「バイトがあるので今日は先に失礼します」
にやけ面がドアから顔だけ覗かせ帰る、一見すると日常に見える非日常のサイン。これから身体を張らなくちゃならん面倒事が待っているというのに、よくもまあにやけていられるものだ。関心なぞしてやらんがね。
「古泉君帰っちゃったの?この間のお礼に勲章をあげようと思ってたのに」
古泉と入れ替わりに部室に現れたハルヒが残念そうに言っている。ていうかくだらないことを考えるな。副団長の腕章をもらったときに古泉がしてみせた気持ち悪いウィンクを思い出しちまったじゃねえか。
「まあバイトなら仕方ないわね。明日また渡すことにするわ!」
ハルヒは今日も上機嫌だ。これというのも、先日の『脚本・監督:古泉・機関』『主演:俺』の恥ずかしいホワイトデー企画が功を奏したお陰なわけだ。あれは本当に恥ずかしかった。詳細は・・・すまん思い出したくない。
しかし、ハルヒはこんなに機嫌がいいのに本当にいつものバイトなのか?
「なあ長門、ハルヒって今日機嫌悪いのか?」
俺は古泉の代わりにオセロの相手をしてくれていた長門に小声で確認を取ってみる。
ちなみに、こいつの打ち方はこいつの生活スタイルと1ミリもリズムが変わらずに淡々としている。
「異常はない」
そして、その打ち方と1ミリも変わらない程に迷いの無い平坦口調での回答だ。
続けて訊いてみる。
「それなのにまたあのとんでも空間が発生してるのか?」
「発生は確認されていない」
やはり1ミリも普段と変わらない口調。
こいつが嘘を付くわけがないし、万一嘘を付いていたとしても、長門検定師範級を自負する俺に何の違和感も感じさせないでこいつがそう言うんだ。間違いないのだろう。
「じゃあ今日のバイトって何なんだろうな・・・」
まああのインチキ機関のことだ。色々仕事はあるんだろう。先月の森さんと新川さんなんかカーチェイスやってたもんな。あいつも苦労hs耐えないんだろう。それにしてもあの時の森さん怖かったな・・・
「・・・知・・・な・・・方がいい」
ん?何がいいって?
長門が何か言った気がしたが、そこには俺が石を置くのを待って普段と何も変わらぬ佇まいで本を読んでいるだけの長門。気のせいか。
俺は盤面を見遣りながら背もたれに体重を委ねる。さて、どう考えてもこれは負けだ。こいつにはもう大分前から終局が見えていたんだろうな。流石に古泉より1枚も2枚も、っていうか1000枚くらい上手なんだろうな。
ってあれ?
何で勲章は古泉だけなんだ?
「なあハルヒ。俺に勲章はないのか?」
俺だって頑張ったんだぞ?恥ずかしい想いをしながら。
「あんたはどうせ古泉君に従ってやっただけでしょ!指示に従うだけなら誰にだってできるわ!発案した人、企画した人が一番の功労者なのよ!」
ふむ、それも一つの考え方だな。
それと、これは負け惜しみで言うわけでもないのだが、断じて欲しかったわけではない。
「あんたも古泉君みたいに気が利くようになりなさい!そしたら平団員に昇格させてあげるから!」
満面の笑顔で部下のやる気を鼓舞してくれているわけだが余計なお世話である。
平に昇格したところで結局は何も変わらないだろうからな・・・
・・・
・・
・
——とある墓地の一角
一本の樹と並ぶ一つの墓石の前にしゃがみ込み、手を合わせながら目を閉じてじっとしている少年の後ろに、一人の女性が歩み寄る。一見若く見えるが、その佇まいは明らかに見た目とは不均衡な奥行きを感じさせる。
「貴方が帰ってからと思って待ってたんだけどね」
女性は少年の後ろから声を掛け、
「森さん・・・」
対して少年は振り向き、ぽつりと呟く。
「でも長過ぎよ。墓参りに1時間も掛けないでほしいわ。まったく、女性を待たせるなんて」
微笑と揶揄を帯びた優しい口調から、決して非難を意図しているわけではないことは明白だった。
「済みません・・・」
少年もそれを介してか、短くあっさりと返す。
「・・・謝罪したいのは貴方に酷なことを強いている私の方よ」
一変して女性が許しを請う。
「全くですよ。お陰様で毎日が目紛しく感じて仕方がありません」
対して、少年は顔に笑顔を張り付かせて応える。
少年の言葉をその笑顔で解釈するなら、それは非難の形に見せた謝意の表明にも取れる。
「・・・そう」
少年の真意は分からないが、女性は短く応えた。
女性がただとりあえず応えたのか、二人の間で共通認識があったのか、それは分からない。
しばしの沈黙が流れ、少年が再度墓石に向きを戻そうとすると、女性が口を開いた。
「あの樹・・・」
女性は、墓石の横に立つ、まだ未成熟とも言える大きさの樹を見ている。
「大きくなったわね・・・」
明らかに同調を求める口調であったが、少年が応えるのには数秒を要した。
「…一年近く、経ちましたからね」
———————
————
——
中学1年の夏頃、僕は奇妙な感覚に見舞われた。
その日までは一切無かったはず認識、見たこともないはずの映像、経験したこともないはずの記憶、それらが自分の知る限り一切の因果もなく突如として自分の意識の中に現れたのだ。僕は錯乱状態に陥っていた。
——なんで僕がそんな危険なことをしなければならないの?
——なんで僕なの?どうしてもやらなければならないの?
しかし、突如として与えられた認識は、いくら否定しようとしても、いくら夢だと思い込もうとしても、自分の中で頑固なまでの主張を持っており、現実だけを冷酷に突きつけて来る。
さらに、それとほぼ時を同じくして、僕は分けの分からない組織間の争いらしきものに巻き込まれていた。自分が最早普通の人間ではないことは否応無しに分かってしまっていたが、何故自分がこんなわけのわからない抗争らしきものに巻き込まれているのかはわからなかった。
いきなり車の中に連れ込まれたりする一方、真摯に誘われることもあると思いきや、最中に別の人達が割って入ってくるなり争いを始める。
本来であれば、自分の身に危険が及んでいることを理解するところだが、それすら正常に認識でき無くなっているほど、僕は自分に与えられた責務の重圧に翻弄されていた。
そんな中、ただ怯えながら濁流に流されるだけでしかなかった僕を最終的に毎度救ってくれたのは、決まって一つの数人組のグループだった。
そのグループは一人の女性を中心にしていて、僕が誰かに迫られたり、連れて行かれたりしては現れ・・・気がつけば僕は解放されている。
そういった出来事が何度繰り返されたはわからない。その解放の手口は暴力や銃声と言ったものが付属していることもあり、それもまた恐ろしいものであったが、何故かその人たちは僕を解放してくれるだけで、一切僕に手を出す事も誘ってくることもしなかった。
いつしか僕の中では彼女達への信頼と安心感が芽生えていた。
「どうして皆、僕を必要とするんですか?」
時間が経ち、自分が自分らしきものを取り戻すに至った頃、僕はリーダー格の女性に訊いてみることができた。
「貴方にも目覚めた能力の自覚はあるのでしょう?」
そのことを貴方達も知っているのなら・・・
「どうしてお姉さん達は僕を誘わないんですか?」
お姉さんと言われたことに意表を突かれたのか、少し戸惑った様子を見せた後、口元に微笑を惑わせながら彼女は応えた。
「貴方はまだ幼い」
それぞれ僕を必要としている人たちが、それぞれどういう目的を持っているかはわからない。この人たちが何を目的にしているのかもわからない。
それなのに次の瞬間、何の考えも纏まっていないのに、何の覚悟もないのに、僕は口に出していた。
「僕も一緒に連れて行って下さい」
女性はさらに戸惑った様子を見せたが、いつも僕を送ってくれる黒塗りの車に僕の手を取って何も言わずに優しく誘導してくれた。
温かい手だった。
どうしてこんなことを言ってしまったのかはわからない。何度も助けてくれた恩返し?いや、それは本末転倒だ。確かに何度も助けてくれたけど、それは僕を他に取られたくないからというエゴも含んでいる。
でも、少なくともこの人たちは、幼くまともな身寄りが無い僕を気遣っていてくれたことは間違いのないことだった。何より、自分に安心を与えてくれるのはこの人達であると信じて疑っていなかったことも確かだ。
自分には、見たことも無いのに頭の中で鮮明に映し出される、あの化け物と戦う使命がある。ただそれを理解しているだけで、何故自分なのかわからない。怖い。誰かに替わってもらいたい。でも、この人たちはきっと僕を守ってくれる。
きっと、そう信じていたのだと思う。
しかし、その期待は裏切られていた。
自分自信では周りで起こっている出来事に付いて行けていないのにも関わらず、環境だけは目紛しく変化する。
毎日新しく色々な人に出会い、挨拶をし、色々な説明を受ける。
誰が誰だかも分からない。何を言われたのかも、自分が何を言ったのかも記憶がない。
いつの間にか僕は元々通っていた中学校から転校していて、新しい住まいから新しい学校へ通っている。
頭の整理が追い付かない・・・
ただ僕は安心が欲しかった。ただ守ってほしかった。それだけなのに、時間は流れ、いつの間にか僕は立っていた。
——閉鎖空間。機関の人たちがそう呼ぶ『彼女』の精神世界に・・・
薄暗い不気味な空間の中で、圧倒的な存在感を誇る青色の巨人が暴れ狂うだけの、現実とは思えない光景。能力を持った人だけでなく、意味があるかは分からないが無能力の人たちも武器を携え戦っている。
怪我をしている人がいる・・・
下手をすれば怪我をする程度じゃ済まない・・・
実際に目の当たりにして、恐ろしさで身体が竦み上がる。声が出ない、空気が足りない。
あんなのに僕が立ち向かうの?
何で僕が?何で僕なの?
空間が拡がっていくのが感じ取れる。拡がり切った時、どうなるかを直感してしまう。多くの同士が傷付いていくのが見える。自分に与えられた責務の重さを改めて実感する・・・
僕は、自分の傍らに降り立った同士が悶絶しながら苦しみ始めたのを見て、情けない悲鳴を挙げた挙句、失禁していた・・・
やるべきことは分かってはいても、課せられた使命は僕に取っては重過ぎた。
——漫画的・アニメ的な、世界を救う異能の力を持ち、悪と戦うヒーロー。
中学生である自分も含めた一般的な男の子が一度は想い描く妄想世界。しかし、実際にその舞台に立たされようとした時、想い描いているような立ち振る舞いができる子供は果たしてどれくらいいるのだろうか。
『こんな年齢で・・・可哀想に・・・』『幼いから仕方が無い』
僕は、そんな哀れみを持って応じられた。
ただ流れるままに連れて来られているだけなのにも関わらず、僕が閉鎖空間の侵入地点まで来るだけで皆誉めてくれた。
何もしてないなくても、ただ閉鎖空間から帰ってくるだけで皆誉めてくれた。
しかし、それも初めの内だけだった。
組織はまだ完全じゃない。
指揮系統の未統一、構成員の意志の不徹底、情報伝達システムの未整備、人手不足、役割の未分担、能力への不順応・不覚悟。毎度毎度パニックにも似た慌ただしい対応。
そんな中でただおどおどしているだけで何もしない自分。
多くの同士が傷付き、疲弊し、憔悴し、互いに気遣う余裕も無く、互いに非難し合う状況。おそらく自分の使命を完全に受け入れている人間も少なかったのだろう。
そんな中、ただ怯えているだけで何もしない自分。
本来、戦力として貴重な能力を持つはずなのにも関わらず・・・である。
いつまでも変わらないそんな僕に対して、無際限の優しさで応えてくれる人は少しずつ減っていった。
2ヶ月もした頃、少しずつ囁かれ始めた僕の評価
——『選ばれざる人』
僕は神に因って選ばれた身ではあったが、神に選ばれた人たちに因って『選ばれざる人』に選ばれた。
「大丈夫。何も気にする必要はないわ。そのうち見返してやればいいだけ」
いつも励ましてくれる人も居た。
とは言え、いくら励まされたところで、分けも分からずこんな状況に至ってしまった挙句、日々非難を浴びせられる。陰口を叩かれる。不甲斐無い自分のせいで苦労する人がいる。傷付く人が居る。
僕は一体何なのだろうか。何のためにここに居るのだろうか。
現状がはっきりと認識出来ずに得体の知れない自己嫌悪と不安に悩まされる中、はっきりと核として存在していたのは、会ったことも無い『彼女』への憎悪だけ。
数ヶ月の間で培われた僕の屈折した感情は、明らかに日常生活をも浸食していた。
鬱屈した性格と、その性格を反映したかの雰囲気を纏った内気な子供が、新しい同級生達の嫌悪の対象になるのには、それほど時間は要しない。実に分かり易い嫌悪感の行使もされもした。
しかし、不思議と同級生へ向かう荒んだ感情は無かった。それは自分自身も嫌悪の対象であったためであったろう。
同級生は自分の思念の化身、そう思えた。
存在が目障り。見たくない。消えてほしい。
同級生が僕に向けるものは全て自分が自分自身に向けているのと同じものだ。
——そんな中で現れた転機
それが彼女だった。
「ふうん。古泉一樹君か。良い名前だね」
初対面での挨拶で彼女が僕に掛けてくれた言葉はこれだった。
「一樹、一本の樹か。とても優しい、懐の深さを感じさせる名前だね」
名前を誉められることなんて過去には無かった。
誰に付けられたのかも知らない名前だけれども、それは間違いなく自分のもの。
「大きな樹に育てば良いね」
屈託の無い笑顔でそう言ってくれた。
素直に嬉しかった。
彼女は僕と同年齢で、僕より遅く機関にスカウトされてきた、感じのいい笑顔を持った少女。僕の例からも、こんな子が背負うには重過ぎる使命、誰もがそう考えていたと思う。
しかし、彼女は年齢にも性別にも容姿にも不釣り合いなまでの非凡な胆力を備えていた。彼女は初陣にして臆することなく、見事に神人の片腕を消滅させる働きを見せたのだ。
彼女の参加は、僕に対しての風当たりが明らさまなものへと変わる転機ともなるはずだった。しかし、僕の心境にとっても明らかな転機であった。
「何言ってるのよ?怖いに決まってるじゃない」
僕は彼女に素朴な疑問をぶつけてみた。
「自分に課せられた責任、命を落とすかもしれない怖さ、とても不安・・・だけど・・・」
だけど?
「やらなければいけないってことが分かってしまうんだから、仕方ないじゃない・・・」
別に予想できない言葉では無かったけれど、実際に言われてみて驚いた。
彼女は僕よりよほど成熟している。
どういった環境で育てばこの歳でこういった覚悟を決められるようになるのだろう。
「それとね、ここだけの話よ?」
彼女は周りを気にしながら顔を近づけ、小声で続ける。
「ちょっと不謹慎だけど、変身もののヒーローなんて面白いじゃない」
『赤玉はちょっとかっこよくないけどね』そう付け加えながら彼女は恥ずかしそうに笑っていた。
彼女は、突然放り投げられた非日常の境遇を、自分に突然課せられた過酷な使命を、ただ『面白そう』という言葉であっさりと片付けてしまった。
この言葉は、別に大して意味のある言葉ではなかっただろう。だけど、なぜだろうか。身が軽くなった気がした。
この日から僕に対しての周囲の評価は少しずつ変わり始めた。
□ 『一本の樹』