※※「涼宮ハルヒの驚愕」対応改訂版、ネタバレ注意(あらすじは同一のものです)※※
























       1
 

 季節は夏。年々減ってきている気のするアブラゼミたちが、年々上がってきている気のする太陽光線の下、短い命を燃やさんと延々求愛行動の鳴き声を発しているのがおぼろに聞こえ、ああ今年もこの季節がやってきたんだなと感慨にふける間もほどほどに、俺の部屋のドアをリズミカルな三連符でノックする音がその日の目覚めの合図だった。
「キョーンくん、電話だよっ。キョーンくん!」
 調子っぱずれな節つきで俺の名を呼ぶのは、我が血を分けし妹以外にいようはずもない。
 俺は半分かかっていたタオルケットを払いのけ、半分も覚醒してない頭を振って、シャミセンの尻尾を半分踏んづけてベッドから立ち、半分ほどドアを開けると、
「誰からだ?」
「有希ちゃん!」
 電話を受け取った俺は室内を眺めた。睡眠妨害の憂き目にあったシャミセンが、のそのそとドアの隙間から出て行く。妹は素足に触れるシャミセンをくすぐったがりながら、
「キョンくん。今日もハルにゃんたちと遊ぶのー?」
「さあな。ほれ、人様の電話を盗み聞きするんじゃありません」
 俺がしっしと手を振ると、妹は「ぶー」と渋面を作り、不満げに階段を下りていった。
「もしもし。長門か」
 閉めたドアにもたれた俺は、今日も熱くなりそうだとTシャツを仰ぎながら電話に出た。湿気を帯びた、夏特有の熱気が早くも肌にまとわりつくのを感じた。
『……』
 何も音がしないのは別に繋がってないわけでも切られちまったわけではなく、それが長門有希の平素の反応だからである。
 無音ラジオみたいな受話器の向こうで、にわかに頷く気配がした。俺は何となく安心し、話を続ける。
「用件を言ってくれ」
『北口駅前に集合。午前九時半』
 電話向こうの長門は明瞭な発音で簡潔に言った。たまには今日の天気だとか面白かった本の話だとか見に行きたい映画の話でもすりゃいいのにとか思うが、夏炉冬扇と言わんばかりに無駄話をしないのが長門有希であり、俺の知ってる有機アンドロイドの常態である。
「念のために訊いとくが、ハルヒだよな。お前に言付けを頼んだのは」
『そう』
 再度頷く気配がした。怒涛のようなSOS団結成から一年以上が経ち、その間ただごとではとても済まされない何やかやが、今にも爆発四散しそうなダイナマイトを山積したバケツリレーのようにわたわたとあり、それらを通じてこいつの観察を続けた成果か、とうとう視覚に頼らずとも長門の所作までも感じ取れるようになってしまった俺である。そのうちテレパシーで会話できる日が来るんじゃなかろうか。だからといってこいつと一分以上話すこともないかもしれんが。
『映画撮影』
「やっぱりか」
 ここ数日、あのやくたいもないアホ映画第二段の撮影を破竹の勢いでやってるんである。超監督のヤツめ、大事な役者を伝言係に使うとは何事だ。どこぞの零細劇団でももうちょっとマシな連絡網を敷いているだろう。いくら不景気だからといっても、予算の切り詰め方にも限度ってものがあるからな。
「解った。駅前で会おうぜ」
 三度目の首肯をする間があって電話は切れた。これだけ少ない文字数で通話できるのも長門有希の固有アビリティである。果たして地球人類すべてにそれが通用するかはまったくもって謎だが。とりあえず俺相手には有効だ。
 俺は子機に映ったデジタル時刻表示を睨みつけた。八時五十分。飯食う時間があるかどうかすら危うい。おいハルヒ。せめてもっと早くコールするか、でなければ集合時間を遅くするかしろよな。ハルヒはハルヒで成長していると確認できる要素を、既に片手の指で数え切れないかもしれないほど発見している俺だったが、このあたり団長殿はちっとも変わっていない。むろん長門には何一つ罪はないだろう。あいつなら連絡あった一秒後にはもう俺に電話してただろうからな。



 城塞に幽閉された少女を空賊と一緒に助けに行く工場の少年ばりの速度で着替え終えた俺は、食卓にあったレーズンロールを二つほど頬張り、荷物をまとめると即行で家を出る。玄関でサンダルをつっかけていると、
「キョンくんあたしも行くー」
 城主の密命を守り損ねた忍(しのび)のような気分で俺が振り向くと、妹がすっかりお出かけスタイルに身を包んで立っていた。俺はオフクロがいないか瞬間的に探し、そういや今実家に帰ってるんだったと思い出して溜息つきつき、
「ミヨキチは来ないのか。一緒に宿題でもやったらどうだ」
 ほんとだったらお兄さんも撮影なんぞ放り出してそっちに参加したいくらいだ。
「ミヨちゃんは旅行行ってるんだもん」
「んじゃ他の友達を呼んだらどうだ。今ならこの家はお前の城みたいなもんだぜ」
 指鳴らしてもセバスチャンもメアリーも出てこないけどな。マイペースで自分が飼われていることにすら無自覚かもしれない気ままな三毛猫がいるだけだ。
 ゾウガメの歩みのごとき成長速度しかもたない妹は両手を握っていつもの抗議の姿勢を見せ、
「今日はみんな出かけてるんだもん! つまんなーい!」
 かれこれ三日はこの調子である。何とか断ってきたがそろそろ限界か。しかし小学六年にもなるってのにちっとも大人の階段に足をかける気配がないな。俺が小六の頃はもうちっと精神年齢が高かった気がするぜ。たとえばクリスマスのサンタが大学生の小遣い稼ぎのアルバイトだってことくらいはとっくに見抜いていたしな。それともこのまま無垢に育って朝比奈さんのような天然希少種的性格を獲得するのに期待すべきか。メンデルの法則における優勢形質となって後世に受け継がれればいいがな。
 とか迷ってる間に妹はさっさか靴を履いてドアを開き、
「しゅっぱーつ!」
 元気よく片手を突き出していた。俺は風車があったら一回転するくらいの溜息をついてやる。
 何が楽しくて夏休みに妹とお出かけせにゃならんのか。誰か教えてくれないかね。



「で、妹ちゃんがくっついてきたってわけね」
 レモンイエローのノースリーブを着て腕組みしているハルヒは、傲然と胸を反らせてのたもうた。その表情は生徒の仕掛けたイタズラが憎めないものであることに気づいた教師のようで、とてもじゃないが怒っているとは言いがたかった。むしろ嬉しそうなのは気のせいじゃないよな。
「そうだな。不可抗力と言ってさしつかえないと思うぞ。お前が発信する連絡網聞いてから家出たんじゃ俺が集合場所に百パー遅刻するみたいなもんだ」
 俺はひと息で言い切った。はっきり言って疲れた。集合時間を五分ほど過ぎていたが、それでも俺はそれなりに懸命に努力したんである。誰もいない信号を二つばかり無視してみたり、妹の「キョンくんジュース買って!」コールを延々聞き流したりな。バーゲンセールに猛進する主婦とタメを張れるくらいの勢いは保持していたと思うね。
「そうやって妹ちゃんやあたしに責任転嫁してるといずれダメな大人になるわよ。万年ヒラ団員なのがその証拠みたいなものよね。こうして世の中は腐敗していくのだわ。言っとくけどゆとり教育の弊害がどうこうなんてレッテル貼られるのはまっぴらごめんなんだからね。時代や制度のせいにするのは典型的なイイワケ人間のすることよ。あんたみたいな怠惰なのが昇進と無縁で給料の停滞に嘆くことになるのかしらね」
 SOS団で出世するのと企業で昇進するのを一緒にすんなよな。それに無償奉仕団体でどれだけキャリア積んでもベースアップなんてしないだろうが。タダ働き三昧なうえに週休すらない毎日が続くだけだ。求人情報を載せようとすれば即刻突き返されるだろうブラックっぷりだぜ。
「ばっか。無償労働の尊さってものがアンタには解らないの? ただお金貰えりゃいいってんだったらバイトするなり大穴に突っこんで馬券買うなりすればいいのよ。問題なのは何を感じて何を得たかよ。ねえみくるちゃん」
 ハルヒは隣で麦藁帽子のひさしを持ち上げて空を見ていた朝比奈さんに抱きついて言った。フリルスカートのワンピにレギンスがよく似合う朝比奈さんは、急に話を振られて困惑気味の面持ちで、
「ええっ!? あ、はははぁいっ。わたしも毎日楽しいです」
 と、小学生の一行日誌みたいな感想を漏らした。それでもハルヒは満足したらしく、
「そうだわよね、うん。あなたはいま主演女優な上に、SOS団の副々団長なのだから。毎日がバラ色に決まっているわ。そのままレッドカーペットまで一直線よ!」
「は、はいっ!」
 既視感ある仕草で夢幻のような夏空を指差すハルヒに、これまたいつか見たような困り顔で朝比奈さんは笑った。またハリウッドまでの陸路を思い描いてるのか知らんが、これ以上地球の外気温を上昇させそうな熱気を放出しないでほしいもんだ。真夏日よりさらに上級の言葉が登場するのはごめんこうむりたい。インフレしすぎるとその後に待ってるのは衰退に他ならないからな。何事もほどほどが肝心ってのは俺が世界史から学び取った個人的教訓に他ならん。
「みくるちゃーん」
 妹はモモンガの子供みたいにふらふらと朝比奈さんに寄りついた。これまでにもしょっちゅう会ってるはずなのにいちいち嬉しそうだな。
「相変わらず愛らしい妹さんですね」
 湿度九十パーセントでも清涼感をもたらせそうな爽やかボイスで古泉が言った。呑気に微笑みながらハルヒたちがじゃれ合ってんのを見てるその様、お前も相変わらずだよな。
 古泉は笑みの色彩をまったく変えずに、
「そうでなくては困るというものです。あなたも解っておいででしょう。この光景を眺めるために数々の苦難があったといって差し支えありませんからね」
 クスクス笑いながら同意を求めないでほしいもんだ。冷や汗もアブラ汗も俺はかきたくない。ただでさえ暑いんだからな。昭和のアイス売りを探したくなっちまうぜ。
「……」
 黒真珠みたいな鈍い光を瞳に宿しながら何も言わずに成り行きを見守っていた長門に、俺はようやく安寧の息をつく先を得た気がした。確かに、こいつのたたずまいは変わってもらっちゃ困る事柄の一つだ。事実、一変してしまった日には大いに動揺したものだったし。
「それについては僕の感想を伝えられないのが残念ですね。なにせ体験していないのですから」
 古泉は波間を漂うクラゲのような視線をさまよわせた。長門にハルヒ、朝比奈さんと移るにつれ、俺は昨年末のオホーツク海じみた冷気の名残が一気に温まるのを感じた。
 何でもかんでも体験すりゃいいってもんでもないぜ、と俺が言いかけた矢先、
「やっぽー! みんな遅れてごめんよっ!」
 俺の後ろから鶴屋さんが現れて肩を叩いた。見事に衆人に紛れていたせいか、まったく気づかなかった。瞬間爆発するビックリ箱を持った気分だ。トリックスターに相応しいお人である。
「はろー鶴屋さんっ。今日もよろしくっ」
 ハルヒが快活に手を伸ばしてハイタッチした。
「遅刻なら気にしなくていいわ。団員最下位はキョンで決まりだから。もち奢りもキョンよ」
「あれれっ、そうなのかい?」
 鶴屋さんは長い髪を振って俺を見ると、
「でもあたしの分はいいよ。自分で持つからねっ」
 にっこり笑ってぱしんと手を叩いた。まことにありがたいお言葉である。さすが鶴屋さん、ハルヒと違って慈悲のあるお方だ。無償労働を賛美するわりにキリスト教的精神を一グラムだって持ち合わせていないどっかの団長とは大違いだ。
「つべこべ言ってんじゃないの。さ、面子も揃ったし行きましょう!」
 ハルヒは朝比奈さんと妹の手を引くと、すったかとバス停に向けて歩き始めた。
 やれやれ。
 なんて俺は言ったりしない。古泉の言った通り、相も変わらずなこの日常に俺は果てしない安堵を感じているからだ。回り回って安定を維持する衛星軌道のように、俺も古泉も朝比奈さんも長門も、一年以上ハルヒという恒星が放つ光を浴びながら周囲を飛びまわり、今やすっかりハルヒ星団の一部と化しているんだからな。



 文化祭映画第二弾「長門ユキの逆襲 Episode00」を夏休み中から撮り始めると言い出したのは涼宮ハルヒを除いて他にいようはずもなく、ピストルに火薬を詰めてる最中にフライングするかのような決定に反対票を投じる団員も俺以外にいようはずがない。賛成一、反対一であれば互角で決選投票に持ち込めるはずだったが、そこに団長権限などという豺狼当路(さいろうとうろ)な言葉が登場すれば俺に勝ち目などあろうはずがないのだ。世の中いつだって権力がモノを言うのさ。高校生の身にしてすでにこの世の不条理を体感しているってのは、今後の人生で何らかのプラスになってくれるんだろうか。
 まあいい。そんなわけで夏休み始まって一週間が経った今、俺たちはこの炎天下、一路前回の映画撮影場所たる公園を目指している真っ最中、てなわけである。
 ダブることもなく晴れて第二学年に進級してからこっち、前年度よりちょっとは落ち着いて過ごせるかと算段していた俺の考えは黒蜜に生クリーム混ぜて角砂糖放り込んだより甘く、それは春先のサイクロンとハリケーンが同時襲来したみたいな一大珍事に端を発して、今まで本降りと小康状態とを繰り返しながら続いたり止んだりしているのだが、いくら経験値を積めどもその上を行くご都合主義的ボスキャラみたいに俺の前に立ちはだかるのは、エネミーのやつらはアンデッドモンスターなんじゃないか? ひょっとして。
 あいにく回復魔法も火炎呪文も使えない俺は、例によって例のごとく巻き込まれて東奔西走四苦八苦、七転八倒五里霧中するしかないのであった。そのまま木端微塵雲散霧消しないことを祈ってやまない。
「何やら回想しているようですが」
 隣の席で持ち前のニヤケ顔をしながら古泉が言った。ハルヒと妹、鶴屋さんに朝比奈さんはバスの前方にかしましい一団となって陣取り、古泉と俺と長門はクール部隊として後方にそれぞれ座っていた。このクソ暑いのに山方面になど出向く愚か者はそういないらしく、夏休み中ではあったが席は存外空いていた。近頃の小坊どもは昆虫採集に出かけたりしないんだろうか。ちょっと寂しくなるな。
 俺はせんでもいい問いかけをしてきた古泉に、
「ずいぶん濃い三ヶ月だったと思ってな」
 古泉は含み笑いのような素振りで、
「そうですね。野球大会だけでなく、バスケットボールに草サッカー、老人ホームを訪問したり、フリーマーケットに出店もしました。それに市内のウォーキングイベントにも参加しましたね」
 市民祭りで人形劇やったり、阪中や樋口さんとドッグフェスタに参加したりな。他にも、ハルヒ指定による罰ゲームのような愚行を鶴屋邸での花見の時にやった気もしたが、いつまで経っても黒歴史という認識にしかなりそうにないので、今は思い出さずにおこう。
「行事こそ増えましたが、その反面超常現象が頻発するようなことは少なくなった。そう思いませんか?」
 答える代わりに、俺は窓から外を眺めた。彩度を上げた青空に、ソフトクリームを膨らませたみたいな入道雲が出て、その横を飛行機が飛んでいる。典型的夏空だった。
「そうだな」
 ハルヒの力が弱くなってきている。
 時系列を分岐させるなんつう四次元的無茶をやってからというもの、あいつは自分から世界をねじ曲げるような事態をほとんど引き起こしていないのだった。あの春の嵐にしたって、俺たちを無意識とやらで慮(おもんぱか)ることによる団長の理性的振る舞いだとの古泉解釈だった。
 じゃあこの三ヶ月何も起きていなかったか? と言えばそんなことはなく、SOS団内外を問わず、ハルヒが原因となって起きた奇妙な現象を引っ張り込んでくるケースはいくつかあった。
「涼宮さんがこの世界に直接的に影響を及ぼすことは、昨年末の時点ですでに減ってきていました」
 古泉は淡々と、
「まして、今年になってから彼女が世界を変化させたような例は、春先の一件を除けば何一つ起きていないことにあなたも気づいているはずです。涼宮さん自らα世界を生み出し、《神人》すらコントロールして我々を崩壊の危機から救った、あの時以外にはね」
 そうなのである。
 去年のハルヒは、灰色のドームで青白い巨人を暴れさせただけでなく、秋に桜を咲かせたり、夏休みを一万何千回も巻き戻したり、自分から世界をひん曲げるような事態を起こしては関係各位を大いに慌てさせた。特に初めの数ヶ月なんて、全員が東奔西走しなければ片付かないくらいの珍事件オンパレードっぷりだったからな。しかし今年になってから起きたことといえば、二人の朝比奈さんとお使いしたり、阪中家の犬に祓魔儀式すべく押しかけたり、生徒会相手に抗争を繰り広げたり……ってこれでも十分だが、まあ肝心なのは、そのどれもがハルヒによって引き起こされた事件じゃないってことだった。
 ただひとつ例外があったとすれば――。
 四月、中学時代からの親友、佐々木を初めとした「もうひとつのSOS団」が現れたことにより生じた分裂的危機は、分岐した時系列がひとつに収束することでいちおうの決着をみた。あれ以来藤原は姿を見せていないが(時系列が途切れたという古泉の解説は本当だったのかもしれない)、長門いわく、周防九曜はまだこの地上に存在しているらしいし、佐々木いわく、橘京子は完全に望みを捨ててはいないらしい。
「古泉。あの橘京子ってのは、ハルヒの力がこのままなくなっただけじゃ不満なのか?」
 前の席で文庫を読む長門の後頭部を眺めつつ俺が言うと、古泉は意を得たりと頷いた。
「そのようですね。今でもあちらの一派は、本心ではあなたのご友人である佐々木さんに、涼宮さんの持つ不可思議な力を移譲したいと考えているようです。春先の失敗を経た今でもね。僕には理解しかねる話ですが、そのほうが世界はより安定すると感じてしまうのですから、仕方ないのでしょう」
 それこそ相変わらずだな。いつまで経っても何がしたいのか目的不明の連中である。あの時だって三人四脚に一歩目から失敗していた印象しか残ってないからな。
「同感ですよ。彼女たちが出てこなければ、今頃はとっくに僕も役目を終えていたかもしれませんね」
 古泉はそう言うといやに楽しそうに微笑んだ。何がおかしいんだ。
「いえ。もしもそうなっていたら、今僕はこのバスに乗っていないかもしれない。そう思ったまでです」
 そりゃいったいどういう意味だ。また転校でもすんのか。高二の夏休み明けなんつう時期に入ってきても、もはや謎の高校生でもなんでもないぜ。ましてハルヒみたいなキテレツ女子高生が迎えに来る可能性なんかゼロだろう。
 古泉はバスの前方で朝比奈さんに演技指導らしい身振り手振りをしているハルヒを見ながら、
「涼宮さんは僕が超能力者であるがゆえ、SOS団に連れてきたわけです。ならば、僕からその肩書きが消えてしまえば、もう存在価値はないかもしれません。結束以来幾度となく思ってきた問いではありますが、近頃はまたそのように考えてしまうのですよ」
 俺は真夏にも関わらず煮え湯を目の前に差し出されたような気分で、また窓の外へ視線を泳がせた。絵に描いたような夏の風景ってのがあるんだとすれば、まさにこれこそがそうだろうな。青い空に白い雲。額縁はアルミサッシの窓枠だ。
 古泉は自転車のタイヤから空気が漏れたみたいな笑い方をして、
「ほんの冗談ですよ」
「お前の冗談をこれまで何回聞いただろうな」
 とか言ってると間もなくバスは目的地に着いた。俺は肩をすくめて荷物を持ち、
「それと同じくらい言ったと思うがな、お前のそれはいつも冗談に聞こえねえんだよ」
 古泉は「困りましたね」と言って首を振り、ズタ袋みたいな荷物を持ち上げて席を立った。
 先を行く長門が、立ち止まって俺たちを目の端で見ていたことに気がついた。俺と目が合うと、長門は歩き出し、市営バスのカードを料金支払機に入れた。



「いい? 今から撮るのは別の世界で起きている朝比奈ミクルの冒険譚なの。だから服装も普通でいいわ。夏を駆ける少女なわけ」
 どっかで聞いたことのあるフレーズを言ったハルヒは、フェミニンな服装の朝比奈さんと、カジュアルなサマースタイルに身を包んだ古泉を並んで立たせた。共に私服である。ここでは出番のないらしい長門、それに鶴屋さんと妹の三人は、三様の格好で笠地蔵みたいに佇立して成り行きを見守っている。
 俺はというと昨年に引き続き雑用兼カメラ係で、古泉と朝比奈さんの認めたくない美男美女カップルを渋々ながら画面に収めねばならない、という状態だ。去年は半ギレ状態だったが、今年の俺はせいぜい「何かムカツク」くらいの自然反応的感情に留まっている。平凡な男子高校生だったらだいたい俺と似たような感想を持ってくれると思うね。あんまりにも絵ヅラがよすぎるからな。
 しかしここに来て急な設定があったもんだな。確か昨日の撮影じゃ、朝比奈ミクルは普通に(ってのもアレだが)ウェイトレスとバニーを行き来する可憐な美少女で、そこへ帰ってきた長門ユキが奇襲をかけるべく星型ロッドから得体の知れない光線を出したシーンを撮ったはずだ。
 ああそうだ、念のため言っておくと、ハルヒは去年みたいに超振動性分子カッターやらレーザーやらを朝比奈さんの目から発射させたりはしなかった。むろん長門がナノマシンを注入すべく即席カーミラになることもない。当然神社の鳩が一夜にして漂白洗浄されたりもしなかった。
 これには俺も古泉も胸をなで下ろす思いだったが、どっちかっつうとクラスメートと答え合わせして確信を得た答案の返却を待ってた状態に近かったな。ありがたくも……と言うべきか、古泉の言うとおり、確かにハルヒはデタラメな力をデタラメに行使することはなくなっていた。
 果たしてこの亜熱帯を地で行く季節に山をデート先に選ぶ現代カップルが実際どれだけいるのか俺が思案に暮れていると、
「みくるちゃん。この後の展開だけど、鶴屋さんちで古泉くんにコクられるのと、有希に先越されて奪い返すのとどっちがいいかしら? 頑張ってるからたまには選ばせてあげる」
「ええっ、どっちかしかないんですかぁ?」
 その選択に本当にに朝比奈さんの自由意志があるのかおいと言いたくなるようなハルヒのセリフに、しかし俺はツッコミを入れることもなかった。
 去年からずっとこ団員やってりゃ解るが、こんな理不尽要求であってもハルヒはずいぶん成長しているんである。たとえで言うなら、ファミレスの勘定ぶっちぎって食い逃げしてたのが、値切れコノヤロといちゃもんつけるくらいにはレベルアップを果たしている、とでも言えばいいだろうか。それでもまだ常人未満だろと言われればその通りかもしれないが、ありふれた常人なんかより遥かに頼もしい行動力は相変わらずで、そこだけは市内にまず同じ人材がいないこと請け合いのポジティブっぷりだから、差し引きすればずいぶんマシになったと言えるだろう。
 ハルヒは映画とは何かを熱く語るベテラン監督そのもののような怨念めいた気迫で、
「この先が山場なんだから、この二つ以外に選択肢はないの。いいことみくるちゃん。ここが分岐点よ。今のあなたの頑張りがアカデミー賞にノミネートで終わるか受賞するかを決定付けると言って間違いないんだからね」
 去年だったら有無を言わさず朝比奈さんを半裸に剥き、どこぞで見繕ってきたサイズだけはばっちりでシチュエーション完全無視な衣装をあてがって自分のオモチャにしてたはずだよな。それが今は普通の服装をさせているし、二択とはいえ朝比奈さんに物語の続きを選ばせるくらいの寛容性を獲得している。どっちも変わらんだろと言われればそれまでだが。ちびっとでもこいつに関する識別眼を持ってる人間ならそれがどれだけの違いか分かるはずさ。
 こういうのを成長と呼ぶのかね。今年はクラスの出しもののほうにも何やら首突っ込みたがってるみたいだし。これも去年のハルヒだったらありえんことだ。
「キョンくん。なーに難しそうな顔してんのかなっ?」
 鶴屋さんが耳元でささやいた。危うく俺はハンディカムを落としそうになったがセーフ。まだ本番が始まってなかったことを思い出して安堵する。
「え。あー、俺そんなに気難しい顔してましたか」
 そんなつもりはなかったので意外な注進だった。鶴屋さんは一塊になってやいのやいのしてるハルヒと古泉と朝比奈さんへ楽しそうな視線を滑らせて、
「水攻めにあった落城間近の大名みたいな顔してたよん。ふふっ」
 いつだって森羅万象を笑顔で迎え入れることのできるスーパースキルの所有者たる鶴屋さんは、見る人をたちまち楽しい気持ちにさせる笑顔で言った。この人にだけはいかな隠し事も通用しないと思うね。将来彼女と結婚するような輩がいれば、他の女とメアドの交換をすることすらままなるまい。即行で見抜かれるだろうからな。
「ハルヒもちったぁ丸くなったかなと思いましてね」
 俺は古泉を真似る仕草で肩をすくめて言った。
「んー。言われてみれば、だねっ。いっつもスッゲー面白いことしてくれるけどさっ、そういえばハルにゃん、前よりツケツケしなくなったかも」
 独自の擬音でハルヒの過去を形容する鶴屋さんに、俺も全面的に同意したいところだった。
 当の涼宮超監督は、記者会見で完成品の製作意図を訴える脚本家のように、
「古泉くんに思いを打ち明けられた場合、みくるちゃんは一旦断らなければならないの。昼メロドラマ的展開ね、意外性を求めてやまない視聴者のハートをググッと鷲づかみにするって寸法よ」
 ハルヒ以外に共感するヤツがいるのか不明な持論をぶち上げ、朝比奈さんと古泉に今後の演出方針を懇々とぶつけていた。
 こういう時間がどんなに大切であるかを俺は数多くの出来事から学んでいたし、それを保持するためにこれまであらゆる努力を惜しまずに来たので、これまでもこれからも日常を大いに楽しんでいきたいと思うのはハルヒと心を等しくするところさ。この後涼宮超監督がどこへ舵を取ろうとも、俺は常識的ツッコミを適度に挟みつつ着いていくつもりだ。朝比奈さんも長門も古泉もそれは同じだろう。ハルヒの水素爆発みたいなパワーをセーブすべく俺に与(くみ)してくれることは今でもそんなにないが。
 最低限のモラルだけは俺が死守しないとな、なんて前までなら言ってたが、それすら必要ないだろうと思ってすでに久しい。ハルヒがこれだけ楽しそうにしてるってのもそうだが、今年は朝比奈さんが辱(はずかし)めのあまり泣いたりしていないし、監督じきじきに神社の神主にBB銃ぶっぱなすようなハタ迷惑を起こしていないしな。



 映画の撮影はロケ地をその後鶴屋邸に移した。古式ゆかしい日本家屋でのシュールな撮影が終わると、鶴屋家自慢の高級緑茶と品のある和菓子で夏の空気に身をゆだねる風雅な時間を過ごしたのち、和食フルコースみたいな昼飯までふるまっていただき、午前中のSOS団のスケジュールは終了となった。
 現地解散の号令を発したハルヒは俺に指を突きつけ喜色満面、
「解ってんでしょうけどまた夜にも集まんだからねっ! キョン! あんたも日に二回奢りなんてことになりたくなかったらしっかり集合することっ。いいわね」
「わーったよ。仮にケツでもちゃんと来るから安心しろ」
 最後にならなかったのはSOS団史上たったの二回しかないのである。今さら勝とうなどと思わん。
「よろしい。それじゃみんなバーイ! また後で!」
 光陽園駅前でハルヒが解散の合図をすると、朝比奈さんはにこやかに、古泉は爽やかに、長門はすずやかに帰路をたどった。
「キョンくん。夜も集まるのー?」
 妹がばっちりハルヒの文言を聞いていたらしく、縁日でピンクに塗られたヒヨコを見つけた時のような目をぱちくりさせた。
「あー。ほら、今日はお前の好きなテレビ番組が」
「あたしも行くー!」
 俺はがっくりと肩を落とした。いったいいつになったらこの妹は兄離れしてくれるんだろうか。誰か教えてくれ。



 家に帰った俺はちょっぱで荷物だけ取り替えて踵を返し、今度はチャリにまたがって、今度は北口駅前を目指した。
 温度調節ツマミがイカレてんじゃないかと疑うような真夏の日射しは昼過ぎから次第にかげり始め、今や天蓋の六割ほどを灰色の雲が覆っていた。夕立になるのだろうか。酷暑もツラいが、近頃急に降る散弾みたいな雨にも辟易しているところなのだ。勘弁してくれ。せめて駅に着くまで持ってくれよな、と祈った成果か知らんが、何とか濡れずに目的地まで到達した。
 俺がどんな面持ちでいたのか、
「や、キョン」
「よう」
「む。さては何か楽しいことでもあったのかい? あるいはこれからあるのかな。キミは何か、想像に対して実現の見込みがあるような顔をしているよ」
 夕星(ゆうづつ)のように輝く瞳で笑いかけた佐々木は質問した。
「どうしてそう思うんだ?」
 佐々木はクスッと微笑して、
「キミの反応が少しだけ早かったからね。寝起きと通常時くらいの違いがある。いつものキミだったら前者だが、今は後者だ。好奇心を得て脳が有効に回転している証左さ」
 相変わらずの鋭い観察眼に恐れ入るね。俺の周囲にいる女性陣の勘の鋭さたるや、四十年間アシを使って地道に情報集めを続けてきた刑事を余裕で凌ぐ勢いだ。誰もが揃いも揃って鋭敏な第六感を持ってるのには、俺のDNAに関する何かジンクスめいたものでもあるんだろうか。
「いや、僕のは勘とは違う。ただ洞察しているだけさ。前に言っただろう? 僕は動物的な感覚よりもむしろ、判例や経験則を重んじる人間だ、ってね」
 佐々木はそう言うと腕時計へ視線を落とした。
「さ。それじゃ行こうか」
「おう」
 俺と佐々木は駅の改札口へ歩き出した。



 あれはほんのひと月前。期末テストを間近に控えた俺に、前兆のないカミナリのごとく降り注いだオフクロの言葉「予備校に行きなさい」がきっかけだった。
 それまでも何気なくパンフが置いてあったり、テレビで学習塾のCMが流れるたびオフクロとの間に微妙な空気が流れたりしてたものの、春以降のハルヒの個人指導が奏功したのか、なんとか現国とリーダーだけは成績下げ止まり、のち上方修正の傾向を見せていた。
 中間考査まではそれでどうにか乗り切れたのだが、どうにも期末シーズンになっても家で刻苦勉励する様子のない俺に見かねたのか愛想が尽きたのか、威嚇射撃なしにとうとう最後の呪文を唱えられてしまった俺である。この歳になっても母親の雷鳴ってのは威力を発揮するんだな。そんなこんなでついに予備校に足を踏み入れることになってしまった。できることならせめてあと三ヶ月くらい後に回したかったんだがな。
 つっても最初っからフルで通えなんていう無情な要求をオフクロはせず、まずは二科目だけでいいから夏期講習に行ってこい、とのことだった。
 どこの予備校がいいか、下見をすべきか三十秒だけ迷った俺は、次の瞬間旧友に電話をかけていた。うってつけの人材を示すシグナルが明るく点灯したからだ。
『予備校か。そろそろそんな頃合いだと思っていたよ』
 予見してたかのような電話向こうの佐々木に色々相談に乗ってもらった結果、俺は同じ予備校に行くことにした、つうわけである。
「そうか。さすがの涼宮さんでもキミの親御さんをくい止めることはできなかったみたいだな」
 二本目の電車の中、つり革につかまりながら佐々木が言った。あらゆるものから考察を導きだせるような輝く瞳は健在である。
「あいつに面倒見てもらった二教科はとりあえず免除されてるから、それでもダメージ軽減にはなっているんだがな」
 佐々木はくつろいだ笑みで、
「選んだのは数学と世界史だったっけ? キミはもう文系に進むことを心に決めているのに、なぜ数学を選択しだんだい?」
 オフクロの提示した選択肢が社会科の中からひとつと、理数系からひとつだったんだよ。例えて言うなら国境ギリギリで繰り広げられる緊張の折衝みたいなもんだ。規律と自由の狭間における三十八度線のようなものだと思ってくれ。
 俺は母親の形相を脳裏に浮かべながら、
「『あんたは文系に決めてるかもしれないけど、進路の候補は広く取っておく方がいいのよ!』とか言ってたな」
 佐々木は思い出し笑いするような素振りで、
「いかにもキミの母上が言いそうなことだ」
 そんな他人事みたいに楽しまれても。これから数学の講義聞かなきゃならん俺の心は荒む一方だぜ。
「いや失敬。少し懐かしくなってね。ちょうど二年前も、そうやってキミは塾に入れられていたから。歴史は繰り返すとはこのことだ」
 俺は自分がオフクロの手のひらでうまい具合に操られている様を幻視した。このまま下車して反対のホームから帰っちまおうか。それともどこかに夏への扉があるならノックさせてもらいたい。
 しかしそんな背水の陣に自ら身投げするような愚行をするわけにもいかず、しぶしぶながら俺は佐々木とともに予備校に到着した。空は何とか雨を降らすまいと頑張っているらしく、まだ水滴は落ちてこない。俺の心情もこんな感じだ。フィール・ソー・ブルー。
「それじゃまた後で」佐々木は颯爽と手を振った。
「おう、またな」俺も負けじと振り返した。
 当然のことながら俺と佐々木はクラスが違う。数学だけは俺も佐々木も両方が取ってるものの、学力レベルで言えば大学生と小学校低学年くらいの開きがあるかもしれない。ジョークのかけらもないクラス分け試験なる采配の結果、俺は一番下のクラスに振り分けられた。佐々木は一番上の、しかも入れる人数が限られている特別クラスに入っているらしい。
 春以降、全国模試の会場とその結果で佐々木をたびたび目にしている国木田いわく、「佐々木さん、いずれ全国ランクに名前が乗るんじゃないかなあ。彼女の成績は右肩が上がる一方さ」とのことであり、俺が奴隷階級なら佐々木はさしずめ天上に住まうアテナであろう。
 とまあそんな具合に、俺は二教科を週に二回ずつ、計四コマ受けるべく予備校通いしている毎日である。ちなみにハルヒにはすでに許可を取ってある。一体どんな反応をするか訝(いぶか)っていたが、ゴネると思っていた俺の予想に反し、ハルヒは驚くほどあっさりと承認したのだった。
『言ったでしょ。あたしのSOS団から落ちこぼれを出すわけにはいかないの。たまには他のあらゆる誘惑を断ち切って、学び舎で切磋琢磨することね』
 だそうな。いまだに得心がいってないんだが、はて、ハルヒってこんなにも物分りのいいヤツだったっけ? 俺としてはちったあ抗議くらいしてほしかったんだが……ってのは目の前の現実から逃避したい己が本心の顕れだろうか。



 公立高校の倦怠感ただよう授業の倍、九十分の緊張した講義を聞き終える頃には、考える頭もノートを取る腕も熱暴走した挙句ショートした安物CPUばりにボロボロになっていた。五回寝そうになったのをすべて乗り切った己が精神力を褒めてやりたいところだ。
 俺がエントランスのベンチにて、講義で酷使した頭をサウナ後水風呂に浸かるオッサンのように冷やしていると、
「ん、キョンが先だったか」
 軽やかな声に振り向くと、生徒の群れに混じり、佐々木が階段を下りてくるところだった。
 合流した俺たちは連れだって通りを歩いた。その途中で、俺はふと思いつきを訊いてみた。
「なあ佐々木。お前は週にいくつ授業受けてんだ?」
 佐々木は形のいい顎に指を当てて、
「十一かな。夏休みの間、午前中は大体家で自習している。もっぱら午後から夜間が受講時間だ。似たようなサイクルにしたほうが都合がいい」
 俺は思わず頭痛薬を買いに目の前のコンビニに入りたくなった。そんなに取ってて気が狂わないのか。
 佐々木はわずかに頭を振って、
「慣れればどうってことないね。順応力は人類が誇る能力の一つだ。さ、夕飯にしよう」
 時刻は午後四時半を過ぎたところだった。少し早くはあるが、予備校のコマ割り的にこの時間帯が腹ごしらえするのにベストな時間帯なのだ(佐々木談)。
 俺たちは近くにあったファストフード店に入り、それぞれにセットメニューを注文した。そののち、窓際二階のカウンター席に並んで座り、日没までまだ少し時間のある街並みをぼんやり眺めた。夕暮れと行き交う人波。学生に社会人、主婦に老人。
 いや、現代人的寂寥感をまざまざと感じるんだが。これも慣れちまうものなんだろうか。
「言っただろ。人間は変化に順応する生きものだ。それがゆえ、ここまで繁栄し繁殖し、現在に至るのだからね」
 佐々木はそう言ってポテトの端をかじった。むむむ、しかし何というか、一足先に一人暮らしのサラリーマンの週末やってるような気分だぜ、これは。
 佐々木は眼下で往来する人の波を眺めながら、
「キョン。僕だって同じことを考えている。いったいこんな行為に何の意味があるのか。自分の人生なんだし好きにすればいいじゃないか、ってね。まったく別の進路を選択していたら、例えばキミや国木田のように県立高校へ行くとか、もっと別の……」
 言いかけて佐々木は首を振った。
「やめよう。こういう自分は好きじゃない」
 俺は何を言うべきか迷い、迷って思い浮かばない結果、ファンタを飲んで間をつないだ。我ながら不甲斐ないな。
 結果として、俺は話題を別のものにシフトさせた。
「佐々木。うちの文化祭には来るんだろ? もうちょい先の話になるが」
 佐々木ははっきりと首肯して、
「ああ。行かせてもらう。かなり楽しそうだからね。お邪魔しない理由はない。須藤や中河も行きたそうにしていたから、彼らも来るんじゃなかろうか」
「そういやそうだったな」
 俺はつい先日行われたばかりであるところの同窓会を思い出す。およそ一年数ヶ月ぶりの再会となる中学時代のクラスメートたちは、経過した時間ぶんの成長がうかがえるような、反対に全然変化していないような、妙な感覚だった。特に印象に残ってるのが、鼻の下を伸ばしそうな須藤が女性らしさにいっそうの磨きをかけた岡本にやたらアプローチしてたことと、中河がもう一度長門に会いたいとかたわけた寝言を起きたまま言ってたことくらいなのがアレだな。
「その文化祭のことだがね」
 佐々木の言葉に俺は回想モードから立ち戻る。
「橘さんたちを連れて行ってもいいかい?」
 不意に鼓膜を震わせた言葉に、俺は瞬間的動揺を隠しきれなかった。その固有名詞だけは余計なアレルギー反応なしに聞き逃すことができそうにない。花粉症の特効薬が開発されてもこればっかりはな。
 水滴のついた紙コップを握りしめる俺に、
「すまない。キミにとってはいい記憶のある人じゃないことは解っている」
 春に起きた驚愕の一大事は、俺と佐々木の間に残るケロイドのように、触れてはマズい禁忌のようになっていた。
 連中はまだハルヒの力に関心があるらしく、橘京子もまだ佐々木に力を移すことを諦めていないらしかった。
「だけどね。僕にとってはキミと同じくらい気の置けない友人なのさ」
 まあ確かに、橘京子に至っては同情すべき点が少なからずある。特にあの時系列分岐の件に関しては、どちらかといえば被害者の側にカテゴライズされるだろう。あれは想定外の事態に巻き込まれた藤原未来人の暴走みたいなものだったからな。それも終わってみればだが。橘京子だって朝比奈さん(小)をかどわかしたことに変わりはない。ただの佐々木の友人として見るにはさすがに無理があるってものだ。
 佐々木は三割ほどしか手をつけていないハンバーガーを包みながら、
「もう少し早くこの問題が解決していれば、また違う今がここにあったのかもしれないな」
 そう言うと佐々木は席から立ってボードを持ち、
「また明日」
 それだけ告げて階段を降りていった。俺は別な反応をできなかったものか、しばらくの間ぼんやりと考えてしまった。



 それから俺は電車で見慣れた駅前まで帰参を果たし、自宅に向かうと、荷物をまた取り替えて、ハルヒたちとの待ち合わせ場所に向かった。
 夜にSOS団で行ったのは花火大会である。「今年は最初っから巻き巻きの全力疾走で行くわよ! マラトンまで着いたってまだ終わらないからねっ!」というハルヒの言葉により決まったのである。俺は微笑しっぱなしの古泉やら喜んだり驚いたり忙しい朝比奈さんやらいつもより二ピコグラムばかり嬉しそうに見えなくもない長門と、あとついでに妹と、銀河団を撒き散らしたような夏の夜を存分に楽しんでやった。



       2
 

 好きな季節を一つ挙げろと言われれば、俺は蝉の喧騒うるさく日射しが眩しい夏を選ぶ。
 夏についてちょっとした小論文が書けそうなくらいに夏好きであるところの俺は、この時期ならば大抵の不満を空の彼方にぶっとばしてしまえるのだ。青空を見た途端気分が高揚し、意気も上がるこの時期なのだが、
「わひゃああう。すす涼宮さん、あたあたし、こんなのできませぇえん!」
「何言ってんのよみくるちゃん。ここまで来てやらないなんて満員の武道館公演が会場する間際に臆病風が吹いて腹痛の仮病を使うくらい愚かしいことなのよ! あなたに選択肢はないの。やるったらやる!」
「ふええええ」
 前年と何ら変わらぬ、まるで十トントラックを速度超過させて体当たりしたみたいなパワーのハルヒは、前年と何ら変わらぬウェイトレス姿で学芸会本番をぶっつけで迎えた小学生ばりにもじもじする朝比奈さんへ余すことなくぶつけられていた。そんなハルヒの姿を見て同調できる輩がいたら、俺はそいつを銀河系の外側までジャーマンスープレックスしてやりたい。
 市内商店街だった。映画撮影中だった。朝っぱらから集合かけたかと思えば、ムカデ百メートル走を十秒フラットで走れというくらい無茶なスケジュールでハルヒは俺たちをせっついていた。
 さっきっから刹那的思いつきによるハチャメチャシーンの将棋倒し。つい今しがた古泉に「古泉くん、あなたは覚醒のために筋トレに励まなければならないの。腕立て三十回を三セット!」と言って川原で腕立てさせたり、長門に「有希はパワーアップした呪文を使わなければならないわ。これ覚えて」と言って未知の自作言語によるノート五ページ分の呪詛を暗記させたりし、俺は俺で裏方雑用すべてをほぼ一人でこなすという無茶っぷりに、いくら一年間こいつの思いつきに振り回されることに慣れている身であってもダウン寸前だったが、
「みくるちゃんは商店街で洗脳された人々を救うために歌うの!」
 超監督のヤツ、朝比奈さんにはそう言ってフリつきでオリジナル曲を歌い、今ここでやれと言い出したのだ。往来の真っ只中。オーライかと言えばその逆だと即座に答える。洗脳から開放するどころか洗脳されそうな電波ソングなのはともかくとしてだ。
「おいハルヒ。ちょっと待て」
 さしもの俺も、長門と朝比奈さんが苦しんでると聞けば助け舟を出さないわけにはいくまい。まあ長門は苦もなく暗唱したし俺のヘルプは泥舟にしかなってないと言えばその通りかもしれんが放っとけよそこは。ああ古泉? あいつに関してはあいにく同情という名の小銭に今持ち合わせがないんで、またの機会にしてくれ。色々苦労が多いヤツなのは知ってるけどな。
「何よ?」
 人々の視線が少なからず集まっているのも気にせず、ハルヒは初秋のサンマばりにギラギラした目を俺に向けた。長い間こいつと同じ団にいる俺は、そのくらいじゃ動じたりしない。
「ちょっと飛ばしすぎだ。ヘタすりゃ去年以上だぞ」
「言ったでしょ。目標ってのは常に過去より高い位置になければならないのよ。そのために我らSOS団はたとえ火の中水の中、銀河の果てまでも駆け抜ける宿命にあるの!」
 何だろう、あの「超監督」腕章をつけてる時限定で、こいつは戦闘力が普段の三倍にでもなるのか? そのうち空でも飛んで気功波でも放つんじゃなかろうか。漫画みたいに髪の毛の色が変わる前に何とかしないといかん。
「だからみくるちゃん、ガッツよ。これを切り抜ければあなたはまた一歩大人の階段を登るシンデレラになれるの」
 お前いつの生まれだとツッコミたくなるような言質で、ハルヒは朝比奈さんへ妥協と完膚なき要求を突きつける。
「ふぇぇぇ」
 気の抜けたジンジャーエールみたいな雰囲気の朝比奈さんに、俺は慰みの抱擁でもしたい心境だったが、
「が、がんばりますぅ」
 なんと朝比奈さんは立ち上がった。そこに俺は昔のスポーツもの少女マンガみたいな瞳の光を見た。可憐だ。健気だ。今年のNo1ヒロインが確定した瞬間である。
 結果的に朝比奈さんは商店街の皆様にそれなりに聴こえなくもない歌声でなんとか最後まで新テーマソングを歌いきった。終わる頃には近所のじーさんやら通りすがりの女子小学生やらが拍手してた。それだけ健気だったのである。言うまでもなくそのオベーションには俺も加わった。サクラ疑惑など知ったことか。



 収録後、俺たち五人は前回もお世話になった森村清純さん(47)の青果店で茶と果物をご馳走になりつつ休憩していた。
「みくるちゃん、有希、今後の打ち合わせをするから来てちょうだい」
 といって店先にまろび出る女子たち三人組を、俺と古泉は相応に疲弊した町内会のオヤジコンビみたいな風情で見守っていた。
「ありえんな。この上バンドでライブもやってクラスの出し物まで加わったら、身体がいくつあっても足りないだろ」
 なんつってもやりすぎである。俺が言うと、古泉は爽やかさ二割減の笑みで、
「ええ。さすがに今回ばかりは僕もあなたに同調したいところです」
 何の脈絡も目的もない、筋トレシーン撮影のためだけの筋トレで明日は筋肉痛まっしぐらな肩をさすりつつ古泉は、
「ですが、去年と決定的に異なる点がある以上、撮影を放棄する気など僕には毛頭ありませんね」
「まあそうか」
 俺は頷いた。
 この数日、ハルヒはやたらめったらに団員を引っ張りまわしては思いつきでロケ地を変えて映画撮影を続けているし、そこには「ミクルビーム」やら「イツキの潜在能力」やら「ユキの上級魔法」やら危険で物騒な香りのするフレーズも飛びかっている。
 しかし、あいつは何一つ世界を変容させたりしてなかった。ハトが白くなったり三毛猫がしゃべったりすることはなく、古泉が臨時出張で灰色空間へ出向いたりもしない。レーザーだの変身光線だの発射させないだけ去年よりマシだろう。去年と同等かそれ以上の傍若無人ぶりには、メガホンかカチンコを握るとアドレナリンが十倍になってトランスモードに変貌していると思うほかないが。
 古泉は楊枝の刺さった白桃をひとかけつまんで、
「涼宮さんは今や、現実がこのままであることをほとんど丸ごと受け入れているのですよ。今年に入ってから彼女が直接現実を揺るがした例はただ一度きりでしたからね」
 脳裏に未来人野郎や黒髪宇宙人やら誘拐女の姿が浮かぶ。
「あの一件さえなかったら、今ごろはとっくに僕の役目は終わっていたかもしれません。そのどちらがいいのか判断しかねますが、これだけ忙しいとそろそろ超能力者の肩書きくらいは履歴から外してもいいか、という気になります」
 古泉は店先でふたたび注目を集め出したかしまし三人娘を見て、
「もしもそうなったら、涼宮さんは僕をSOS団に置いてくれるでしょうか?」
 冗談なのか解らん古泉の問いかけに、俺は何と言っていいか迷った。
「今のあいつにはもうそんな属性は関係ないかもしれん」
 気休めめいたことを言って、俺もハルヒたちを見た。ハルヒが朝比奈さんに必殺技の演技指導っぽいジェスチャーをし、朝比奈さんはあたふたして、長門はじっとそれを見ている。いつもより長門が朝比奈さんをより注視してるように見えるのは、あいつもたまには派手な役回りを演じたいとか考えているからなんだろうか。こんな風景こそ俺がもっとも心和ませる、何物にも換えがたい貴重な場面なのだ。これを維持するために、今までカマドウマと戦ったり、まるっきり変わっちまった世界を元通りにしたり、時間を跳んだり、跳ばれたり、刃物で刺されたり、分岐した時間軸を統一すべく奔走させられたりしたんだからな。俺の脳裏に、眼鏡をかけて微笑む長門や、髪の長い光陽園ハルヒや、周防九曜や橘京子、藤原に渡橋ヤスミといった、これまで現れては退場していった関係者たちの顔がチラつく。仮にハルヒにそれらが必要なくなったのだとすれば、そんな連中と会うことももうなくなるのかもしれん。
 俺のしなくてもいいような回想などどこ吹くそよ風、その後もハルヒの無軌道弾道ミサイル的強行軍は留まるところを知らず、俺を初めとするSOS団の面々は昼過ぎまでめいっぱいエネルギーを消費させられた。



 午後は短期集中講座の予備校講義が待ち受けている。目一杯消費したライフゲージにトドメを加えんとする数学の講義はノート取るので精一杯。終わる頃にはヒットポイントなんぞほとんどすっからかんで、俺はファストフード店のテーブルに突っ伏した。そうりょを呼んでくれ。
「ずいぶんくたびれてるようだが、そんなに講義が苦痛だったのかい?」
 佐々木が盆休みの風鈴みたいに軽い調子で言った。
「まあな」
 予備校の机が自室のベッドだったらありがたかったくらいには疲れていた。
「午前中でほとんどエネルギーを使い果たしちまった」
「また涼宮さんかい? 相変わらず天衣無縫のふるまいを見せる人だね」
 佐々木はクスクス笑うと、ホットサンドを少し食べた。俺は何か腹に収める気すら起きず、点滴を打つ心境でコーラをストローで啜った。今なら天国に行けそうだ。
「悔いの残らないようにするのが一番いい。決定した現在はもう変えることができないのだからね」
 佐々木はそうつぶやいたが、俺は旧式の蚊取り線香のように口から煙を吹き出しそうな具合だったため、ロクな返事ができなかった。
「佐々木。お前は次も授業あるんだっけか」
「ああ。二コマ続きの物理が待っている」
 恐れ入る。二コマって三時間じゃねえか。いったいどうやったらあの催眠音波のような講義を一日に二つも三つも聞けるってんだ。
「慣れだよ。人間は変化に順応する動物だ」
 そう言って佐々木は愉快そうに微笑した。ぜひともその強靭な精神を分けてほしい。少なくとも気の遠くなる体育のバカみたいなハーフマラソンを切り抜けるくらいできそうだからな。



 家に帰るや俺はベッドに直行してそのまま深い眠りの海へ沈んでいった。
 夢なんぞ見る余地は四十路すぎた独身女くらいになく、俺はそのまま翌朝を迎えたい心境だった。
 だったのだが、携帯が振動するわずかな音により、すんでのところで俺は寝入りを妨げられた。夢の中での行動みたいに携帯をつかむと、ほとんど動物的記憶で通話ボタンを押した。
「……眠い」
 誰かを確認もせずに俺が言うと、心地よい沈黙が俺をふたたび眠りの渕へいざない、
「……花火」
 音量レベル最小みたいな長門の声が、夜にも予定があったことを俺に思い出させた。
 いつもなら飛び起きてるところだが、肉体的精神的に困憊の極致にあった俺は、
「すまん。無理だ。ハルヒに俺が謝ってたと伝えてくれ。奢りでもなんでもするから――」

 間もなく、意識が眠りに落ちた。



 その後もしばらく携帯が振動していた気配を、レム睡眠になるたび俺は夢うつつで感じていたが、全身が覚醒とはほど遠い状態にあったため、まるっと無視した。
 なので、目が覚めるのは翌朝か、あるいは昼近くになるだろうと思っていたのだが、それより前にぱっちりと、まるで催眠術を解いた直後みたいに俺は目覚めた。
「ううむ」
 部屋は暗く、外も暗かった。家の中の気配が、今が夜中であろうことを伝えていた。
 俺は正確な時刻を確認すべく、携帯を取ろうとした。
 その携帯が振動した。こんな遅くに誰だ?
「まさかハルヒからじゃねえよな」
 背筋を悪寒が伝うのを感じつつ、名前も見ずに電話に出る。
 …………。
 何も音がしない。
 何だろう、こんな時間にイタズラ電話か? 物好きな人間がいたもんだな。
 しばらく受話器から何か音がしないものか聞いていたが、変化なし。
 相手が長門じゃないのは自明だった。無口はあいつの十八番だが、あいつならこんな長時間無音状態を続けることはない。
 律儀に待ってるのも何か腹が立ってきたので、俺は何も言わず電話を切った。んでまた寝た。シーユートゥモロー。謝罪なら明日の俺が何とかするだろう。



       3
 

「キョーンくん、電話だよっ。キョーンくん!」
 熱帯夜から地続きのような暑さに、妹の調子ハズレな声が何ともいえぬ心地の悪さを感じさせ、俺は塩水に浸かりかけたナメクジのようにどろりと布団から下りた。
「ふああ」
 あくびをひとつして半分まとわりついていたタオルケットを引きはがし、シャミセンの尻尾を半分踏んづけて起き上がった俺は自室のドアを開けた。
「あのな妹よ。朝っぱらからその何だかわけのわからん歌で起こすのはやめてくれ」
 俺が受話器を受け取りつつ言うと妹は、
「やーだもん。でんわのうたー」
 そう言ってとことこ歩き、階段を降りていった。俺はまだ覚醒とは程遠い頭で、いまだベッドに仰臥するシャミセンの図太さに感心しながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……』
 混じりけゼロの蒸留水ばりにクリアな無音が俺の耳に届けられた。
「長門か」
 頷く気配。
『映画撮影』
 あー、そうだったな。今日はどこ行くんだったっけ。
『学校。部室に集合。九時半』
 俺は受話器にクモが巣作ってたみたいな気分で息を吐いた。夏休みだってのにわざわざ学校まで行くこともないだろう。それだけで真夏のデッドハイキングがもれなくついてくるってのに。まともな部活の真似事でもしたくなったのか、ハルヒのヤツ。
「解ったよ。後で会おうぜ」
 長門が再度肯定する気配を感じ取った俺は「じゃあな」と言って通話を終了した。
「ん?」
 何か微妙な引っかかりを感じて、俺は受話器を見つめた。何ら変わりのない、長年我が家で使ってきた子機。
 ハテ、何だろう。何か納得いかないようなこの感じ。
「ああ」
 ピンときた。
 ハルヒが長門を伝言役に使ってんのがいつもと違うんだ。これまでだったら携帯に団長自らダイレクトコールして挙句、俺に喋る隙を一切与えず切りやがるからな。
 SOS団階級順連絡網にでもなってたのか、それともハルヒが長門に頼んだのかは解らんが、こういう些細な変化に、俺は前年との違いを実感する。人んちに土足で上がりこんでたのがちゃんと靴脱ぐようになったっつうか、まあそんなのが。
 制服に着がえた俺は、妹の「学校行くのー?」コールに生返事して、食卓のレーズンロールを二つ頬張って自宅を出た。さすがに学校に妹連れて行くわけにもいかないんでね。



「ユキ、あなたは前回イツキに負けちゃったわけだけど、実はこっそりこの学校に帰ってきているの。そして引き続き復讐の機会をうかがっているわ。隙あらば骨の髄まで!」
 セーラー夏服の裾をはためかせ、絶賛夏季休暇中の二年五組で黒板にストーリーボードを描いたハルヒは、ばらばらに席に着いた映画スタッフたる俺たちへ長広舌をふるっていた。
「だけどラブラブなイツキとミクルはそれに気がつかないわけ。恋は盲目ってヤツね!」
 ばっしーんと黒板をハルヒは引っぱたき、チョークの粉が気だるい夏の教室に舞った。夏季休業中の校舎って場所は、何かこう青春の一ページを演出するに相応しい場所かもしれん。だがこの状況はまったくもって恥じらいもなければ郷愁とも無縁だぜ。
 恋愛を奇病扱いするお前に知ったような口で講釈されたくねえだろという俺の脳内ツッコミもむなしく、プロットのプの字すらないようなハルヒ脚本家による破天荒物語はすぐさま撮影準備に入ろうとしていた。夏の教室で受ける臨時授業がコレとはね。
「おいキョン、訊いていいか」
 俺の隣で頬杖ついて青ピーマンみたいな顔してる谷口が言った。
「何だ?」
「どうしてまた俺たちが駆り出されなきゃならねーんだ」
 谷口はハルヒに聞こえず、かつ俺には聞こえる音量で不平不満を言った。
 俺は机の横にかけた撮影機材入りの学生カバンを持ち上げつつ、
「嫌なら帰っていいぜ。あいつの魔手から逃れる自信がお前にあればの話だが」
 メガホン片手に長門に演技内容を話しているハルヒを見て俺は言った。谷口はイソジンで季節はずれの風邪予防のためのうがいをしそこなったみたいな変な音を発して、
「理不尽だ……。なあキョン。俺思うんだけどな、涼宮があんだけ横暴してもまかり通ってるのって、あいつが女で、しかもツラがいいからだよな。ったくよー、世の中って何て不公平なんだ。美男美女ならどんな愚行も愛嬌ってわけかよ。かー! 仮に俺が腹いせに涼宮にグーパンチしたらあちこちから刺すような目で見られた挙げ句シカトされそうだもんなー、ちきしょー」
 妄言を吐くのは谷口のクセみたいなものだとしても、それにちぐはぐな合いの手を打つ律儀な相方がまたここにいた。
「まあキョン、谷口も物好きだからさ。いつも来てから文句言ってるけど、何だかんだいって涼宮さんの思いつきに呼ばれるのが嫌いじゃないんでしょ」
 芯から無害な調子で国木田が言った。それ言ったらお前も似たようなもんじゃないのか。
「僕は自発的に来てるしね。涼宮さんの思いついたことに巻き込まれるのは楽しいから。いい息抜きになるよ」
 ハルヒ的優良準団員だろう国木田はそう言って席を立った。つっても今日はお前が並々ならぬ興味を抱いているらしい名誉顧問たる鶴屋先輩はいらっしゃらないぜ。
「まあそれはいいって。僕自身の問題だからね。卒業までにひとつの決着をつけたいところではあるけどさ」
 その後も国木田は国木田で己のストーリーを展開しているらしいな。一年の時、もうちっとこいつに注目してれば鶴屋さんとの間に何か愉快なエピソードがあったのを発見できていたのかもしれないが、俺は俺で精一杯のあれやこれやに忙しかったからな。観察係まで手が回りやしなかったってものだ。
 俺たちは二年五組の教室から部室棟に続く渡り廊下へ移動する。
 谷口国木田のマブダチコンビはハルヒいわくユキのしもべとして校内を徘徊するらしく、ミクルをあの手この手で戦闘不能に追いやるショッカー的ポジションなのだそうな。
 そんなやられ役筆頭みたいな職務を享受できる国木田もたいそうな人格者だが、呼べばいつも結局来ている谷口も相応にアブノーマルだよな。二人揃ってマゾなんじゃなかろうか。
「ほらザコキャラその1と2! こっち来なさい!」
 ハルヒが豪快にメガホンを叩いて召喚指令を飛ばすと、谷口と国木田は復活したばかりのゾンビ的足取りでふらふら歩いていった。お人好しっつうのかね。将来危ない詐欺に引っかかったりすんなよ。
 などといらぬ心配をしながら渡り廊下を眺めた俺は、朝比奈さんがどこかぽかんとした面持ちでハルヒたちのいるほうを眺めておられることに気がついた。どことなく、いつもよりボーッとしてるように見える。
 万年春風みたいにおっとりしたお人ではあるが、今日はそれが一割くらい増してるように見えるのだ。これでも俺は北高随一の朝比奈ファンとして一年あまり彼女を観察してきた経歴の持ち主であるから、そこに何らかの理由がありそうだと訝ったりもするくらいにはいまだにファンクラブ会員である自信を持ち合わせている。
 ゆえに、隣で撮影準備にとりかかってた古泉にカメラを預け、俺はそっと先輩の傍に近づいた。
「朝比奈さん」
「ふぇっ!?」
 彼女にとって完全な不意打ちだったらしい俺の呼びかけは、小柄な身体を二センチばかり飛び上がらせる効果を発揮した。
「キョンくんかー。……ああ、びっくりしたー」
 はふー、と胸をなで下ろす朝比奈さんは、
「どうしたんですかぁ?」
 シマリスみたいにつぶらな瞳をぱちくりさせた。そのまんま手のひらに乗せてお持ち帰りしたい可愛さである。初めて彼女に出会ってからすでに一年以上経ってはいるが、ここは今なお残存している彼女の愛嬌である。
「何だかぼうっとしてたみたいなんで、ちょっと気になりましてね」
「あ。……気づかれちゃいました?」
 もちろんですとも。SOS団のメンバーであれば古泉以外の全員の変化を感じ取れるスキルが俺にはありますからね。そんな発見があらゆるルートへの分岐入り口だったことも一度ではないし。
「そっかー。ふふ、キョンくんはやっぱり優しいですね」
 パラシュートなしでもスカイダイブできるような心躍る一言をおっしゃった朝比奈さんは、やっぱりどこかおぼろな眼差しでおどろおどろしい谷口国木田のスリラー的ステップを眺めつつ、
「わたし、いつまでこうしていられるんだろうなぁ……って思って」
 空に飛び立ったばかりの俺の心は急降下して茂みに引っかかった。イタい。
「あ、朝比奈さん?」
 そりゃ遠まわしな別れの挨拶ですか? 未来に帰らないといけないとか。
 朝比奈さんはふるふると首を振って、
「ううん。それはまだ大丈夫。でも……」
 と、NGを起こしたらしき谷口とハルヒが悶着しているのをふんわり眺めながら、
「ずうっとここにいるわけにはいきませんから」
 それはその通りだ。まったくもって。未来から来た人が現在で一生を終えることがあろうはずもない。朝比奈さん(大)の存在がある以上、今ここにいる彼女が未来へ帰ってしまうのは既定事項だからな。この朝比奈さんがそれをどこまで感じ取っているのかは解らないが。
「もう夏ですねぇ」
 朝比奈さんはのん気に言った。山の上の校舎では、街中よりもセミたちの合唱が遥かによく聞こえる。それは進みっぱなしの文明や、この時間の前や後に過去と未来が存在していることなどをすっかり忘れさせ、ひとときの幻想に浸らせてくれる効果を持っている気がした。
 それはもう、完膚なきまでに夏だった。
 だからこそ、ここでたわけた撮影行なんぞしてても熱波にあてられた若者の奇行として済まされようってものなのさ。
「キョンくん。わたし、この時代に生まれてたらよかったなぁってたまに思うんです」
 しみじみと朝比奈さんは言った。思いもよらぬ心情吐露に、俺は思わずまじまじと先輩を見つめてしまう。幾分アンニュイな雰囲気をまとった朝比奈さんは、
「長門さんとか古泉くんとも、立場なんて考えずに会っていれば、もっと楽しかったのかもなぁって……思うんです」
 そうは言っても、もうほとんど一蓮托生の腐れ縁みたいなもんじゃないですか。今さらかしこまるような間柄でもないでしょう。
 朝比奈さんは薄く笑って、
「それはそうなんですけど」
 続きを言いかけた矢先、
「キョン! みくるちゃんも、撮影開始するからこっち来なさい!」
 予告抜きで防災訓練を始めるけたたましいサイレンのような声でハルヒが呼んだ。俺も朝比奈さんも団長命令につられたため、ここでの会話はそれきりになった。



「先ほど何やら話していたようですが」
 ユキと操られたしもべその1と2が渡り廊下で徘徊するという謎のカットを撮り終えた後、次のシーンを朝比奈さんと打ち合わせるハルヒの隙を見て、古泉が話しかけてきた。
 何だお前、俺と朝比奈さんのひそひそ話に嫉妬でもしてんのか。焼き餅なら一人で焼いて食ってろ。正月はまだまだ先だぜ。
「それはまたの機会にしておきましょう」
 と古泉は慣れた口調で俺の冗談を華麗にスルーし、
「僕にひとつの疑問があります」
 何だよ。俺と朝比奈さんが何話してたか知りたかったんじゃないのか。お前もハルヒみたいな脈絡のなさだな。
 古泉はやんわりとツッコミをいなして、
「この映画のことですがね。あなたは来年どうなると思いますか?」
 何かと思えばそんな話か。
「そんな、で済むほど気軽な話題でもないと思いますがね」
 去年と色の違うカラーコンタクトを取り出してはしゃいでいるハルヒを見ながら古泉は、
「朝比奈ミクルの冒険、長門ユキの逆襲……と二作続いた映画ですが、果たしてそれでおしまいでしょうか。あなたの考えを聞きたいところです」
 俺は記憶を引っかき回す。あれは確か、去年の文化祭が終わった直後だ。ハルヒが次回作の構想を練ってて、俺は退屈な授業よりそっちを何ともなしに見ていた覚えがある。
「あー、確か去年の予定ではその後『古泉イツキの覚醒』まで続いてた気がするな」
「三部作ですね。いかにも涼宮さんらしい構成です」
 古泉は自分の学説が正しいことを証明できた大学教授みたいに頷いて、
「ひとつ質問しますが、あなたは涼宮さんが最終作まですべてを撮影すると思いますか?」
 俺は古泉の疑問に適当な相槌を打ちながら、
「そりゃハルヒのことだ。タイトル決めたからには全部撮るとか言い張るだろうよ」
「それではもうひとつ尋ねますが、あなたは来年もSOS団がこのままの状態を維持していられるとお思いですか?」
 古泉は妙に楽しそうに俺に訊いた。続けて、
「何も来年の話でなくともいいのです。夏休み明けでも、年明け以降でもいい。僕たちSOS団は、いったいいつまでこのままの状態を維持できるのでしょうか?」
 まるで自分だけ答えを知っている引っ掛け問題を出しているような表情で、古泉は言った。
 俺が押し黙ったままでいると、
「涼宮さんが神のような力をほとんど無くしてしまっているかもしれない、というのはあなたも知っての通りです。春先の一件以降、まるでその反作用であるかのように、彼女は力の行使をぴたりとやめています。《神人》と閉鎖空間は稀に発生していますがね。通過儀礼的と申しますか、てんで手応えがないので拍子抜けするほどです。ただ佇んで、どこか遠いところへ意識を向けているようにも見えるのですがね」
 何度か聞かされてきた話だ。佐々木が俺に一年ぶりの再会を果たした直後、ハルヒは時系列を真っ二つに分岐させた。あの一週間、ハルヒ本人も含め、世界中の誰もが、異なる時間軸にに二人の自分がいると気づかずに過ごしていた。むろん俺も。古泉や長門、朝比奈さんだって例外じゃない。
 古泉の説明によるところのαとβ。新入生勧誘や長門の急なダウン。橘京子に藤原、周防九曜。そして佐々木。度重なる会合。だぼだぼの制服を着た新入団員、渡橋ヤスミ……。
 もしかしたら、その時にハルヒは残りの力を使い切ってしまったのかもしれない。
 それが古泉の意見だった。俺としちゃ今ひとつ信用ならない考えだ。いくらハルヒの心理の専門家だろうと、観測から得られたデータに基づく一考察を述べているにすぎないしな。それにこの三ヶ月の間、まったく何もなかったわけじゃない。
「ですが、涼宮さんが自ら力を発揮したような出来事は何一つありませんでした」
 古泉は淡々と言った。
「世界が二つに分裂してしまったあの時以外、ね」
 結局何が言いたいんだよお前は。回りくどい話し方は異性にも同性にも嫌われんぞ。
 古泉はほとんど誰もいない夏の校舎を眺め、
「では結論から先に言いましょう。僕にはこの状態がこれから一年以上続くとは思えないのですよ」
 ふたたびハルヒと朝比奈さんへ視線を転じ、
「端的なところではそう。朝比奈さんですね。彼女はもう三年生です。留年でもしない限り、来年はこの学校にはいないはずです」
 至極当然なことを古泉は言ったが、俺はなぜだか意味もなく反発したい気分だった。
「だからどうだってんだ。ハルヒなら朝比奈さんが卒業しちまおうが何だろうか、呼びたい時にはテレポートさせてでも呼び寄せるだろ」
「おや、本当にそうお思いですか? だとしたら僕はあなたをいくぶん過大評価していたかもしれませんね」
 古泉は秀麗な眉目をわずかに動かして、
「あなたは今ここにいる朝比奈さんだけではなく、もう一人の朝比奈さんとも面識がありますね」
 出がらしの熱い茶を出されたような気分になりつつも、俺は首肯する。面識なんてものじゃない。大人版の朝比奈さんに関しては、俺はずいぶんと色んな感慨を持たされてきたからな。
「会ったことがあんのは古泉、お前だってそうだろう」
 古泉もとうとう大人版朝比奈さんとの面会を果たすことになったのは記憶に新しい。それもまた四月の忌まわしき時空分裂がもたらした産物だ。
「その彼女からすれば、今ここで起きていることも含め、すべて過去に起きたことです」
 古泉はしれっと言った。それがどうした。そんなの当たり前だろ。
「しかし、ここで学生をしている朝比奈さんの役目は時間駐在員です。立場は違いますが、僕や長門さんと同じで、涼宮さんを監視することが最初の目的でした」
 急速に記憶が遡行を開始する。
 あれは爽やかな五月の風が吹く小川のベンチだった。絵空事みたいな未来人告白に当時の俺は自分の耳を疑ったが、今にして思えば朝比奈さんは何一つ嘘偽りを述べていなかったわけで。
「今でこそ僕たちはSOS団を最優先に動いていますがね、当時は色々と目まぐるしい動きがあったものです。これについては、いずれはあなたに話せることがあるかもしれませんね」
 縷々(るる)と語る古泉は、
「何にせよ、彼女の役割がこの先もまだしばらく続くのならば、最初からあなたや涼宮さんと同学年に所属しているのが合理的です。何せ未来の彼女は過去の自分が経験したことを知っていますからね」
 俺は「既定事項」の四文字を思い出した。
「それが一つ上の学年にいるということはいったい何を意味しているか。あくまで仮説ですが、近いうちに涼宮さんを巡る騒動は決着を見るのではないか。僕はそう思うのですよ」
 熱帯夜に蚊の羽音が安眠妨害してるような気分になる。
 その仮説とやらにはずいぶん穴が空いてる気がするぜ。たまたま朝比奈さんがひとつ上の学年にいただけなんじゃねえのか。それに未来があやふやだとか言ってたのは確かお前じゃなかったか、古泉。
 古泉はゆるやかに顎を引き、
「ええ。今でもそう思っていますよ。しかしそれとこれとは似て非なる話です。何も朝比奈さんの話に限りまぜん。今や、僕たちを取り巻く環境の多くが、現状の看過を許そうとしなくなっていますから」
 そうか? 相変わらずハルヒは思いつきを片っ端からやってるし、朝比奈さんは愛らしさに磨きがかかる一方だし、長門はまあ……確かに変わったが、それはいいほうの変化だしな。
「長門さんだけではありませんね。表面的な態度だけはそのままでも、内面はずいぶん変化したはずですよ。涼宮さんも、あなたもね」
 すっとぼけたつもりがこいつはマジメな返答しかしたくないらしい。たまにはお笑い芸人のコントでも観に行ってこい。世界が広がるぜ。その後ネタを考えて披露してくれ。
 それでもどうしても己が考えを披瀝したいらしい古泉は、
「我々の道筋が一つの物語だったとするならば、ストーリーは今や佳境と言っても差し支えない時期にさしかかっています。このまま何も起こらないのか、まだ何かあるのか。それは解りませんがね」



 熱波にあてられたみたいな古泉の世迷言は気になるが、だからといって俺がまともに取り合うはずもなく、後の時間を俺はむしろ率先して映画作りに奮戦した。
 午前中一杯をクリエイターの情熱で過ごした俺は、昼前に家に帰って妹とコンビニそばを食べ、荷物をまとめると予備校へ行く支度をした。
 自宅からチャリを飛ばして駅に向かい、なんとか空いてた有料駐輪場に愛車を押し込むと、俺はいつもSOS団の指定待ち合わせ場所となってる広場へ向かった。
「やあキョン。今日もまいってしまう暑さだ」
「まったくだな」
 佐々木と待ち合わせた俺は、天気予報に反して太陽が猛烈に紫外線を放射してるのをやにわに眺めつつ、駅改札口へ歩き出した。



 まさか自分が予備校なんぞに行く身になるとは思いもしなかったが、こうして弱冷房の電車に揺られて都会を目指してると俺も例外なく現代人なのだなといらぬ実感がわく。
「キョン。キミは二学期以降も予備校へ行くんだろう?」
 車内よりもよほどひんやりした声で佐々木が言った。俺はパステルブルーのカットソーがいかにも夏らしい佐々木を見て、
「そうだな。オフクロがあの様子じゃ行かざるをえんだろう」
 今親父を引っぱって実家に帰ってるから顔合わさずに住んでるが、帰ってきたら「それで、どうなの予備校は?」とか訊いてくるに決まっている。高校二年の身の上である以上、来年の今頃には受験勉強という給水所なきマラソンのような日々が始まることは俺にとっての既定事項だ。あの生徒会長とか、コンピ研の元部長氏などはまさに今ごろ走り出しているに違いない。そういや鶴屋さんは進路どうすんのかね。あの人なら今すぐ入試受けても大抵の大学に受かるくらいはやってのけそうな気もするが。
「そうか。なら志望大学も早いうちから検討しておくことを勧めるよ。そうすれば受講すべき科目も瞭然とするだろう」
 まあまず間違いないのは俺が文系大学を志望するってことだな。担任岡部との個別面談で、警察の取調べにシラを切る被疑者のように曖昧な態度しか取れない俺だが、それでもそこだけははっきりしている。
 佐々木は輝く瞳で中吊り広告を見ながら、
「ならば選択もしやすいだろう。国公立か私立かで大きく分かれるが、あとは学力と時間を見て目標を定めればいい」
 一応今でも国公立に行きたいと願ってはいるがな。願望を実現するには相応のアクションを起こさねばならないことくらい俺にだって解る。
「ああ、そういえば涼宮さんはどうするんだい?」
 佐々木があまりに何気なく言ったものだから、一瞬「涼宮さん」が誰のことを指すのか忘れかけた。
「むう」
 ハルヒか。ハルヒね。さてどうなんだろう。そういやあいつとガチで進路の話なんぞしたことがないな。俺の成績が乱気流に巻かれて墜落するのを気にしてるのだけは解るが。実際国語と英語はあいつのおかげでやっとこ平均点に乗っかるようになったしな。
 俺が考えあぐねる様をどう受け取ったのか、佐々木は、
「何にせよ、悔いの残らないようにするのが一番いい。未来は観測された現在に収斂するまで、無限に分岐しうるが、過去に戻ってやり直すことはできない。たとえ時間移動ができたとしてもね」
 タイム・リープなら別だが、と佐々木は冗談めかして言った。
 要するに、高校二年生たる俺はもう一年には戻れないし、一年の時に起きたことはもう変えられない。だから後悔はするな、と。そういうことだろう。
 実際戻りたいとも思ってない。ひとつには後悔を微塵も残さず行動するやつに心当たりがあるからだし、もうひとつにはそいつの思いつきを初めとする一連の出来事の中で、俺が後悔するような行動を取らなかったからだ。俺がこのたわけた人生の中で胸を張れる数少ない事柄である。
「さ、乗り換えだ」
 佐々木は軽い調子で駅のホームへ踏み出した。まるでそのまま時でも渡りそうな足取りだった。



 板書を写すだけでほとんどいっぱいいっぱいな講義を聴き終え、それでも家に帰って三十分ほど復習した自分に功労賞でも送りたい気分に浸りながら、夜の電灯にどうしても群がってしまう羽虫のような心境で、俺はまたSOS団の集まりへ向かった。
 市内の花火大会へ向かった俺たちは、去年以上に和気藹々と夏の夜を満喫した。ハルヒは縁日を片っ端からハシゴして、俺相手の射的やら金魚すくいやらで連戦連勝し、まあこれも宿命かとリンゴ飴やらモダン焼きやらを奢ってやり、朝比奈さんがわたあめ食べてる姿がやたらと愛くるしく、長門は去年よりいくらか口数が増えたように感じ、古泉はむしろ口数減らせとか思うものの、そんなこんなでつまらなかったらウソだろと思うような時間が過ぎていった。
 打ちあがるきらびやかな花火を見上げつつ、俺が考えていたのは昼間の古泉や佐々木の発言についてだった。
 何かが変わり始めている……のか?
 こうして花火見てラムネ飲んで射的やってバカ話したりしてると、こんな日常がいつまでも続いていくような気になっちまうが、悠久の時間が絶えず流れ続ける以上、永遠などどこを探したって見つからんわけで。終わったと思ったらまた初めから壁のペンキを白く塗り直すかのような去年の夏みたいに、無限ループすりゃいいってものでもないしな。



 べらぼうに楽しい夏の夜の余韻に浸りつつも、俺はそんなことを考えながら家に帰り、うすらぼんやりとしているうちに気づけば夜も更けてベッドに潜る時間となる。ノスタルジーと呼ぶには俺はまだあまりに若いし、まだ人生のレールを敷設しそこなったことを国土交通省あたりに直談判したくなるほど年輪を重ねてはいない。
 日はとっくのとうに沈み、空の支配権は月が持ってるってのに、室内温度はむやみに高い。
 あまりの寝苦しさにクーラーのスイッチを入れるか迷ったところで、充電中の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。
「こんな時間に、誰だ?」
 番号非通知でかけているらしい。ロクでもない勧誘の類じゃないかと不審に思った俺は、しばらく放置してみたものの鳴り止む気配がない。仕方なく身をよじって電話に出た。
「もしもし」
『よう』
 一瞬で目が覚めた。
 俺が不快感を催す声暫定首位に君臨しているといっていいだろう。たった一言でも聞き違えるはずもないのは、それが演技じゃないかと思うくらい、相変わらず無駄に悪意めいた声色だったからだ。
 俺が逡巡していたのをどう取ったのか、電話の相手は、
『いい反応だ。それでこそわざわざナイトコールしてやった甲斐があるというものだ。すっかり平和ボケしてるかと思ったが、まだ警戒できるだけの神経が残っていたようだな』
 聞けば聞くほどイライラするこの言い回し、敵対未来人こと藤原に相違ない。
『久しぶり、と言うべきか?』
 どうしてお前が電話してこられるんだ。
 あの時――、さんざめく桜がまだ散って間もない四月中旬の候、旧友佐々木と一年ぶりの再会を果たしたことに端を発する、怪異としか言いようのない時系列の分岐事件。あの一週間、古泉言うところのβルートで俺をさんざん悩ませた会合で、現在の通話相手が浮かべていた憎らしそうな顔が、スピード現像したカラーフィルムのように浮かび上がってくる。そうだ、あの事件はこの未来人野郎が首謀者だったわけで、その目的は涼宮ハルヒの万能全能たる情報改変能力を徹頭徹尾強奪することに他ならなかったわけだ。ハルヒがαルートを発生させ、「新入団員」たる渡橋ヤスミが分岐時系列を融合させる役目を果たさなければ、今頃俺たちはどうなっていたか知れたものではない。少なくとものん気に夏祭りに参加したりしていなかっただろう。それかもしくは、そんな危機感すら持たないほど、記憶そのものをまるごと改変されていた恐れだってある。
「何の用だ。どうして俺の携帯番号知ってやがる」
 眠りかけだった頭に瞬間渇を入れ、ありったけの語気を込めて言ってやる。
 嘲笑するようなかすれた音がして、
『このくらい造作もないことだ。あんたも少しくらい想像がつくだろう? 僕らにしてみれば、この時代の文化なぞおしなべてオモチャみたいなものだ』
 ああそうかい。
 どういう方法でかは知らないが、藤原は俺の番号を知り、今電話してるって寸法らしい。それにしたって解らんのは、この野郎がまた俺たちの時代に来ているらしいってことだ。四次元電話でも開発されたんでない限り、今この世界のどこかからかけているに違いないからな。しかしどうしてだ? こいつの所属していた時間線との連続は途絶えたとかいう話じゃなかったか? 新たな断層が発生したとか言ってたのは朝比奈さん(大)か、その話を聞いた古泉か、どっちか忘れちまったが。もしかしてまたあの周防九曜とかいう意味不明宇宙人と連携を図っているのではないだろうな。だとすれば今すぐ長門と古泉に連絡を取らねばなるまい。などと呻吟していると、
『まあそんなことはどうでもいい。それよりも本題だ。僕からあんたにひとつだけ忠告がある』
 それこそ聞きたくもないね。誰が好きこのんで敵の言葉に耳を貸すってんだ。ことこの場にいたって、俺は織田信長に匹敵する殺意を抱いていると言っていい。あの時の黒い十字架が思い出されたからだ。このケッタイな男が目の前にいたら、渾身のストレートを見舞ってやるってのに。
 ならばせめて通話ボタンを押して電話を切ろうか迷っていると、
『あんたが気づいているのか知らないが、さっさと終わらせたほうがいい。でないとロクなことにならない』
 意味深なことを言いやがったせいで俺はわずかに躊躇してしまい、そのせいで切るタイミングを逸した。
「何のことだ」
『ほう、やはり気がついていないのか。となるとあのお前が愛でてやまない宇宙人もこの事態を知らないんだな。これはいいことを聞いた』
 相手の思い通りに話が進んでいるようで気に食わない。あいにく話術に関して俺は大した自信がない。身近に自分よりうわてなヤツが少なくとも三人はいるからな。しかしこの野郎、電話越しじゃなかったら一発と言わずぶん殴ってやりたいところだ。
『ならば僕からの宿題にしてやろう。言っておくが、今回も猶予はわずか、期限はすぐそこまで迫っている。それまでにどうにかしないとあんたも困ったことになる。僕に関しては――おっと禁則か、残念だったな』
 藤原はすっかり元の嘲笑を取り戻していた。朝比奈さん(大)に感傷的とも取れる発言をした時の様子は、削り残したカツブシほどもありはしない。
「おい、そりゃいった――」
 切れた。
 くそ、いったい何なんだ。これほど腹の立つイタ電はそうそうないぜ。思わず携帯を握りしめた手に力がこもる。
 いっそこのまま長門か古泉に電話しようかとも思ったが、深夜だったし、すぐに行動するのが何となくガキくさい行為のような気がして、とりあえず今晩は何とか腹の虫を治めて眠ることにした。
 実際全然寝付けなかったけどな。

 しかし俺は気がついていなかったのである。
 いったい今何が起きていて、それがどのような弊害をもたらしうるのか。そして、その原因はどこにあって、何をすれば解決できるのか。
 後になって知れども、俺は結局それを解決できなかった。俺の予想や理解を遥かに超えた事態が進行していることなど、まるで思いもしなかったからだ。それは長門も古泉も、どちらの朝比奈さんも、ハルヒや佐々木であろうと同じことだった。



       4
 

 何やら妙な感じがある。
 そう思ったのは目が覚めてから間もない頃だった。変な夢でも見てたんだろうかと思うものの、記憶を辿るほどにピラミッドの地下的大迷宮にさまよいこみ、ついぞ宝にたどり着かぬまま力尽き、屍になっちまうと思ったところで俺は首を振った。
 朝である。違和感とともに俺は目を開けた。
 どうも外が静かだと思ったら、窓の外を曇天の空が覆っている。雨が降ってるらしい。梅雨明けしたってのに嫌な天気だ。夏休みだってのに気が滅入りそうになるね。
 俺は身を起こすと、洗顔なり着がえなり歯磨きなりといった朝の通過儀礼をひとしきり済ませ、携帯を持ってリビングに下りた。昨晩、どうも携帯に着信があったような気が何となくしたのだが、着歴なんぞ残っていなかった。夏の悪夢にうなされる俺の勘違いだろうかね。
 トーストにジャム塗っただけの簡単な朝飯を済ませ、そういや今日はハルヒがSOS団的活動は休みにするとか言ってたことを思い出した。予備校は午後からなので、午前は自由気ままに夏休み的怠惰を存分に堪能もできるのだが、こう悪天候だと大抵の思いつきは実行しないまま霧消してしまう。
「キョンくんお出かけしないのー?」
 無垢なる妹の声に俺は首を振り、
「こんな天気だしな。家で適当に過ごす」
「つまんなーい。ぶー」
 ミヨキチなり他の友達なり呼んだらどうだ。今日ならむしろ奨励してやりたいところだぜ。
「みんなお出かけしてるんだもん」
 ソファーにもたれていた妹は提灯(ちょうちん)みたいにふくれてクッションを投げた。小六とはいえ、男子より精神的成長の早い女子のことだ、妹の友達はさしずめ、母親と買い物か、家族旅行にでも行っているんだろう。うちのオフクロは実家帰省中ゆえ、わが妹が同じ行動を取ることもできまいね。
 せっかくだしたまには兄的ふるまいをして妹を喜ばせてやるのもいいか、と思っていると、

 プルルルルル――、

 自宅の電話が聴きなれた着信音をがなり立てた。
「電話ー」
 妹の声に俺は台所にある子機をひっつかんだが、何となく通話ボタンを押すのがためらわれた。
「キョンくん、出ないの?」
 何か、電話に関して嫌な感覚が身体に残っている。なぜだろう。記憶を参照すれども思い当たる節はない。ここ最近、俺の日常を揺るがす電話といえば、十中八九ハルヒからのものだったしな。本能的忌避、なんて言ってしまえば簡単だが、これまで多くの電話から数々の事件に巻き込まれてきた俺が、とうとうそのような第六感を発露させたのかもしれない。妹の問いかけに俺は何も言わず、通話ボタンを押した。
 受話器をそっと耳に当てる。
「もしもし」
『おはようございます。そしてお久しぶりです』
 一秒で電話を切りたい衝動に駆られた。多幸症みたいにやたらと明るい声。
『あ。もしかして切ろうか迷ってます? でも、あなたも利口な人だから、それが無意味なことくらい解っているでしょう?』
「……橘京子か」
 笑うような気配がして、
『当たりです。こうして電話で話すのは初めてですね』
 そんなの一生来なくてよかったとも。この声を聞いていると、どうしたってあの誘拐事件から始まるネガな記憶の数々が浮かび上がってくる。気を失った朝比奈さんに、スーツ姿の森さん、新川さん。敵対組織たる誘拐犯一味。できることなら海馬組織から抹消したい記憶でもある。それだって春以降徐々に忘れることができていたんだ。あの時、この娘はハルヒの力を佐々木に移せと迫ってきたが、最終的にすべての責任は藤原未来人にあったようだし、あれに関しちゃ橘京子は被害者といってもいいくらいだった。しかし。
「用件は何だ」
『今から例の喫茶店に来てほしいんです。大丈夫、そんなに時間はかかりません』
 断りたい気分百パーだな。この場で済まないのか。
『残念ですけど、そうはいきません。春と同じです。どうしたって避けられないことというのはあるものだから。事は危急を要します』
 湯をぶっかけてから丸一日放置したカップラーメンを食えと言われたような気分で俺は受話器を見つめた。行けというのか? それで想像もしない幸福が訪れる可能性など万に一つもない。しかしこの手の招致が、放っておけばさらなる危機を招くことになるのを俺は知っている。
「解った」せめて古泉に確認を取る必要はあるだろうが。
『ありがとう。それじゃ一時間後に集合で平気ですか?』
 俺は肯定の返事をして、すっぱりと電話を切った。



 妹の「誰からー?」「出かけるの? あたしも行く!」コールをどうにか宥めた俺は、ビニール傘を差すと予備校の荷物を持って家を出た。あの誘拐女のせいで二度も三度も家と駅の間を往復するのは業腹である。だったら初めっから用意してったほうが幾分マシだからな。
 古泉に事務通達のような電話をしたところ、
『行って構いません。少なくとも、あなたや涼宮さん、そして我々にただちに危害が及ぶような事態にはならないでしょう。春以降、「機関」のほうでも警戒態勢を敷き直しましたからね。橘京子はそれを承知してあなたに電話をかけてきたはずですよ。ただでさえ、あちらは数回に渡り失敗を重ねていますから。同じ轍(わだち)を踏むほど愚かではないでしょう』
 とのことだったため、俺は海外旅行前に空港で旅行保険に入った程度には安心感を得られた。
 もしかしたら佐々木や周防九曜、あるいは藤原が一緒にいるではないかと覚悟していたが、果たして例の集合場所に立ってたのは橘京子ただひとりだった。
 灰色空の下でもやけに映える、休日仕様のようなこじゃれた服にツーテールの橘京子は軽く頭を下げて、
「来てくれてありがとう。断られたらどうしようかと思いました」
 断ったら自宅に押しかけて来られそうな雰囲気だったからな。わが家の門戸はSOS団と一部の友人にしか開かれてないんでね。
 橘京子はちょっと頭を振って、
「そうね。そうしていたかもしれません。これでも面会の必要を最小限に抑えているんですよ?……さ、雨の中立ち話もなんですから」
 と言っていつもの喫茶店に俺を先導するのが意味もなく腹立たしい。
 人もまばらな店内に腰を落ち着けた俺は、思わず店内に関係者がいないものかと様子をうかがってしまう。たとえば喜緑江美里さんである。誰もまったく知らないうち、四月が終わる前にはすっかりウェイトレスのバイトを辞めてしまったみたいだが、もはやそのくらいは当然起きてしかるべき現象としか俺には思えないね。あの時はもう完全に長門の代役だったのだろうからな。
 俺はホットコーヒーを頼み、橘京子はカプチーノを注文した。どう見ても普通の女子大生な店員がカウンターに引き返すと、橘京子は静かに話し始めた。
「佐々木さんのことなんですけど」
 こいつから佐々木の名を聞くたびにいらぬ悪寒が背筋を走りぬけるのは何とかならんものか。反対に、佐々木と話すたびこいつらの影が頭にチラつくのもだ。
 意識的に渋面を作った俺に構わず、橘京子は、
「涼宮さんの力、やっぱり移す気にはなりませんか?」
 またその話か。まるでしつこい保険営業のセールスレディである。
「さんざん言ったはずだろ。ない」
 佐々木だけならまだしも、そっち側の宇宙人未来人超能力者には一厘の信頼も置いちゃいない。そもそも初めからマイナスだった信頼値は、回を増すごとに減る一方だ。人間には相性ってものがあるからな。不適の組み合わせではどれだけ歩み寄ろうとしたところで反発する運命なのさ。
 橘京子が溜息をついた。三分ばかり俺たちが無言でいると、ソーサーに乗った二つのカップが運ばれてきた。粛々と立ち去る店員が俺と橘京子をチラッと見たのがなんか癪だ。いったいどんな場面に見えているのだろう。
 俺はブラックのままでコーヒーを一口啜った。心情を体現したかのような苦味が口いっぱいに広がる。俺は商談が肩透かしだった顧客企業役員のような心持ちで壁の時計を見つめた。
「用件ってなそれだけか。だったらもう帰らせてもらうが」
「待って!」
 橘京子は悲痛さを感じさせるような声で、
「このままじゃ危ないんです」
 そりゃどういう意味だ。
「言葉通りよ。あなたは気づいていないかもしれませんが、今、また世界が危機に瀕しているの」
 どうやら保険誘致の手段をカルト宗教めいた方面からのアプローチにシフトさせたいらしい。あいにく俺は終末思想の持ち主でも何でもないから、若者を破滅させる謎組織の甘言などに易々と乗ったりはしない。
 怪訝そうにする俺に対し、やけに殊勝な様子の橘京子は、
「見てもらえば解ります」
 そう言って片手を伸ばし、
「手を出してもらえませんか」
 コーヒーの苦味が増した気がした。またあの何も存在しないアイボリー空間に連れてく気か。異空間デートが趣味なんじゃねえのか、こいつは。
「お願いします。手遅れになってからじゃ困るから……」
 同情する気はまったくない。何つっても、前回はこいつの案内で死刑台にひきずりこまれそうになったからな。渡橋ヤスミや古泉、大人版朝比奈さんたち、そして何より団長じきじきの助けがなかったら、問答無用であの時俺の人生は終わりを迎えていただろう。
「うう。でもあれは、あたしもあんなことになるなんて思わなかったもの」
 被害者の会に列席する乙女のような表情は、確かに気の毒ではあるのだろう。結局あの時、こいつは終始藤原に利用されっぱなしだったみたいだし。しかしそれがきっかけでハルヒも俺も地面に真っ逆様だったんだから、業務上過失致死の半歩手前まで導いたのは、やはりこいつの仕業でもあると言えるだろう。
 しかし、それでも俺が手を差し出す気になったのは、近頃佐々木が折に触れてこいつとどこかへ出かけ、普通の女子高生のように楽しんでいる話を聞いていたからかもしれない。藤原とは違い、心根では有無を言わさぬ手段に打って出たりするようなヤツでないことは、さしもの俺も経験則から心得ているところだった。
 橘京子はほんの一瞬表情を明るくして、それから何とか元通りに戻そうと慌てて繕いなおした。両手で俺の手を包み、
「目を」
 俺は例によって目を閉じる。毎度思うんだが、どうして目を閉じる必要があるんだろうな。その間にヘンテコなポーズでも取ってるのか? 変身ヒーローじゃあるまいし。
 余計なこと考えているうち、不可視の圧力が五感の外側を通り抜けるような感じがして、
「もういいです」
 目を開けると、およそ三ヶ月ぶりに訪れる無人世界が、喫茶店の中から外まで広がっていた。
 人もコーヒーカップもBGMもない。がらんどうの店内には、ゴーストタウンの象徴みたいな人工灯が点いているだけだ。
「外へ来てください」
 先に店内から出て行く超能力少女の後姿を見ながら、さて本当に大丈夫だったのだろうかと今さらのように思った。たとえばここに橘京子の一味が待ち受けていて、俺をフクロにしようが何しようが、こうなっては思いのままである。そうして人は変な詐欺に引っかかるのかもな。つい何となく、ってやつだ。好奇心は猫を殺す。
「これは……?」
 そこだけ平常営業みたいな自動ドアを出て街へ出た瞬間、俺は以前ここへ来たときと様子が異なっていることに気がついた。
 一面クリーム色だったはずの空が、部分的に色あせたみたいにモノクロになっている。そうだな、まるで誰かが映像の編集をミスって、ところどころ色素を消しちまったみたいな感じだ。それかもしくは、カラーフィルムを長いこと日に晒した後のような。
「こりゃあいったい」
 異常事態といえば、ハルヒと佐々木の閉鎖空間が混合し、トップレベルの混沌と無秩序を形成していたあの時がダントツかもしれないが、これはこれで異様な状態だということが、背筋を伝う冷たい痺れを通じて感じ取れた。
 橘京子は往来のない道路へ一歩踏み出して空を見上げ、
「あたしも最近気がつきました」
 それから、悲愴的なシーンをソロで演じる舞台女優のようにくるりと振り向いた。
「最初にあなたをここへ連れてきた時には言いませんでしたけど、前にもこんなことがあって」
 そりゃ一体いつだ、と俺が言う前に、
「去年の五月と十二月です」
 脳髄に電撃が走ったみたいにピンときた。
「その時に何があったか、あなたは知っているでしょう?」
 去年の五月と十二月に何があったか?
 言うまでもない。五月にはハルヒが、十二月には長門がそれぞれ世界をまるごと危機的状況に陥らせた。その間、まさしく元の世界は危機に陥っていたと言えるだろう、何せ俺が誠心誠意アクションを起こさなければ、そのままゲームオーバーになっていたんだからな。
 橘京子は世界戦争が明日始まるかのような憂い顔で、
「だからあたしは佐々木さんに力を移してほしかった。これはあたしの予感ですけど、たぶん、この場所から色がすべてなくなってしまったら、世界はまるごとなくなってしまうか、入れ替わってしまうのです」
 まるで去年の古泉みたいなセリフを言った橘京子は、
「過去にあったことはこの際置いておきます。でも、問題は今こうして世界が危機に瀕しているってこと」
 俺はウソだろと言いたくなる。
「世界が危機に瀕してるだと? んなはずがあるか。ハルヒの力は春以降まるで発揮されていないはずじゃないか」
 古泉はそう言っていた。実際閉鎖空間も《神人》もほとんど音沙汰がなく、このままあいつは役目を終えるのかもしれない……と。
「あたしもそう思ってました。もしかしたらこのまま落ち着くのかもしれないって。それならそれでいいのかも、って」
 でも、と橘京子はいつものSOS団御用達集合地点を見つめ、
「そうじゃありませんでした。これで危機は四回目です。たった一年と少しの間に、四回も」
 そのうち一回はお前たちが原因だったじゃねえか。
 橘京子は、真相を看破され、立つ瀬がない状況に追い込まれて自害するか迷っている真犯人のように、
「それは謝るわ。ごめんなさい。本当に悪かったと思っているの。だから、あれからしばらく、あたしたちは様子を見ていました。藤原さんがしたみたいに無理矢理じゃダメなんだって解ったから」
 そしたら、と橘京子。
「佐々木さんに力を移さなくても平気なのかも、って思いはじめた矢先です。気がついたらこうなっていました。涼宮さんにずっと力を持たせていた結果」
 まるで責任転嫁されてるような気分だ。だから、ちょっと待てよ。ハルヒは別に何も現状に不満を抱いたりしていないはずだぜ。俺の見立てではな、あの終末的年末以来、ハルヒは一度だって世界を変えたり壊したり作り直したりしたいとこれっぽっちも思ってやしないはずなんだよ。それはあの一周年記念プレゼントを俺自ら団長に進呈した時のハルヒの表情を見れば一目瞭然さ。写真に収めてこの場に持ってくればよかったか。心のアルバムにはばっちり収めているんだがな。まして、今回はお前たちが強引に俺たちの日常に副振動を起こしたりもしていないじゃないか。
「世界の危機なんてのはお前たちの勝手な思い込みなんじゃないのか」
「そんなことありません。事実、この状態になった二回とも、この世界は窮地に立っていたでしょう?」
 そんなことを言われても困る。なにせ俺はその二回ともこっちの空間にはいなかったからな。信じようにも情報が不確かすぎる。ゴシップ紙の風評を鵜呑みにするほど俺は能天気な頭の造りをしていない。
 すると橘京子は十メートル先からでも解るくらいはっきりと溜息をついて、
「あたしが何を言ってもあなたは信じてくれないでしょうから。せめてと思ってこれを見せたんですけど……。やっぱり結果は同じなのでしょうか」
 独り言のようにつぶやいた橘京子は店内へ歩き出した。
「戻りましょう。あなたにこれ以上時間を取らせても仕方がないもの」
 それから橘京子と俺は春のリピート放送的行動で店内に舞い戻り、元いた世界に帰ってきた。
 当たり前だが、店内には人も音楽も活気も戻ってきている。正常値だ。
「ひとつ訊いていいか」
 俺はコーヒーが冷めていないことを指で確認して、
「さっきの空間は佐々木の内面を反映したものなんだよな。ならどうして世界の危機に応じて変色したりするんだ」
 仮説ですけど、と橘京子は前置きして、
「たぶん、涼宮さんの力に反応してるんだと思います。もともと佐々木さんに力が行く可能性だってあったんだから、不自然じゃないでしょう?」
 俺は答案に三角を朱入れされたような気分になりながら、
「佐々木は知ってるのか?」
 橘京子は頷いて、
「春にあたしが教えました。あ、佐々木さんの方から訊いてきたんです」
 俺がどんな表情をしていたのか、橘京子はそう付言した。
「今回も知ってます。佐々木さんはあれからもずっと力の授受を拒んでいるけど……涼宮さんよりはよっぽど的確だと今でもあたしは思ってます。あなたさえ同意してくれれば」
 それから後は大した会話もなく面会は終了した。
 しかしだな。
 橘京子がどれだけ真摯に訴えようとも、俺の姿勢は揺らいだりしない。
 だいたい、本人が望んでもないのに佐々木へハルヒの謎力を移すってのがそもそも俺には解せないし、移したところでハルヒのように《神人》を生み出したり何も起こしたりしないという保障はどこにもないのだ。それならばやはり、いかなる問題が起きようとも、責任を持ってSOS団全員で解決を図りたいところだ。実際今までそうしてきたのだ。古泉だって同意見だろう。佐々木もそうだが、俺とつるんだ経験のある連中ってのはほぼ例外なくどこかしら頑固なのさ。意志の強さって意味では今時ちょっと珍しいんじゃないかね。



 解散する頃には晴れ間が覗いていたが、俺の心中はそう穏やかにはならない。
 適当に時間を潰して昼飯を食べ、午後にふたたび例の待ち合わせ場所へ向かう。残り期間が少しずつ目減りする高校生活のうちに、いったいあと何回ここを利用するんだろうとか思いながら。
 佐々木は普段とまったく変わらぬ様子で俺を待っていた。てっきり橘京子と会った話を振ってくるのかと思いきやそんなことはなく、話題もいつもの佐々木らしい、難しかったり賢しかったりする内容で、その様子に俺は心底安堵する。
「キョン。人が二つの場所に同時存在することはできると思うかい?」
 予備校の講義がひとつ終わった合間、ファミレスで軽食を取ってる時に、佐々木はふとそんなことを言った。
 何の質問かと思いつつも、俺はこの一年あまりの経験から自分なりに考え、こう答えた。
「時間移動すればできるんじゃないか? たとえば一週間後の俺がこの時間に来たら、二つの場所に俺がそれぞれいることも可能になるだろ」
 佐々木は理想的な生徒を得た教師のように笑って、
「いい答えだ。実際僕らの近くには未来人もいることだしね」
 ぎくりとするようなことを言ってから、
「しかし僕が言っているのはそういうことではなく、今ここにいるキミが二つの場所に同時に現れることは可能か? ってことさ」
「そりゃどういうこった。俺が分身の術でも使って二人になれるかって意味か?」
 佐々木は静かに頷いて、
「まあ起きている現象としてはそれで構わない」
 俺はほとんど考えなしに、
「そりゃできないだろ。まして俺みたいななんの特殊技能もない一般人じゃなおさらな」
 ガキの頃はまったヒーローものなんかは四人くらいに分身してた気がするが。アレが使えたらさぞ楽しかろうと心躍った少年時代を思い出す。ポーズを真似たり秘密基地作って遊ぶくらいには憧れを抱いたのは何も俺だけじゃないと思うね。
 佐々木はこくっと頷き、
「そう。僕らのようにマクロな存在では普通そんなことは起こらない。しかし、それがミクロの領域になると話は変わってくる。同じ存在が二つの場所を同時に通り抜けるということが起こりうるのさ」
 俺は咄嗟に理解が追いつかない。頭痛が起きそうになるのを何とかこらえ、
「何だ、つまりそのミクロの世界では、物体が分身の術を体得してるってのか」
「そのようにふるまうのさ。量子力学に二重スリット実験というものがあってね。そこでは一つであるはずの電子が、二つの場所を同時に通り抜けることができる。通った電子がどこに到達したのかは、観測によって初めて確認できる。しかし、観測するまではどちらを通るのか確定していない。ゆえに両方の状態が『共存している』んだ」
 さっきの予備校の講義よりも理解しがたい内容だな。
 俺が返す言葉を持たないでいると、佐々木はクックッと笑って、
「解りやすく置き換えてみよう。例えばキョン、キミはさっきパスタとドリアのどちらを注文するか迷っていただろう?」
 ああ。どっちも食べたい気分だったからな。結局ドリアにしたが。
「そうだったね。しかし、もしかしたら別の世界にパスタを頼んだキミが存在しているかもしれないのさ」
 俺は眉を寄せ、
「んなアホな。俺はここにしかいないし、実際ドリアを頼んだぜ」
 佐々木はもっともだと言うようにクスクス笑いをして、
「そう、キミはドリアを注文したキミ自身を知っている。ゆえにキミはパスタを頼んだキミを観測できないのさ。すでにこちら側の結果を知っているからね。片方を知るともう片方を見ることはできない」
 俺はすでに空になったドリアの浅皿を見つめながら、佐々木の言葉に耳を傾ける。
「問題なのは、あちら側。つまりパスタを頼んだほうのキミが、本当に存在するのかしないのかということだ。……それにはいくつか説があって、いまだに結論が出ていない。どちらであっても不都合がないからね。仮に存在していたところで、ここにいるキミはあちらの側に手出しすることはできない。逆もまたしかりだ」
 俺はまる二十秒ほどかけて何とか考えを整理した。
「あー。つまり、考えようによっちゃパスタを頼んだ俺がどっかにいるかもしれないってことか?」
「そういうことだ。むろん僕らにそれを知るすべはないがね。いわゆる多世界解釈というやつさ」
 佐々木はアイスティーを一口飲んで、
「さて最後に、キミがどちらを注文するか迷っていた時点に話を戻そう。世界が分岐してもしなくても、キミがメニューを見て迷っていたあの時点では、どちらの未来も存在していたことになるだろう?」
 確かに五分五分だったが。
「それと同じことさ。これも両方の状態が『共存している』と言える」
 今ひとつ納得しがたい内容に俺は頭を捻った。何があろうと理系だけは志すまい。
「結局何が言いたいかというと」佐々木はグラスを指で弾き、
「未来は確定していない。現在の行動次第でどのようにも変化する」
 佐々木の話を聞いて俺が思い出したのは、他ならぬ四月の世界分裂騒動である。あの一週間に限れば、まさしく二人の俺がそれぞれの時間に存在していた。最終的に融合したわけだが、佐々木が言ってるのはおそらくそういうニュアンスではないかとアタリをつけた。ただまあ、あれは何といってもハルヒによるものだったし、佐々木の話とは異なり、双方の自分を結果的に俺は観測してしまったことになる。しかし、通常の人間が異なる二つの時間を生き、それを両方知るなんてことがそうした作為なしに起きるはずはないから、佐々木が言っているのは厳密にはあれとも異なる事象なのだろう。



 数学の講義に佐々木の物理話。双方からダブルパンチを受けた俺は、午前中に橘京子が世界の危機を憂っていたことなどほとんど忘れかけていた。実際何かの間違いだったんじゃなかろうか。それだけ俺にとっちゃ信憑性に欠ける話だったってことだが。何せ事件の気配がまるでないからな。
 そんなこんなで、殺人的スケジュールの夜間映画撮影で一日をしめくくった俺は、まるでいつもと変わらぬハルヒの様子を思い出しながら、夏の夜を心地よくチャリこいで帰っていたが、
「帰ってきたか」
 自宅前に立っていた人物を見て、すべてが吹き飛んだ。
「お前は……!」
 まるで死者の沼地から這いずり出てきたみたいな不穏さをともない、忘れようにも忘れられない趣味の悪さを持ち味とするその男は、影を縫うような静けさとともに登場した。
 藤原。敵対未来人。
「ずいぶん遅い帰りだな。別に待っちゃいないが。僕もあんたも無駄話は嫌いだろう。だから手短に用件だけ言って退散するとしよう」
 俺が何を言うよりも早く、藤原は歪んだ表情でそう告げた。
 待て待て。どういうことだ。あまりにも突然の登壇すぎて、腰を抜かす暇も顎を落とす余裕もなかったぞ。
「なぜお前がここにいる……」
 春以来とんと音沙汰のなかったこの男、藤原の悪意めいた冷笑顔は、俺の体温をただちに二度下げるのに十分な効力を発揮した。この未来人の頭に血が上るあまり、前後の見境もなくなり、周防九曜に半ば強引な命令を下して、ハルヒを黒十字架に磔(はりつけ)にした記憶は今なお風化してはいない。
 彼の所属する未来との時間線が途切れたようです――確か古泉の言葉だったか、あれは。
 件の愚行を契機として、この野郎は俺たちの時代に来ることができなくなったって話じゃなかったか? それがどうしてここにのこのこ現れていやがる。ただちに連絡すべきは誰だ。古泉か、朝比奈さん(大)か、長門でもいい。とにかく一人で対峙すべき相手ではない。
 俺の表情をどう取ったのか、藤原は失笑するような空気を口の端から漏らした。
「下らない想像を巡らせる前に言っておいてやる。僕は誰かを殺すためにここにいるわけじゃない。無論あんたとたわけたディベートに没頭する気も毛頭ない。ただのメッセンジャーだ」
 信じられるかっつう話だ。俺的ブラックリストの中で、文句なしにお前は筆頭、最重要注意人物に挙げられるからな。アブナイ妄想にふける中学二年生男子のほうがまだ可愛げがあるぜ。
 しかし藤原は俺の闘志に油を注いだことなど露知らず、
「橘京子からも似たような話を聞いているかもしれないが、今時空が不安定になっている」
「何の話だ」
 とっさにシラを切った俺に藤原はからかうような笑い方で、
「しらばっくれても無意味だ。僕は事実しか言わない。あんたがあの超能力女と昼間会っていたことくらい知っている」
 腹の立つことに何もかもお見通しらしい。俺にできるのはあらん限りの怒りを表情と視線に込めてぶつけてやることくらいだ。
 しかしそんな俺の殺意的オーラにもてんで取り合わない様子の未来人野郎は、
「いいか。あんたしかこの状況を収束させることはできない。そしてすべての原因はお前たちにある」
 本当に、登場するたび何だこいつはと言わないわけにはいかん。いきなり人んちの門前に現れたと思ったら、また意味不明なことを言い出しやがる。古泉、ちょっと来てこいつに赤玉をぶっ放してくれないか。
 俺は知らないあいだに握りしめていた拳が、わなわなと震えていることに気がついた。ハルヒ殺害未遂は、一生かけて謝罪されたところで許しえない暴挙だ。
 藤原はとことんまでに涼しい顔で街灯を見上げていた。その様子は、何か諦観しているようですらある。
「問題は、『今ここにいるあんた』が解決できるのかってことだ。僕は事実を知り、こうして忠告をしたが、これで無事に収まるとはとてもじゃないが思えない。ランダムかつ無限の試行によって複製されたSTCデータを収束させられる存在がいるなど人知を超えているからな。それともあんたがそれを可能とするのか?」
「何のことを言ってんだ。さっぱり解らねえぞ。忠告とか言ったが、だったらもっと人に解るよう説明しやがれ!」
 思いのほか言葉のほうも乱暴になってしまったことには俺自身が驚いた。
 藤原はさもついでのように、
「面倒だが仕方ない。一度しか言わないからよく聞け。三日前、七月二十七日から現在までの時間が無限に拡散し、それ以降の世界が並列存在している。原因は不明だ。そこから先はあんたが考えろ。これは義務だ」



       5
 

 なにやら妙な感じがある。
 そう気づいたのは目が覚めてすぐ。曇天が太陽をまるっきり隠していて、小雨が嫌な感じにぱらついてるのを知った後だ。
「何だ、この感覚は」
 この三日ばかり、奇妙な感覚が胸の中でふくらみ、次第に大きくなりつつある。
 似たようなざわめきを感じたことはこれまでにも何度かあった。
 たとえば去年の夏だ。ハルヒが延々夏休みをループさせ、既視感に襲われたあの時。一万何千回も繰り返した記憶の残滓が、俺や古泉に奇妙な違和感を与えていた。
 他にもある。昨年末、雪山で謎館に閉じ込められた時も、違和感としか言いようのない、得体の知れない感覚に包まれた。あれは常識じゃ考えられないような異空間に強制参加イベントのように迷い込んでしまったからだろうか。天蓋領域と周防九曜。
 どっちも、結果的に日常では決して起こらない不可思議現象が起きていたわけで。その最中、俺はまるで他人の服を着ているみたいな気持ちの悪さを感じたものだった。
 それも含め、今まで数々のオドロキに遭遇してきた俺の勘が、何かただならぬ事態が起きていそうだと警告を発しているのだ。
「キョンくん、どしたの?」
 俺が作った目玉焼きをぱくりと食べながら妹が言った。どした。俺の顔に何かついてたか。
「なんかむずかしいお顔してる」
 俺は眉間をさすって、自分が仁王像ばりの仏頂面をしていたことに気づいた。所帯持ちの中間管理職サラリーマンじゃあるまいし、わざわざ朝っぱらから確認もできないことで悩む必要もないだろう。
 しかし肌で感じるこの妙な質感だけはいかんともしがたい。既視感のようであってそうではなく、じゃあ何かと問われても簡単には答えられない。
 何だろうな。あえて言えば……そうだ。春にハルヒが時間をすっぱり真っ二つにした時、時系列が元に戻った直後に感じたあの記憶錯誤に近い。が、それともまた違うというか……。
「ああ解らん」
 俺は空になった食器を台所に運び、苛立ちを紛らわすために洗い物をした。オフクロが親父を引き連れて実家に帰省中の留守番時くらい、家庭に貢献するのも悪くない。
 俺は五分ほどかけて食器の汚れを落としていったが、それでも胸中にわだかまる違和感は消えなかった。それどころか、だんだん直感が確信に変わりつつある。俺の知らないところで、何かがまた起きているのだ。たぶん。
 いびつなイメージが浮かんでは消える。映画撮影、未来人、時系列、分岐点、予備校。
 ハルヒはここ数日俺たちSOS団とその関係者を巻き込んで映画撮影を行っていたが、停車駅のない弾丸特急みたいなスケジュールは今日だけ中日で休みだ。それなのに、どういうわけか今日も撮影があるような気がするのだ。まるで今にもハルヒから「何遅刻してんのよキョン! 罰金三倍!」とかいう電話がかかってきそうな……。
「電話?」
 また何か、脳の端っこを羽毛でくすぐられているような引っ掛かりがある。何だ。電話を通して何かあったのか?
 思い出せない。つうか、そもそもそんな記憶はない。ないものを持ってくるのは手品師だって不可能だ。俺たちの目には不思議としか映らないマジックだって、あれはあらかじめタネを仕込んでいるからできることだろう。しかし今の俺にはタネもなければアイディアが発芽することもなく、とっかかりになるような出来事も何一つなかった。



 午前中は予備校の予習でもしようかとらしくないことを考えていたが、目覚めた途端、こうも乗り物酔いみたいな気持ち悪さがあるのでは意気消沈してしまう。
 部屋に戻って無駄に大きい音で洋楽を聴いても気は晴れず、リビングでテレビでも見てれば気が紛れるかとチャンネルをザッピングするも効果はなく、それなら近くのコンビニにでも行くかと思った俺は、着替えを済ませて家を出た。
「来たか」
 あんまりにも不意打ちすぎていかなるリアクションも取れなかったのはもしかしたら正解だったのかもしれん。
「お前……」
 瞬間沸騰する高性能湯沸かし器があるんだとすれば、今の俺みたいな速度で加熱するに違いない。
「久しぶりだな。少なくともあんたにとっちゃそうだろう」
「何しに来た」
 名前を言うのすらはばかりたい未来人野郎。春以降水を打ったみたいにとんと行方知れずだったが、それと同じくらい再登場にも前触れってものがない。それが未来流の挨拶なんだとすれば現代人には通用しないから今すぐやめろ。
 沸騰した俺の頭から、気泡が発するようにこの男の愚行の数々が蘇ってくる。しかし野郎は熊野古道みたいな清涼感すら感じさせる顔で、
「そんなことはどうでもいい。僕はあんたに忠告しに来た。それ以外に何の用もない」
 俺からすればお前に用なんざひとつもないね。ぶん殴られる前に今すぐ帰りやがれ。
 シンパシーという概念が欠落しているらしい目の前の男は歪んだ笑みを隠そうともせずに、
「ふ。く、く。僕がいなければあんたは答えの出ない迷宮をいつまでも彷徨うことになる。まあもっとも、あんたがこれを聞いたところで事態が解決する可能性は限りなくゼロに近いが」
 どっちだよ。つか、お前一人で勝手に納得して話を進めるな。
「何の話だ」
 万感の怒りを多いなる理性と共に制御し、俺がやっとそれだけ言うと、藤原はさも面倒くさそうに嘆息した。
「今。具体的には七月二十七日から現在まで。その間の世界が無数に拡散している。あんたが春に知覚したアレのもっと規模が大きい事態と考えればいい。あの時は二つに分岐し、一つに収束したが、今回は数え切れないほど多くに分かれている。何と言っても決定的に厄介なのは、収束する見込みがまったくないことだ。通常、派生した時間は異なるアプローチを経て大きな主流に戻る。しかしこの時間から発生したそれは、枝分かれをやめようとしない。おかげで僕がこんな限定メッセンジャーみたいなことをしているというわけだ」
 春の分岐の原因をハルヒに作らせることになったきっかけが自分であることなど度外視しているかのような物言いには呆れるよりも感心してしまいそうなくらいだ。
 いや待て。お前は何のことを言ってるんだ。さっぱり解らねえぞ。
 藤原は俺の反応を予期していたかのようなそっけなさで、
「あんたには奇妙な感覚があるはずだ。何かが発生していることを肌で感じる妙とでも言えばいいか。この時代の人類にもそんな原始的生体機能は発現していると聞く。そしてあの宇宙人の言うことを信じるなら、この場所、そして時間は発信源にほど近い。僕がこうしてわざわざ出向いてきてやったのは、隣の世界に干渉の波を起こすのが目的だ。起こした奴らに気づかせてやらなきゃならない。解決しうるとすれば、その時間軸にいる連中にしかできないことだからだ」
 まったく解らない。理解しきらないまま、俺は間を持たせるために適当な質問をしてみた。
「どうしてそんなことが起こってるんだ。あの宇宙人が暴走したとかそんなのか」
 俺の当て推量に藤原はガス漏れみたいな音を出して、
「これだから過去の人間の相手は嫌だ」とあからさまに聞こえる愚痴を漏らし、
「原因は不明だ。あんたが突き止めろ。非常におかしなことだが、どうもあんたしか事態を収めることができない。どうもそういうことらしい」
「お前は未来人なんだろ。起こることを知ってんなら何とかできるんじゃねえのが」
「あんたも大概理解が遅い。TPDDやSTC理論についてずいぶん知識を得たはずなのにまだそんなことを言っているのか? そんなことが可能だったら僕がここに来てあんたにこんな話をする理由がないとは考えないのか? 反吐が出る愚鈍さだ」
 押し問答めいた応酬に、俺は早くも辟易してきていた。ダメだ。こいつとは未来永劫、意思の疎通が成立しそうにない。
「どうしろってんだよ」
「あんたが思う行動を取ればいい。僕は最低限の既定を満たしただけだ」
 そう言うと藤原は踵を返して歩き出した。角を曲がる。
「おい待てよ! んな無責任な話があるか。おい!」
 俺がそこまで追いかけた時には、未来人の姿は忽然と消えていた。さも散歩のついでに時間移動してるかのようだ。
 小雨の降り続く道路を眺めたまま、俺は藤原が言ったことをゆっくりと反芻する。あいつは何て言った…………世界が拡散してる?
 「起こした奴ら」とも言ってたな。どういうこった。誰か犯人がいるってのか。あいつの様子からして、罠を仕組んでいるようにも見えなかったが。どちらかっつうと道に迷って交番を訪ねるみたいな雰囲気が言外に感じられた。苛立ってたのはそのせいか。
「さて」
 俺はあいつが最後に言ったことも思い出す。
 あんたが思う行動を取れ――ね。いつか、どこかで聞いたような言葉だぜ。
 俺は熟考の末、一つの結論を得た。
 


「それで僕たちを呼んだと、そういうことですか」
 すっかり指定宿場と化した喫茶店で、俺はさきほどの顛末を洗いざらい話した。集まったのはハルヒを除くSOS団の面々だ。
 数々の難所をかいくぐってきた俺が、これまでの直観と知識を総動員して得た結論はひとつ。「仲間に頼れ」ってなものだった。我ながら不甲斐なさの極みのような涙ちょちょ切れるファイナルアンサーだが、誰の協力も仰がずへばっちまってゲームオーバーになるより、まだしも文殊の知恵を使って奮戦するほうがいいだろう。三人寄らば文殊の知恵なら、四人集まればそれ以上の天啓が舞い降りるに違いない。
「……」
 心地よさすら感じる長門の無言も、すぐには事態を飲み込めてない(俺だってそうだが)風情の朝比奈さんのお姿も、俺よりはよほどデキのいい頭を回転させてるだろう古泉のハンサム面も、俺にとっちゃどこの専門家や学術的権威より頼もしい。
「あなたが藤原氏から聞いた話によれば、今現在、世界が数多に分岐し、収拾のつかない状態になっている。と、そういうことでしょうか」
 本当にそうなのかは解らんがな。だがここ数日妙な感じがずっとしてたのは事実だ。初めはちょっとした違和感でしかなかったが、今となっちゃとても無視できない大きさになっている。
 古泉は両手を組んで、
「僕もですよ。去年の夏休みにとてもよく似た感覚ですね。経験したはずのない記憶とでも言いましょうか、その片鱗のようなものです。映画撮影や花火大会などで立てこんでいましたから、その都度浮かんでは消えていましたが」
 俺も同じだ。あの未来人が現れなかったらこのまましばらく放っておいただろうな。
「朝比奈さんはどうです? 何か『変な感じ』がこの数日ありませんでしたか」
 朝比奈さんは考えている途中で話を振られたためか、びびくんと小動物っぽく跳ね上がって、
「あっあの、わたしもそのぅ……映画の時とかに、違う場所で歌ったりとか、涼宮さんにお話の続きをどっちがいいか選んでって言われたような……そんなことなかったと思うんですけど……うーん」
 朝比奈さんはそう言って可愛らしく首を傾げた。
「その未来人さんはあたしより色々なことを知ってるんですね」
 などと悠長なことをおっしゃるのも朝比奈さんならではだ。同じ未来人なんだし、ほんとならこの人も知ってるべきなんじゃないのか、などと思ったりするものか。
「長門、お前はどうだ?」
 長門はテーブルの一点に落としていた視線をつと上げて、
「わたしには解らない」
 と言った後で、
「しかし、あなたと同じように、わたしもまた記憶に錯謬(さくびゅう)を感じている」
 俺がぽかんと口を開けたままでいると、
「デジャブのようなもの」
 と長門は平易な表現に置き換えた。やっぱり同じか、お前も。
 ちなみに、長門がこの事態を「解らない」と言ったことに俺は特別な驚きを感じたりはしなかった。
 なぜって、こいつはもう長いこと親玉との連結を解除してるからだ。自律軌道。すなわち、長門には長門個人の力しか今はなく、しかもその宇宙的な能力すら、近頃はどうも弱まってきていると俺は感じていて、どうやら古泉もそう思っているらしかった。今となっちゃあの呪文やら瞬間移動やら防護スクリーンですら使えるか微妙なところだと俺は思っている。
「その未来人氏の言葉で特に気になるのは、あなたにしか事態を収めることができない、という点ですね」
 古泉は解決すべき難題と十分な手がかりを与えられた名探偵みたいに気取った仕草で、
「たとえ未来人であっても、彼が世界の拡散を知っているだけではダメだった、ということになります。もしかしたら、原因はこの世界にはないのかもしれませんね。それかもしくは、あなたが何らかのアクションを起こすことで時空の拡散が収束する。そういうことかもしれません。どちらもあの未来人氏単独ではできないことです」
 そうは言うがな古泉。俺に何の力もないのはお前にだって散々解ってることだろ。
 古泉は片手を上向けて、
「しかし、世界が本格的な危機に直面した際、そのすべてを解決してきたのがあなたであることもまた事実なのですよ」
 俺は灰色空間やら改変世界やら時系列分岐で起きたあれこれを思い出す。確かにその時は俺以外に適役がいなかったかもしれんが。
「僕や朝比奈さんや長門さんではNGでしたからね。僕たちではあなたの助力にこそなれど、主力にはなれません。さて、それがなぜなのか、ここまで来てあなたに解答が導き出せないとは思えませんが、いかがでしょうか?」
 1+1がいくつになるのか質問されてるような気分だった。俺は何も考えず、
「ハルヒが絡んでるってのか」
 古泉は満足げなスマイル面で、
「ご名答です。でなければ未来人氏があなたにわざわざ忠言を携え、あらゆる反感を抱かれることを承知で現代に再登場するようなこともないでしょうからね」
 俺はすっかり氷が解けて希釈されたアイスコーヒーを飲んだ。俺の心中は今まさにこんな感じだ。
「世界の拡散などという、これまででも群を抜いて桁違いなことをできるのは涼宮さん以外にいませんよ。……それとも。長門さん、もしかして情報統合思念体にはそのようなことが可能なんでしょうか?」
 長門は肯定も否定もしなかった代わりに、視線を俺に向けた。何となく「答えるまでもない」と言ってるように思える。
 長門の華麗なスルーにも動ぜず古泉は、
「あなたも知っての通り、涼宮さんの力は春以降、行使された形跡があるのか怪しいほど、その発露が止んでいました。ここ最近、僕たちが奔走するような事態が何かありましたっけ」
 ハルヒにせっつかれてのドタバタなら毎日のようにやってるが、古泉が言いたいのはそういうことじゃないだろう。
「ないな」
 俺はきっぱりと言った。古泉は満足そうに頷いて、
「そんな彼女を焚きつけるような出来事が何かあったんでしょう。さもなくばこれほど規模の大きな事態にはならないはずです。知っての通り、涼宮さんはSOS団の内外を問わず、周囲に溶け込み始めています」
 言われて俺は、ここ数ヶ月のハルヒが、まるで夏に向けてどんどん放射熱量を上げる恒星みたいに、学内で活発さを増していったことを思い出す。夏休み前、文化祭に向けたHRの一発目で企画発案したのにはたまげたものだ。真夏の夜に浮かぶスーパーノヴァのような爆発的プラスパワー。
「だったらどうしてこんなたわけたことになってるんだよ」
 古泉はストローを指先で弾いて、
「何か心当たりはありませんか?」
「ねえよ。特にここ最近なんざ、俺とお前はほとんど行動を共にしてただろうが。お前が見てないのに俺が知ってることなんてのはないと思うぜ」
 そうですか、と古泉は腕組みをして、
「それでなければ、震源は異世界の涼宮さんなのかもしれませんね」
 宇宙の外縁まですっ飛ぶかのように果てしなく飛躍したことを軽々と言った。ちょい待ち。
「異世界のハルヒってな何だよ」
「そのままですよ。未来人氏の話では七月の二十七日……三日前ですか。その日から世界が分岐したとのことですが、そこから派生した世界のいずれかです。異世界の涼宮さんが何かを知覚して、時間を遡って力を行使したのであれば、このような事態になっているのも説明がつきます。いささか跳躍した話ではありますが」
 いささかどころじゃないだろう。もしそうだったら、俺たちに成すすべは何もないんじゃないのか。
 古泉は作り物のような困惑の笑みを浮かべて肩をすくめた。
 それから俺は長門と朝比奈さんにも何か思うことがないか尋ねたものの、徒労に終わった。長門にも解決策が見当たらないのは、こいつもまたハルヒと同じく普通の人間に近付いてる証なんだろう。だから俺はそこに言及するつもりはシャミセンの毛先ほどもない。



 成すすべがないんじゃないのか。
 その問いは午後になっても俺の脳裏にこびりついていた。それこそ皿に残った油汚れみたいにだ。
「そんなことはないと思うね」
 そう言ったのは佐々木である。
 古泉たちとの会合を終えた俺は、気乗りしない足で予備校に向かった。ノートを取りながら思考を重ねた結果、先のような結論に達しかけていたわけだが、気だるい講義が終わった空き時間、俺は誰より頼り甲斐も信頼値も知能指数も知識もあるこの親友に、経緯をまるきり打ち明けてみたのだ。
「キョン、キミの話が本当ならとても興味深いことが起きている」
 女版の古泉みたいな台詞を言って、佐々木はプレアデス星団みたいなキラキラした目を窓の外へ向ける。
 にわかに晴れてきた空には、雲間からの光が道標のように燦然と輝いていた。
「藤原くんが言ったことは光の干渉によく似ている」
「光の、干渉?」
 俺は落ちついてコーラをひと飲みした。早急に血液中の糖度を上げておくべきだと思ったのだ。
 佐々木は教え子に皆既日食のメカニズムを咀嚼して教える学者のように、
「今ここで起こしたことが、世界を飛び越えて別の時空にいる僕たちに影響を及ぼしうる。彼はそう言いたかったんだろう」
 すまん、佐々木。俺を置いたまま遠くへ行かないでくれ。
「ん、ゴメン。そうだな、まずは光のふるまいについて軽く話しておく必要があるだろう」
 そう言って佐々木はルーズリーフを一枚取り出し、シャーペンの芯を出すと、流麗な手つきで手早く図を描き始めた。
 まずは下から上に向けて直線を一本。
「光というのは直線的に進む。これはキミにも何となく解るだろう?」
 ああ。目の前に見えてるものに手を伸ばせばちゃんと触れることができるしな。それはすなわち、光がまっすぐ前に届いているからってことだろう。
 佐々木は頷くと、今度は描いた線にもう一本直線を足して、Vの字を作った。
「この直線それぞれが光だと思ってほしい。この二つが」
 二つの直線をなぞり、
「一つの光源から」
 Vの字の根元を指差し、
「細長いスキマ、すなわちスリットを通ってそれぞれの方向に伸びたとしよう」
 再度二つの直線をシャーペンでなぞる。
「さてキョン。この二つの細長い光線が壁に当たったとき、そこにはどんな模様ができるだろう?」
 そりゃ、二箇所に光の筋ができるんじゃねえのか。
 佐々木はとても面白いものを見つけた研究者のような笑みで、
「普通はそう考えるだろう。しかしね、実際は光の筋が間隔を置いていくつもできるんだ。二つのスキマから出た光が互いに干渉し合っているのさ。これは光が粒子と波の二つの性質を持つから起こることなんだが……今は細かい話は置いておこう」
 佐々木はふたたび図に戻り、
「さてここからが本題だ。この光を時間に置き換える。直線は世界で、線が延びることで時間が進むと考えよう」
 佐々木はVの根元に「七月二十七日」と記し、
「七月二十七日から分岐した世界は、そのまま延長する」
 直線を辿ると、端まで来て手を止め、丸をつける。同じことをもう一つの直線でも行い、
「しかし、それぞれの世界は独立しているわけではない。互いに影響し合っている。まるで光の干渉のように」
 丸印を交互につついた。ここで図からシャーペンを放し、
「おそらくは今、この瞬間もね」
 そう言って銀色の月の輝きみたいな瞳で笑った。
「もしかしたら、藤原くんがキミに忠告したのも、他の世界で似たようなことが起きた結果なのかもしれない、過去ではなく、隣接する異世界から、僕たちは干渉波として互いに影響を及ぼしあっているということだ」
 佐々木は言った。俺は佐々木が言ったことを初めっから考えるのに脳細胞を総動員していて、まともに返答できなかった。
「何にせよ、どこかの誰かが原因を突き止めて、解消する必要があるんだろう」
 佐々木はそれからしばらく何も言わなかった。俺は五分ほどかけて何とか佐々木の言わんとすることを理解した気がするが、この聡い友人がなぜそれきり何も言わずにいたのか、ついぞ気付かぬままだった。

 夜にはSOS団主催の花火パーティが行われたが、俺は今ひとつ気乗りせず、長門としみじみ線香花火対決したり、古泉の望遠鏡で適当に惑星を探して過ごした。ハルヒは今日もナトリウムを25メートルプールにぶちこんだかのような爆発力ではしゃぎまわっていたが、俺は何となく、昨年のエンドレスサマーの思い出し憂鬱みたいなブルーを拭い去れずにいた。



       6
 

 季節は夏。
 俺の部屋のドアをリズミカルな三連符でノックする音がその日の目覚めの合図だった。
「キョーンくんっ! 電話電話ー、電話ですよー、ぷるるるるー」
 まるで夢の渕から聞こえるような妙に明るい声。深い眠りの最中にあろうとも、誰のものかは明白だった。
「…………うん」
 俺は妹の能天気な呼び声により、砂漠の中に沈むような睡眠から半分だけ目覚めた。熱砂まみれみたいな意識で携帯の時計を見ると、時刻は午前六時を指している。
なんちゅうこっちゃ。こんな朝っぱらから電話してくるのはどこのどいつだ。確実に一人は思い浮かぶが。
 あまりに眠くて一時的に声を失っていた俺は、まどろんだ目をこすりながらドアを半分ほど開け、妹から受話器を受け取った。シャミセンはまだぐーすか寝ている。夏休みだってのに、妹がこんな時間から溌剌と起きてるのは、町内会のラジオ体操に出かけるからだろう。小坊の頃俺も行ったもんだ。スタンプ貰って帰って即刻昼間で寝てたけどな。
「あたし急いでるの、じゃあねキョンくんっ!」
 言うなり妹はぱたぱたと階段を駆け下りていった。しかし元気だな。オフクロが実家に帰ってる間もちゃんと起きて体操に行くという約束を愚直なまでに守っている。単に楽しくてやってるんだろうが。
「ふあ」
 俺はあくびをかみ殺して電話に出る。
「もしもし。ハルヒか?」
 他にこの時間に電話してくる非常識者に心当たりがなかったからそう言ったのだが、
『……』
 返ってきたのはクリスタルより高純度の無言だった。
「もしかして、長門か?」
『そう』
 なんとまあ。
 清々しい夏の朝一番に聞く声としては朝比奈さんの次くらいに理想的ではあったが、長門がこんな時間に電話してくるってのも、いや、そもそもこいつから電話かけてくること自体が珍しい。
「どうした?」
 俺の問いに長門は二秒ほど間を置いて、
『話がある』
 これまたレアな発言だ。こいつから何か切り出すことがあったのは、最初の宇宙人告白を含めてもそう滅多とない。
『三十分後、今から言う場所に来て』



 長門が指定したのは例の公園である。宇宙人、あるいは未来人とコンタクトを図る際のひみつの指定場所みたいな。俺にとっちゃすっかり馴染みのスポットであるが、この場所で宇宙人もしくは未来人を見たという噂が界隈に流れることもついぞなく、いつ来てもどこにでもある公園のままなのには安心するね。
 まだ気温の上がりきっていない夏の早朝はなかなかに爽やかで、深緑の葉に水滴がついていることを発見し、俺は妙に嬉しくなった。このくらいの気温が日中も続けば過ごしやすいのに、とか考えつつ、例のベンチに向かった。
「よう」
「……」
 例によってなセーラー夏服をまとった長門有希は、一足先に秋が来たみたいな涼しい目で俺を見ると、わずかばかり首を傾斜させ、長門流の会釈めいた挨拶を返した。
 世間話するようなヤツでもないので、俺たちは特に会話もなくベンチに座る。ここに長門と座ったのもえらいひさびさだな。
「話ってな何だ?」
 早起きの老人くらいしか通る人のいない、早朝の公園を長門はどこともなしに眺めていたが、
「世界が拡散している」
「?」
 なんら口調を変えることもなく長門は言った。俺にはその意味がまったく解らず、
「あー。すまんが長門、起き抜けで頭がボンヤリしてるんだ。もう一回言ってくれないか」
「世界が拡散している」
 聞き間違いではなかったようだ。世界の拡散ね。なるほど。うむ。
「ええとだな。そりゃいったい何だ?」
 当然の質問だろう。
 長門は視線をやや上方へ向け、また戻すと、
「七月二十七日以降の時空間が無数に分岐している」
 そこから長門は言葉を数文節ごとに区切りながら、長い説明を開始した。
 それによると、七月二十七日からこの四日間ほど、世界が無数に枝分かれを起こしているらしい。原因は不明だが、どうもハルヒが引き金を引いた可能性が高いらしく、長門の親玉は現在進行形で真相究明の真っ最中だとかなんとか。しかし長門の話によれば、どうやら統合思念体にも目当てのカードを引き当てられるか解らんようで、
「わたしの意志であなたに話をした」
 のだそうな。
 いやはや、長門。お前に真っ先に相談されるのは国民栄誉賞もらえるくらいに光栄なことだが、宇宙規模の高次意識体にも解けない謎が俺なんかに解るわけがないと思うんだが……。
 長門は朝の微風に短い髪をそよがせていたが、
「情報統合思念体は、このままでは無視できない危険が生まれると予測している。早い段階で事態を収束させる必要がある」
「そうは言うがな。俺にしてみりゃ寝て起きたら世界が危機的状況に瀕してたも同然なんだぜ。そもそもハルヒにしたって、この三ヶ月ばかりほっとんど不満になるようなこともなく過ごしてたと思うんだが」
 原因を探せっつわれても迷うばかりである。
 と、ひとしきり考えたところで率直な疑問が残っていた。
「ところで長門、お前の親玉はどうしてそんなことに気がついたんだ?」
 すると長門は朝日の昇り始めた空をまた見上げて、
「銀河の辺境から、まったく未知の情報が流出しているのを感知した。それは四日前に初めて観測され、現在まで続いている」
 また朝っぱらから果てしなく広大な話に飛んだものだ。
「未知の情報?」
「この時空間とはまったく異なる……」と、長門は言葉を選ぶような間をとって、
「世界、から発生している。統合思念体はその解析を試みた」
 そこから解ったのが今回の事態らしい。
 すなわち、多元世界分岐。
「分岐した時空間同士は直接影響を及ぼさないが、互いに干渉し、不確定なノイズを発生させる。この時空間にはそれが情報流出という形で現れたと推測される」
 俺は今もって事態を完全に飲み込むことができなかった。つうと何だ、その分岐した世界とやらにはもしかして、俺がもう一人いたりするのか?
「一人ではない」と長門は清澄な声で、
「世界の数だけ存在する。あなたも、わたしも」



 長門はそれから補足説明を俺にしてくれ、それがまた俺を深い思索の旅に出発させたりしたのだが、世界のありようにあらためて耳を澄ませる仏の心境で家に帰って朝飯食ってニュース番組を無心で見ていると、今度は携帯がやかましく鳴り出した。
『もっしー? 今日も映画撮るから駅前に九時半集合ね! 遅れなくとも最後に来たら罰金だから覚悟しなさいっ!』
 新種のイタ電みたいな一方通行っぷりでハルヒはそうまくしたて、ものの五秒で通話終了。
「やれやれ」
 ひさびさに言った気がするぜ。
 なあ長門よ、ハルヒのヤツはどう考えたって絶好調極まりない調子だぞ。今年の春に起こした世界分裂の拡大版を現在進行形でぶっ放してるとは到底思えない。まあ、それを言ったら去年のループサマーだってハルヒは満足そうに見えたわけで、しかしそれには一応の理由があったはずだ。
「だとすれば」
 今回も何かあるんだろう。長らく手つかずにしていたはずの力を使って、世界を無数にバラけさせている原因が。



「なるほど」
 古泉は炎天下をものともしない清涼感あふれる仕草でそう言った。映画撮影時のことだ。
「つまり、長門さんの言うところによれば、涼宮さんが世界を無数に分岐させていて、その弊害がいずれ顕在化するかもしれず、至急事態の沈静化を図らねばならない……そういうことですか」
「らしいぜ」
 地球が自転してる事実より当たり前に駅前に集まったSOS団の面々は、猛烈な紫外線にもかかわらずハルヒの命によって一路川原を目指していた。目的地は、過去に二度ほど桜のシーンを撮影したあそこだ。朝比奈さんが遥か昔のように感じる未来人告白をした場所でもある。
「ユキがミクルに宣戦布告するシーンを撮るのよ」とのハルヒの命によりロケ地が決まったわけなのだが、長門と朝比奈さんはさっきから前を歩くハルヒとともに打ち合わせしていて、俺と古泉は荷物持ち。おかげでこうして話もできるという状態さ。
 俺は世間話に相槌を打つようにしか見えないだろう頷きを返した、
「らしいぜ。しかしいつぞやと違ってまるで実感がないんだが」
「去年の夏のように同じ時間を繰り返していないからでしょう。確かに、時間と空間は同一のものですが」
 古泉は街並みを眺め、
「こことはまったく違う世界に別の僕たちがいる。それだけでは既視感を覚える理由にはならないはずです。何せそれはここにいる僕たちが経験したことではありませんからね。さて、僕やあなたを初めとする誰もが、春にまさしく今回の前段階のような出来事を体感しましたが、あれもまた、時系列が収束した結果として双方の世界を知っているに過ぎません。収束の手段がなければ、我々は別世界の自分たちが何をしているのか、知ることはないでしょう」
 俺は長門の補足説明を思い出しながら、
「しかし長門は『別世界にいるわたしたちは、何らかの形で他の世界に気がついているかもしれない』とか言ってたぞ」
 古泉は眉をわずかに動かして、
「興味を惹かれますが、あの終わりがなかった夏休みと同じように、ここで僕にできることはほとんど何もないように思いますね。せいぜいあなたの会話の相手役を務めることくらいしか」
 意外なことに、副団長は両手を広げて降参の姿勢を見せた。おいおい、そりゃないだろ。
「僕にしてみれば、この世界が今の状態を維持してさえいればそれで構わないのですよ。並行世界に住む別の僕たちは、それぞれ同様に今回の問題を危惧しているかもしれませんが、今ここにいる僕はそれらを収束させるべきだとは思いません」
 そりゃどうしてだ。長門が言うには無視できない危険を生むかもしれんとのことだったぞ。お前ももっと憂慮すべき事態なんじゃねえのか。
 古泉はしれっと肩をすくめ、
「何せ閉鎖空間も《神人》も現れていませんから……というのは半分冗談で半分本気ですが、そうですね」
 古泉は俺を品定めでもするような目で観賞し、
「たまにはこれを僕からの課題とさせていただきましょうか。あるいは、あなたはもう直感的に回答にたどり着いているかもしれませんが」
 と、謎のような言葉を吐いて、いつもと何ら変わらぬ微笑を浮かべた。何が言いたいんだ。俺はまだ何一つ解っちゃいねえぞ。そして頼むからその鳥肌が立つような笑みをどっかにしまってくれ。



 夏の熱が飛び火して導火線を焦がしたみたいに、怒涛の撮影スケジュールは今日も継続するのであるが、今年に関して言えば局地的倦怠感にとらわれているのはどうも俺だけのようだ。その俺にしたって、今朝長門から現在の状況を聞いていなければ、そして古泉からいりもしない問いかけをされなければ、より能動的にハルヒの協力にいそしんでいただろう。
「キョン! 準備はいい? 言っとくけどあたしの映画にNGって言葉はないの。みくるちゃんと有希も気合入れんのよっ!」
 去年もそうだったがオール一発撮りなのがいかにもハルヒらしい。おかげででき上がった作品があんなことになるわけで、今年もどうやらそれは免れそうにない。せめて映研に今から詫び状でも送っとくべきかな。
「いいいいきまぁす、悪い宇宙人のユキさんっ。何度帰ってこられてもっ、あたあたしはあなたに負けるわけにはいかないのれ、いいいかないのですっ!」
 去年とほっとんど変わらぬウェイトレス朝比奈さんの迷演技に俺はいい意味で泣きそうになり、侵略者役なのにまるで覇気のない長門にも安心感を覚える。
 俺はカメラを構えて若干朝比奈さんアップの構図で撮影を続行し、
「いいアクトだわ。二人の緊張感がびしばし伝わってくるもの」
 背後でハルヒが満足顔しながら二人を眺めてるのが手に取るように解る。
 去年と決定的に違うのは、団員の誰も諍いを起こしたりしてないってとこだ。もうハルヒは変なビーム出させたり、朝比奈さんを不当に叩いたり困らせたり、傲岸不遜な一方通行っぷりで俺たちを振り回したりもしない。つまり今ここにいる全員が、ただやりたくて映画撮影してるってことだ。こういうのを好循環って言うんだっけ。
 だからこそ俺はハルヒが世界を分岐させる理由が解らないでいた。傍らでスマイリーレフ板男と化してる古泉はそこまで解ってんのか? だったらさっさと解答教えろと言いたいとこだが、それともここではなく別世界のハルヒが引き金を引いたんだとしたら、この疑問自体が無意味なものに化けるのだろうか?
 とか考えているとハルヒががっつんがっつんメガホンを鳴らし、
「オッケー! 休憩しましょ、暑いしさ。あたしが汗だくなんだから有希やみくるちゃんなんてもっとでしょ。ファミレスあたりでトイレ借りて着替えればいいわ」
 かんかん照りの太陽から遁走するワラジムシ的行動で俺たちはファミレスに転がりこみ、癒しの泉みたいな冷房入りの店内に腰を落ち着けた。朝比奈さんは更衣室にて着替えをなさっている。長門はいつも制服だし、魔女服脱げば元通りだ。炎天下なのに汗ひとつかいてないことに今さら驚きはしない。
「キョン、聞いてんの?」
「ん」
 ハルヒが目の前で手を振った。
「はいこれメニュー。ちゃちゃっと選びなさい。後が押してるんだからねっ」
 俺はハルヒからメニューを受け取り、ホットサンドを注文した。何となく、がっつり昼飯食べる気分でもなかった。
 去年は同じ時間を延々繰り返す無間地獄のような夏休みから脱出するのに苦労したが、今年は茫漠と無限に広がる世界をまとめなければならない。いっそのこと世界拡散防止条約なんてのを作って国連に締結捺印してもらったらどうだ。しかし、今回は前回と違って何一つヒントらしいものはなく、このまま放っといたら……さて、どうなっちまうんだ?



「どうにもならないだろう」
 そう言ったのは佐々木だった。
 ギリギリまで撮影やってたせいで遅刻しかけた俺は、指定時刻に待ち合わせ場所にいなければ先に行くという佐々木との取り決めにより今日は一人で予備校に行き、俺が行くころにはとっくに着いてただろう親友と会ったのは講義終わって教室出た後だ。
 若干飽き気味のファストフード店には言った俺は、夏バテしてるのか知らんが、何となく食欲がなく、ポテトとスプライトだけを注文してカウンター席に座った。隣の佐々木に俺の様子が違うことを持ち前の回りくどさと共に指摘され、隠すまでもねえかと思った俺は、朝早く長門から聞いたことを洗いざらい打ち明け、現在に至る。
「分岐した世界が残り続けて、そのままだ。いずれ干渉波も観測されなくなるかもしれない。そうなればむしろ何一つ問題はなくなると言える」
 佐々木はくつろいだ笑みを広げ、
「しかし、そこにいる彼らも同じように異世界の存在に気づき、同じように解決をはかるべく思案しているのだとしたら、いつまでもその記憶を持ち続けることになるね。その場合どうなるか、キミには想像がつくか? キョン」
 物解りのいい友人は何一つ質問することなく状況を正確に把握し、逆に俺に問題を出した。
「そのまんま世界がいくつも残るんだろ。異世界があるって知ったまま」
 佐々木は静かに頷いて、
「そうだ。では質問を変えよう。キョン、キミはこう考えたことがあるかい。もし自分が今と違う人生を歩んでいたら、そこにいる自分はどのような暮らしに身を置いているか……ってね」
 あったようななかったような。
 少なくとも高校入ってからこっちはないな。それ以前だったら、普通に普通な己が環境にちょっとばかりの不満がなくもなかったが、今となっちゃそれもすっぱり解消されちまったわけで。
 佐々木はさも愉快そうに微笑し、
「キミは稀有な存在だ。そんな風に現状をとらえられる人が果たしてこの世界にどれだけいるだろうか。大抵の場合、人は別の道を歩く自分を考えたことがあるはずだからね」
 そうかもしれんが、だからといってそんなこと考えても始まらないだろう。
 佐々木はアイスコーヒーの紙コップについた水滴を撫でて、
「その通りさ。だからこそ、分岐した世界を残してはならない」
 どういうことか、と俺が問いかけると、佐々木は口元を優雅に曲げて笑った。
「涼宮さんが何らかの要因で世界を拡散させたのなら、本来、それ以外の時系列は存在してはならないはずだ。本物以外の時系列はね。そして、『そこにいる彼ら』がオリジナルでないかのように彼ら自身に思わせることが、どれだけ酷であるか、キョン、キミなら想像できるだろう?」



 禅問答のような佐々木の問いは、予備校から帰ってSOS団の再集合がかかるまで俺の頭を支配した。
『そして、まさしくそこに涼宮さんが超常現象を引き起こしたヒントがあると推測する。あとはキョン、キミがどうするかだ』
 佐々木は最後にそう言ったが、俺は依然として疑問符を頭に乗せたままである。
 いまさら、ハルヒが別の人生を歩んでたらなどと考えるものか?
 それに関しちゃ俺や古泉でなくとも反証をいくらでも挙げられるだろう。この一年あまりのハルヒがどんな様子だったか、チラとでも見たヤツがいたら、あいつがこの世界をつまらないと思ってるわけがないという俺の意見に一票と言わず投じてくれるはずさ。投開票するまでもなく結果だって解ってる。選挙管理委員会すら必要じゃないな。



 とまあそんな具合につらつらと考えあぐねているうち、陽は西に傾き、天穹(てんきゅう)に一番星がきらめく頃合いとなる。
 ハルヒが世界をいくつにも拡散した理由らしきものが、さも一番星の恵みであるかのようにもたらされたのは、その夜のことだった。長門のマンション屋上に集合した俺たちを満足げに睥睨(へいげい)したハルヒは気合十分、
「それじゃ屋上花火大会! はりきっていきまっしょー!」
 という号令と共に、明らかにマンションの利用マナーを破っている打ち上げ花火十連発が、ファンファーレと言わんばかりに発射された。長門が管理人の許可を取ってるとか言ってたが、付近住民の同意まで得ているかははなはだ疑問である。
 そしてこの自前花火大会には天体観測ショーも付随されていた。
「去年天体観測したときに思ったのよねー。花火とまとめて一緒にやっちゃえば退屈する人も出ないしにぎやかでいいんじゃないかって」
 そのような理由により、傍らには古泉の天体望遠鏡が置いてある。隣で花火やってたら光でまともに星が見えないんじゃないかとか思うがハルヒ的にはそんなことまったく関係ないらしい。古泉のとはいえ望遠鏡だって高価なもんだろうし、花火ヒットさせてオシャカにだけはするなよな。
「元気ですねー。涼宮さん」
 そう言ったのは春夏秋冬、昼夜晴雨を問わずほんわかと愛らしい朝比奈さんだ。
「元気じゃない方が困りますしね。今までがそうでした」
 俺は過去のあらゆる出来事を振り返りつつ、しみじみと言った。
 ハルヒが憂鬱で世界を揺るがして俺たちが走り回るより、二尺玉級の笑みであっちこっち飛びまわってご機嫌爆弾を炸裂させ、そんなお祭り状態に振り回されてるほうが――何にせよ疲れるけども――よほどまともである。
 だからこれでいいのさ、と悟りの境地に達して、すでに久しい。
「でも、涼宮さんも迷うことがあるみたい」
 マリンスノーみたいに幻想的な朝比奈さんは、
「あのぅ、これ、涼宮さんにはヒミツにしててほしいんですけど……」
 朝比奈さんに秘密にせよと言われればFBIに身柄拘束されて自白強要されようが俺は口を割らないだろう。
 俺の頷きに朝比奈さんは声を小さくして、
「涼宮さん、来年も映画撮れるのかな、って気にしてたみたいで」
 禁則事項を無理して言ってるみたいなぎこちなさで、朝比奈さんは訥々(とつとつ)と言葉を紡ぐ。
「あたしはもう三年生だから。その、来年もこうしていられるか解らなくて」
 俺はふいに、朝比奈さんの様子がいつもと違うことに気がついた。
「それどころか、本当はこの時代の人間じゃありませんから、いつまでいられるのかも解らなくて……」
 何やら寂しげというか、どことなくノスタルジックなのである。
「朝比奈さん……?」
「あたし、たまにこう思うんです。この時代に生まれていたらよかったのかなって。古泉くんとか長門さんとか、鶴屋さんとか……みんなと普通の高校生として知り合えていたらよかったのかな、って……」
 時々つかえながら、朝比奈さんは懸命に言う。
 普通の高校生。
 その言葉に、俺は去年の十二月、まるっきり普通になってしまった世界を思い出す。
 あの時は長門も含めて、全員が変わった肩書きのない、まさしく普通の高校生だった。もしも俺があの時エンターキーを押さなければ、あるいは今朝比奈さんが言うように、普通の高校生活の中で今いる面々と知り合えていたのかもしれない。
「キョンくんは今、よびこう……ってところに通っているんでしょう?」
 朝比奈さんはそこだけ妙にゆっくりと言った。俺は頷く。未来には予備校なんてもの存在しないのかもしれないが、今はそこにいちいち突っ込んでる場合でもない。
「キョンくん。涼宮さんもたぶん感じ取っているんです」
 何をですか。と、俺は訊いたりしなかった。なぜって、朝比奈さんが何を言おうとしているのか、俺には解っていたからだ。
「いつか、あたしたちは離れ離れになってしまうの。楽しい時間がこうして続いていても、それはずっと続くわけじゃないんです。前に、繰り返したこともあったけど……」
 ループサマーのことか。
 確かにあの時、時間は永遠に続いていたと言っても大げさじゃなかった。実際、夏休み最後の日に全員で宿題をしなかったら、それ以降の時間は存在していなかったかもしれない。
 しかし、それじゃ何の意味もないんだ。
 何年も登場人物が年取らずにいるテレビアニメじゃあるまいし、不老不死のようになったところで、今、この現実を生きている俺たちは、何も前に進みはしない。
 そりゃ居心地はいいかもしれない。俺だって、高校入学から今までの時間がどれだけ楽しかったかを思えば、過去に郷愁を感じないはずもない。あの文芸部室をいつか離れる日が来たら、俺はちょっと想像もつかないくらいに寂しい気持ちになるかもしれず、それは団長たるハルヒだって同じだろう。もしかしたらいずれ「あんときゃよかった」などと振り返ることもあるのかもしれん。
 だが、それは時間が進んで、相応の成長をしたからこそやってくるノスタルジーだ。嫌だからとダダをこねるあまり、いつまでも同じ場所に留まってたんじゃ、感慨にふける日だって永遠に来やしない。
 何かを我慢するような面持ちの朝比奈さんは、
「キョンくん。涼宮さんはこう言ってました」
『みくるちゃん。あたしたまに思うのよね。同じことをするんでも、もう少し他のやりかたがあったんじゃないか、って。もちろん、これまでがすっごいすっごいすっっっっっごい楽しかったし、そこに何の後悔もないけどさ。でも、もうちょっと……そうね。もっと、あたしたちだけじゃなくて、もっと他のみんなも楽しませてあげることができなかったのかな、って』
 それでか。
 自分のためじゃなく、他の人のために何かできなかったか、あいつは迷ってたのか。
 だから「今ここにいる自分」とは違う世界をいくつも作り出して、それでもあいつは気づかなくて…………。
 それはもしかすると、あいつがこれまで抱いたどんな願いよりも強力なものだったのかもしれない。
 俺は長門の補足説明から浮かび上がった事実を痛感せずにはいられなかった。
 朝、多元世界の説明をひとしきり終えた長門は、最後にこう言ったのだ。
『他世界を生きるわたしたちは、確かにそこに存在している。しかし、世界の拡散を収斂させた時、本来あるべきだった世界以外の時空は、一切消失するだろう』
 古泉が「現状維持で構わない」と言っていたのはそのためだ。
 たとえオリジナルの時間軸に位置していない世界であったとしても、そこにもちゃんと俺やハルヒや朝比奈さん、長門に古泉がいて、もっと他の、谷口に国木田に鶴屋さんに、佐々木に橘京子に、藤原も周防九曜もいて、誰もがいて、みんな今の時間を生きているんである。
 そこにオリジナルもクソもあるかって話だ。ハルヒの躊躇が生み出した時空とやらが、結果的に模造品のような位置にあったところで、それを消滅させる権利が誰にある?
 あの幻のような改変世界も、春に分岐した時系列もそうだ。
 「もしこうだったら」なんて ifは誰でも考える。今の自分よりもっと素晴らしい自分がどっかにいて、そっちがホントの自分ならよかったなんてのは俺だって妄想するとも。たとえばもっと頭がよかったらオフクロに心配かけずに済むだろな、とか、もう少し甲斐性があれば長門や朝比奈さんを困惑させずに済んだんじゃないか、とか、古泉や佐々木くらい頭の回転がよければもう少し要領よくやれたんじゃないか、とか……。
 そんな懺悔めいた後ろめたさだったらいくらだってあるさ。後悔先に立たずじゃないが、もうちょっと何とかならなかったのか、なんてことが。
 けど、もし仮にそうなったとして、そこにいるのはここにいる自分とは違うんだ。たとえ悔いが残ってたとしても、レールを乗り換えるみたいに別の自分にバトンタッチすりゃいいってわけじゃない。代わりが利かない、他の誰でもない自分を示すからこそ、アイデンティティって言葉があるんじゃないのか?
 でもな、そんな夢うつつで思い描いた別世界の自分が、もし本当にいるなんて知っちまったとして、それを消さないと世界がどうにかなっちまうとか知らされたとして、それでも平気な顔でデリートに同意できるヤツがどこにいるってんだ。そんなの、まともな感覚を持った人間がすることじゃねえ。
 それに、俺は似たような場面をすでに経験済みなんだ。
 あの年末――光陽園学院にいたハルヒや古泉も、書道部の朝比奈さんも、眼鏡をかけて、控えめな微笑をした長門も、ホントはどっかでまだ元気にやってるんだと、俺は信じたいんだ。
「キョンくん。あたしも長門さんから話を聞きました」
 朝比奈さんは言った。
「別の世界にあたしたちがいるなんて……信じられませんでした。でも、今の涼宮さんがあんな風に考えてるんだって思ったら、やっぱりホントなんだって……」
 朝比奈さんはそう言ってハルヒを見つめる。
 ハルヒは長門を相手に、「線香花火どっちが長持ちするか対決」という古典的でベタな、しかしそれだけに実に熱い競技で対決しており、通気性のよさそうな笑顔の古泉がその審判役を買って出ている。
 俺は考える。
 誰かのためを思って世界を分岐させたのなら、その誰かのために世界を全部存続させることだってできるんじゃないのか?
 長門は言った。「無視できない危険を生む可能性がある」と。
 だが、それはこの世界にとっての話で、他の世界からすれば、まるごと存在が消えちまうことの方がよほど危険だろう。だったら、こっちに多少問題が起きようと何だろうと、残りの世界を救えた方がずっといいんじゃないか……ってのはカッコつけすぎか?
 それでも俺は思うのだ。今のハルヒならそんな風に、自分以外のもののために役立つことが、まあ意識的にはまだ無理でも、ひょっとしたら無意識ではできるんじゃないか、なんてことを。
 そう、今のあいつなら。
 消えるかもしれないとおっかなびっくりになってるかもしれない別世界の俺たちを残したまま、世界を変な姿に捻じ曲げたりもせずに、古泉言うところの「現状維持」で、すべてを許容する宇宙より広い心で、このままやっていけるんじゃないだろうか。
 それに、予備校から帰る間際には佐々木がこうも言っていた。
『キョン。さっきはああ言ったがね、あれは僕個人の考えとは少し違うんだ。……未来の分岐について、いわゆるコペンハーゲン解釈というものは、ひとつの結果を観測すると残りの可能性が一切消失してしまう。先ほど僕が言ったのはこちらの考え方だ。それに対し、多世界解釈は、すべての分岐を残したまま、そのうちの一つが今僕たちのいる世界であるという捉え方をする。どちらも矛盾はないが、僕は後者のほうが好みでね。それによれば、何をしようとも世界は収斂などしないのだよ。それならば、どこにいるキミも本物であり、どこで何が起きていようと、誰もが自分の力で生きていることになるだろう?』

「朝比奈さん。実を言いますとね。俺もこの二週間迷ってたんです」
 俺が突然喋りだしたからか、朝比奈さんはつぶらな目をさらに丸くして、
「え?」
「はっきり言や、ハルヒの力がなくなっちまって、SOS団が散り散りになって、何もかもが変わっていっちまうことにです。俺たちは二年で、朝比奈さんや鶴屋さんはもう三年でしょう。だから、」
 何か、ハルヒの力をめぐって珍事件が起きるにしても、もうそれほどたくさん起きたりしないだろう、と俺は思っていたのだ。
 そして……もうこの際正直に言ってしまうが、そんな風に日常を揺るがすドタバタが起きなくなることそれ自体に、言い知れぬ淋しさを感じていたのである。だって考えてもみろ、宇宙人、未来人、超能力者に、それを超越する団長に、あまつさえ敵対勢力まで出てきて、その全部に巻き込まれ、今やどれも楽しかったと達観的感想まで述べることのできるこの状態、これ以上何を望めってんだ?
 それこそ、このまま何も変わらなければいい。
 そう思っていた。
 しかし、そうではなかった。
 当たり前だ。何も変わらずにいられるわけがないだろう。俺たちが生きているのは他ならぬ現実世界なんだからな。
 解っちゃいたんだ。さっきのアニメの話じゃないが、現実で同じ年を延々ループするかのように続けてたって、それは何の意味もない。
 だから、本当は「変わらなければいい」じゃなく、「変わらなければいけない」のだ。
 たとえば朝比奈さんが未来に帰っちまったり、長門が一切宇宙的な力を使えなくなったり、古泉が超能力者じゃなくなって、また転校するようなことになったとしても。
 そうなった時に、後ろめたくクサッてるんじゃなく、明るく笑って見送ってやれるような、そんな清々しい人間に、俺たちはならなきゃいかんのだ。
「俺が間違ってたんです。変わらないことに何の意味もないんだ。だから、だからこそ、迷うことなく今を生きてやればいいし、そうしなきゃいけないんです」
 夏休みが終われば本格的に予備校に行かざるをえんだろうし、もしかしたらSOS団の活動に前ほど時間を使えなくなるなんてこともありうる。あっさり承諾したはずのハルヒが実は譲歩してて、今度は不満を爆発させたりするかもしれん。しかし、だからといってそこに怖気づいてちゃいけない。そうだろ? じゃなきゃ、今まで俺が学んできたことは何だったんだっつう話になる。これまでの俺は、何だかんだ言いながらも、迷わず前に突き進んできたんだから。
 だからこれからもそうしてやる。
 それは明日や明後日じゃなく、今、この瞬間からだ。
「つうわけで朝比奈さん、あの線香花火大会に俺たちも参加しましょう! 横で涼しい顔してる古泉も巻き込んでやれ!」
「えっ、あっ、ひゃぁ!」
 俺は朝比奈さんの手を引くとハルヒたちのいるところへ猛ダッシュした。
「ハルヒ! 五人で線香花火デスマッチだ!」
「望むところよ! 言っとくけど負けたら今からコンビニ行って全員分のジュースとお菓子買ってくるんだかんね!」
 そう、いつだって胸張って行け。
 それが、今を生きるってことだ。

 そうだよな? 別世界の俺。 
                    

 (おわり)
 


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