第二章 



 夢を見た。
 実はわたしの場合、夢にもいろいろな区分があって、まったく意味不明なもの、何か心当たりがある内容のもの、長く頭に残るものなどがある。どのような条件が揃うとどんな夢を見るのか、まだわたしには解らない。ひとつ言えることは、どの夢にも何かしら種類分けができそうな要素が含まれているということだった。
 ところが、わたしが今日見た夢はそれらのどこにも属さなかった。わたしは目を覚ましたとき今までいた空間が夢の中だったことに気づいたが、しかしよく考えるうちにそれが夢だったと言い切れるだけの証拠がないことが解った。混沌さ、夢の中の会話、起きたときの感覚。どれをとってもわたしが今まで見てきた夢とは異なるものだった。だから正確に言うと、これは夢ではないのだ。
 わたしが夢の中で眠りから醒めたとき、目の前には黒い空間がはてしなく広がっていた。上も下も横も、すべてが黒。その黒がどんよりとうねりをつくって流れている。暗黒星雲にまぎれこんでしまったみたいだった。
 どうも見覚えがある風景だと思ったらやがて気づいた。そう。ここは昨日の朝も見た、あるいは来た場所だ。学校で目眩がしたときと同じ黒い海を、わたしは流され続けていた。
「長門有希」
 暗闇の中、突然わたしの名前が呼ばれた。わたしは驚いた。光も音も存在しないと思っていた謎の空間でわたしの名前が誰かに呼ばれる。誰が、何のために。わたしを呼んだ声はとても静謐で、現実世界とは明らかに画された秩序があった。その声の響きは山奥の神秘的な泉を思わせた。
 わたしは四方八方に目を走らせた。音源が解らなかった。その声にはわたしの頭の中に直接語りかけるような響きがある。
「こっち」
 また声がする。かくれんぼみたいだ。やがて見つけた。黒い海よりもさらに深い黒色をした何かの塊。
 やがてその塊から暗闇の中にぼんやりした人間の姿が形作らた。霧に隠されてしまった人の影のようなはっきりしない姿。やがてぼんやりした人間は顔や胴のくっきりとした輪郭を描き出し、ついには立体になった。二次元から三次元へ。わたしはその様子に目と口を驚かせ、黙って見入っていた。そのうち黒一色だった姿には色がつき、目や鼻といった細部までをも浮かび上がらせた。その時点で彼女は完全な人間の形になっていた。
 暗闇から生まれた人間は、生まれたままの姿勢、直立不動でわたしを見つめている。わたしも彼女を見返す。すうっと吸い込まれてしまいそうになる不思議な眼だ。
 彼女は、わたしと同じ姿をしていた。小柄な身体。色素の薄い肌。眼鏡。
――あなたは誰。
 わたしは声を発しようとした。けれど音が出ない。空気が振動しない。その発音通りに口が動いただけで、耳は自分の声を感知しなかった。
「長門有希」
 しかし相手にはわたしの声が伝わったらしかった。なにしろ夢なのだから何でもありなのだのだろう。特に、たった一言さえ言葉をかわしていないくせに他人の夢に入り込んでくるような存在には。
 長門有希。彼女はそう答えた。
 まるで鏡をのぞき込んでいるようだ。わたしと、もうひとりの『わたし』が対峙し、見つめ合っている。その光景ははたからみればひどく滑稽なのだろう。
 けれど、確かに彼女は『わたし』だった。表情に一切の動きがないところも、放っておいたら消えてしまいそうにはかないのも、わたしとまったく同じだった。だから、彼女が長門有希と名乗ってもわたしはさほど驚かなかった。
――別の世界の、彼の世界の『わたし』?
 わたしは口だけを動かして相手に問う。彼。もちろん今日部室に来た彼だ。『わたし』相手になら伝わるはずだ。案の定、彼女は「そう」と答えた。
「わたしはあなたのことを知っている」
――わたしも知っている。彼から話を聞いた。たぶん、わたしとあなたは同一人物。住む世界が異なっているだけで。見た目もしゃべりかたも似ている。
「そうじゃない。それは違う」
 彼女は口から冷気を吐き出すように言った。真っ直ぐな瞳がわたしを射るように見つめてくる。わたしは『わたし』に呼応して、彼女の不思議な眼を見つめた。ブラックホールとブラックホールが勢力争いをしているみたいだった。
「わたしは」彼女は少し迷ったような間を置いてから言った。「わたしは、あなたではない。どうがんばってもあなたのようにはなれない。あなたにはある機能が、わたしには与えられなかった」
――機能?
 その問いに対する答えは返ってこなかった。答えたくなかったのかもしれない。わたしにもそんなときはある。
 機能。どこかで聞いた言葉だ。
「あなたに頼み事をしたい。そちらの世界にいる、『わたし』として」
 わたしが黙っていると彼女はそんなことを言った。どうやらそれが本題のようだった。
――頼み事。
「そう。でも、そんなに面倒なことじゃない。あなたは昨日の朝、学校で黒色の薄い板を手にした」
――覚えている。
 あの黒い板だ。知らないうちにわたしの机に入っていた。しかしあれを手にとって目眩を覚えて以来、あれは椅子の下のわたしの足もとに転がっていた。一日中ずっとだ。結局最後まで拾わなかった。きっと掃除の時に当番が片づけてしまっただろう。
「あれを、とある場所に移動させて欲しい。明日のうちに」
――ごめんなさい。それはできない。わたしはあの板をなくしてしまったかもしれない。
 わたしは正直に話した。相手に意思を伝える作業。この場合は、相手も『わたし』なので話しやすかった。
 わたしが事情を話しても彼女は動揺したりしなかった。わたしに何があったのかを最初から知っているようだった。
「そんなことはない。なくなっていないから心配しなくていい。あれは必ず明日、あなたのもとにある」彼女はそう言った。
――どうして解るの。
「規定事項だから。この世界での規定事項は非常に不安定だけれど、未来的にその規定事項は高確率で保証されている」
――そう。解らないけど、だったら、わたしはあなたを信じる。その板をどこへ移動させればいい。
「**町**丁目の歩道橋前。花壇があるから、そこに埋めて。土を少しかぶせる程度でいい。できれば明日のうちに移動させるのが望ましい」
――解った。でも、あの板はいったい何だった。
 彼女は言ってしまっていいものかどうか少し逡巡するような素振りを見せてから口を開いた。
「記憶媒体。多量の情報を保存することができる。あなたが昨日の朝、それを手にした時点で、すでにデータが入力されていた。そしてあなたが手に取ることがデータの解凍と再生にあたった。再生された情報の一部はその時、あなたに流れ込んだ」
 記憶媒体。データの解凍と再生。再生された情報の一部がわたしに流れ込む。
 あの時の目眩のような感覚。あれはやはり目眩ではなかったらしい。彼女の言う「再生された情報の一部」がわたしに流れ込む瞬間だったのだ。
 情報統合思念体。ヒューマノイド・インターフェース。それらの単語はわたしがあの板を手にしたとき、実に自然にあの板からダウンロードされたのだ。今、それが解った。
「あなたに情報を送信することもまた、規定事項だった」
――何のために。わたしがそちらの世界の言葉を知っていたとして、何かの役に立つとは思えない。
 『わたし』はひどく苦しそうな表情をしていた。眉をひそめ、唇を噛んで。その表情の変化は小さすぎて普通の人間にはまず解らないだろうけれど、わたしの場合、わたし自身がそうなのだから彼女の表情の変化を読みとることができる。
「その板の内部情報を破損させた状態で、こちらの世界に送り届けてもらうため。あなたの世界にある記憶媒体をこちらの世界に呼び出したときに、世界の違いによる物質的なショック症状でデータは破損する。こちらの世界で必要とされている記憶媒体は、データが壊れていることが条件だった」
――わたしはその運び屋の役? だから、ある程度事情を飲み込んでもらうために情報統合思念体といった情報を受信することが必要だった。そういうこと。 
 なぜわたしが、違う世界に住んでいる『わたし』のために協力しなければならないのだろう。彼女の言うことがあまりにひとりよがりなので、わたしは少しそんな気分になった。
 仮に姿が同じだとしてもわたしと『わたし』は違う存在だ。それは彼女が今さっき自分で言ったことだった。だったら、わたしが他人のために、しかも別の世界の他人のために、そんなおかしなことをする義務はどこにもない。
 彼女のせいでわたしの穏やかな日常は壊されてしまったのだから。わたしが彼女の頼みを断る要素はいくらでもあった。
 その意思を彼女に伝えると彼女は哀しそうな顔になった。惨めな表情だった。
 そしてわたしにわけの解らないことを言った。
「あなたの世界は、わたしに従属しているから」
 それはなぜ。
 尽きない疑問をぶつけようとしたけれど、彼女の苦しそうな表情からすると答えてはくれなさそうだった。
 わたしの世界が『わたし』に従属している。だから、その世界の構成員であるわたしは『わたし』の命令に背くことはできない。なぜなら『わたし』はわたしにとって絶対的な権力だから。主従の関係で世界と個人とが結ばれているなんて、まるで雲の上の話だ。
――ひとつだけ訊かせて。
「なに?」
 わたしは壮大な話に疲れて、別の質問をすることにした。それは予感だったけれど、当たる気のする予感だった。
――あなたはなに。人間じゃない。
「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」
 彼女は答えた。
 ハードカバーの物語。日常を非日常へと変化させた犯人。そして彼女が言ったこと。わたしの世界は『わたし』に従属している。
 世界を絶対的に支配できるのは、いるとしたら神だけだ。わたしはそう思っている。創造神。地球をつくった神々。もちろんわたしは神なんていう都合のいい存在を信じてはいないけれど。
 しかし、彼女の言ったことが正しいとしたら。いや、正しいとしたら、というくだらない仮定はやめたほうがいい。『わたし』は嘘をつかない。そのことはわたしが一番よく知っている。
 ならば、彼女は神なのか? わたしの、この世界を創り上げた神。 
 それは恐ろしい妄想だった。わたしのこの世界が、ある特定の個人の支配をまぬがれることができないなんて想像もつかない。たとえその神がわたしに限りなく近い『わたし』であっても、そんなことを認めることはできなかった。
 世界を創る?
 あのハードカバーを読んでいるときの感覚が蘇った。
 情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。
 彼が、あるいは彼女が、それをした。  




 意識がわたしに戻ってくる。
 暗闇だった仮想空間はマンションのキッチンになった。
 午前四時七分。まだ時間はある。
 黒い板、あの記憶媒体をこちらの世界に送り届けてもらうのは必要不可欠なことだった。しかもデータが破損した状態で。そのデータの欠損部分を埋める際に、元データとは異なる情報入力を二百十八カ所で施し、本来その記憶媒体を閲覧する再生機とは別のフォーマットで閲覧すれば、時間移動の原始的論理基盤を得ることができるのだ。その論理基盤がこの世界では必要になる。もちろんそれには彼があちらの世界で選択を迫られたとき、必ず片方を選ばなくてはならないという条件がつきまとうのだが。
 もともとあれには情報統合思念体などの宇宙意識に関する膨大な量の情報が組み込まれていた。もちろんわたしのようなインターフェースに関する情報も含まれている。誰が何の目的で作成したのかはわたしには解らない。
 ただ、その記憶媒体は非常に精巧に作られているらしかった。というのも、記憶媒体のとある部分で情報の組み替えを行うと、記憶媒体のデータがまったく別のデータに変わるのだ。そのひとつが時間移動の論理基盤だった。この世界ではそれが未来に必要となってくる。だから、改変後の世界になぜかある記憶媒体を、この世界に上書きされる前にこちらの世界に移動してもらう必要があったのだ。あの歩道橋脇の花壇にはこの世界とあちらの世界がつながる穴のようなものがある。だからわたしはその場所を彼女に指定したのだ。
 時間がない。
 わたしは再び別の世界へと意識を飛ばした。急がなくては。わたしには彼女に伝えたいメッセージがある。それすらも、わたしの意識がなくなってしまったら最後だった。 


*  


 起きたとき、まだ世界はそこにあった。ひんやりした冬の朝の静寂に包まれてひっそりと、でも確かに存在していた。両手を空中に漂わせてみる。もやもやとつかみどころがない空気とこの世界。
 部屋の大きな窓は朝の街の様子と冬空とを映していた。昨日の朝と同じように、朝靄のかかった街はやがて無限の光に包まれ、照らし合って、また光に飲み込まれたわたしの姿をも映しだしていく。変わらない光景。日常とはこうやってできていくのだろうか。
 わたしは自然と人工が溶け合う瞬間を眺めながら、今さっき夢の中で見た景色を脳に呼び戻した。目をつむると街やわたしの部屋は黒に包まれ、音は消えた。
 黒い海。わたしと同じ姿をした『わたし』。ヒューマノイド・インターフェース。
 あれが夢だったのかどうかという判断は、ひどく微妙なものだった。わたしの勝手な推理と妄想がうまいことくっついて夢という形でわたしに虚妄を見せていたのかもしれないし、本当に彼の世界の長門有希がコンタクトをはかってきたのかもしれなかった。もし後者の説をとるのだとしたら、彼女は宇宙人で、わたしの世界を従えるほどの力を持っているのだ。
 わたしは彼女に頼み事をされた。昨日、学校で見つけたあの黒い板を、今日中に歩道橋近くのパンジーの植え込みに埋めてくれとのことだった。わたしはその場所を知っているし、そんなに遠い場所ではないから言われたとおりにこなすのは容易なことだ。しかしそうするべきものなのかどうか、わたしには判断がつきかねた。なにしろあれが夢かどうかも解らないのだ。
 しかしそんなことを言っていてはらちがあかない。
 今日、学校に行ったとき、わたしのもとにあの板があれば、頼み事を頼まれてやろう。
 最終的にわたしはそう結論を出した。
 心配しなくていい。あれは必ず明日、あなたのもとにある。
 なぜなら、そのように保証をしてくれたのは彼女なのだから。彼女の言った条件通りでなければわたしに頼まれる義務はない。あえて板を探すこともしない。仮に世界規模で従属している身にしてもそのくらいは構わないだろう。彼女はわたしに「黒い板を何としてでも探し出せ」とは言わなかったのだ。奴隷は言われたことだけをやっていればいい。
 わたしは急にしぼんでしまった世界を映す窓から離れ、冷凍食品を選ぶためにキッチンへと向かった。
 

 十二月十九日。
 適当に朝食を食べ、鞄を肩に掛けて北高への坂道を登り、学校に到着して一年六組の敷居をまたぎ、自分の席に着いて後ろのカレンダーを振り返ると、今日がその日付であることが解った。
 もちろん昨日は十八日だったのだから今日が十九日なのは当然のことだった。昨日の翌日には明日が来る。
 ただ、少し不安になっただけだ。
 日常が着々と非日常へと移りゆくのがこうもありありと感じられると、どんな確固たる定理でも法則でも、砂上の楼閣のようにもろくも崩れ落ちてしまいそうな気がしてならなかった。非日常とはそんな世界だ。常ではない世界に恒常的な定義も法則も通用しない。
 しかし、そんなことでは困るのだ。わたしには常である世界にそれなりの愛着があるし、たとえ生活の役に立っていなかったとしても、数学の難しい定理や物理学者があらゆる実験をして見つけだした物理法則が知らず知らずのうちに失われていってしまうのは嫌だ。だからわたしはどんな当たり前の法則でも、その変化を見逃さないように入念にチェックするのだ。たとえ日付であっても。そうやって気をつけていないと、いつかすべての日常を失ってしまいそうで怖かった。
 ところがわたしの気持ちも知らず、現実は無情にも変化していくようだった。おそらく今朝の夢もまた、わたしの生活を尋常ではない方向へとさらに傾ける役割をはたしていたのだろう。日常はますます遠ざかり、カオスの世界が目の前に広がる。それはもう、とっくに始まっていたことなのかもしれない。
 なぜなら、わたしが机の中をのぞいたとき、黒くて薄い板が見えたからだった。彼女が言ったように板はわたしのもとにあったのだ。わたしは愕然とし、何か絶望に近い感情さえ抱いた。
 どうやら掃除当番は床に落ちているものを片づけてくれなかったらしい。常識までもが覆り、非日常に味方した。 
 見つけてしまった以上、彼女との約束は守るしかない。わたしは机の中に手をつっこんだ。
 もし手に取ったらまた昨日の目眩のような感覚に襲われて注目を浴びてしまうのではないかと不安だったが、わたしがおそるおそる板を手に触れると、それは何事もなくわたしの手に収まった。情報のダウンロードは昨日で済んでしまったらしい。情報統合思念体とヒューマノイド・インターフェース。それにしても宇宙人についてのデータが入っているとは奇妙な記憶媒体だ。生産地はどこなのだろうか。
 そんなことを考えながらわたしはそれを自分の鞄の中に滑り込ませた。彼女からの頼まれ事を解消するのは家に帰ってからでいいだろう。今日から学校が短縮日課になるから家に帰るのもやや早くなるはずだった。
 わたしは鞄に板を入れた代わりにハードカバーを取り出して、昨日の続きを読み始めた。例のハードカバーだ。海外のSF。
 異常な現象が相次ぎ、人は次々と死に、誰もが人類の未来に絶望を覚えていた、というところからだった。
 最後の審判。悪人を徹底的に滅ぼす日々はなおも続く。
 人類はさらに減少したようだった。大雨、地震に加えて、とうとう人そのものが発火し出したのだ。家の中で、街の中で、飛行機の中で。人間から発火した炎は、瞬く間に全身を覆い、骨を焼き尽くすまで消えないという。跡形も残らない。とんでもない熱量だ。その自然発火現象はプラズマということだったが、こんなに世界のあらゆるところで大量発生することはありえなかった。ましてや人間の身体から発火するということはまず、ない。
 それに加えて、地震も雨も止まらなかった。それどころか雨は勢いを増し、世界中に洪水をもたらした。どこにそのような大雨を降らせる雨雲があるのか、最初は真面目に取り組んでいた学者もとうとう匙を投げ出した。
 もはや現代の物理法則でこの現象を解明することは不可能だった。地震も大風も雨も自然発火現象も。学者の数自体が減り、残った学者でさえ匙を投げた。
 世界中が荒れ狂い、国家は存在しないも同然だった。国家を維持するだけの人間がどの国にもいなくなっていた。大量の人間が過酷な環境の中で飲み込まれ、流され、燃え、飢えて死んでいった。
 最終的に生き残ったのは世界でたったひとり。このあたりは何だか嘘っぽいが、物語ということで了解した。
 彼はニューヨークの自由の女神像にいた。そこは地震の被害も少なく、大雨による洪水からも逃れられる場所だった。その場所で彼は世界を見渡し、変わり果てた都市の姿を目撃する。彼は愕然とした。そこに文明の痕跡は一切として残っていなかった。
 彼はその時、大地が唸る音を聞いた。低い声で不気味な。それは人間を殲滅した地球の歓呼の声に聞こえた。彼はその声を聞き、地球や神は人間を滅ぼすつもりだったのだということを悟った。恐怖が彼の身体を貫いた。そして彼は発狂し、ついには自由の女神像から大地の裂け目に身を投げるのだった。
 そこで物語は終わっていた。わたしは黙って本を閉じた。 
 宗教的な要素も若干からんでいたけれど、それにしても何だかあっけない終わり方のような気もした。物語のスケールが壮大であるためか、最後に若干だけれど違和感が残る。
 地球そのものや、神が、人間を滅ぼそうとした?
 犯人は地球やら神だったというのか。なるほどキリスト教らしいといえばそんな気もする。唯一神の信仰。人間が逆らうことのできない無敵の圧力。しかし、そんなことは本当にありえるのだろうか。神の逆鱗に触れて人類は滅びる。ノアの大洪水を思い出した。
 わたしはそういう絶対的な力は信じない主義だったけれど、今どうかと訊かれると答えに窮する。あるといわれればあるのかもしれない。
 なにしろ地球自体は絶対的なものでも何でもないのだ。神でなくても、ただの宇宙人でさえその存在を揺るがすことができる。宇宙人に従属する世界。
 もしそれがわたしの住む世界だったのならば。
 もはや、わたしの存在どうこうの問題ではなく、世界そのもののの独自性さえもが失われそうだった。この物語を読んで、改めて思い知った気がした。
 世界が唯一無二の世界であったり、わたしが唯一無二のわたしであるという証明は、どこで何がやってくれるのだろう。
 
 
 その部屋には黒い棺桶が置いてあった。他には何もない。
 暗い部屋の真ん中にある棺桶の上に、一人の男が座っていた。
「こんにちは」
 男は私に言う。笑っていた。
 こんにちは。私も彼に言う。私の表情はわからない。
 私が立ち続けていると、男の後ろに白い布が舞い降りた。闇の中、その布は淡い光に包まれていた。
「遅れてしまいました」
 白い布が言った。それは、白く大きな布を被った人間だった。目にあたるところが丸く切り取られ、黒い瞳が私を見ている。
 中にいるのは少女のようだった。声で解った。


 
 文章を書きながら思う。わたしがわたしであるということを証明してくれるのはこの物語だけなのではないか、と。長門有希という人物に代わりはいた。同じ顔で、同じ声で、同じ性格をしている人物が。そのため、わたしの人格や姿はもはやわたしひとりのものではなくなってしまった。
 だとしたら、わたしが自分の存在を証明できるのは、この物語しかないのだ。わたしの中から自然に生まれてくる不可思議な物語。わたしの本能を、わたし自身をそのまま綴った文章。これ以外のどんなものがわたしのオリジナルだというのだろうか。
 放課後の文芸部室。わたしはひとりで文章を書きながら彼を待っていた。昨日、まっさらな入部届けを渡した彼を。
 今日わたしは、この物語をノートに記していた。一文字一文字自分の字で書き連ねていく。ノートにはわたしの書いた明朝体が踊っている。
 手書きで文章を書くのは久しぶりだったけれど、悪くなかった。頭が生み出す文章と、文字を書く手の動きが呼応してすらすらと物語が進む。頭に入っていく。多少時間はかかるけれど、一日のほとんどの時間の使い方を自分の好きなようにアレンジできるわたしにしてみれば、時間がかかるのはたいした問題ではなかった。
 ふとパソコンに目をやる。
 手書きで文章を書いているため、パソコンは電源をつけられることなく静まっていた。もちろん今日手書きなのは彼に物語を見られたくないからだった。恥じらい。身体が火照ってしまうような、そんな感情だ。
 その時、いきなり文芸部室の扉がノックされた。
 小さく驚いた後、全身に緊張が走った。慣れない感覚。瞬間的にノートを隠して適当な本を手に取ってから「どうぞ」と小さな声で答えた。
 やがて扉が開くと、その隙間から彼がわたしの様子をうかがうようにして顔を出した。彼は少し頬を弛めていた。
「また来てよかったか」
 わたしはこくりとうなずく。ただし、彼に焦点は合わせないで。わたしは膝の上で本を広げ、ろくすっぽ頭に入らない文字を見つめていた。
 彼は鞄を隅に立てかけて本棚に歩み寄った。わたしが普段、部室で読む本を蓄えておく場所だった。わたしはあの本棚にある本の名前をすべてそらで言える。
 沈黙。
 わたしは別に構わなかったけれど、彼は気を遣ったのかわたしに喋りかけてきた。
「全部、お前の本か?」
 わたしは即答する。膝の上の本に目を落としながら。
「前から置いてあったものもある」持っていたハードカバーの表紙を彼に見せた。「これは借りたもの。市立図書館から」
 市立図書館、と言ってから思い浮かぶことがあった。もしかすると。
 少しだけ視線を上昇させて彼の顔を見て、やっぱりそうだと思った。なんということだろう、ずっと気づかなかった。
 わたしと彼は学校外で会ったこともあるし会話をしたこともあったのだ。今、思い出した。
 そこは市立図書館だった。おそらく今年の五月だったように思う。
 わたしはその日、初めて市立図書館に足を踏み入れた。そして驚いた。膨大な数の本。一生かかっても読み尽くすことのできない数のそれらがきれいに分類され、本棚に収まっている。しかも、この場所の大量の本は自由に読むことができるのだ。読書が日常生活の一部分となっていたわたしには喜ぶべき発見だった。高くそびえる本棚と本棚にはさまれると世界が歪み、目眩に近い感覚を覚えた。
 ところがいざ本を借りようとしたときになって、わたしは困った。本を借りるには貸し出しカードというものが必要らしいけれど、わたしは持っていない。図書館の人に作ってもらう必要があった。しかし数少ない職員は誰もが忙しそうに動き回っているし、わたしはとても声をかけられそうになく、いたずらにカウンターの前をうろうろするばかりだった。
 どうしようと思っているとそこにひとりの高校生らしき男子が通りかかった。わたしの様子を見ると黙って近づいてきて、何か困っているのかと訊いた。わたしがぼそぼそとカードのつくりかたが解らなくて困っているという意を告げると、彼は困っているわたしに代わって職員に声をかけ、貸し出しカードを作ってくれたのだった。わたしは呆然としていたから、たいしたお礼もせずに立ち去ってしまったように思う。ありがとう。そのくらいは言ったかもしれない。相手の男子高校生は笑いを返してくれた。
 その通りかかった男子生徒というのが彼だったのだ。同じ顔をしていた。
 とはいえ、その時の彼と今の彼は異なる人物かもしれない。今、わたしの目の前にいる彼はこの世界の彼ではなく、別の世界から来た彼なのだから。ちょうど、わたしと『わたし』のように。でも、もし彼とその思い出を共有していたとしたら、彼は図書館のことを覚えているだろうか。わたしは無性に知りたくなった。
 彼がまたわたしに質問した。
「小説、自分で書いたりしないのか?」
 わたしはとりあえず図書館のことを頭から追い出した。そのことは後で考えよう。
 彼の質問の内容が内容だけに動揺しつつも、できるだけ冷静に答えた。
「読むだけ」
 小さな自信のない呟き。 
 書く、とは言えなかった。その内容も含めて、彼に知られるのは気恥ずかしい。あれはわたしの頭の中がそのまま投影された物語なのだ。
 わたしはできることなら、自分の考えていることなど何ひとつとして誰にも知られずに生活したかった。図書館のことを思い出して彼がどう思っているのか知りたくなったことや、ましてやわたしが彼に謎めいた感情を抱いていることも。自分が考えていることは自分の頭の中だけにあればいい。必要があったらわたしの判断で小出しにする。
 事実、そのためにわたしは感動を抑えて、表情をなくし、誰とも関わりを持たず、ひっそりと生きているのだ。空を舞う雪のように、音もなく落ちて、いつかふっと消えてしまいたい。
 けれど、その美しすぎる願望の難しさをわたしは知っていた。
 そう。わたしは一方で、この彼にならいいかもしれない、という感情を抱いていたのだ。そのわけの解らない感情は、わたしが追い出しても追い出してもどこからか沸いてきて、いつまでもわたしの中に居座り続けていた。図書館のことを思い出すとその感情はますます激しさを増した。
 彼は何なんだろう。
 わたしは気取られないように、そっと頭を持ち上げ、彼の背中を見た。男の人の背中。今まではおよそ関心の対象にもならなかったことを、わたしはなぜか意識してしまった。
 じっと観察していると彼は一冊の本を手に取ったようだった。ぱらぱらとページをめくる音がする。わたしがちょっと身体をずらすと彼の腕の隙間から彼が持っている本の表紙がちらっと見えた。『ハイペリオン』だ。二十八世紀の人類を描いたダン・シモンズの長篇SF。彼が持っているのは四巻あるシリーズのうち一巻目だった。
 どうやら彼は真面目に読む気もなさそうで、適当にページをめくっていた。
 ところが、わたしが自分の本に目を戻そうとしたとき、何かが彼の足もとに滑り落ちた。
「何だ?」
 彼はそれを拾い上げた。何なのかここからではよく解らない。でも本にはさんであるくらいだから栞か何かだろう。
 わたしはそう思ったが、しかし、次の瞬間に彼の横顔はこわばっていた。表情が凍り付いている。彼の手が震えているのが解った。
 何だろう。わたしが言葉をかける前に、彼の方から近づいてきた。大股の三歩でわたしのテーブルの前に来る。わたしが彼に向き直ると、彼はそれを差し出してきた。小さな長方形の紙切れ。花のイラストが入った栞のようだった。  
「これを書いたのはお前か?」
 問いただすように訊いてくる。わたしが差し出された栞をのぞき込むと、そこには何やら文字が書かれていた。
『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後』
 明朝体。まるでわたしの字だったが、こんなものを書いた覚えはなかった。わたしは首を傾げた。
「わたしの字に似ている。でも……知らない。書いた覚えがない」
「……そうか。そうだろうな。いや、いいんだ。知ってたらこっちが困ってたところだ。ちょっと気になることがあってな。いーや、こっちの話で……」
 彼は言い訳めいたことをこぼしながら、驚喜の表情になった。心ここにあらず、みたいな感じだ。このメッセージに何か意味があったのだろうか。わたしと同じような字で書かれた文字列。 いったい誰が?  
 考えるまでもなく、すぐに気づいた。
 理由が解った。この文がわたしと同じような字体で、いや、まったく同じ字体で書かれているのも、彼が笑いを堪えきれない様子なのも。
 これは彼の世界の『わたし』からのメッセージなのだ。わたしと同じ字を書くのはわたし以外にいないけれど彼の世界の『わたし』は別だ。わたしと同じ字を書けるとしたら、性質がわたしとまったく同じ彼女だけだった。
 もちろん宛先は彼以外の誰でもない。それは彼の喜びを隠しきれない様子を見れば解る。プログラム。鍵。最終期限。おそらくこの意味不明なメッセージは彼にとっては意味のあるものだったのだろう。
 彼がこんなに喜んでいる様子なのだから。
 わたしにひとつの考えが浮かんだ。
 もしかするとこのメッセージは、彼が彼の世界に帰るためのヒントなのかもしれない。何だか嫌な予感がした。
 彼が彼の世界に帰るとしたら、その時わたしの世界はどうなるのだろう。


 
 彼はそれから本棚の本を片端から出しては戻しながら、何かはさまっているものはないか確認していた。その後ろ姿があまりに真剣なのでわたしは呆気にとられて眺めていた。しかし何分かして振り向いたとき、彼の表情は落胆していたので、たぶん他には何もなかったのだろう。
 ふと、お腹が空いたと何の脈絡もなく思った。
 昼はとっくに過ぎていた。わたしは鞄からコンビニ弁当を取り出してパイプ椅子を長テーブルのところへ持っていった。無言でコンビニ弁当を開けて食べ始めるという女子高生をどう思っているのか、彼はしばらく怪訝な表情で見ていたが、やがて何かを思いだしたように顔を弛めた。何を思い出したのだろう。それから彼は自分の弁当を持ってくるとわたしの向かいに来て、「ここで食べてもいいか?」と訊いた。わたしは小さくうなずいた。
 また何か話しかけられるのではないかと思ったけれど彼は昼食中、特に何も言わなかった。たぶん今のメッセージのことについて考えているのだろう。わたしはコンビニ弁当を食べている間何回か顔を上げて彼を見たが、彼はひとり思案顔だった。
 午後は彼がいる以上パソコンで文章を書くなんてことはできないので窓辺の椅子に座って本を読んで過ごした。しかし実のところわたしはどんな本を読んだのか覚えていない。複雑な設定のSFだった気もするけれど、その設定は何ひとつとして頭に入ってこなかった。
 彼がわたしを見ていたからだ。
 見ていたというより眺めていたというべきかもしれない。彼は最初のうち考え事をしているようで目の焦点はどこにも結んでいなかったが、しばらくすると本を読んでいるわたしを眺めだした。もちろん、彼がわたしという個体を部室の風景の中で特別に意識して眺めていたかと言われればはっきりとした答えは出せない。しかし少なくともわたしは彼の視線を意識してしまったし、事実読書は一時間くらいほとんど進まなかった。わたしは誰かに見られるということに慣れていない。特に、男の人に見られるということについては。
 彼は何だかわたしを困らせて楽しんでいるようにも見えた。彼は笑いこそしなかったものの表情は穏やかだったので、わたしを見て不快な気分になっていることはなさそうだった。わたしは彼の目にどんなふうに映っているのだろう。本に目を落とし続けながら、わたしは彼が頭でどんなことを考えているのか想像した。 


 
 窓から西日が差し始め、傾いた巨大な太陽が校舎に隠れようとする時間になっていた。今日は早く帰るつもりだったのに、彼がいるとわたしから帰るとは言い出せなくてこんな時間になってしまった。もう運動部でさえ学校の門をくぐっている。
 その様子を眺めながらきっかけを得たように彼が言った。 
「今日は帰るよ」
「そう」
 わたしも彼の言葉にきっかけを得て、ろくに読めなかった本を鞄にしまい込んで立ち上がった。本は読めなかったけれど時間を無駄にした感じはしなかった。
 彼が鞄を持って部室から出るのを待っていると声をかけられた。
「なあ長門」
「なに?」
「お前、一人暮らしだっけ」
「……そう」
 彼はわたしの回答を受けてまだ何か続けようとしたが、その唇を閉じた。
 なぜ知っているのだろう、と一旦は思ったけれど答えはすぐに出た。彼の世界の『わたし』も一人暮らしだったに違いない。他に彼がわたしを一人暮らしだと推測する根拠はなかった。
 そういえば宇宙人に親はいないのだろうか。というか、そもそも宇宙人はどうやって生まれてくるのだろう。胎生なのか卵生なのか、あるいはインターフェースというくらいだから機械のように工場で大量生産されているのかもしれない。知ってもどうということはないけれど興味はある。
 彼女はともかくとして、そういえばわたしはなぜ一人暮らしなんだろう、とふと考えたら急に頭痛がした。なぜわたしは一人で生活しているか。何気ない疑問のはずだった。思い出すのに一秒とかからないほど簡単な。しかし……そんな馬鹿な。思い出せない。
 ずきずきという痛み。灼けた鉄をこめかみから頭に突き刺そうとしているようだ。ただの頭痛ではなかった。
 わたしはなぜ一人暮らしなんだ。
 頭は混乱していた。さらに頭痛は勢いを増す。わたしは膝ががくんと折れるのを必死でこらえた。どうしても思い出せない。なぜひとりで生活しているのか。いつからひとりなのか。親はどうしたのか。親? わたしの親はいったいどんな顔をしていたというのだ。それは誰で、今はどこに住んでいる?  なぜわたしのもとから離れていったんだ。
 今まで何も意識していなかったことが突如としてわたしに襲いかかってきた。驚いたことに、こんなことは今まで一度たりとも考えたことがなかったことに気づいた。
 異常だ。
 頭痛が次第に収まっていくと、そう感じた。親のことを考えない人間なんていない。いくら何でも顔ぐらいは覚えている。それなのにわたしは親の顔を覚えていないばかりか、親のことさえ何ひとつとして考えていなかった。今の今まで。特別にトラウマがあるわけでもない。記憶から抹消しようとしていたわけでもない。ただ、何も感じなかったのだ。
 過去という概念はわたしから何の残骸もなく消し去られていた。
 わたしは狂っている。
 途方もない恐怖に駆られた。ありえない。嘘だ。ありとあらゆる否定の言葉が頭に浮かんでは消えていく。きっとまわりに誰もいなかったら頭を抱えて床に転がっていただろう。運が悪ければあまりの気持ち悪さに吐いていたかもしれない。しかし彼が隣にいるということがわたしを正気でいさせてくれた。
 彼が言う。
「猫でも飼ったらどうだ。いいぞ、猫は。いつもしまりのない態度でいるが、時たまこっちの言うことを解ってんじゃないかって気がするんだ。喋る猫だっていても不思議じゃない。リアルにそう思うぜ」
「ペット禁止」
 答えてから、もし猫でもわたしの家にいてくれたらわたしが過去を振り返らないでいられるかもしれない、と思った。
 今日、わたしがこのままひとりで帰ってしまったら家では恐ろしいことが起こる。そんな予感がした。 
 もしひとりでいれば、思考が巡って一人暮らしや親のことを考えてしまうに違いなかった。なぜわたしはひとりなのか。親はどうしたのか。そんな疑問を延々と自分にぶつけながら過ごす夜がリアルに想像できてわたしは深く沈んだ。一晩中頭痛に悩まされるかもしれない。そしてきっと、その答えはいくら考えても出てこないのだ。
 わたしには『過去』がなかった。今、気づいた。
 怖い。 
 抱きしめて欲しい。
 不意にそんな感情が生まれた。今まで一度も感じたことのない新しい感覚。誰かにぎゅっと抱きしめて離さないで欲しい。恐怖を感じながらわたしはそう思っていた。
 狂ったわたしがどんなことになるのか恐ろしかったのだ。
 わたしを痛くなるくらい強く抱きしめて。そして、わたしはわたしという個人で、確かにここにいるのだと言って欲しかった。 
 そうでなかったらわたしはふっと消えてしまいそうだった。
「来る?」
 わたしは彼にそんなことを言っていた。視線は彼のつま先にある。
「どこに?」
「わたしの家」
 彼は少し動揺したような素振りを見せてから訊いた。
「……いいのか?」
「いい」
 わたしから頼みたいくらいだった。一緒にいてくれ、と。できることなら彼に抱きしめて欲しかったけれど、わたしにそんなことを言う勇気はなかった。でも、いい。抱きしめられなくても、わたしが誰かと一緒にいるということは充分すぎるほど大きな意味を持つ。頭痛や悪い記憶なら軽く吹き飛んでしまうに違いないのだ。
 夢の中みたいな会話だった。ほんの数秒の。しかし、その間に彼がわたしの家に来ることが決まっていた。そのことがわたしに安心感を与え、激しい感情を冷ましてくれた。 
 わたしは彼の珍しいものでも見るような視線がくすぐったくて、それから逃げるように歩き出した。部室の電気を消し、扉を開いて薄暗い廊下に出る。冬の夜の廊下は物音ひとつなく凍てついていた。
 ただし、彼が寄り添って歩いてくれるなら、わたしはいくぶん暖かくなるかもしれない。ふとあの物語の文章が浮かんだ。わたしはそれをアレンジしてみる。何だか『私』になったみたいだ。  
 
 
 物質と物質は引きつけ合う。それは正しいこと。わたしが引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ。
 光と闇。わたしたちは出会い、交わった。戸惑いながらも確実に。冷たい身体同士でも交わっていれば、いつか摩擦が熱を生むかもしれなかった。
 仮に許されるなら、わたしはそうするだろう。 
  光と闇は混ざって、そこに希望が生まれた。それは頼ってもいいかもしれないカタチをしていた。希望は無限の可能性を秘めていた。
 希望を叶えたいと願うなら、わたしに奇蹟は降りかかるのだろうか。
 ほんのちっぽけな奇蹟。


 
 学校からの帰り道、彼とわたしの間に会話はなかった。
 話すべきことなど彼にはなかったのかもしれない。それならそれで、わたしも構わなかった。わたしの歩む少し後ろに彼の気配が感じられるならそれだけでいい。
 わたしたちは冷たい風に吹かれながら夜道を歩き続けた。
 マンションにつくとわたしは立ち止まった。彼は特に何も言わなかったのでわたしも振り返らなかった。もしかすると彼はこのマンションにも入ったことがあるのかもしれない。もちろん、彼の世界で。
 わたしは玄関のキーロックに暗証番号を打ち込んで施錠を解除し、ロビーに足を進めた。
  エレベータ内でも会話らしい会話はなく、わたしは七階につくと八号室の前で立ち止まった。ドアに鍵を差し込み、開けて彼を招き入れる。
 ずっと何の疑問も持たずにひとりで暮らしていたわたしの家。その揺るぎない日常が壊れるのを、わたしは歓迎すべきなのだろうか。
 暗いリビングに明かりを灯す。わたしは彼をリビングに残してキッチンに向かった。
「この部屋、見せてもらっていいか?」
 わたしが急須と湯飲みを持ってキッチンから出てくると彼がようやく口を開いた。彼は襖で仕切られた客間を指さしていた。別に見られて困るようなものはない。というか、布団は片づけてあるから畳しかないはずだ。
「どうぞ」 
「ちょっと失礼する」
 彼は襖を開けて部屋の様子を見て、しばらくすると襖を元通りに閉めた。わたしに向かって両手を開いて見せる。何もなかったらしい。
 わたしは意味の解らない彼の行動には特に何も言わず、黙って机に湯飲みをふたつ置くと、座ってお茶をつぎ始めた。彼はわたしの正面に胡座をかいて座る。
 彼にお茶を出してから、わたしも自分でついだお茶を飲む。寒いので暖かさが身に染みた。飲み終えるとさらに二杯目をつぐ。
 わたしが話し出すまでのとりえあずの時間稼ぎだった。誰かにそばにいて欲しかったなんていう理由にしろ、わたしの家に呼んだ以上わたしから何かしら話し出さなければならないことは解っていた。だから彼に話すこともすでに決めてある。
 しかし、そうなるとわたしには複雑な意思を彼に伝えるだけの多くのセンテンスが求められることになるのだ。意思を文章に変換して口に出し、相手に伝える作業。はたしてそんなことができるだろうか。
 わたしはお茶を一口啜ってから彼を見上げた。
 図書館でのことを話すつもりだった。今年の五月、初めて彼と会話したときの出来事。どのように切り出せばいいか解らないけれどずっと黙っているわけにもいかない。わたしは湯飲みを置いて絞り出すような声で言った。彼の顔が上がる。
「わたしはあなたに会ったことがある」
 違う。これでは不足している。
「学校外で」と付け加えた。
「どこで?」
 と彼。
「覚えてる?」
「何を」
「図書館のこと」
 短いセンテンスのやりとり。しかし彼には図書館と言って何か思い出すことがあったらしかった。少しだけ目が見開かれた。
 続けて喋ってみよう。
「今年の五月」
 わたしは目を伏せながら言葉をつぐ。
「あなたがカードを作ってくれた」
「お前――」 
 彼は湯飲みを持ったまま動きを止めている。何か重要な意味を持っているのかもしれない。もし彼が無反応だったらこれ以上は話さないでおこうと決めていたのだけれど、詳しく話してみることにした。
 五月半ば頃わたしは初めて市立図書館に足を踏み入れたこと。本を借りようとしたが貸し出しカードの作り方がよく解らなかったこと。わたしが職員に声をかけられずカウンターの前をうろうろしていたこと。そこで通りすがりの男子高校生がわたしに声をかけ、代わりにカードを作る手続きのすべてを引き受けてくれたこと。
 わたしには多すぎるセンテンス。しかしわたしは頭の情報処理能力を超えて話し続けた。こうしていることが、『過去』のないわたしの不安なり恐怖なりを和らげてくれるかもしれなかった。 
  その男子高校生のおかげでわたしは本を借りることができた。その貸し出しカードは今も持っているし使っている。
 その時に通りかかって助けてくれた男子高校生というのが。
「あなただった」
 わたしは視線を持ち上げ、わずかな間だけ彼と目を合わせてからまたテーブルの上に落とした。わたしの意思で彼と目を合わせたのはこれが初めてだった。
「…………」
 リビングに沈黙が戻る。彼は覚えているかというわたしの問いには答えずに、若干腑に落ちないような表情をして黙り込んでいた。
 わたしの言葉が足りなくて彼とのコミュニケーションの間に誤解が生じたのか、または彼の記憶とわたしの記憶が異なっていたのか。彼は、その通りだ覚えているとは言わなかったのだから何かしら齟齬があったことは確かだった。
 わたしは話すべきことを失って彼が口を開くのを待ったが、彼はなかなか何も言い出さなくて沈黙は続いた。彼は何かを考えている様子だった。気むずかしい思索家のように黙考する顔。彼は部室であってもこの顔をしていた。違う世界に来てしまったのだから確かに考えることは尽きないに決まっているが。
 だとしたら、稀にわたしに見せてくれる頬を弛めた顔は彼の精一杯のサービスなのだろう。わたしはそう思った。知らず知らず脳裏に描いてしまう優しい顔。わたしが彼のサービスの対象となっているだけでも喜ぶべきことだった。
 とはいえ、わたしは彼のその顔を見るたびに、彼はわたしを見ているのか『わたし』を見ているのか解らなくなる。
  
 ぴん、ぽーん――。

 
 いつまで彼は黙っているつもりなのか、わたしがそろそろ気を揉み始めた頃になって沈黙を破ったのはインターホンのベルだった。突然の大きな音にわたしは驚いて玄関を振り向いた。
 こんな時間に、しかも彼と一緒にいるときとは。タイミングが悪すぎる。
 またベルの音がした。
  わたしは仕方なく立ち上がって部屋の壁際に移動した。インターホンのパネルを操作して来訪者の声に耳を傾ける。
 彼女はおでんを作ったから持ってきたという意味のことをわたしに言った。彼がいるためにわたしは何度か断りを入れたが、彼女に帰る気はないようだった。やがてわたしは仕方なく「待ってて」と言い、玄関まで行ってドアの鍵を開けた。彼も興味があったのかわたしについて玄関に来た。
 北高の制服を着た彼女は扉を肩で押しのけるようにして入ってくる。彼女の両手は大きな鍋が塞いでいた。
 彼女はわたしの後ろにいる彼を見るなり驚いた表情をした。それがどういう種類の驚きだったのかはわたしには解らない。ただしその時わたしは、彼と彼女が同じ一年五組だったことを思い出した。
「なぜ、あなたがここにいるの? 不思議ね。長門さんが男の子を連れてくるなんて」 
 後ろの彼を振り返ると、彼もまた驚きの表情をしていた。ただし眉をひそめていたので、あまり歓迎された驚きではないらしいことが解った。
 彼女はつま先を戸口の床に押し当てて器用に靴を脱ぎながら彼に言う。
「まさか、無理やり押しかけたんじゃないでしょうね」
「そんなことねえよ。こっちだって驚きだ。教室以外でお前の顔を見るなんてな」
「わたしはボランティアみたいなものよ。あなたがここにいることのほうが意外だな」
 彼女はそう言って笑った。彼はむすっとした顔をしている。彼らの顔を見比べてわたしは、理由は解らないけれど、このふたりの間の空気は何だか不穏らしいと悟った。彼女は昨日で風邪が治っていて昨日の午後から学校に復帰したらしいから、クラスで何かあったのかもしれない。
 一年五組の委員長。彼女が周囲に悪印象を与えるような人間ではないと思ってはいるが。 
 来訪者は朝倉涼子だった。



「作り過ぎちゃったかしら。ちょっと熱くて重かったわ」
 彼女は微笑んで大きな鍋をテーブルの上に置いた。おでんのにおいが部屋に漂う。彼は鍋の中身を見てから彼女に訊いた。
「お前が作ったのか?」
「そうよ。大量に作ってもそう手間のかからない物は、こうして時々長門さんにも差し入れるの。放っておくと長門さんはろくな食事をしないから」
 わたしはキッチンに皿と箸の用意をしに行ったが、壁をはさんでもふたりの会話は丸聞こえだ。確かに朝昼晩すべてをコンビニ弁当やレトルトや冷凍食品で片づけるのは健康的とは言えないかもしれない。でも仕方ないだろう。わたしは料理を誰にも――そう、親にも教わっていないのだ。 
「それで? あなたがいる理由を教えてくれない? 気になるものね」
 しばらく間が空いてから彼が答えた。そのまま答えるわけにはいかなかったのだろう。内容は事実とは異なっていた。
「あー、ええとだ。長門とは帰り道に一緒になって……。そう、俺はいま文芸部に入ろうかどうか悩んでいる。そいつをちょっと相談しながら歩いてたんだ。そうしているうちにこのマンションの近くまで来たからさ、話の続きもあるしで、上がらせてもらった。無理にじゃないぜ」
 皿の準備はできたけれど、わたしはキッチンにいて耳をそばだてることにした。わたしが入ったら会話が崩れてしまうかもしれない。しばらく彼と彼女のやりとりを聞いていたかった。
「あなたが文芸部? 悪いけど、全然ガラじゃないわね。本なんて読むの? それとも書くほう?」
「これから読むか書くかしようかどうかを悩んでいたんだよ。それだけだ」
 彼らの会話はそこでとぎれた。まさかにらみ合っているわけでもないだろうがぴりぴりした雰囲気がキッチンまで流れてくる。
 やがて彼が立ち上がった気配がした。
「あら、食べてかないの?」
 彼女の声が言う。彼は帰るつもりらしかった。彼女といるのが億劫だったのかもしれない。
 嫌だ。
 ところが、リビングから出てきた彼を見て、わたしにはそんな感情が芽生えた。嫌だ。もっと言えば、彼にはここにいて欲しい。わたしの家に。
 それは明確な意志だった。さっき彼と目を合わせたときのような自信がわたしに満ちてくる。わたしはまだ彼に抱きしめてもらっていないし、まだ不安だ。彼女とふたりだけになったら、いつ何時わたしが消えてしまうとも限らない。
「帰るよ。やっぱ邪魔だろうしな」
 通り過ぎるとき遠慮をするような声の彼に、わたしは思わず力を添えていた。羽毛のようなやんわりとした力。ここにいて、という勇気はなかったから、わたしは彼の制服の袖をそっと指でつまんだ。言葉ではないけれど、それはわたしの意思だった。相手に意思を伝える作業。こんなにうまくいったことはかつて一度もなかった。
 わたしは今にも消えそうな表情をしていただろう。でも、それはそれで構わない気がした。
 彼はわたしのその様子を意外そうな目で見いてたけれど、やがてするとそれは苦笑のような表情に変わった。
「――と思ったが、喰う。うん、腹が減って死にそうだ。今すぐ何か腹に入れないと、家まで保ちそうにないな」
 わたしは指を離した。彼は気を遣ってか、あえて宣言するように言うとリビングに戻った。わたしもその後に続く。
 身体が熱かった。内部が燃え上がっているみたいだ。発火現象とはこうやって起こるものなのかもしれない。
 わたしの顔は、自分でも解るほど紅潮していた。



 夕食。三人で、なんていうのは初めてだった。わたしが幼いときに家族三人のこんな光景はあったのだろうか。違う違う。そんなことを考えてしまう自分を、わたしはどうにかして追い払った。
 三人の間の会話は成り立っていないも同然だったけれど、わたしは別にどうでもよかった。おでんすらもあまり味わっていなかった。味わうというより味が感じられなかったのかもしれない。
 わたしは会話でもおでんでもなく、そこにある雰囲気に浸かっていたのだ。テーブルのまわりにおでんのにおいが振りまかれるように、目に見えないけれど感じる何かにわたしは意識を集中させていた。ともすれば、それはわたしがこの三人の中の一人にカウントされているという当たり前すぎる事実を運んできた。
 一時間くらいそうしていて、ようやく彼女が腰を上げた。
「長門さん、余った分は別の入れ物に移してから冷凍しておいて。鍋は明日取りに来るから、それまでにね」
 彼も彼女に倣って立ち上がる。少し疲れているような表情をしていたけれど、わたしと彼女と一緒に膳を囲んでいれば普通の男子高校生はそうなるかもしれない。
 わたしは彼女たちを送り届けるために玄関まで行った。ドアの隙間から見える外はすっかり暗くなっていた。
 彼女が先に外に出たのを確認してから彼が言った。
「それじゃあな」
 囁くような声。彼女には聞かれたくないのかもしれない。
「明日も部室に行っていいか? 放課後さ、ここんとこ他に行くところがないんだよ」
 まただ。意思を伝える作業。もちろんわたしが彼に伝える意思は決まっていた。
 わたしは彼の目をじっと見つめて、そして表情を作った。
 表情を作る。素直な気持ちをそのまま表情にすること。今まで一度も成功したことがなかった。無理にでも作ろうとすれば、それは顔をしかめたような不格好な表情になり、わたしが伝えようとしていた意思とはまったく異なる意思が相手に伝わってしまう。
  それが、今だけはうまくいった。しかも、わたしにとって難しすぎる難易度の表情。何をやってもうまくいくときはあるものだ。
 こんなことがわたしにもできるなんて、思ってもみなかった。その顔はいったい何年間封印され続けてきたのだろう。
 わたしは薄く、しかしはっきりと微笑んでいた。
 
 
 彼がマンションの前から姿を消したのを見送ってから、わたしは自分の通学鞄を開けた。気分が落ち着いてきたので本を取り出して読もうと思ったのだ。文字に浸っていればわけの解らない恐怖を思い出すこともなさそうだった。
 ところが通学鞄からハードカバーをどけてみると、鞄の底に黒くて薄っぺらな板があることに気づいた。これは何だと思って見てみて、わたしは重大なことを忘れているのを思い出した。
 黒い板。それは『わたし』の言う記憶媒体だった。 
 そうだった。わたしは今日の明け方、『わたし』と約束を交わしていたのだ。夢といえるかどうか解らないような代物の空間で。
 約束の内容。わたしは記憶を探る。
 確か、この宇宙人に関するデータの入った記憶媒体を、北高から南に行ったところの歩道橋の花壇に埋めて欲しいということだった。意図は解らない。期限は今日中。
 何ということだ。  
  わたしは窓から外の様子をうかがった。冬で日が落ちるのが早いから、街にはとっくに夜の帳が降りていた。暗くて、しかも寒そうだった。
 この中出かけていくのは正直気が滅入る。そのうえ、わざわざ今から出かけるほど重要な用事ではない気もした。
 しかしその気持ちを押し殺し、わたしは板をつかんで立ち上がった。仕方がない。約束なら守るべきだ。『わたし』の言うとおりに、わたしの机にはこの板が入っていたのだから。
 マンションから外に出ると冷たい風が一気にわたしに襲いかかってきた。風が生き物になって意思を持っているかのように、ごおっという音と空気を遠くから集めてくる。
 わたしはぶるると身震いした。出がけにマフラーとコートを引っかけてきたものの効果は感じられない。寒さは素肌の上を這うように通り抜けていった。
 街灯の黄色い光と月明かりだけを頼りに夜道を歩く。夜の底は深さを増していた。
 北高に続く道をそれて南へ。わたしはマフラーに首を埋めて黙々と歩く。車さえほとんど通らない。時々遠くのほうで低いエンジン音が聞こえるだけだ。
 夜は不思議だと思う。こうして出歩いているだけのことが奇妙な魅力を持っている。前も後ろもほんの数メートル先は真っ暗だったけれど怖さはなかった。
 ふと空を見上げる。昼には空を気にしたことなんかないけれど、今はそんなことをしたくなるような気分だった。宇宙のどこかにある星や月が、黒い雲に覆い隠されたり雲の隙間から現れたりしている。夜の不思議さは月の引力の影響かもしれない。
  十分ほど行くと『わたし』の言っていた歩道橋が見えてきた。南北に走る一本道の県道をまたぐ歩道橋と、その脇に設置された花壇。暗かったけれどどうにか見つけることができた。わたしはその花壇に歩み寄り、息を吐いて両手を擦り合わせた。じんわりした暖かさが浸みていく。動くようになった手を使ってコートのポケットから黒い板の記憶媒体を取り出した。
 どうやらわたしはこれを『わたし』の世界に送り届ける役割らしい。
 彼女は、この板が彼女の世界に送信されたとき、物質的なショック症状で板の内部データが破損すると言っていた。つまり宇宙人に関するデータは失われるわけだ。普通はデータが壊れた記憶媒体なんていらいないだろうけれど、ところが、彼女の世界では内部データが破損した記憶媒体が欲しいらしい。それが必須条件、とも言っていた。用途は知らないがおかしな話だ。
 わたしは記憶媒体を花壇の土の上に置いた。夜に穴を掘って埋めるのは億劫だったので足を使って土をかぶせることにした。『わたし』もその程度で充分だと言っていた。それはそうだろう。どこの物好きが県道脇の花壇を掘り返して、ゴミにしか見えない板を持ち帰ったりするだろう。もちろんそんなものをわざわざ遠くから持ってきて夜遅くに埋めているわたしも、まわりから見たら相当変人に見えるのかもしれないけれど。
 土を蹴って記憶媒体にかぶせ、完全に見えなくなったところでわたしは靴についた土を払って花壇から出た。もう九時を回っているだろう。でも今日中には違いない。
 行きと同じ道をたどってマンションに帰ってから、わたしは708号室に戻るとキッチンに向かった。まだやることが残っている。一人暮らしは大変なのだ。ちょっと出かけている間に誰かがおでんの残りを片づけてくれたりはしない。
 わたしは朝倉涼子からもらったおでんの残りを、彼女に言われたように適当な入れ物に移してから冷蔵庫に入れた。おでんが入っていた鍋は彼女がいつ取りに来てもいいように洗って乾かしておく。どうせなら鍋なんか今日持って帰ってくれればよかったのに。面倒事が増えてしまう。
 リビングに戻ってから、本を読もうかと少し考えてから思い直し、わたしはお風呂に入ることにした。外に長くいたため身体が冷え切っていた。
 十分暖まったあと、お風呂から出るとわたしは本を手に布団に潜り込んだ。 
 わたしはこの瞬間を愛していた。お風呂から出てきてぽかぽかしたままの身体で布団に入り、静寂に包まれながら本を読む。時期も、ちょうど冬のこんなときがいい。
 ほのかな幸せを思いながら文字の海に溺れる。部屋は静かだった。
 一人暮らしだと喧噪というものは無縁な存在になる。家の中にそんなものは存在しない。あるとしたらマンションの前を通る人々の声だけだが、それも夜の間はありえなかった。
 洗った鍋から水滴がぽたぽた落ちる音だけがこだましていた。そのことが今日は少し寂しいような気もして、この静かな暮らしは誰によってもたらされたんだろうと考えたところで、違う違うと思った。そんなことを考えているから日常に歪みが生じるのだ。
 わたしはハードカバーに意識を集中させようとした。
 でも、できない。目は文字を追っても、ちっとも内容が頭に入ってこない。知らない単語の多すぎる英文を読まされているみたいだ。
 わたしは本を閉じた。目をつむり、寝ようとした。
 寝られないことはなかった。目をつむっていると意識と無意識の境目が次第に薄れてきて、いつの間にか眠ってしまう。けれど今日違っていたのは、意識が落ちるときにいつものような安息がなくて、代わりに胸騒ぎがしたということだった。心臓がどくどくしながらも、わたしは眠ってしまった。



 黒い海。静寂と闇の空間。
 目を覚ましたとき、目の前にはそれが広がっていた。
 わたしは黒い海を流されていた。縦になり、横になり、ねじれて、伸びたり縮んだりしながら。黒がうねりをあげる様子を見てわたしは、ああまたここかと思った。もう三度目だ。嫌でも慣れてしまう。 
 わたしは鉛のように重たい首をもたげて、どこかにいるはずの彼女を探そうとした。夢でない限り彼女はいる。わたしとまったく同じ姿をした『わたし』。
「わたし」
 その声は暗闇のもっと深いところから聞こえてきた。抑揚のない無機質な声。わたしがそちらに目を向けると、『わたし』の輪郭が作られているところだった。ぼんやりとした影。やがて形がはっきりすると姿が立体化し、さらには色がつく。
 彼女は昨日と同じ工程を踏んでわたしと同じ姿になった。彼の世界の『わたし』。鏡を見ているような感覚も昨日と同じだった。
――約束は守った。
 わたしは喋ろうと思ったけれど、そこで声が出ないことに気づいた。
 そういえば昨日もこの空間では声が出なかった。でも不思議なことに彼女にはわたしの言おうとしたことが伝わるのだ。
「そう」
 やはり彼女は解ったように小さくうなずく。
 彼女がそれっきり黙っているのを見てわたしが口を動かした。
――わたしから質問してもいい?
「記憶媒体のこと?」
――違う。この世界のこと。
 彼女は息をのんだようだった。わたしにしか解らない程度に。でも確かに、彼女はいつもより数ミリリットルほど多く空気を取り入れた。 
「どうぞ」
 彼女はわたしをうながした。瞳からはすでに動揺のかけらが消えていた。わたしはその様子を見て口を開く。
――今日、部室で彼が何かのメッセージを見つけた。『ハイペリオン』にはさまっていた栞。わたしと同じ字体で書かれていた。あなたには覚えがある?
「そう。……わたしがした」
 そんなことだろうと思っていた。
――違う世界なのに?
「わたしにはその力がある。それに、あなたの世界はわたしに従属しているから仕様の変更は容易」
 そうだった。彼女は情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースだったのだ。わたしの世界が『わたし』に従属しているというのも昨日聞いた。わたしにとって彼女は絶対的な権力なのだ。
 わたしは質問を続ける。
――あのメッセージには何の意味があった。鍵。プログラム。最終期限。
「……あなたには言えない。わたしとあなたの関係上と立場上。そしてあなたにそのことを伝えると世界に矛盾が生じる可能性があるから。でも――」
 『わたし』は言葉を切った。彼女は何と言っていいか解らなくて困ったような表情を浮かべていた。
「わたしは、あなたには申し訳ないと思っている」
――申し訳ない? 
 彼女の返答はなかった。何がどう申し訳ないのか、いつ申し訳なくなるのか。いくら訊いたところで彼女の答えは変わらない気がした。
 彼女がそう言ったきり黙っているので、わたしは質問を変えた。
――あなたは彼を愛している?
 唐突な内容だった。でも彼女の表情に変化は認められなかった。
「愛する。それは……なに?」
 愛する。それは、なに?
 その意味を頭で理解したとき、わたしは彼女の返答に言葉を失った。
 彼女は困惑しているらしかった。眉が少しだけひそめられ、口許がゆがんでいる。未知のものに遭遇したときの表情だ。
 そうか、もしかすると宇宙人に愛するという概念はないのかもしれない。互いの性質を併せ持つ子孫を残すことにしても、宇宙人には遺伝子の配列交換と種族の繁栄ということぐらいしか頭にないのかもしれない。別にそのことをかわいそうだとは思わないけれど、あったらあったで宇宙人たちはどんな暮らしをするのだろうとは思った。
 愛とは何か。愛するとは何か。陳腐で浅はかな質問。けれどそのことをうまく説明できる自信がなかった。わたしは自分の語彙から頭にありとあらゆる単語を思い浮かべ、慎重に言葉を選んで口にした。
――あなたにすべての自由が与えられたとき、誰と一緒にいたいか。一緒にいたい相手がいるのだったら、あなたはその人のことを愛しているといってもいいのかもしれない。わたしが訊いているのは、彼がその対象になっているかどうかということ。わかる?
「わかる」
 彼女は難しい理論を考えているような顔をして天を仰いだ。蒼白な横顔。わたしもつられて見上げるが、そこにあったのはうねっているコールタールのような黒だけだった。
 やがて彼女は視線の先をわたしに戻すと言った。
「仮に許されるのなら、そうするのかもしれない」
 無機質な声。
 しかし、その意味を持った言葉の衝撃がわたしの頭を叩いた。
 彼女の答えが、あの物語の一文と酷似していたからだった。
 仮に許されるなら、私はそうするだろう。
 なぜ、彼女が。そう思うと同時に、不吉な予感がわたしの頭をかすめた。わたしと『わたし』。ほぼ同一の存在。宇宙人の『わたし』と支配されるわたし。
 それはわたしが唯一信じることができたものさえも揺るがしかねない最悪の予想だった。
「もし」
 どのくらい経っただろう。わたしが暗い推理を続けていると彼女が言った。迷った末、口にしたような感じだった。
「もし、プログラムが起動すれば、あなたの世界はわたしの世界に上書きされる。消えてなくなってしまう」
――なに?
 彼女はわたしの疑問に答えずに言葉をついだ。
「確かに、あなたはわたしの影の存在だったかもしれない。あなたの存在はすべてがわたしに頼ってできあがっているものなのかもしれない。肉体も精神も、学問的には」
 わたしは黙り込む。影の存在。わたしが、『わたし』の。言っている意味が解らなかったけれど訊きはしなかった。どうせ答えてくれないに決まっている。
「でも、わたしはあなたが……うらやましい。わたしはあなたに対して、うらやましい、という思いを抱いている。これだけは言いたかった。わたしはあなたのようになりたい。しかし……そんなわけにはいかない。どうしても。なぜなら――」
 彼女の棒読みのような口調に、わたしが続く言葉を言った。
――あなたには最初から、その機能が与えられていなかった。
 彼女は少しだけ驚いたような顔になってから、しかし語調を乱れさせることなく言った。
「わたしとあなたが同じ一個体だったらよかった」
――わたしもそう思う。
 なぜそう答えたかは解らない。ただ、もしわたしという存在がひとりだけの絶対的なものだったら、今ほどつらい思いをすることはなかっただろうと思っただけだった。この追いつめられたような孤独感と恐怖感。
 でもわたしは無力すぎて、『わたし』には最初からその機能が与えられていなかった。
 最初から一緒ならよかったのに。『わたし』とその影のわたし。
 自然な感情だった。
 しかし、その思いは、胸に渦巻く暗い予感までをも肯定することと同意だった。

 


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