灰色に包まれた世界の中心で、僕は漸く一息をつくことができた。
 激しい動作に軋みを上げていた強張った身体から、ゆっくりと緊迫感が抜けていき、空白を埋めるように安堵感が染み渡っていく。

「これで今日は通算して七回目ですか。やれやれ、彼と涼宮さんには困ったものですね」
 
 時間は深夜を過ぎ去り、朝方近くになりつつある。そろそろ眩しく輝く朝日を拝める瞬間に立ち会えるだろう。
 神人退治。閉鎖空間。願望実現能力。神たる少女である涼宮ハルヒ。そして神たる少女に選ばれた、鍵なる少年。
 この状況に関する単語の羅列を浮かべては流していく。
 意味があっての行為ではなく、ほとんど睡眠を取れなかった頭が寝惚けて無意識に思考を垂れ流しているだけである。

「流石に眠いですね……。久方振りでしたので油断していましたか。僕も精進が足りませんね」
 
 霞が掛かったようにぼやける頭を目覚めさせるために頭を振りながら、今回の原因について推察してみる。そうでもしないと本当に崩れ落ちるに眠気に負けてしまいそうだから。これは本当に精進が足らないなぁ、と苦笑を浮かべながら思考する。

「涼宮さんが朝比奈さんを苛めていて、それを彼が制止して激しい口論になったんだったかな。それで涼宮さんはお怒りになって、先に部室から飛び出しちゃったんですよね」
 
 推察する必要性はなかったようだ。目にしたまんまだったのだから。
 それが可笑しくて、クスッと笑みが零れてしまう。理不尽に対する漏れた暗鬱とした笑みではなく、好意的な意味での笑みなのは自分の顔を鏡で確認しなくても判る。
 だって、そうでしょう? 

「まるで普段通りの平和な日常の一場面なんですから。彼女にしろ、彼にしろ、何で素直になれないのかなぁ。本当に分かりやすいんだもんなぁ」
 
 そんな二人に対して恨みなんて持てるわけがない。そりゃ今も襲いくる睡魔により偏頭痛をもたらす身体のダルさを思うと、軽い愚痴は湧き上がってくるが、心の底から恨んだり憎悪したりなんかはしない。昔の僕ならいざ知らず、彼らと過ごした一年以上の歳月で育んだ僕は違うのだ。
 むしろ――、

「楽しんでいる節さえあるのですからね。そう、古泉一樹はこのスペクタルな非日常を満喫しているのですから困ったものですよ」
 
 何時からこうなったかなんて霞掛かる頭で思い出すのは億劫だからしない。そもそも重要なのはそう思えるようになった自分自身が大切なんだから。

「それでももう少し自重して欲しいと思うのも事実ですが。あぁ、僕は欲張りですね。この状況を楽しでいるなんて、つい一分前に滑らしたのに、その口でこんなことを要求しているんだから」
 
 周囲には人っ子一人いないのは、閉鎖空間の中なのだから当然として、同じ超能力者の仲間も居ないのに、囁くように言葉を紡いでいる僕。口に出す必要がないのに、わざわざ口に出しているのは、きっと睡魔に負けないように脳が対抗しているからだろう。まぁ周りに仲間がいたら、こんな羞恥が込み上げそうな台詞なんて絶対に口にしないけど。普段からお前は気障なんだよ、と彼に疎まれるお調子者の口だけど、僕にだって恥ずかしいと悶える感情は当然ながら備わっている。

「おっと、そろそろのようですね」
 
 独特な感覚が身体を駆け巡っていったのを感じながら、僕は上空を見上げる。これから起きる現象は僕の大好きな光景だ。幾度と観ようと色褪せることのない鮮烈さを胸に植えつけてくれる。
 
 ――始まった。

 単色で包まれた寂しい世界に、閃光が迸る。
 地獄の業火を伴った紅い閃光が、単色の世界を焼き尽くすように真っ赤に燃え上がっていく。崩壊していく建築物、灰空は朱い亀裂が地割れのように広がっていき世界を染め上げていく。
 まるで幻想から一部分だけを切り取ったかのように神秘的で壮大な光景。
 こればかりは僕たち超能力者にしか拝めない特権だ。どれだけ大金を叩き望もうとも叶わぬ光景。そういえば、一度だけ彼を招待したことがあったなぁ。彼はこの光景を観て、僕と同じ気持ちを抱いたのかが気になるところだ。
 そして気付いたときには、元の世界に帰還していた。灰でもなく、赤でもない、幻想とは無縁の現実を示すバックライトが僕を照らしている。

「どうやら続いては朝日まで拝めそうですね。……これは得したと思うべきとこでしょうか?」
 
 そんな事を呟きながら、僕は片手で携帯を操作する。近隣で待機している黒塗りの外車を呼び出すたびに。あまりノンビリしていると学校に遅刻してしまう。優等生の仮面を被った僕には、そんな失態はあるまじき行為だからだ。もちろんそれだけでは断じて無い。僕自身が学校を楽しみにしているのだから、少々の無理をしてでも、通学したいのである。理由は説明しなくてもいいですよね?

「一時間ぐらいは睡眠を取っても大丈夫そうですね。願わくは、彼らが今日にでも仲直りしてくれますように」
 


  ●


 ……僕は少々、現実を甘く見ていたかもしれないと後悔していた。
 小規模ながらも津波が押し寄せるが如く閉鎖空間が発生し始めてから四日目が経過している。まるで収まる気配のないそれは、今もなおジワジワと傷を広げるように侵食を繰り返していた。

「どうやら涼宮さんも彼も、意固地になっているようですね」
 
 本当に困ったものです、と内心で肩を竦めつつ文芸室――我らがSOS団本部に続く校舎内の廊下を歩む僕。
 慢性的に襲い掛かってくる眠気からの体調不良はそこそこ深刻なダメージだと判断できる。今日の朝も閉鎖空間の処理に赴き、午前の授業は出席できなかった。午後からの授業にはなんとか出席できたが、普段通りの優等生の仮面を被るのに必死で、授業内容なんて左から右に素通りである。本音を言えば、仮面を拭い去って授業中に居眠りをしたいという欲望もあったが、なんとか乗り切った。

「今日は涼宮さんは顔を出されるのでしょうか」
 
 彼との喧嘩からどうやら文芸室には顔を出されていないらしい、と機関の仲間から報告を受けている。僕も終業と同時に、閉鎖空間の発生で文芸室には顔を出していない。だから実際に確認したわけでない。今は閉鎖空間の発生の兆しは見られないので僕も四日振りに顔を出そうとしているところだ。

「朝比奈さんの話では、一応顔だけは出している彼も普段にないほどの仏頂面らしいですね」
 
 校舎内ですれ違った際に朝比奈さんの様子が脳裏に再現される。

『なんだがキョン君、凄く怖いんですぅ~……。涼宮さんも部室に来ませんし……ううぅ~……二人の喧嘩は私のせいだから、だから私がどうにかしなくちゃいけないのにぃ』

 僕の顔を見た瞬間に駆け寄ってきて涙目ながら訴える、あの時の朝比奈さんを思い出して、少し気の毒な気持ちになる。別に彼女は悪くないわけなのに健気だった。取り敢えず気長に見守りましょう、と当たり障りのない助言をしたが、あまり効果はないんだろうなぁ、と僕は嘆息した。
 ……普段からマイエンジェルなんて称えている可愛らしい先輩まで困らせてどうするんですか?

「まぁそれだけ涼宮さんの事が気になっている証拠ですかね。朝比奈さんの事が気にならないぐらい。きっと今頃、言い過ぎたかもと後悔中でしょうか。それはもう一人の相方もそうみたいですが」
 
 閉鎖空間の発生具合から見ても一目瞭然。
 大激怒ならもっと大規模な閉鎖空間が発生するだろうし、それこそ世界の危機だ。小規模で数が乱立する場合のは過去の経験から言って、自分も悪かったと反省しているが、素直に成りきれず、謝れなくてモヤモヤとした気持ちのまま後悔しているとこだろう。……はぁ、なんて人騒がせな二人なんだ。二人とも似過ぎていて、それが悪い具合に煮詰まっているのだろう。お似合いと言えなくもないのが微笑ましいのですけどね?

「まぁなるようになるでしょう。今回は僕からはフォローする気はありませんから、お互いの力で仲直りしてくださいね」
 
 他人事にようだが自分にだって思うとこはある。
 今まで培ってきた二人の関係は、これぐらいではもはや揺るがないと信頼しているということです。
 もう一つ付け加えるとするならば……要はアレですよ。俗にこう表現する犬も食わぬなんちゃらなんだから、好き好んで自ら手を突っ込みたくない。いづれは男と女の関係になる二人には、頻繁にやっちゃう甘酸っぱい青春の一ページ、なんてね? その分の苦労は自分達に回ってくるわけだが、こういったサポートならば喜んでと思う。その為に与えられた能力であり、彼らの友人である僕の役目だと自負しているから。
 良い具合に纏まった考え事と同時に、文芸室の前に辿りつく。
 さて。中には誰が居るのでしょうか? 涼宮さんか、彼か、それとも涙目で取り乱していた朝比奈さんか。長門さんは間違いなく居そうですが。
 礼儀としてコンコンとノックを打ち鳴らす。中で朝比奈さんがメイド服に着替えている最中だったら大惨事になってしまいますからね。

「…………」
 
 応答はなかった。
 ドアノブに手を掛けて回しみる。鍵は掛かっていなかった。

「おや。長門さんだけですか?」
 
 予想通り、中には長門さんだけだった。
 沈黙という名の三点リーダーは雄弁な回答と言えるだろう。
 僕の声に反応してくれた長門さんは、読んでいた文庫から顔を上げると僕と視線を合わせてきた。そして僅かに頷くと、また活字の世界に戻っていく。

「ふふっ」
 
 あまりに長門さんらしい対応に意図せずに笑みが零れてしまった。僅かに嬉しいという気持ちも僕は感じている。出会った当時はいくら僕が長門さんに対してアクションをしようとも反応を見出せなかったから。
 つい最近――分裂事件を終えた当たりから、顕著にそれを感じ取ることができた。僕に対する長門さんの当たりが柔らかくなった気がするのだ。彼との約束を果たすために機関の意向を背いた甲斐もあったものだ。補足しておくのならば、彼との約束がなくとも、僕は僕の意思で長門さんを助けていただろうが。それぐらいにはSOS団に愛着を持って――持ちえてしまったから。

「……」
 
 突っ立っていても仕方がない。
 そのまま普段の自分の定位置まで歩きパイプ椅子を広げる。そのまま重い身体を投げるようにパイプ椅子に預ける。ギシッと軋む音。やはり疲れが溜まっていたのか、ほっとした息が肺から吐き出されていく。
 長門さんと僕だけの部室。
 時折長門さんがページを捲る音と、両者の息遣いだけが周囲に漂う。普通の人ならばこの雰囲気に耐えられないという人も居るだろうが、僕にとっては別段重苦しい雰囲気というわけでないから問題はない。長門さんもそんな事には無頓着というか、気にもしていないだろうから本当に問題はなかった。

「……束の間の休息と思いましょうか」

 口の中で転がすように呟く。涼宮さん達が顔を出すかは判らないが、閉鎖空間が発生するまでの間の休息と思えば丁度良い。全身から力を抜き、軽く目を瞑る。寝てしまっては起きられる自信はないが、これぐらいは問題ないはずだ。
 ……あぁ、眠い。

 

 

 

 

 

 

「……遅いですね」
 
 三十分が経過していた。
 どうやら今日も涼宮さんはSOS団に顔を出さないようだ。今日もオールナイトが決定した瞬間である。古泉一樹の不眠症はまさにエンドレスナイトである。あぁ、若干脳が壊れ始めているな。中学時代はもっと厳しい状況なんてザラにお出迎えしてくれたのに、人間というのはぬるま湯に浸かりすぎると堕落してしまうようだ。

「朝比奈さんも彼も今日は来ないのでしょうか?」
 
 返答は期待していない。
 どちらかと言うと事実確認に近い虚しい問いかけだったのだが――

「涼宮ハルヒは授業の終了と同時に帰宅している」

 ――驚きにも返答が僕に対してあった。

「な、長門さん?」

 想定外からの人物の、これまた予想外の行動に、僕は上擦った声を上げてしまう。

「朝比奈みくるは親友と評している同級生と帰宅。彼は学校に残っている。今は先生と補習している模様」
 
 僕の動揺など構わないと、同じSOS団の仲間の行動を淡々と読み上げていく長門さん。あまりにも唐突な長門さんからの報告。皆の事情が判ったのは僥倖だが、なんて返答するべきなのか? ええと、ええと、と必死に言葉を探そうとするが眠気と動揺でやられてしまった頭では、気の利いた台詞が出てこなかった。と、取り敢えず何か返事をしないとっ。

「ありがとうございます、長門さん」
 
 凄く無難な回答。あれだけ必死に知恵を絞った結果がこれなのに少々凹む。万全の状態の自分ならもっと古泉一樹らしい回答が捻り出せただろうに。

「いい」
「そうですか」
「そう」
 
 ……どうしたものでしょうか? 中途半端に途切れた会話のせいで雰囲気が悪く感じる。長門さん的には終わったものと判断しているのだろうか。だったらいいのだけど、何故かそうじゃない気がするのだ。

「でも珍しいですよね。長門さんがまさか僕の独り言にも似た問いかけに答えてくれるなんて」
「……」
 
 余計にいたたまれない雰囲気にしてしまった気がする。
 長門さんは無言のまま視線を僕に絡めてくる。静謐な光りを宿した瞳に、僕は縫いとめられたように見惚れてしまった。綺麗で無垢な、この世の穢れとは無縁の瞳から視線を逸らせなくなってしまう。今日の僕は本当におかしい。こんなこと、今まで一度もなかったはずなのに……。

「……ここにはわたしとあなたしかいない。だからわたしに問いかけているものだと判断した」
 
 刹那の間が永遠に引き伸ばされる感覚に陥っていた僕を呼び戻したのは、長門さんの言葉だった。
 僕は口を開ける事が出来ないでいた。どこか遥か昔に、似たような経験をした気がする。そんな出来事はなかったはずだから純粋に僕は動揺から前後不覚になっているだけなのに。

「……違った?」
 
 僕の態度をどう捉えたのだろうか。無表情なのは相変わらずだけど、どこか不安そうな雰囲気を滲ませて長門さんは続けてくる。

「いいえ、そんなことはありません。本当にありがとうございます」
「そう。……良かった」
「ええ。僕も良かったですよ」
「良かったとは?」
「それはですね――」

 もう僕の水面は、波紋すら残さず落ち着いていた。そうなれば、自然と僕の口はお調子者の台詞を吐いてしまうのだ。

「――長門さんとこんなふうに会話が出来てです」
 
 よく無視されてしまう事が多い僕は、正直嫌われているんじゃないかとも考えていた。だから素直に嬉しくて微笑んでしまう。お互いに所属する組織の理念の違いなんていうシガラミは関係がなかった。

「あなたの事を嫌っていたわけではない」
「おや、嬉しい事を言ってくれますね」
「あなたはわたし達の仲間であり……わたしの命の恩人でもある」
 
 ……ははっ。
 ここまで会話が成立して、更には普段から無口な長門さんからは想像し辛い饒舌さ。今日は本当に驚かせるばかりだ。

「長門さんには日頃から助けられてばかりでしたから、丁度いい機会だと思ってましたので、どうかお気になさらないでください」
「そう」
 
 コクリと頷く長門さんに、僕も微笑みを持って頷いた。
 居心地悪かった空気は払拭され、弾むような心地良い空気にへと様変わりする僕と長門さんしか居ない空間。今日も続行して閉鎖空間に出向き、その処理を担当しなければいけないのに、何故か得した気分になるから現金な物だと自分に呆れ返る。僕はこんなに単純な人物だったのでしょうかね?

「ふぁ……」
 
 緊張感が抜けて弛緩しきっていたのが拙かったのか欠伸をしてしまった。長門さんの目の前なのにっ――?! 慌てて口を閉じるが、目尻からの涙だけは誤魔化しきれない。ええい、精進が足りないぞ古泉一樹!
 あはは、と誤魔化し笑いを浮かべる。

「……あなたは疲れている」
「大丈夫です。少し気が抜けていただけですよ」
「四日前から涼宮ハルヒが発生させている閉鎖空間は、通算して二百三十七回。その内の五十七回をあなたは一人で処理をしている。発生時間帯は不規則ながらも、夜から明け方に乱立されている。他は学校が終わる時間帯――つまりはSOS団の部活が始まる際にも集中傾向が見られる」
 
 つまり涼宮さんが睡眠を取っている間に、募り募ったイライラを解消しようとする為に発生するのと、放課後に彼と顔を合わすのを躊躇っているためのイライラで発生しているんだろうなぁ、と僕が解釈する。

「よってあなたの睡眠時間は、通常の有機生命体が必要とされる睡眠時間を考慮すると、大幅に足りていないと断定できる」
 
 そりゃ一日二十四時間ある内の二時間程度しか、しかも纏まった睡眠ではなく、仮眠も合わせてなのだから足りてないよな、と今更ながらに苦笑してしまう。

「あなたは休むべき」
 
 ハッキリとした口調だった。
 ……長門さんが僕の心配。ひょっとして僕は寝惚けているのでしょうか? 頬を抓ってみると痛い。現実のようだ。

「それは出来ません。これが僕の役目であり、よっては世界平和にも繋がるのですから。僕以外の超能力者も、頑張っているわけですから、僕だけ泣き言は言えませんよ。お気持ちだけ頂いておきます」
 
 僕もハッキリと意見しておく。
 長門さんの好意は無碍にする形になるのは申し訳ないが、それが僕の役目だから。あぁ、一生に一度あるかどうか不明な、長門さんからのこうも分りやすいアプローチを踏み躙ってしまっているようで少し悔やむ。また嫌われたかもしれない。

「……」

 ん? 無言のまま長門さんが立ち上がった。ひょっとして気分を害してしまったから、帰ってしまうつもりでしょうか? まぁ仕方ないかなと溜息。
 そのまま長門さんは学生鞄――には手をつけずに、何故かパイプ椅子を引き摺って、あれ、僕の方に近づいている? そのまま僕の真横まで急接近。座っている僕は小柄な長門さんを上目遣いに見上げる形になる。

「あのー、長門さん?」
「……」
 
 そのまま長門さんは僕の真横に自ら用意したパイプ椅子に着席。ちかいっ! 距離が物凄く近い! 肩と肩が触れ合う距離である。

「……寝て」
「へ?」
「だから寝て。あなたは休むべき」
「仰る意味が――っ?!」
 
 台詞は最後まで喋らせて貰えなかった。頭部に急激な重圧が掛かったかと思うと、そのままの勢いを持って上半身が左横に崩れていく。

「な、なななな――っ!?」
 
 痛みはなかった。ちょっと上半身が無理に曲がった際に腰が悲鳴を上げたってそんなことはどうでもいい。いやどうでもよくないけど些細な事だ。頭部に感じるひんやりとした感触と、左頬に感じる柔らかい感触に比べれば。
 ――長門さんに膝枕をされている僕。
 正直に白状しよう。気持ちよすぎて頭がどうにかなってしまいそうだ。絶対に今の自分の顔は真っ赤になっている。少なくとも仮面なんて彼方銀河の向こうにワープしてしまっている。

「古泉一樹、寝て」
 
 寝れませんっ!

「閉鎖空間が発生したら起こす」
 
 人の話に耳を傾けてください。お願いします。

「……まずは目を閉じる。そして心を落ち着かせれば寝れるはず」
 
 うわーい。微妙に耳を傾けてくれたみたいだけど方向性が違うぞ。
 ……何か難しく考えるほうが馬鹿らしくなってきた。色々突っ込みとこはあるが、もう諦めてご厚意に預かってしまってもいいのかもしれない。

「……はぁ。長門さんは思ったより強引なんですね」
「そうでもない」

 説得力皆無。別にいいですが。

「閉鎖空間が発生したら必ず起こしてくださいよ?」
「任せて」
「それとこの光景を他人に見られたら誤解を与えてしまうので、補習を受けている彼や――彼に限らず誰かが入ってくる場合も起こしてください」
「……わかった」
「あっもう一つ」
「注文が多い」
「遮らないでください。もう一つは、少しだけ距離を開けてください。腰が曲がりきらずに窮屈でして」
「……こう?」
「ええ。大分ましになりました」
 
 心音が煩わしい。これで本当に眠れるのだろうか?

「おやすみなさい」

 長門さんには聴こえていないのか、平温の口調で僕を眠りの世界に誘う言葉を囁いてくる。距離が近いせいか、彼女の微かな吐息や甘い匂いが僕の鼻腔に吸い込まれてくる。ますます眠れる気がしない。

「ええ、おやすみなさい」
 
 僕は返事をしながら、平常心を持って目を瞑る。
 ……意識が沈んでいく。
 高揚していた精神とは別の、もっと深い場所で休息を求めていた体は、睡魔に身を委ねていく。僕は抗おうとはせず、受け入れた。深く、深く落ちていく僕。
 ……お休みなさい、長門さん。
 
 意識が暗闇に包まれた。

 

   ●

 

 

「――きて」

 声がする。
 線の細い、きしゃなかよわい声。

「――て、古泉一樹」
 
 どうやら僕を呼んでいるようだ。
 もう少し寝かせてくれませんか? まだ寝足りません。
 そんな思考を垂れ流しながら、心地良い怠惰に身を任せる。

「起きて、古泉一樹」
「ん――、うわっ?!」
 
 緊急浮上した僕の意識を迎えてくれたのは、真横に傾いた文芸室だった。実際には僕が横になっているから、視界が傾いているだけなのだが。

「……おはようございます、長門さん」
「おはよう」
 
 うん、左頬に柔らかい感触。寝惚け眼は一瞬で覚醒状態に移行した。

「どれくらい時間は経過しましたか?」
「あなたが眠りについてから四十四分三十七秒が経過している」

 確認と報告の遣り取り。

「閉鎖空間ですか?」
「予兆を確認。そろそろ――」
 
 長門さんが言い終える前に、携帯から面白みも何もない単音の着信音が鳴り響く。

「起きます。手を頭から離してください」
「……」
 ひんやりとした手の平が頭部から離れていくのに名残惜しさを感じつつ、起き上がり携帯の着信ボタンを押す。
 すぐに上司である森さんから、事務的な指示が飛び込んでくる。小規模だが、同時に何件も発生しているらしい。気を遣って僕を除く超能力者達だけで処理していたが、手が回らなくなったらしい。余計な気遣いはせずに、初めから呼んでくれればいいのに。

『アンタは無茶しすぎなのよ。少しは大人を頼りなさい』
「充分に頼っていますよ。この前も僕が機関の命令を背いた際にも庇ってくれたではありませんか」
『結果オーライだっただけよ。それより大丈夫? 体調の方は』

 妙にスッキリしている思考。あれだけ重かった身体のダルさも解消されている。僅か四十分程度の睡眠でここまで回復するだろうか? 不思議に首を捻りつつも、森さんに有りの儘の報告を実行。

『了解。なら悪いけど近場に車を向わせるから、いつもの場所で待機してて』
「了解しました。では後ほど」
 
 通話終了。急いで集合場所に向わなければ。校門でのお出迎えはあまりに目立ちすぎるから、学校から少し場所を離さなければいけないのだ。

「では長門さん。僕は行きますので」
「そう」
「もし彼がここに来るようならよろしく伝えておいてください」
「……(コクリ)」
「では失礼します」
 
 学生鞄を持ち、背を向けて部室を出ようと一歩を踏み出した所に、背中に声を投げられた。

「古泉一樹」
「はい、なんでしょうか?」
「……気をつけて」
「――ふふっ、了解しましたっ」
 
 そのまま駆け出し、文芸室を退出する。
 夕焼けの陽光が校舎を照らす中、肩で風を切りながら目的地へ。ほとんど生徒が残っていない校舎内では接触事故の心配もない。
 
 ――長門さんは本当に人間らしくなった。
 
 どんどん人間らしく成長していく彼女。それが僕たちと一緒に過ごしてきた影響だと言うのならば、どこか誇らしくも感じてしまう。彼が父親面して娘を見守る心境も共感してしまうほどだ。

「色々な一面を見せて頂けましたし」
 
 僕も普段面には出さない振舞いを晒してしまった気がするけど、等価交換としておこう。長門さんならベラベラと他人に言いふらしたりはしないだろうし。

「さて、明日には仲直りしてくれると助かるんですが」
 
 今は閉鎖空間に集中しよう。明日のことは明日の自分に任せておけばいいのだから。では古泉一樹。今日も世界平和の為に、お勤めを頑張るとしましょうか。


 ●


 後日談を語ろうと思う。
 あれから閉鎖空間を潰すために南から北へ、東から西へと飛びまくっていた僕たち機関勢はなんとか第一陣を凌ぎきり、深夜から明け方に発生するだろう第二陣に備えていたのだが、その勢力を拝む事はなかった。神隠しにあったかのように忽然と涼宮さんのイライラが解消されているのを僕たち超能力者は身篭った能力により察する。
 
 その時の僕はきっと締まりのないニヤニヤとした笑みを浮かべていたはずだ。待機していた仲間達も同じような表情をしていたのも印象的である。
 待機部隊はそのまま解散。四日間ぶりにまともな睡眠が取れると仲間達と笑いあいながら、それぞれの在宅にへと帰還していく。僕も機関が手配してくれた寝床にへと帰宅し就寝。
 学校には普段通り登校し、優等生として過ごし、放課後になった。
 そして――、

「僕は嬉しいですよ。どちらから素直になられたかは把握していませんが。でも意外でしたよ? 昨日は希望はないだろうと悲観していたのですが、まさか仲直りしていただけるとは。お陰で僕も久々にゆっくりと睡眠を取れたというものです。ありがとうございました」
 
 ――SOS団の本部で、五日ぶりに顔を見合わせた彼と雑談を交わしている僕である。部室には彼と僕以外に長門さんもいます。朝比奈さんは進路相談などで先先に捕まってしまっているようです。涼宮さんはフラリと姿を消したと機関員から報告を受けている。遠巻きに監視はしているから危険はないはずだ。

「っでどちらから仲直りしたのです?」
「俺からだ」
「ほほぉ。何度も言って申し訳ないですが、本当に意外でした。貴方は意固地ですから、僕たちからフォローもなしに仲直りして頂けるとは僕も嬉しいですよ」
「あ……あぁ、そう……だな」
 
 妙に歯切れの悪い彼。
 ひょっとして照れているのだろうか? 何故かチラチラと長門さんの方向を盗み見ているし。正直に申し上げて挙動不審である。

「そのだ、古泉」
「はい。どうかしましたか?」
 
 チラチラと盗み見していた彼は、一度大きく嘆息をしたかと思うと、僕に顔を向けてくる。視線は微妙に方向をズレていたが。

「苦労をかけてすまんかったな。閉鎖空間の処理……大変だったんだろう?」
 
 これ以上はないだろう仏頂面の彼。そのくせ雰囲気はまるで先生に悪戯が見つかって怒られた小学生のようだった。

「次がないとは言い切れんが、可能な限りは善処するから許してくれ。そうだ、帰りにでもジュースを奢るさ。だから今回の件はこれで不問にしてくれ」
 
 天変地異ここに極めり。
 一体、彼に何があったというのだろうか……?

「お前な。俺が素直に謝ってるのに、まるで異性人に出会った時に浮かべそうな表情は止めやがれ」
「これは失礼しました。まさか面と向って貴方からこれほど真摯な謝罪を頂けるとは思いませんでしたので……」
 
 そう言うと、彼は俺だってこんな発言を口にしたくなかったさ、と剥れている。なら何故、言ってきた?

「一つ確認させていただいても?」
「なんだよ?」
「熱はありませんか? もしくは昨日悪い物を食べたりは?」
「お前は俺をどう思っていやがるんだっ!」
「いえ、冗談です。いっちゃん嬉しいですよ」
「こ、こいつは……っ!? ……俺は今後一切、お前には気を遣ってやらんからな、古泉。ああっチクショー。これじゃ真剣だった俺だけが馬鹿みたいじゃねぇか。もうお前なんて絶対に知らん」
「おやおや。嬉しかったのは誠なのですが」
 
 どうやらからかいすぎたみたいだ。反省反省、と。でも彼の日頃の態度も悪いと思うのですよ? 突然こんな事を言われたら僕だって冗談を口にしたくなるものですって。
 憎憎しげに僕を睨みつけてくる彼に、僕はニヤケスマイルを返しながら、フォローめいた言葉を口にしときます。また不機嫌になられては困りますからね。
 
 いつもの平和な毎日。
 途中さんから朝比奈さんが部室に入ってきて、僕たちは一端退室へ。着替えが終えた朝比奈さんからの合図を持って再度入室する。そのまま多少は機嫌を回復させることに成功した彼とボードゲームをしつつ、朝比奈さんの淹れてくれたお茶を味わいつつ過ごしていると。

「みんな、久しぶりっ!! ちょっとSOS団に顔を出さなくてごめんねっ! まったくバカキョンのせいなんだからっ! それはそうと、今日は面白い企画を見つけてきたは。まずはこれを確認して頂戴――!」
 
 部室の扉を弾き飛ばしながら、太陽に輝きにも負けない笑顔爛漫の我らがSOS団の団長である涼宮さんが入室してきた。
 彼はまたメンドクサソウに顔を顰めて、朝比奈さんはちょっぴり怯えつつ、長門さんは無表情で視線を上げている。
 僕はと言えば、

「大変よい企画かと。これは面白そうな体験ができそうですね」
 
 イエスマン、と彼の罵りが聞こえそうなほどの笑顔で、頷くのだった。
 
 本当に――平和な毎日だと思います。ね?

 

 

 


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