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微睡むような雨の音だった。

先ほどまで矢のようにこの街に降り注いでいた雨は、時間が経つと共に遠のき、今は小雨こそ振るものの雲の切れ間からは柔らかな日の光が差していた。
もしかしたら、虹が見えるかもしれない。
紙コップに二ミリほど残る冷えきったコーヒーを一瞥し、ガラスの窓へと目を移す。水滴の付いた曇りガラスに映る自分の顔を見てから、再び丁寧にファイリングされた記録へと目を通した。

200X 九月八日 0:24
規模:B 軽傷者:0 重傷者:0 死亡者:0
備考:閉鎖空間の数の上昇傾向あり。規模の拡大も確認。

200X 九月八日 18:16
規模:D 軽傷者:1 重傷者:0 死亡者:0
備考:

200X 九月九日 03:16
規模:C 軽傷者:0 重傷者:0 死亡者:0
備考:

200X 九月九日 08:53
規模:C 軽傷者:0 重傷者:1 死亡者:0
備考:神人に叩きつけられた際地面に落下。○○病院に搬送。
左手首の捻挫および右足の複雑骨折。

200X 九月九日 15:46
規模:B 軽傷者:0 重傷者:0 死亡者:1


そっと記録を閉じ、数メートル先のドアを見遣る。薄く開いたドアから、伺うよう一人の青年がこちらを覗いていた。
「おや、バレてしまいましたか。さすがは森さん、と言ったところでしょうか」
「バレバレよ」
整った顔に柔和な笑みを浮かべたその青年――古泉一樹は、音を立てないようにドアを閉めると、隣の椅子に腰かけた。
大きくなったわね、とふと思う。スラリとした体付きは、この間まで私と同じぐらいだったように思えるのに。
「どうしてまだ残っているの?」
「雨が降ってきたものですから。微弱になるまではここで雨宿りしようかと思いまして。
森さんは、どうかされたんですか?」
「別に、何でもないわ。書類の整理でもしようかと思っただけよ」
先ほどまで見ていた記録を、なるべく自然な動作で後ろにずらす。しかし目敏くその記録を見付けた古泉は、「お疲れ様です」と囁くように言った。

「雨ですね。久方振りです。最近は晴れの日が多かったですから」
「そうね」
「森さんは雨が好きなんですか?」
目だけで機関のビルを見回し、古泉が問う。
「あら、どうして?」
「なんとなく嬉しそうですから。今もね」
もしかして緩んでいるのかしら、と思わず右頬に手をあて、それから窓を見遣った。いつの間にか雨は止み、まだ些か曇のある空を七色のアーチが跨いでいる。
「雨は嫌いよ。でもそうね、虹は好き。……なんて、少し子供染みているかしら」
私の視線に倣うように古泉が窓越しに空を仰ぎ、「おや」と感嘆の声を漏らした。
「美しいですね。虹を見るのはいつぶりでしょうか。雨上がりの虹は別格ですね。素晴らしい気象現象だと思いませんか」
誰かに問うわけでもなく、あくまで独り言のように古泉が呟く。
そっと瞼を閉じた。頭の中を、あの日の微睡むような雨音が今でも鮮明に響き渡る。
そう、あの時も雨が振っていた。

 




彼は『雨男』と呼ばれていた。
行く先々で雨が降るんだ。と悪態を付いていた彼の鞄の中には、いつも紺色の傘が常備されている。
おかげで、閉鎖空間が消滅した後に見る空は大抵雨模様で、「まったく」と他の戦闘員は苦笑気味に溜息をついていた。

「なんでだろうな。俺は別に悪いことしてるわけじゃないのにさ。雨に好かれたって嬉しくない」
「あなたは敬語という物を習わなかったのかしら。俺じゃなくて僕でしょう。何度言ったら分かるの?」
「まあまあそんな固い事言わずに……痛え。やめてくれ、いややめてください。暴力反対!」
「よろしい」
神人が破壊した建物の破片で頬を切ったらしい彼の、少し赤みを帯びた頬にガーゼを当て、テープで止める。
もっとも彼が擦っていたのは、さっきつねった左頬の方だったけれど。
「できたわよ」
「いてえ、こっちより大分痛い」
「自業自得ね。肝に銘じておきなさい」
不貞腐れるような顔を見せた彼は、それから窓へと視線を寄せた。
「虹だ」
自分より幾つか幼い彼の瞳に七色の橋が映っている。
雨男の異名を持つ彼のおかげか、閉鎖空間の出現の少し後にはよく虹が見えた。先日は太い主虹に加えて副虹も見られ、二本の虹を見上げながら機関員は皆感嘆の息を付いていた。
「あらほんと。綺麗ね」
彼は微弱に頷き、そしていかにも寝むた気に、寝不足のせいで少し充血した目を擦った。無理もない。ここ最近は連日閉鎖空間に追われる日々で、ろくに眠れなかっただろうから。
「送るわ。家に帰ったらすぐに寝なさい。もしかしたら今夜も発生するかもしれないから」
「疲れた」
溜息交じりに彼はそう呟き、助手席に乗るとすぐに目を閉じた。
そして駐車場を出る頃にはすっかり寝息を立てていて、目の下にある大きな隈が積み重なる疲労を垣間見せた。
ワイパーでフロントガラスに乗った雨粒を弾きながら、ふと思う。
本来なら、今頃彼は楽しい高校生活を送っているだろう。クラスメイトと雑談を交わし、部活動に励み、しっかりと睡眠を取る。
だが今はどうだろう。ろくに眠る事もできず、世界の安寧のために、下手をすれば自らの命を落とす危険性もある閉鎖空間の除去を強いられる毎日。
そんな日々を、彼はどう思っているのだろうか。決して光の差す事のない空間の中、全てを破壊する巨人を見ながら、彼は何を考えているのだろうか。


あくる日の朝の事だった。
一人の戦闘員が神人の動きを避け切れず、地面へと叩きつけられてしまったのだ。すぐさま救急車を手配し、機関の息のかかった病院へと搬送する。
しばらく入院が必要のようだ。もっとも、軽傷ですんだとしてもあれだけの恐怖を受けた彼がすぐに戦闘に戻れるとは思っていなかったけれど。

その日、病院に見舞いに行くと言った私に、彼は「俺も付いていく」と頑なに言い張った。
「あなたは寝ておきなさい。深夜の閉鎖空間のせいで昨日も充分に睡眠がとれてないでしょ」
「それを言ったら森さんだって寝てないじゃん。お願い、俺も行かせて」
しばらく言い合いを続け、結局折れたのは私のほうだった。
渋々彼を車の助手席に乗せ、途中近くの花屋で見舞いに相応しい花を購入し、病院へと車を進める。

オキシドールや包帯といった医療品の匂いが鼻を突く。メモに書かれた部屋番号の前に立ち止まり、ノックをしてから入室する。
手足に包帯とギプスを施された三十代半ばの彼は、私の顔を見るなり悲愴に顔を歪め、涙をながらに訴えた。
「僕はもう嫌です。あんな所になんか行きたくない! こんな力さえなきゃ良かったんだ。こんな力なんて……」
シーツを掴み、泣き崩れる彼を見ながら、私も、隣で佇む彼も一言も話さなかった。
言葉が見つからなかった訳ではない。こういう場合に掛けるべき言葉は、以前から機関からレクチャーされていた。それでも私は、何も言えなかった。


帰りの車内は、静寂に包まれていた。
そしてふと、遠い出来事を思い出すかのような口振りで彼は呟いた。
「俺、なんでこんな事してるんだろ」
運転に集中するフリをしながら、私は何も答えない。そんな私を一瞥してから、彼は言葉を重ねた。
「きっと俺、嬉しいんだと思う。
だって戦ってる間は、誰かから必要とされてる気がするじゃん。涼宮ハルヒからも、機関からも」
機関員の生い立ちは全て調べている。その中でも目を引いたのが、隣に座る彼だった。
彼は幼い頃、両親により施設に預けられているのだ。だから彼は両親の顔も、一緒に過ごした思い出も覚えていない。写真一枚さえ残っていなかった。
だから彼と彼の両親を繋ぐのは、彼が預けられた日、両親から渡された紺色の折りたたみ傘だけだった。数年経った今も尚、もうボロボロになってしまった傘を彼は使い続けている。

何か言おうとして、結局踏みとどまったのと同時に二人の携帯が震えた。――発生したのだ。閉鎖空間が。
ガラスに一つ、二つと雨が落ちる。発生場所は近かった。車でそこに向かい、暗闇と現実との狭間に立つ。
小雨に打たれながら、彼は乾いた笑いを見せた。そして手をあげ、「一番乗り」と言ってから背を向ける。
――その瞬間、「待って」と、手を伸ばし彼を引きとめたい衝動に駆られた。
雨の中に溶けていく彼に精一杯伸ばした手は空を掴み、だらんとぶら下がった。雨脚は次第に強くなり、風と共に頭や顔や全身に降り注ぐ。

そして、それが彼を見た最後だった。

 

 



今でも雨を見ると、『あの時手を伸ばせていたら』と後悔の念が押し寄せる時がある。だから私は雨を嫌った。
それでも、雨上がりの虹を私は愛した。それが空との架け橋になり、いつか彼が戻ってきてくれるような、そんな気がしたから。
子供みたいだと、笑われるかもしれないけれど。

「森さん」
はっと我に返る。目を開き、まず視界に入ったのは心配気な面持ちをした古泉だった。
「どうかされましたか? 疲れているように見えますが」
「……いいえ、何でもないわ。ただ過去を思い出していただけ」
私がそう言うと、彼はいつもの意味ありげな微笑を顔に浮かべた。
そして不意に立ち上がり、自販機の前に立ちコーヒーを二つ買うと、そのうちの一つを「どうぞ」と手渡した。
「あら、気が利くじゃない」
「森さんもいい部下をお持ちですね」
私が何かを言う前に、古泉は「冗談です」と笑った。

次第に空を覆っていた雲から太陽が顔を出し、青空に虹が溶けていく。
温かいコーヒーを一口含み、私は再び瞼を閉じた。――このコーヒーの味を忘れないでいよう。そんな思いを馳せながら。

 

 

 

 

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