第一章


 
 冷え切った坂道を登る。歩く度に吐く息は白い煙となって冷たい冬の外気へと消えた。
 寒さをしのぐためカーディガンに首をうずめる。わたしの通う高校である北高は、この山の頂上にあった。
 結局、朝の奇妙な感覚は次に起きたときにはなくなっていた。少し残念だったけれど、あの物語の続きはあの感覚がなくてもきっと書ける。そんな予感がした。たぶん、あの感覚はその文章の鉱脈を見つけるためだけの役割だったのだろう。それを、たとえカオスであってもちゃんとした形にするのはわたし自身の仕事なのだ。
 坂の上の北高に目を戻した。
 朝のことを考えると頭が疼くような気がする。しばらく考えるのはやめようと思った。
 気を紛らわすために誰かと話すのも今日に限っては悪くはなかったけれど、あいにく横で歩いているはずの朝倉涼子はいなかった。
 今日はわたしと同じような生徒がちらほらと目につく。つまり、ひとりで歩いている生徒だ。一週間ほど前から学校内で風邪が流行り始めていたが、今週になって欠席者が一気に増えたらしい。マスクをしている姿も見受けられる。
 朝倉涼子もまた風邪引いていて、数日前から学校を休んでいた。わたしは不謹慎なことにそれが嬉しくもあったが、今は少し残念だった。
 わたしは人と話をするのが得意ではない。また、好きでもない。
 話すことで相手を気まずくさせてしまうのが嫌だったし、そのせいで自分も気まずくなるのが嫌だった。できればお互い何の遠慮もいらず黙りこくってしまうのが一番いいことのように思われたが、お互い遠慮しないで黙るということの難しさをわたしは知っていた。まともな人間ならふたりして黙っていればよけいに気まずくなってしまう。その時点で両者の間には遠慮というものが生まれているのだ。とても残念だ。慣れてしまえば沈黙ほど穏やかで秩序あるものはないのに。
 わたしにはまだ、沈黙を共有できる仲間がひとりとしていなかった。
 朝倉涼子――彼女はわたしと沈黙こそできないものの、話していても気まずくならない数少ない人間だった。だからこそ、住んでいるマンションが同じという理由があったとしても、毎日一緒に登校しているのだ。
 しかしながら、そうはいっても見た目の事実を裏返してしまうと彼女をその中にカウントしていいものなのかもあやふやになる。
 なにしろ彼女は、自分から話しかけてきてはわたしの蚊の鳴くような声の返答を待ち、また自分の意見をべらべらと喋るような女子なのだ。あれではほとんどひとりで喋っているのと変わらない。わたしは専ら聞き役だけれど、それでもまだ聞き役といえるならましなほうだ。下手をするとわたしは彼女の独り言の聞き役になってしまう。もちろん独り言に聞き役なんかはいらないから、そうなったらわたしは不要な存在になってしまうのだ。
 しかし彼女でさえ、今日は横にいて欲しかった。どんな話題でもいいから喋っていて欲しかった。朝の感覚を紛らわせるには誰のどんな話題でもいい。もちろんあの奇妙な感覚を共有してくれとは間違っても言わない。
 何となく、あの感覚は早く霧散させた方がいい気がしたのだ。いつもと違うのはどんな些細なことでも気になる。朝起きるのがいつもより少し早かったとか、いつも冷凍食品の朝食がコンビニ弁当だったとか、もちろん、いつも隣を歩いているはずの女子生徒がいなかったとか。いかに小さな違いでも、その違いが大量に集まれば、そこには恐ろしささえ見え隠れするのだ。
 朝倉涼子が今日はいない。
 小さな日常が崩壊する音が聞こえた気がした。
 
 
 やがて学校に着くとわたしは、靴箱を通って廊下を過ぎ、教室に入った。一年六組の教室だ。わたしは席に座ると後ろを振り返った。
 教室の後ろに掲示されているカレンダーは十二月のものになっていた。二十四と二十五がクリスマスイブとクリスマスで、カレンダーの挿絵の部分にはサンタとトナカイが描かれている何の面白みもないカレンダー。この国の国民は十二月というとクリスマスしか頭にないのだろうか。カレンダーの絵はクリスマス一色だし、街のどこへ行ってもクリスマスソングが流れている。店頭にはケーキが並び、クリスマスの夜には大量の人々がメリークリスマスと聖夜を祝って大騒ぎするだろう。キリスト教信者でもないというのに。わたしの過ごすクリスマスは他の高校生のクリスマスとは違って、いつも静かだった。
 北高でもあと一週間も経てば冬休みになる。つまり、クリスマスの前に冬休みがやってくることになる。そんなことまでが、学校側の生徒のクリスマスを思いやった取り計らいだとは思わないけれど、何だかあまりいい気分ではない。
 そういえば今日は何日だっただろう。わたしはカレンダーに目をやった。曜日からすぐに見つかった。十二月十八日。それが今日の日付だ。
 冬休みという単語が六組の生徒の気分を浮き立たせているようだった。わたしは前を向いて六組の様子を眺めた。しかしその六組も今週に入ってからは勢いがないようだ。
 風邪の影響だった。六組は日に日に空席が目立つようになっている。インフルエンザではないがこの冬の風邪はタチが悪い。なんならクリスマスも風邪多数で延期になればいいのに。
 そういえば、風邪は隣の五組が特にひどいらしい。朝倉涼子も五組の生徒だった。
「…………?」
 そんなことを考えながら机の中を探っていた手が突然、奇妙なものにぶつかった。何だろう。固い板のようなものだ。取り出すと、それが黒い色をしていることがわかった。黒くて薄っぺらな板。重量はそんなにないが、固い感触がした。
 こんなものを机に入れた覚えはない。見た覚えもないし、これが何なのかも解らない。誰かが間違ってわたしの机に入れてしまったのだろうか。
 どうしようかな、そう思ったときだった。
 突如として猛烈な頭痛がわたしを襲った。その時は声をあげないようにするのが精一杯だった。
 金属バットで殴られたような激しい痛み。そして耳鳴り。脳味噌をかき混ぜられたような吐き気。それらが一気にやってきてわたしをぶちのめした。それが来るからといって心の準備をする時間の余裕はまったくなかった。
 目眩のように教室の風景がごっちゃになってぐるぐると回っている。前の黒板と後ろの黒板が溶けて一緒になり、教室中の机が一点に吸い寄せられた。わたしもまたそこへ吸い寄せられていく。ブラックホールみたいだ。
 今まで体験したこともない激しい感覚だった。頭がパンクしそうだ。わたしは思わず耳を押さえ、頭を抱えて机らしきものにしがみついていた。こうでもしていなければ身体ごとどこかへ吹っ飛ばされそうだった。
 目の前が暗転した。光が消えた。
 どこかへ流されている感じがする。波間に漂っているのか、あるいは海の中を漂っているのか。わたしはゆらゆら浮いたり沈んだりしていた。
 音は消え、目が映しているのは黒一色の風景だ。その空間をわたしは彷徨っている。わたしの身体は縦になり、横になり、ぐにゃりとひん曲がり、細長く伸びて、また縮んで、まるで変幻自在なアメーバのようにありとあらゆる形になった。すべての感覚は消え失せ、においも感触も解らなかった。しかもその間も、わたしはどこかへと黒一色の海の中を流され続けているのだ。
 どのくらい経っただろう。永遠の時間が経過したようにも感じるし、実はほんの一瞬の出来事だったようにも感じる。
 わたしは机の上に上半身を投げ出した状態で目を覚ました。二、三人の女子が近寄ってきていた。
「……長門さん、大丈夫?」
 そのうちのひとりの問いかけに、わたしは聞こえないような声で、
「だいじょうぶ」
 とだけ答えた。彼女たちはひどく驚いた表情を顔に張り付かせて、口もとを手で押さえている。それはそうだろう。いつもわたしは絶対に机に伏せるようなことはないのだから。寝ているくらいなら本を読んでいる方がいい。それがわたしだ。
 彼女たちはわたしがそれ以上何も言う気配がないと解ると、さっと教室の片隅へ戻っていった。
 何だったんだろう、今のは。
 もう吐き気はしない。もちろん目眩もない。ただ少しだけ、頭がくらくらして重いような気がする。立ち上がればたぶん、ふらふらして倒れてしまうだろう。高熱を出しているときみたいだ。もちろん今のわたしに熱はなかったけれど。
 ふと思い出してさっきの黒い板を探すと、それはわたしの足許に落ちていた。何だかひどく不気味だ。これを手に取ったら急に目眩がしたのだ。それが原因ではないのかもしれなかったけれど、何だか手に取る気がしなくて、わたしは足許に黒い板が落ちていることに気づかないふりをした。
 目眩だったんだろう。
 わたしはそう決めつけた。そんなことがあっても別におかしくはない。しかしそれは、おかしくないという程度の言い訳にとどまっているだけで、まったく現実味を帯びていない答えだった。目眩とは根本的に異なっている。脳味噌をかき混ぜられたような感覚。頭が重くて疲労感がある。大量の情報を一気に流し込まれたように。
 本を読もう。心を落ち着けたい。
 はっきりしないもやもやが残る頭でわたしは鞄の中から一冊のハードカバーを取り出した。二段組みの本でよかった。満足がいくまで文字の海に溺れることができる。
 海外SFの本だった。わたしは分厚い表紙を開いて、目を文字の上に這わせた。
 地球に原因不明な異常現象が次々と現れる、という内容だった。世界の終わりというパターンはSFとしては珍しくない。ストーリーも実に陳腐なものだ。しかし退屈はしない。ストーリーが陳腐だとしても、それは似たような世界が多めにあるだけだからだ。
 海上で燃え上がる船。木がなぎ倒されるような大風。何週間も降り続く雨。相次ぐ謎の巨大地震……。二十何世紀かの地球に、突如としてそんな奇怪な現象が続いた。
 世界中の人々はその謎の現象に底なしの恐怖を覚え、事態が早く収まることを祈った。世界中の学者は原因の解明にありとあらゆる手段を尽くした。国家の政治と経済は混乱し、世界各地で火事泥棒のような犯罪が相次ぎ、降り続く雨や大地震で大量の生物が死んだ。 
 最後の審判。
 人々は終わりの見えない恐怖の日々を、ゾロアスター教などの最後の審判になぞらえてそう名付けた。それは、審判はいつか必ず終わるという人々のあまりにも消極的な希望を託した名前だった。悪が滅びればすべては静まるのが最後の審判だ。メディアが宗教で信仰されている最後の審判の内容を真面目に報道しているくらいだから、もはや神頼みとしかいいようがない。 
 でもその気持ちは何となく解る気がした。原因は解明されず人口は減り続ける。そんな状況の中で人々が頼れるのはもはや宗教的信仰だけだったのだろう。
 しかし非情にもその異常現象は終わることなく続いた。全人類は絶望した。誰もが暗い未来予測を胸に抱いていた。
 つまり、人類は滅びるということを……。
 といったところで、六組の担任教師が入ってきて朝のホームルームが始まってしまった。先を読みたかったけれど、我慢して本を閉じ、机にしまった。ふと視線を落とすと足許にはまだあの黒い板が落っこちている。しかし拾いはしなかった。清掃のときに誰かが片づけてくれればいい。一日中足許にこんなものが転がっているのは少し不愉快だけれど、まあ仕方がない。わたしはこの板のことを気にするのをやめにした。
 ホームルーム中、わたしはずっと今読んだハードカバーのことを考えていた。原因不明の超常現象とやがて訪れるはずの人類の滅亡。突然、日常から非日常へと変化した世界。いったい誰がそれをもたらしたのだろう。
 日常の事象が非日常のものに変わるとき、そこには必ず何かしらの力が及ぼされている。原因のない変化はありえない。
 ハードカバーの中にそんな一文があった。超常現象の原因を解明しようとする学者たちの場面だった。
 そんな大きな区切りでなくてもいい。わたしはそう思った。
 日常のちょっとしたことが、ある日少し変わっていたとしても、そこには必ず理由があるのだ。自然的な力か人為的な力か、どちらにしろ日常的ではない力が働いていたから結果が変わり、日常ではなくなるのだ。
 このハードカバーの物語の世界も、所詮はつくりものに過ぎなくても、その確固たる法則に影響されている。必ず何かしらの理由があるのだが、しかし今わたしが読んでいる段階では、まだそれが解明されていないだけなのだ。
 ではいったい誰がそんなことをしたのか。あるいは何がそんな異常現象をもたらしたのか。わたしは再度その質問を自分に投げかけた。
 実はわたしには、その答えが見えていた。
 見えていた、というのは正確ではない。そこはかとなく、こうではないか、これはありえると感じる可能性がわたしの中に存在していたのだ。
 それは今日の朝、わたしが意味不明の文章を連ねていたときの感覚に似ていた。最初からあったけれど気づかなかったものに初めて気づいたとき、わたしはハッとする。新たな鉱脈を見つけたというささやかな喜びを見いだす。
 もはや妄想に近い答えだった。けれど別に異常なことだとは思わないし、恐ろしいとも思わない。それはもともとわたしの中にあった物語なのだ。
 そう、わたしにはあのハードカバーの世界を非日常に変えてしまった犯人が解っていた。しかも賭けてもいいけれど、その犯人の名前はわたしが今まで聞いたこともないような名前だったのだ。それは唐突にわたしの中にあった。
 ホームルーム中ハードカバーの中の世界について考えていると、その名前は自然と現れたのだ。それこそ、わたしが生まれる前からずっと存在していた逆らいがたい定義のように。彼らは荘厳な響きをもってそこにいた。
 その犯人の名前。言葉というべきか。犯人は宇宙人なのだ。 
 情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。
 彼が、あるいは彼女が、それをした。
 

 
 しかし今日は本当におかしい。どうかしてしまっている。
 わたしは廊下を歩きながら頭の中でまたその呟きを繰り返した。  
 朝、早起きして散歩に出て、パソコンで奇妙な感覚を文章にして、登校した学校で強烈な目眩を感じて机に伏せ、しまいにはまだ結末を読んでいないハードカバーの犯人当てまでしてしまう始末だ。それも、その犯人名にしたってまったく聞いたことのない単語の羅列なのだ。
 ぼんやりと眺めている世界が霞んでひどく遠くのものに見える。いつもと変わらない世界のはずなのに、今日は傍観者になった気分だ。
 もしかすると、これは非日常の息吹なのだろうか。考えているうちにそんな結論に至った。
 日常のちょっとしたことが、ある日少し変わっていた。朝、起きたときの感覚。滅多にない目眩。聞いたこともないような単語の羅列。これらはわたしにすればすべてがイレギュラーな、非日常のことと言っても過言ではない。
 だとしたら、わたしのこの非日常も何かしらの力が及んでつくられたものなのだろうか。
 そう思ったところでわたしは見飽きた木製の扉の前に到着した。扉の上のプレートには文芸部と書かれている。
 わたしはとりあえず、その自問に対する回答を先送りにした。
 ここは特別教室の活動場所を持たないクラブや同好会の部室が集まっている部室棟だ。通称は旧館。わたしはこの部屋のただひとりの住人で、ただひとりの文芸部員だった。
 今は昼休みだ。
 わたしは昼休みになると大抵、部室へと向かう。昼食を食べるついでに少し文章を書き進めておきたいからだ。
 ドアノブを回して扉を開ける。パイプ椅子に腰を降ろし、長テーブルに置かれたパソコンの電源をつける。何度となく繰り返してきたことだ。この部室だけはいつもと同じ空気を纏っていた。  
  ひとりだけれど、そのことを寂しいと思ったことはなかった。少なくとも文章を書き、物語の形にする作業をこなすだけなら、むしろひとりだけの方が都合がいい。本を読むにしてもまわりに誰かがいたら緊張してしまう。
 文章を書くのに人の目を気にすることほど非合理なことはない、とわたしは思っている。あるいはあるとしたら、知らず知らず人の目を気にしてしまうわたしの心だ。ただしその心をコントロールすることはわたしにはどうしても不可能だと解っているから、条件の方を変化させる。だからわたしは本を読むときここに来るようにしているし、文章を書くにしてもひとりになれるこの場所がいいのだ。
 わたしは購買で買ってきたパンを食べながら、先日書き終えたSFを丁寧に推敲した。間違った表現を直し、状況が手に取るように伝わる表現に変える。ところどころに非日常的表現をちりばめた。そしてあの法則に従って、日常を非日常に変化させうる自然的なり人為的なりの要因を描写する。同じようで何かが違う世界。読んでいると「あれっ?」と疑問を持つ物語。それが、わたしの書いたSFだった。小気味のいい沈黙に抱かれながらわたしはしばらくパソコンを見つめていた。
 パンを食べ終えて推敲に一旦区切りがついたところで、ふと朝のあの物語の続きを書いてみようかという気になった。気まぐれな気分だ。
 それを書くための気力ならば充分にあった。白い画面を凝視していれば文章は自然と浮かんでくるに違いない。問題は書くか書かないかなのだ。わたしにしたら、あの文章の続きを書くことには自制をきかせたかった。これ以上日常をねじ曲げたくない。
 しかし迷った末、わたしは書くことにした。
 というよりも、気がついたら手が勝手に動いていたのだ。気がついたら、パソコンのまっさらな新しい画面に文字が連なっていた。仕方がないからわたしは続きを書き始めた。
 ピアニストが手を滑るように動かしてピアノを弾きこなすように、わたしの手も芸術的にキーボードの上を踊っては相変わらずわけの解らない文章を紡いでいく。文体は朝のままだ。何しろこの物語を書くために必要な奇妙な感覚は、いつでも取り出せる引き出しの中に大切にしまってある。書こうと思ったら取り出せばいいのだから簡単だ。わたしの手はかつてないほどの軽快なリズムを刻み、次々と物語を生み出していった。


 
 その時まで、私は一人ではなかった。多くの私がいる。集合の中に私もいた。
 氷のように共にいた仲間たちは、そのうち水のように広がり、ついには蒸気のように拡散した。
 その蒸気の一粒子が私だった。
 私はどこにでも行くことが出来た。様々な場所に行き、様々なものを見た。しかし私は学ばない。見るだけの行為、それが私に許された機能だ。
 長い間、私はそうしていた。時間は無意味。偽りの世界ではすべての現象は意味を持たない。
 しかし、やがて私は意味を見つけた。存在の証明。


 
 ここまで書いたとき、わたしの胸は深い感慨によって満たされていた。
 この『私』というのは、きっと幽霊のような目に見えない存在なんだろうとようやく気づいた。あるいは宇宙人だ。機械のようなアンドロイドかもしれない。少なくとも人間ではない。
 学ばない。見ることだけが許された行為。
 学ばない、または学べない。だとしたらどちらにしろ、ひどく無機的な存在なのだろう。
 ちょうど、そう、あれだ。情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースのような。
 しかし口にすると癖になる言葉だ。対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。いったいこれはわたしのどこから生まれてきたのだろう。しかもこの単語は不思議なことにこの物語の雰囲気にとても似合っている。
 いけない。余計なことに気を取られていてはだめだ。わたしは意識を集中させ、わたしが綴った文章に目を戻した。
 長い間、私はそうしていた。時間は無意味。偽りの世界ではすべての現象は意味を持たない。
 しかし、やがて私は意味を見つけた。存在の証明。
 さて、この『私』の言う意味とは何なんだろう。時間も現象も無意味の偽りの世界で『私』が見つけだした意味。そしてそれこそが、その世界における『私』の存在の証明になっているらしかった。
 存在の証明。聞いたことのある言葉だ。わたしの場合、それは文章を書くことだった。わたしはここにいるという叫び。それが誰かに伝わったとき、わたしの存在は証明されたことになるのだ。だから、というほどわたしは厚かましくないけれど、わたしは文章を書いているのかもしれない。



 物質と物質は引きつけ合う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ。
 光と闇と矛盾と常識。私は出会い、それぞれと交わった。私にその機能はないが、そうしてもよいかもしれないことだった。
  仮に許されるなら、私はそうするだろう。
 待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。
  ほんのちっぽけな奇蹟。

 


 さらに書き進めた。たった数行。
 でも、ここまで書くと『私』の存在の証明が何だったのか解るようになった。少なくともわたしには理解できた。この一人称の文章はひどく無機的だけれど、それは『私』が人間ではなくて、人間にはあるはずの機能と概念を持っていなかったからなのだろう。
 何のことはない、『私』は恋をしているのだ。
 もちろんその恋は人間同士の甘い恋ではない。個人を個人と認識して、『私』と相手が交わるという程度の無機的で原始的な恋だ。人間同士だったら友達との付き合いに相当するだろう。
 ただし、それが『私』には存在の証明になり得たのだ。自分は他の粒子――氷のようにいて、水のように広がり、蒸気のように拡散した仲間の粒子――とは違うということを証明するだけならば。そのためには、『私』という個人の存在を認めてくれる誰かが必要だったのだ。それは人間にも言えることだ。人間にしたって自分の存在を証明できるのはお互いが依存し合っているからに過ぎない。
 しかし、どうやら『私』にはそのことが解らなかったらしい。もしかすると解っていたのかもしれないけれど、言葉という手段を用いて他の誰かに説明することはできなかったのだ。だから、『私』の恋に関する部分の描写はとても曖昧で独特な表現になっている。
 物質と物質は引きつけ合う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ。
 引力の理論を使って恋を説いている。なかなかおもしろい。
 しかし、ということは『私』はこの時点で幽霊ではなくなっていたわけだ。物質と物質、とあるから片方は『私』で間違いない。つまりこの時『私』は物質としてカタチある何かになっていたのだ。ここにおいてもはや『私』は無機ではない。有機になっていた。
 さらに『私』は驚いたことに最後の部分で希望までも見いだそうとしている。しかもそれはとても積極的な希望だ。ただ待つだけという存在である『私』に奇蹟が降りかかることを願っている。人間にはある機能を持たない『私』にとって、存在の証明以上の何か――わたしはそれを感情だと思っているが――をつかむために望みをかけられるのは、奇蹟しかありえない。
 奇蹟。常識では考えられないような不思議な出来事。
 もしかすると『私』は人間に限りなく近い存在なのかもしれない、と思った。あるいは特定の機能だけが損失した人間なのかもしれない。まわりにありふれた人間と同化すること。人間でさえ自分の存在証明なんかできていないのに、それを越えて感情らしきものを手に入れようというなら、それは相当人間に近い存在でなければ不可能だろう。そもそも人間以外の動物は感情なしでも生きているのだから、感情は不必要といえば不必要な代物なのだ。『私』が感情を欲しがるのだとしたら、その目的は人間と交わるということをおいて他にない。
 待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。
 ほんのちっぽけな奇蹟。



 わたしは満足して文章を保存し、パソコンの電源を切った。本当にわたしが書いている文章だとは信じられなかった。最初からどこかにあった文章を写しているだけのように思われた。
 しかし、これは間違いなくわたしの物語なのだ。わたしのどこかにこんな物語が埋もれていた。今日になるまで気づかなかったけれど。
 わたしは本棚から適当な本を選びだしてパイプ椅子に座り直した。昼休みが終わるまではここで本を読んでいよう。わたしは眼鏡を押さえて本に目を落とした。


 ――その時だった。 
 
 何の前触れもない。予感も予兆も皆無だった。向こう側から知らせてくることもない。ノックすらなかった。
 わたし以外誰も開けないはずの部室の扉が、勢いよく開けられたのだ。
 バン、という効果音がした。それは今日、危うかった日常がいよいよもって崩壊した音だった。もしかすると銃で撃たれたんじゃないかと疑った。
「…………!」
 違った。
 そして見た。
 ドアに手をかけた人影。焦りと不安と驚きをごっちゃにしたような表情で口を開け、わたしを凝視している男子生徒を。



「いてくれたか……」
 彼は安堵の息とも溜息ともつかぬものを吐き出しながら後ろ手に扉を閉めた。わたしは状況が飲み込めない。今彼が言った言葉の意味も、理由も、そしてなぜ彼がここにいるのかも。わたしはただ驚くことしかできなかった。おそらく顔には驚きを隠しきれずに表情が出てしまっているのだろう。感情を抑え込み、表情を変えないようにして、ひっそりとひとりで生きられるよう今日まで努力してきたのに。わたしのその努力はあまりにも唐突で意外な来客によってもろくも打ち砕かれた。
 茫然。そんな言葉が似合う。男子生徒にいきなり部室に飛び込まれた状況で、わたしはどう反応すればいいだろうか。
「長門」
 彼はわたしの名前を呼びながら、ゆっくりとテーブルに近寄ってきた。彼は何とも言えない、苦しそうな表情をしている。額に汗が滲んでいた。
「なに?」
 わたしはどうしようもなかったけれど、しかしわたしの名前が呼ばれたからにはと思って一応返答した。
「教えてくれ。お前は俺を知っているか?」
 そう言われてわたしは下がり気味な目線をできるだけ上げて、彼の顔を見た。目が合わないように気をつけ、眼鏡のツルを押さえながら。
 見覚えのある顔だった。   
「知っている」
 再び視線を下げる。それだけ言うのが精一杯だった。彼はとたんに明るい表情になった。何なんだろう、彼は。
「実は俺もお前のことなら多少なりとも知っているんだ。言わせてもらっていいか?」
「…………」
「お前は人間ではなく、宇宙人に造られた生体アンドロイドだ。魔法みたいな力をいくらでも使ってくれた。ホームラン専用バットとか、カマドウマ空間への侵入とか……」
 何なんだ。わたしは予想外すぎる状況に目と口を開いて彼の言葉を聞くしかなかった。もちろんホームラン専用バットやカマドウマ空間なんて単語に聞き覚えはない。
 しかも宇宙人ときた。アンドロイド。あれだ。対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。奇妙な偶然の一致。
 どうやら日常と非日常の小さな違いは、修正のきかないところまで広まってしまったらしい。普段はありえないわたし以外の誰かが部室に入ってきたのだ。しかも彼はまるで狂言みたいなことを言っている。もはや日常とは言えないだろう。わたしは彼と目を合わせてしまわないよう気をつけながら、そんなどうでもいいことを思った。
「……それが俺の知っているお前だ。違ったか?」
「ごめんなさい」
 声が震えていた。男子生徒と話すのは滅多にないことだけれど、もう意を決するしかないようだった。
「わたしは知らない。あなたが五組の生徒であるのは知っている。時折見かけたから。でもそれ以上のことをわたしは知らない。わたしはここでは、初めてあなたと会話する」
 多量のセンテンスだった。相手にこちらの意図が伝わるように話すのは、わたしにとってあまりにも難しい。
 そしてまた、そう断言することがわたしに何かを求めているらしい彼を落胆させてしまうのは、何だか彼が気の毒だった。
「……てことは、お前は宇宙人じゃないのか。涼宮ハルヒという名前に何でもいい、覚えはないか?」
「宇宙人」
 わたしは彼の意図が解らなくなって面食らい、思わず彼の言葉を反芻し、次にどうつなげようか少し迷った。しかしわたしが伝えるべきことは事実でしかない。彼はわたしの妄想を聞きたがっているわけでも何でもない。だからわたしは事実を答えることにした。
「ない」と言った。
「待ってくれ」
 彼は混乱した様子で頭をかきむしった。わたしのあまりにも短い一言が、彼には大きすぎるダメージを与えてしまったらしかった。
「そんなはずはないんだ」
  彼はテーブルを迂回してわたしの側に歩み寄ってきた。
 わたしはどうしていいか解らなくなって、震える指で本を閉じた。分厚いハードカバー。わたしは尋常でない様子の彼が近寄ってくるのを見て、反射的に椅子から立ち上がると一歩退いた。彼が何を考えているのか解らないし、わたしに何を求めているのかも解らない。わたしが宇宙人ならばよかったのだろうか。
 彼はわたしの肩に手を置いた。わたしの小さな肩は彼の手ですっぽりと覆い隠されてしまう。がっしりした大きな手だ。強い力がこもっていた。
 ふと目を上げると、彼と目が合ってしまった。彼は寂しそうで追いつめられた表情をしていた。それがたまらなく嫌でわたしは目を逸らした。頬は赤くなってしまったのかもしれない。冷たい部室の中で、制服越しに彼の体温が浸みた。
「思い出してくれ。昨日と今日で世界が変わっちまってる。ハルヒの代わりに朝倉がいるんだよ。この選手交代を誰が采配した? 情報統合思念体か? 朝倉が復活しているんだからお前も何か知ってるはずだ。朝倉はお前の同類なんだろう? 何の企みだ。お前なら解りやすくなくとも説明はできるはずだ――」
 世界が変わる。そして情報統合思念体。わたしが生み出したはずのその言葉に愕然としながらも、わたしは口を開けなかった。
 彼の剣幕にすっかり圧されて、背が壁に付いてしまっている。彼の手は、おそらく知らず知らずだろうけれど力が強くなっていって、ぎゅっと掴まれているわたしの肩はひどく痛い。わたしの白かった頬には間違いなく朱が差してしまっている。なるたけ何の感動もなく生きようとしてきたのに。
「やめて……」
 わたしは絞り出すようにして何とかその意思を彼に伝えた。そのたった一言で彼は我に返ったようだった。彼は打ちひしがれた様子でわたしから二、三歩離れた。
 その時、わたしは彼が根っから優しい人間なのだろうと確信を持った。おそらく彼とわたし――この場合のわたしは彼が知っている、あるいは知っていたらしい宇宙人のわたしだけれど――には強い絆があったのだ。彼はその『わたし』をとても大切にしていたに違いない。
「すまなかった」
 彼は神に懺悔する聖職者のように両手を天に掲げた。
「狼藉を働くつもりはないんだ。確認したいことがあっただけで……」
 茫然自失とした様子で後ずさりする。彼の精神はひどく傷つけられてしまったらしかった。彼は今までわたしが座っていたパイプ椅子を引き寄せ、軟体動物のようにぐにゃりと腰を下ろした。わたしはどうすることもできず、壁にくっついて、不幸な運命を背負わされてしまったらしい彼に視線を注いでいた。もちろん、目を合わせないように気をつけながら。
 彼が黙って部室内を見回しているので、わたしには少し状況を整理する余裕ができた。
 気になるのは彼の発した情報統合思念体という言葉だった。次いで世界が変わっているということ。
 彼は焦っているようだった。それはそうだろう。昨日と今日で世界が変わっていたら相当びっくりする。彼は、どうやら本当にその状況下に立たされているらしかった。わたしの場合、日常の小さなことが少し変わっていただけだったけれど、彼の場合は違うのだ。彼の話の端々から、彼はどうやらこの学校に涼宮ハルヒという名前の女子生徒がいたと思いこんでいるらしかった。あるいは、いたのだ。彼が昨日まで住んでいた世界には。
 そしてわたしは、その世界では宇宙人だった。情報統合思念体。ヒューマノイド・インターフェース。わたしが生み出したと思ったそれらも、彼の世界には存在していたのかもしれない。
 だとしたら、わたしは何なんだろう。彼が別の世界から来たのだとすればわたしはそれで構わない。もし彼が昨日まで別の世界にいたとしても、わたしに不都合が生じることはない。
 問題はわたし自身だ。なぜこの世界の住人であるはずのわたしが、別の世界の話を知っているのだろうか。情報統合思念体。彼は確かにそう言った。今日の朝からの奇妙さを考えれば、これが偶然だとは思えなかった。
 わたしは、誰だ?
「ちくしょう」
 部室全体に這うような目を走らせていた彼は、やがて頭を抱えた。しかし何分かそうしていた後、次に顔を上げたとき、彼は明るい顔をしていた。微笑さえも浮かべてわたしを見た。
 違うのだ。明るい顔をしようとしていただけだ。わたしには解る。彼の目は曇った窓ガラスのように失望と絶望の闇を漂っていた。
 わたしは彼のその顔を見て動けなかった。この暗い状況で、彼さえも何が何だか解らないような状況で、それでも彼はわたしに対する配慮を忘れないのだ。仮面だったとしても微かな笑いをもって応えてくれる。本来ならわたしが気遣ってやらないといけないのに。わたしの眼鏡は少しズレていたけれど直す気にはなれなかった。
「すまん」
 彼はまた謝って立ち上がった。たたんだ状態で立てかけてあったパイプ椅子を持ってきて部屋の中央へと移動すると、また腕に頭をうずめた。おそらく彼は、彼がわたしの椅子を奪ってしまっていたことに気づいたのだろう。
 わたしは彼のその何気ない気遣いに何か好意のようなものを感じた。この人とだったら一緒にいてもいいかもしれないという、くだらない予感だ。そんなことを思っている場合ではないし、第一彼はわたしを見ていない。わたしの奥にいるかもしれない、彼の世界の『わたし』を見ているのだ。
 でも、その世界の『わたし』とここにいる彼がうまくいっていたのだとしたら、それも解るような気がした。わたしが宇宙人であったとしても彼への好意は変わらないのかもしれない。
 そう。仮に許されるなら、私はそうするだろう。あのおかしな物語にそんな一文があった。
「うん?」
 彼が突然、頭を抑えていた手を動かした。
「違う」彼は続けて、
「パソコンだ」
 と言った。彼が旧型の古いパソコンに目をやったのでわたしもつられてそちらを見る。このパソコンはわたしが文章を書くときにしか使っていない。それでも彼が望むものはこの中にあるのだろうか。
 わたしが再度彼を見るとまた目があってしまった。わたしはすかさず視線を床に落とす。また頬が淡く紅潮してしまったかもしれない。わたしは困惑し、やり場のない目を泳がせた。
「長門」
 そのうち彼が立ち上がった。わたしは注意深く彼の胸のあたりに焦点を合わせる。彼はパソコンの背面を指さしていた。
「それ、ちょっといじらせてもらってもいいか?」
 彼は好意的な声でそう言った。
 まいったと思った。誰かにわたしの書いている物語を見られたくない。それはわたしの切実な願いだ。もしこの場で彼にわたしの物語を見られてしまったら、わたしはその物語を読むたびに彼を思いだしてしまい、きっと続きなんか書けないだろう。しかし、この彼の希望を無下に断ることはわたしには絶対にできなかった。
「待ってて」 
 わたしは椅子をパソコンの前に持っていき、本体の電源スイッチを押してから座った。OSの立ち上がる時間がやたらに長く感じてわたしは焦らされた。こんなことなら最初から電源を切らなければよかった。
 OSが立ち上がるとわたしはマウスを素早く操作し、書き終わったSFと今まで書いていた奇妙な物語を呼び出した。SFはファイルごとごみ箱に移動し、あの物語の方は保存しないで削除した。SFのほうはあとで取り出せばいいが、あの物語を破棄することには、驚いたことに何の躊躇いもなかった。この文章を消しても、また家で同じものがいくらでも書けそうな気がしたのだ。
「どうぞ」
 彼に目を向けず、小さな声で言って、わたしは椅子から離れて壁際に立った。
「悪いな」
 彼はさっそくモニタをのぞき込んだ。その様子をわたしが見ていると、彼はどうも何かのファイルを探し求めているらしかった。しかしやがて「ねえか……」と呟くように言うとがっくり肩を落とした。振り返った彼は落胆しきって逆にふっきれてしまったような表情をしていた。 昨日とは違う世界に飛ばされてしまったらしい彼の、わたしは何の力にもなれなかったらしい。そのことが少し残念だった。
「邪魔したな」
 彼は言った。疲労しきった声だった。
 彼の背中は扉へと吸い寄せられていく。このまま帰ってしまうつもりらしかった。
 そして彼の手がドアノブに触れた瞬間、わたしは唐突な焦りを感じた。違う世界から来て、わたししかいないはずの文芸部室に飛び込んできた男子生徒。今のこの部屋の住民はわたしだけだけれど、この場所は元の世界にいた彼にとっては意味ある場所だったのだろう。そうでなければ何の目的もなしにここを訪れたりはしない。涼宮ハルヒといったか。さわやかな高音を鳴らして揺れる風鈴のような、小気味のいい発音の名前だ。もしかすると彼と、彼が探しているらしい彼女はあちらの世界ではこの部屋の住人だったのかもしれない。
 だったら、とわたしは思った。
 せめて、異なる世界だとしても、この部屋に来ることができる口実を彼に与えたかった。彼のあの優しい性格なら、きっとわたしが自分とはいたくないだろうと思って遠慮してしまうに違いない。そんなことはさせたくなかった。
 そして何よりも、わたしの気持ちがそちらを向いていた。彼ともう少しいたい。わたしが今まで人間に対して感じたことのないおかしな感情だった。それは、彼にとっては迷惑以外の何者でもないかもしれない。けれどわたしの気持ちと彼の意思は違う。わたしは彼に好意を抱いていた。そうだ。仮に許されるなら、私はそうするだろう。
 実際にはそんなことを考えている余裕なんてなかった。彼がドアノブを回して部室から出て行くまで三秒とないのだから。だからその時は、わたしはわたしが出した結論だけを信じることにした。こんな長くてややこしい心理は後でその時のことを振り返って出した答えでしかない。
 わたしはその背中に声をかけた。
「待って」
 聞こえるかどうか解らないほど小さな声でも彼は立ち止まってくれた。彼は小さな声を聞き取るのに慣れているのかもしれない。わたしは彼が振り返ったのを確認して、何も言わず本棚の隙間から藁半紙を引き出した。そして、目を合わせないように気をつけながら、彼の足もとに目を落として、それを差し出した。
「よかったら」
 片手を差し出す。
「持っていって」
 それは白紙の入部届けだった。
 


 彼が出ていくと、部室にはうそ寒い冬の空気とわたしだけがひっそり取り残された。文章を書いていたときや彼がいたときには気づかなかったが、今になって急に寒さが身に染みだした。身震いしてカーディガンを羽織り直す。物音はなくなり、その分、窓の外を吹きすさむ風がいくぶん荒れたようだった。パソコンは電源がついたまま、彼が操作し終わったままの状態で静止している。扉はもう音を立てて開いたりはしない。
 ひとりだけの部室が何だかもの寂しく感じられた。
  わたしは手持ちぶさたになって、何度か部室と廊下を行き来した。コツコツという乾いた足音だけがわたしの耳に響く。暇なときわたしは本を読むようにしているけれど、今は机の上に放置されたハードカバーを手に取る気分ではなかった。
 誰かと一緒にいたり、会話をしたりというのはわたしにとっては大きすぎる意味を持つ。それはもはや非日常の域に達していた。日常ならば、わたしは誰とも一緒におらず、誰とも会話しないのだ。だからわたしは稀に誰かと会話したりすると日常を失って困惑する。それこそ本も読めなくなるくらいに。そんなときにわたしは、ただぼんやりと窓の外を眺めていることぐらいしかできなかった。会話の内容を何度も何度も、壊れたテープのように反復しながら。
 けれどわたしはそのことを悪いことだとは思っていない。今はまだできないけれど、それがわたしにとって生きているということと存在しているということの証明になるのだとしたら、それは歓迎されるべきことだった。
 そんなことを考えながらわたしはまた部室の敷居を越える。 
 わたしが部室と廊下を行き来しているうちに、現実はだんだんと温度を下げていった。ひんやりと、無情に。やがてそれは氷のように冷たくなって、わたしは現実味と冷静さを得た。高揚していた気分がすうっと退いていくのを感じると、部室に入り、ドアを閉めた。
 パソコンはまだ静かな音を立てていた。わたしはそこに、さっきまでいた彼がパソコンを操作している姿を重ね合わせた。焦ったような顔。そしてわたしに向けられた微笑み。
 考えれば考えるほど、彼の姿は夢のもののように薄くなり、わたしから遠ざかっていく。はかない幻想。
 そうか。わたしは幻想を見ていたのかもしれない、とそんなことまで思った。違う世界から来た男子生徒が、文芸部室に飛び込んできて、わけの解らない質問をして帰っていった。なるほど聞くからに嘘のような話だ。もしかするとわたしの希望と非日常の影が手を組んで、わたしにありもしない人物の幻影を見せていたのかもしれない。
 しかし、そんなことはありえないはずだった。部室には彼が現実ものだったという証拠がある。この部屋のパイプ椅子は二個広げられているし、彼の操作したパソコンはそのままで、入部届けは一枚減っている。彼は確かにここにいたのだ。
 しかし彼が存在する人物だからといって疑問が解決したわけではない。むしろややこしくなってしまった。
 わたしは窓辺に歩み寄り、冬空を眺めながら、改めてその謎に取り組むことにした。彼のことは彼のことで彼がうまくやっている。わたしが考えなければならないのはわたしのことだった。
 さっきからずっと引っかかっていること。情報統合思念体。それはわたしの頭の中の存在のはずだった。どこかの書物に載っていたということはないし、宇宙に彼方にそんなものがいるともまだ確認されていない。わたしの完全オリジナルだった。それなのに、彼はわたしとまったく同じ単語を口走ったのだ。情報統合思念体。聞き間違いでもなく、彼が言い間違いをしたわけでもないようだった。
 考えれば考えるほど不思議で仕方ない。なぜ彼はわたしの頭の中の存在を知り得たのだろうか。あるいはその情報統合思念体が彼の世界に存在しているのだとしたら、なぜわたしは彼の世界のことを知っていたのだろう。
 わたしは、わたしが情報統合思念体のことを知った瞬間を思い出してみることにした。自分の記憶をまさぐる感覚。この感覚がわたしは好きではない。過去を振り返ると無条件に頭が痛む気がするのだ。
 その単語を思いついたのは今日の朝のことだった。今日の朝、わたしがちょうど読んでいたハードカバーの犯人が、情報統合思念体に造られたヒューマノイド・インターフェースに違いないと思ったのだ。直感だった。長い間忘れていた言葉がちょっとした拍子に思い浮かぶように、情報統合思念体とヒューマノイド・インターフェースもあのハードカバーを読んでいたらふと思い浮かんだのだ。日常に力を及ぼして非日常へと変えた犯人。それが情報統合思念体に造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースだった。 
 しかし、そのハードカバーのことはたいして重要ではない気がした。わたしの頭にあまりにも強烈な直感が走ったので、つい、できあいの物事とからみつけてしまっただけだ。今、冷静に考えると、彼らはあのハードカバーの犯人ではないし、あのハードカバーの世界には存在すらしていないように思われた。情報統合思念体に造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。ただそれだけが重要だった。 
 そもそもその単語はどんな意味を持っているのだろう。情報統合思念体。ヒューマノイド・インターフェース。わたしはまず、その曖昧な意味を持つ語句に定義をつけようとした。いや違う。定義ならすでにそこにあった。わたしはそこにあった既成の定義をすぐさま探し出してしまったのだ。
 銀河系、それどころか全宇宙にまで広がる情報系の海から発生した肉体を持たない超高度な知性を持つ情報生命体。それが情報統合思念体で、そしてそれに造られたヒューマノイド・インターフェース。人型端末。つまり人間の姿をした宇宙人だ。
 宇宙人。
 そういえば、とわたしは彼との会話を思い出した。彼はしきりに宇宙人のことを気にしているようだった。最初に入ってきたときは、わたしのことを宇宙人と勘違いしたし、事実彼が住んでいた世界で『わたし』は宇宙人だったらしい。
 もしかするとその世界の『わたし』というのはヒューマノイド・インターフェースではないだろうか。わたしと『わたし』の姿は同じだったようだから、『わたし』が宇宙人で人型端末という条件にも合致する。なるほど、だとしたらたとえ世界が違っていても『わたし』であるところのわたしだったら、情報統合思念体やらヒューマノイド・インターフェースやらといった言葉を知っていても不思議ではない、かもしれない。
 もちろんそれは何の根拠もない予測に過ぎない。間違っていると誰かに指摘されれば、わたしは素直に間違いを受け入れるだろう。なにしろそれはあまりにも大それた妄想だったのだ。『わたし』がヒューマノイド・インターフェースであるとしたら、わたしがそのことを知っているということはこの世界とあちらの世界の接点にもなり得るし、だとしたらわたしの存在までもが脅かされる予感がした。わたしこそが長門有希だというアイデンティティが崩壊しそうだった。
 だからわたしとしては、こんなストーリーは妄想であって欲しかったし、情報統合思念体やヒューマノイド・インターフェースなんてものはわたしの頭の中だけの存在であって欲しかった。
 しかし希望と現実は異なる。わたしの希望がそうだったとしても現実は今、氷のように冷たくなっているのだ。現実味と冷静さを取り戻した代わりに、わたしには凍てつく刃が突きつけられていた。
 結局、この疑問にも明確な答えは出せなかった。しかし当然といえば当然だ。ここと違う世界、パラレルワールドのことなんか解るわけがない。解るとしたら、それこそわたしの存在がこちらの世界のものなのかあちらの世界のものなのか曖昧になってしまう。
 明確な答えは出なかったし出る予定もなかったけれど、しかしわたしはこのことを考えずにはいられなかった。彼が口にした情報統合思念体という言葉。そして彼はこことは異なる世界から来ているらしいという事実。わたしはひとりで部室の戸締まりをしている間も、暗く寒々しいコンクリートの夜道を歩いているときも、家に帰ってレトルトの夕食を準備しているときも、お風呂に入っている間でさえ、そのことを考えていた。おかげでお風呂から出てきてもちっともリラックスできず、寝る前にはくたくたに疲れ果てていた。本を手に取る気も、パソコンを立ち上げる気もしなかった。
「長門有希」
 布団に入って電灯を消してから、一度だけそう呟いてみた。涼宮ハルヒとは違い、はかない響きを持つ名前だ。長門有希。何の意味もないモノローグ。宇宙空間にまで拡散するはずだったわたしの声は、すぐ目の前に壁に衝突して吸い込まれてしまった。
 この叫びは誰も知らない。わたしはここに存在しているのに。いや、もしかすると彼ならば解ってくれるかもしれない。けれど彼はこの世界の住人ではなかった。
 そのことがますますわたしを意気消沈させ、わたしの存在に靄をかけた。 
 
 


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