いい匂いがした。
母親のつけるニナリッチだとかなんとかハートだとか、そんな人工的な匂いじゃない、ずっと包まれていたいと思えるような、そんな優しい香りだった。
引いたクジをぐっと握りしめながら、その匂いに引き寄せられるように前の椅子ギリギリまで机を寄せた俺に、彼女はゆっくりと振りかえり、ふわりと微笑んだ。
「よろしくね」

 


新しいクラスの中で、一番初めに覚えた名前が彼女だった。
それは彼女が名簿の先頭を飾っていたのもあるし、それよりも、人の目を惹く何かを彼女は持っていたのだ。涼宮のように、少なくともこのクラスにいる間は忘れられそうにない奇抜な自己紹介をしたわけでもない。ただ自分の名前と、クラスについて少し。そんな常套句でしかなかったはずだ。

それでも皆が緊張する中で(もちろん俺もその一員だった)、しゃんと胸を張って凛としていたのは彼女だけだった。
思えば、あの時から俺は彼女に対する感情を少しは抱いていたと思う。でもそれはまだ恋情ではなかった。手の届かぬ人を思うような、そんな憧れに似た気持ちだった。学年の男子に、好きな人はと聞けば五人に一人は彼女の名前を答えるだろうし、そんな彼女に恋をするなんて、自分でもおこがましいと思っていたのだ。
あの席替えの日、彼女の後ろというプレミアのクジを引くまでは。

掛けられた言葉に、上手く返せたかは分からない。その時はひどく高揚していたし、彼女の笑みが眩しかったのもある。
授業中、ふわりと風に乗せられてシャンプーか洗剤か、とにかく甘い香りがたびたび鼻をくすぐり、これが窓際だったらもっと風も吹いたのにと開いた窓から空を仰ぐ。空は青く高かったし、雲は白かった。太陽の日差しは柔らかい。この時はまだ、春だったんだ。
 
 


部活がない日は、よく写真を撮っていた。
空、年季の入った校舎、誰かが手入れしている花壇のチューリップ、そのすべてにシャッターを切る。カメラは高校の入学祝いに父親に買ってもらったやつだ。

そして、この日もそうだった。いつものように肩に掛けたカメラを持ち、葉っぱに止まるナナホシテントウにピントを合わせた時、
「ねえ」
不意に掛かった声に、思わずカメラを落とした。眼鏡がずり落ちる。慌てて飛んでいくテントウムシの軌道を目で追うこともなく、俺は咄嗟に振りかえった。
「やだ、ごめんなさい。驚かせちゃったわね」
彼女がいた。
学級日誌を片手に申し訳なそうに微笑む委員長は、葉っぱに止まるテントウムシよりも何倍も絵になっていた。彼女の背から太陽の日が差し、やけに眩しかったことを覚えている。慌てて眼鏡の縁を持ちあげる俺に、彼女は後ろに手を回し、誰に対してもそうするようにやわらかく微笑んだ。
「写真、好きなの?」
「あ、……うん、ケッコウ」
ケッコウ。まるで鶏の鳴き声のような情けない声が出て、思わず自己嫌悪。そんな俺に、彼女はくすりと微笑み、少しだけ瞳を輝かせた。
「へえ、いいな。よかったらちょっとだけ見せて?」
手を伸ばす彼女に、まるで柔らかい粘土のように首は前に傾き、首から紐を外すと、それを彼女に手渡した。
「わ、結構重いんだ。ねえ、何か撮ってみてもいい?」
再び首肯。ありがとう、と彼女は口元を緩やかに持ちあげ、そして、空に向かってシャッターを切った。
「難しいのね、これって。ブレちゃったかも」
「あ、俺も最初は、……できなかったし」
「そうなんだ。でもさっきシャッターを押そうとしてた時、すごく上手そうに見えたな」
感謝の言葉を言おうか迷って、そうしている間にも彼女は別のものにレンズを向けていて、結局それを飲み込んだ。思わずうつむく。
「あ、そうだ」
ふと彼女の弾む声が聞こえ、顔を上げたのと同時にフラッシュが光った。彼女がレンズから視線を移してやっと、自分が撮られたんだということに気づく。
「ふふ、撮っちゃった。ありがとう、カメラ貸してくれて」
カメラを手渡し、それじゃ、と手を振る彼女に、俺は思い切って声を掛けた。
「あの、そっちも写真撮ろうか?」
日誌を持ちなおし、校舎へと去ろうとした足がピタリと止まり、少し悩む仕草を見せた彼女は、数秒後、緩やかに振りむき、そっと微笑んだ。
「それじゃ、一緒に撮りましょうか」

 


宝物を抱えるようにカメラを抱きしめた俺は、その足でカメラ屋さんへと走り、写真を現像してもらった。
彼女の言葉とは裏腹に、撮った写真は一枚もブレていなかった。空は俺が撮ったものより何倍も青く澄んで見えたし、花はとても鮮やかだった。ついでに俺も、鏡に映るものよりかは少しはカッコよく映っていると思う。
最後に撮った、二人の写真。俺はぎこちない笑みで、しかも三分の一ぐらい途切れている。それでも、彼女は映っていた。柔らかな微笑みを、細い髪の一つ一つを、カメラは捕らえていた。それは、昔美術館で見たどの写真よりも輝いて見えた。
誰にも見つからないように定期入れの中にその写真を挟んで、二人だけの秘密だなんて随分と一方的なくだらない考えに頬をゆるませ、それでも俺は幸せだった。明日は、もっと彼女と話せるかもしれない。もっと近づけるかもしれない。

そんな考えを粉々に打ち砕いたのは、翌日の彼女の転校の知らせだった。
 
 
 
空っぽな机もロッカーも、まるで彼女の存在ごと掻き消すかのようだった。ついでに俺の頭も空っぽで、それでもその空虚な脳内を埋め尽くすように、ただ、突きつけられた事実だけが、壊れたカセットテープのように回り続けた。

もう彼女はいない。そよぐ五月の風も、もうあの甘い香りを運んではこない。
ただ、写真の中の彼女だけが、自分が確かにここに存在していたことを証明するかのように、眩しく微笑むのだった。

 

 

 


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