穏やかな終業のチャイム。

終礼後、何らかの部に所属しているのだろう生徒達は、鞄を引っ掴んで、我先にと教室を後にしていく。居残り組は班別の掃除当番にあたった週の担当者で、運悪く僕の班は今週に割り振られていた。
さすがにサボるという選択肢は取れそうにもない。僕は仮にも成績優良児としての信用を、「古泉一樹像」のために維持しているのだから。心は急いていたが、多少の遅刻で彼らが居なくなってしまうわけではないのだからと、己を納得させた。
今日は、彼と涼宮さんの両人から、「お付き合い」に関しての報告が予定されている。その後、長門さんを含め朝比奈さんや「彼」と話す機会を求めるには、涼宮さんの下校時刻まで待たねばならないだろう。
未来と連絡すら取れなくなっているという朝比奈さんの件もあることだし、悠長にしている暇はなかった。最低機関を巻き込むことになってでも、長門さんから事の詳細を聞き出さなければならない。
雑巾がけは手早く済ませ、形だけの反省会を終えると、鞄を小脇に抱えて僕は旧舎へ急いだ。既に彼等は到着しているだろうか。

「古泉くん!」
背後から華やかな声が掛かって、僕は自然、速度を緩めた。ぱたぱたと僕を追って駆けてくるのは、我らが団長の涼宮さんだ。

「今部室に行くとこよね?一緒にいきましょ」
快活な笑顔は相変わらずだ。僕は部室に接近するにつれ極限近くまで強張らせていた頬の筋肉を、息つくようにするりと解くことに成功した。染み付いた習性とはいえ、涼宮さんの効能は抜群だ。
太陽のような眩しさが、朝比奈さんとは違った意味でリラクゼーション効果を齎すのかもしれない。


「涼宮さんは掃除当番ですか?」
「ううん。あたしは、馬鹿担任に呼び出しを食らったの。結局勘違いだったけどね。まったく時間の無駄だったわ」
何かトラブルがあったようだが、原因を貶しながらも不機嫌そうではないのは、やはり「彼」と付き合いだしたことがプラスに転じているのだろう。
涼宮さんに幸福になって欲しいと願う想いは三年前から僕の心に不変のもので、だから、長門さんとのことは差し置いても、現状は喜ばしい。
涼宮さんの笑顔ほど、他者を強引に幸福にしてしまうものなどないと、僕は信じているからだ。

「そういえばみくるちゃんも、進路指導で遅れるって言ってたわ。なんか泣きそうな声だったけど……。大丈夫かしら」
朝比奈さんからすれば、進路指導を暢気に受けている気分ではないのだろう。その心境はよく分かる。
「難しい時期ですからね。進路は将来を見定めた上で選ばなければならない、大事です。朝比奈さんも、思うところがあるのかもしれません。皆で話を聞いてみるのがいいかもしれませんね」
「そうね。みくるちゃんは笑ってるときが一番可愛いもの。進路なんてパーンと蹴飛ばしちゃいなさい、って言ってあげるわ」
涼宮さんと顔をつきあわせて笑っている内に、部室前に辿り着く。
順当に考えて、中には「彼」と長門さんがいるはずだった。だから涼宮さんは、相も変らぬ満面の笑顔で、「有希ー!キョーン!」と声を上げながら扉を開き―――




――そこに、悪夢を見た。






+ + +






声が出ない。

今すぐ引き返し、扉を固く閉ざして、涼宮さんの視界を奪い、たった今目前にて演じられている悪趣味な寸劇を遮断しなければならないとわかっているのに。五本指も踵も爪先も、何一つ金縛りにあったかのように動かせず、涼宮さんも状況は僕と似たり寄ったりのようだった。
ただ、前を呆然と向いている。信じられないような――その光景を目の当たりにして。

 

 

「ん、ふぅ……んんっ」



粘着質な音。唾液を交し合い舌を縺れさせた、男女の濃厚な口付けの音。
這い登る手。
たくしあげられたスカート。覗く白い太股。
上着もブラジャーも無造作に脱ぎ捨てられて、晒された裸体はこんな状況にあっても見惚れるほど美しい。
時折、焦れたように上がる嬌声が、ぞっとするほど艶かしかった。


それぞれ抱き合った相手以外のものは眼に入らないかのように、僕らの存在そのものに意識を払わず、抱き合う二人。
それが、僕らの知る二人でなかったなら、こんな衝撃を味わうことはなかっただろう。
それが、涼宮さんの最も愛する「彼」でなかったら。
それが、涼宮さんの最も信頼する友人の一人である「彼女」でなかったら。

 

「ゃあ、ぁ、ぁあ……!」

 



涼宮さんは立ち尽くしている。
僕も並んで凍り付いていることしかできない。



頭が真っ白になった。何がどうなって、何故こんなことになっているのか。
「彼」は涼宮さんと付き合っていて、長門さんは形だけとはいえど僕と付き合っていて――それで。
ならば、この冗談のような光景はなんだ?


「彼」は彼女の胸に舌を這わせて、長門さんは陶然と乱れながら身を捩る。明らかに合意の上の、明らかに手馴れた仕草。いつからなんて疑問を放ることも馬鹿馬鹿しい。狭間を縫った逢瀬を、きっと数え切れないくらい重ねてきたに決まっている……。


ああだけど、これでは、まるで――



僕ははっとして涼宮さんを振り返る。
涼宮さんの瞳が、完全に光を失っているのを見、――悪寒が背筋を突き抜けていくのを感じた。この世のあらゆるを凌駕する、それは圧倒的な悲嘆と絶望だった。




「大丈夫」

長門有希の静かな声が、僕の耳に滑り込む。「彼」の下にいた彼女のその平坦さに、僕は眼を瞠った。
全てが既定事項だと言わんばかりに。任務終了を告げるような、淡々としたいつもの彼女の低音が響く。


「――4802回目のシミュレート完了。これで、おしまい」




その声が皮切りだった。
床も壁も天井も全てが液状化し、次第に泥のようなものに変化して、ずぶりずぶりと沈み、形を失い、―――
僕は飲み込まれていく「彼」を見、光をなくした黒瞳のまま涙を溢れさせ、沈んでいく涼宮さんを見た。引き摺りあげようとする努力は無為だった。足場と呼べる場所がもう何処にもない。
僕自身の足もみるみる落ち込んでいく。悲鳴を上げる暇すらなかった。
底なし沼に脚を引き擦り込まれ、僕は唯一周囲の状況に呑み込まれることなく立つ長門さんを今際に見た。

「……っ!」

手を伸ばす。
……届かない。



――完全に暗闇に閉ざされた視界のうちに、閉鎖空間の音が聞こえた。
蠢く神人の悲鳴。
拡大していく、誰も手のつけられない領域にまで。


……ああ、これは、世界が終わる――











眼を見開いたとき、僕は閉鎖空間の真っ只中にいた。 
 
見慣れた灰色の統一世界は、地平線の向こうを超えたところにまでその色を走らせ、銀色に発光する神の人が腕を振るっている様が見える。なだらかな一振りで、廃墟と化していく世界。見渡せど見渡せど、同士達の赤い光が宙を舞う姿は見えない。
涼宮さんが本気で世界を創り変える気なら、僕ら能力者でさえ侵入出来ないのは先例により身に染みている。僕がここにいられることが、あるいは例外なのかもしれなかった。

僕自身、超能力者として戦おうという意欲はひとしずくほどにも沸かなかった。このままどんな奇跡も起こることはないだろう。世界が終焉を迎えるであろうことを、僕は既に諦観してしまっていたのだ。
涼宮ハルヒがもしかしたら生まれて初めて愛し、信じたかもしれない者達の裏切り。
その現場を、ああも直に見せつけられたら。誰だって、総てを否定したいと思うに決まっている。

問題なのはそれを狙って行ったのだろう者のこと。
……僕は、彼女を振り返った。

乱れのない制服姿で立つ、長門有希の平坦な瞳。

「……これで、ゲームオーバーというわけですか」
笑みを浮かべようとしたら、随分と皮肉めいたものになった。彼女と付き合いだした頃には、まさかこんな結末を迎えることになろうとは、思っても見なかった。

「どうせ最期なんです。教えてくださってもいいでしょう?」

長門さんはあのデート中の甘えも笑みも幻想であったことを突き付けるような無情さで、転がる石礫を観察するように僕を見ている。
その表情は、申し訳なさであるとか、親愛であるとか……そういった人間の情を僅かにも湛えているようには、見えなかった。 
 
 
「思念体は何が目的で、こんなことを?」
「観察。実験。……それだけ」

彼女の回答に僕は眉を潜めた。嘘のようには聞こえないが、それにしても信じられない理由だ。大体長門さんは主流派で、強行的な急進派とは意見を異にしていたはず。

「実験――そのために、世界を崩壊させた? 随分と支払うリスクばかりが大きい実験ですね。見合う報酬が得られるとはとても思えません。下手をすれば、統合思念体そのものも消滅する危険性があるというのに」
「リスクはない。些少、関わる端末に影響が懸念される程度」

リスクはない?

「……意味が、わかりかねます」

背筋が冷えていた。長門有希の言葉の裏に一体何があるのか、未だに掴み損ねていた僕を哀れむように、彼女は声を落とした。

「シミュレート4802。ケース『涼宮ハルヒと彼女の「鍵」が交際し、それが裏切られた際の涼宮ハルヒの行動・閉鎖空間規模の想定』。
『裏切り行為を働くのは涼宮ハルヒが好意を抱く人間によるもの』。……情報は収集された。この箱庭は間もなく廃棄される。本物の涼宮ハルヒ及び彼、朝比奈みくる、そしてあなたには、何の影響もない」



理解には数秒とかからず、僕は息を詰めた。
それは僕自身がいつかに考えたことのある、想定だった。

『僕たちはオリジナルの僕たちではなく、異世界にコピーされた存在なのかもしれない』
『たとえば僕たちの意識が、そのままスキャンされてコンピュータ空間に移し替えられたとしたらどうでしょうか。意識だけはそのままに仮想現実空間へ移送されたとしたら』

コピー世界ならば、その世界で誰が死のうが、世界が崩壊しようが、どうということはない。恋愛シミュレーションのゲームと同じだ。攻略方法を間違えてもセーブさえあれば問題ない。
元のセーブデータが残っているなら、そこからやり直せばいいだけの話。コピーは無限に作ることが出来るのだから。
何回でも何回でも何回でも何回でも。オリジナルの本筋を生きる僕たちは、何一つ知らないままに――4802度のシミュレート。
そのたびに廃棄され、新たに世界は構築される。

「過去行われたシミュレートでは、あなたと朝比奈みくるが交際するケース、『彼』とわたしが交際するケース、涼宮ハルヒとあなたが交際するケース、朝比奈みくると『彼』が交際するケースも存在した。今回は、あなたが選ばれた」
「……今回に関しては、あなたは僕への恋愛感情を付加された状態で、シミュレートをスタートさせた。そういう、ことですか……」
僕と長門さんが付き合うことで、「彼」と涼宮さんが交際し易い状況に持ち込み、その後に「彼」を奪い取る。
長門さんの幸福を素直に祝福し、「彼」と付き合うことのできた喜びを噛み締めている彼女には、二重のショックになるだろう。
そしてそのためだけの関係だった。
僕と長門さんの、あの数ヶ月は。 
 
 
 

井とはこの世界のことであり、蛙とは僕らコピーされた個体のこと。
この世界が現実ではなく、単なるシミュレート空間だと知らない蛙たちは……きっと最期まで幸福なまま。 

 
 
「では、世界が閉鎖空間に覆い尽くされるまでもなく、この世界は終わることが決まっているんですね。作り出されたその時から既に」
「……そう」
「フィードバックされることもなく、僕も僕自身の感情も仮想世界に消滅し、本筋の僕は何も知らずにSOS団で楽しくやっていく。なるほど、確かにこれがシミュレートで良かったと思いますよ。これが現実だったら、今の僕には絶望感しかなかったでしょう」
諦めと投げやりの乾いた笑いを漏らすと、長門さんが、幾らか沈黙を置いた後に僕から視線を逸らした。

「――あなたが、初めてだった」
「……何がです?」
「4802回のシミュレートの中、初めて、あなたが世界の異常性に気付いた」

僕は声を喪う。長門さんは虚空を見上げている。
表情を隠すように。

「わたしが事の真相をあなたに打ち明けるのも、これが初めてのこと。他のケースでは例外なく気付かぬまま消滅した。涼宮ハルヒを含めたコピーもろとも、総ての世界で」


初めて、長門さんの声に揺らぎが混入された。先程の彼女の声帯から成る声質とあからさまな違い等なかったのに、僕にはその微々たる変化を聞き取ることが出来たのだ。
――それとも、これも錯覚だろうか。仮想世界で僕が見せられた、最後の都合のいい夢だろうか。

灰色の空に目線を固定したきり動かない彼女に、背後から問い掛ける。
「あなたはどうなんですか。あなたも……この世界限りの存在なんですか?」
「わたしは端末。基本的には消去によって同様に仮想領域での存在が喪われるが、情報はオリジナルにフィードバックされる」

手が震えた。

「それは……」

衝撃が過ぎて、言葉にならなかった。
――本筋の長門有希は、覚えている?
ここでどんな風に僕に恋をし、涼宮さんを騙し、「彼」と口付けたのか。総ての記憶を有しているというのか。今回だけではない、過去4802回のうちに、各々の仮想世界で彼女自身が働いた裏切りも嘘も、彼女が偽りに愛した人のことも、偽りに愛されたことも何もかも。
記憶して、忘れられないまま、生きていく。4802回のうちに繰り返し消去されていった人々の想いも存在も。


世界の真実が海だと、初めから知らされている井の中の蛙に、一時の幸福はあるのだろうか? 

 
 
 
 
 
 
沈黙を制するように、長門さんが宣告した。

「……終わりの時間」

タイミングを見計らったように、大空が一文字に白く裂けた。光の橋が架かったようだった。地平線と地平線を繋ぎあわせて、そこから両面を推し進めるように徐々に引き裂いていく。
腕を振るっていた神人が吼えた。光に呑み込まれて滅され、粒子となってその全容は綺麗に失われた。
現実での閉鎖空間崩壊の光景のように、天頂から崩れ、灰の空で光が押し広がっていく。あの光に巻き込まれて、僕達もこの空間と共に消滅することにるのだろう。

見上げた宙は広大だけれど、仮想領域から解き放たれることなく僕はここで死ぬ。
僕の獲得した想いと嘆きは、誰にも手渡されることなく消える。
セーブポイントが残されているなら、僕らは不要。想いを残す術はない。長門さんのように引き継がせることもできない……。

――でも、ここに、たったひとつ。 

 
「長門さん。4802度目にようやく真相を知ったシミュレート上の僕に免じて、遺言を聞いていただけませんか。もし可能なら、聞かれた直後に、この情報を記憶媒体から削除して下さって構いませんから」

「………了解した」

長門さんは、天を仰いでいた面を此方に戻した。琥珀の瞳が細められる。僕の声を待って、彼女は滅びの世界の中で僕を見ている。
僕は微笑んだ。繕いではない素のままの笑顔で、あるがままを差し出した。


「あなたに告白されたとき、僕はあなたを好きではありませんでした。いいえ、好意はありましたが、恐らくそれは恋愛感情ではなかった。あなたと何度かデートをして、あなたに惹かれはした。それでも、僕に恋心は芽生えなかった。理由には後々に気付きました」
「…………」
「……僕が本当に惹かれたのは、あの雨の日のあなただったからです。甘く僕に微笑む、恋愛感情を強制的に付加されたあなたではなかった」

冷たく白い横顔で、「彼」を見据えていた、張り詰めた空気の中で。
あのときのあなたをこそ、僕はきっと愛していた。

長門さんは黙している。それで構わない、それ以上は望まない。
あなたが耳を傾けてさえいてくれるならば。
僕がこのシミュレートされた世界で長門さんと触れ合い、そして唯一『井の外の大海』を知る存在となったことに、きっと意味はあるのだから。


「覚えていてください。他のどの時でもない、……そのまま今のあなたに、僕は恋をしました」 
 
生まれて初めての愛の告白が世界が終わるその瞬間だなんて、何て笑い話だろう?
それでも僕は手渡す。それしか、ここにある総てに報いる方法はなかったから。
そして、差し出した言葉はもう一つ。この世界が、あなたの呪いにならないように。

「―――あなたの幸福を願っています」 

 
 
オリジナルのあなたがこの仮想世界の記憶を継いで眼を開くとき、それが、叶う限り優しい目覚めでありますよう。 

  

長門さんの眼が見開かれ、僕に何かを告げようと薄い唇が動く、そのとき既に白い光は視界を焼いていた。
彼女は何を言おうとしたのか。ああ、こんな状況でも僕の不運は折り紙つきらしい。


あとほんの数秒あれば、あなた の  声      を 















 






 
 
 

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観察記録を移行します。受領データを送信してください。
No.4803-開始まで120時間00分00秒。

:データの送信は拒否されました 
 
  
 
  
 


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