「あれは……」

 それは一人学校から伸びる下り坂を歩いている時だった。
 今日の気温は季節に反してひどく低く、本当に地球温暖化なんて現象が存在しているのだろうか? そう思えるような寒さだった。その原因といえば、朝から音もなく地面を打ち続けている雨にある。
 教室にいるだけでも寒かったと云うのに、暗くなって今朝の登校時よりも一層冷たさを増した外気に触れ、身体はどんどん温度を失っていく。暗い中を一人で歩いているだけにその冷気は一層強く感じられて、僕は胸の奥まで冷やされていくような気持ちがした。
 そんな帰り道。
 傘をさして狭くなった視界に、彼女は姿を現した。
 いや、それは現した、というより、僕がたまたま通りがかった。きっと、ただそれだけのことなんだろう。
 その姿を認めると、はっとすると同時に、冷え切った胸の内がわずかに温度を取り戻す。そんな自分に気づいて、まだそんなことを考えているのか、と自分に嫌気がさした。
 胸に手をあてて、小さく溜息を吐きだして、冷気を再び取り入れる。これで少しは下がっただろうか。
 それでも後に残ったのは、自分に対する嫌悪感に、先ほどより増した身体の冷たさだった。指先はもうほとんど感覚が薄れてしまっている。このまま傘を手からこぼれ落ちさせてしまったら、一体僕はどうなるのだろうか? ……恐らく、自分のいる数メートル先の電柱の下で雨に降られている彼女と同じになるんだろう。
 ……いや。
 きっと僕と彼女は同じにはなれない。僕が彼女を見ている限り。彼女が彼を見ている限り。
 いっそこのまま無視してやろうか。できないと分かっていても、そんな考えが頭をよぎる。
 でもそれはできない。僕は人当たりが良くて社交的な人間。今までそれを完璧に演じてきた。今、雨に降られて少し湿気た心持ちにまかせて、積み上げてきたそれを壊してしまうなんて、僕にはできない。許されない。
 ……いや、違う。それはただの逃げ口上だ。そうやって周囲のせいにして、勝手に他人に行動を規整されたということにして、保身して、自己満足する。そんな自分に嫌気がさして、心の中に溜まっている自分への嫌悪感が余計に増した。
「どうされたんですか、こんなところで」
 一人逡巡しているうちに彼女の眼の前まで辿り着いてしまい、僕はなす術もなく電柱に寄り掛かっている彼女へ傘をむけてしまった。
 結局こうなんだ。どんな制約が無かろうと、僕は彼女へ声をかけずにはいられない。彼女との時間を少しでも増やそうとせずにはいられない。
 いや、これは人として当たり前の行為だと自分自身に言い聞かせながら、彼女の応答を待つ。笑みを浮かべさせるのだって忘れない。
「………べつに」
 彼女は先ほどまで降り注ぐ雨の向こうの厚く垂れ込める雲を眺めていたのと同じ目で、たっぷり十秒程僕を見つめた後、側で降り続く雨を吸い続けるコンクリートの柱と同じくらいに無機質な声で答えた。
「こんな寒い中で濡れていたら、風邪をひいてしまいますよ」
 彼女が冷たい雨に濡れるだけで風邪をひくような身体を持ち合わせていれば、の話だが。そんな彼女と自分の決定的な違いを再確認させられて、また心の奥の温度が雨につられて逃げていく。
 しかし彼女は僕の言葉が耳に入ったのかも知れずに視線をアスファルトの地面に落とした。
 沈黙。いつものことだ。特に僕と彼女の間では。……じゃあ、彼との間では?
「もう暗いですし、帰りましょう」
 入り込んでくる翳った感情を無理やり振り払おうと、もう一度彼女に話しかけた。
 でも彼女は、視線を地面に固定したまま一つ瞬きをするだけ。
 苛立ちが胸を僅かに掠める。歩みを止めたせいで寒さがますます滲みてきた。駄目だ。こんな時、彼はどうするだろう? いや、その時は彼女もちゃんと返答するんだろう。きっと、彼になら。
 ……いや、違う。そうじゃない。
 彼女は時が経つにつれだんだん感情というものを表すようになった。それは僕も感じている。でもその振幅は微細なもので、一般的な少女のそれには遠く及ばない。それでも、きっと。
「帰りたく、ないんですか」
 注意深く彼女の機微を見つけようとする。ほんの少し、視線が下がった気がした。
 彼女の感情を見いだせた喜びが湧くと同時に、そこにいる理由を理解して、複雑な感情が頭を掻き乱す。そして、感覚などとうに無くなっているはずの指先が、僅かに震えているのに気がついた。

 

 

 今日の部活は、この寒さのこともあってか早めに切り上げられることになった。
 他の団員が帰りの支度を始める中、僕は用事を残しているために居残ることにしていた。しかし幼い先輩が着替えなければならないために、廊下でそれを待っていた。そして彼も。
 理由を尋ねたら、神である彼女が、傘を忘れてしまったのだと。無理矢理彼の傘に入れることになってしまったのだと。彼女を待つ彼。その表情は、口振りとは裏腹だった。
 朝から雨が降り続いていたというのに、傘を忘れた? 神もなかなかいじらしいことをする。
 これだけ朝から寒ければ、人の体温が恋しくなることもあるのでしょうね。彼は意味がわからない、という顔をしていた。
 それは廊下での会話だったが、きっとこの人間ではない少女にも聞こえていたのだろう。彼が嫌がってないこともきっと感じ取っていたのだろう。人間ではない故に、その飛びぬけた能力は時に残酷だと、僕はずぶ濡れの彼女を見ながら思った。
 神である少女とその鍵であるところの少年が結ばれるのは運命だと思っているし、また僕はそうなることを望んでいる。しかしその思いとは裏腹に、彼女をこんなにしてしまった彼を憎らしくも思った。
 ……『こんな』とはなんだろう。彼女を傷心させ、ひどく冷えた空気の中でずぶ濡れにさせたことか。それだけじゃない。『傷心』という感情を生み出すまでに彼女を変えたのもまた、彼だ。
 彼に対して素直に憎悪の感情を向けられない自分に腹が立つ。そして目の前に立っている、未だ彼に翻弄され続け、矛先を向けようのない感情を持て余している彼女にも。
「帰りましょう」
 折角見つけた彼女の意志表示を無視して、僕は言った。彼女がほんの僅かに顎を引く。肯定じゃない。拒否だ。でも僕はそれさえも知らない振りをして、足元に無造作に置いてあった鞄を拾ってやる。
「ご自宅まで、お送りしますから」
 それでも彼女は動かない。ただし視線は、僕に向けて。
「お願い。そっとしておいて欲しい」
 彼女が僕に要望を申し出たのは、僕がここに転校した時期から入れても、これが初めてだった。きっと言葉にでもしないと伝わらないとでも思ったんだろう。
 それでも僕は無視をした。片手を開けるために通学鞄を二つとも肩にかけ、さらにその手で傘を持つ。ブレザーの肩の部分が少しずり下がって不格好だが仕方がない。そして、そういえば無視をされることはあっても、僕がするのは初めてだな、と思った。
「っ!」

 強引に彼女の手を引いて、雨の中を歩きだす。数歩歩いてから、これじゃ彼女が雨に打たれ続けてしまう事に気づいて、傘を無理矢理押しつけた。彼女側の手はその細い手首を掴んでいるために、残念ながら相合傘はできない。
 そういえば彼女の驚く声を聞くのも初めてだ。もしかしたら、彼も聞いたことが無いかもしれない。そう思うとひどく愉快な気分になった。あの二人とは男女が逆なこの構図も、一層僕を愉快にさせた。


 彼女のマンションにつくまではあっという間だった。前を歩いていたために彼女の表情を窺い知ることはできなかったが、抵抗されることは無かった。
「そろそろ、離して」
 七階へと向かうエレベーターの中。あの坂道から続いていた沈黙を破ったのは彼女だった。
「……すみません」
 確かに、ここまで来たのならもう手首を掴んでいる必要はない。それに大分強く握ってしまった。離した後の手首を見てみると、少し赤くなっている。
 エレベーターを降りた後は彼女が先導で歩き、705号室の前へ。
「あがって」
「僕はあなたをご自宅までお送りしたかっただけなので、これで失礼します」
 笑顔を崩さずにそう返した。自分の身勝手さは理解している。
「あなたが濡れているのは、私のせいだから」
「気にしていませんよ」
「あがって」
 彼女が僕のブレザーの袖口を掴む。さっきと逆だ。
「……失礼します」
 開かれる玄関口の扉。彼女のうなじに貼り付いている濡れた髪を見ながら、別れる時も入る時も『失礼します』なんておかしな日本語だと、関係無いことを思った。
 僕は彼と違ってあまり彼女の部屋へ入る機会は多くないが、いつぞやお邪魔した時とは特に変わり映えのないままだった。
 濡れたまま絨毯まで上がるわけにもいかず、リビングの入り口で手持無沙汰に突っ立っていると、風呂場から持ってきたらしいタオルを渡された。彼女はそのままキッチンへ。どうやらお茶を淹れるつもりらしい。
「まずはあなたが体を拭いて、濡れた制服から着替えるべきだと思うのですが」
「あなたは、お客さん」
 なんとも彼女らしい。季節にそぐわない寒さに、彼への感情に思い悩む彼女の様子を目の当たりにして、今日はなんとも不運な日なのだろうと思っていたのに。これも神のいたずらだろうか。
 でもびしょ濡れのままで放っておく訳には行かない。仕方が無いのでとりあえずお茶を淹れ終わるのを待ち、湯呑と急須を盆に乗せて運んできた彼女に、
「それはいいですから、こちらに背中を向けて座って貰えませんか?」
と、絨毯のすぐそばのフローリングを指して促した。
 言われるままに正座する彼女の後ろで膝立ちになると、先ほど寄越されたタオルをふわりと頭に掛けた。なるべく擦らないように、水気をとる。
「いい。自分でやる」
「いいから、座っていてください」
 振り向いて制止させようとする彼女をいなす。
「あなたは、この家の主ですから」
 すると彼女は言っても無駄と悟ったのか、それを諦め、されるがままになった。
 流れる沈黙。異性に髪を触れさせるその意味に、きっと彼女は気付かない。
「………あなたは」
 ずいぶん髪が短いが、伸ばそうと思ったことは無いのだろうか。そもそも、髪が伸びることはあるのだろうか?
「好きなんですか、彼が」
 伸ばそうと思えば伸ばせるのかもしれないし、親である思念体が外見の設定をしてしまえばそれを変えることは不可能なのかもしれない。
「……好きとは、親愛的な意味。それとも、有機生命体における、恋愛感情というもの?」
 水気に触れ続けているせいで、いまだに指先には温度が戻らない。彼女の体温がまったく伝わってこないのが、少しもどかしい。
「では、後者で」
 窓の向こうでは、日が落ちてすっかり暗くなった街並みを洗い流すように、ひたすら雨が降り続いている。静まりかえり、無機質な光に明るく照らされたこの空間とは対照的で、途切れることのない雨音が、部屋を満たしている沈黙を余計浮き立たせているようだ。
 その無機質な空間の中に佇んでいる僕たちが、なんだか異質な存在に思えてくる。
「………分からない」
 最も彼女が言いそうにない言葉だったが、なんとなく予想はできていた。でも、それが普通の感情ではないという自覚がある分、彼女も随分と成長したものだ。
「しかしあなたは、涼宮さんと彼が一緒に帰ると知った時、どう感じたのでしょう?」
 彼女の肩が強張る。ように、見えた。
「質問の意図が理解できない」
「きっと、あなたは思ったはずです。悲しい、と」
 帰り道、夜の雨に一人で打たれていたのが何よりの証拠だ。いつも冷静な彼女の、秩序に欠けた行動。それほど彼の一挙一動が彼女に与える影響が大きいことに、やはり僕は嫉妬してしまう。でも、それは彼女も通底しているはずだ。
「僕は、あなたのことが好きですよ」
 思ったより簡単に、その言葉は僕の口から零れ落ちた。
 その言葉にはっとした彼女が、思わず振り返ろうとしたが、僕が髪に触れているためにかなわない。
 意図せずしてできたこの都合のいい状況にまかせて、僕は言葉を繋げた。
「でも、あなたが彼に心を寄せているのを見ると、とても悲しい。そう思います」
 彼がこの少女に感情の種を蒔いた。それを芽吹かせたのも彼。なら僕は、その芽を守りたい。そして、もしそれをより大きくさせることが出来たなら、僕にとってそれは願ってもないことだ。
「はい、終わりました。後は体を拭いて、ちゃんと着替えてくださいね」
 湿ったタオルを畳み、彼女に手渡す。
「では僕はこれで帰ります。お招きいただいて、ありがとうございました」
 そう言って自分の鞄を取ろうとすると、
「待って」
と彼女は僕のブレザーの裾を掴んだ。
「あなたはまだ濡れたまま」

「どうせ帰り道で、また濡れてしまいますから」
 僕は笑顔でそれをかわす。彼女は迷うように目を逸らせ、背の低いテーブルに置いたままの湯飲みに先ほど淹れたお茶を注ぎ、立ったままの僕にそのお茶を突き出した。
「お茶だけでも飲んで」
「……ありがとうございます」
 一口飲んでみると、しばらく放置していたせいで冷めている上に随分渋くなっている。それをなるべく表情に出さないように流し込むと、僕は今度こそ鞄を手に取った。強い苦みが口に残って尾を引く。


「一つ、聞きたいことがある」
 僕が手渡した空の湯飲みを手に持ったまま、彼女は僕に問うた。
「なんでしょう?」
「あなたの言う通り、私は彼と涼宮ハルヒが共に帰宅するのを嫌だと思った。悲しいと思った。おそらく、それは彼に私は好意を持っているという事実に該当するのかもしれない。
 しかし、あなたから好きと言われた時、私は少なからず嬉しいと思った」
 彼女はまっすぐ僕を見ている。
「好意とは、親愛的なものを除けば複数に向けられるものではないと私は理解している。これは何故」
 それは稚拙な故の、真っ直ぐな感情。その言葉は、僕にとってあまりにも意外なことだった。
「通俗的な言葉を引用すれば、移り気、ということ」
 彼女は首を傾げる。僕は、なるべく平然とした様子で答えた。
「……他人に好きといわれて、嬉しくない人間などいないと思いますよ」
 彼女の瞳がわずかに揺れる。
「私はそうは思わない。恐らく私は、私に好意的である人間に心惹かれるだけ。それは好きとは言わない。その向けられる感情に惹かれているということ。あなたとは違う」
 彼女の真摯な言葉に僕は押し黙ることしかできなかった。人でない故の、彼女の苦悩。僕なんかとは次元が違う。それでいてあまりにも純粋だ。
 でも、それが理解の外側という訳ではない。普通の人間でも持ち得る感情だと、僕は知っている。ちゃんと彼女と向き合って、そのことをありのままに伝えればいい。
「安心してください。そう思う事は普通です。人間でもそう思う事はままありますよ。あなたが普通じゃない訳でも、心が醜い訳でもありません」
 諭すように微笑みかける。彼女は、むしろ僕の心が痛くなるぐらいに潔癖で純真だ。不器用だからこそ、自分の負の感情にも真っ直ぐに向き合って。受け入れがたい感情に苦悩する。だからこそ、僕はこんなにも。彼女に惹かれているのだろう。
 彼女の感情の芽を育てると、僕はなんと自惚れていたのだろうか。教えられるべきは彼女じゃなくて僕の方。感情表現が微細なあまり、僕はいつの間にか彼女を見下してしまっていたらしい。
 それに僕に対するその気持ちは、多分彼に向けているものとは違うと思います、そう付け足す自分が酷く滑稽に思えた。
一方彼女は考え込むように手の湯飲みを見つめると、
「そう」
と返すだけだった。彼女は僕の言葉に、どう思ったのだろう。
「では、僕はこれで失礼します」
 玄関まで見送りに来た彼女に軽く会釈をする。
「お茶、ご馳走様でした。さようなら、長門さん」
 彼女がわずかに顎を引いて頷くのを認めると、僕は再び笑顔で返して扉を開けた。
「古泉一樹」
「………はい」
「今日は、ありがとう」
 そう言って、彼女は僅かに微笑んだように映ったのは、僕の驕りのせいなのだろうか。


 外はまだ冷たい雨が降りしきっている。
 マンションの門の所で振り返って、明かりのついている窓を見上げた。
 彼女にも、寂しいと感じることはある。こんな冷たい雨に降られたら、人の温度が恋しくなる時もあるのかもしれない。短絡的な考えだとは思うけれど、そのことに僕はなんだかおかしくなって、ふっと笑ってしまった。
 僕は彼のように人の良い部分も、悪い部分も全て受け入れられる人間でもないし、機関での立場だってある。
 それでも、彼女が真っ直ぐ前を見ているのと同じように。僕も彼女を見ることにしよう。
 そう心に決めて、僕はマンションを後にした。

 



おわり

 







「ところがどっこい、この物語はこれで終わりではない」
「そういう言い回しは一体どこで覚えてくるんですか」
「冴えない青年の鬱屈とした感情を延々と語って、何が面白いのか」
「言い返せませんね」




もうちょっとだけ続くんじゃ


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