翌日。
 
 何を期待するわけでもなく無意味に靴箱の奥を覗いてみたりしながら教室に辿り着くと、ハルヒがほおづえをついて窓のほうを向いていた。いつものことだと思って俺はようとだけ声をかけ、ハルヒの前の席に腰を落ち着ける。それでもまるで反応がなかった。
 とことん解らんヤツだ。昨日まで七夕だ夏合宿だと騒いでたというのに、明けてみれば省エネモードになってやがる。最近は機嫌がよすぎたから個人的に調整でもしてるのかね。ああ、それとも何だ、憂鬱症候群がぶり返しでもしたのか?


「…………」


 ううむ、気味悪いほど無言である。顔の表情一つ動かさない。
 デフォルトで無口じゃない奴が唐突に無口になったりすると周りにいる人間が困るんだよな。ハルヒの場合は躁鬱病的にやたらテンションが高いときと低いときがあるわけだが、それにしたってハルヒ、お前との沈黙は長門の沈黙ほど心地よいものではないな。


「…………」 
「何か、あったのか?」


 依然動きなし。カラクリ仕掛けの人形みたいに視線を窓の外の空に固定したまままったく動かない。窓ガラスが映すハルヒの目は魂が抜けていた。


「喋れよ」
「……うるさい」


 この始末である。俺はさすがにこのまま前を向く気にはなれずに、


「昨日までの元気はどうしちまったんだ。合宿でみんなと遊びまくるとか言ってうるさかったのに」


 一瞬、ハルヒの目が大きく見開かれたような気がした。取り調べでまずい証拠を提示された容疑者のような表情だ。  


「昨日、何かあったんだな? 九曜――長門たちと」
「退部するって」


 は?
 ハルヒは一言だけ呟いて後はひたすら黙った。ちょっとしてから俺の顔を睨んで机に伏せようとしたが、何を思ったのかやめて、またガラスの外の世界を眺めた。凛として威厳に満ちあふれた生意気な顔である。
 俺は状況が読み込めなくなって、数回ほどハルヒの言葉を頭の中で繰り返した。

 退部するって。

 いや、何が。昨日九曜たちと何があったのか。退部するって。退部? 退部って何だ。部活を抜けるというアレか。それ以降、退部したヤツは部活に来ないっていうアレだ。
 部活? そんなもんは決まってる。SOS団だ。それを退部するって。なに?
 俺の頭には大量のクエスチョンマークが飛び交い、予想外すぎる出来事に少なからず戸惑っていた。そして俺の目の前で空を見つめ続けるハルヒ。なんだ、なんなんだ。 



「やめるってさ。三人とも、SOS団をね」

「はあ!?」


 教室中に響きわたるような声で叫んでいた。セミまでもが鳴きやんだように感じた。
 頭がふっとんだ状態になって、まるで紙に染み込む赤色インクのように、時間が経つにつれじわじわと浸透してくる現実味。SOS団をやめる。九曜と偽古泉、偽朝比奈さんが。口あんぐりでハルヒの顔を見返した。やつは強気な顔で、ただほおづえをついて唇を結んでいた。
 どう言葉を発していいものやらさっぱりだ。まだホワイトモードから立ち直れない俺の頭に、言うべき言葉の代わりに妄想が走馬燈のごとく浮かび上がった。

 部室にいるのは俺とハルヒだけで、長門も朝比奈さんも古泉もいない。もちろんパソコンは二台だけだし、大量の本もない。朝比奈さんがいないのだからコスプレ一式もなく、ボードゲームもない。ただ、去年の四月にハルヒが持ち込んだ雑多なものばかりが妙に寂しさを演出している文芸部室――。
 そこでは、俺はハルヒと一対一で口論しあうだけの存在であり、だったら野球大会なぞに出られるわけもなく、映画撮影だってできないし、まさかとは思うが合宿も二人だけだ。空虚という言葉がこれほどまでにしっくりくる例が他にあるだろうか。

 そんなバカな…………。
 俺は妄想を振り払った。


「冗談だろ?」


 ハルヒは怖いくらい冷たい表情を変えず、姿勢もまったく変えない。俺の問いかけに答える気はないらしい。
 待て待て。なんなんだこれは。あの三人が部活をやめるらしい。昨日までずっと何かの変化があったから、その続きのつもりなのか。長門が消えて朝比奈さんが消えて、古泉が消えるのと入れ替わるようにして周防九曜、ダミーの朝比奈さんと古泉がSOS団に侵入してきた。そして今日になったら侵入してきた三人が部活をやめると言っている。
 いったいどこへ向かうんだ。
 俺とハルヒを二人にして何が楽しい。そんなことをして何の意味がある。SOS団は五人でないとダメなんだ。


「何でそんなことをしやがった……」
「知らない」


 ハルヒは口もとをぴくつかせ、同時に肩も震わせていた。俺もさすがにそれ以上何か言えるわけでもなく、また得られる情報もないだろうとおとなしく前を向こうとした。
 その時、前を向く寸前、俺の視線がハルヒからはずれる寸前、俺は見てしまった。毅とした表情のハルヒが、最後の一瞬だけ、この世のあらゆる戸惑いと哀しみを背負ったような表情をしたのだ。眉がよって、目は曇り、唇はギュッと結んだままで。俺はそれを見たとき、何だかわけの解らない激しい感情を覚えた。 

 こともあろうか、ハルヒを巻き込みやがった!

 タブーをこともなげに使ったのだ。世界改変が起こるからとか情報爆発が起こるからとか、うん、まあそれもあるだろうが、何て言うべきか……とにかくハルヒをこの事態の渦中にぶち込んではならなかったのだ。それも、部活をやめるという超直結型で。最悪級だ。根底を覆すような真似をしてくれた。退部する? ほざくんじゃねえ。今さら切れる縁じゃないんだ。事実俺は退部なんてことは頭にもなかった。想定外にも程がある。


「おはようっ」


 憎らしいほど快活な声をして担任岡部が入ってきた。
 ハルヒにつられて空を見れば、雲一つない快晴だった。もうどこかに行っちまった梅雨前線が戻ってきて仕事してくれればいいのに、憎らしいほどカラッとして暖かい陽気だった。嫌になる。青天の霹靂でも起こればいいのだ。






 退部する――。
 ハルヒの憂鬱が空気感染するものだったのか知らないが、はたして俺は三時限目が終わるまで自分の机を動けずにいた。ハルヒはよくも集中力が長続きするもんだ、アヘン中毒者のような目をして延々と空模様を眺めるばかりである。残念ながら雨が降り出すようなことはなさそうだ。
 
 どうしていいものやら、俺はショック症状の最中にいた。
 
 真相を知らないハルヒのショックは察するだけでも痛いが、俺とてまさかこんなことになってみようとは想像もしていなかった。頭はさっきから謎な妄想を繰り広げるばかりで、もはやまともに稼働しなくなっている。
 おかげで授業はさっぱり聞けやしない。右から入って左に抜けるだけならまだしも今日は右に入る前に完全にシャットアウトされており、その代わりに頭の中で壊れたフィルムがずっと同じ部分を繰り返すがごとく退部という熟語が渦巻くのはどうにかして欲しい。
 古泉を徹底的に言及してやろう。
 俺が古泉に言い寄ることを思いついたのは、休み時間、後ろのハルヒと仲良く仏頂面で地蔵になっている最中のことだった。偽物でも奴ならば説明好きに違いないのだろう。
 もはや躊躇う必要などない。俺は教室を出て廊下に繰り出した。もういい。納得できるまで説明させてやる。


「やあ」


 そう決心したはいいが、俺は早速出鼻をくじかれた思いになった。ギョッとしてそいつの顔を見る。


「風邪は大丈夫なんですか?」


 まるで俺が出てくるのを待ちかまえていたかのように、そこには古泉一樹の含み笑いの顔があった。いや、事実待ちかまえていたのだ。九曜の手下ならそのくらいはする。


「どうだろうね。最近はもっぱら精神病にかかってるように思えてならねえよ」
「そうでしょう。まだ精神を病んでいなかったとしたら、そちらのほうが異常です」
「何で急にSOS団を抜けるなんて言い出しやがった。昨日の今日だろ」
「そうですか? それほど急でもないと思ってたんですけどね。あなたも御存知の通り、我々は先日から涼宮ハルヒの情報改変能力を利用して、我々が涼宮ハルヒを観測する上で障壁となりうる存在を次々と削除してきました。順調に行くかと思われましたが、思わぬ事態になってね。涼宮ハルヒにあなたを消すようにし向けてもなぜかあなただけは抹消されなかったんです。それどころか我々の支配に対する涼宮ハルヒの反発力がどんどん強くなってきはじめまして、このままではせっかく削除した存在が復活してしまうようなことになりかねませんでした。そこで仕方なく、九曜さんや僕、朝比奈さんが一時的にこの世界に潜入したわけです。退部という形で、涼宮ハルヒの記憶から元の世界の三人を完全に切り離すためにね」


 俺は絶句しながら、ああなるほどとか頭の隅で思った。

 ハルヒの記憶には消えてもなお、まだ長門や朝比奈さんや古泉の輪郭が残っていたのだろう。さらに外部から圧力がかかってるとなれば、そこは黙っているハルヒではない。無意識状態でもかなりのタチの悪さだ。結果、ハルヒは抹消しちまった三人を取り戻そうと九曜の頭脳支配に反発する。しかし九曜サイドとしては、あの三人がいてはハルヒの観測をする上でどうしても邪魔になるのだった。どうにかしてハルヒの頭にこびりついている三人を取り除かなければならない。どうすればいいか。もともとハルヒとあの三人でつながりがあるのは部活だけである。だったら、その部活をやめてしまえばハルヒとのつながりはなくなり、ハルヒも未練だけで長門たちを呼び戻そうとはしないだろう。

 と、そんなところか。
 しかしそんな話をよくも俺に向かって堂々と言えたもんだな。  
 いや、違うね。どうせこいつだって九曜の手下だ。感情とかいう高等な概念は持ち合わせてないんだろうよ。俺にこんなことを隠しもせずに話して、俺がどんな思いになるのかもまったく予測できないのだ。九曜は確かに脅威だが、月並みの感情を持ってないところが穴だったな。

 おかげで俺は決心がついちまった。

 絶対、ハルヒに正しい長門、朝比奈さん、古泉のことを忘れさせたりするもんか。そんくらいの努力なら俺だってできるんだ。


「おい古泉、お前、残念だったな。やっぱり長門のほうが高性能のアンドロイドらしいぜ」


 偽古泉は何を言っているのかさっぱり理解できない、といった感じの表情をして俺を見ている。この際だ、病人を見るような目でも何でもしやがれってんだ。この一年で長門が獲得した感情ってのはな、ずいぶん貴重なものだったらしいぞ。この古泉を見てたら、それがはっきりと解った。 






 始業のチャイムで俺と偽古泉は別れた。もう二度と会うこともないだろう。あんなヤツ、俺が会いたくない。部活をやめるということが、俺はともかくとしてハルヒにどんな影響を与えるかだけは理解しておくべきだったのだ。こういうことを俺がうまく表現できる自信はないが、ようするにあいつもまた人間だってことさ。もちろん感情だってある。あいつらとは違うんだ。
 




 昼休み、俺に机を寄せたがる谷口と国木田をスルーして俺は部室へと向かった。弁当を持って行くべきかどうかと思い悩んだが、そんなに悠長にやってる場合でもないだろうから教室に置いてきた。昼飯ぐらいいくらでも我慢してやる。
 部室への道のりで偽朝比奈さんやコンビを組む鶴屋さんとすれ違ったりすることもなく、俺は順調に部室に到達した。このまま開ければ誰もいないか、あるいは九曜がいたり、もしかするとハルヒが何かやってるのかもしれんが、俺はあえて通常空間の中を確認することなくポケットから鍵を取り出した。思わぬもんを見ちまうと、心証が悪くなる以上に動揺するだろうからな。これ以上疲れるのはうんざりだ。
 TPDDを原材料とした鍵を扉の鍵穴に突っ込んで回すと、どこかでカチャリとかいう音が聞こえたような気がした。回して開く。


「おっと、早速戻ってきたんですか? 何か忘れ物ですか?」


 クリーム色の空間、物理的に物音一つしないこの部屋に入った俺を出迎えたのは、ハンサムスマイルの古泉だった。頭が痛い。見かけ上、こいつはさっきの偽古泉とまったく同じだからな。


「いや、こっちはもう一日くらい経ってるんだが。昼休みにちょっと来させてもらってるんだ」
「何と、本当ですか……。驚きですね、こちらではあなたが鍵を手にして出ていってから一分弱ほどしか経ってませんよ?」


 古泉は心底意外そうな顔をしており、ちょっと視線をずらせば朝比奈さんもまた口に手を当てて驚いてらっしゃる。存在自体がデタラメな空間なだけにそういうディテールに凝った質問は黙殺することにする。俺は部室の奥でパイプ椅子に座っている万能宇宙人に目をやった。どうせこいつが何かしたに違いない。主観時間と客観時間にずれを生じさせたとか、やり方ならいくらでもあるだろう。


「それどころじゃないんだ。大変なことになった」


 俺は一日にあったことを包み隠さず三人に話した。
 偽者が現れてSOS団をやめる、とか言ってきたこと、その理由について偽古泉から聞いたこと等々。
 長門は黙々と、朝比奈さんは場面場面で表情を曇らせたりしながら、古泉はちょうどいいタイミングで相槌を打ちながら俺の話を聞いていた。そんでもって俺はここに来たのだと言うと、口をつぐんで三人の顔を眺めた。


「涼宮さんは……。キョンくん、涼宮さんの様子はどうでしたか?」


 珍しくも沈黙を破ったのは朝比奈さんだった。


「そうですね。やっぱ普通じゃなかったです。俺が振り返るといっつも窓の外ばっか見てるんですよ、あいつ。授業中も」


 さすがに言葉を切った。くだらん感傷だけど、ハルヒのためにね。


「ちょっと、まずいかも……。これは、禁則になるんですけど、SOS団が解散したり涼宮さんとあたしたちの間に大きなわだかまりができるのはどんな未来にとってもいいことにはならないんです。あたし、映画撮影のときに涼宮さんとキョンくんがケンカしたときに何か言ってたでしょう?」
「ああ、そういやケンカはダメですとかって言ってた覚えがありますね」


 あれはそういうことだったのか。俺がもしSOS団をやめると、未来にどう反映されるかはいまいち解らんが。


「僕も同感ですよ」


 古泉が首を突っ込んだ。


「僕の立場から、というわけでなくとも、涼宮さんに直接手を出すのはある意味タブーです。しかも、SOS団から抜けるなどということをするなんて論外ですよ」
「ハルヒの精神に手を出すと面倒なことが起こるからか?」


 古泉は意外そうな表情を作ってを俺に向け、


「ほう、あなたはそうお考えなんですか? 僕に言わせれば、そのこともありますけど、もっと純粋な部分もあると思いますけどね。それでも解らないようなら、僕はあなたに対する尊敬を失いますよ。これは僕の専門外ですが、あなたにとっては専門分野ですよ」


 ふん。
 お前に言われるまでもない。あのあまりにも虚しい様子のハルヒを見てれば、俺じゃなくたってそんな気持ちになるね。正直俺は退部されたってことよりもハルヒがあの状態だってことのほうがよっぽどショックなんだ。


「それを聞いて安心しました。僕がわざわざ忠言するまでもないでしょう。これからどうするかは、すべてあなたにお任せします。あなたなら、おそらく僕たちの誰よりも涼宮さんを解っているでしょうからね」


 古泉は長門と朝比奈さんに目を向けた。そうでしょう、とでも言うかのように。


「キョンくんなら大丈夫です。あたしは結局あんまり役に立てなかったかもしれないけど、キョンくんはその鍵を持っているでしょう?」


 長門もついと焦点を俺に持ってきて、


「わたしも、ここで待ってるから」 


 何だか示唆的なことを言って読書の海へと戻っていった。






「ふぅー……」
 

 ハルヒがようやく言葉を発した。と思ったらため息だった。それで俺は、ハルヒは今の今までため息すら一度も吐いていなかったのだと気づいた。
 そろそろ夕日が空に浮かぶ頃合いだ。掃除当番がせっせと働いているときからハルヒは窓の外を見っぱなしで、掃除当番が引き上げた後もその調子だったため、疲れるだろうと思って俺は購買で飲み物を買ってきてやった。さながらマネージャーのように俺がブラックコーヒーを差し出すとハルヒは黙ってそいつを手にした。現在、ブラックコーヒーを飲み終わったハルヒは、まだ空き缶を手でいじりながら窓から外を眺めている。そんなに面白い世界でも広がっているんだろうかね。窓の外にはよ。 

 俺のどこか深いところでいい加減ふっきれちまえと自分に向かって呼びかけているのが解る。だが俺はあえてその感情を押し殺した。これは俺に対する試練ではないからだ。俺の心なんてのは決まっている。問題は、ハルヒがSOS団という団体をどう考えているかだった。

 あの偽古泉は俺にわざわざ説明してくれたのだ。ハルヒの無意識が勝手に暴走して長門や朝比奈さん、古泉を抹消した。そしてその力が俺に向けられようというときになって、ハルヒの無意識がとうとう九曜の頭脳操作に反抗したのだ。反抗の力はどんどん強まり、ついには抹消されたはずの長門たちをも復活させようという勢いになっている。

 そこでの退団宣言。

 俺は、ここがハルヒを変える大きな分岐点だと思っている。もしあいつが本当にSOS団に――お遊びサークルではない、宇宙人、未来人、超能力者がいる団体という意味でのSOS団に――未練を感じているのだとしたら、本物の長門たちは復活するし、ハルヒが俺に向かってそういう仕草をするに決まっている。しかしもし、SOS団をただのお遊びサークルだと捉えていたとすればSOS団は復活しない。どんな葛藤があってもハルヒは最終的に、まあ仕方ないで済ませてしまう。あいつの人格なら別のお遊びサークルを作ることなんて簡単だからだ。代用がきく。ただしそれはSOS団とは違って、謎的存在は一切含まれない代用品だ。
 それで納得するなら謎的存在はハルヒにとってはもう必要ないということになる。近頃のハルヒを見ていると、どっちになるかは正直かなり微妙だった。


「キョン、あんたも部活をやめるの?」
「俺は続けるさ。もしお前と二人だけになっても、たぶん卒業までな」


 俺は即答した。もしハルヒからこういう質問がきても、絶対にこう答えようと決めていた。
 俺の気持ちはすでに固まっている。これはもう最低限のプライドと意地の塊なのだ。 


「別にあたしに気を遣わなくてもいいわよ」


 そんなつもりではないと言おうとしたらハルヒが続けた。


「……こんなこと、言わせないでよね」


 言うかどうか迷ってから言ってしまって後悔したような顔をしている。それからムッとした顔になると、ブラックコーヒーの空き缶を窓の外に放り投げた。
 缶だけが窓の外の世界に、放物線を描いて飛んでいった。


「とりあえず、合宿は取り消しね。このままじゃ行っても意味ないから。ああ、鶴屋さんにも伝えとかないと……」


 行っても意味がない? そうじゃない。違うのだ。なぜなら退団したのは偽物の長門たちだからだ。本物はちゃんといて、合宿にも付き合ってやるつもりなのだ。
 俺は猛烈にそう進言したかったが、言ってやるわけにはいかない。合宿が取り消されるかどうか、ひいてはSOS団がなくなるかどうかを決めるのはハルヒの心なのだ。お遊びサークルで済ませてしまうか否か。


「帰るっ!」


 ハルヒが吐き捨てるように言って席を立った。鞄を持って、入り口に向かってずんずん進む。小さくなる後ろ姿。

 俺は絶望した。

 もはやSOS団は消えるしかない。ハルヒの好奇心は薄れ、謎的存在は不必要なものになってしまったのだ。
 これからどうしようか……。
 どうしようもなく途方に暮れていた俺は、次の瞬間、自分の曇った窓ガラスのようになってしまった眼を大きく見開いた。思いも寄らぬ光景が目に飛び込んできたからだ。
 俺はその光景に目をとられ、釘付けになった。
 そこには、絶対にさせてはならない、見てはならないものがあった。
   

 ハルヒの黒目がゆらゆらと揺れて、そこから生み出される宝石のような、真珠よりもルビーよりも貴重なたった一滴の何かが流れ出ていた。 
 

 このときの俺はさぞかしアホな面をしていただろうな。
 俺の中の何かが音を立てて崩れていった。それとともに俺はようやく悟った。ハルヒの言葉にならない言葉が俺には伝わった。
 こうなったらどうするかも、実は既に決めてあった。


「ハルヒ、来い!」


 俺は意を決してハルヒの手を取った。顔も見ずに走り出すと、ハルヒは抵抗せずについてきた。向かう場所はただ一つ、SOS団の部室だ。教室を飛び出して廊下を抜ける。
 いつだったか、こんなことがあったな。あれはハルヒに言わせれば夢世界の出来事だが、今は違うぜ。ハルヒが否定しようがしまいが、これは現実だ。そして俺は、ハルヒにこれが現実だと解らせてやる必要があるのだ。周防九曜とその手下どもこそが、ただの夢に過ぎなかったのだと。

 なぜなら、ハルヒがそう望んだからだ。

 通い慣れた部室棟にはあっという間に到着した。二階に続く階段を上り、コンピ研を通り過ぎてその横の文芸部室もといSOS団部室の前で走っていた足を止める。


「ちょっと、キョン?」


 ハルヒが何か言っているが、今は無視するしかない。何か言うのはこの中の光景を見てからにしてくれよ。
 もちろん、普段の放課後のようにそのまま扉を開けたら、そこにいるのは偽朝比奈さん、偽古泉、そして周防九曜である。あいつらなら、今頃SOS団を抜け出せて不安定要素がなくなっていい気分になってるだろう。奴らを見たら即刻束にして七回斬り捨ててやりたい気分だが、今行かねばならないのはあいつらのところではない。本当のSOS団のところだ。
 ポケットから鍵を出すのすらももどかしい。朝比奈さんのTPDDを使って作られた、超空間移動プログラムが書き込まれているという鍵。それを木製の古ぼけた扉の鍵穴に差し込み、回した。
 カチッ。
 解錠された。
 俺は後ろで立ち尽くしているハルヒの手を取ると、うつむいているハルヒを見て言った。


「ハルヒ、すべてを思い出せ。あるいは気付きやがれ。SOS団はお前がそう望んだからできた団体だったんだ。今もお前はそう望んでいる。だってのに、途中退団なんかできるわけねえだろうが」


 ハルヒが顔を上げる。妙な驚きにまみれたような、初めて見る気抜けした表情だ。


「よく見ろよ。これが本当のSOS団だ」


 扉を開けて、中に足を踏み入れる。俺とハルヒは暖かいクリーム色に包まれた。
 そこには――、


「やあ、これはこれは涼宮さん。どうでしょう、僕を覚えてくれてますかね。もし忘れてしまっていたとしても、僕は卒業までお付き合いするつもりですよ」
「あっ、あの、涼宮さん……。あたし、あんまりお役に立てないけど、がんばるのであと一年よろしくお願いしますっ」
「わたしは、これからもここで本を読み続けるから」


 精神概念体の、長門、朝比奈さん、古泉がいた。
 それぞれいつもの定位置に。ああ、そうさ。これが紛れもないSOS団だ。背景がクリーム色だろうと、三人の実体がなかろうとそんなことは関係ない。ハルヒ、これが真実なんだよ。宇宙人と未来人と超能力者だ。


「おい」


 俺もまた、半分口を開けて呆然としている憎らしいくらい整ったその顔に言ってやる。


「俺らはまだ人間やってる。機械とはけっこう違ってるんだぜ」
「そんな……」


 ハルヒは口から呟きを漏らし、それから油ぎれロボットのような動きで首を回して部室内を眺めた。   
 混乱してもいい。夢だと思っても構わん。
 でもこれは、お前が選んだんだ。だからお前の深層意識は、絶対にこれがどういうことかを理解しているはずだ。ここはお遊びサークルではない。このヘンテコな空間がそれを物語っている。
 ハルヒの目が、一人の団員のもとで止まった。
 小柄なセーラー服姿の、読書好きの団員。そいつだけが偽者と本物の姿が違っていて、偽物は周防九曜が成り変わっていた。ハルヒはこいつが誰かを知らないはずだった。


「――有希」


 そう言ったのはハルヒだった。
 どこかで轟音がしてくる。頭の中なのか、それともこの校舎が突貫工事でも始めたのか。だったら避難をしなければならない。
 そんなことを意識外で思った次の瞬間、俺は猛烈な吐き気を覚えた。大地震でも起きたのか、激しい揺れが起きた。無重力下でぶんぶん振り回されているような感覚である。揺れは収まることなく俺らをかき混ぜ、やがては風景が消失してまばゆい光が射し、俺は目を開けていられなくなった。いかん。網膜が焼かれたかもしれん。上と下が入れ替わる。光速のようなスピードで、これは上がっているのか、それとも落ちているのか? それすらも解らん。ハルヒはどこに行った。俺はどこに向かっているんだ。反転しながら吹っ飛ばされる。どこへ。四年前の七夕か。朝倉涼子と脇腹の激痛を思い出す。今度は周防九曜か。ふざけるな。あいつなら宇宙の果てに飛ばしちまえばいい。そして戻ってこい、宇宙人の長門。


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