価値観を超えたもの、ってあるよな。
 正義と悪とか、愛情と憎悪とか、そんな枠組みに収まらないもの、俺はあると思う。
 そういうのって、人間が一番輝いている場面じゃないか?
 まあいい。俺はいつものように生きるだけさ。


 ~最終章 海ゆかば~ 

 

 

 目が覚める。真っ白な天井が目に映る。
 ゆっくりと体を起こすと、ベランダから仄かな光が、白いカーテン越しに差し込んでいる、
そんな光景が目に映った。
 いつも通りの、俺の部屋。
 それなのに、何年もの間ここを留守にしていたような気がする。
 久しぶりに、ここに帰ってきたような気がする。
 何か、夢を見ていたような。内容が思い出せない。
 俺の心は、長編映画を見た後のような、濁りの無い穏やかさに包まれていた。

 眠い目を擦りながら部屋を出る。
 ドアを開けると、俺を起こしに来たのだろう、パジャマ姿の妹と鉢合わせになった。
「キョン、くん」
 妹は、立ち尽くしたままぽつりと呟いた。
 穢れの無い両目が、しっかりと俺を捉えている。
 少しの間の後、妹は地面を蹴って俺に飛び込んできた。
「キョンくん」
 妹は、俺の腕の中でひたすら泣きじゃくっている。
 妹を体に寄せる。するとなぜだろう、勝手に涙が溢れてきた。
 俺たち二人は、互いの肩を借りて止め処なく泣いた。 

 家を出て、妹と別れ、学校までの坂を登る。
 いつもの街並み、いつもの人たち。だよな。
 だが、俺はそんな当たり前の風景が、とてつもなく懐かしく感じた。
 見慣れた店、その壁についた汚れが俺の胸に突き刺さる。
 俺は、馴れ親しんだ路地裏の一角に道を逸れて、蹲って涙を流した。

 自分でも驚いた。
 今までひいひい言いながら歩いていた坂を、今日は軽々と登ることができたからである。
 夏場なので汗はかいたが、それまでだった。
 校門に辿りつき、「県立北高等学校」と渋い字で書かれた立て札に目をやってから、俺はゲートを潜った。

 毎日のように足を踏み入れる教室。
 今日は、それすらもいとおしく感じる。どうしちまったんだよ俺は。
 クリーム色の引き戸に手をかけて、それをゆっくりとスライドさせる。
 俺の後ろの席には、退屈そうに頬杖をつくハルヒが座っている。
 いつも通りだ。いや、確かめる必要はないだろ。
「よ、ハルヒ」
 木製の椅子に腰を下ろしてから、俺は朝陽に包まれたハルヒにいつも通りの挨拶をした。返答はなかった。
 ご機嫌斜めというよりは、疲れきったような表情だった。寝不足か。

「よし、ホームルームを始める」
 なんてことは無い。朝のホームルームだ。
 それなのに、無意識に俺の背筋が伸びていた。
「今日は、転校生を紹介するぞ」
 岡部教諭は、笑顔混じりに俺たちに宣言した。途端に教室が騒がしくなる。
 まあ、夏休み前のこの時期に転校生なんて、めったに来るもんじゃないからな。
「お前たちも知っている生徒だぞ。
 さあ、入ってくれ」
 そう言った直後、前のドアが音を立てて開く。
 俺たちが知っている人? ふわりと浮かんだ疑問は、すぐに解消された。
「元一年五組、朝倉涼子です。覚えている人もいるかな」
 浅葱色の長髪が、風に煽られて揺れる。
 純朴な笑みを浮かべる朝倉が、扉の前に立っていた。
 あれ、久しぶりだよな。そうだよな。
 そのはずなのに、昨日会ったばかりのような感覚だった。
 懐かしいとか、そういった類の感情はどこにも見当たらない。
 それに加えて、朝倉に対する警戒心は、いつの間にか完全に失われていた。

「さて、朝倉の机と椅子を運んできてほしいんだが……」
 先生は、監視員のように辺りをぐるりと見回している。
 次の瞬間、俺と目が合ってしまった。息が詰まる。
「そうだな、キョン上等兵やってくれ」
「はい! 連隊長殿!」
 気がつくと、俺は椅子を蹴って立ち、右手を額に当てていた。
 いや、確かにキョン「上等兵」って言ったよな。何の冗談だ。つうか、今俺は何をしているんだ。
 脊髄反射のように、勝手に体が動いていた。なぜだ。
 俺は、朝倉そっちのけでクラス中の注目を一手に引き受けてしまった。
 どの顔も引きつった笑顔だ。なんてこった。
 しかし、谷口と国木田だけは、真顔のまま首を傾げて俺を見つめていた。

 それから、「ご苦労であります」などといったちょっかいを出されたものの、無事に今日の授業を終えた。
 そして、毎度同じく部室へと向かう。
 ノックをしてからドアノブに手をかけて、俺はぎこちなくそれを捻った。
 中央には長机、左側には金属の本棚、右側には衣装やらなんやらが置いてある。
 なぜだろう。久々に訪れたような気がする。
 古泉と朝比奈さんが正対して椅子に座っている。珍しく、朝比奈さんも制服姿だ。
 長門は、窓際のパイプ椅子で黙々と難解な本を読んでいる。タイトルは「補給戦」か。
「オセロでもいかがですか」
 音を立てて椅子に座ると、爽やかスマイルの古泉に勧められた。

 俺は黒、古泉は白。
 両者がせめぎ合い、互いの陣地を奪っていく。
 うーん、何かが引っかかる。
「古泉。こうやってオセロをしていると、なんか思い出さないか」
 不意に、そんなことを問いかけてみた。
「奇遇ですね。僕もそう考えていたところなんですよ。
 その『なにか』というのは、未だに足取りが掴めないので困っているのですが」
 俺と同じ事を考えていた、か。ただの偶然だろう。
 決着した盤面を見てみると、殆どを埋め尽くす黒の中に、白が点々と孤立していた。

「遅れてごめん! さっそく活動を始めるわ」
 破れるような音を立てて、ハルヒが部室へと入ってきた。
「今日は何をするんだ」
「そうねえ、中庭で匍匐前進でもしようかしら」
「結構な考えかと」
 よっしゃ行くか。

 それから俺たちは部室を飛び出し、階段を駆け下りた。
 激しい太陽光線が照りつける中、俺たち五人は一斉に伏せる。
「全軍前進!」
 慣れ親しんだハルヒのかけ声と共に、我先にと対岸を目指す。
 だが、半分が過ぎたところで、俺は動きを止めた。
 俺たちは何をやっているんだ。避難訓練じゃあるまいし。
 それに、どうして俺はこうも慣れた動きだったんだ。気味が悪い。
 他の四人も気がついたのだろう。俺たちは同時に立ち上がった。
 泥だらけの制服を手ではたく。砂埃が宙に舞う。
 それから暫くの間、俺たちはその場で立ち尽くした。 

 全員無言のままで部室に戻り、各々が定位置の椅子に座ったとき、不意にハルヒが俺に向かって呟いた。
「ねえ、キョン。第二次世界大戦って何のために始まったの」
 突拍子も無いやつだなお前は。
 突然こんなことを言い出すから、目の前のパソコンにでも聞いてくれ、という台詞が喉まで出かかった。
 しかし、それは無意識に押さえつけられてしまう。
「そうだな……。大切なものを護るため、じゃないか」
 俺の頭では、このひとことをひねり出すのが精一杯だった。
「何それ。バカじゃないの」
 ハルヒは、あからさまなしかめっ面をしてそう言った。
 だったら聞くな。

 それから程なくして解散命令が出され、俺は自宅の扉を潜った。
 夕食を終え、自室に戻り、何気なく机に着く。宿題でもするか。
 そのとき、俺の脳が急激に痛み始めた。鈍い痛みが、大脳を容赦なく刺激する。
 耐え切れず、俺はベッドに飛び込んで頭を抑えた。
 痛みが引いた。と同時に、様々な光景がフラッシュバックされる。
 軍服姿。土だらけの顔。銃声。死体。
 見覚えの無い光景、のはずだ。いや、これは。
 書かないと、書かないと。
 俺は、何かに追い立てられるようにして机に戻り、ペンと白紙のノートを取り出した。

 俺は何かに取り憑かれたかのように、毎日時間を見つけては家で物を書き続けた。
 終業式を迎え、夏休みに入っても、暇さえあればペンを持ってノートを広げていた。
 そして八月に入り、ようやく俺はぴたりと手を止めた。
 全てを書き終えた。そんな気がする。
 しかし、何を書いたかがさっぱりわからない。
 びっしりと書かれた文字の羅列を読み返してみても、何のことだかわからない。
 なんでこんなものを書いたんだ。
 だが、この中の俺たちは、みんな生き生きしているような気がする。
 生と死の狭間で必死に生きながらえ、みんな光り輝いているじゃないか。羨ましさすら感じる。
 そう、夢のような世界、と形容すればいいのだろうか。
 歪んでいる世界に活きる俺たちは、まっすぐに伸びていた。
 いつの間にか、陽が暮れた。 

 

 翌日、俺は勝手に携帯電話を取り出し、長門に電話をかけていた。
 俺の口が長門の家に行くことを伝えて、俺の手が電話を切った。
 体の部位が全て分離しているような、そんな感覚だ。
 それからあのノートを携えて、俺の足は家を飛び出していた。
 体中から気力が溢れてくる。なんだか怖い。

 長門の部屋に入った俺は、何を喋るよりも先にノートを見せた。
 脇目も振らず読み続ける長門を見て、納得したのだろう、俺はようやく無意識の束縛から解放された。
 試しに、手を閉じて開いてみた。よし、体が自由に動くようだ。
「長門、わけがわからないんだ。
 気がついたらそんなものを書いていた」
 取り敢えず、突然部屋に押し入ったことへの釈明をしておいた。
 辺りを見回す。やはり机以外には何も無い。
 俺、座っていたんだな。今気がついた。
 ベランダからは、暑苦しい西日が照りつけている。
 それなのにこの部屋が快適なのは、情報操作とやらの所為だろうか。
 よく見ると、外に一着の洗濯物があった。こげ茶色をさらに黒くしたような色合いだ。
 男物の私服を持っているとは知らなかった。いや、着ている姿を飽きるほど見たような気がする。
 一通り読み終えたのだろう、長門はノートから目線を放し、俺の目をじっと見つめ始めた。
「あなたに記憶の断片が残っていると判断。
 緊急で記憶の改竄を行う」
 何の前触れも無く、長門の口が動き出す。
 ん? 記憶の、なんだって?
「わたしも記憶を凍結する。だから安心して」
 ちょっと、どういうことだ?
「ありがとう」
 直後、俺の意識は遥か彼方へと飛んでいった。 

 

 

 

 

 ああ、よく寝た。
 ん、地面が固い。机で寝ていたのか。
 体を起こして机を見ると、中央に一冊のノートが鎮座していた。
 第〇七〇七小隊SOS団? なんだこれは。
 なんとなく、なんとなくだが、このノートは開いてはいけないような気がする。
 俺はノートの端を手に取り、ガラクタが詰められた引き出しの一番底に、それを敷いた。

 

 終 

 


|