こんなことを考えるのは不謹慎だが、仮に俺が死んでしまったとしよう。
 銃撃、爆撃、艦砲射撃、なんでもいい。
 その後、俺はどうなってしまうのだろうか。
 魂だけが国に帰るのか? 干からびるまで天日に晒されるばかりなのか?
 そして、生き残ったやつらは、何を考えるのだろうか。


 ~第五章 戰友~

 

 

 うだるような暑さの中、俺は彩帆(サイパン)島の陥落を知った。
 絶対国防圏とされたサイパン島が米軍の占領下に置かれること、それは即ち日本本土が
危険に晒されるということである。
 大規模空襲が始まるかもしれない。補給路が断絶するかもしれない。
 だが、俺たちSOS団にできることといえば、ひたすら比島の防衛に当たることぐらいなわけだ。どうにでもなれよ。

 それから数週間後、大規模な再編が起こった。
 まず、去年にSOS団を含む歩兵第四十一連隊は第三十師団に所属となっていた。そして、その第三十師団は
フィリピン全土を統括する第三十五軍の指揮下に入ったらしい。
 下っ端の俺にはよくわからん話だ。記憶の片隅に留めておこう。


 十月になり、サイパン周辺の島々、所謂マリアナ諸島もことごとく陥落し、比島決戦が本気で叫ばれるようになった。
 そんな折、ハルヒが俺たちを集めてこんなことを言い出した。
「みんな聞いた?」
 目を輝かせながら俺たちに問いかけるハルヒ。
 強めの風が、ハルヒの髪を激しく揺らす。
「唐突に振られてもわからん。何の話だ」
「台湾沖航空戦に決まってるじゃない!」
 即答された。
 台湾沖航空戦とは、文字通り台湾沖とその周辺で行われた、航空機中心の戦いである。
「空母十一隻を撃沈、八隻を撃破よ!
 日本軍もいよいよ巻き返しってところね」
 腕を組みながら自慢げに話すハルヒに、俺は反対尋問をする気にもなれなかった。
 劣勢に追い込まれている日本軍が、たった数日でそんな戦果を挙げられるはずが無い。
 それなのに、ハルヒ、お前はどうしてそう愚直なんだ。

 俺は心底呆れた。
 この虚報は、これまで計画されていた防衛作戦を根底から覆してしまったからだ。
 もともとは、海軍を中心とした迎撃を予定していた。しかし、敵の戦力が落ちたと判断した海軍上層部は、
フィリピン中南部レイテ島での地上決戦を強制したのである。
 決まってしまったものはしょうがない。というわけで、早速渡航の準備が進められることとなった。

 その夜、何の気なしに海岸へ出向いた。
 暗闇に隠れた漣が、その音を媒介にして俺の目にはっきりと映る。ような気がする。
 大海からは髪を揺らすそよ風が吹き、時折ハルヒみたいな風が来ては砂を巻き上げてどこかへ去る。
 何の遮りも無い空には、発光する点々がびっしりと貼りついている。
 数日後には、俺はこの海を渡って、また惨状を目の当たりにすることになるのだろう。もう結果は見えている。
 そうなるまで俺が生き延びたら、の話だけどな。
 波は、表情を変えることなく、ひたすらに消え行く波を寄せ続けていた。

「キョンくん」
 何を考えるでもなく砂浜を見つめていた俺は、この掛け声によって意識を引き戻された。
「朝倉か」
 間抜けな調子で答えてしまった。
「何してるの?」
 そう言いながら、朝倉は俺の顔を覗き込む。
「何もしとらんよ」
 そう言うと、朝倉は一瞬だけ意表を衝かれたような顔になったが、
「じゃ、わたしも何もしないでいようかな」
 と笑顔で言って、静かに俺の右に座った。
 一時期、朝倉は完全に自信を喪失していたことがあった。過度な戦闘の影響による精神異常らしい。
 もちろん、今ではその様子は見られない。けれども、いつ再発するかわからない。
 透明な海を渡ったとき、俺たちは正気を保っていられるのだろうか。
 どうして、こんなことを考えなければいけないのか。なんだって俺たちがこんな目に。
 俺は、一度朝倉の顔を見てから、輝かしい星空を眺めることにした。

 

 十月二十日、米軍レイテ島東岸に上陸。あらそうですか。
 その四日後、SOS団を含む歩兵第四十一連隊はレイテ島に輸送されることになった。
 目の前には、軽く運動会ができそうなほどの大きさはあるだろう、そんな軍艦が鎮座している。
 中央やや左寄りには巨大な物見櫓のようなものがあり、その右側にはこれまた巨大な缶が三つ並んでいる。
「みんな! 早く乗るわよ!」
 戦いの前にも関わらずはしゃぎまくっているハルヒに引っ張られて、俺たちは動く城に乗り込んだ。

 奇跡的にも敵の妨害を受けることなく航海ができ、次の日に予定通りレイテ島西岸に到着した。
 大量の新兵に譲られ、SOS団は先に階段を駆け下りる。
「準備はいいわね? 針路は北、全軍前進!」
 さあ、久しぶりの実践だ。今ぐらい、気合入れてがんばろうじゃないか。

 初日は敵との衝突も無く、順調に目標の北岸へ向かっていた。
 そして、二日目の正午を越えたときのことである。
「挺身隊より連絡で、東の米軍と接触したとのこと」
 国木田は、表情を変えることなく俺たちに伝達した。
 そのひとことで、急に戦いが始まってしまった。

 

 一時間後には俺たちも前線に到着し、敵を待ち構える格好となった。
 成長しまくった雑草に身を隠し、黒色の銃を静かに構え、草原の先を見据える。
「今よ!」
 俺たちが準備を整えた直後に、ハルヒから一斉射撃の命令が出た。
 人差し指に力を入れ、引き金を引く。若干の衝撃が腕に伝わる。
「そのまま撃ち続けて!」
 撃っても撃っても敵が攻めてくる。敵も隠れているから、攻撃が効いているのかどうかもわからない。
 ただ、俺たちを含む前線が、何とか敵を食い止めているのは確かだ。
 いつも通りの展開だ。朝倉が機関銃で敵を制し、俺と谷口は突出する敵を中心に狙う。完璧な状態のはずだ。
 しかし、なんだろうな。このままではいけない。そんな気がした。

「撤退よ撤退!」
 一時間ほど膠着していた戦線は、空を切るハルヒの叫び声によって動き出した。
「向こうの叢まで退却して、そこで態勢を立て直すのよ!
 ここは他の部隊に任せて、みんな早く!」
 腕を振り回すハルヒに急かされて、俺たちは一度敵に背中を向けた。
 まあ、増援が来るまでの辛抱だ。

 退いては止め、退いては止め、そんな調子だった。
 そして陽が暮れ始め、視界が狭まって暫く経ったとき、銃声が一瞬にして途切れてしまった。
 もはや静寂しか残っていない。
 今日はここまでか。平地の先の暗闇を見つめながら、俺はゆっくりと小銃を下ろした。

 

「ご飯ですよお」
 乾いた草地に座していると、朝比奈さんの甘ったるい声と共に、俺たちに銀色の缶詰が配られる。
手のひらぐらいの大きさだ。
「みくるちゃん、これ何?」
 ハルヒが、物珍しそうに筒を回しながら質問する。
 それもそのはず、誰もこんなものは見たことが無いからだ。
「それは中国戦線から輸入した戦闘携行食で、中に乾麺麭(乾パン)が入ってるんですよ。
 みんなが持ってる、折り畳みの刃物で開けてくださいね。銃剣で開けたら駄目ですよ」
 嬉しそうに話す朝比奈さんと、身を乗り出して聴いている真顔のハルヒ。何とも微笑ましい光景だ。
 言われた通りに、縁に沿って蓋を切っていく。思いのほか、すんなりと刃が徹った。
 分離した円盤を右に置いて中を覗くと、茶色の四角がゴロゴロしていた。
 そこから一つを手に取り、口の中へ放り込む。少し固いな。
 もっさりとした食感が口全体を覆う。これといった味は無いようだ。
 咀嚼して飲み込むと、僅かな甘みが口の中に残った。いける。これはいけるぞ。
 気がつくと、俺は缶の中身を平らげていた。
 その後、俺たちはこの缶を綺麗に拭いて、入れ物として鞄に忍ばせておくことにした。

 翌朝、けたたましい銃声が俺の目覚ましになった。
「敵軍襲来。起きて」
 ごちゃごちゃになっていた俺の意識は、体が揺すられることによって完全に分離した。
「おう、おはよう。長門か」
 目を開けると、拳数個分ほど先にいる長門が、冷ややかに俺を見つめていた。
 大方、ハルヒに頼まれて起こしに来たのだろう。
「時間が無い。早く戦線に戻るべき」
 俺は眠い目を擦る間もなく、長門に引っ張られて前線へ向かった。
「キョン! 早く銃を構えなさい!」
 銃弾が飛び交う領域に足を踏み入れるや否や、ハルヒの命令が俺に直撃した。
 屈んでから急いで銃を向け、まずは駆けつけ一発。そして、二発目の照準を合わせる。
「敵が来るわ! あの斜面まで退くわよ!」
 寸前のところで、昨日のように後退させられてしまった。またしても。
 連隊本部は決戦を避けているのだろう。正面からぶつかれば、即時壊滅もありうるからな。

 他の兵士に前線を任せている間に、斜面の上にあるちょっとした高台に辿りついた。
「うん、ここなら結構耐えられそうね。
 みんな、援軍が来るまで諦めちゃ駄目よ!」
 ハルヒは、気丈な面持ちで俺たちに呼びかけている。
 今、日本軍が劣勢なのは誰の目にも明らかである。
 それなのに、ハルヒは全く弱音を吐かない。俺たちを力強く励ましてくれる。
 今は、それが本当にありがたい。俺たちの追い風になっている。
 けれども、演じられる限界を超えないでほしい。そう願うばかりだ。

 俺と谷口が斜面の下に小銃を構え、朝倉はその横で機関銃を向けている。
 見ていないので何とも言えないが、すぐ後ろには、遠くを狙撃する長門と巨大な筒を抱えた古泉がいるのだろう。
 右へ左へと目線を動かして敵を捜していると、突然俺の左側遠くで爆発が起きた。
 咄嗟にその場に伏せる。
「迫撃砲ですね。この辺りを狙っているのでしょう」
 後方から古泉の声だ。
「どうすりゃいい?」
 振り返りもせず、古泉に問いかける。
「ここを放棄するしかないですね」
 もっともだが、どうでもいい回答だった。

 それから、じりじり戦線を下げつつ散発的な抵抗を続け、何とか隊列を維持してこの日の戦いは終わった。
 パサパサの夕食を済ませ、適当に辺りを歩く。
 おや、霞みがかった明かりのついた、なんとも神秘的な空間があるじゃないか。
 そこには、茶色の机上で通信機器を片手に忙しくしている国木田がいた。
「取り込み中か?」
 国木田の左にある岩に腰を下ろし、軽く問いかけてみる。
「ちょっと待って、これで最後だから」
 こちらを見ずに答える国木田。何やら記帳しているようだな。
 その様子を見ながら暫く待っていると、ようやく国木田の手が止まった。
「他の分隊や小隊と連絡を取り合っていたんだ」
 右腕で汗を拭いつつ、国木田は少し緩んだ表情になった。
 人目につかないところでそんなことをやっているとは、全くご苦労なやつだ。
「なあ国木田」
 と呼びかけてはみたものの、俺はこれといって話す内容を決めていなかった。
 国木田は、無言で首を傾げている。
「ああ、そのだな、お前はがんばってる。よくがんばってるよ」
 取り敢えず、ぱっと思いついたことを口にした。
「何だよそれ」
 照れ隠しだろう、国木田は控えめに笑っている。
 それからは何も言わず、俺たちは静かに帰路についた。 

 

 次の日、昨日と同じように散開していたときのことだった。
 まだ朝陽が眩しい頃、後方の国木田が俺たちに向かって叫んだ。
「東の防衛線が突破されたとのこと!」
「離脱するわよ!」
 間髪入れずにハルヒが大声で命令を出す。あたかも予測していたかのような反応だった。
「前線の崩壊となると、そこから敵がなだれ込んで包囲殲滅されてしまいますね。
 一刻を争う事態です」
 古泉、講釈を垂れている暇があったら、さっさと準備をしたらどうだ。
「連隊本部より入電、転進先は西海岸近くにあるカンギポット地区とのこと」
 また新たな地名だ。そんなことより、早くここを抜け出さんとな。
 俺たちが必死になって守り抜いた二日間は、あっけなく崩壊してしまった。 

 数日かけて、俺たちは緑一色の森林地帯に到着した。ここがカンギポットか。
 小高い山を中心に、椰子の木やら広葉樹やらが混じって生い茂っている。
 俺たちSOS団は、その山の頂上に陣を敷くことになった。
 なかなか見晴らしがいい。海も飛行機もここから見える。

 貧しいながらもなんとか食い繋いでいたとき、一本の報告が俺たちの耳に飛び込んだ。
「上陸拠点が敵に占領されちゃった」
 全員が集まっている場で、国木田が重い口を開けて俺たちに呟いた。
「どういうことよ」
 すかさず疑問をぶつけるハルヒ。
「もう補給は無い、ってことだよ」
 国木田は、自嘲気味に答えた。

 さあ朝が来た。今日の任務はなんだ? おう食料探しか。
 俺は、底無しに沈みそうな気持ちを無理やり奮い立たせて、暗い森の中へ走っていった。
 食えそうな木の実を片っ端からかき集める。よし、なんとか両手一杯には集められた。
 くそ、ようやく巡ってきた大規模な反抗作戦かと思いきや、即ニューギニア状態じゃねえか。
 食い物を探して各地を転々とする。これじゃあ、まるで野生の動物だ。
 おっと、思考が逸れちまった。

 すっかり夜の帳が降り、夕食を終えて今日一日が終わろうとしていた。
 けれども、俺の仕事はこれからだ。哨戒任務にあたらなければいけない。
 畦道を駆け下り、前進陣地へと急行する。そこには、既に無言の兵士がいた。
「おう長門。早かったな」
 長門は一度こちらを見て、また前に向き直った。
 そういえば、いつだったかこうして長門と哨戒に就いたことがあったっけな。
 俺は退屈を紛らわせるため、長門に声をかけることにした。
「最近の戦況だが、これからどうなるんだろうな」
 どこの部隊でも一度は出てきそうな話だ。
「兵站に注目する限り、日本軍が優勢を取る可能性は極めて低い。
 米軍の物量に押し負けるというのが現時点での見解」
 誰もが思っているような回答だった。
「そりゃあそうだよな。
 じゃあ、俺たちが生きて内地に帰れるかどうか、これはどうだろう」
 強風に揺れる木々を見ながら、そんな質問をしてみた。
「戦争が終結しない間は、限りなくゼロに近い」
 長門は、短い髪を靡かせながら、力強い眼差しで俺の顔を見ている。
 どう返していいかわからず、暫く無言で見つめ合っていたが、長門は再び前を向いた。
 さて、真面目に任務に就くことにしよう。
 目に砂埃が入った。

 俺たちは、またしても戦地で年明けを迎えた。この森林地帯に来てから、数週間ほどが経ったということになる。
 この頃には、西海岸の主要な港は米軍の占領下に入り、この辺一帯は陸の孤島となってしまった。
 米軍機が、間違えて俺たちのところに物資を投下してくれたらいいのに。
 そんなつまらないことを考えながら、俺は今日の業務に取り掛かった。

 

「あーあ、いつまでこんなことをやればいいんだろうな」
 谷口と周辺警備をしている最中、谷口がそう漏らした。
「それ以上言うな」
 悪魔の囁きのような、そんな感じのものに染まってしまいそうで怖かった俺は、谷口の愚痴を無理やり制した。
「なんだよ。話ぐらい聞いてくれたっていいじゃねえか」
 いかにも不愉快だと言わんばかりのしかめっ面をされる。
 俺は、その様子を見て妙に腹が立ち、
「帝国軍人に弱卒はいらねえよ。さっさと投降しちまえ」
 こんな悪態をついてしまった。
 それを聞くや否や、谷口の顔が見る見る紅潮していく。
「なんだと! お前何言ってるのかわかってんのか!?」
 そう言って、谷口は鬼の形相で俺の胸倉を掴みにかかってきた。
「そんなんだから、俺と同じ上等兵止まりなんだよ。
 俺と同列にしてほしくないけどな」
「この野郎!」
 俺が反応する前に、谷口の正拳が俺の左頬をぶち抜いた。
 衝撃で地面に倒れ、直後に激しい痛みが襲う。
「何すんだよ!」
 寝たままの状態で、息を荒げながら立ち尽くす谷口の左足を思いっきり蹴り倒してやった。
 俺も谷口も地面に倒れた状態になり、そこからは酷かった。
 ひたすら殴り合い蹴り合い取っ組み合いの、不毛な争いを延々と続けた。

 ひとしきり傷つけあって、俺たちはようやくおとなしくなった。
 顔も足も、どこもかしこも鈍く痛む。
 いつの間にか夕暮れか。何やってんだろうな、全く。
 ふと谷口を見ると、顔は泥だらけで髪はボサボサになっていた。俺もこんな感じだろう。
 谷口も俺を見た。無言の状態が続く。
 ひと筋の雫が頬を流れる。俺の顔が濡れていくのがわかる。
 いつの間にか、俺たちは声を上げて泣いていた。
 辺りの木々は、無言で俺たちの様子を眺めていた。

 

 カンギポットへ来てから一ヶ月ほど経過したとき、俺たちに転機が訪れた。
「この島を出ることになったわ! 早く荷物をまとめてちょうだい」
 昼でも薄暗い森の中、歩く懐中電灯のようなハルヒは俺たちにそう伝えた。
 まさかとは思うが、虚報ではないだろうな。
「連隊全員が脱出するのか?」
 何気なく問いかけてみると、先ほどまでの笑顔はどこへやら、ハルヒは露骨に言葉を失い、そして俯いてしまった。
「歩兵第四十一連隊、その中ではあたしたちだけよ」
 少しの間の後、ハルヒは下を向いたまま俺たちに呟いた。
 なぜ? なぜ俺たちだけが選ばれた?
 この島から離脱する、それは願っても無い好機だ。
 だが、これまで共に行動してきた友軍を置いて、俺たちだけが出て行ってもいいのだろうか。
 俺の頭の中は、そんな葛藤に満たされた。 

 

 その日のうちに準備を終え、翌日、俺たちは荷物を抱えて一堂に会していた。
 今日は、朝から雨がしとしと降っている。まあ、この程度なら行軍に何の障害も無いがな。
「みんな、行くわよ」
 昨晩、俺たちは夕食の席で話し合い、そして決まったことがあった。今から、それを実行しに行くのである。
 ハルヒを先頭として、ぬかるんだ斜面を縦隊で歩く。
 着いた先には、筆で「連隊本部」と書かれた看板が立てかけられていた。
 そして、その前には、何かと関わりの深い、元中隊長の連隊長が佇んでいる。予めハルヒが呼び出したのだろう。
 俺たちは一旦止まると、ハルヒを一人前に出して、俺を含むあとの七人はその後ろに横隊で並んだ。
「おはようございます、中隊長、いえ連隊長殿」
 ハルヒの挨拶と共に、俺たちは寸分の狂いも無く敬礼をする。
 手先についていた雫が、左側に飛んでいった。
「まさか今日お前たちに会うことができるなんて、思ってもいなかったよ」
 体つきがよく、まだ肌に張りのある連隊長は、俺たちに柔和な笑顔を向けている。
「連隊長、一つ訊きたいことがあります」
 ハルヒは、重い声色で話を切り出した。
 横顔しか見えないが、いつになく真剣な面持ちだ。
「第〇七〇七小隊輸送の件ですが、参謀本部の取り決めなどではなく、あなたが指示を出したのですよね?」
「さすがは涼宮隊長だ。予想はしていたが、やはりばれてしまったか」
 雨粒を拭う様子も無く、ただただ穏やかに笑う連隊長。 

「でも、こんなのって」
「なに、これはしがない罪滅ぼしだと思ってくれ」
 ハルヒが言い切る前に、連隊長がそれを遮った。
「先のニューギニア戦線のことだが、俺はお前たちに酷い仕打ちをしてしまった。
 本音を言うと、二度と顔を合わせることは無いだろうと思っていた。
 だが、お前たちは生き残った。生き残って、再び従軍するに至った。
 お前たちの底力を見せ付けられたね。お世辞でもなんでもないぞ」
 誰もが、微動だにせず連隊長を見つめている。
「それで、俺はこう考えた。前途ある精強な兵士は俺が守っていこう。ただそれだけだ。
 上から命令ばかり出していた俺がこんなことを言うのは、あまりにも厚かましいかもしれない。
 けれど、俺はこう思っている。お前たちは、俺にとって一番信頼のおける部下だ」
 連隊長は、雨の中をはっきりと通る声で俺たちにそう言い放った。
「お前たちみたいなのが、これからの日本を創っていくのだろうな」
 どこか遠くを見ながら、そっと呟いた。
「今から、お前たちに最後の命令を出す。
 必ず、生きて祖国の地を踏め。以上だ」
 いつぞやで聞いたのとは、全く逆の内容を宣告された。
 連隊長が右手を額に当てる。俺たちも、それに合わせて敬礼を行う。手の甲に水滴が溜まっていく。
 そのまま、俺たちは音を立てず去っていった。

 回航している大発動艇に乗り込んだ俺たちは、一旦セブ島とかいう場所に上陸した後、軍備を整えて
南のミンダナオ島へ向かった。
 その後、北岸に駐留する第三十師団と合流して、ミンダナオ島の守備隊として行動することになった。
 一応補足しておくが、第三十師団は歩兵第四十一連隊の上級集団だ。
 この地に上陸するのも何度目だろうか。もしかしたら、ここで骨を埋めることになるかもしれんな。
 水平線に沈みゆく夕陽を眺めていると、そんな気がして仕方が無かった。

 地元で梅が咲き始める頃、ミンダナオ島の西岸では木の葉を枯らす艦砲射撃が降り注いだとのことだ。
 ついに、ミンダナオ島にも米軍が上陸してきたのである。
 俺たちが担当する地区まではかなりの距離があるが、全土を侵攻されるのは時間の問題だろう。 

 

 案の定というべきか、三週間ほどで西岸の拠点が制圧され、いよいよ臨戦態勢を強いられる形になってしまった。
「空襲よ! 早く隠れなさい!」
 耳を劈く爆音と共に、戦闘機爆撃機があちこちで往来する日々だ。休む間もありゃしねえ。
「おい! こっちに急降下してるぞ!」
 谷口の声で、全員が空を仰ぐ。一粒の青い塊が、次第に大きくなってくる。
「向こうの森に身を隠すわよ!」
 即座にハルヒが指示を出す。実に的確な判断だ。
 しかし、俺たちがそれを聞いたとき、空の覇者は機体の形がはっきりとわかるぐらいに近づいていた。
 駄目だ、間に合わねえよ。
 仕方なくその場に伏せようとした、そのとき長門が俺の視界を遮った。
「わたしが対処する」
 その声と共に、長門が愛用の狙撃銃を天に構えた。何をするつもりだ。
 狙撃眼鏡に目を当てて照準を定めた後、静かにそれは放たれた。
 重力に抗う弾丸はそのまま一直線に進み、機体に命中、俺の足元に粉雪のようなガラス片が降ってきた。
 その直後、晴れ色の雲は爆弾を落とすことなく、高速のまま森林に墜落してしまった。
 ん? 何が起こった?
「長門、何をしたんだ?」
 そう問いかけると、長門は構えを下ろしてこちらを振り向き、
「操縦手を狙った」
 とだけ言って、再び灰色の空を見上げた。
 心の中で言わせてもらおう。とんだ化け物だ。
 まあ、こんな怪物兵士ばかりだからこそ、SOS団は今日まで持ちこたえているのだろうな。 

 

 四月も半分が過ぎた頃、米軍が南岸にまで上陸してきた。そして周辺一帯を制圧、南を担当する部隊との
連携が途絶えてしまった。
 だが、この程度で米軍の侵攻が止まるわけがない。
「米軍一個師団が北上、SOS団は迎撃に当たれとのこと」
 断崖絶壁で綱渡りしていた平和は、容易く急転直下してしまった。

 数日かけて森林地帯を踏破したものの敵が見当たらず、道端で夜を迎えてしまった。
 さて、歩きながらおにぎりでも食うか。
「前に敵よ、構えなさい」
 突然、ハルヒが小声で命令を下した。
 おにぎりの包みを鞄に放り込み、言われた方向を見ると、なんと数十人の白人がいるじゃありませんか。
「撃って!」
 条件反射で引き金を引く。数人がバタバタと倒れる。実に呆気ない。
 まずい、敵が撃ってくる! 即座に身を屈める。
 前方からの破裂音と共に、俺の真上をいくつもの銃弾が通過していった。
「ハルヒ! どうすんだよ!」
 ひっきり無しに飛び交う銃弾を目の当たりにした俺は、とてもじゃないが反撃できるような態勢は
取れなくなってしまった。
「本隊が来るまで耐えるしかないわ!」
 ハルヒの声は、なぜだか銃声に掻き消されない。
 耐えるしかないってなんだよ。ああもう。
「朝倉、遅滞だ遅滞! 敵の前進を遅らせてくれ!
 谷口! 行くぞ!」
 最後まで諦めずに、だろ? 仕方ない。
 手を思いっきり震わせながらも、俺は引き金を引き続けた。 

 それから暫くして味方が到着し、俺たちは命からがら後方に引き払った。
 今日の作戦行動はここまでだ。だが、明日以降敵に遭わないという保証は無い。
 ふと右を向くと、叢の中で古泉が黄土色の無反動砲を磨いていた。
 いつの間にか、その砲も傷だらけになっちまったな。
「よ、古泉」
「おや、あなたでしたか」
 手を止めてこちらを向いた。
「いや、続けていいぞ」
「では、お言葉に甘えて」
 濁りの無い笑顔を俺に見せた古泉は、再び布を筒に擦り合わせ始めた。
「精が出るな」
「命の恩人、と言っても過言の無い存在ですから」
 なんとも嬉しそうに話すやつだ。
 しかし、そんな重い鉄の塊をよくここまで持ち運べたな。本体が十キロで、弾は何キロだったかな。
 とは言え途中で放棄されていたら、今頃俺たちは戦車隊の餌食になっているかもしれない。

「古泉、質問していいか?」
 折角の機会だ。こいつの好きそうな問いかけをしてやろう。
「どうぞ」
 砲身を注視したまま。
「俺たちは、今何のために戦っていると思う?」
 さあ、どんな答えが返ってくるかな。
 俺は、口の端を緩ませつつ古泉の返答を待った。
「そうですね……。
 これまでは、どの方向から思案したところで、日本のために戦っていました、としか言いようがありませんね。
 今も、そうであるといえるかもしれません。
 ですが、今の僕たちは歩兵第四十一連隊から分離してしまい、実質的には独立小隊です。
 自由を与えられた我々が目指すは、やはり生還ではないでしょうか」
 古泉は、こちらを見ながら得意げに話す。手が止まっているぞ。
「なるほど。俺たちのための戦争、ってか」
「そうなりますね」
 古泉はそう言うと、次第に顔を崩し、しまいには高らかに笑い出してしまった。何がおかしいんだ。
 ひとしきり笑ってから研磨を再開した古泉を見て、俺も五年物の小銃を拭いてやることにした。
 布が真っ黒になっちまった。

 翌朝、俺は蒲団のように叩き起こされた。
「バカキョン! もうみんな行っちゃったじゃない。
 早く逃げるわよ!」
 おはよう、ぐらい言ってくれればいいのに。
 重い鞄を手に取り、俺はハルヒが示す方向へ走り出した。

 ハルヒに聞いた話だが、この辺りの戦線は全て崩壊してしまったらしい。
 そんなこんなで川に着くと、数人の兵士が青ざめた表情で待ち構えていた。
「立ち止まってる場合じゃないわよ!
 この橋は爆破するんだから、早く渡りなさい!」
 橋を爆破か。ずっと前に、敵がそんな戦法をとっていた気がする。
 茶色の木でできた橋を全速力で走りぬける。
 俺たちが最後だったのだろう。渡りきって少しの後、爆音と水が弾ける音が響いてきた。

 必死の思いで走り続けた俺たちは、ようやっとSOS団本隊に辿りついた。
 お前たち、置いていくなんて酷すぎる。俺が悪いのはわかっているけどさ。
 息を切らしながら、俺は六人の顔を見た。全員、棘の無い目つきで俺の様子を眺めていた。
 なんだその視線は。不気味だぞ。もう怒る気にもならねえ。 

 橋を破壊しまくった功績だろう、戦車やら大砲やらの攻撃は殆ど無くなった。
 その代わり、歩兵同士の衝突が各地で散発しているとの情報を受け取った。
 それは、いつどこで奇襲を受けてもおかしくはない、ということだ。死と隣り合わせ、ってやつか。
 けれども、それを聞いて意気消沈する者はSOS団にいなかった。それどころか、誰も彼も爽やかな顔つきでいる。
 みんな、どこか吹っ切れたような表情ながらも、諦めているような様子ではなかった。
 かく言う俺も、この島に上陸してからちょっとした自由を謳歌している。
 連隊から名を外れた俺たちがすること、俺たちのための戦い以外に何がある。
 しぶとくしぶとく生き残って、団長の意思を貫いてやろうじゃないか。
 軍律違反? ニューギニアでこれ以上無い戦功を挙げた俺たちを、一体誰が責められようか。
 よし、絶対に勝ち抜いてやる。
 俺は、今まさに昇ろうとする白い太陽に、拳を掲げてそう誓った。

 結局のところ迎撃は失敗となり、俺たちは第三十師団の本部へと引き返した。
 それからは、毎日軍備を整えたり食糧を集めたりと、基盤となる仕事ばかりが与えられた。
 軍備を、ってのは弾薬やら何やらに不備が無いかどうかの確認、それに加えて必要な武器の調達だ。
 これは他の部隊も同じようにやっているわけで、別段変わった作業ではない。
 問題は食糧集めだ。
 今は補給が途絶えた状況である。そのためどの兵士もやっていることなのだが、ハルヒはそれに
余計な仕事を付け加えた。
 必要な分よりも多めに集めて、毎日の食事量は少し減らす。残りはもちろん備蓄だ。
 このような業務は後方支援の部隊がやってくれるため、俺たちが進んで行う必要性は無い。
 では、なぜこんなことをしているのか? 答えは簡単だ。
 SOS団で食糧を集める必要ができる場面を考える。それは、後方部隊に頼らず活動しなければならないときだ。
 つまり、ハルヒは完全に独自の行動を取ろうと考えているわけだ。
 期は、刻一刻と近づいていた。 

 

 それは、師団本部の月捲りカレンダーが六の数字を示した後のことだった。
「本部より連絡で、第三十師団は東部の拠点に転進とのこと」
 開けた場所に集まった俺たちに、すっかり通信兵に染まった国木田が、伝達事項を淡々と読み上げる。
「この好機を逃す手は無いわ!」
 国木田の話を聞くや否や、ハルヒが俺たちにそう叫んだ。
「みんな聞いてちょうだい」
 ひっくり返ったかのように、ハルヒは真顔に変貌した。
「今まで、あたしたちは国のため、陛下のためと戦ってきました。
 そして、国民の期待に応えるべく、SOS団は華々しい戦果を挙げてきたのです」
 拳を利かせながら俺たちに演説するハルヒ。
 華々しい戦果っつっても、マレー以降はひたすら負け続きだったような、まあいいか。
「けれども、連隊から命を授かった我々がすべきことは他にあります。
 それは! 無事に生還して日本を立て直すことです!」
 よくもまあ、そんな大層なことが言えるな。ハルヒだったら強ち不可能でもないかもしれんが。
「これからの戦い、それはあたしたちの戦争、即ち聖戦です!」
 この言葉、つい最近聞いたことがあったよな。
 結局、どいつもこいつも考えていることは同じってわけか。 

 

「じゃあ、今から最後の点呼を取るわ」
 声量を少し落としたハルヒは、俺たちを横一列に並ばせた。
 靴と土が擦れ合う音がした後、この辺一帯の空気が止まった。
「涼子!」「はい!」
 森の中に響き渡る呼びかけと、それに負けず劣らずの透き通った返答が俺の耳に入る。
「みくるちゃん!」「はい」
 こちらは少し控えめな、か細い返事だ。だがそれがいい。
「国木田!」「はい」
 普段よりも少し低めの声だ。存在感があっていい感じだぞ。
「古泉くん!」「はい!」
 低音の美声が辺りに木霊する。格好いいじゃねえか。
「キョン!」「はい」
 あいよ、とでも言いたいところだが、度重なる訓練で真面目な返答が染みついていた。
「谷口!」「ういーす」「バカ!」
 こいつは例外だ。無視しろ。
「有希!」「はい」
 呟くような、だが俺たちの耳にしっかりと届く声で、最後を飾った。
「うん! みんな揃ってるようね」
 ハルヒは、俺たちを見回しながら何度も頷いている。
「国木田、第三十師団とあそこに連絡取った?」
 笑顔のまま、国木田に問いかける。
「もちろん取ったよ」
 国木田も、最上の笑顔でそれにコタえた。
「よし! 準備は万端ね。
 目標は東部のブトアン、その先にあるアグサン川よ!」
 そこでハルヒは一度間を置いてから、
「全軍前進!」
 お約束を俺たちに投げかけた。

 

 十日ほどかけて草地を進み、奇跡的にも敵に遭遇することなく、俺たちはブトアンとかいう街に到達した。
 市街地を覗くと、煉瓦造りの家が立ち並び、石畳の道路が敷き詰められている。
 港の辺りは、灰色の地面と透明な海がどこまでも続いている。
 俺の予想に反して、随分と西洋の趣がある場所だった。
 けれども、この街もいつかは戦火に晒されるのだろうな。そう思うと、途端に街が色褪せて映った。

 その日は、地元の宿屋に泊まることとなった。
 街の一角にあるその宿屋は、鮮やかな赤い屋根に白い壁、二階建てで窓には植物が飾ってある、
なんとも神秘的な外観だ。
 扉を開けて中を覗くと、横に長い空間が広がった。
 正面には横長で茶色の机があり、そこには受付であろう人物が微笑みを携えて座っている。
 机の右側には、赤い南国の花が鉢植えの上で咲いている。
 あとは、俺たちをぐるりと囲む薄黄色い壁があるばかりだ。
 ハルヒと朝倉に受付との渉外を任せ、俺たちは二階の部屋へと向かった。

 部屋の中は、予想とは裏腹に簡素な作りだった。
 正方形の空間で、奥の右側にベッドが縦向きに一つあり、その横には小さな机が一つ。
 白い木材が床の部分に使われ、壁はやはり白に近い黄色である。
 奥の左側には横長の窓がついており、柔らかな光を部屋に与えている。
 必要最低限のものしかないが、不便では無さそうだな。
 内装を確認し終えた俺は、荷物を置いて再び階下へと向かった。 

 全員が入り口に集まった後、ハルヒを先頭に夕食の地へと向かうことになった。
 それから夕陽に照らされた道を歩いていると、俺たちはいつの間にか海岸近くまで来ていた。
 紅く照らされた海が、俺たちの前に広がっている。
「ここよ!」
 ハルヒが指差した先には、大きな円卓とそれを囲む丸い椅子があった。
 その奥では、従業員らしき人物が鉄板で何かを焼いている。
 屋根の無い、随分開放的な空間だ。
「ここは何の店だ?」
 恐らく誰もが抱えているであろう疑問を、俺は真っ先にぶつけた。
「肉と野菜をその場で焼いてくれるのよ!
 予約はしてあるから、なんでも頼んでいいわよ」
 眩しい笑顔を放ちながら、ハルヒは俺たちにそう答えた。

 早速肉やらなんやらを注文し、皿に取り分けてそれを口に入れた。
 口の中で、溢れんばかりの肉汁が広がる。続いて、俺の味蕾を心地よい刺激が襲う。
「ま……」
 思わず声が漏れてしまった。
 うまい、うますぎるぞこれは。戦闘食の比ではない。ああ。
 俺は、流れる涙もお構い無しに、黒い宝石を噛み続けた。
 う、しょっぱい。でもうまい。最高。
 隣の谷口も泣いていた。

 これ以上無いぐらいの満足感を腹に収め、俺たちは店を去った。
 ところで、気前よくハルヒが全額支払ってくれたのだが、いくらかかったのだろうか。まさか、
軍票で払ったんじゃないだろうな。
 軍票とは、軍が使う金券のようなものだ。正式には領収書扱いだが。
 後で現金と交換する条件で支払いを行うものなのだが、きっちり返済した例を俺は知らない。
 考えても意味が無い。ここはハルヒを信頼しておこう。
 そんなつまらないことを頭に浮かべていると、あっという間に宿に着いてしまった。
「じゃあここで解散ね。
 明日は早いから、しっかりと休んでおくのよ」
 そう言い残してから、ハルヒは宿屋の扉を丁寧に開けて、一人で中へと吸い込まれていった。
「では、僕もお先に失礼します」
 古泉がそう言って中へ入るのにつられて、他のみんなも一人ずつ宿屋に足を踏み入れていく。
 宿屋の前には、俺と長門だけが取り残されてしまった。
「長門、俺たちもそろそろ入るか」
 そう声をかけてはみたものの、長門は呆然と立ち尽くしたままだ。
 何かあったのだろうか。
「どうした」
 すると、長門は急に俺の方へ向き直り、
「ついて来てほしい」
 と囁いて、元来た道を歩き出してしまった。

 着いた先は、先ほどの砂浜だった。
 陽は完全に沈み、溶けてしまいそうな月明かりが地面を照らしている。
 砂に足を踏み入れてから少し歩いたところで、長門はようやく足を止めた。
 はてさて、何をしに来たのやら。米軍の哨戒だろうか。まさかな。
 暫しの間、俺たちは何をするわけでもなく、並んで海を眺めていた。
 波打ち際では、海水が何度も寄せては返している。
 空は、黒地に黄色い点を溢れんばかりに散りばめている。
 こんな星空も、これまで何度見てきたことだろうか。最初の頃は、内地に比べて断然綺麗じゃないか、 と喜んでいたものだ。
 右には、天を仰ぐ長門がいる。
「長門、満足したか?」
 遅くなってはハルヒにどやされるだろう。
 俺の問いかけに、長門はこちらを向いた後、無言で頷いた。
 しかし、何が目的だったのだろうか。深刻そうな長門を見ていると、単にこの景色を見に来ただけ、
とは到底思えなかった。
 それから何を思ったか、俺はポケットに入っていた星型の金平糖を長門に与えてから、ゆっくりと帰路に着いた。 

 翌日、朝早くから行軍を始めた俺たちは、夕方に目的地のアグサン川に着いた。
 アグサンアグサン、なかなか親しみの持てる地名だ。すぐオサラバになるけどな。
 で、不審な点があるのだが。
「ハルヒ、ここで待ってたら救助でも来るのか」
 川のせせらぎを背後に聞き取りながら、俺はハルヒに疑問を投げかけた。
 すると、ハルヒは途端に笑顔満開になり、
「その通りよ!
 鶴屋さんに連絡を取ったんだから」
 なんてことを、ようやく俺たちにばらした。そういうことは早く言え。
 しかし、鶴屋さんか。最後まで迷惑をかけてしまったなあ。
「取り敢えず、鶴屋さんが来るまでここで野営よ」
「一つ案がある」
 不意に、長門が口を挟んだ。
 みんな驚いたのだろう、視線が長門に集まる。
「敵が攻めてきたときのために、最低限の陣地を敷設しておくべき」
 そう語る長門は、俺たちよりもずっと遠くを見据えているような気がした。 

 次の日に総出で陣地を完成させた。場所は小高い丘の上、木々に覆われた秘境だ。
 どうもハルヒは高いところに陣地を敷くのが好きなようだ。士官学校でそう習ったのだろうか。
 そして、森の中で眩しい朝を迎えた。
 今日は何も予定が無いな。食糧集めでもするか。そう考えていたときだった。
「第三十五軍より入電!」
 国木田が、威勢よく俺たちに連絡の内容を伝え始めた。
「米軍が……、みんなよく聞いて」
 途中で、国木田は喋りを止めた。そして、目を見開いてこう言った。
「米軍一個大隊が、アグサン川河口に上陸したとのこと」
 実に平坦な口調だった。だが、国木田の額には汗が吹き出ている。
「ここが見つかるのは、時間の問題ですね」
 古泉、それは誰もがわかりきっていることだ。
「わかったわ。でもその前に、みんな、言っておきたいことがあるの」
 こんな暴露をされても、ハルヒは至って落ち着いた表情だった。
「多分、これが最後の陸戦になると思うわ」
 ひとことずつ、紡ぎあげるようにして俺たちに言葉を放っていくハルヒ。
「あたしがみんなに言いたいことは一つだけ」
 ハルヒばかりを注目しているからだろう、ハルヒの周りの風景がぼやける。
「死ぬときはみんな一緒。
 でも、必ず、生きて帰りましょう」
 穏やかな波のような、そんな調子でハルヒは締めくくり、そして目を閉じて深い息を漏らした。
 俺の奥底から、何かが溢れ出してきた。 

 上陸の報を聞いてから一時間が経っただろうか。まだ敵は到達していないようだ。
 今回の作戦はこうだ。敵を十分に引きつけて河口をがら空きにしておき、鶴屋さんが迎えに来たら
すぐに海岸へ向かう。そんな形だ。
 けれども、まず鶴屋さんがいつ来るかが不明であり、それまでここで耐え切れるかどうかが最大の問題である。
 まあ、全体の指揮はハルヒに一任しよう。俺よりずっとまともな判断をしてくれることだろう。
 それに、急場とは雖もこの陣地にはいろいろと工夫がしてあるからな。何とかなるはずだ。
「そろそろね。
 六人は外郭の塹壕に配置して!」
 おっと出番が来ましたか。
 六人とは、ハルヒと朝比奈さん以外のことだ。この二人は、予め後方に就くことになっている。
「がんばってくださいね」
 去り際、朝比奈さんが俺たちに天使の微笑を分けてくれた。よっしはじめるぞ。

 さっきまでいた本陣を中心として、川に向かって二重の塹壕が張り巡らされている。
 今、俺たちはその外側、つまり最前線にいるわけだ。
「なあ古泉。何人ぐらいの敵が来ると思う?」
 前方を警戒しつつ右隣の古泉に問いかけてみた。
「そうですね。
 一個大隊といえども、周辺の捜索にあたるのは一個中隊程度でしょうから……。
 二百人ですね」
 二百? 二十の間違いじゃないのか。二百人って何だよ。
 早くも先行き真っ暗じゃねえか。
「ですが、心配は要りません。
 二百人が一斉に攻めてくるわけではないと思いますよ。
 各個撃破。これが基本です」
 そうだな。不可能ではないよな。そうだ。 

 それから暫く待っていると、平原の先に米粒がいくつか見えた。
 ついに米軍が来たようだ。遮るものが無いから、こっちから見放題だぞ。
「どうする。引きつけるか」
 俺は、迷わず古泉に意見を求めた。
「五人ですね。こちらには気付いていないようです。
 あの程度なら、近くで対処しても大丈夫でしょう」
 もっともな意見だ。さて、やるか。
 息を潜めて待ち……、人相がわかるほどに距離が詰まった!
「今だ!」
 俺の声と共に、俺と谷口が一斉に弾を放つ。乾いた銃声と共に、二人の米兵があっさりと地面に伏した。
 慌てて三人の味方が駆け寄る。程なくして、敵の先遣隊は跡形も無く消え去ってしまった。
 今更だが、こんな簡単に人を傷つけていいのか?
 いや、やるかやられるかの世界だ。雑念は振り払わなければ。

 銃声を聞きつけたのか、続いて数十人はいるであろう塊がやってきた。
 だがここに近づく前に、既に長門によって数人が負傷している。
 するとどうしたことか、やつらは一斉に針路を変えてどこかへ行ってしまった。
「まずいですね」
 古泉が、突然そんなことを言った。
「応援を呼びに行った、とも考えられます。
 しかし、あの人数だと側面攻撃を仕掛けてくる可能性が高いですね。
 我々の左右、それと背後は森林地帯ですから」
 毎度の笑顔は殆ど消え、重苦しそうだった。 

 その古泉の予想は、見事に的中したようだ。
「五時の方向に敵一個小隊が襲来。総員戦闘配置」
 こんなことを、長門が言ったからである。
 ちなみに、一個小隊というのはだいたい五十から六十人だからな。
 俺たちだけが例外だということを、ここで付け足しておく。
 叢の先を見つめていると、突如として米兵が現れた!
 すかさず、朝倉が機関銃で敵の進軍を阻む。激しい銃声が辺りを包む。
 弾幕が途切れ、装填状態に入った。次は俺たちだ。
 一挙に前進してくる敵をよく狙って、引き金を引く。
 乾いた音が鳴り、少し遅れて敵がその場に倒れる。
 しかし、なんだろうなこれは。敵を狙うとき、自分でも驚くほど集中力を保っているのがよくわかる。
 どの位置を狙って撃っているのか、はっきりと理解できている。
 以前ハルヒとやった、あの意味不明な訓練のおかげだろうか。そういうことにしておこう。
 そんなこんなで第一波を追い払ったが、次に目に飛び込んだ光景を見て俺は度肝を抜かれた。
 茂みを駆け巡る人、人、人。あれ何人いるんだ。いくら撃っても減らねえよ。
「包囲されるとまずいですね。第二陣へ下がりましょう」
 古泉はそう言ってから、国木田を引き連れて先に逃げてしまった。
 あいつの役目は対戦車だからな。ここは俺たちが食い止めなければ。
「朝倉、ありったけの弾幕をお見舞いしてやれ」
「了解!」
 快活な返答、その直後に再び破裂音が連続する。
「弾が切れたら、長門と朝倉は先に逃げるんだ。あとは、俺と谷口で遅滞させる」
 そう言った直後に機関銃の弾が尽き、朝倉が長門の手を引っ張って後方へ退却する。
「谷口、慎重に下がれよ」
「おう。ゲリラ王谷口に任せとけ!」
 こいつといると、どこに行っても何とかなりそうな気がするから怖い。 

 敵に一定の被害を与えつつ、姿を暗ましての退却に成功した。
 既に、太陽は西に傾き始めている。
「第一防衛線が突破されてしまいましたね。
 とは言っても、この程度は想定済みです」
 古泉が何やら格好つけて喋っている。
「古泉、次はどうする」
 このまま順当に行けば、いつか本陣に追い詰められるぞ。
「とにかく、位置を相手に悟られないようにするのみですね。
 まだこちらが優勢です。今のところは心配ないでしょう」
 その自信たっぷりの笑顔はなんだ。

 たった今、俺はとんでもないものを発見してしまった。
 さっきまでは、戦いに夢中で全く気付かなかった。
「長門、それはなんだ」
 長門は、体中に青々とした葉っぱを貼り付けていた。
 さっき台風が通り過ぎましたよ、と言わんばかりの姿だ。
「偽装。敵に視認されるのを防ぐため」
 長門は、少しも表情を変えることなく返答した。
 ああ、なるほどね。長門らしいっちゃあそうなのかもしれない。
 だが、一つ気になることがある。なぜ誰も突っ込まなかったんだ。謎が謎を呼ぶぜ。 

 結局、陽が暮れるまで敵は現れなかった。
 国木田は、常にハルヒたちと連絡を取り合っている。本陣は今のところ無事なようだ。
 というわけで、俺たちは塹壕の中で夕食を取ることにした。
 しかし、塹壕ってのは予想以上に深く、暗いものなんだな。明かりがないと何も見えねえ。
 そんなことはどうでもいい。今日の夕食は、なんと乾パンですよ乾パン。
 ご機嫌な気分に浸りながら刃物で蓋を切っていると、黄色い棒を手で剥いている谷口が目に入った。
「谷口、それはなんだ」
「見りゃあわかるだろ、バナナだよ」
 さも常識であるかのように語りやがった。どこから持ってきたんだよ。
 全く、お前のバナナ中毒っぷりには呆れるしかないな。
 一心不乱に白肉にむしゃぶりつく谷口を横目で見ながら、俺は乾パンを摘まんでもさもさと食べ始めた。 

 夜が明けた。さあ今日も防衛だ。
 朝の日差しを体中に浴びながら、俺は今日も続く戦いへ向けて決意を固めた。
 なんだろうか、この感覚は。まさに生きているって感じがする。
 これまでは上からの指示で動いてきた。いや、それはそれで満更でもなかった。
 けれども、今は俺たちが俺たちの意思で行動している。能動的に、ってことだ。
 そんな当たり前のことが、とても幸せであることのような気がしてならない。
 だがな、俺たちの行きつく先はどこだ? この戦いに勝ったからって、日本が救われるわけではない。
 洗いたての雲が、太陽にちょっかいを出し始めた。

 朝食を終えて警戒行動に移ったとき、国木田の元へ一本の連絡が入ったようだ。
 何やら話している国木田の目は、星のような輝きを放っている。
 やり取りが終わったのだろう。国木田は黒色の機器を置き、俺たちに向かって伝達を始めた。
「鶴屋さんが今日中に到着するとのこと!」
 そう話す国木田は、今すぐにでも跳ね回りそうな様子だった。

 さて当然とも言うべきか、脱出を控えた俺たちの前に最後の難関が立ちはだかっている。
 ここから河口まで、どうやって行軍するかだ。
 まずハルヒたちと合流して、そこから河口まで向かう。ざっと二、三時間ってところだろう。
 陣地に駐留するのとはわけが違う。その間、俺たちに与えられた手は少ない。
「古泉、敵はこの近辺にいるんだよな」
 頼もしい横顔に、最後の確認を取る。
「おそらく。一度我々の反撃を受けた後ですから、昨日の部隊は捜索に躍起になっているはずです」
 辺りを見回しながら、古泉はそう言い切った。
「さっき涼宮さんが出発したから、もうすぐここに来ると思うよ」
 国木田が、古泉に乗って補足を加える。
 薄暗い塹壕の中は、ほどよいあたたかさに恵まれていた。 

 

「やっほー! みんな元気にしてた?」
 音がする方向へ、俺たちは一斉に銃を向ける。
「な、何よ」
 ハルヒ、ただいま大絶賛警戒中なんだ。静かに頼む。
 明らかに狼狽するハルヒに、俺は心の中でそう囁いた。

 とまあこんな具合に、俺たちは無事合流に成功した。
「で、もう出発するのか?」
「もちろんよ! さあ行くわよ!」
 張りのある声とは裏腹に、ハルヒの表情はどこか曇りがかっていた。 

 

 古泉が立てた作戦案に基づき、俺たちは森の中を北上している。
 この森林伝いに行けば、海岸までほぼ身を隠すことができるとか。
 事実、数十分ほどは捕捉されずに進むことができた。
 そんな調子で、さくさく音が鳴る地面を歩いていたときのことだ。
「二時方向に一個分隊を発見。総員戦闘配置」
 今日も草木を身に纏う長門が、無機質な声で俺たちにそう宣言した。
 こんなところで止まってはいられない。俺たちは、銃を構えながらも急ぎ足を止めなかった。
 そのとき、右側から空を切る破裂音が響いてきた!
「うお、あぶねえ」
 森の奥から放たれた銃弾は、谷口の鉄帽子を掠めて上空へ飛び去った。
「伏せて!」
 ハルヒの判断は早く、的確だった。体を地に貼り付けた直後、銃弾の雨が横殴りに降り注いだ。
「そのまま叢に沿って匍匐よ」
 前を行くハルヒの指示で、俺たちは芋虫のように進み始めた。
 土やら草やら小石やらが軍服に纏わりつく。 

 銃声はすぐに止んだ。姿を消した俺たちを捜しているのだろう。
 となると、平べったくなっている俺たちは格好の標的じゃないか。
 ハルヒもそれを考えたのだろう。
「あの岩場まで走るわよ!」
 ハルヒがそう叫んだ直後、俺たちは一斉に体を起こして、その場を思いっきり走りぬけた。
 そして伏せた直後、またしても銃声が鳴り響いた。これでは埒があかねえ。
「まずいですね。少し細工をしなければ」
 灰色の岩たちに囲まれて進みあぐねていたとき、古泉がそんなことを呟いた。
 その後、何を思ったか古泉は手榴弾を取り出し、筒状のそれをさっき俺たちがいた方向に投げつけた。
「今です。ここを出ましょう」
 俺にも、ようやく古泉の意図がわかった。
 俺たちは、すぐさま目の前の森林地帯へ走りだした。数秒後、後方で爆発音が響く。
 古泉の目論み通りなら、今頃爆心地に米兵が急行していることだろう。
 古泉め、とんだ変化球を投げやがって。
 束の間の安全を得た俺たちは、とにかく遠く遠くを目指して走った。

 当然だが延々と走ることは不可能だ。加えて重い荷物を背負っている。
 そのため、速度を落として着実に前進することになった。とは言うものの、徐々に目的地との
距離を縮めているわけで。
 敵に見つかることなく、海岸近くまで辿り着いた。そこまではよかった。
 森の中から海岸を覗いたとき、俺は愕然として言葉を失った。
 なんだあれは。歩兵だらけじゃねえか。
 海岸右側には、砂浜の上に黒い点々がびっしりと張り付いていた。千人ぐらい、優にいるかもしれない。
 戦車とかの類が無いだけ救われているが、これでは突破のしようも無い。
「どうするハルヒ。夜まで待つか?」
 俺は、なんとかハルヒを誘導させようと試みた。
「バカ、鶴屋さんは夕方に着くのよ。
 それに、後ろにいる敵だっていつ来るかわからないじゃない。
 日が沈むまでにここを出るんだから」
 じっと海を見据えるハルヒは、俺よりも遥かに高度な判断を下した。ハルヒには敵いそうもねえな。 

 

 それから、俺たちは草の下で息を潜め、じっと機を待っていた。
 もう夕陽が沈みそうだなあ……、あれは。
 紅く照らされた海の上、一隻の小さい船が堂々とやってきた。あれは間違いない。
「来たわ! 鶴屋さんよ」
 小声ながらも、ハルヒは歓喜の声を上げた。
 さて、ここからが問題だ。どうやってあそこまで行こうか。
 鶴屋さんの船は米兵とは大分離れた岩場に接岸し、奇跡的にも見つかっていない。
 だが、俺たちが出るとなれば話は別だ。どう足掻いたって即刻見つかってしまう。
 動く日本兵とその先にある船。その両方が狙われるのは確実だろう。
 さあ、ハルヒはどんな聖断を下すのか。俺を含む全員が、ハルヒを見つめていた。
「突撃よ! 突っ走るしかないわ!
 みくるちゃんと国木田を先頭にして、あたしたち六人は敵を食い止めながら退却するのよ」
 ま、行くしかないよな。覚悟はできているさ。
 全員が構えに入った後、一瞬の静寂が辺りを支配する。
「全軍突撃!」
 俺たち八人は、沈み行く夕陽との競争を始めた。 
 

 国木田と朝比奈さんは、一目散に船へと駆けていった。よし、ここからが本番だ。
 案の定敵に見つかり、米兵が押し寄せてきた。一個中隊だから……、二百人ぐらいだっけ。
 俺たちは、散発的に銃弾を放ちながら逃げている。あくまで足止めが目的だから、命中云々は関係無い。
 くそ、敵が構えやがった。
「伏射態勢!」
 夕陽に横顔を照らされたハルヒが、即座に俺たちに叫ぶ。伏せる。銃弾が飛び交う。
 なんとか初動は上手くいったものの、次はわからない。
「朝倉頼む!」
 何より火力が必要だ。俺は朝倉に援護を求めた。
 直後、激しい銃声が鳴り響く。無数の弾が敵に喰らいつく。一秒に十発撃っているんだっけな。
 突出していた数人があっけなく倒れた。だが、敵の猛追を抑えられそうに無い。
「駄目だわ! 離脱よ!」
 あと少しだってのに、このままだと完全に追いつかれちまう。
 もうヤケだ。俺たちは同時に立ち上がり、そして淡黄の砂浜を全力で走り始めた。
「仕方ありません。僕が一矢報いましょう」
 何の前触れも無く左隣の古泉がそう言ったかと思うと、後ろを向きやがった。
 俺も後ろを振り返る。あろうことか、古泉は歩兵の足元に向かって無反動砲を撃ち込んでいた。
 爆風で吹っ飛ぶ無数の歩兵。こいつ、やりやがった。
 これで何とかなるかもしれない。少しだけ気が軽くなった。

 しかし、舞い上がる砂埃に映る人影を見つけたときには、もう遅かった。
 地に響く銃声。倒れる古泉。鮮血が砂浜に染みる。
 咄嗟の判断で身を屈めると、やはりと言うべきか、俺の頭上にも銃弾が襲い掛かってきた。
「古泉!」
 俺は、伏せたままで古泉の安否を確認した。
 呼びかけが届いたのだろう。古泉は再び巨大な筒を背負い、こちらへ走ってきた。
 足跡のように、紅の液体が砂浜に垂れて、そして染み込んでいく。
「大丈夫です。右腕をやられただけですから」
 平然を装う古泉の額には、汗が大量に噴き出ていた。この大馬鹿野郎。
 俺たち二人は、遥か遠くの助け船に向かって、再度駆け出した。
 突如、左腕に針が刺さったような感覚が走る。そのすぐ後に、鈍痛が左腕を襲う。
 古泉、俺も被弾したようだ。終着点はすぐそこだってのに、なあ。
 しかし、一度当たっちまえばもう怖くない。全力で走るのみさ。
 血を辺りに振りまきながら、俺たちは一心不乱に足を動かした。だがすぐに追いつかれるだろう。

 そのとき、俺の頭上に爆音が響いた。これは、エンジン音?
 見上げると、上部は深い緑色で下部は純白に塗られた、寸胴の飛行機が悠々と空を飛んでいた。
 その瞬間、俺の頭の中にマレー作戦の一場面が映った。
 倒れる俺の上を飛んでいった飛行機、間違いない。多丸さんの爆撃機だ。
 夕陽に照らされて輝く機体は、俺の背後へ急降下していき、間髪入れずにあたたかい爆風が俺たちに届いた。
「古泉、今しかないぞ」
「ええ」
 俺は、後ろを振り返ることなく、無心で砂浜を走り抜けていった。

 何とか船まで到達した俺たち二人は、谷口と国木田に引っ張り上げてもらった。
 その後すぐに、俺と古泉は甲板で横になる。
 瞼が重い。あれ、朝比奈さんが駆け寄ってくる。
 ああそうか。ケガの治療だっけな。
 すみません。朝比奈さんの手を煩わせてしまって。
 少しだけ、眠らせてもらいます。 

 目を開けると、すがすがしい空が一面に広がっていた。ここはどこだ。
 両手を支えに体を起こす。左腕が鋭く痛む。
 ああそうか。ケガをしていたんだっけな。黒ずんだ俺の腕には、純白の包帯が幾重にも巻かれていた。
 で、ここは船の上。辺りは一面海ばかり、と。
 すぐ右には、古泉が口を開けて大の字で寝ている。かわいい寝顔じゃねえか。
 座って穏やかな海を眺めていると、右側から誰かの足音が聞こえてきた。
「起きた?」
 振り向くと、長門が立ったままこちらを凝視していた。
 俺はそんなに珍しいものじゃないぞ。
「見ての通りだ。
 もうケガだって平気だぞ」
「そう」
 みんなに伝えに行ったのだろう。長門は部屋の扉を開けて中に入った。

 その後古泉が起きて、みんなが集まってきたのだが、六人の顔つきが暗い。何があったのだろうか。
「どうしたハルヒ」
 俺は、そっとハルヒに声をかけてみた。
「鶴屋さんに聞いてちょうだい」
 ハルヒは目を合わせようともしなかった。
 少し遅れて、勢いよく扉が開け放たれる。
「や、お二人さん。大丈夫かい」
 ハルヒたちとは打って変わって、甲板に反響する元気一杯の声。
 すらりと伸びた黒曜石の長髪が揺れる。
「鶴屋さん、その節はお世話になりました」
 これぐらいは最低限の礼儀だ。
「いいっていいって」
 手を大げさに振りながら、笑顔を振りまく鶴屋さん。
 服装をよく見ると、どこから調達したのだろうか、純白に金釦が映える海軍士官の制服を身に纏っている。 

「それで質問なんですが、何かありましたか?」
 ようやく本題だ。俺は、浜辺に寄せる波のように核心に迫った。
「うんとね、二人とも、落ち着いて聞いてくれるかい?」
 そう前置きをする鶴屋さんは、笑顔のままだが目が悲しんでいた。
「そのだね……、神戸が空襲に遭っちゃったのさ」
 鶴屋さんは、伏し目がちにそう言った。
 神戸? 空襲? なんのことだ?
 理解しようとする意志とそれを阻む心、両極が俺の頭の中でせめぎ合う。
 わからない。何が言いたいんだ。
「あ、でもみんなの地元は無事だよ?」
 違う。それじゃない。もっと大事なことがあったはずだ。
 あ。たった今、あちこちに散らばった断片的な記憶が、俺の脳内に完全に嵌った。
「妹は……、妹はどうなったんですか!」
 俺は、食ってかからん勢いで鶴屋さんに声をぶつけた。
 鶴屋さんは、そんな俺を見てただただ困惑の表情を浮かべるばかりだった。
 そうだよな。俺の家族のことなんて、鶴屋さんがわかるわけないよな。
「その、すみません」
 俺は、頭を垂れて丁重に謝った。
 妹は神戸の学校に通っている。あるいは。
 灰色の甲板を見つめながら、躍起になって考えを張り巡らした。

 

 数日が経ち、俺を含めた全員が落ち着きを取り戻し、船内は和やかな雰囲気に包まれていた。
 現地の実態がわからない以上、あれこれ考えても仕方が無いからな。
 ハルヒと朝比奈さんは毎日のように鶴屋さんと話し、国木田は朝比奈さんと朝倉に囲まれ、
俺は谷口と長門の三人で飽きもせず賽談話をして、まあ何が言いたいのかというと過ごしやすかった。
 しかし、ここに来てとある問題が高速でぶち当たってしまった。
 それは、操舵担当の鶴屋さんを除く全員が揃って、青空の下でSOS団会議を行ったときに発表された。
「今日は、ここからの針路、上陸地点を決めるわよ!」
 そんな議題が、唐突に投げかけられたのである。
「普通に九州にでも上陸したらいいじゃないか」
 改めて話し合うようなことでもないだろう。俺はそう思った。
「そんなんだから上等兵どまりなのよ。
 あらゆる可能性を考慮して、綿密な計画を立てるの」
 ハルヒは鼻高々に喋っている。
 上等兵で悪かったな。
「台湾に上陸するのはどうかしら」
 朝倉が早速考えを飛ばした。
「そうね。一旦台湾に渡って、そこ経由で日本に帰るのも悪くないわ」
 この手の話は、俺にはよくわからん。
 ふと左を見ると、谷口の野郎もだらしなく口を開けて話を聞いていた。 

「インドネシア」
 今のは長門の意見だ。ん、印度尼西亜(インドネシア)?
「シンガポール経由で、ジャワ島乃至スマトラ島に渡る。
 最も安全な航路だと思われる」
 ああ、蘭印のことか。確かにあの辺りは安全かもしれないが。
「有希、そんなところに行ったら内地から離れちゃうじゃない」
 ハルヒは首を傾げている。俺も、その点が謎だった。
「今は生き延びることが先決。
 太平洋には米軍の潜水艦が展開されている。さらに、日本近海には大量の機雷が敷設されているため、
無闇に航行するのは望ましくない」
 俺の目には、途切れずに持論を展開する長門が、ハルヒに対して懇願しているように見えて仕方なかった。
 しかし、そんな情報をどこで仕入れたのかが気になる。
「駄目よ。帰らなくちゃ意味が無いの」
 ハルヒ、どうしてそう簡単に突っぱねるんだ。
「俺も安全性を考えたほうがいいと思うんだが」
 その光景が見ていられなかった俺は、そっと長門に一票を入れてやった。
「何言ってるんだキョン。インドネシアに行っても、また攻められたらどうしようもないだろ?」
「谷口の言う通りだわ! やっぱり北を目指すべきなのよ」
 谷口が、ハルヒを余計に焚きつけてしまった。
 いや違う、みんな帰りたいと思っているのか。
「僕も本土案に賛成です」
「あ、じゃあわたしも」
 そうか。みんな、早く帰りたいんだな。そうだよな。
 国木田が難しい顔をしているのが気になるが、これで全員の意見が固まったと判断していいだろう。
「じゃあ決定ね!
 ルソン海峡を渡って台湾南部に上陸、そこから本土まで向かうわよ!」
 これで、よかったんだよな。何も間違っちゃいない。 

 それから俺たちは南シナ海を順調に北上し、俺たちはルソン海峡とか言うところまで到達した。
 船内に掛けられた日めくりカレンダーによると、今日は七月六日らしい。
 ハルヒによると台湾まであと少しらしいのだが、一向に陸地は見えてこない。
「おい、あれ潜水艦じゃねえか!」
 何だって! 谷口の大声に、操舵中の鶴屋さん以外の全員が反応し、駆け足で甲板へ向かう。
 見ると、夕陽に照らされた一本の細長い筒状の物が、東側から一直線に俺たちのほうへ向かっていた。
 谷口、あれは潜水艦じゃない。
「魚雷です!」
 古泉はそう言うや否や、全力で艦長室へと走っていった。
 その直後、船が大きく西に旋回する。船が大きく揺れる。
 漆黒の弾頭は、船の少し北側を荒々しく通過していった。
「潜水艦に、捕捉されて、しまったのでしょうか」
 急いで戻ってきた古泉が、息を切らしながら俺たちにそう言った。
「次の攻撃はあるのか?」
 俺は、真っ先に浮かんだ疑問をそのまま吹っかけた。
「いえ、もうじき陽が暮れます。たかが漁船相手に、夜襲の可能性は極めて低いでしょう。
 ただ、明日以降が問題ですね。
 見つかってしまった以上、水上艦に狙われる可能性も否めません」
 こんなときでも、古泉は実に冷静だった。
 頼むから、無事に上陸させてくれよ。俺は、沈み行く赤丸に祈りを捧げることしかできなかった。 

 翌日、太陽がてっぺんに辿り着こうとする頃、長門が双眼鏡を覗きながら俺たちにこう言った。
「三時方向に敵影二機。艦上爆撃機と艦上雷撃機を一機ずつ視認。
 こちらに針路を取っている模様」
 そう淡々と告げる長門の手は、心なしか震えているように見えた。
 遥か上空には、確かに二つの点がある。小さく、ともすれば見逃してしまいそうなほどの大きさだ。
「ハルヒ、どうするんだ」
 いかにも平静を装って声をかけたが、それに反して俺の心臓は激しく脈打っていた。
「この船には対空砲が一門だけ積んであるわ。それで対抗するしかないわね」
 米粒を眺めながら、ハルヒは平坦な口調で答えた。

 その後すぐに、八人総出で対空砲を持ち出した。五式四十粍高射機関砲とか言うらしいが、
名前なんてどうでもいい。
 漁船の真ん中に、馬鹿でかい棒が突き刺さっているように見える。不恰好な様だ。
 それで、これを打ち込むのは俺と谷口、弾の装填は古泉、敵の観測は長門、となったのだが。
 こんなひょろひょろの棒一本で、果たしてどんな抵抗ができるのやら。
 暫く待っていると、水にふやけたのか、米粒がどんどん広がってきた。
「今よ! 撃てえ!」
 二人がかりで砲を回し、取っ手を引く。上空に弾が散らばる。
 結構な弾数を展開しているつもりだが、二機は軽やかな旋回でそれらを見事に避ける。
 まずい! 一機が猛烈な勢いで急降下を開始した。
「あれを狙うのよ!」
 わかっとるわ。必死に照準を調整する。
 海と同じ青色の機体は、煙を出しながらも等速で高度を落とし続けている。効いているのだろうか。

 

 そのとき、空飛ぶ鉄の塊から黒い物体が投下された。
「爆弾よ! キョン谷口以外は伏せて!」
 同時に、鶴屋さんによる急激な操舵が始まった。遠心力で態勢を崩してしまう。
 いかにも重そうな黒い筒は、すぐ傍に着水し、そして爆発した。
 船が大きく煽られる。八人全員が横転する。
「キョン! 早く配置に着きなさい!」
 ハルヒに怒鳴られ、船の揺れに耐えて再び鉄に手をつける。
 ふと左側を見ると、もう一つの機体が海面スレスレで飛んでいた。
 急速に機影が大きくなる。その威光に圧迫される。
 俺と谷口が慌てて照準を向けたときには、既に黒い悪魔を海中に投下した後だった。
 どうする。あの魚雷を狙うか。いやいや。
 猶予は無かった。船底で鈍い音がしたかと思うと、船は大きく左に傾き、俺たち八人は
一斉に投げ出されてしまった。
 勢いよく海に飛び込む。全身が濡れる。しょっぱい。
 早く、早く船に戻らないと。なぜ、どうして。
 俺がどんなに手足を動かしても、体は次第に海中に沈んでいく。
 誰かに足を引っ張られているような感覚だ。
 死にたくない。助けてくれ。誰か。
 そう頭の中で繰り返したが、無常にも頭の上まですっぽりと水に浸かってしまった。

 ああ。助けてくれ。
 海面が遠ざかっていく。一向に体は浮かび上がらない。
 ああ。もう駄目だ。俺はここで死ぬんだ。あれ?
 ちょっと待て。全然苦しくないのだが。
 すっかり暗闇に閉ざされてしまった空間の中で、俺は惰性で潜り続けていた。と言うよりは、
沈んでいるのかどうかもわからない。
 もう死んじゃったのかもしれないな。これが死後の世界とやらか。
 せめて、もう一度だけでも家族に会いたかったな。
 いや違う。普通に会ったばかりじゃないか。昨日も食卓を囲んで夕食を……?
 さっきまで、何をしていたんだっけ。何かと戦っていたような気がする。
 無茶を言うハルヒと、かな。不思議探索の途中かもしれん。
 それで、いや、落ち着け。俺は米軍と、違うな。
 ああもうややこしい。わけがわからん。
 そういえば、妹がどうとか言っていた。迷子にでもなったのだろうか。
 妹が、遠い遠い存在だったように思える。そんなバカな。
 銃声? 聞いたことねえよ。いや、はっきりと思い浮かべられる。違う、思い出せるんだ。なぜだ。
 俺は、何をしていたんだ?

 


 おれ、ちゃんと、まもりきったよな。

 

 

 


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