ゴン。
 
 鉄の塊を床に落としたような鈍い音がして、俺は目を覚ました。
 記憶の隅に、なんだか洗濯機に入れられてぐるぐると回されていたような断片が落っこちている。ただしもう吐き気はしない。頭が痛いのは、それはおそらく俺が机に思いっきり頭をぶつけたからだろう。
 夢から醒めたばかりのような気怠さが体から抜けていくのとともに徐々に復活する現実味。夜の底に落ちたような静けさ。変わらない世界。
 
 ここはどこだと思って頭をもたげると、ぼんやりと霞んだ視界にパソコンが見えた。少なくとも一年前は最新型だったやつだ。
 さらに首を振ると、驚いたことに朝比奈さんと古泉の姿までもが目に入ってきた。二人は石膏像のように黙って、目をつむっている。生命でも抜き取られちまったみたいに動きなし状態で完全にまわりの静物の中に溶け込んでいた。そしてちらりと見えちまった(わざとではないぞ)朝比奈さんのふくよかな胸には、小さなほくろがあるようだった。
 俺は首を回す。ポキポキという小気味のいい音がした。
 ハンガーラック。メイド服、ナース服。ボードゲーム各種。目についたそれらは、俺の色彩感覚が正しいのであれば、クリーム色一色に染まることなく白や黒などの色も纏っていた。
 
 俺は、とあるところで目をとめた。
 七夕の竹。 
 見間違いようもなく、そこには五つの願い事がぶら下がっているのだった。五つ。その数がどんな意味を持っているのか、俺は理解しているつもりだ。
 俺は大きく息を吸った。空気がひんやりと冷たくて鼻孔を刺激しやがる。
 夏だってのに……と俺は一瞬嫌な予感の到来を思ったが、それは俺にはたいしてショックではなかった。七夕の願い事が五つ、しっかりと垂れていることが俺には一番重要だったからだ。 それに、その嫌な予感も杞憂だったらしい。なぜなら窓の外が黒く染まっているからだ。夏でもこの時期、まだ夜は寒いこともある。
 俺は部室にいて、そんでもってここは夜の学校……? 


「あれ? キョンくん?」


 突如として後ろで柔らかい声がした。俺はさっと振り向く。制服姿の朝比奈さんが驚いた顔に両手をあてがっていた。


「おっと、ここはどこでしょう?」


 銅像のように固まっていた古泉もようやく気がついたらしい。起きがけもハンサム営業スマイルを忘れない精神は尊敬に値するな。どうでもいいが。


「夜の学校らしいぜ。夏のな。ただしどこの世界かと訊かれたら解らんとした答えようがない」
「あたしたち、さっきまで長門さんがつくってくれた超空間にいましたよねえ?」


 朝比奈さんが腑に落ちない感じで訊く。ええ、そうですね。


「そこからどっかに行って、ここは……?  ええと、でもでも、あたしたちはあの空間から外に出られなかったわけですよね。存在が抹消されていた、とかで」
「しかし、この部室はあそことは違うらしいですね。まず色があります。窓の外の風景もね」


 古泉があごをなでながら続ける。


「ここは間違いなく、僕たちの正規の部室ですよ」
「だが、九曜はどこに行ったんだ。それとあの部屋を占領していた朝比奈さんと古泉の偽物も」

「消え去ったのでしょう。いや、消え去ったと言うよりも宇宙の彼方に追放されたと言うべきですが」 


 俺は窓から外を眺めた。星がいくつか輝いている。


「なぜだ」


 古泉は静かな口調で、


「あなたもあの世界の最後の瞬間を見たでしょう。涼宮さんが長門さんを見て、有希と言いましたね。それが証明です」


 何の?


「あの世界では周防九曜が長門さんを名乗っていたんですよ。もちろん彼女の見た目は長門さんと異なっていますし、涼宮さんも何の疑問もなく周防九曜の姿をした人間を長門有希だと思っていたわけです。ところが、涼宮さんは最後、超空間にいた長門さんを見て有希と言ったんですよ。周防九曜とは違う姿をした人間を見ても、彼女は有希と言いました。つまりその瞬間、涼宮さんはすべてを思い出したのです。SOS団のメンバーの顔も、存在もね。そしてまた、周防九曜の頭脳支配をも吹き飛ばしました。間違ったSOS団は崩壊し、僕たちが元のこの部室に戻ってきたんです。抹消されていた存在も涼宮さんの力で取り戻せたのでしょう」
「うーん。でも、何で長門さんって解ったんでしょうね。不思議ですよねえ。……あ、お茶飲みます?」
「いえ」


 俺は朝比奈さんの好意を断って窓から遠い街を見やった。
 ハルヒの力。周防九曜までも吹き飛ばしてしまうほどの。
 あいつはやっぱり、元のSOS団がよかったのだろうか。お遊びサークルじゃなくて謎的存在がたむろする奇妙な団体が。


「そういや、ハルヒと長門の姿が見えんが、あいつらはどこ行ったんだ」


 疑問を口にしたとき、部室の扉が音を立てて開いた。
 入ってきたのは長門だった。もちろん九曜じゃなくて読書好き文芸部員で無口な長門のほうだ。相変わらず無表情で感情のかけらも見受けられない。


「来て」


 恐ろしく短い単語を口にした。誰が、どこへ。 


「あなた」
「俺?」
「そう」


 ずっと入り口で黙っているので、俺は仕方なく長門に歩み寄った。長門は古泉と朝比奈さんがぽかんと口を開いているのを見て付け加えるように言った。


「悪い話じゃない。この世界は木曜日の状態に復帰した。涼宮ハルヒは現在、自宅で眠っている」 






 はたして、長門に連れられていったのは校舎の屋上だった。階段を上り、上り、上りしてどこまで行くのかと思ったら最上階まで行ってしまった。さすがにこれ以上は俺は上ることができんな。
 屋上なんて滅多に来ない。というか来る用もない。体育祭の時にはどこかの委員会が来たりしているが俺がここに来た記憶があるのは一回か二回くらいだ。ハルヒに振り回されていたような記憶がかすかにある。
 
 寒い。
 
 何てったって夏でも夜なのだ。風が吹いているし、真っ暗で、ただし夜空だけは大パノラマでよく見えた。はりぼてみたいな空に星が無数に光っている。


「長門?」


 俺は黙ってたたずんでいる小柄な人影に話しかける。


「よく解らない。あなたに話すべきかどうか。話して何か得るものがあるのか」


 北高のセーラー服が風に揺られている。長門は校舎からグラウンドを見下ろすように立っているため、俺は長門がどんな表情をしているのか解らない。見えたとしても暗くて解らないかもしれなかった。
 俺は「何でも聞いてやるから話してみろ」と言った。
 長門は俺に向き直った。


「この世界は今、完全に元の形に戻った。未来人も超能力者も、わたしたち宇宙人と呼称される存在も。未来との経路も復旧した。現時点では木曜日のときと同じ未来に接続されているように思われる。周防九曜は宇宙の彼方にいて情報統合思念体が監視を続けている。だから安心して」
「ああ……」


 長門は早口で一息で言ってのけ、それからじっと俺を見つめた。


「聞きたい?」
「何を」
「あなたやわたしにどんな影響を与えるか解らない。でも、あなたが聞きたいなら話す」


 質問の答えにはなっていなかったが俺は「話してくれ」と言った。長門が自分から話すことなんてのはよほどのことに決まっている。俺がそれを聞いてやらないでどうするのだ。
 長門は重たそうに口を開いた。


「今回、情報統合思念体はわたしに、あなたを助けるなという命令を出していた。見殺しにしろ、と」


 ? どういうことだ。


「統合思念体は周防九曜によってわたしたち三人の存在抹消が実行された後の火曜日に、涼宮ハルヒの精神が非常に安定しているのを観測した。閉鎖空間と呼ばれる空間が発生することも、ましてや世界改変が起こる可能性も皆無だった」


 それで?


「もともと、情報統合思念体は彼女のまわりをうろつく未来人や超能力者のことをよく思っていない。積極的に破壊しようとは思っていなかったが、いないに越したことはない。だから今回、周防九曜が彼らを消してくれたのは都合がよかったとも言えた。情報統合思念体はその機会を利用しようと考えた。これで邪魔されず、なおかつ世界改変のおそれも無視して涼宮ハルヒを観測できる、と」


 ……何て奴らだ。俺は背筋が震え、戦慄が身体を走り抜けるのを感じた。
 長門はなおも続ける。


「本当は、わたしが救済措置として設置した超空間も違反行為だった。あなたを助けることになるから。あの時、情報統合思念体からはあなたが涼宮ハルヒの能力によって抹消されるのを待て、という命令が出ていた。もちろん放っておけばそうなっていたと思う」


 記憶が甦る。三人の退部。あれでSOS団にふっきれちまったハルヒは、明日にでも俺を消していたことだろう。そうなったら最後だった。情報統合思念体が助けてくれない以上、長門はどうしようもないし、俺以下三人は歯がゆい思いをするだけだろう。


「情報統合思念体は何て言ってる?」俺は長門に訊いた。「いつかみたいに、お前の処分を検討するなんてことを抜かしてたりするんじゃないだろうな」
「そんなことはない。ただ、再び涼宮ハルヒの監視を続けろ、と」


 やはり平坦な声で言う。監視。監視ね。そういえばそれがこいつの仕事だった。勝手なことを言うもんだよな、宇宙意識野郎も。
 俺は長門に尋ねてみることにした。  


「よう長門、お前さ、SOS団って団体をどう思ってる?」
「どう、とは」
「情報統合思念体の連中はそんなもんないほうがいいって思ってるんだろ。邪魔くさいから。でも、あんな奴らは無視するとしてお前自身はどう捉えてるんだ? ハルヒの監視のために所属している団体か?」


 正直なところ、俺はどんな答えが返ってきてもひるまない覚悟でいた。「そう」と言われても「違う」と言われても。だから訊くこと自体にたいした意味はなかったのだが、何となくこいつがどう思っているかを知りたかったのだ。
 無口な有機アンドロイド。感情の薄い文芸部員が、無理やり入れられた団体をどう思っているのかを。
 長門はしばらく黙っていた。本当は答えなどなくて、今それを捻出しているところなのかもしれない。風が何度か通りすぎた。そのたびに長門の短い髪が揺れる。


「わたしは――」


 何度かまばたきをして続けた。静かな声で。


「落ち着いて、本を読めるところだと思っている。そんな場所なら、あったほうがいい」
   


* 

 


  さて。
 今度の事件はこれでようやく終わりを迎えたらしかった。ハルヒも長門も朝比奈さんも古泉も全員が復帰し、完全元通りである。
 とはいえ俺に精神的後遺症はイヤというほど残ったようだ。
 何だか毎日部室のドアに手をかける度に心臓がバクバクするのは本当にどうにかして欲しい。そんでもって俺は、中にメイド服やらボードゲームやらを見つけて平穏な日常を思い、また胸をなで下ろすのだ。宇宙人(以下略)と過ごす部室の風景というのが日常になっているのは毎度毎度どうかと思うのだが、俺もいい加減そんなことを言うのはやめることにした。これが最後だ。SOS団が一気に消えちまってようやく気づいたね。もう俺はこれが日常で構わないや、と。開き直りなら開き直りと思ってくれ。
 
 ところで買ってきたけど使わないダイエット食品みたいな感じで半分放っておかれている七夕は、俺と古泉がオセロをしていたり朝比奈さんが編み物をしていたり長門が本を読んでいたりするうちにやはり何事もなく過ぎてしまった。ハルヒは肝心の七夕の日を見過ごしてしまったことを後になってひどく悔やんでいたが仕方ないだろう。文字通り後の祭りだし、その日にヤツが何をやっていたかと言えば朝比奈さんに次々と目新しい衣装を持ってきては着せ替え人形の感覚で着せ替えていたのだから自業自得だ。文句は受け付けん。
 おかげで今ハルヒは来る合宿に向けて七夕で放出できなかったエネルギーをためている途中であり、それが爆発したら孤島の殺人事件どころか全人類滅亡くらいのスケールまで持っていきそうで怖い。昨日は足りなかった合宿用品を買いに行って、ついでに鶴屋さんも呼んで部室で暴れていた。まあ好きにしてくれ。合宿でえらい目に遭うのは俺ではなくてツアーコンダクターの古泉と向こうにいるはずの荒川さん森さんだ。古泉だって余裕でイケメンスマイルをかましてられるのも今のうちだろう。
 
 それはそうと話は飛ぶが、俺は七夕の前日、ちょっと思いついてしたことがあった。
 短冊がまだ残っていたのでそいつをちょっと借りてささっと書いて笹のてっぺんにつるさせてもらったのだ。もちろん誰にも見られてはいない。ましてやハルヒになんか見られたら顔を覆いたくなるような願い事だ。七夕の翌日には俺が真っ先に部室に来てその願い事の短冊を回収しゴミ箱に投げた。何やってんだか自分でも解らんが、別にかまいやしない。何となくそうしたい気分だったのだ。それにハルヒがいる以上、十六年後と二十五年後にその願い事が限らんしな。
 
 その願い事。
 
 実はこいつは願い事が叶うのは十六年後と二十五年後というのを失念している願い事なんだが、それでもよかった。どっかの神様が気を利かしてちょっと早く届けてくれるかもしれない。
 ハルヒがもし見ていたら、その場で叶えてくれたかもな。宇宙人と未来人と超能力者、それが全部同居してるのがSOS団だというならね。
 俺も卒業するまでは付き合ってやる覚悟だし、ハルヒ含む四人にもそれぞれ謎的プロフィールを持った存在でいてもらうつもりだ。他の誰にも渡さないし、ここはSOS団という謎を追い続ける謎的存在がいる場所だ。お遊びサークルだっていいが、それじゃあSOS団という団体名を変更してもらわないといけない。そして俺の予想では、ハルヒは今後そんなことをするつもりはなさそうなのである。
 七夕の願い事ってのはそれのことだ。ここはSOS団で、しかもそれは宇宙人、未来人、超能力者がいるところなのさ。     
 



『この部室は俺らのものだ!』  

                                                                         

 

 

                        

                                                 (Fin)         
    

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最終更新:2020年03月19日 01:06