。ただ、目の前の状況に振り回されていただけだ。それでも、いまになって振り返ってみて、ハルヒには確かに寂しい思いをさせた、冷たい態度をとったと後悔することもある。
「あんたに告白して、ようやくあたしは本当の、気持ちを通じ合える掛け替えのない人を手に入れたわ。あんたがあたしの想いを受け取ってくれた時から、あたしはあんたといっしょにこれからの人生を歩んで行こうって決めたの。
だって、あんたには有希やみくるちゃんみたいにたくさんの親友がいるかもしれないけど、あたしにはあんたしかいないんだから……」
ハルヒはこちらを振り向き、俺の目をじっと見つめた。表情はまだ険しく怒っているように見えたが、その瞳は涙で潤んでいて、俺の心臓のがトクンと大きく鼓動したのが分かった。
「だから、あたしはあんたを絶対に誰にも渡しはしない。たとえ、相手が誰であろうと、あんたがかつて憧れていたみくるちゃんであっても。まして、中学時代に一年間だけ同級生だっただけの女なんかに……」
そこまで言葉を紡ぐと、ハルヒの潤んだ瞳から涙が溢れだした。ハルヒの泣き顔を見て罪悪感がこみ上げてくる。ハルヒに悲しい思いをさせている自分を殴ってやりたくなった。
「すまん、ハルヒ」
「バカ」
ハルヒは俺の胸に顔をうずめた。俺は片手で吊り皮を持ったまま、もう一方の腕でハルヒを抱きしめた。小刻みに震えるハルヒの身体が、普段からは想像できないくらい、とても脆く弱々しいものに感じられる。
ふと、古泉とカフェテラスで話していた内容を思い出す。もしかしたら、俺の軽率な行動がハルヒを……
考えるのは止めた。たとえどんな事態が生じたとしても、俺のするべきことは決まっていたからだ。
『もし、この後にどんな困難が生じようとも、必ずハルヒだけは守る』
すすり泣くハルヒの背中を見ながら、俺はそう固く心に誓った。窓の外に視線を向けると、陽は山の向こうに隠れて、街並みには夜の帳が落ちようとしていた。
もしかしたら、すでにこの時、予感があったのかもしれない。もうすでに、俺たちは引き返せない運命のただ中にいるのだという。そしてその結末さえも、心のどこかで感じ取っていたのかもしれない。
それは、ある朝の一本の電話から始まるのだが、この時はまだ、俺たちふたりの関係はこの後も永遠に続くと信じていた。


第二章へ~
 
 


|