公園で古泉と長門に別れを告げた俺だが
何となく立ち去りがたいものを感じたのでもう一度戻ってみた
てくてく歩く長門になら追いつけるかもしれないと思ったからだ
長門にさようならなんて言われてしまっては帰るにも帰れない

何かもう一言かけたいというのか、もう一度顔が見たいというのか
とにかく心に切ないものを感じていたので長門のマンションに急いだ
マンションまでの短い距離を急いだが、長門に追いつくことはできなかった
もう部屋に入ってしまったのか?
まさか家にまで押し掛けるわけにもいかない
しょうがないから帰ろうかと思った時に、俺の胸に危険信号が鳴った

急いでさっきの公園に戻り、近くに自転車を止めてから足音を忍ばせて接近した
いた!
長門と古泉はまださっきの場所に座っていた
古泉がしきりに長門に何かを話しかけ、長門は短く応えている
距離が遠くてよく分からなかったけど、常夜灯の小さな明かりの下で
長門の白い歯が見えた、ような気がした

おいこら古泉
てめえドサクサに紛れて何やってるんだよ
思わず殴りこもうかと思ったけどそんな事ができるはずがない
もう少し近づこうと、俺はそろそろと移動した
その時突然、後ろから肩を叩かれた

ヤバい!警察か?
公園の植木の影に隠れて横移動している俺の姿は
紛れもなくのぞきかストーカーのものだった
しかも目標地点には爽やかな高校生カップルが
俺は1リットルぐらいの冷や汗をかきながらおそるおそる振り向いた
すでに頭の中には明日の新聞の見出しが踊っている

「コラっ!おイタしちゃダメでしょう」

あれ?この声には聞き覚えがあるぞ?
振り向いた俺の目に飛び込んできたのは
ミス銀河系と謳われてから幾久しい
栗色の長い髪を垂らした絶世の美人だった
朝比奈さん…
もちろん(大)の方の朝比奈さんだ

「いいからこっちに来て」

突然現れた朝比奈さんは、俺を公園の外に連れ出した

「ちょっと歩きましょうね、キョンくん」

だんだん明るくなる早朝の街を、2人で肩を並べて歩いた

「それはそうと、大活躍でしたね」

いえ、俺が何の役に立ったのか、最後まで分からずじまいでしたよ

「あなたが涼宮さんの側にいること、最後まで離れなかったこと
 それがあなたの大活躍だったんです」

はあ…でもけっこう離れてた時間も多かったですけど

「大丈夫ですよ。必要な時にいてくれたから」

ありがとうございます
でも朝比奈さんも大活躍だったとか

「あれが大活躍だったのかしらね
 でも最後の時間跳躍には本当に驚きました
 いくら涼宮さんの力とはいえ、まさか7億年前に行っちゃうだなんて
 人類最長の時間移動です
 あの時の記録は私のいる現代でもまだ破られていません
 あなたは7億年前の世界なんて想像がつく?」

7億年前と言うと…恐竜時代ぐらいでしょうか?

「ふふっ、それはもっと最近の話
 私が行った世界はね、まだ生命は海中にしかいなくて、そして氷河期だったわ
 とても寒かったし、一緒に行った藤原くんは気絶しちゃうし
 もしかしたら帰れないんじゃないかって思ったのよ」

そこでちょっと質問があるんですけど
以前にあなたは4年前の次元断層よりも過去には遡行できないって言ってませんでしたか?
それに、あの異世界から出発したのになぜ地球の7億年前に行けたのですか?

「あっ!そうね、そうよね?
 いやだわたしったら、どうしてそんな事に気がつかなかったのかしら?
 やっぱりそれも涼宮さんの力なんだと思うわ
 涼宮さんは別の世界の7億年前なんか知らないから
 たぶん手近な所で地球の7億年前に連れてってくれたと思うのよ」

やっぱり朝比奈さんはこの年になっても朝比奈さんか
あの状況をしっかり楽しんできたのか
それともただ能天気なだけなのか
しかしハルヒの超絶パワーにも呆れたもんだ
あいつが本気で世界を変えようとしたらいったいどんな風になるのだろうか

「そのすぐ後に、『早く帰って来なさい』って声が聞こえて 
 気がついたら元の場所に戻ってたのよ
 いったいどんな仕組みなんだろうなぁー
 涼宮さんの頭の中って」

そう言って口元を押さえて笑う朝比奈さんはとても美しい
長い髪からはシャンプーの香りが鼻を優しくくすぐってくる
未来のシャンプー製造職人はなかなかのセンスを持っている人らしい
ちょっとだけ顔を近づけて、その甘い香りを楽しもうとした

「キョンくん、あなたのおかげで未来は正常な姿に戻りました
 ちょっと時間差になると思うけど、改めてお礼の手紙が届くはずです
 あなたは自分の意志で涼宮さんを選びました
 私たちのような、周りからの干渉でこうなってしまったのかもしれないけど
 私はあなたの気持を尊重します
 仕方がないからそうしちゃいましたなんて、思ってはいないよね?」

もちろんですよ朝比奈さん
俺は何の後悔もしていません

「だったらもう他の人の人生に干渉しちゃダメ
 世の中の全ての人があなただけを見てるわけじゃないのよ
 それは長門さんだって同じ
 あなたは長門さんの正体を知っていて、彼女の性格も分かっているから
 自分のせいなんじゃないかって、自分を責めているかもしれない
 だけどそれはね、長門さんにとっては迷惑以上の何物でもないの
 あなたは優しいから、みんなにそう思うのはとてもいい事だけど
 そうやって長門さんに干渉すればするほど、彼女の心に傷を残すのよ
 それは分かる?」

うっ
そうなんでしょうか

「あなたが基本的に間違っているのは
 長門さんが人間じゃないって勝手に思い込んでいる事です
 長門さんは宇宙人製のアンドロイドだから、それは自分だけしか知らない秘密だから
 長門さんには普通の恋愛はできないかもしれないから
 だから自分が守ってあげなきゃとか
 それはあなたが勝手にそう思い込んでいるだけの事です」

朝比奈さんは本気で怒っているようだった
ゆっくり歩きながら、前方は見ずに俺をじっと見ていた

「もしもあなたが涼宮さんと付き合いながら、長門さんともうまくやろうなんて
 まさかそんな事は考えてないと思うけど、おそらく今のあなたの頭の中には
 涼宮さんと長門さんの顔が交互に浮かんでいるはず
 だからあなたは自分の心の隙間を埋めるために
 長門さんとのつながりを残そうとしている
 じゃあ長門さんの気持ちはどうなるの?」

朝比奈さんの声が大きくなった
新聞配達らしき自転車に乗った青年がこっちを見ている
それに気付いた朝比奈さんはすぐに声を潜めた

「長門さんもたぶんあなたの事が大好きなはずです
 でも彼女は自分の事は良く分かっている
 涼宮さんの監視目的のためだけに作られた人造人間が
 目的を忘れて恋愛にうつつを抜かすだなんて
 そんな事は絶対にできない
 だから長門さんは必死で我慢していたはず
 あなたはその事をよく知ってるでしょう?

 長門さんが暴走して世界を作り変えてしまったのはなぜ?
 涼宮さんの監視に飽きたから?
 それならただ単に涼宮さんの能力を消去するだけでよかったはずでしょう?
 もしくは涼宮さん自体を消してしまえばいい
 なのに彼女はなぜあんな複雑な世界を構築してしまったの?
 学校まで代えさせて古泉くんまで放り出して
 私は赤の他人になってしまって他に誰も知り合いがいなくて

 そんな複雑な世界にしてしまったせいで結局あなたに気付かれてしまい
 彼女の目的は達成できなかった
 もちろん彼女自身が本気でそれを求めていなかったからなのかもしれないし
 あなたに頼るほどに迷っていたのかもしれない
 だけど考えてみて
 ただ涼宮さんの監視に疲れただけだからと本気で思ってるの?」

長門……
長門…
まさかお前……
そこまでして
俺と?

「情報統合思念体が長門さんを処分しようとしたのはなぜ?
 その時にあなたは彼女に何て言ったの?
 作り変えた世界で、長門さんはあなたに何て言ったの?
 ここまで言われないと分からないの?キョンくん」

俺はガックリとひざをついた
まさか…長門が俺の事を想ってくれていたなんて?
ああ
その時に俺が気付いていれば
いや、俺は気付いていた
なのになぜ行動できなかったんだろう?
ハルヒの事を考えたから?
SOS団の事を考えたから?
それとも?

「あなたは長門さんに対して、1つだけとても失礼な事を考えている
 私はそんなあなたを絶対に許せない
 あなたは気付いていないかもしれないけど
 あなたは長門さんを
 人間じゃないと頭から決めつけている
 そういうのをこの世界では何て言うの?」

朝比奈さん
ごめんなさい
俺は…
俺は大変な事をしていました
長門を苦しめていたのは全て俺の責任です

俺は長門を
差別していました
あいつは人間じゃないと差別していました

少なくともハルヒの方がまだ人間だからと
もしかしたらそう思っていたのかもしれません
それは間違いでした
たった今気がつきました
本当にごめんなさい

「その言葉は長門さんに言ってあげて
 あのねキョンくん
 彼女はあなたが思ってるほど、弱い人間じゃないのよ
 自分に与えられた条件の中で、それでも必死で生きていこうとしている
 自分がどんな存在であっても、受け入れてくれる人がいるかもしれない
 それがキョンくんだったらどんなによかったでしょうね
 でもキョンくんは自分に言い訳ばかりして
 自分で勝手に長門さんのためだとか思い込んで1人でいい気分に浸ってるし
 女の子ってそんな簡単なものじゃないのよ
 バカにしないでほしいわ

 私だってもちろんそうよ
 ドジでおっちょこちょいだけど
 自分自身と未来を守るために必死で戦ってるつもりです
 涼宮さんだってそうでしょう?
 十年前の夜中に、たった数十分出会っただけのジョン・スミスを探して
 彼の声と雰囲気だけを手掛かりにして十年間ずっと探し回っていた
 あなたにそんな事ができる?
 これは禁則だから言えないけど
 あなたがこんなに優柔不断じゃなかったら
 私たちの任務はどんなに楽になっていた事か」

すいません朝比奈さん
俺は泣き出していた
1人でカッコつけていた自分に腹も立っていた
俺は長門が好きだった
寡黙でおとなしくて本が大好きで小さくて
そしていざという時にはものすごいパワーで俺を守ってくれる
そんな長門に俺は優しい言葉などかけたことがあっただろうか

いや言葉なんかじゃない
お前は人間なんだよって
一言声をかけるだけでよかったんじゃないのか?
そしたら長門もあんな変な暴走を起こして
ややこしい世界を作らずに済んだのかもしれない
長門が世界を作り変えてしまったのは
人間として俺に接してほしかったからなのか?
たったそれだけの事を俺に気付いてほしいためだったのか?

「ごめんね、ひどい言い方をして
 でも私もあなたと同じだったかもしれない
 この時代の長門さんはちょっと近寄りがたくて、ずっと避けていたから
 あっこれは禁則ね」

ってことは朝比奈さん
長門は朝比奈さんの時代にもまだいるんですか?

「それも禁則事項です
 では元の場所に戻りましょうかキョンくん」

俺は朝比奈さんに手を引かれて公園に戻った
まだ泣いている俺の背中を、朝比奈さんは何度もさすってくれた

「長門さんみたいな透明フィールドが使えれば便利なのにね
 あっこれは言わない方がよかったかな?」

公園ではまだ長門と古泉が話し込んでいた
古泉は身振り手振りを交えて長門に話しかけ、長門はそれに応えている
遠すぎて何を言っているのかは分からなかったけど
こう見えても長門評論家歴1年を超える俺だ
微妙な体の動きで感情が分かる
長門は明らかに笑っていた
古泉のつまらないジョークに反応して肩を震わせていた

「あれを見てどう思いますか?」

はい
もう俺の出番はないです

「古泉くんは長門さんをどんな風に思ってるのかな?」

あいつの事もちゃんと分かってます
古泉は、長門がアンドロイドだからって差別するような人間じゃないです
いや、あいつはロボットにだって本気で惚れられる正直な男です

「ね、分かったでしょう?時間は確実に次の流れに向かってるの
 だからこれ以上あなたが介入すべきではない
 時間の流れってそんなものなのよキョンくん
 わたしたちが頑張ってるような大きな時間変動で狂ってしまった歴史
 修正しないと未来が大変な事になってしまうようなものもあれば
 多少のブレは寛容される部分もあるの

 何もかもを完全に歴史の教科書通りにしようとして私たちが介入したら
 歴史は複雑に切り刻まれて大変な事にあります
 それこそ時間軸全体がバラバラになってしまう
 時の流れってそんなものよ
 細かく管理されているように見えても、中には大らかな部分もあるの
 そこをちゃんと見極めるのが、我々の腕の見せ所ってわけです

 それと、これも禁則事項なんだけど
 長門さんと古泉くんがこのままお付き合いする可能性は今のところまだ低いです
 もしかしたら、またあなたの出番が回ってくるかもしれない」

そんな事言ってしまっていいんですか?

「禁則だからあまり言えないけど
 まだまだ長門さんを巡ってはチャンスがあります
 だってそうしておかないと
 長門さんをお嫁にもらいたがってる人たちの未来がなくなっちゃうでしょ?」

えっ?
朝比奈さん?
そこんとこをもう少し詳しく

「長門さんは誰かだけのお嫁ではないの
 みんなのお嫁さんになれるわ
 彼女は時間にも空間にも、何に対しても制限を受けない存在よ
 その気になったら自分をいくつもコピーする事だってできるんだから
 それを配って歩いたら、世界中の長門は俺の嫁問題は解決ね
 むしろ彼女なら喜んでそうするかも」

朝比奈さんはそう言って無邪気に笑った
この人は…やっぱりすごい人だ
藤原が言った言葉をまた思い出した
あの、藤原に聞きましたけど、あなたは歴史に名を残す人だって

「それはまだ禁則にすらなっていない言葉なの
 私も彼の言葉はまだ覚えてるけど、残念ながらそれはもっと未来のようです
 ちょっと楽しみにしてるんだけどね」

そんな話をしているうちに長門が立ち上がった
古泉が肩でも抱いて一緒に帰るのかと思っていたが、そこでそのまま別れた
立ち去る古泉の後ろ姿に向かって、長門はずっと手を振っていた

もちろん長門は俺たちがここでのぞいている事ぐらい百も承知のはず
しかし何も言わずに、チラリと俺たちが隠れている繁みを一瞥してから
ゆらゆらと歩いて帰っていった

「さあキョンくん、そろそろ時間です
 実は今日はイレギュラーで来ちゃったから予定の行動じゃないの」

俺を叱るためだけに来たんですか?

「そうよ。だから次の任務に行かないと。服も着替えないといけないし
 いろいろ言ってごめんなさいね、悪気はないから」

いえいえ朝比奈さん
叱ってくれてありがとうございます
これで明日から、長門にちゃんと話せると思いますから

「私に言われたことは内緒よ」

もちろんです

「じゃあ行くね、キョンくん
 改めて手紙が届くと思うけど、ちょっと私は混乱してるので注意して下さい」

そう言うと朝比奈さんは俺の目の前であっさりと消え去った
すっかり朝になってしまった街の中で、俺はすっきりした気持ちでいた
明日長門にきちんと謝ろう
そして元気よく『頑張れ』って言ってやろう
SOS団は団員全員がハッピーエンドにならなくては
それがハルヒの格言だからな

頑張れよ長門!
長門有希!


足音を忍ばせて自分の部屋に戻った時はすでに朝だった
今から寝たら起きられないのが目に見えている
仕方がないので椅子に座ってマンガを読んでいると
すぐに妹が起こしに来た

「あっ!キョンくんがもう起きてるー!お母さーん!大変大変!
 キョンくんの頭がおかしくなったぁーっ!」

おかしいのはお前の発育状態だぞ妹よ
そろそろ第2次性徴が始まってもおかしくない年頃だろ

顔を洗って歯を磨いて朝飯を食い、途中で妹と別れて通学した
北高への長い坂道を登り、ようやく学校についた
ハルヒがもう来ていて、頬杖をついて窓の外を眺めていた
鶴屋邸で過ごした一夜の事もあるし、ちょっと声をかけづらい雰囲気ではあったが、無視するのも心苦しいところだ

よっ、ハルヒ

「…おはよう」

おいハルヒ
気持ち悪いぞ
お前がそんな常識的な人間の挨拶をするなんてな

「……」

また道に落ちてるバッタの死骸でも食ったのか?

「うるさい!」

いくら一線を越えてしまった関係とはいえ、朝っぱらからダークモード全開のハルヒにガソリンをぶっかけるほど俺は好戦的な種族ではない
黙って自分の席につき、やがて間違いなく訪れるであろう、強烈な睡魔と闘う術を模索していた
土日にあれだけ眠ったにも関わらず、昨日は徹夜だった俺に天使の攻撃が襲いかかるのは簡単に予想できた
果たして予感は的中し、1限の途中から脳内に羽毛布団が侵入してきた
朝比奈さんの母性を思わせるような柔らかな感触が、俺の睡眠中枢を優しく刺激する
その時背中に強烈な痛みを感じた
おいハルヒ、シャーペンでつつくのはいいけど、今のは貫通してたぞ明らかに

「……」

午前の授業はずっとそんな調子だった
睡魔に負けて船を漕ぎそうになると背中をハルヒに刺され
何度か頭をボカリと殴られた
教室中に失笑が湧き起こり、教師はサジを投げた悲しい視線で俺を見ていた
もちろん何一つとして頭に入るはずがない
何とか耐えて昼休みになった
いつものようにアホの谷口と能天気な国木田が弁当を持って来る

「よおキョン、ずいぶん眠そうだったな。徹夜で2ちゃんねるでもやってたのか?」

このアホを黙らせる適確な言葉を探していると、突然2人が凍りついた
国木田はポカンと口を開き、谷口は干しブドウと間違えてゴキブリを口に入れてしまったような顔をしている

「たたた谷口、きょきょきょ、今日は2人でご飯食べようか」

「あ、ああそうだな、ひ、久しぶりに屋上にでも行ってみるかな?」

何だこの2人は?
ハルヒのアホがついにお前らにも伝染してしまったのか?

「これからもずっと仲良くしていこうね谷口」

「や、やあ、それは、とてもいいことだなぁー」

逃げるように教室を出ていくアホ2人
そして教室中の視線が俺の後ろの机に向けられている
俺は特定の金曜日の夜中にいきなりアイスホッケーの面をつけた怪人に襲われたような気分になり、恐々後ろを振り返った
そこにはハルヒが朝と同じ仏頂面で座っていた
いつもは休み時間になると超特急で人様に迷惑をかける材料を仕入れに行くこの女が、座ったまま人差し指でトントンと机を叩いていた
そして机の上に乗った物体を見た瞬間、俺は世界の終焉を予感した

ピンク色のハンカチで包まれたプラスチックの容器
世間一般では弁当箱と呼称される物体だ
男子のほとんどが質実剛健アルマイトの弁当箱を持っているが、女子の多くはこういうファンシーな入れ物を使う
そして俺を恐怖のどん底に突き落とす原因は、全く同じものが2つあった事だ
つまり俺にも食えという事か

「朝ちょっと早く目が覚めちゃったのよ。あんまりヒマだったから」

春うららかな穏やかな今日この頃なのに、教室の気温は氷点下を記録している
今ごろ地球のどこかに記録的な低温で農作物に致命的なダメージを被っている地域があるかもしれない
世界中の農業従事者の皆さん本当にごめんなさい
その原因を作ってしまったのはこの俺です

「いらないのなら持って帰ってシャミセンのエサにでもすればいいわ」

いやいやハルヒさん
いただきます
つつしんで拝食させていただきます
ハルヒの料理の腕前はすでに承知のとおりだ
まさか毒を盛るって事もないだろう
2段重ねの弁当箱の上の段には、タコのウインナーと卵焼き、海老フライにマカロニサラダ、そして下の段には白いご飯が詰められており、ちょっと歪んでいるがふりかけで大きく『K』と書いてあった

嫌な予感がしてハルヒの弁当を見ると
全く同じ内容でご飯には『H』と書いてある
ハルヒは耳たぶまで真っ赤に染めながら

「味は保証しないからね」

と叫んでガツガツ食べ始めた
釣られて俺も箸を取り、おずおずと食べる
後ろを向いた俺の背中に、教室中の好奇な視線の槍が突き刺さる
ついつい先日の長門と周防の戦闘シーンを思い出す
そして朝倉の最後の笑顔もだ
背中を槍で貫かれるってのはこんな気分になるものなのか
痛かったろうな…長門、朝倉…

真っ赤な顔をしたハルヒは3分もかけずに完食し、釣られた俺も急いで平らげた
予想通りなかなかの味だったのだが、残念ながらゆっくり味わう余裕すらない
俺は母親が作ってくれた弁当をどうしようかと悩みながら弁当箱に蓋をした

「気まぐれだからいつまで続くか分からないけど
 しばらくお弁当はいらないからって、お母さんにそう言っといてよね」

はいはいハルヒさん
どうもありがとうよ
お言葉に甘えさせてもらうけど、あんまり無理するんじゃないぞ

耳まで真っ赤に染めたハルヒはなかなかかわいい風情だった
大急ぎで弁当箱をしまってカバンにしまう
そしてダンと音を立てて立ち上がり、疾風のように飛び出して行った
おいハルヒ、俺を1人にするな
この凍りついてる教室に、せめてキアリクでもかけてから行ってくれ

結局その日が終わるまで、俺に口を利いてくれる生徒は1人もいなかった
と言うよりほとんど寝てたので、何の授業だったのかも覚えていない
俺を起こす役のハルヒも午後はずっと眠っていたようだ

気がつくと6限のチャイムが鳴っていた
すでに教師すらいない
しびれクラゲにも劣らない、ハルヒの強烈なマヒ攻撃からやっと解放された生徒たちは
それ以上の被害を被る前にそそくさと逃げ出し始めている
自分のカバンをむんずと掴んだハルヒは俺に向かって

「今日は部活休むから!」

と言って立ち上がった
部活と言うものはな、学校及び生徒会から正式に認可された最低5人以上の団体で、それなりの予算を割り当てられて学校生活をより良くするために存在する組織なんですよと言いたいのだが

「みんなによろしく言っといて。それと後で電話ちょうだいね、以上」

やっぱり何も聞いてないねあんたは
おいハルヒ

「何よ!」

弁当ありがとう、うまかったぞ

「ぅぐっ…」

世界選手権クラスの競歩選手も真っ青な速度でハルヒは出て行ってしまった
アホの谷口に絡まれる前に俺も教室を飛び出した
俺にもちょいと急ぎの用事がある
本当は昼休みのうちに済ませたかったのだが、ハルヒのマヒ攻撃の影響を俺も受けてしまい、教室を出ることができなかったので、ハルヒが部活を休んでくれたのは好都合でもある

渡り廊下を歩き、ギシギシきしむ部室棟の階段を上がり、俺は文芸部のドアをノックした

「……」

いつもと同じ無言の応答がようやく俺に世界平和を感じさせてくれる
しかし今日は少し緊張もしていた

「……」

長門が送ってくれる心地よい無視
こいつを美術部のデッサンのモデルに選べばどれだけ楽な事だろう
なんせ『動くな』と言うよりも『動け』と言われる事を苦手にするような女だから、絵を描く者は心ゆくまでこの読書姿を楽しむことができるはず

よお長門、体の具合はもういいのか?

「…その質問には今から14時間36分22秒前に答えたはず」

そうか
またお前に会えてよかったよ

「……」

なあ長門

「…なに」

ちょっと話したい事があるんだけど、本読みながらでいいから聞いてくれないか
もし聞きたくなかったら耳のスイッチ切っといてくれてもいいから
…いや、すまん。最後のセリフは忘れてくれ

「……どうぞ」

そうか、俺がこういう言い方ばかりするから長門を苦しめていたのか
やっぱり朝比奈さん(大)の言うとおりだったな。改めないと

あのな長門、もう知ってると思うけど
俺、ハルヒと付き合う事になった

「……」

それで、その・・・いろいろ考えたんだけど
俺は本当にハルヒの事が好きなのかなって
目をつぶって考えてみたんだ
誰の顔が一番多く浮かんでくるかなって

「……」

もちろんハルヒの顔がたくさん浮かんできたけど、それと同じくらい長門の顔が出てきたんだ

「……」

実は朝比奈さんの顔もかなりの頻度で出現しているのだが、そんな無駄口を叩いてしまうとまた数百年後から怒鳴り込みに来られるのが目に見えているのでそれは言わない

俺はハルヒの事が好きなのか、それとも長門が好きなのかなって
でもこういう結果になったんだし、何も後悔はしていないつもりだ
ハルヒもたぶん、俺の事を好いてくれてると思う
ごめんな、俺、何言ってるのかさっぱり分からんだろう?

「構わない…続けて…」

俺はもしかしたら長門の事が好きだったのかもしれない
もし、違う状況で出会ってたら、俺は本気で長門を好きになっていたと思う
こんな事を言うべきじゃないと思うんだけど、本当にごめん

「…別にいい…あなたはそうすべきだった
 涼宮ハルヒもずっとそれを望んできた
 情報統合御思念体も、古泉一樹の組織もその点では意見は一致している
 そしてあなたは私と交際すると後で必ず後悔する事になる
 なぜなら私は…」

いいか長門、最後まで聞いてくれ
俺が言いたいのはそんな事じゃなくて、お前にももっと自分の世界を拡げてほしいって言うか、もっともっと人生を楽しんでほしいんだよ
俺はお前の事はかなりよく理解しているつもりだ
なんせ生きるか死ぬかの経験を共にした仲だからな
お前もいろいろ悩んで、つらい思いをしたと思う
だけど長門、お前はもっと人生を楽しめる人間だ
いろいろ制限がある存在だってのは分かるけど、そんなの気にしちゃいけない

俺はハルヒと真面目に付き合う、これは決して軽い気持ちじゃないつもりだ
だからこそ長門、お前もたっぷり人生を楽しんでほしいんだ
そのためなら俺は絶対お前を応援するぞ
お前が高校生活をもっと楽しめるために、俺は何でもするつもりだ
ハルヒだって同じ気持ちだと思う
あいつなら絶対こう言うよ

「SOS団員は必ず全員がハッピーエンドを迎える事!」ってな

長門、お前にはそれができるはずだ
なぜならお前も俺たちと同じ、ただ普通の人間だからだ

「………」

お前の親玉の事とかお前の任務とか、そんなのは俺たちにはどうでもいい事だ
今ここにいるお前はごく普通の高校生だ
高校生なら普通に恋愛なんかもしてもいいはずだ
お前の親玉もそう思ってるはずだよ絶対に
親なら自分の子供が楽しく暮らしているのを見て、それを喜ばないはずがないだろう?

「…私たちの間には、あなたが考えているような血縁関係は存在しない」

それは違うぞ長門、と言いかけて俺は何かに気がついた
長門の表情が変わっていた
何かがおかしい
長門がその小さな肩を震わせている
開いた本に目を落としてはいるが、その視線は文字を追ってはいなかった

「…ありがとう…あなたの気持は十分伝わった」

長門、これ以上は余計な事かもしれないけど、お前って結構人気あるんだぞ
隠れファンクラブとかもあるらしいしな
谷口いわく、お前のランクはAだ(マイナーは敢えて省略する)
これはちょっと禁則に触れるんだけど、お前を嫁にしたがっている男は相当いるらしいぞ

「それは…本当?」

ああ本当だとも
お前の情報処理能力でも気付かない事もあるんだな
ああこれも言ってはいけない事だ

なあ長門

「なに?」

俺の今までの行動とか発言で、お前が人間じゃないからってバカにするような事をしていたら、それに対しては心から謝りたい
もしも俺がお前を苦しめていた事があったら、本当にすまないと思う
だけどこれからは、お前はごく普通の女子なんだって思うようにするから
今までの事は許してほしい

「……」

ごめんな長門

「いい…そのような状況に該当する言動をあなたはしていない
 あなたは私をいつも大事に思っていてくれた、それは今も同じ
 でもありがとう、私は……嬉しい」

そうか、長門
これからも仲良くしような

長門の顔が秒速1cmほどの速さでゆるゆると持ち上がり、かくんと落ちた

「もう少し聞きたい事がある」

何だ長門?何でも聞いてくれ

「私をお嫁にもらいたがっている人の事」

長門?やっぱり興味があるのか?

「……少しだけ」

詳しい事は未来の朝比奈さんに聞かないと分からないんだ
禁則事項なんだけど、ぽろっと漏らしてくれた
それより未来の自分に同期してみた方が…あっこれも禁則か

「あなたの禁則事項がまた増えた」

長門はそう言ってかすかに頬を染めた
俺の長門観察日記に新しいページが加わった
長門…ついにお前は……
笑ったな

「…それも禁則」

俺の心の中の重い物がいっぺんに消えていった
昨日と言うか今日の早朝、朝比奈さん(大)に問い詰められて初めて気付いた事だったが、長門はそれを笑って受け入れてくれた
これでよかったですか?未来の朝比奈さん
あとは長門の好きなようにさせればいいんですよね
俺はハルヒと2人で優しく見守ってやりますよ
もちろん悪い虫がついたらハルヒが容赦しませんから

新しく芽生えた感情に戸惑う長門の横顔を眺めながら、俺は少し眠ろうと思った
今日はハルヒも来ないし、わずかな平和を楽しまないと
そう思っているとカチャリと扉が開いた

「やあどうも。昨日は遅くまですみませんでした」

古泉はいつもの笑顔で俺に笑いかけ、次いで長門にも笑顔を向けた

「……こんにちは」

「こんにちは長門さん。おや?涼宮さんは?」

学校には来てたけど部活は休むって言ってもう帰った

「そうですか、涼宮さんもきっとお疲れなんでしょう
 我々と違って、彼女にとっては全てが初体験の世界でしたからね
 あちらのチームSOSと対決してあらためて考えたのですが
 我々ももっと早い段階で涼宮さんに全てを告げておくべきだったのかもしれませんね。
 今ごろになってそう考えます」

おい古泉
どっちが後始末が大変なのか分かっての発言なんだろうな
俺やお前はそれでいいかもしれないけど朝比奈さんはどうするんだ?
ハルヒが思いつきで適当にいじった過去を修正しに飛び回る苦労を考えたら
俺には決していい方法だとは思えん

「冗談ですよ。ところで妙な噂を耳にしたのですが」

またかいお前
せっかく世界がつかの間の平和に戻ったのに
さては緑色の火星人が素っ裸で攻めてきたとか?

「いえいえ、もう少し小さい話題です
 実は今日の昼休みの事ですがね、とあるクラスでとある男子生徒が
 後ろに座っている、真っ赤な顔をした女子生徒と向かい合わせで
 彼女の手作り弁当を楽しそうに食べていたと」

ぐっ
もうそんな噂が流れてるのか

「はいそれはもう
 学校中を矢のような速度で駆け巡りましたよ
 まさに今世紀最大のニュースです
 今ごろ男子生徒の半数がホームセンターで五寸釘を買い集めているでしょうね
 それに国内の藁の供給が追い付くかどうか、はなはだ不安でもあります
 かくいう僕も、帰りにホームセンターに寄らないと
 一応知り合いを当たってはみますが、この時期に藁など手に入りますかどうか」

ふん
好きに言ってくれ
あの…まさかとは思うけど
長門も知ってるのか?

「……知っている。学校中が動揺している
 面白がっている者が教師も含めて239名、驚いてるのは345名、悲しんでいるのは…」

分かった長門、もうやめてくれ
はあ…
やれやれ

クソ古泉はいまいましい笑顔を振りまきながら長門と目配せをしている
長門は古泉に優しい目を向け、頬をほんのりピンクに染めた

ダメだこりゃ
俺の居場所がない
もう帰ろうかな俺

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最終更新:2009年09月16日 18:13