「お待たせっ!」
 バァン、と轟音を響かせながら我が物顔で部室に入って来たのはもちろんこの部室の影の所有者、SOS団団長こと涼宮ハルヒ。
「みんな揃っているわね!」
 長門と古泉が来ていないだろ、と言うツッコミは、部室の前で静かに佇む二人の姿を見てあえなく断念した。
 ハルヒは手をワナワナとしならせながら、
「さ、みくるちゃん、着替えるわよ~」
「うわ、ひゃあ! じ、自分で着替え……はぁうん!」
 メイド服のファスナーが半分ほど降りたところで、俺はそのまま踵を返してゆっくりと部室の外へと歩みを進めて振り返りもせずドアを閉じた。
 去年の今ごろは慌てて外に飛び出そうとしたものだが、俺も大人になったものだ。もしかしたら違うかもしれないが、その辺は軽く受け流してくれればこれ幸いである。
 ……そう言えばメイド服から何に着替えるつもりだったのだろうか?

 その答えは簡単で、高校生たるものの正装、つまり制服姿に戻っただけであった。
 そう言えば朝比奈さんの制服姿を久しく見てないような気がして、目の保養兼もうあと半年しかお披露目できない彼女のセーラー服姿を堪能していると、その視線に気付いたのか顔を紅くして体を背けてしまった。ちょっと反省。
「それじゃあいくわよ!」
 どこに行く気だ?
「商店街よ。見て分からないの?」
 普段と何一つ変わらない格好でいるのに解るはずもなかろう(朝比奈さんの制服姿を除く)。
「いい、みくるちゃんが制服のままってことは、外へ出て活動するって事を暗に示しているのよ。いい加減覚えて欲しいわね」
 そうか? 去年の映画撮影の時はあのミニスカウェイトレス衣装でバスに乗ってたし、阪中の家に行ったときは巫女さんの姿だったよな。
「本年度からは制服に変更したの」
 都合の悪いことはを隠蔽若しくは誤魔化すのは止めたほうがいいぞ。汚職まみれの政治家と同類だ。
「さ、行くわよ。みくるちゃん、ダッシュで行動!」
「あふぁ! ひゃい!」
 ……やっぱ聞いちゃいねえ。


 通学用に使用している俺の自転車と、そしてどこからとも無く表れた古泉に自転車の乗合配分はやっぱりハルヒが仕切り、つまり俺の自転車にはハルヒと長門、そして古泉のチャリには朝比奈さんと、いつか見た光景と同じものがそこに存在した。
 いくら女性とは言え、計三人分の荷重のかかった自転車を漕ぐ俺は夏の暑さも相まって地獄に居るような心持ちだが、対して爽やかな顔をした少年と紅い顔をした少女が乗る自転車は夏の青春真っ盛りである。
 くそ、古泉。帰りは絶対交代してもらうからな。
 そうこう心の中で文句を言いつつも二台の自転車は商店街へと辿り着き、そしてとある店の前でキキキッと止まると、
「有希、みくるちゃん! 急ぐわよっ! キョンと古泉くんはそこで待機!」
 自転車から飛び降り、鞄に本をしまいこんだ長門の手と、タイミングよくやってきた古泉の自転車から朝比奈さんをひったくってその店の中へと消えていった。
「ったく、忙しい奴だな」
 自転車を降り、スタンドを立てた。一体どこなんだ、ここは。
「なるほど、ここでしたか」
 同じくスタンドを立てた古泉は何かを悟ったかのように商店街の一店舗を見上げた。ハルヒ達が入って行ったこの店。それはいかにも伝統のありそうな着物の仕立て屋だった。黒光りする柱が歴史の古さを物語っている。俺みたいな小市民が行きつけになることは到底なさそうな、高貴なオーラが店の外からでも分かった。一体何を考えているんだあいつは?
「多分、あれではないでしょうか? ほら」
 古泉はモールの一角、等間隔に置かれている飾り物を指差した。
 五色の短冊に彩られた笹の枝。その下方、一層大きな短冊に見立てたのぼりで全てを理解した。

 ――○○商店街主催 第十回 七夕祭り 七月七日開催予定――

 何となく理解した。あの祭りに着ていくための浴衣や下駄を揃えるつもりなのだろう。
「そう言うことです」
 さも満足げに古泉は頷いた。しかし、去年買ったはずのに、また今年買うか? 普通。
「去年は量販店の安物で間に合わせましたからね。ちゃんとしたものを揃えたかったのかもしれません」
 だがなぁ……かなり高そうだぞ、ここ。店頭に出ている「特価品」の反物でさえ万を超えている。店の中にあるものはもっと高いんじゃないのか?
「それ以上に大切な何かが涼宮さんの琴線に触れてしまったのかもしれません」と古泉。「元々涼宮さんは頓に七夕が気になるようでしたしね」
「……そう言えば、そうだったけな」
 去年の七夕。いや、ハルヒにとっては四年前の七夕になるわけだが、俺は過去のハルヒと会い、一緒になって校庭に悪戯書きをしたあの日。ハルヒにとっても、そして恐らく俺にとっても、未来と現在を繋げる重要な出来事の一つだったのだろう。
「僕は未来人ではありませんので、これから何が起こるのか知る由も無いのですが、今回このイベントに参加することになったのも既定事項の一つなのでしょう。それより何より、この祭りに参加することが何より楽しみで仕方ないんだと思います」
 だといいんだけどな……


 暫く古泉と他愛も無い話をしていたのだがそうこうしている間に元気の良い罵声が響き渡った。
「キョン、古泉くん、こっちにいらっしゃい!」
 さてさて、何をさせられるのやらね。三人の浴衣姿の品評なら去年やったからもうやらないぞ。朝比奈さんの浴衣姿が重要文化財級なのは明らかであるし、ハルヒは黙っていれば、長門は饒舌ならばそれに追随できる可能性を秘めている事もまた然りだ。
 そんな微妙な妄想を振りまきながらも店内に入り、店内の奥、生地をしげしげと見つめる三人を見つけて声をかけた。残念ながら浴衣は着ていない。
「あ、来たわね。今から採寸するからそこでじっとしてなさい」
 やおらメジャーを取り出し、俺の首に巻きつけた。
「こらっ……ばかっ! 苦しいだろうが!」
「すぐ終わるからじっとしてる!」
 その前に死んでしまうだろ……う……が……! ぐほっ!
「……首回り36っと……じゃあ次!」
 チアノーゼが起きるかと思われた瞬間、首に撒きつめられたメジャーを緩ませ、今度は肩から下を思いっきり縛られる。
「胸囲は……うん? 124? すごい! みくるちゃん以上ね!」
 腕を入れて測るなバカ野郎!
 等とハルヒのトンチンカンな採寸を受けている間、古泉と言えばやはり遠慮がちに手を回す朝比奈さんの採寸を受けており、ここんところでクソ忌々しい気分が上昇したのは言うまでも無い。
「おばあちゃん、採寸終わったわよ!」
「ああ、すまないねえ。最近は足腰が弱くて、時間がかかるもんでね。本当に助かったよ」
 店の奥。意外に真新しい畳の上に座っている女性のご老体――おそらく店主だろう――は、こちらを見て何度も頭を下げていた。
「こっちこそ、いきなり五着も注文しちゃってごめんなさい」
「ええのよええのよ。お嬢ちゃん達がまた買ってくれるとは夢にも思わなんだよ。それに今度は坊ちゃん達の分まで……本当、ありがとう。このあたしが責任持って作るからね。七夕には絶対間に合わせるからね」
「それじゃあ後はよろしく!」
 こうして俺達に詳細な説明も無いまま採寸を終えたハルヒは一人満足げな顔をしつつ、声を高らかに上げ外に出て行った。


「去年も言ったけどさ、七夕にあわせて浴衣を着たかったのよね」
 帰り道、自転車を降りて歩く俺に対してハルヒは呟いた。商店街から七夕祭りの行われる河川敷までそれほど遠くない。ちょっと場所を確認しましょと言うハルヒの提案で、こうやって皆で歩いて移動しているのだ。
「去年の使いまわしてもよかったんだけど、あんたや古泉くんの分がなかったじゃない。どうせならパーッと全員分揃えようと思ってさ。やっぱりみんな同じ服装にしたかったの。仲が良んだから、同じ浴衣でもいいもんね……」
 ハルヒは何故か遠い目をした。
「それで、いい所ないかなーって商店街をぶらついてたら、見つけた……ううん、思い出したの。この辺にこういうのがあったなあ、って」
 本来なら「この店のこと知ってたのか?」聞き返すのだが、ハルヒの普段あまり見せない表情に戸惑いを感じ、無難に「そうかい」とだけ返答をした。何となく聞いてはいけない、そんな既視感が目頭の辺りでグルグル渦巻いていたからだ。
 そして、しばしの沈黙。
「涼宮さん、そう言えば代金は足りるのでしょうか? お店の風体からするにかなりの高級店のように見受けられましたが」
 間を繋ぐように古泉が語りかけた。
「ああ、それなら大丈夫よ。おばあちゃんと交渉して余りものの反物で作ってもらうことにしたし、それに殆どタダみたいな値段でやってくれるって。おばあちゃんたら若い人が来てくれてよっぽど嬉しかったみたい。ああ、それと」
 下駄は実費だけどと付け加えた。
「すっごくサービスしてくれてとっても嬉しかったんだけど、でも気付いたの。おばあちゃん、足が悪そうだって。そんなんなのにタダみたいな代金でやってもらうのには気が引けてね。だから採寸くらいはやろうと思ったの」
 絶妙な笑みから一転、ややバツが悪そうに、そして怒ったような口調に変わる。誉められ慣れてないハルヒがよくやる表情だ。
「採寸なんて初めてでしたけど、楽しかったです。お洋服買うときに愛着がわきますぅ」
 対照的にぱあと花を咲かせるように朝比奈さんの顔から笑みがこぼれた。うんうん、この笑顔だ。ハルヒも見習って欲しいものだ。せっかくお前にしては良い事をしてあげたんだ。そのくらやってもバチはあたらないさ。
 誉められたら朝比奈さんみたいに素直に喜べばいいそれだけでお前に対する世間の評価は75パーセントは上がるぞ。後25パーセントは長門のような寡黙さを持ってくれればほぼ完璧なんだけどな。
「バッカじゃないの? 何であたしが世間の評価を気にしなきゃいけないのよ。そんな必要性が感じられないわ」
 これ以上無いくらいハルヒは口を尖がらせ、そっぽを向いた。
「半分くらいは俺の要望なんだけどな」
「だったらなおさら無理」
 さらに厳しい言葉を突きつける。そっぽを向いているから表情までは見えなかったが、どんな表情をしているのか見てやりたい。何となくそんな挙動に刈られた瞬間でもあった。
 実際にはしなかったけどな。


 とまあハルヒの機嫌を損ねつつ、しかし古泉のニヤケ顔が一段と濃くなったことに不快感を感じつつも、一同は程なく七夕祭りが行われる河川敷までやってきた。
「ここが会場ね。……特にそれっぽいものはないわね」
 当たり前だ。七夕祭りまで一週間以上はある。どんな風に行うかは知らないが、大道具を除いて準備はまだだろうよ。
「なんだ、つまんないわね。巨大な笹でも飾ってあると思ったのに」
 あからさまに不機嫌な態度を取り、再び唇をアヒル型に仕上げた。
「……はわ? あれは……?」
 対照的に目をまん丸にし不思議そうな表情を浮かべた朝比奈さんが橋の方を振り向き、つられて俺もそちらを見る。すると、
「あ……」
 ハルヒも狐に摘まれたような、何とも言いがたい表情をしている。
「…………」
 古泉は無言、長門は言うまでもない。

 俺達全員が振り向いた先にいたもの。
 それは、橋の欄干に身をもたれ、じっと川の流れを追い続ける一人の少女の姿だった。
 その少女は俺の……いや、俺達の顔見知りであり――

 ――一瞬の後、目線が俺の方に集中した。

 何だこの目線は。俺が何とかしろって言いたいのか? お前ら?
「あんたの『親友』でしょ?」
 本日何度目か分からないが、唇を尖らしたハルヒが酸っぱく俺に言い放った。
「まあいいわ。何をしてるのか聞きに行きましょ」
 くるりと踵を返したハルヒは、それ以上何も突っ込むでもなく、彼女の――佐々木の元へと歩き出した。



「何をやっているの、こんなところで」
 ハルヒにしては異様なほど普通な質問を投げかけた。
「……あ、涼宮さん。それにキョン、皆さんも。どうしたんですか?」
 ワンテンポ遅れて佐々木は言葉を返す。喋りにキレが無いと思うのは俺の気のせいだろうか?
「ん、ちょっとね。今度ここで七夕祭りがあるからその下見に来たの」
「ああ、そうなんだ……」
「ええ、そうなのよ……」
「…………」
「…………」
 なんだろう、このぎこちない会話。煩いハルヒと饒舌な佐々木の会話だとは思えん。
「そう言えば、確かにここは毎年七夕祭りをやってましたね。涼宮さんは毎年来てるの?」
「いえ、数年振りかしら。ここ暫くは参加してなかったわ」
「くくっ、一緒ですね。近年は色々忙しくてこの祭りに参加できなかったんですよ。実は」
「ふふ、そうなんだ……」
「ええ。そうなんです……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 そして沈黙。本当にどうしたんだこの二人は? 何か悪いものでも食べたのか? などと思ったら、
『あのっ!』
 突然同時に叫びだした。
「な、何かしら、佐々木さん!」
「いえ、涼宮さんからどうぞ!」
「あら、そう。ええとね。実は、七夕祭り一緒にどうかなー、って思って。あたし達全員で参加予定なのよ」
「本当ですか? 実は皆さんと一緒に参加できたらと思ってたの。涼宮さん、誘ってくださり感謝します。ですが、せっかくの活動の邪魔にならないかしら?」
「いいえ、そんなことないわ! いいわよね、みんな!?」
 独断が信条の団長は珍しく皆にすがるように問うた。もちろん反対する奴などいない。
「ほらね。だから気兼ね無しに参加して頂戴!」
「ああ、本当ですね。ありがとう、涼宮さん。それに皆さん、すみません」
 しおらしく頭を下げて、
「キョン、せっかくのイベントに介入して悪かったね。この償いはまた今度するから」
 別に構わんさ。一人や二人増えたところで俺の精神的苦労に変わりはない。
「おや、そうだったのか。なら橘さん達も連れてきていいかな?」
 それだけは丁重にお断りさせていただく。
「くくく、そう言うと思ったよ。未だにキョンは橘さんを苦手としているみたいだからね」
 当たり前だ。俺が橘と絡むまでのストーリーを聞いたら誰だって陰々悶々とするに決まっている。
 そう言うと佐々木はわざとらしく目を見開いて、
「嫌に卑猥な表現だ。まさか二人の仲はそこまで進展してたなんて……奥手のキョンとは思えないくらい積極的だ」
 怒るぞ佐々木。
「くくく、冗談だよ。橘さん達は呼ばないようにするから安心してくれたまえ」
 是非お願いしたいところである。
「そうそう、祭りに併せて浴衣も準備しなくてはいけないね。七月七日といえば浴衣を着るのに最適な日でもあるからね」
 何故だと聞くと佐々木は指をくるくる回し、「浴衣の日だからだよ」
 ほほう、それは初耳だ。もしかしたらハルヒもそれを狙ってこの日に浴衣を揃えたのだろうかね?
「へえ、そうだったんだ。いい事聞いたわ」
 実は知らなかったらしい。
「……そうなんですかぁ、知らなかったです。浴衣っていいものですよねぇ」
 ほんわかした顔でしみじみ語るのは何着ても似合う部室のメイドさんである。去年の浴衣姿が未だに目に焼きついてはなれない俺だが、果てさて今年はどんな浴衣なのだろうか。気になるね。
「そうそう佐々木さん、」何かを思い出し方のように喋り始めたハルヒは「実はさっき、みんなで浴衣の作製を依頼したところなの。もしければ佐々木さんもどう? 今なら半額大売出しで作ってくれるわよ、きっと」
「いや、それには及びません。以前頂いた浴衣があるから、それを着ていこうかと思ってね」
「あら、そうなの」とハルヒ。残念のような、ホッとしたような……さっきと同様、意味深な表情をした。
「それでは、ここで失礼するよ。これから塾に行かなくてはいけないのでね。キョン、七夕祭りも良いけど、期末テストが差し迫っている事も忘れないでくれたまえよ。涼宮さんのご鞭撻を無にしてはいけない」
 よけいなお世話だ。大体何故ハルヒに勉強を教わらなければならんのだ。そりゃ塾に入るよりはマシかもしれながいが、ハルヒの教え方もスパルタチックで結構大変なんだぜ。教わるくらいなら自分から進んで勉強するさ。
「ええ、任せといて。これでも一年以上キョンと一緒にいるから、扱いには慣れているわ」
「そうですね、期待してます。それでは、また」
「うん、またね」
 ……だからお前ら、人の話を聞けっつーの。


 佐々木を見送った後のハルヒは若干グルーミー気分を吹き飛ばしたようで、ここに笹の葉が立ちそうねとか、あの辺なんか花火を上げるのに最適ねなどとまるで七夕祭り実行委員のように始終まくし立て、それに飽きたら「また明日」といって帰りやがった。
 残った俺達も誰からともなくその場を解散し、俺もこのまま自転車に乗って家に帰っていった。
 帰り際、朝比奈さんを近くまで乗せていけば良かったと後悔したのだが、今更戻ったところで朝比奈さんは居ないだろうし、またいつかチャンスがあったら乗せてやろうと思った。ハルヒが勝手に座る前にな。
 と、言うわけで。七月七日に行われる夏祭りに突如として参加表明を出した佐々木だったが、それは実に巧妙に仕組まれた罠であり、俺がそのことに気付いたのは当日の祭り最中だった。
 ましてやハルヒやその関係者を巻き込んで騒動に発展することなど、この時は知る由も無かった。



 七月七日当日。
 まるで梅雨明けしたかのような青空で、朝のニュースの合間に流れた天気予報からも降水確率ゼロパーセントのお墨付きを頂くことができた。おかげで本日の七夕祭りは盛大に行われそうである。よかったな、ハルヒ。
 そのハルヒだが、いつも通りの振る舞いに従事し、授業中ふんふんと頷きながらノートにメモを取り、シャープペンの先で俺の背中をピスピス刺しながら暇を潰し、本日の授業が終わるのを今か今かと待ち構えている。例の憂鬱メランコリーからは解放されたようだ。
 ……こら、わかったからそんなに突っつくな。
 そして放課後。浴衣を取りに行くわよと大急ぎで部室に向かい、ついでに俺も引っ張られて部屋に放り込まれる。見ると三人は既にスタンバイが終わっていた。三人の用意の良さは天下一品である。
「じゃ、みんな行くわよっ!」
 教室から出て五分と経たないうちに外に飛び出し、十分と経たないうちに駐輪場まで駆け下り、そして三十分と経たないうちに例の着物屋まで辿り着いた。
 言うまでもないが、俺は今回も長門とハルヒを乗せて漕ぐ羽目となったのは忘れないで欲しい。
「おばあちゃ~ん! 受け取りに来たわよっ!」
 狭い店内にハルヒのけたたましい声が響く。
「おお、嬢ちゃんかね。はいはい、できてますよ」
 おばあちゃんは時間をかけてゆっくりと歩き、桐の箪笥から注文した浴衣を取り出した。
「着付けはできますかね?」
「うん、去年着たから大体覚えてるわ。大丈夫よ」
 残念だが、俺は去年着てないから分からんのだが。古泉、お前もそうだろ。
「そうですね。一通り習っておきますか」
 というわけで、俺と古泉の男性陣はおばあちゃんに浴衣の着付けについて習うことになった。ハルヒ達女性陣は準備があるとのことで速攻帰ることになった。


「……と、大体こんなところだね。わかったかい?」
 女性陣の帰宅を見守った後、俺と古泉は店の奥へと上がらせてもらい、着付けの練習をしていた。とはいっても、制服の上から簡単に習っているだけなんだがな。
 浴衣は草色の生地に、白い笹の葉が描かれたものだった。いかにも七夕を意識した作りになっている。色からして派手さは無く、こう言っちゃ何だが少々じじ臭い部分もある。ま、俺にとっちゃこれくらいの色身のほうがあっているかもしれない。
 因みに古泉は藍色の生地で同じく笹の葉が描かれている。つまり俺の生地と色違いなだけであるか、色が濃い分笹の葉がより浮き上がって見える。そして長身のためか俺より似合っているように見えるのは実に腹立たしい。
「なるほど、大体分かりました。そんなに難しいものではないんですね」
「そりゃそうだよ。昔は誰でも普通に着ていたものだし、普段着みたいなもだよ」
 先に着付けが終わった古泉の質問に、おばあちゃんは元気に答えた。確かにその通りだな。正装ならともかく、普段着がそんなに難しいものだったら嫌だもんな。
 さて、俺も負けてはおれん。腰紐を巻いて帯を巻いて……っと、
「こんな感じでどうですか?」
「ええ、ええ。大丈夫ですよ」と言った後、おばあちゃんが怪訝な顔をして見せた。
「何かおかしいところでも?」
「……あんた、ここに来たことなかったかい? ほら、昔浴衣を買いにさ」
 この店に来た覚えも外で着物や浴衣を買った覚えも無かった俺は「いや、記憶にないです」とだけ返答した。
「そうかい、なら人違いかねえ……確か昔、あんたのような体格の人に、着物をあげた覚えがあるんだけどね……」
 一体なにがあったのだろうか。「良かったら話してもらえませんか?」
「ああ、あれは確か……三年だか四年前の話なんだけどね。『妹の浴衣を探している。丁度いいのが無いか?』って客が来たんだよ」
「妹?」と俺。確かに俺には妹がいるが、そんな記憶はホトホト無い。「その人の妹さんは何歳くらいでしたか?」
「そうねえ……多分中学生くらいの子だったよ」
 ますますその人が俺である可能性が消えた。三、四年前に中学生なら今は高校生、恐らく俺と同じくらいの年だ。対するうちの妹の三、四年前といえば小学生の低学年であり、いくらなんでも中学生に見間違えられることはない。
「それで、その妹さんに浴衣を売ったのですか?」
「ええ。でも丁度良いサイズの浴衣が無くてね。軽く調整はしたけどその子には少しダブダブだったよ。そうだ。今ならあの子の丁度良いサイズになってるかもしれないねえ……今思い出してみても、可愛らしい顔をしたお嬢ちゃんだったわね」
 懐かしい顔を浮かべながら、おばあちゃんは口を流暢に動かした。
「あの元気のいいお嬢ちゃんに負けないくらい可愛い子だったよ。お兄ちゃん思いの優しい子でね。あんな子を持つお兄ちゃんはさぞかし良いお兄ちゃんなんだろうね」
「お兄さんの顔はどのような感じだったのでしょうか?」
「うーん、ちょっと思い出せないね。お嬢ちゃんの顔は今でも覚えているんだけど。あまり印象の無い顔立ちだったのかねえ」
 自分でも何故わからないのか不思議そうな顔で、しかし何かを思い出したかのように、
「実はね、あの時店じまいを考えていたんだよ。お客さんも減ってたし、若い子は着物を買わないしで。でもあの心優しい兄妹を見てあたしゃ考え直したよ。もっと若い子達に着物や浴衣のよさを広めようって。だからこの年でもまだ店を続けているんだよ」
「それは素晴らしいことです。できるだけ僕達も協力したいものです。そうですね、今度知り合いをご紹介して差し上げましょう」
「あらあら、ありがとう。でももう年だし、あまり忙しくなるのも嫌だよ。この年になって過労死だなんて浮かばれないよ」
 おばあちゃんの気の利いた冗談に、俺と古泉はくつくつと喉を鳴らした。


 楽しい時間と言うのは過ぎ去る時の流れも早く感じるもので、ふと時計を見ると急いで家に帰って浴衣を着てまた戻ってくるのにギリギリな時間まで差し迫っていた。
 慌てて浴衣を脱ぎ、用意してくれた紙袋に突っ込んで、そのまま自転車で猛ダッシュ。軽くシャワーを浴びて浴衣に着替えて下駄を履き、再び自転車に乗って集合場所であるいつもの駅まで駆け抜けることになった。
 ハルヒが提案した待ち合わせ時刻は六時半。祭りは七時からだから少々遅れても余裕がある。しかしSOS団特別ローカルルールではその法則は適用されず、既に全員が集まっていた場合「遅刻」とみなされるのである。
 駅前にある時計は待ち合わせ時刻の十分前を指しているが、浴衣に身を包んだ男女計四人(ん? もしかしてこれは……?)がそこにいるということは、
「キョン、分かってるわね。みんなにチョコレートバナナ一本ずつよ」
 こう言うことになる。
「待てよハルヒ。まだ佐々木が来てないじゃないか」
 ハルヒは手にした巾着をぶんぶん振り回しながら、
「何言ってるのよ。佐々木さんは特別ゲスト、招待者よ。スタッフじゃないの。あたし達のルールとは関係ないの」
 何だそれ、卑怯臭くないか?
「遅れておいて都合のいいこと言わないで欲しいわね。奢らされるのが嫌ならあたし達よりも早く来なさい。そしたらあんたに奢ってあげるわよ」
 一度だったか、ハルヒよりも早く来た時があったけな。そう言えばあの時はツケということで、まだ返してもらってないのだが。
「そんな昔のこと、忘れたわ」
 都合のいいのはどっちなんだか。ま、確かに昔のことだ。今更返せとは言わないがな、俺は。それよりも聞きたいことがある。
「なあハルヒ。この浴衣、まさか全員同じ柄か?」
「見て分からないの? そうに決まってるじゃない」
 見て分かったんだが念のため聞いてみたんだ。
 ハルヒは薄紫色、朝比奈さんは若草色、そして長門は桜色という違いがあるが、柄は全て同じく笹の葉。男性陣に対して生地の色が薄いということもあるのか、それぞれの柄は生地の濃いめの色で描かれており、デザインは全く同じものであった。
「前にも言ったけど、余りものの生地なんだって。丁度五色分あって助かったわ。短冊とおんなじだもの。やっぱり同じ柄の浴衣は良いわね……」
 ――五色と浴衣の色の違いについて説明しろ。そう突っ込もうとしたが、ハルヒの恍惚とした表情に思わず口を閉ざしてしまった。
 あの時――浴衣を注文して、現地の下見に言った時に垣間見たハルヒの表情がフラッシュバックして見事に一致する。あの時の顔と全く一緒の表情だ。
 しばらくうっとりとした顔を浮かべていたハルヒだったが、俺の視線に気付くとすぐに元の不敵な顔に戻り、
「これ中々のものよね。今年の夏はSOS団のロゴをプリントしたTシャツを作ろうと思ったんだけど、この浴衣でも良いわね。今年の夏休みはこれ着て活動することにしたわ」
 盆祭りや花火大会はともかく、プールや虫取りに着ていくのは勘弁願いたいものだ。
「いちいち五月蝿いわね。あんまりしつこいとチョコレートバナナ二本に増やすわよっ!」
 いーやーだっ! 一本ならともかく、何で二本も買わなきゃいけないんだ俺が!
「キョンくん、わたしは結構ですから。涼宮さんにあげてください」
 遠慮深く申し出を断るのはもちろん朝比奈さんである。纏めた髪と浴衣姿が本当に可愛い。家に持ち帰り床の間に飾っておきたいくらいである。
 さらに言うならば草色の浴衣を着ている俺と色が近いことがあり、この中では一番のペアルックと言っても過言ではない。見る人が見たら文句無しのベストカップルと賞賛してくれるに違いない。ああ、単なる妄想だ。
 ちなみに、俺の視線に気付いた朝比奈さんが頬を朱に染めて手を振るお姿はじつにいじらしかった。朝比奈さんはチョコレートバナナの話に乗じ、
「うーん、チョコレートバナナより、金魚すくいやりたいな。今度は自分で捕まえないと」
 なら俺が成功するまで付き合ってあげますよ。もちろんお金は全部負担します。任せてください、と心の中で返答した。
 考えても見て欲しい。ハルヒにチョコレートバナナを奢ったところでありがとうのひとつもなければ俺の分まで横取りしかねない。
 対して朝比奈さんの金魚すくいは金魚と格闘するも失敗し半べそをかきながら必死で救おうとする表情、やっと救った時に見られる笑顔、そして『ずっと付き合ってくれて有難う』という感謝の言葉がいただけるんだぜ。
 報酬に見合った投資が必要なんだよな。安ければいいってもんじゃない。
 ここで投資しなければ男が廃る。
 ――と、考えていたら
「…………」
 突如、長門が何も言わず俺と朝比奈さんの方に現れた。
「ひっ!」
「ど、どうした、長門」
 ビクッとなった朝比奈さんに、いきなりのことに戸惑いながら問い掛ける。
「お面」
 は?
「お面」
 二度言った。
「もしかして、買って欲しいのか?」
 コクッと頷いた。長門がものを欲しがるなんて珍しい。チョコレートバナナの代わりでよければ買ってやるぞ。それでいいか?
「それで、いい」
 抑揚の見られない、しかし俺には解る程度に首を動かした。
「後々必要になるから」
 一体何に必要になるのかね? 映画の撮影にでも使用するのだろうか?
「違う。あなたが必要になる」
 俺? 何で俺が……
「…………」
 言い返そうとした瞬間、長門は浴衣の袖を上げ、白い腕を伸ばしながら俺の後方を指差した。反射的に後方を振り返ると、
『……あ』
 何人かの間の抜けた声がハモった。誰が声を上げたかは正確にはわからないが、少なくとも俺と、あとハルヒも声を出しただろう。長門がこんな声を上げるとは思わないからシロだろうが、朝比奈さんと古泉はグレーである。
「みなさん、申し訳ない。着付けに戸惑っちゃってね……あっ」
「さ、佐々木さん……その浴衣……?」
「まさか、涼宮さんも……?」
 途切れ途切れに声を絞るハルヒ。そして佐々木。
 お互いがお互いに驚きあっている。そんな感じである。だがそれも仕方ないだろう。何故なら彼女は――
「まさか、同じ柄の浴衣だったなんて」
「本当ですね、驚きました」
 ――会話のとおりである。
 生地の色は白。それに薄緑で書かれた笹の葉。デザインその他は俺達と全く同じ。まさかまさかの展開である。ここまで浴衣のデザインが被るとなると、はてさてバリエーションはいくつあるのだろうね。少なくとも五行ではないことだけはハッキリした。
「佐々木さんもあのお店で?」
 駅の先にある商店街を指差した。
「え、うん。あそこで買いました……いえ、正確には買ってもらったんですが」
「誰に? 両親?」
「いいえ」
「おじいちゃんとかおばあちゃんとか?」
「違います」
「なら親戚の人?」
「残念ながら」
「もしかして彼氏とか!?」
 ハルヒがそう言った瞬間、それまでポーカーフェイスを貫いていた佐々木の形相が変わった。表情の上では変わっていないのだが、内面では血液が沸騰しているような、そんな感じの剣幕だ。
 正直こんな佐々木の表情は俺ですら始めてみた。
「それは内緒ということでお願いしたいのですが」
「あ、う、うん、ごめん」
 あくまでクールに言い放つ佐々木に、さしものハルヒも思わず息を飲む。
「ごめんなさい。そのことはあまり話したくないの」
 その表情を見た佐々木は我に返ったか、慌てて元の柔和な笑みを取り戻した。
「……そ、そうなの、それじゃしかたないわね」
「ええ、申し訳ないですが……」
「うん……」
「………………」
「………………」
 そして二人の沈黙が再び辺りを支配する。
 やれやれ。今回は人のプライベートを根ほり葉ほり聞き出そうとしたハルヒに非がある。ちゃんと謝っとけよ。
 にしても、佐々木のあの怒り様。よっぽど言いたくないことだったのかね。


 このまま沈黙を続けていたところでしょうがないので、この場は俺が仲裁し(といっても話を変えただけだが)、そろそろ祭りが始まるから移動しようぜとなり、ようやく二人の間のぎこちなさが解消された。


 七夕祭りといっても、結局のところ夏祭りの一種と考える人は多いらしく、河川敷の堤防上にいつの間にやら用意された出店や、中州に見える花火発射台、そして会場を取り囲む櫓も健在である。盆祭りも兼任しようとお考えなのだろうか。
 唯一違う事といえば、特設会場の中心にある大きな大きな笹の葉くらいであろうか。様々な飾りと共に、それぞれの願い事が書かれた短冊が縛り付けられている。なお、短冊は有料で、本部と書かれたテントで販売しているという。商魂たくましいね。
 因みにハルヒは既に短冊を入手済み(着物屋のおばあちゃんがくれたらしい)で、それを俺達に配布してくれた。さらに因みに今年は年数の縛りは関係なく願い事を書いて良いことになった。十六年だか二十五年だかの縛りがなくなった分、俺の願い事は身近なものをかけるようになったわけで、とりあえず目下の目標である「成績が上がってそこそこの大学に入学できますように」とだけ書いて笹の葉に括り付けることにした。
「……あ、キョン。短冊を取り付けに来たのかい?」
 声をかけてきたのは佐々木。すぐ真後ろで俺と同じ作業をしていたらしい。
「まあな」
「どんな願い事をしたんだい? いや、何となく分かった。どうせ成績向上だとか大学合格だとか、そのような当り障りの無い文章を書いているに違いないからね」
 ふん、悪かったな。
「くくく、僕は悪いなんて微塵も思ってないさ。願い事は成就してこそ意味をなすものだからね。余り突拍子もない願いよりは、自分を奮い立たせて努力すれば叶う願いの方が良い。その方がこういったイベントの本質を掴んでいると思うんだ」
 ハルヒに言い聞かせてあげたい言葉だ。
「涼宮さんは別格だよ。彼女は彼女なりの信念を貫き通しているからね。俗物根性で形成された僕ではとても叶わないよ。くっくっくっ……」
 一頻り喉を鳴らした後、
「そう言えば、お揃いだね」
 何がだ?
「見て分からないのか? 浴衣だよ、浴衣」
 そう言えば俺と佐々木の浴衣は笹の色と生地の色が逆転してるだけで、色使いは全く同じだった。
「涼宮さんが心持ちフィールソーバッドだったのは、もしかしたら僕たちの衣装が似通っていることに起因しているのかもしれないね」
 どうして俺とお前の衣装が似通っているくらいでハルヒが不機嫌にならなきゃいけないんだよ。元々デザインは同じなんだし、たまたま色がポジネガ反転しただけに過ぎない。偶然だ。偶然。
 俺がそう言うと佐々木は、
「全くそのとおり。たまたま同じ店で、たまたま同じデザインで、たまたま似通った色。三つの事象が偶然一致したに過ぎない。逆に全てが異なる条件の方が確率論からして難しいのさ。何なら計算してみるかい?」
 いや、止めておこう。ただでさえ試験期間で普段使わない脳みそを酷使したせいで筋肉痛ならぬ脳髄痛になりかけているんだ。今日くらい数字の束縛から離れさせてくれ。
「くく、キョンらしいや……」
 一頻り笑い、何故か沈黙した。
「どうした、佐々木」
「え? あ、いや……」と珍しく吃ったような様子で、「一つお聞きしたいのだが、この浴衣に見覚えは……ないよね?」
 何を思ったのか、佐々木は軽く手を広げてその場で一回転。俺に全身を見せるかのように回った。袖口と裾がふわりと舞う。まるで初めて浴衣を買ってもらった女の子が嬉しくなってするような、そんな行動だった。
「……いや、初めてだが、それがどうした?」
「そう……だよね。うん、そうに違いないね、やっぱり」
 俺の答えにホッとしたような残念そうな……どこかで見たような表情を浮かべた。
「どうしたんだ、その浴衣に何かあるのか?」
「いや、なんでもないよ。こっちの見当違いだった。それより、ほら」
 俺達以外が集まっている方を指差し、
「皆さんお待かねだ。そろそろ僕達も向かうことにしようか」
 そう言ってそそくさとその場を後にするのだった。
 ……何なんだ、一体?


 暫くは全員一緒に行動していた俺達だったが、ハルヒにチョコレートバナナをおごり、朝比奈さんに金魚すくいをさせ、長門にお面を買ってあげた辺りでハルヒは「別れて行動しましょ」と言い出した。
 確かに辺りの人も増えだしたし、六人全員で行動するのも少々骨になってきたところだ。少人数で回ってみるのもいいかもしれない。
「三人三人に分かれて行動する、ってことでどうかしら? 意見のある人は挙手をお願いします!」
 特に異論のない俺はその場で頷き、朝比奈さんも古泉も長門も反対することはないのでその様に決まると思った矢先、
「涼宮さん、ちょっと」
 佐々木が手を上げた。「何かしら、佐々木さん?」
「実は……涼宮さんと二人で回ってみたいんだ」
 予想外の一言に小さくえっ? と小さく声を上げたような気がしたが、すぐに平静さを取り戻したハルヒは「いいわよ」とあっさりと承認した。
 そして、「そう言うわけだから、悪いけど四人で班分けしてもらえるかしら?」という団長の命に従い、二人ずつの班に分かれることになった。
 クジは、先ほど食べたチョコレートバナナに刺さっていた割り箸。当たりの色は先ほど短冊を書いたペンをもう一度借りてきて色を塗った(バナナとチョコがペン先についちゃったがその辺は黙って返却することにした)。
 クジの結果、俺は朝比奈さんとペアになるという大当たりを引いた。七夕様のご利益を感じるね。もし古泉とペアになったら金輪際七夕という行事には参加しないつもりだったさ。
「いくら可愛いからといって襲っちゃダメよ」と釘を刺したハルヒの影は既に消えている。もちろん佐々木も一緒に。
「よろしくお願いしますね」
 白くて大きいバレッタがぴょこぴょこしている。ううん、可愛いね。ハルヒの言葉が無ければ本当に手を出していたかもしれん……もちろん冗談である。
「さて、どこに行きますか? ヨーヨー釣りでしょうか、それとも射的? いいや、打ち上げ花火を見に行くのも……」
 こう言う場合は男がエスコートをするのが常である。朝比奈さんの心身的負担を掛けないよう、必死でリードする。
 何度も言うが、もうあと半年ほどしか一緒の高校生活を送れないんだ。変な意味ではなく彼女との思い出をもっと作っておくべきだ。そのために必死になる俺の心情、わかるだろ?
「そうですね、歩きながら考えましょう」
 了解です。古泉、長門、後でな。
 にっこりと微笑む古泉と、等身大人形のように聳え立つ長門にあいさつをおくり、そのまま歩みをすすめようとすると、
「これ」
 足音を立てず俺の前に来た長門がお面を渡してきた。先の約束通り、長門が選んで買ってあげたものである。
 出店の一角、やたらとファンシーなお面屋の前で立ち止まった長門は、一つのお面を焼き焦がすかの勢いで睨みつけたもので、特撮ヒーローに出演していそうな宇宙からやってきた悪の怪獣のお面だった。
 余りに真剣な表情で見るものだから、店のおっちゃんもクエスチョンマークを点在させていたっけ。
 コミカライズに仕上がったお面が心を揺さぶったのか、あるいは宇宙人繋がりってところがポイントなんだろうな。
 そう言えば、あの店のおっちゃんも俺を見るや否や「久しぶりじゃけえ」とか、「今日は妹を連れてきてないのか?」なんて言いやがったな。よく分からないが多分人違いだと感じた俺はこの祭りに来たのは始めてだと言う事を告げると、おっちゃんは「そおけえ、すまんな」と平謝りしていたが。やれやれ。俺のドッペルゲンガーは一体何体いるのかね?
 それはともかく、俺が購入したお面を一瞬のよそ見もせずじっと眺め、かつ肌身放さず抱えていた長門だったが、ここに来て俺に渡すのには一体何の意味があるのだろうか?
「俺が持ってた方がいいのか?」
「そう。持っていって」
 分かった。持っていくよ。またあとでな、長門。
「…………」
 長門の返事は無かった。


 出店の列はそこそこ長く、普通に歩いても端から端まで数十分かかるわけで、一軒一軒楽しんでいたらとてもじゃないが終了時刻内までに回れないだろう。
 そんな訳もあって、何となく面白そうな出店のみ目星をつけて朝比奈さんを誘ってみたのだが、「いえ、大丈夫です」と仰るのみで一軒も立ち寄ろうとはしなかった。これでは俺の計画も頓挫寸前である。
 それどころか少し憂鬱げな表情で俯き始め、ふうと溜息をつき始めた。まさかハルヒや佐々木がかかったメランコリー病に感染したんじゃないだろうな? これは一大事だ。急いで救急車を呼んだ方がいいかもしれない。
「キョンくん、あの」
 人通りも疎らな、会場の端。出店ゾーンを抜けきった朝比奈さんは決心したかのように話し掛けた。
「実は、また過去に行ってもらいたいの」
 ふう、何を言うかと思ったらそんなことですか。いいですよいいですよ。朝比奈さんとだったら富士の樹海でも地獄の三丁目でもついていきますよ。
 ……と、以前の俺だったらそう言ったかもしれない。しかし、
「また……ですか?」
 今回は露骨に嫌な顔をした。正直過去に飛んでよかった思い出が無いからである。中学校に不法侵入して悪戯をしたのは可愛い方で、真冬の明け方に腹をグリグリやられた日にゃトラウマになっても致し方無いことである。
「ごめんなさい。嫌なことはさせたくないんですが、わたしには拒否する権利がありません。本当に、ごめんなさい」
 まるで自分の責務を責めるように、朝比奈さんは悲しい顔を見せた。いえいえ、朝比奈さんが謝ることはありません。謝るとすればあの人の方でしょう。
「えっ!?」
「いや、こっちの話です」ともかく、朝比奈さんとしては、俺に行ってもらわないと困るのでしょう。なら行きますよ。
「うん、ありがとう。今度お礼をしますから」
 潤んだ目に浮かぶ笑顔。これだけでも十分な報酬だ。
「それでは、あっちの方に行きましょう」
 朝比奈さんが指したのは、会場からかなり離れた茂みであった。「みんなに見られないようにしたので」
 それは構わないですが、逆に怪しまれる気がしますが。
「何のことですか?」
 いえ、俺の杞憂です。なんでもありません。
「ふふふ、変なキョンくん」
 等と会話しつつ、俺達は茂みの奥のほうへと歩みを進めていった。誰にも見つからないよう、きょろきょろと辺りを見渡しながら。
 特にハルヒだけには絶対見つかってはいけない。朝比奈さんが未来人だからということだけじゃなくて、若い男女が暗い茂みに消えていったら……そういうことだ。
 ううむ、ハルヒじゃないが何かをもてあましているのだろうかね、俺も。


 かくしてまんまと草むらへと侵入し、目を瞑ってくださいと言われてそのとおりにすると、金属バットで頭を殴られたような、酷く気分の悪い症状に見舞われた。朝比奈さん(大)曰く、『時間酔い』というものらしい。
 既に何回か経験しているのだが、この感覚だけはいつまで経っても慣れない。目を瞑っても耳を閉じてもくる強烈なふらつきは、三半規管を強化したところでどうしようもないだろう。
 もう少しTPDDやらSTC理論やらの研究開発を進めてもらって、便利なものにしていただきたいところだ。

「もういいです。目を開けてください」
 絶望の淵で囁く天使の声に応じ恐る恐る目を空ける。そこは河川敷にあるベンチだった。忘れもしない、以前朝比奈さんが未来人であることを告白してくれた場所だ。
 その朝比奈さんは俺の肩に手をかけたまま、ふふっと笑みを零し、
「ちょっと、座りましょう。もう少し余裕がありますし、少し休んでいてください」
 至福の触感が離れていくのを名残惜しく感じながらベンチに座り込んだ。
 余裕があるということはどういうことでしょうか? と聞きたいところだが、正直この朝比奈さんに問い返してもわからないだの禁則事項だの言われるだけで、明確な答えは返ってこないだろう。
 俺の質問に的確に答えてくれる人物――朝比奈さん(大)の登場まで今しばらく待つしかない。それまでは朝比奈さん(小)の言うとおり、大人しくしていよう。
 欲を言えば、いつぞやのように最高級枕たるそのお膝を拝領したいのだが……流石に無理か。

「キョンくん、あの時のこと、覚えていますか?」
 浴衣姿も麗しい上級生は、にこやかな笑みを携えたまま話し掛けた。
「あの時って、いつでしょうか?」
 何時のことか分からなくなった俺が問い掛けると、彼女は可愛く顔を膨らませながらも、
「ほら、みんなで浴衣を買いに行った、あの日のことです。二人で約束した、あれ」
 ああ、あの日のことか。
「嬉しかったです。あんなことを行ってもらえて」
 いや、まあ……
「楽しみにしてますから。いい思い出を作りましょうね」
 やたらとニコニコ微笑む朝比奈さんに対して、自分の言葉の重さがどれほどなのかようやく自覚した。
 え? 何の約束をしたかだと?
 思い返すも少々小恥ずかしいのだが、このまま黙っていてもストーリーが進行しないようではそれはそれで問題である。だからして得意の思い出振り返りで再現してみようと思う。
 あれは先週、ハルヒが部室に突貫する前に二人で約束したことだった――

 ………
 ……
 …

『皆と別れるのが怖い……ですか?』
『うん。あと半年もしたら卒業式を迎えて、皆さんと別れなければいけません。キョンくん、覚えていますか? 去年、あの河川敷のベンチでわたしが言ったこと』
 覚えているも何も、朝比奈さんが始めて未来人であることをカミングアウトした時のことだ。忘れるはずも無い。
「わたしはこの時代に生まれた人間ではありません。いつかは元の世界に戻らないといけないの」
 そんなことを言ってた気もする。が、
『いいじゃないですか。卒業した後もずっとこの世界に住めば』
『だ、だめです! それは禁則中の禁則です! 怒られちゃう!』
 大丈夫です。ハルヒがそう望んでいると言えば許してくださいますよ。きっと。
『いいえ、それはできません』
 どうしてですか? 
『涼宮さんが望んだから結果が表れるのではなく、結果が涼宮さんの望んでいたものと同一だった、でなければいけないからです』
 意味が分からなかった。一体何が違うのだろうか?
『上手くいえないけど、わたし達の考えではそうなっているの。前にも言いましたけど、どんな理論も法則も元々存在しているもので、涼宮さんはそれをたまたま発見したに過ぎない。決して涼宮さんが法則や理論を作り出したわけではないのです。ですから、』
 一区切り置いて、
『わたしがこの先卒業して皆さんの前から姿を消すのも、決まりきった結果。宿命と言ってもいいんです。わたし達はそれを既定事項と言っていますが……既定事項は覆すことが出来ないんです』
 麗しい少女は顔を翳らせ、
『ですから……お別れです。お別れは悲しいです。皆と仲良くなったからひとしおです……っ……』
 そしてついに彼女の瞳から涙が毀れ出た。
『今でもその時のことを考えるとどうしようかおろおろするばかりで……うう……こんな風になるなら……ううっ……』
 泣かないで下さい、朝比奈さん。確かに別れは辛いものですが、ならこれからでもどんどん思い出を作っていったらいいじゃないですか?
『思い……出……?』
 ええ。俺達のことを忘れるに忘れられないような思い出をたくさん作って、悲しくなったらそれを思い出せばいいじゃないですか。約束しますよ。あと半年の間で朝比奈さんの心に刻まれるような深い思い出を作ってあげますから。
『本当……ですか? それで寂しくなくなりますか?』
 本当です。俺を信じてください。
『うん……わかりました。ありがとう、キョンくん。忘れられないような思い出、作りましょう』
 目元に涙を一杯溜め込んだ朝比奈さんの憂鬱気分はこれで何とか払拭することに成功したのだ――

 …
 ……
 ………

 思い出――か。
 何をすればいいか分からないが、彼女のために、そして俺達のために粉骨砕身を尽くさねばならないだろう。
 それが今という時代を共有した、俺達の絆でもあるのだから。
 朝比奈さんのとびっきりの思い出になるような、何かをしてやらないとな。


 まあそれはまだ半年もあるから後々の課題と言うことでとりあえず置いといて、それよりも当座の彼女の仕事を片付ける方が先決だ。俺は星を見据えたまま、同じく遠くを見つめる朝比奈さんに話し掛けることにした。
「ところで朝比奈さん、ところで今回は何年前で……」
「すう」
 すう? 
 くたっ、と朝比奈さんの首が俺の肩に圧し掛かった。可愛い寝顔がそこにある。暫くこのままじっとしておきたいものだが、そうもいかない。
 この朝比奈さんが眠らされたということは、それなりの理由がある。即ち別の人物がそこに現れたってことだ。
 事実、ベンチの後ろでコソコソと音がしている。どうやら彼女のお見えである。ここからが本題だ。俺は先手を取るつもりで、右手を振り上げ、答える。
「よく眠ってますよ。出てきたらどうですか?」
 心の中で、甘くも大人っぽい朝比奈ボイスを連想した。
 しかし。
 聞こえてきたのは、俺の予想を三回転半ほど裏切ったものだった。
「そちらから話し掛けてくるとは大した者だ。余程優位性を感じているのかそれとも何も考えてないのか……どちらでもかまわんがな」
「な……!?」
 夏だというのに、寒気がするくらい身震いするほど冷たく、そして癪に障るその口調。
「ともかく、朝比奈みくるの思うとおりにはさせん。漸近接遇ではこちらの読みどおり。ここを抑えれば目標の八割が達成したも同然だ」
 俺は静かな怒りを携えたまま、闇の中から現れるシルエットに軽蔑の眼差しを贈る。
「……ふん」
 視線に気付いたのか、男――藤原は面白くなさそうに一瞥した。


「何故お前がここにいる?」
「いたら悪いのか?」
 当たり前だ。ホイホイ過去に来て勝手に俺達の時代を塗り替えやがって。あまつさえそれが当然みたいなこと言われて喜ぶドアホウがどこにいるっていうんだ。
「ふっ、くだらん。それを言うならあんたはどうなんだ。自分のしたことを省みるんだな。あんたは朝比奈みるくのマリオネットと化し、未来の流れを変えた主犯格の人物だ。言わばあんたが未来の可能性を摘み取ったんだぞ」
「ぐっ……」
 藤原の言葉に唇を噛んだ。あいつの言う事は正論だから反論する余地も無い。俺が朝比奈さん(みちる)とやった様々な悪戯は、未来人の藤原からしてみればあまり面白くないだろうし、過去人形と揶揄されても仕方の無いことであろう。
 しかし、ものは言いようだ。いくら正論を論じたところで反抗的且つ反俗的なこいつに従う気力はサラサラ無い。それならまだ全てを話さないだけの魅惑の天使に追従した方がいくらかマシだ。
「悲しい奴だな、あんたも」
 まるで俺を哀れむような口調で、
「未来の可能性を摘み取るだけに留まらず、過去に来てまで規定事項を覆そうとするなど、はっ、話にもならん。少しは抗ってみたらどうなんだ? それともその朝比奈みくるを盾に、別の朝比奈みくるに脅されてるのか? はははっ、朝比奈みくるは狡猾な諜報員で頼もしいなあ」
 この野郎っ……流石に頭に来た。
「自分達の時代を、自分達が操作して何が悪い」
 未来がどうとか、朝比奈さんの命令だからとか、そんな事はどうでもいい。SOS団が集まって、お茶飲んでゲームして不思議探索に行って、映画の撮影して虫と戦って体育館をジャックして……ええい、とにかくあのSOS団が存在するから意義があるんだ。
 SOS団だけじゃない。うちの家族や谷口や国木田、佐々木だってそうだ。俺が今まで生きてきた中で存在した全ての人間がその対象に含まれる。SOS団以外の宇宙人未来人超能力者に俺達の世界を瓦解させるいわれはねえ。
 もしそうなったら、俺は全力でそれを阻止してやる。
「…………く、くは、くはははっ。こいつは良いものを見せてもらった。全く楽しいなあ……くくくっ」
 久々にアツくなって言い返した俺を待っていたのは嘲笑の嵐だった。クソ野郎。本気でムカついてきた。
「ふはははっ、怒るな。別に軽蔑したわけじゃない。僕にとっては最高の賞賛を与えたつもりだ。橘京子のような奴に組する気はないが、考えが変わった。教えてやろう。ここはあんたのいた時間軸からちょうど四年前の七月七日だ。どうだ、何か思い出したか? それとも忘却の彼方へと葬り去った後か?」
 馬鹿にしてるような詰るような、はたまたからかっているかのような口調でネチリと答えた。
 バカ野郎、忘れるもんか。
 四年前の七月七日。朝比奈さんと長門、二人に一回ずつ、計二度連れてこられたあの日をどうして忘れることが出来ようか?
 中学生ハルヒと不法侵入して校庭に落書きをし、一つ屋根の下で朝比奈さんと束の間の三年間を共にし、そして正規時間軸へと戻るポイントとなったこの日。一生忘れはしない、いや、忘れることすらできない。
 しかし、三度に渡って来ることになるとは思わなかったな。確かに二度ある事は三度あると言うが、少々やり過ぎの感があることは否めない。またハルヒ絡みのイベントを起こせとでもいいたいのかね?
「その理由を知りたければ、」腕を上げ河川敷に架かる橋の真ん中辺りを指差し、「あそこに行ってみるがいい。興味深いものが見られるぞ」
 露骨に嫌な顔をしてやった。朝比奈さん(大)のいいなりになるのもどうかと思うが、こいつのいいなりになるのだけは全力で拒否してやる。これならハルヒに抱きついて愛を囁いた方がまだマシだ。マジでそう思う。
「嫌なら嫌で構わんさ。それがあんたの未来人に対する抵抗だと思えば僕は諸手を上げてあんたを賞賛しよう。だがな、そのせいであんたの望む世界とかけ離れたものになり、涼宮ハルヒとの接触が途絶えても僕の関知するところではない」
「『規定事項』とでも言いたいのか?」
「違うな。『脅迫』だ」
 あっさり認めやがった。
「確かに『規定事項』であることには間違いない。だが指し示された場所でどう行動するかはあんたの自由だ。好きにするが良いさ。先ずは様子を伺ってくるといい。それからどうするか決めてもらっても、こちらとしては一向に構わん」
「ふん、わかったよ。お前の言うとおりに行ってやる。だが様子を見るだけだ。それに少しでも不穏に感じたら速攻戻ってきてやるからな」
「好きにしろ。それまでこの朝比奈みくるは丁重に扱ってやる。心配するな、手を出す気はさらさらない」
 そう言って藤原は朝比奈さんの隣、ベンチの端に文句がありそうな顔で座り込んだ。
 何を考えているのかは分からないが、俺が橋に行かないことには事態が動きそうに無かった。できれば朝比奈さんをおんぶして確認しに行きたいところだが、そこそこ距離もあるしふらついて転落でもしたら申し訳が立たない。
 朝比奈さんを人質にして藤原が何かしら行動を起こす懸念もあるにはあったが、しかし、実際のところそれほど心配はしてなかった。大人バージョンの朝比奈さんは既にここにいると感じたからだ。
 根拠は特に無い。だが、朝比奈さん(小)が目的も言わず昏睡してしまったのは、そう言う既定事項が存在していたからだと思う。そして、目的を告げるのは朝比奈さん(大)の役目だ。
 何の意図があって姿を現さないのかは知らないが、今はそう信じるしか他に無い。それに、さしもの藤原も朝比奈さん(大)がいればおいそれと手をだせないだろう。
「よし」
 ――待っててください、朝比奈さん。すぐに帰ります。
 意を決してその場を去り、朝比奈さん(小)の身を案じつつ橋の中央付近まで全速力で駆け出した。



 藤原が指定した、とある橋の中央部。 七夕祭りの灯りがうっすらと見えるこの場所から打ち上げ花火を見ようとする輩は皆無で、それどころか車一台走っていなかった。
 照明の灯りも乏しく、橋の全景を映しきるには至ってない。藤原曰く『面白いことが起きる』とのことだが、この暗がりでは何が起きても気付かずスルーしてしまう可能性だってある。
 俺がスルーしたらこの先歴史はどう変化するんだろうね。正直藤原一派の未来人に組するのもいただけないし、『何もありませんでした』と言って引き返すのもアリかもしれないな。
 真っ赤な顔をして俺に罵詈雑言を吐く藤原の真っ赤っ赤な顔を堪能するにはこれ以上ないチャンスだ。
 などとどうでもいい事を考えていると、
「……誰かいる」
 俺の瞳に人影が投影された。暗くてよく見えないが、橋の欄干より少し背の高い――多分子供だな――その影は、ごそごそと足元を動かし、そして一段背が伸びたように見えた。あれ? もしかして屈んでいた大人だったのか?
 そう考える間にもう一段高くなり、ついには大人の身長をゆうゆう超え、二メートルは下らない高さまで成長し……って、んな馬鹿な。いくら育ち盛りの子供とは言え、ほんの数十秒で二倍も身長が伸びるわけもない。
 恐らく橋の欄干にでも上って――まさか!?
 ふと、嫌な予感が過ぎった。橋の欄干に上る? なんのために? 曲芸を見せるためなら昼間のもっと明るい時間にやるだろうし、『このはしわたるべからず』との注意書きも書かれてない。
 では一体、何のために……いや、分かりっきたことだ。
 稀有なポジティブシンキングをするよりネガティブ思考で考えれば脳内一発で変換可能だ。
 暗い人気の無い場所で、橋の欄干に登る理由なんてただ一つ。
 川に飛び込んで、自殺するつもりだ。

「バカ野郎っ!!」
 解析が終了した時には、既に走り出していた。何に悲観しての自殺か知らないが、人が今まさに死のうとしているのを黙って見ているほどクールな人間じゃない。子供ならば尚更だ。何とかして踏み留めなければ。
 無駄に良い反射神経にこの時だけは感謝したね。

「!?」
 当の本人は、上りきった欄干の上でこちらを見ている(暗いから分からんが、多分そうしてたと思う)。
 人が来るとは思っていなかったのだろう、あからさまに狼狽の色を上げていた。
 間近にせまった影はみるみる人の形を形成し……って、女の子!?

「……ダ、ダメっ!」
 何がダメだ! そんなところで自殺しようとする奴を放っておけるか!
 全力疾走している足を緩めもせず、勢いに任せて欄干を駆け上る!

「――!?」
 あまりの勢いに驚いたのか、それともダイビングの時間を早めようとしたのか。彼女の片足が欄干から滑り落ちた!
「きゃあああ!!!」
 ええいっ、ままよ!
 自分でも驚くくらい潔く足を蹴った。そのまま墜落する彼女を何とか抱きかかえ、衝撃に備えぎゅっと目を瞑り体を丸くする。
 そして――


 ――盛大な水しぶきと音を立てて、俺とその子は川の中へと潜り込んだ――



←前 目次 次→

 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年08月04日 22:56