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taste of truth(事実の味)

(フランス語『goût de la vérité』の直訳→『真実の愛』の意味)


小さな部屋。佐々木さん、有希。それ以外に、誰もいない寝室。有希の、揺れる目線。
曇ってしまった眼鏡を外すと、しっかりとあたしを見つめようとする。

「彼女は…敬愛する敵…私のライバルであり、観察対象だった」

立ち上がり、棚の方角へ歩く。日記を取り出す。
佐々木さんはやっぱり微笑んで
「どうぞ」

その声を聞いて有希はゆっくりと、佐々木さんの日記を、開く。

 

 

La valeur humaine est un effort.
Je me consacrerai à musique. 

 

(どこまで努力できるかが、人間の価値。私は音楽にこの身を捧げます)


……



 

a tempo(元の早さで)

 

フルートを置き、ピアノの前に座る、長門さん。
私はさりげなくカセットを回し続ける。

 

敬愛する敵の技術を観察する。
そして、盗まなければ、ならない。

 

フルートの長門さんは、たとえ私がクラリネットだとしても、技術的にすばらしい、敬愛する敵だった。

彼女は世間の評価は未だないが、超えることのできない存在だと思っていた。そして、それは認めたくなかった。

            インターフェース
こんな指揮者の 操り人形  には負けたくは無かった。

 

長門さんはまずメトロノームを鳴らす。
そして、メトロノームを止めると、鍵盤に手を置く。 

 

曲目『Piano Phase』 
      Steve Reich  作

 

二十分以上続く、ただただ単調な調べ。何をしているのだろうか。

 

部屋に帰り、カセットを回す。 
長門さんは、まずメトロノームを鳴らす。
そして、メトロノームの音は止まらなかった。

 

カセットの中の長門さんと、私の暴走したメトロノームが同期する。

 

一分たち、五分たち、十分がたった。
ロボットのように無機質な、カセットとメトロノームの関係は、変わらなかった。

 

二十分後、長門さんは演奏をやめる。
同時に、私もメトロノームを止める。

 

私は同じようにピアノを叩き、録音する。
メトロノームを動かして、聞く。

 

私の演奏は、三分程度でメトロノームと離れていった。

 

 

 

……

 

佐々木さんの日記はフランス語で書かれていたり、英語で書かれていたり、日本語で書かれていたりした。 それを、有希がすべて日本語に直して読んでいる。

 

…有希ってフランス語できたのね…

英語だって完璧。この娘、まさか万能じゃないの?

 

でも、今聞かなきゃいけないことはそれじゃない。
有希に言わなければならない言葉は、賞賛の言葉ではなく、でも、その言葉が出ない。


「この薬は、…」

有希の冷たい声がただ暗い部屋に響く。 
 

 cette drogue cassera mon corps.
 et il me cassera.

 

 

(この薬は、あたしの身体を壊すだろう。そのうち、私も壊していくだろう。)

 

 


……



 

何日やっても、何回やってもずれていく。

何日やっても、何回やってもずれていく。

 

何でこんな簡単な事ができないのだろう。

完璧にしなきゃ、そのうち、私は用済みになる。

 

長門さんの演奏を聞いてから、いつもより指揮者を意識するようになった。

あれほど嫌っていた、指揮者の操り人形へと変わっていく。私の音が消えていく。

 

最近呼ばれ始めた、『神童』という言葉が、重圧を帯びてくる。

 

どうして、どうして…

メトロノームが悪いのかしら。それとも…

 

そして現れる無力感。

眠れなくて、いらいらしてじっとしていられない。

それなのに、何もする気が起こらなくなる。

 

私が医者からリタリン(医療用の覚せい剤)を渡されたのは、その時だった。

その医者は、やぶ医者だったと、少したった今では思う。量だって多分間違ってた。

 

実際、リタリンは良く効いた。これを使っている間は、悪いことは全部忘れられた。

集中力も上がった。読むのに一週間かかりそうなスコア(すべての楽器が書いてある指揮者用の楽譜のこと)でさえ、一時間程度程度で覚えられる気がした。

なにより、テンポを正確に数えられるようになった。

 

 

 

……

 

「じゃあ、ゴミ箱に捨ててあった、いろんな種類の向精神薬のケースは…」
リタリンの禁断症状を押さえつけるためのもの…?
 
頭の中をヘビがくねる。
ベンゼン環(※1)というヘビは、確かに佐々木さんというネズミを食べてしまっていた。
 
「…私の体は多すぎた覚せい剤に早く順応してしまった。本当に、惨めなものよ…」
それでも佐々木さんは表情を変えず、やっぱり微笑んでる。
 
「日に日にリタリンは効かなくなっていった。朝、薬が切れ、禁断症状でオケの練習に出られなくなったこともあった。 そのことを心配した長門さんはある朝、見舞いに来てくれた。そして、禁断症状が出ていた私を見てしまった」
 
この部屋で。
 

(※1:リタリンを構成する化学的構造。発見の逸話より、よくヘビにたとえられる)

 

 

……
 
 
 
 
 
カセットから、ただただ単調な、有希のピアノが流れる。
 
異常な数の、振り子、メトロノーム、電子メトロノーム。
テンポを指し示す、あらゆるもの。
 
転がっている、白い錠剤。
力がなくなり、ぼーっとしつつ、ベッドに倒れる佐々木さん。
 
有希は呆然として、白い錠剤を手に取る。
そして、やがてすべてを悟って、泣き出す。
自分の音楽が、こうして人を苦しめていた、と。
 
有希を見ると、佐々木さんはうめく。
 
「よこせ…、それをよこせ」
 
音楽を、佐々木さんを苦しめたお前の音楽をよこせ、と。
有希には、そう聞こえた。
 
「ごめんなさい…」
 
 
 
もう少しで光が当たったはずの、努力しつつ音楽を楽しんでいた天才フルートは、こうして表舞台から姿を消した。
 
……
 
 

 


 

 
ジョン・スミス
 
家具のほとんどないこの部屋に沈黙が戻り、あたしもまた言う言葉がない。
有希は悲しそうに唇を歪め、フルートのケースをなぞる。その指がほんのわずか震えているのを見て、いっそうなんともいえない気分になり、実際、何も言わなかった。
 

がたん。

 

有希の手から佐々木さんの日記が落ちる。そして、でたらめなページを指して、止まる。
その日の日記の題目は、元々あったものに二重線が引かれ、『神』と書き直されていた。
 
そして、そこに書いてあったのは…
 
『…なんだか分からんが、好都合だ。今なら逃げられる。俺はパトカーから…』
 
…あれ?
 
ずっとなぞって読んでいく。
佐々木さんの日記なのに、なぜかジョン・スミスという人の視点で書いてある。
 
ええと…ジョン・スミスって…なんか覚えているような…
というか、このやる気のない文章…ええと、まさか、まさかね…
 
 
 
あたしの肩に、なんかやわらかい忌々しいものが押し付けられる。
それはあたしの肩に手をかけると、
 
「これ交換日記の意味違いますよぉ~ってひえぇぇ!この題目、書き直したの佐々木さんですかぁ?
ジョン・スミスさんは神様ですかぁ?佐々木さん、ジョンさんが大好きなんですねぇ~…」
 
佐々木さんを見つめ、へぇ~っ、と言う。少し赤面する佐々木さん。
 
…えっ…てぇ、みくるちゃん?
 
「ええと…まあ、ジョン氏には顛末(てんまつ)知られたくなかったから、そのあとは日記帳、貸してないけど…」
さっきまであんなに暗かったのに…部屋の空気はだんだんに明るくなっていく。
 
みくるちゃんのピアノは真っ黒だけど、笑うとどんなときでも、どんなところでも、暗い雰囲気が吹っ飛んでいく。
それが、あの娘のいいところ。
 
別にみくるちゃんが好きな訳じゃないけど、一緒にいると楽しいから。
それがみくるちゃんがここにいる理由、あたしがここに拉致してきた理由。

  
「キョン、あんたこの話、全部知ってたのね」
後ろにいるキョンは頷(うなず)く。
 
「ブルースバンドの飛び込みの後、長門の家に連れていかれてな。それで全部聞いた」
…ええと、もちろんご両親はいらっしゃったわよね?気になるけど、それを聞くのは後回し。
下を向いたまま、あたしは口を開く。
 
「試しに聞くけど、キョン。音楽って、麻薬みたいな悪だと思う?」
キョンは首を振る。
 
「音楽は言葉みたいなものさ。人をめちゃくちゃに傷つけることもあるが、辛い目にあっている人を幸せにすることもある」
キョンは、ちらり、と有希を見やる。辛いときはあのブルースバンドみたいに楽器で『叫んで』、皆に伝えることができる。伝わったら、皆が幸せをくれる。
 
「良いとか、悪いとかが問題じゃないんだ。やってて楽しいか楽しくないかが問題なんだよ、きっと」
一息おいて
 
「話が違うようだが、科学だって同じなんじゃないか、と、俺は思う。科学研究会会長さん」
あたしは有希を見やって、ちょっとだけ、笑う。
 
『明日に向かう方程式』…早く研究、進めなきゃ、ね。
 

第七章 〆

 


 

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