琵琶湖が壮大なスケートリンクと化しそうなほど寒い今は、もう冬の本番。
街中に飾られていた『Merry X'mas』の電飾もすっかり見なくなり、些か寂しくなってしまった感じのするいつもの坂道を登る。そんな俺を嘲笑うかのように吹く冷ややかな風に、俺は背中をつつかれたダンゴムシよろしく体を丸め、白い溜め息を付いた。冬って言うのはどうしてこう気が滅入るのか。まったく、春の陽射しが待ち遠しいね。いっそ渡り鳥みたく暖かい地を求めハワイにでも移住するか。
外よりは気持ち程度に暖かい校舎に入り、靴を履き替えすぐさま教室に駆け込む――予定だった。
上履きの上に置かれた、見覚えのあるその封筒を見るまでは。


嫌な予感が、キツツキのように脳内をつついてくる。俺を止まり木代わりにするのは止めてくれ。
去年のバレンタイン辺りにデジャブを感じつつ、俺は急いでトイレに駆け込み、なんとなーく想像の付く差出人から送られたその手紙を開いた。

『今日の夜九時、涼宮さんと朝比奈みくると共に光陽園駅前公園に来てください。
PS:必ず制服を着て来てください』

俺、絶句。
丸っこい字体やファンシーな封筒などの数々の傍証を鑑みるに、差出人は朝比奈さん(大)で間違いないだろう。それはもういい。全く、慣れっていうのは恐ろしいもんだな。
ここで気になるのは『涼宮』という文字だ。ハルヒ? ホワイ? 何故? というか、一番関わっちゃいけないヤツじゃないのか、それ。
ハルヒを呼び出して、おそらくする事は一つだろう。俺達の切り札――ジョン・スミスの事を明かす。
それでも、今は切り札を使わなければいけない時か?
ここ最近はそんなハルヒの力が必要な事も起こってない。去年と同様に、鶴屋さんを加えてのクリスマス鍋パーティーや、初詣など、怒涛のイベントラッシュも過ぎ去り、どちらかと言えば平和なほうだった。そうさ、言う必要なんて全くない。いつか古泉が言っていたように、切り札は一度きりだから効力を持つんだ。それが必要な時が、今なのか?
始業のチャイムが鳴っても、俺はずっとそこで茫然と立ち尽くしていた。

――どういう事だ、朝比奈さん(大)。


教室に戻る頃には少し考える余裕も出てきた俺は席につき、体裁を装うために教科書を開け、無い脳みそをフル回転させていた。
いつもなら睡眠欲という抗うことのできない敵にあっさりと白旗を揚げ、微睡みを誘うチョークの音を子守唄に寝ちまうところだが、今日の俺はチワワもびっくりのパッチリまなこだった。なんせ俺の意識は、時をかけてきたこの一枚に集中されていたんだからな。
しばらく手紙と睨めっこをし、意図を悶々と考えてみたのだが、さっぱりだ。とりあえず、何か助言が欲しい。この手紙では『朝比奈みくる』と記されている。ならば朝比奈さんにこの手紙は見せても大丈夫だろう。駄目なら手紙には『わたし』と書かれているはずだ。助言が得られるかどうかは別として。幸いな事にリミットは今夜九時だ。部室でも団活終了後でも、考える時間は十二分に残されている。とりあえず休み時間……そうだな、昼休みあたりにでも朝比奈さんに相談しに行くか。

そこまで考えて、いまさら気づいた事があった。
そうさ、普段なら授業中に筆記用具を放り投げて考え事をしていたら、教師じゃなくても約一名が何をしているんだと聞いてくるはずだ。後ろからシャーペンなりコンパスなりを刺してきてな。教師の隙をつき、俺は急いで顔だけを百二十度ぐらい回転させ、そして一驚を喫した。
……こりゃまた、どういう事だろうね。
そいつは不機嫌オーラを回りに散漫させ、それでもどこかダウナーな雰囲気をまとわりつかせながら、机に突っ伏していた。

涼宮ハルヒが大人しい。

「おいハルヒ。どうしたんだ?」
授業終了後、俺は体だけ後ろに向かせてハルヒに問うた。
不機嫌には間違いないのだが、その言い方には少し語弊があるかもしれない。俺の長年の経験という名の手帳を頭の中で展開させると、どうも体調不良のそれといった感じなのだ。
俺の言葉に、ハルヒはアンニュイな動作で組んだ腕から目だけを覗かせた。
「別に。ちょっと気分が悪いだけよ」
やっぱりか。俺の勘もまだまだ捨てたもんじゃないな。
「おいおい、大丈夫かよ」
熱でもあるんじゃないかとハルヒのおでこに当てようとした手を、ハルヒが払った。放っておいて、という意思表示だろう。痛みは時に人を狂暴にする。どうやら本当に辛そうに見えたので、「しんどかったら保健室に行くなり早退するなりするんだぞ」とだけを伝え、ハルヒがそれに微弱に頷くのを見届けてから俺は再び前を向いた。もう一度手紙に視線を落とす。ハルヒがいま辛そうにしてるのも、これと関係あるんだろうか。これの被害を受けるとしたら、閉鎖空間の処理を担当する、古泉率いる超能力者達ぐらいだろう。
なんにせよ、ハルヒがそうしているのは似合わない。団長は団長らしく、いつでも百ワットの笑顔を輝かせていて欲しいものだ。


待ちに待った昼休み、大食い選手権の優勝者もびっくりの速さで弁当を掻っ込むと、文字通り呆然と俺を見ている谷口と国木田を尻目に、俺は朝比奈さんのいる三年の教室へと走った。
ついでにハルヒは、三時間目が終了したあたりに俺が無理やり保健室に行かせておいた事を付け加えておく。
無理やり胃の中に詰め込まれた食材達が揺さぶられ、悲鳴をあげる腹を押さえながら階段を駆け上がり目的地へとたどり着くと、俺は「朝比奈さん!」と叫んだ。ポケットに、封筒を忍ばせて。突然の事に驚いたんだろう。数人とお弁当を食べていた(鶴屋さんもそこにいた)朝比奈さんの百カラットの輝きを持つアーモンドのような目がぱちくりと開き、お箸でつまんでいた卵焼きがボトッと落ちた。そのままネジが切れたロボットのように唖然としていた彼女の背中を、鶴屋さんがいつもの明るい笑みを浮かべながら「行ってきなよっ」と押し、何故か少し顔を赤らめた朝比奈さんが小走りでこっちに向かってきた。もしかしたら何かを勘違いしてるのかもしれない。
そのままお弁当をご一緒したい気持ちを必死に抑えながら、俺は、

「ちょっと来てください」

「えっ? あ、あのっ、キョンくん、どこに……」

慌てる朝比奈さんを外へと連れ出した。寒さは否めないが、ここなら誰かに聞かれる心配もないだろう。

「キョ、キョンくんっ! どどどうしたんですか、いきなり……」
「すみません食事中に。少し見せたいものがあったので」
ポケットの中から封筒を取り出し、それを朝比奈さんに渡す。朝比奈さんは「ふぇ?」と可愛らしい声を零しながらそれを受け取り、軽くひねったらすぐに折れてしまいそうなほどの細く白い指でそれを包み、文字を読み上げると、マイナス三十度の中に迷子になったバナナの三秒後ように固まった。
「……え、えええ!? どういう事ですか、これっ!!」
次第に驚愕に目を開き、あんぐりと口を開けた朝比奈さんが言う。やはりというか何というか、彼女は何も知らされていないらしい。
「朝、俺の下駄箱の中に入ってたんです」
「そんな……。涼宮さんもってどういう事なの……?」
「多分また未来からの手紙だと思いますが、無視する事はできませんか?」
朝比奈さんは一度俺の顔を見上げ、ゆっくりと手紙を指でなぞると、その愛らしい顔をふるふると横に振った。
「ううん。この手紙にはコードがついてます。だからこの手紙の指示通り動かなきゃいけません。しかも、これは最優先のコードだわ。
でも、どうして……」
なるほど。やはりこの手紙にはそれが付いているのか。前に送られてきた手紙に、おまけのようについていた、未来人の特殊な強制効果を持つ命令コード。
それから俺はひとまず朝比奈さんを落ち着かせ、手紙について意見を交わす事にした。

「ここ最近で、何かハルヒについて思い当たる節はありますか? 俺が知らないところで、こんな事を言ってたとか」
「ないです。あたしからは涼宮さんはいつも通りに見えました。あの……ごめんなさい」
しょんぼりと落ち込んだ朝比奈さんが、役に立てなくて申し訳ない、といった風に頭を下げる。
いやいや、いいんです。実際俺からもそうしか見えませんでしたから。非力なのは俺のほうだ。なんたってこの麗しい顔を悲しみに歪めちまったんだから。
「未来からあなたに直接指示は来ていませんか?」
「えーっと、来てないです。なんにも。……え?」
朝比奈さんが吃驚に目をぱちくりとさせ、俺――いや違う、俺よりもずっと向こう側を見た。
何かあったのかもしれない。咄嗟にそう思い、顔だけを後ろに向けてみるも、そこはいたって普通だった。誰かがいたわけでも、桜が咲いていたなんてこともなく、来たときの通り、枯れ木が寂しく風に揺れているだけだ。
「どうかしましたか?」
「今……あ、ううん。なんでもないです。きっとあたしの見間違い」

結局休みが終わるまで有力な情報は出ず、俺は後ろ髪をひかれる思いで朝比奈さんと別れた。

――今思えば、もう少し考えるべきだったんだろう。俺達は失念していたのだ。
リミットである今日の夜九時までの出来事は、俺達が知っているものだけではない事を。
これから何かが起こるかも知れない、という可能性の事を。

 


全く、未来人ももう少しぐらいヒントをくれたっていいじゃないか。
これだけで理解しろなんて期待されたって俺には荷が重すぎる。生憎だが、メッセージから意図を汲みとって、それを得意げに講釈するのは古泉だと相場が決まってるんだ。俺にはそんな頭脳もテレパスもなければ、リンゴの気持ちも分からん。そんな悪態をついていたら、いつの間にか授業終了の鐘が鳴り、残ったのは消化不良な胃と気持ちだけだった。自然と溜息が出てしまったのも仕方ないね。
荷物を片して部室へと向かう途中に岡部と出会い、ハルヒは五限あたりで早退した事を知った。うちの団長の体内に侵入するなんて、随分と勇気のあるウイルスである。また九時頃に呼び出ししても大丈夫なんだろうか、と俺は一抹の不安を覚えつつも、ノックを欠かすことなく部室のドアを開いた。

どうやら俺が一番乗りのようだった。大抵は俺を迎えてくれる長門がいない部室っていうのは珍しい。ガキの頃、土曜日学校から帰ってきたら親がいなかったような寂しさを感じつつも、俺は鞄を置き、電気ストーブをつけてその前に座み手をかざした。氷のように冷たい指に徐々に感覚が戻ってくる。うー、寒い寒い。
ほどなくして朝比奈さんが来、俺は着替えの間一本釣りされたマグロが海から上がるように部室を出て、あまりの寒さに三ミリほど身長を縮ませた。それもオールオッケーだ。朝比奈さんの可憐なメイド服なんて餌が付いているなら、マグロじゃなくても俺が食いつく。

しばらくドアの前でタップを踏んでいると、向こうから古泉がやってきた。
ハローのつもりで片手をあげてやったのだが、相変わらずの無料スマイルを配り歩いていた優男は俺の顔を見ると、ソフトキャンディーだと思って噛んだのが実は飴だった、みたいな顔をした。 なんだ、どうかしたのか。
「いえ、僕が一番だと思ったもので。朝比奈さんは着替え中ですか?」
「ああ」
俺がそう言うと、古泉は何度か見た事がある動作で鼻の付け根からてっぺんまで指でなぞり、「ふむ」と言葉を漏らした。こいつはこいつで何か問題を抱えているんだろうか。 そんな仕草でさえ無駄に似合っている古泉にあの手紙の事をゲロっちまおうかと考えていると、「お待たせしましたぁ」という舌ったらずな甘い声が耳に届き、俺は蜜に引きつけられる働き蜂のようにドアの扉を開いた。


しばらく古泉とボードゲームを続けていたが、いくら経っても長門は来なかった。
もしかしたら隣で大活躍しているのかとコンピ研を覗いてみたのだが、「今日は来ていない」との返事をもらい、お使いを頼まれスーパーまで走ったら既に売り切れていた時の小学生のような気分を味わいながら俺はすごすごと部室に帰ってきた。
「どうかされたんでしょうか、長門さんは」
「分からん。ハルヒみたいに体調でも悪いのかもしれん」
もしそんな事になったら、俺達はここでのんびりティータイムを過ごしている場合ではないんだろうが。ハルヒと長門、二人がいない部室はどこかすっからかんとしていて、ストーブの熱の上を冷たい隙間風が煽った。
「涼宮さんも無事でしょうか。ただの風邪だといいのですが」
古泉が『団長』の三角錐をチラっと見て、心配気な面持ちでぽつりと言葉を零す。 あいつの事だからきっと恐れをなして風邪菌のほうから逃げていくだろうよ。明日になればまた満面の笑顔でドアを蹴破ってくるさ。
「そうだといいんですがね」
普段よりは幾分力無い笑みで古泉が答え、そして続けた。
「前々から言ってきましたが、涼宮さんの能力も減少傾向にあります。もう彼女には、以前程の力は残されていないのではないでしょうか。それこそ秋に桜を咲かせるような、可愛いものしかね」
驚いたりニヤけたりと忙しいやつである。
何だ。ハルヒのデタラメパワーはもうMPがすり減ってきてるのか。
「朝比奈さんの未来人組織や、長門さんの情報統合思念体はまた違う意見や見解をお持ちでしょうが、少なくとも僕はそう考えます。
もっとも、世界を改変する力があれど、彼女はもうそれを必要とする事はないでしょうがね」
確かに、ハルヒは初見時に比べ随分と落ち着いてきている。ずっとあいつの前の席を陣取ってきた俺のお墨付きさ。おたまじゃくしがカエルとまではいかなくても、両足についでに片手ぐらいは付き始めているはずだ。ふと、遠い彼方に忘却したはずの去年の五月の記憶が蘇り、俺は舌を噛みながらそれを振り払った。俺の中でしぶとく生き残っていたらしいそれを脳内の端っこに押しやり二重に鍵をかけてから、再び古泉と向きあう。
「お前達機関としたら願ってもないところじゃないか」
「ええ。その通りです。この世界の安寧が僕たち『機関』の総意であり、僕個人の願いでもあります。そのために、四年間頑張ってきましたからね。ですから、僕としてはこのまま無事平穏に事態が収束に向かっていくことを願うところですが――」
それに反対するかのように、古泉の胸ポケットで携帯が震えた。「失礼」と丁寧に断ってから携帯をチェックし、古泉は一息つくと少し笑みを落とした。あいつが早退するぐらいの風邪だ。閉鎖空間が発生したってなんらおかしくない。
「それも一枚岩とはいかないようです。僕の仕事もまだ続きそうだ。全ての終わりは、もう少しお預けですね」
まあ、今日は俺にもハルヒにも非はない。あいつだって辛いだろうからな。
「もちろん承知していますよ。彼女の苦しみが少しでも楽になる事を祈っています。彼女の苦しみは、僕の苦しみでもありますから」
気障ったらしい台詞がやけに似合う奴である。
古泉は片手をあげ、思わずそこにある油性ペンで落書きしたくなる笑顔を張りつけて「それでは」と部室を出て行った。おうよ、頑張ってこい。

 

 

 


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