それは春の風物詩ともいえる毎年恒例の行事であった。桜の花びらが舞う校門前にて、北高を卒業していくあたし達を在校生たちが名残惜しそうに見送っている。日本全国どこにでもある卒業式の風景だ。
生憎、部活動をしていなかったあたしには、部の後輩という者はいなかったが、つきあいのあったSOS団の面々があたしとみくるの卒業を見送りに来てくれていた。
「じゃあね、鶴屋さん。またいつでも遊びに来てね」
団長であるハルにゃんが、まるで下校中の小学生が友達と別れるくらいの軽い感覚で、さよならを告げる。ハルにゃんが涙を流して別れを惜しむ状況など、さすがのあたしにも想像できないから、ハルにゃんらしいといえばハルにゃんらしい。
「言われなくても、また遊びに来るにょろよ」
ハルにゃんの隣では、いつもと同じ笑顔で小さく手を振る古泉くんとこれまたいつもと同じ無表情の有希っこがこちらを見ていた。キョンくんはハルにゃんを諌めながら何かを注意している。
また、何かサプライズを企んでいたのだろうか。卒業式というのに、そんな見慣れたSOS団のいつもの風景を見ているようで、なんとなく微笑ましい。
笑顔で手を振るハルにゃんに負けないくらいの笑顔で大きく手を振りながら別れの言葉を告げてから、おなじく卒業したみくると一緒に北高の坂道を下っていく。あたしとは対照的に、みくるは目を真っ赤に腫らして涙を流しながら、ハルにゃん達に手を振っていた。
「みくるは泣き虫だねぇ~」
「だって……」
ハルにゃん達の姿が見えなくなった後、二人っきりの帰り道。周囲にはあたし達と同じように卒業証書をもらった北高の卒業生がそれぞれの仲間や友人たちと一緒に帰宅の途に着いている。
「これで、高校生活も終わりにょろね。長いようで短い三年間だったさっ」
「そうですね」
空を仰ぎ見ながら、ハルにゃんやみくると過ごした高校生活の想い出に思いを馳せる。みくるはうつむいたまま目を伏せてあたしの言葉に頷いた。空はどこまでも澄み切って青く雲ひとつない。舞い散る桜が北高の卒業式を祝福しているかのようだった。
みくるは顔を伏したまま、ハルにゃん達と二度と会えないかのような悲しみの空気を纏いながら、とぼとぼと坂道を歩いていた。そんなみくるの姿と自分を重ね合わせて、一瞬あたしの心に暗い影が差したような感じがした。
 
 
みくるはハルにゃん達との別れをどう思っているのだろうか? 薄々は感づいていた。みくるにとってハルにゃん達との別れが、他の卒業生のような一時的なものではなく、今生の別れとなるのだろうということを。そして、あたしも……
「みくるはこれから予定とかあるのかい?」
考えるよりも先に、みくるに誘いの言葉を投げかけていた。自分の行動に、自分でもちょっと驚きながらみくるの反応を待つ。
「え?」
不意に誘いを受けたみくるは、一瞬驚いたように顔を上げてあたしの顔を見つめる。おそらく、この後の予定を聞かれることなど想像すらしてなかったのだろう。一拍ほど間をおいた後、みくるが首を横に振るのを見て、あたし達の午後の予定は決まった。
「じゃあ、これからちょっとあたしにつきあってくれないかい?」
ハニカミながら提案するあたしを、みくるは少し戸惑ったような表情で見つめる。答えはわかっていたが、一応みくるの返答を待つ。
「い……いいけど……」
みくるがそう答えるや否や、あたしはみくるの手をとって北高の坂道を駆け下りて目的地へと向かった。
 
 
あたし達が最初にやって来たのは市営のグラウンドだった。大学生と思しき面々が大声を張り上げて練習に勤しんでいる。ここはあたしにとっても懐かしい想い出の場所。初めてハルにゃんやキョンくん達と出会った場所だ。
みくるの誘いを受けて軽い気持ちで野球大会に参加したのだが、そのことがその後のハルにゃん達との退屈の無い日々につながるとは想像だにしていなかった。
ただ、初めて会って一目見たときから彼女たち、ハルにゃんだけでなく有希んこや古泉くんが普通の人ではないことを、あたしは直感的に感じていたのも事実だ。もちろん、みくるにも最初会ったときから普通ではない違和感を感じていたのだが。
「みくる、ここを覚えてるかい?」
「ええっと、ここは……」
問いかけると、みくるは当初どうしてこんなところに連れてこられたのだろうかといった困惑した表情で周囲を見回していた。
「ここは、あたしがみくるに紹介されて、初めてハルにゃんやキョンくんに会った場所さっ」
「あ、そういえば……」
 
 
解答を投げかけると、みくるはハッと気づいたようなしぐさを見せた後、あたしの顔を見つめた。
「そうでした……よね」
「あの時はみくるにちょっと強引に誘われて……でも、あの時ハルにゃんに会っていなければ、その後の愉快な高校生活も無かったわけだしねっ、みくるには感謝してるさっ!」
「そんな……」
みくるは少し照れたように顔を背けた。これはあたしの本当の気持ちだ。この時、ハルにゃん達に会っていなければ、おそらくあたしは今とは違った高校生活を送っていただろう。
「そういえば、ハルにゃん達は野球上手かったよね。途中からみんなの連続ホームランで逆転で、大学生のチームに逆転したっけ」
「え、え、そうでしたっけ……」
顔を背けたみくるに少し意地悪な質問をすると、みくるは不意を突かれたようにオロオロとしながら視線を宙に漂わす。そんなみくるの姿が滑稽で、あたしは思わず噴き出してしまった。爆笑するあたしを見て、みくるはプクっと頬を膨らして怒っていることをアピールする。
「いやあ、ごめんごめん、あんまりにもみくるが可愛かったもんで、つい……」
「もう、鶴屋さんったら」
怒ったことをアピールしながら、再び顔を背けるみくるを見て、ようやく普段のみくるに戻ったような気がした。そうさ、これがあたしが好きな親友のみくるの姿さっ。そして、これがあたしとみくるのいつもの関係。
あたしが少し意地悪をしてみくるをからかい、みくるはそれを受けてあたふたする。みくるには迷惑かもしれないが、そんな関係があたしは好きなんだ。
 
そんな中、グラウンドの方に少し異変が起こったようで、チラッと目を向けると、今まで練習をしていた大学生たちがあたし達に気づいてこちらを指さしているのが見えた。もしかしたら、彼らはあの時の大学生で、あたし達に気づいたのかもしれない。
せっかく懐かしい想い出に浸っているときに、めんどくさいことをしょい込むのは野暮というものだ。こんな機会はもう二度と無いだろうから……
「ほいじゃあ、つぎに行こっかぁ」
「え!?」
唐突に手をつかむと、みくるは驚いたような面持ちで一瞬あたしの顔を見つめる。そんなみくるにかまうことなく、みくるの手を握ったままグラウンド背にして駈け出した。
 
 
次にやって来たところは、住宅街の真中にある池の畔だった。周囲はおせじにもあまり手入れされているとは言えず、枯れ木やごみが雑然と散らばってる。池の水も濁っていて、放置された場所なのだということが一目でわかる。
実はあたしの家もこの近くにあるのだが、あの日ハルにゃんとここに来るまでは、こんな寂れた場所があること自体気にも留めなかった。いまでは、ここも大事な想い出の場所となったのだが。
「ここは……」
問いかけるまでもなく、みくるはここがどういう場所かを思いだした。この場所に来て、みくるは一体何を思い浮かべるのだろうか。あたしに池に放り込まれたこと? それとも……
あたしにとっては、ここも掛け替えのない思い出の場所ではあるけれども、みくるにとってここがいい思い出の場所と思えるかどうかはわからない。それでも、ここに来ないことはあの時のみくるに対する仕打ちを隠すようで卑怯な気がしたから。
複雑な面持ちで見つめるあたしの視線に気づいたのか、みくるはあたしの方を見て優しく微笑んだ。おそらく、あたしと同じことを思い出し、そしてあたしの気持ちを察したのだろう。
「そんな顔で見ないでください。大丈夫です。あたしにとっては、あの日のことも大切な想い出の一つですから」
「みくる……」
「あたしにとって、涼宮さんやキョンくん、長門さん、古泉くん、そして鶴屋さんと過ごした日々は、ほんのひと時でも、どんな些細な出来事でも、掛け替えのない大切な思い出なんです」
北高で過ごした日々を思い出すような面持ちで、静かにみくるは言葉を紡いでいく。そんなみくるの姿を見て、胸に熱い感情がこみあげ、言葉を失ってしまった。ただ茫然とみくるの姿を見つめる。
ただ立ち尽くすあたしから視線を逸らし、みくるは池の畔に近づいて行くと、落ちないように腰の引けたような格好で注意深く池の中を覗いた。
「まだ池の水は冷たそうですね」
「そ……そうにょろね」
 
 
不意に言葉をかけられたため、少し戸惑いながら言葉を返す。そんなあたしの姿を見て、みくるはクスクスと小さく笑った。
クシュン
暦のうえでは春になったとはいえまだまだ寒い。突然二人の間を吹き抜けた風に、みくるがくしゃみをする。心配そうにみくるに視線を向けると、
「平気です。これぐらい、別になんともないです」
そう言いながら、みくるは大丈夫だとアピールするかのように微笑んだ。北高から市営グラウンド、住宅街の池と歩いて移動したのだから、体力の無いみくるにとって辛かったのかもしれない。
「すぐ近くにあたしの家があるから、ちょっとそこで休んでいこっか」
みくるは静かに首を横に振る。
「もう一ヶ所、わたしと鶴屋さんの共通の想い出の場所がありますよね。先にそこに行きましょう」
静かな声でみくるはそう言った。あたしの考えは、すでにみくるにはわかっていたのだ。声は静かでも、こういうときのみくるは決して妥協はしない。そしてそのことを、あたしはよく知っている。
いつものように物静かなみくるであったが、いつのまにかその瞳には決意のような力強い何かが宿っているように感じられた。
「無理はしなくていいにょろよ。ゆっくり歩いて行くにょろ」
先頭に立ち、みくるを先導するかのように池の畔から住宅街へと入っていく。みくるはあたしの後をいつものように着いて来た。
「あのね、鶴屋さん……」
少し歩いたところで、伏し目がちだったみくるが顔を上げ、あたしに声をかけてきた。覚悟、決意、そういった強い意志がみくるの声から伝わってくる。あたしの心に動揺が走り、全身から嫌な汗が吹き出るのが分かった。
「い、いろいろ話したい想い出があるかもしれないけど、話は目的地に着いてからにするさ」
なるべく明るい声で、みくるの言葉を遮った。機を逸らされたみくるは、再び顔を伏せてそのまま黙りこんでしまう。あたしはみくるが何を言おうとしたかを知っていた。
そう、今日が訪れるずっと前から、この日が、この時が来るのを知っていたのだ。
だが、あたしにはまだ、それを受け入れる覚悟がなかったのだ。二人の間を気まずい沈黙が漂い始める。一歩一歩あたし達は目的地に向かい進んでいく。その一歩一歩が、みくると積み重ねてきた年月の重さのように感じられた。
 
 
途中からバスに乗り、見覚えのある停留所で降りた後、あたしとみくるは山道を登り始めた。眼前には田んぼと畑が広がる。ハルにゃんと策を巡らせた時はまだ冬の寒い時期だった。
宝物をどこに隠すか、山の中をさまよいながら適当な隠し場所を捜したのが昨日のことのように思える。
労力を惜しむためにキョンくんや古泉くんに穴を掘らせようと提案したのはハルにゃんだったっけ。そのアイディアを閃いた時のハルにゃんの眩しい笑顔は、いまでも忘れることなくあたしの脳裏に刻み込まれている。
ふと後ろを振り返ると、少しつらそうな表情を浮かべながらみくるが息を切らしてついてきているのがわかった。体力の無いみくるにを自分勝手に連れまわしてしまっている自分の至らなさに気づいて、反省の念がわいてくる。
 
 
「大丈夫かい、みくる」
みくるに手を差し伸べると、みくるはふうふうと息を切らしていたにもかかわらず、ニコッと微笑んで首を横に振る。
「大丈夫、わたしもいつまでも鶴屋さんに頼ってばかりいられないから」
みくるの決意のようなものに一瞬触れたような気がして、思わず手をひっこめた。そうか……みくるもみくるなりにこれからのことを考えているんだ……
いままで自分がみくるに対してしてきたことや思っていたことは、もしかしたらみくるにとっては余計なお節介だったのかもしれない。みくるとあたし同い年、もっと対等な関係を築くべきだったのかも……
そんなことを考えながら、あたしは再び目的地を目指した。獣道を抜けて、ようやくあの宝物を隠したひょうたん石のある場所へとたどり着く。
「やあ~ようやくたどりつけたね」
「疲れました~」
みくるはその場にへたり込むように座り込む。しかし、その表情はどこか達成感すら感じさせるような笑顔だった。みくるもこの場所来たかったのだろうか? この世界に別れを告げるその前に。
ハルにゃん達と知り合って初めて迎えるバレンタインの想い出を頭に思い浮かべる。懐かしい記憶をたどりながら、みくるに声をかける。
「ハルにゃんも面白いこと考えるにょろね。宝探しでバレンタインのチョコを渡そうなんてね」
「でも、面白かったですよ」
山道を急いで登ってきたこともあり、休憩するようにあたしもみくるの隣にしゃがみ込む。体は疲れてはいるが、心地よい疲労のように思えた。きっとみくるもあたしと同じ気持ちでいるに違いない。
周囲は静寂に包まれていて、あたし達以外物音をたてるものは何一つない。肌寒いはずの空気すら心地よく感じる。みくると同じ風景を見て、同じ想い出をたどっていることが、なにより嬉しかった。
「鶴屋さんは参加しなかったんですよね。涼宮さんは鶴屋さんにも勧めたはずなのに」
ごく自然に、みくるがあたしに問いかける。
「あたしはねっ、みくるやハルにゃんや有希っこが楽しそうにしてるのを見ているだけで嬉しいのさっ。だから、あえて参加しなくてもよかったにょろよ」
なるべく明るい声で、自分に言い聞かせるように答えた。だが、これは事実ではあっても真実ではない。この時にはもう、あたしは知っていたのだ。自分にハルにゃん達の輪の中に参加する資格がないということを。
そんなあたしを、今みくるはどんな気持ちで眺めているのだろうか。もしかしたら、あたしの心の中まで見透かしているのかもしれない。そんな思いを抱いたことは一度や二度ではない。みくるは子供を見守る母親のような表情で強がるあたしを見つめていた。
 
 
「みくるもキョンくんにチョコレートを渡したにょろね」
「え!?」
突然の質問に驚いた表情を見せてから、みくるは控え目に首肯する。
「みくるは本当はキョンくんのことが好きだったんじゃないにょろか?」
問いかけると、みくるはそのまま沈黙してあたしから目を逸らした。何かを思い悩むように宙の一点を見つめるみくるの表情が段々と普段とは違う真剣な表情に変わっていく。
「はい、わたしはキョンくんのことが好きでした」
いじわるなあたしの質問に、みくるはっきりとした声で答えた。その言葉は静かではあったものの力強くあたしの心に響いた。あっさりと肯定するとは予想していなかったあたしのほうが逆に度肝を抜かれる。
呆気にとられて、二の句を告げないでいるあたしに、みくるはさらに言葉を紡ぐ。
「でも、キョンくんには涼宮さんがいたし……それに……わたしは涼宮さんのことも好きだったから……ううん、違う、わたしは涼宮さんが好きなキョンくんが好きだったの……」
自問するように心の内を明かすみくるを見て胸に熱いものがこみ上げる。同時に聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、後悔の念が押し寄せる。
「ごめん……みくる」
「ううん、いいの、わたしもきっと誰かに聞いてもらいたかったから」
何かを諦めるように視線を地に落として、みくるは最後の言葉を紡いだ。いろんなことに縛られているみくるの本音に、本当の本心に、何の覚悟も無く踏み込んでしまったような気がして後ろめたい感情に苛まれた。あたし達の間に再び沈黙が訪れる。
長いような短いような時間が過ぎ去った後、
「じゃあ、帰りましょうか」
沈黙を破ったのはみくるだった。
「みくる……」
緊張の糸が切れたのか、なぜかあたしの眼から涙が溢れてくる。
「鶴屋さん……」
「ごめん、ごめんよ、みくる」
 
守っているつもりだったのに、本当はあたしのほうが守られていたのかもしれない。みくるはちょっと意外なものを見て驚いたような表情を見せた後、涙を流すあたしの頭をギュッと抱きしめてくれた。
そのままみくるの胸の中で、あたしは体を震わせて泣いていた。この温もりを、あたしはずっと忘れることはないだろう。涙が止まるまで、みくるはあたしを抱きしめてくれていた。
 
 
どれぐらいそうしていたのだろう。あたしはみくるの胸から頭を上げて涙を拭う。
「そろそろ帰ろっか」
「そうですね」
情けない姿を見られて少し恥ずかしさもあったが、みくるはそんなあたしに普段と変わらない態度で接してくれた。そんなみくるの様子から、あたし達は確かに親友だったと改めて確信できた。たとえこの後に別れの時が訪れようとも……
言葉少なく、あたし達はもと来た山道を下ってゆく。山道を降りて国道に出た時、黒塗りのリムジンが目の前に止まった。下山の途中に、携帯で電話をして、実家に迎えをよこすように言っておいたのだ。
「家まで送っていくよ、みくる」
少し躊躇して視線を逸らしてから、みくるは無言のまま首を左右に振った。
「わたしはもう少し一人でこの街を見て回ります。わたしにとって掛け替えのないたくさんの想い出のつまったこの街を……」
小さな声で呟くみくるの姿はどこか儚げに思えた。そんなみくるのために、あたしがしてあげられること……なるべく元気な声であたしは別れの言葉を紡ぐ。
「じゃあ、これでお別れだねっ、みくる」
「あ、あの、鶴屋さん、わたし……」
「あ、それでさっ、みくる」
決意をして、何かを言いかけたみくるの言葉を、さも今思いついたようにあたしの言葉で遮った。
「あたし……今日、これからすぐに日本を離れて海外へ留学するにょろよ。だから、もう当分の間会うことはできないさっ」
「え!?」
 
 
不意に予想もしていなかったであろう事実を告げられて、みくるは驚いた表情であたしを見つめる。
「でも、必ずまた日本に戻ってくるから、その時まであたしのことを忘れちゃダメにょろよ」
ハニカミながらみくるに別れを告げる。みくるは困惑した表情を見せた後、微笑みながら大きくうなずいた。無言で微笑を返して、車に乗り込んだ。胸の奥から悲しみがわき出てくるのが分かった。
車に乗り込んだ後、もうみくるの姿を、表情を振り返って見ることはしなかった。いや、できなかった。あたしは知っていたからだ。もうみくるに会うことはないということを。みくるが最後に言おうとしたのは、最後の別れの言葉だということを。
あの池の畔でも、みくるはそれを告げる機会を伺っていたのだ。だが、あたしはその機会をことごとく奪い、みくると別れの言葉を交わすことを拒否してきた。そうすることで、いつかまた再開できることを期待したのだ。そんな奇跡が起こることが無いということを知りながら。
「いいのですか」
聞き覚えのある男性の声が聞こえた。静かで、それでいて優しさを感じさせる声。リムジンの対面の席に初老の男性が座っている。あたしがじいと呼んでいる、鶴屋家に代々仕えてくれている執事だ。
「いいんだ。行ってくれ」
「わかりました」
外の景色がゆっくりと動き出す。
「いったん本家の方にお戻りになりますか?」
「いや、このまま空港に行くにょろ」
「お嬢様」
少し厳しい口調で、じいは少し表情を険しくしかめながらあたしを見つめる。
「お嬢様は鶴屋家の当主なのですから、その言葉づかいは……」
「わかってるよ!」
窓際に頬杖をついて移りゆく外の景色を眺めながら、じいの方を見ずに言葉を遮る。そんないつものあたしの様子を見て、じいが小さくため息をつくのがわかった。いつの間にか日は山に差しかかり、辺りの景色は夕日で真っ赤に染まっていた。
 
 
眺めていた景色がゆっくりと止まり、車が交差点で信号待ちをしていることがわかった。ふと、道を挟んだ交差点わきのコンビニからハルにゃんとキョンくんが出てくる姿が見えた。ふたりはいつものようにじゃれあいながら、コンビニの前で何かを言い合っている。
夕暮れの黄昏に染められた二人の姿がとても遠くに感じられる。確かにさっきまでは、あの北高の校門をくぐるまでは、手を伸ばせば届く距離にあったはずの身近な日常が、今はまるで幻想的な夢であったかのようにさえ思えるのだ。
目を輝かせて元気にふるまうハルにゃん、それを優しい表情で見守るキョンくん。周囲には二人の他には誰もいない。有希っこも古泉くんも。
トクンと、心臓が大きく鼓動するのが分かった。同時にあるひとつの考えが頭に思い浮かぶ。
『もしかしたらあたしはキョンくんのことが好きだったのだろうか?』
まったく意識していなかったと言えば嘘になるだろう。だが、このあたしの中にあるキョンくんへの気持ちは恋愛感情なのだろうか。自分では憧れのようなものであって、恋愛感情ではないと思っているが、正直なところはわからないというのが適切だろう。
だが、これが仮に恋愛感情であったとしても、キョンくんと結ばれるということは決してなかったに違いない。あたしは色々なことを知りすぎていたからだ。有希っこやみくるがキョンくんに好意を抱いていることを。古泉くんがハルにゃんに同じく好意を抱いていることを。
にもかかわらず、彼らは、個人的な自分の感情を押し殺して、二人を結びつけるために努力をしていた。そしてそれこそが、平凡ではない彼らが平凡な世界に存在する理由だったからだ。なぜそんなことを目的とするのかは皆目見当もつかないが。
そして、彼らはその目的を果たし、段々と二人から距離を置こうとしているのだ。だから、彼らが個人的な感情を押し殺してまで結びつけようとしているハルにゃんとキョンくんの仲を壊してまで、あたしが自分の我儘を押し通すことなどできるわけもなかった。
彼らは自分たちに与えられた役割を立派に果たした。そして、みくるがそうであったように、有希っこや古泉くんも密やかにあたしやキョンくん、ハルにゃんの前から姿を消すのだろう。
走馬灯のようにめぐる彼らとの想い出を思い浮かべながら、彼らの生き様を自分の姿に重ねる。彼らは立派に自分の役割を果たしたのだ。だから、あたしも彼らと同じように自分の役割を果たすとしよう。
「じい」
「なんでしょうか」
「この間言っていたボディーガードの件だけど、じいの言う通りにするよ。何かあったら困るから」
「かしこまりました」
窓の外にはハルにゃんの屈託のない笑顔があった。世の中の常識や慣習に縛られることなく生きている彼女が羨ましかった。ふと、考える。
『もし、ハルにゃんがあたしの立場だったら、どう行動しただろうか?』
常識や慣習にがんじがらめにされているあたしにはハルにゃんの行動を窺い知ることはできない。でもきっと、ハルにゃんが今のあたしを見れば、窮屈な生き方をしているとあきれるに違いない。
ゆっくりと周囲の景色が動き出す。あたしは二人から目を逸らして前を向いた。
「どうかなさいましたか」
じいの言葉に答えることなく、無言で首を横に振った。
黄昏に染まった街並みに夜の帳が落ちる頃には、あたしは空港から海外へと出国しているだろう。そしてもう一度日が登れば、子どもだったころのあたしはいなくなり、あたしは鶴屋家の次期当主となる。子供でいられるのは今日までだ。
背もたれに身体を預けて目を閉じる。走馬灯のように浮かんでくる高校生活の想い出の日々。
いまは、いつかこの想い出が色あせて記憶の彼方へと沈んでしまうことが、あたしにとっては何よりも怖かった。
 
 
~終わり~
 


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