夕焼けが、やけに目に沁みた。
前に彼女と見た映画の半券を握った手で、僕は思わず目を拭う。その橙は、僕の目の網膜を貫通し、全てを焼きつくしてしまいそうなほどの眩しい鮮やかな色だった。
光陽園の屋上からは、あの日僕たちが通ったルートがよく見えた。喫茶店、坂道、そして彼が在学していた県立北高校までを目を追い、僕はその瞼を閉じる。それと同時に、最後の彼の言葉が、頭の中を木霊した。
『なぜなら俺は、SOS団の団員その一だからだ』
彼は僕にないものを持っていた。そして、それは決して手の届かないものだった。
僕は彼をどう思っているのだろう。羨望なのか、憎悪なのか、はたまた別の感情なのか。分からない。分かるのは、ただ一つだけだった。
手のひらの中で、くしゃりとなってしまった半券をゆっくりと開く。
――いつかの冬の日。
彼女が彼を見る目、その表情、はずむ声の残響は、僕の頭にしがみつき、いつまでも離れてくれなかった。

 

 

 

 

 
十一月の空は、分厚い雲のせいかどこか重苦しかった。
刺すような冷たい風に、僕は思わず手を擦り合わせる。はく息は白く、そういえばこんなに寒くなったのはいつからだっけと考えを巡らせたその時、僕の背後から声が掛かった。
「古泉くん」
待ち人来る。
凛とした声に引き寄せられるように振り向いた僕は、人差し指で赤い鼻をさすりながら微笑んだ。
「待った?」
「いいえ、今来たところですよ」
テンプレート的な僕の返答に、涼宮さんは彼女の背丈にしては少し大きめなコートのポケットに手を突っ込みながら、「そう」と軽く答える。
「それじゃ、行きましょ」
スキニーデニムの上からブーツを履いた彼女の足が軽快に動く。腰まである長い髪が風に跳ね遊び、僕はそれを追うように一歩踏み出した。
些細な会話を交わしながら(とは言っても僕の言葉に彼女が短く答えるだけだったが)、僕は辺りを見遣る。休日の駅前はやたらと人が賑わっていて、その中には手を繋ぎ、楽しそうに笑い合う男女の姿も見えた。周囲から見れば、僕たち二人もそんな風に見えるのだろうか。ふとそんな事を思い、そしてそんなくだらない考えも、冷たい風が吹き飛ばしてくれた。


僕と彼女は付き合っているわけではない。
もし僕が交際を申し込んだならば、彼女はそれに了承するだろう。それは『彼女も僕の事が好きなんだ』なんて類の自惚れではなく、彼女は誰に対してもそうするのだ。まさに来る者拒まずの彼女は、誰から告白されようと、一片の悩みも見せずにOKする。それから普通のつまらない男だと分かると、バッサリといとも簡単に切り捨てるのだ。実際、僕はそういった人達を何人も見てきた。僕は切り捨てられた彼らと同じく、普遍的な性質を持つただの一人間でしかない。何か特殊な能力を持ち合わせているわけでもないし、今こうして涼宮さんといられるのも、それは『僕』という個体が為しているわけではなく、『転校生』といった肩書のおかげなのだ。それでも最近は、それにも飽きられつつあるのだけれど。
意味のない恋人よりは、まだこの関係のほうがマシだ。そんな小さなプライドが、彼女に思いを告げる事にブレーキをかけていた。


事前に調べ上げたレストランで昼食を取り、僕たちは再び歩き続ける。
そう言えば、彼女を好きになってから一番役に立ったのはインターネットだった。評判のいい所を見つけたら「次はここに誘ってみよう」とか、何か面白い話を見つけたら「今度涼宮さんに言ってみよう」なんて、我ながら単純だと苦笑してしまうけれども。それでも、「美味しいわね、ここ」「その話、もっと聞かせて」と笑う彼女のその顔だけで、僕は幸せだった。気障ったらしい台詞だけれど、彼女の笑顔が、僕にとって一番の幸せだったのだ。

 


隣を歩いているつもりでも、気が付けば半歩先に出ている彼女の足が、ピタリと止まった。
「どうかされましたか?」
ゆっくりと彼女の視線を追いかける。そして、壁に貼ってあるとある洋画のポスターにぶつかった。タイトルも聞いた事はないし、見る限り彼女が好むような題材とは思えなかったが、それでも涼宮さんは食い入るようにそのポスターの文字を見つめていた。
「映画、よろしければ見ましょうか?」
僕の言葉に、彼女は思い出したかのように僕の方へと振り向き、珍しく曖昧な表情を見せながら、
「あ、……そうね、そうしましょ」
そう言ってもう一度ポスターを一瞥すると、映画館内へと足を進めた。吐きだした白い息がゆらゆらと消える。マフラーにうずめた首を傾げてから、僕は少しずつ離れていく彼女の背中を追った。


チケットを二枚購入し、涼宮さんは烏龍茶、僕はアイスコーヒーを片手に指定された番号の扉を開く。
小さな劇場はまるで貸し切ったようにガラ空きで、彼女はそんな場内をぐるりと見回すと、迷う事なくど真ん中へと進み始めた。それに追随しながら、僕は思わず笑みを浮かべる。実に彼女らしい選択だ。
そして彼女はそこに腰かけ、その隣に僕は座ろうとして、どういうわけか踏みとどまった。何となくだけれど、そこに座るべきなのは、僕ではないような気がしたからだ。アイスコーヒーの紙コップをぐっと握りしめながら、僕は思考する。どうしてだ。分からない。なぜ彼女がこの映画を選んだのかも、スクリーンを見つめる彼女の、どこか哀愁漂う後悔したような表情の意味も、僕はちっとも分からなかった。
「……古泉くん、どうかしたの?」
「ああ、いえ。何でもないですよ」
そのすべてをかき消そうとして微笑み、僕は彼女の隣に腰かける。それでもその感情は、いつまでも僕の心の中でくすぶっていた。


間もなく上映が始まったその映画は、やはりというか何というか対して面白味を感じられる内容ではなかった。ますます彼女がこの映画に惹かれた理由が分からず、スピーカーから流れる流暢な英語を聞き流しながら、僕はちらりと隣に座る涼宮さんを見遣る。
彼女はやはり、どこか物憂気な視線を、チカチカと光る大きなスクリーンに向けるだけだった。

 

 

 

 

 
彼が現れたのは、その後のことだった。

 


夕焼けは、もう既に顔を隠してしまっていた。
代わりに薄暗くなってしまった空は、やっぱり重苦しい。ネイビーブルーの空に、白い吐息を一つ零してから、僕は天を仰ぐ。
彼は僕にないものを持っていた。そして、それは決して手の届かないものだった。
僕は彼をどう思っているのだろう。羨望なのか、憎悪なのか、はたまた別の感情なのか。分からない。分かるのは、ただ一つだけだった。
僕は、彼には敵わない。

手のひらの中で、くしゃりとなってしまった半券をゆっくりと開く。
登場人物の『ジョン・スミス』の文字を指でなぞり、半券を細かく破ると、そっと手を離した。風に託されたそれは、ひらひらと落ちていく。
体の芯まで凍ってしまいそうなほど冷たい、いつかの夕暮れ。
屋上のフェンスに身を乗りだし、冷たい風に舞う紙切れを、僕はいつまでも眺めていた。

 

 

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最終更新:2009年08月31日 09:38