――八月の半ばを過ぎた頃、まるで残り時間が10分に迫ったケーキバイキングが如く焦燥
感にかられたハルヒによって、俺達は日替わりで夏恒例イベントを履行させられていた。
 市民プールに始まり盆踊りに花火……とまあ、普段のハルヒの行動からみれば、それは至極
まともな日常だったとは思う。
 この日に焼けた肌の痛みだって、そう遠くない内に思い出の中へと消えてくれるはずだ。
 ……だが、あの事だけは……きっと俺は一生思い出にする事が出来ないまま覚えているんだ
ろうな。
 今も目を閉じれば鮮明に思い出せる、あの日の事を。
 
 
 後味の悪い話 
 
 
 その日、ハルヒによって朝早くから集められた俺達の活動内容は「蝉取り」だった。
 ま、集合場所が北高裏の林で、虫取り網に籠を持参って時点で想像はついてたけどな。
 ハルヒの肉食動物的欲求を満たす為だと思えば理解できなくもないこのイベントだが……高
校生にもなってやる様な事じゃないだろ……。
 とまあ文句を言ってもはじまらず、言ったところでハルヒが聞くはずもない事はすでに解っ
ていた為、日がな一日林の中でやぶ蚊と闘いながらの蝉捕獲は夕方まで続けられた。
「い~い? 二度と捕まるんじゃないわよー!」
 夏の風物詩というたったそれだけの理由によって捕獲されていた蝉共は、再び手に入れた自
由を満喫するように夕暮れの空へと飛び去っていく。
 ハルヒ曰く、こうして逃がしてやれば恩を感じて何かいい事があるかもしれないとの事らし
いのだが、
「普通、残りの命がタイムアタック状態の時に問答無用で捕獲されたらキレるよな」
「それは……まあ」
 持って帰って飼えと言われるよりはいいけどな。
 全力で鳴き続ける蝉の声の意味を考えつつ、俺達は岐路についた。
 ――そうだな、ここまではまあ夏のイベントの一つとしては割とポピュラーな内容なんだろ
うさ。
 家の妹も夏が来るたびによく捕まえてきてたし、俺だって蝉はそこまで嫌いじゃない。
 ただひとつ問題だったのは……夏の思い出を作っていた奴の中に、ハルヒが居たって事だ。
 
 
 その日の夜、ようやく俺が家へと辿り着いた時、ポケットの中に入れていた携帯が振動を始
めた。
 ……嫌な予感? しないはずがない。
 この狙った様なタイミングで電話をしてくるような奴と言えば……って、あれ?
 着信:涼宮 ハルヒ
 古泉だとばっかり思っていただけに意外だったが、まあとにかく出るしかないか。
 ――ピッ
「出るのが遅いわよこのアホンダラァ!!」
 受話音量設定を無視した様なハルヒの声が、薄暗くなってきた通りに響いた。
 ま、解ってたから耳にはあててなかったけどな。
 ハルヒ。夏でも夕方くらいは涼しいんだ、お前も日が落ちたら少しくらいは落ち着いたらど
うなんだ。
「うっさい! ……そんな事より、あんたは無事なの?」
 何がだ。日焼けなら確かにヒリヒリしてるが、まだそこまで痛くはないぞ。
 今日の風呂は冷水シャワーにしようか悩むところだが。
「そんな事じゃないっ! あ、また来た?! もうっ! なんなのよこいつ!」
 困惑したハルヒの声にまぎれて、何かを振り回す音が携帯から聞こえてくる。
「お、おいハルヒ?」
 まさか痴漢……って、痴漢ごときに手こずるハルヒじゃない。とはいえ、もしも相手が複数
だったとしたら?
「ハルヒ! お前今どこだ? 何があった?」
 いくら待っても返事が来ない事に焦りつつ、俺がそう叫ぶと
「ああもう! うっとおしいわねっ! 後でかけなおすから、あんたも気をつけ――」
 ――ハルヒの電話は、そこで途切れた。
 
 
「乗ってください!」
 それから数分後、古泉へと連絡を取った俺の目の前に黒塗りのタクシーが急停止した。
 どうすりゃこんなに早く俺の家までこれるんだよ、とか普段なら思う所なんだが今はそれど
ころじゃない。
 飛び乗るようにして滑り込んだ後部座席の中では、かつてない程に緊張した顔で前方を見つ
めている古泉がいた。
 いつもとは違う雰囲気に戸惑いつつも、
「……なあ、ハルヒは」
 俺はハルヒの事を聞いていた。
「すみません、詳しい事はまだ何も解りません」
「解らない?」
「ええ」
 申し訳なさそうな顔で俯いた古泉は続ける。
「蝉取りを終えて解散した後、暫くの間は何の異常もありませんでした。涼宮さんの精神にも
変化はありませんでしたし、閉鎖空間の予兆すら感じられなかったんです。……ところが、先
ほどあなたから電話を頂く少し前に涼宮さんの精神に異常が発生したんです」
「異常……ってのは」
 返事を待つ俺に、古泉は首を横に振る。
「確かに、涼宮さんに何かが起きれば僕にはそれが解ります。ですが、何が起きているといっ
た詳しい事までは解らないんです。ただ解るのは何か異常があったという事だけ。現在、涼宮
さんからはとても強いノイズが絶え間なく発せられています。おかげで彼女の現在地も詳細な
所までは……」
 ……お、おいちょっと待てよ。
「強いノイズが絶え間なくって……今もハルヒに何かが起きてるって事なのか?! なあ!?」
 思わず掴みかかってしまった俺に何の抵抗もせず、古泉はただ俯いている。
 そんなのって……嘘だろ?
 普段が普段だけに、あのハルヒが誰かにどうこうされる姿なんてのは想像もできない。
 だが、そんなあいつでも所詮は女であって。
 さらに言えば、見た目だけなら普通に歩いているだけで注目を浴びるような容姿をしている
訳で……。
 最悪の想像を前に力なくシートに座る俺を、古泉は責めては来なかった。
 
 
 夜を迎えた繁華街は人通りも多く、その中にガラの悪そうな男を見るたびに俺の不満は無意
味に高まっていた。
「この周辺、そこまでは解るんですが……」
 隣に座る古泉は目を閉じたままでそう呟く。目を閉じてて何が解るんだと言いたいが、多分
古泉にはこれで「解る」んだろう。
 騒がしい繁華街の中では声を頼りにハルヒを探す訳にもいかず、俺は飛び出したくなる気持
ちを押さえて古泉を見つめていた。
 ハルヒに何かが起きてるかもしれないってのに、俺にはこうして座っているしかできないっ
てのかよ?
 自分がただの高校生だって事を、ここまで悔やんだのはこれが初めてだった。
 ――そして、1分が1時間にも感じられた車内に
「ノイズが消えた……?  居ました! そこの中華料理店の裏手の路地に居ます!」
 古泉の声が響いた瞬間、黒塗りのタクシーは道路交通法を無視して対向車線へと飛び込み、
古泉が示した中華料理店前のガードレールに沿って急停車した。
「ハルヒ!」
 考えるよりも前に車を飛び出し、歩道を歩いていた人を押しのけ、薄暗い路地へと飛び込ん
だ俺が見たのは――
「……キョ……キョン?」
 異臭が漂うゴミ箱の隣で、隠れるようにして蹲っていたハルヒの姿だった。
 ――まさか……まさか本当に?
 ありえない、そうさ、普通に考えればありえないんだ。
 あのハルヒが、まさか……そんな。
 頭ではそう否定しても、目に入るのは擦りむいたらしく血が滲む膝、所々乱れたままの着衣、
そして……俺を見る、泣きそうなハルヒの目。
 痛々しく体を引きずりながら立ちあがったハルヒは、逃げる様に俺の顔から視線を外した。
 信じられない、いや信じたくない。
 昼間一緒に居た時の太陽みたいに明るい笑顔はそこにはなくて、
「……お、遅いわよぉ……バカァ」
 硬直しきっていた俺を動かしたのは、消えそうなハルヒの声だった。
「ハルヒッ!」
 回りに誰かが居るかもしれないとか、俺の後ろをついてきていた古泉が見てるかもしれない
とかそんな事はまるで頭になくって
「わ、ななんな、何よ急に!?」
 俺は勢いのまま、ハルヒの体を抱きしめていた。
「ね、ねえキョン? あたし……汚れてるから」
 うるせえ。
 お前が汚れてるだ? こんな事で汚れるようなお前かよ!
「でも、これじゃキョンまで汚れるじゃない」
 遠慮がちに俺を離そうとするハルヒの手を無視して、俺はさらに強くハルヒの体を抱きしめ
ていた。
「そんな事はどうでもいい! ……すまん、来るのが遅くなって」
 もっと早く助けにこれたら……くそっ!
「……そ、そんなの。気にしなくて……いいけど」
 俺の腕の中のハルヒは、照れくさそうな顔で俯いていた。
 
 ――ジジ  ――ジ  ――ジジジ
 
 その仕草が健気で、言葉に出来ない感情が湧きあがる中、
「あっ……また来た!」
 ハルヒのその言葉が、俺の怒りに火をつけた。
 ……いったいどこのどいつだ……ハルヒにこんな事をしやがったのは! ……って。
 怒りのままに俺が振り向いた先には――誰も居ない路地裏が続いていた。
 
 ――ジジジ……  ――ジジジ……
 
 そこには人影も無く、誰かが隠れられそうな場所も見当たらない。
「ハルヒ、そいつはどこに居るんだ?」
「ほら、そこ!」
 俺の後ろでハルヒが指さすのは暗い路地の……ん、妙に指し示す方向が高いな。
 
 ――ジジジジジ  ――ジジジジジ
 
 そんなにでかい奴が居るならすぐに気がつきそうなもんだが……って。
 暗闇に目が慣れていないのかと思い、目を凝らした俺は「それ」を見つけてしまったんだ。
 それは、こちらに向かって
 
 ジジジジジジジジジジジジジジジジ!!
 
 群れをなして飛んでくる、蝉の大群の姿を。
「な、なんじゃこりゃあ!!」
 10や20じゃない、まるで路地を埋めるような数の蝉が我先にと飛びかかってくる。
「バカっ! ぼおっとしてないで逃げるのっ! ほらっ早く!」
 ハルヒに襟首を引っ張られたまま路地の角へと逃げ込んだ俺達だったが、いったんは通り過
ぎていった蝉の群れはすぐに引き返して俺達へと向かって追いかけてくるのだった。
「お、おいハルヒ! 何であの蝉は追ってくるんだよ?!」
「知らないわよそんなの!?」
 路地から歩道へと飛び出した所で、
「お二人とも、こちらへ早く!」
 黒塗りタクシーの後部座席の扉を開けた状態で、古泉が待っていてくれた。
 ナイスだ古泉っ!
 心の中で手放しに褒めて後部座席に俺が飛び込み、
「古泉君も早く!」
 続いてハルヒが飛び乗った瞬間、タクシーの扉は閉められた。
 そのままタクシーは滑るように加速を始め、追いすがってきていた蝉達も小さく消えていく。
「え? ちょ、ちょっと待ってよ!? 古泉君がまだ!」
 焦る口調のハルヒに向かって、運転手は車を止めないまま軽く振り向き、
「申し訳ありません。お二人が乗られたらすぐに車を出すようにと彼から言われておりまして」
 暴走とも言える乱暴な運転からは想像もできない程落ち着いた声、幾多の時を過ごしてきた
深みを感じさせる顔のその運転手は
「新川さん!?」
 同時に発せられた俺とハルヒの声に、新川さんは嬉しそうに目を細めた。
「お久しぶりで御座います。お二人とは、夏の別荘以来でしたか」
 いや、そんな挨拶はいいですから。
「そんな事より。新川さん、どうして古泉を置いてきたんですか?」
「大丈夫です、彼は他の同士によって回収される手筈となっております」
 視線を前へと戻した新川さんは、バックミラー越しに頷いて見せる。
 それなら、まあ大丈夫なんだろうが……。
「ちょ……ちょっとキョン。何で急に新川さんがここに居て……それに、同士って何なのよ? 
古泉君を置いてきた事と、それってどんな関係があるの?」
 ぐ、しまった。隣にハルヒが居たんだったな。
 いくらなんでも古泉は謎の機関の一員で、新川さんはその仲間だとは言えない……というか
言った所で信じないだろうし。
「えっと……実はなハルヒ、古泉とこの新川さんはある劇団の団員で」
「劇団?」
 思いつくままに、俺は続けた。
「そうだ。それで新川さんはカースタントも勉強してるからこんな凄い運転ができるんだ」
「……本当なの? 新川さん」
「はい。お恥ずかしながら、その通りでございます」
 ナイス演技です新川さん!
 新川さんの余裕のある大人の雰囲気はともかく、やはり俺の苦しい言い訳ではハルヒは納得
出来ない様子だったが
「……」
 それ以上追及するのは止めて、大人しくシートにもたれ込むのだった。
 やれやれ……って、落ち着く前に聞く事があるか。
「なぁハルヒ」
「何?」
 やけに疲れた顔だな、まあ気持ちは解るが。
「夕方、お前が電話をかけてきた時に言ってたのって」
「そ、あの蝉の事よ。みんなと別れてから暫くして、家に向かって歩いてたら大量の蝉が向か
ってきたわけ。町中にあんなに大量の蝉が居るって時点で意味が解らないけど……もっとおか
しいのは、蝉があたしだけを追いかけてくるって事よ」
 そうかい。
 ……ったく、心配させやがって。
「あ、何よそのどうでもいいって顔は?! あいつら数が多過ぎで叩き落としきれないし、ど
んどん数が増えるわ服の中にまで飛び込んでくるしで大変だったんだからね!」
 まあそう怒るなって。
 俺がしてた想像とは、雲泥の差があるほどましな展開だったんだからな。
「あ~あ……服も汚れちゃったし、顔も……。ねえキョン、あんたウェットティッシュって持
って無い?」
「見ての通り手ぶらだ」
 ……ところで、ウェットティッシュなんて何に使うつもりなんだ?
「い、いいの! あんたは気にしなくて」
 何を急に恥ずかしがってるんだ?
 ――その後、何故かハルヒは俺から離れて座ろうと狭い車内で無駄な努力を続けている内に
「到着致しました。お疲れ様です、どうぞごゆっくりお休みください」
 黒塗りタクシーはハザードをたいて緩やかに減速し、ハルヒの家の前に止まった。
 しかし、
「……」
 何故かハルヒは動き出そうとせず、シートに座ったままその場でじっとしている。
「どうしたんだ、降りないのか?」
「え? あ、うん」
 ハルヒはちらちらと俺の方へと視線を送り、何かを気にして――あ
「料金の事なら、俺が家まで送ってもらった後に払っておくから気にしなくていいぞ」
 まあ、古泉に頼んでタダにしてもらうつもりなんだが。
「そうじゃなくて……キョン。あんたこの後って……暇?」
 暇かどうかと聞かれれば暇だろうが、できればゆっくり体を休めたいんだがな。
 そうはっきり言おうかとも思ったんだが、
「……」
 暗い車内のせいなのか普段とは違って頼りなく見えるハルヒに、俺はただ頷いていた。
 
 
 プルルルルル プッ――
「やあ、どうも」
 その声からすると、お前も無事だったみたいだな。
「ご心配をおかけしました。新川さんから聞きましたが……あなたは、今」
 ああ、ハルヒの家に居るよ。
「そうでしたか、ではまた明日」
 っておい待て古泉、何を急いで切ろうとしてるんだ?
「新川の調べによれば、今日涼宮さんのご家族は彼女を除いて親戚の家に泊まりに出かけてい
ます。つまり……夏の夜、一つ屋根の下に高校生の男女が居る」
 無駄に深読みするんじゃねえ。
 この家にハルヒしか居ないのは事実だが、別にそれが目的で上がり込んだんじゃねえよ。
「おや、それ……とは何の事ですか?」
 古泉。
「じょ、冗談です。怖い声を出さないでください、涼宮さんに聞こえますよ?」
 それなら大丈夫だ、あいつは今――
『ちょっとキョン。あんたさっきから誰と話してるのよ?』
「古泉だよ、あいつも無事だそうだ」
 浴室まで聞こえるように大きな声を出すと、
『あ、古泉君? あの後大丈夫だったの?』
 どうなんだ?
「ええ。蝉もどこかへ去っていきましたし、怪我も無く明日の活動に支障はありません」
 そうかい、怪我も無いし無事らしいぞ!
『よかった……あたしからも、今日はありがとうって言っておいて!』
 あいよ。聞こえたか。
「ええ、しっかりと。それより今の涼宮さんの声、妙に反響してましたね」
 ハルヒが今、シャワーを浴びてるからじゃないか。
「入浴中の涼宮さんとあなたが会話できるという事はつまり、あなたは今脱衣所に居らっしゃ
るんですね?」
 何でお前がそんなに楽しそうなのか解らんが、まあそうだ……って古泉、先に言っておくが
俺は好きでこんな所に居るんじゃないからな?
「大丈夫、解っていますよ」
 本当か? ハルヒが例の蝉を怖がってるから、仕方なく俺が付き合ってやってるんであって、
「安心してください。僕は、あなたの本意をちゃんと理解していますから」
 ……まあ、それならいいんだが。
「また何かあれば連絡してください。……ああそれと、いざという時に無いと困りますから、
やはり先に準備しておく方がいいと僕は思います。それでは、また」
 そう早口で言いきって、古泉は俺の返事を待たないまま電話を切ってしまった。
 準備? 準備っていったい何の事……ってあいつ! やっぱり誤解してんじゃねぇか!
 脱衣籠に投げ込んだ携帯は、音も無くバスタオルの隙間に潜り込んだ。
 あの野郎、明日あったら覚えてろよ。
『……ねえキョン?』
 何だ。
『よかった。急に声が聞こえなくなったから、居ないのかなって思って』
 浴室で反響したハルヒの声は、本当にほっとしているみたいに聞こえた。
 こんな気弱なハルヒは初めてな気がするが……ま、あんな体験をすれば無理もないよな。
『あのさ……』
 ん。
『あの蝉って、やっぱり……捕まえたあたしを恨んでるから追いかけてきたのかな』
 ……どうだろうな。
 蝉が捕まえただけで追いかけてくる様な危険な生き物だなんて話は聞いた事が無い、となれ
ばやはり原因はハルヒの力のせいなんだろうし。
「原因は何にしろ、だ。お前が無事で良かったよ」
 さっきまでハルヒが着ていた衣類が回っている洗濯機にもたれつつ、俺はため息をついた。
 ――お互いに口を閉ざしてしまえば、聞こえるのは洗濯機の回る機械音とハルヒの浴びてい
るシャワーの音だけ。
 古泉が言った「この家には今、俺とハルヒしか居ない」という言葉の意味を何となく自分で
も考えていると、
『キョン、そこに居る?』
 ああ、ちゃんと居るよ。
『声が聞こえないと不安だから、何でもいいから何か喋っててよ』
 俺はラジオのDJじゃないんだが。
 静かなのが不安だったら、携帯でラジオでもかけてやろうか?
『ラジオじゃそこに誰か居るって証明にはならないじゃない』
 へいへい……じゃ、話題は何がいい?
 蝉関係以外、って事だけは解るが。
『そうね………………』
 話題が思いつかないなら美味しいカレーの作り方になるぞ。
 ちなみに、俺にそれを語らせたら2時間コースだ。
『……路地裏でさ』
 ん?
『路地裏であたしを見つけた時、どうして……その、あたしをだ、抱きしめてきたのかを教え
なさい』
 ……何を言い出すかと思えば。っていうかそれは話題じゃなくて質問だ。
「そんな事を聞いてどうするつもりだ」
 セクハラで訴えるのか?
『い、いいから言いなさいよ!』
 言いなさいよって言われてもな……。
 あの時はただ、お前を見つける事しか頭に無かったんだし、
「別に、特に深い意図はない」
 って事になるよな。
『なっ何それ?! あんた、所構わず誰にでもあんな事してるの!?」
 話が飛躍しすぎだ。
「そもそもだ。俺はお前が痴漢か何か襲われてるんじゃないかって思ってたから焦っていた訳
で、相手が蝉だって知ってたらあんな事は」
『ば、ばっかじゃないの!? このあたしが痴漢如きにどうにかされる様な女だとでも思って
るわけ?』
 その発言を聞く限り、もう二度と思わないだろうな。
 普段通り過ぎるハルヒの声に、俺は疲労を感じて脱衣所の床に座り込んだ。
「ハルヒ、俺もお前がそんなか弱い奴じゃないって事くらいしってるさ。でもな、夕方の電話
は急に切れてそれっきり繋がらなくなっちまったし……結構真面目に心配してたんだぜ」
 考えなしに古泉を頼っちまうくらいにな。
『あ……』
「それで、あの路地裏で座りこんでるお前を見つけた時、俺は最悪の想像が当たったんじゃな
いかって思ったのさ……悪かったな、勘違いであんな事して」
 未必の故意により、情状酌量の余地ありって事で無罪で頼む。
 小さく揺れる洗濯機を眺めながらのんびりとハルヒの返事を待っていると、
『で』
 ……で? 続きを言えって意味か?
 何となく俺が浴室へ顔を向けるのとほぼ同時、まるで狙ったかのようなタイミングで浴室の
扉は開けられ、そこには大きく目を見開いたハルヒが立っていた――っておいっ?! 
「ばっお、おいハルヒ! 少しは隠せ!?」
 慌てて俺が顔を隠したのも無理はないだろう、なんせハルヒはバスタオルどころか何も体に
身につけておらず、解りやすく言えば全裸で立っていたのだから。
 いくらお前が男子なんてジャガイモ程度にしか思ってなくてもだ、ジャガイモの方はお前を
野菜の一種だと思っているとは限らな
「出た」
 ……出たって、何が。
 見ての通り、俺は両手で顔を隠してるから何も見えないんだが?
 脱衣所に座り込んだままでいた俺の手を誰かの手が強引に外し、結果として視界を覆う物が
無くなってしまった俺が見たのはハルヒの姿……ではなく、浴室の換気扇から侵入してこよう
とする、蝉の姿だった。
 湯気に覆われた浴室換気扇の隙間から、一つ、また一つと黒い塊が落ちて浴槽に消えていく。
 その数は次第に増えていき、俺とハルヒは音をたてないようにゆっくりと後ずさりを始めて
いた。
 その時換気扇は止まっていて、壁に取り付けてあるスイッチを押しさえすればあの蝉は止ま
るんだって事は解っていた。解ってはいたんだが……
「せっせせせ」
 俺の腕を掴むハルヒの手と同様に、俺の体も小刻みに震えていた。
 震える指先がその黒い姿を指し示した時、
 
 ジジジジジジジジジジジジジジジジ!!
 
 聞き覚えのある泣き声が浴室に響き始めた。
「も、もういやー!!」
 悲鳴を上げてハルヒは飛び出し……っておい! 俺の手を掴んだまま走るなっ? っていう
かバスタオルくらい体に巻けって! なあ?!
 俺の苦情も耳に入らないのか、ハルヒは俺を連れたまま脱衣所を飛び出し、そのまま二階へ
と階段を駆け上がっていった。
 手を繋いだまま、しかも前を走るハルヒから視線を反らしつつ階段を上るってのはかなり高
難易度な訳で、階段をあがったすぐの部屋に連れ込まれるまでに、俺は何箇所か足をぶつけて
いた。
 く……痛ってー。ハルヒ、気持ちは解るがもう少し落ち着いてって……聞いてないな。 
 相変わらず全裸のままでいるハルヒは、部屋の入り口で座り込む俺を無視してドアの鍵をか
けると、すぐに窓の確認へと向かった。
 その間、俺はといえば……ハルヒの裸を見ていたら後が怖いと思い、初めて入ったハルヒの
部屋――多分ハルヒの部屋だろ――の様子をのんびりと眺めていた。
 意外に可愛い趣味の内装の部屋にはぬいぐるみがいくつもならび、机の上には俺とは違って
ちゃんと高校生らしく参考書が並んでいる。
 ……勉強なんてしない奴だとばかり思ってたが。
 意外な一面を見つけた気がして、机の様子をじっと見ていると
「――あっ! み、み見るなバカぁ!!」
 声と同時に飛んできた枕で、俺は大人しく顔を覆った。
 ったく、気づくのが遅いんだよ。
 それから暫くの間、俺は自分の顔を枕で覆ったまま床に座っているという何ともシュールな
状態でいた訳なのだが、
「……も、もういいわよ」
 僅か十数秒後、ハルヒはそう言ってきた。
 そんなに早く着替えって出来るものなのか? とも思ったが、まあ本人がいいって言うんだ。
 少し考えればおかしいと解る事だってのは重々承知しているが、特に深く考えないまま枕を
下ろした俺を誰が責められようか。
 そこに居たのは、ベットの上で恥ずかしそうに顔を反らしている――全裸のハルヒだった。
「この馬鹿っ!」
「なっ何よ、急に!?」
 慌てて枕を拾いなおして自分の視界を隠してから、俺はハルヒが座っていたベットのあった
辺りを指差し
「服を着ろ! 服を!」
 どうにも俺を男と認識しない団長に、そう指摘してやった。
「え、服? ……って、このエロキョン! スケベ! 変態!」
 罵詈雑言と共に、背中めがけてぬいぐるみらしき物を投げつけられる様な事を、果たして俺
はしたんだろうか。
 それから数分後、
「……いいわよ、今度こそ」
 そんなハルヒの声が聞こえても、俺はすぐには枕を下ろさなかった。
 二度ある事は何とやらって言うしな、用心に越した事はない。
 少しずつ、ほんの少しずつ枕を下げていった先に見えてきたのは
「……」
 ちゃんと服を着た、今度こそまともな状態のハルヒだった。
 ったく……驚かせやがって。
 だいたいさっきは何でいいって言ったんだ? とも聞いてみたかったが、不可抗力とはいえ
裸を見てしまったという罪悪感から、俺はそれを聞けなかった。
 色々と思い出してしまい、自分の顔が赤くなるのを感じていると
「……スケベ」
 ベットの上から見下ろすハルヒは、不満げな声でそう言った。
 誰がだ。
「あんたしか居ないじゃない! ……誰にも、見せた事なかったのに」
 だったら着替えの時にももう少し羞恥心って物を持ってくれ。毎回毎回教室から逃げ出す方
も結構大変なんだぜ?
「うう、うっさい! ……ねえ。全部、見たの」
 殆ど見てない。
 ――ほんの少しだけしかな。
「本当?」
「ああ。あの蝉から逃げるので必死で、そんな余裕は無かったさ」
「……」
 俺の口から蝉の名前が出た後、ハルヒはさっきの浴室での光景を思い出したのか急に黙って
しまった。
 それにしても、まさか家にまで入って来るとは。
 ここまで来ると疑いようも無く蝉の狙いはハルヒであり、その原因はハルヒの力に関わる事
なんだろう。そうでもなければ説明がつかない。
 だが、それならハルヒはいったい何を願ったって言うんだ?
 意識的にしろ無意識にしろ、こんな風に蝉に追われる事をハルヒが望んでいるとは思えない。
 今だって、スリルを楽しんでるどころか本気で怖がってる様にしか見えないし。
 こうなったらもう、古泉か長門に頼るしか……あ。
 ハルヒ。お前今、携帯って持ってるか?
「え? あるけど、自分のはどうしたのよ」
「脱衣所に置いて来ちまったらしい」
 今からあの脱衣所に戻るってのは勘弁願いたいぜ、仮に蝉の狙いがハルヒだとしても、蝉に
まみれた個室に入るってのはトラウマものだ。
 そんな汚れ役は古泉に任せればいいと呑気に構えていた俺だったのだが、
「……確かこの辺に……あ、あれ?」 
 鞄を膝に乗せ、中を探していたハルヒから聞こえてきた不安げな声に俺は耳を疑った。
 まさか……ハルヒ。
 こ、こんな時に人を驚かせるのはよくないぞー……って、その顔は、もしかして。
「……ない」
 表情の無い顔でハルヒがそう呟いた時、1階から電話の鳴る音が聞こえてきた。
 その音は静まり返っていたハルヒの部屋に痛い程鳴り響き、俺とハルヒがお互いに動き出せ
ないでいる間も続いている。
 コール音が4回目を終えた所で、
「そっか! 携帯が繋がらないから誰かがかけてきてくれたのかも!」
 耐えきれずに、ハルヒがベットの上から飛び出した。
 ま、待てハルヒ!
「何よ! 早く出ないと電話が切れちゃうでしょ? それともあんたはあの脱衣所に入る勇気
があるわけ?!」
 ドアノブの鍵を開けようとするハルヒの手を押さえつつ、
「その前に、お前の家の電話はどこに置いてあるんだ?」
「え? リビングの……壁際に」
 リビングの壁際、って事はつまり……脱衣所の横か。
 浴室での光景を思い出したのか、ドアノブからハルヒは手を離した。
 電話のある詳しい場所はハルヒにしか解らないが……しゃあない。
「俺が行く。誰かに来てもらうように頼んでくるから、お前はここで待ってろ」
「えっでも……家の中には蝉が居るかも」
「確かに俺も行きたくは無いが……でもそんな事を言ってられないだろ? 脱衣所寄りはリビ
ングの方がましだろうし、こんな異常な状態で夜が明けるのを待つなんて正直耐えられそうに
ない。このままじゃトイレにも行けやしないからな」
 ついでに言えば、お前の両親がこんな状況に戻ってきてしまったらどうなる事か。
「……」
 ハルヒにもそれは解っているのだろうが、その顔は何故か納得いかなかった様子だった。
 何だよ、まさか俺に助けられるのが嫌だってのか?
「そ、そんな訳ないじゃない。……ただ、心配だから」
 お前に心配してもらえる日が来るとはな……長生きはしてみるもんだぜ。
 ハルヒのベットの上にあったタオルケットを頭から被ってから俺はドアノブに手をかけた。
 まあ、世界広しといえど蝉のせいで死んだ奴は居ないだろうが念の為だ。
「じゃあ行ってくる。お前はそこで布団被って待ってろ」
「……キョン」
 何だ、言いたい事があるなら早くしろ?
「気をつけてね?」
 布団を被ったハルヒの口から出た、予想外に優しい言葉に一瞬今が異常事態だという事を忘
れかけた俺だったが……。
 ――再び聞こえたコール音に、何かの鳴き声が混じっている事に気づいてしまったんだ。
 ドアを前に静止する俺を見ても何も言わないって事は、ハルヒにもその鳴き声が聞こえてし
まったんだろう。
 でも、もしかしたらほんの数匹かもしれない。
 それに、下の階で飛び回っているだけで2階には居ないかもしれないじゃないか。
 蝉には部屋の区別なんて出来ない、そう信じながら俺は……そっと、ドアを開けた。
 カチャ、という金属音に緊張しつつも、そのままゆっくりとドアを押しておくと……、ドア
の枠から侵入してこようとする無数の細かい何かを前に、俺は勢いよくドアを閉めた。
 ドアを閉める瞬間、固い何かを巻き込む様な音がいくつも響き、俺は急いでドアに鍵をかけ
るとそのまま部屋の奥へと逃げ込んだ。
 蝉くらいでビビるな? そうだな、そうだろうさ。
 だが問題は数だ、ドアの隙間から侵入しようとして絶命した蝉の数はざっと……数えたくも
ない。ドアの隙間にはびっしりと蝉の体液が飛び散っていて、無残な姿になった死骸も床に落
ちたまま。
 俺だけなら蝉を無視して廊下に飛び出せばいいのかもしれんが、
「……」
 ドアを開ければ、外で待ちかまえている蝉共を大量にこの部屋の中に入れてしまう事になる
だろう。
 ハルヒもそれが解っているらしく何も言ってこない、そして俺もどうすればいいのか解らず
立ちつくしている間に――リビングから聞こえていたコール音が、途絶えた。
 助けを呼ぶ事も、逃げ出す事もできないとなると……そうだ! 窓があるじゃないか!
 急いでカーテンが閉められたままの窓へと駆け寄ると、
「あ、開けちゃだめっ!」
 怯えた様子のハルヒが、必死に首を横に振っていた。
 まさか……こっちも、もう?
 窓枠の前に取り付けられたパステルカラーの遮光カーテンの向こう側を思い浮かべると、俺
にはそのカーテンを開ける事は出来なかった。
 窓の傍に立ってみて初めて気付いたが、カーテンの向こうから何か小さな虫が体当たりを繰
り返す音が聞こえている。
 いくらなんでも蝉が窓を割る事は出来ないだろうが……出来ない、よな?
 足元から始まった震えを止める事が出来ずに、俺はベットに座るハルヒの隣に座った。
 
 
 ――それから、どれくらいの時間が過ぎたんだろうか。
 なるべく窓から離れた位置に座っている俺とハルヒには、窓からもドアからも蝉の鳴き声は
聞こえない。聞こえないんだが……。
 ドアの縁に見える蝉の死骸が、蝉がドアの向こうに居るのだと言っている気がして俺達は動
けずに居た。
 もしも、もしもだ。
 このまま、何事も無く朝が来たとして……蝉は居なくなるのか?
 ハルヒから電話があったのが夕方、あれからすでに数時間が過ぎている。それでもまだ蝉に
は諦める気配がみえず……まさかこのまま、ずっと?
 最悪の想像を振り払うように、俺は頭を横に振った。
「……キョン、何か聞こえない?」
 布団にくるまったままのハルヒがそう呟いた時、俺はそれを窓を叩く蝉の音だと思って
「いや、何も聞こえない」
 そう否定した。
 だがよく見るとハルヒが見ているのは窓ではなく、部屋のドアの方で……耳を澄ました俺に
も、確かに小さなノックの音が聞こえてきた。
 それは遠慮がちな小さな音で、
「もしかして、誰かが来てくれたのかな?」
 そうハルヒが言いだす様に、ドアを叩くリズムも場所も蝉とは違うように思える。
 でも、
「誰が来るんだよ」
「それは……」
 すでに蝉屋敷と化したこの家に入って来れる様な奴がいるか? 例え誰かが来たにしても、
悲鳴の一つも聞こえないのはどう考えたっておかしい。
 空耳だと思い込もうとする間も、そのノックの音は続いていて……思わず布団で耳を塞いだ
俺の手を、ハルヒが掴んで外した。
「ねえ、キョン。逃げよう?」
 逃げるったって、だからドアの外には蝉が。
「わかってる、わかってるけど……もう限界なのよ。これ以上ここに居たら、どうにかなりそ
うなの……。だから、一緒に逃げよう?」
 訴えかけるハルヒの顔には、僅かな余裕も感じられない。
 ……覚悟を、決めるか。
「そうさ、所詮相手は蝉だ」
「そ、そうよ」
 俺はハルヒの手をしっかりと握りしめると、未だにノックが続くドアの前へと進んだ。
「昼間お前が言ってたみたいに、蝉なんて天麩羅にでもしちまえばいいんだ」
「ちょ、そんな怖い事言わないでよ? 天麩羅を見たら、また蝉を思い出しそうじゃない」
 いや、そういう意味で言ったんじゃないんだが……まあいい。
「ともかくだ。ハルヒ、絶対逃げきろうぜ? 明日はみんなでバイトだし、肝試しだってまだ
なんだ」
「……そうよね、うん」
 何度も頷くハルヒは、自分と俺の体を隠すようにタオルケットを被せてきた。
「走って逃げたら階段から落ちるかもしれないし危ないし、一人だと怖いから一緒に歩いて行
きましょ」
 確かにその方がよさそうだ。
 タオルケットの中で俺はハルヒと身を寄せ合い、お互いに顔を見合せながら――そっとドア
を開いた。
 その先で待ちかまえていたのは、俺達を見つめる無感情な目。
 逃げるどころか、その場で俺達が立ち尽くしてしまったのも無理は無い。
 なぜなら、そこに居たのは――
「……お邪魔しました」
 タオルケットに包まり一つになった俺とハルヒを前に、ドアを閉めようとする長門だった。
「ちょ! ちょっと待ってくれ! 閉めるな!」
 慌ててドアを押し返す俺に、何故か長門は頭を下げている。
「ごめんなさい」
 いや、全然謝る所じゃないぞ?
 何故長門が俺達を見て謝るのか……って。
「邪魔をしてしまった」
 長門の目には、俺とハルヒがタオルケットに包まって鍵のかかった部屋から出てきた様に見
える事に俺はようやく気がついた。
 違う! これはお前が思ってる様な事じゃなくってだな!
「そっそうよ有希! あたしがキョンとそんなするはずないじゃない!」 
 同時に弁解を始める俺達を見て、長門は暫く沈黙した後
「大丈夫」
 ゆっくりと頷いた後、
「秘密にしておく」
「だっだから有希、違うんだってばぁ!」
 ハルヒ相手に「いい」「気にしないで」と繰り返す長門の誤解は、中々解けそうになかった。
 
 
 しっかし……あの蝉は何だったんだろうなぁ。
 その後、長門から「蝉が嫌がる匂い」というスプレーボトルを貰ったハルヒは、それを自分
の体だけでなく家中に振りまいて回っていた。
 まあ気持ちは解るぜ、俺だって自分の家が蝉屋敷と化したら同じ様にするだろうさ。
 俺と長門はハルヒが戻るのを玄関で待っているんだが、どたどたと家中を駆け回る足音から
すると、防虫作業は暫くかかりそうだ。
 ちなみに、長門が家に入る段階である程度スプレーしておきてくれたらしく、家の中には殆
ど蝉の姿は見えない。
「ところで長門、お前はどうしてここに?」
 連絡の取りようが無くて困ってたってのに。
「古泉一樹から閉鎖空間の発生と蝉の異常行動についての連絡を受け、涼宮ハルヒに異変が起
きていないかを確認するよう頼まれた」
 ……ハルヒのあの様子からすると、とんでもないサイズの閉鎖空間だったんだろうな。
 まさかとは思うが、神人も蝉サイズとか……想像するのは止めよう、夢に見そうだ。
「なるほどね、ともかくまあ助かったよ。ああそうだ、もし知ってるならついでに教えて欲し
いんだが、あの蝉はいったい何だったんだ?」
「あれは」
「お待たせ!」
 お、ハルヒが来ちまったか。
 空になったボトルを手に、ようやくすっきりした顔のハルヒが戻ってきた。
「こんないい物があったなんて、ほんと文明の進歩って素晴らしいわ~。あ、でもどうしてあ
たし達が蝉で困ってるって知ってたの?」
「蝉に困っていると古泉一樹から聞いて、準備してきた」
「流石は古泉君、ナイスサポートね!」
 あっさり信じてくれて、俺も助かるよ。
「じゃあ、これから3人で何か食べに行きましょう? 生還記念に甘い物とかじゃんじゃん頼
むの! 今日は特別にあたしが奢ってあげるわ!」
 そうだな、俺もこれで全部終わりっていきたい所だが……。
 俺や長門の意見を聞く気もなく玄関から出ようとするハルヒに、
「ハルヒ、俺はパスだ」
 渋々俺は手を挙げた。
「えっ、何で? あんた甘い物苦手だっけ?」
 別にそんな事は無いし、腹も減ってるさ。
「俺はちょっと掃除してくる。このまま家の人が帰ってきたら大事になるだろ」
 そう言って俺が蝉の死骸が転がる家の中を指差すと、
「え、あ、う……お、お願いします」
 珍しい事に、ハルヒは俺に向かって殊勝に頭を下げるのだった。
 こんなハルヒの姿が見られるんなら、たまには蝉に襲われるのも……二度と御免だ。
 
 
「じゃ、先に行ってるね?」
 そう言い残してハルヒと長門が家を出ていった後、俺は気乗りしない体を動かして家の掃除
を始めた。
 床のあちこちに落ちた蝉の死骸はそれ程の数ではなく、今になってみればあれ程恐怖した理
由もよく思い出せない。
 そうさ、別に蝉相手に大怪我をする訳でもないんだし……。
 ジジジッ!
 そんな俺の甘い考えを、壁際で悶えていた一匹の蝉の鳴き声が掻き消してくれた。
 結論、やはり怖い物は怖い。
 浴室の換気扇、浴槽、脱衣所、ついでに携帯を回収、階段……蝉の侵入経路にそって箒をか
けて行く間に、最後の目的地であるハルヒの部屋の前に辿り着いた。
 やっぱりこのドアの回りが一番悲惨か……これは箒だけじゃ綺麗に出来そうにないな。
 とりあえず部屋の中へと入り、ティッシュか何かないかとハルヒの部屋を探していると……
なんだこれ?
 ハルヒの机の引き出しに、何故か伏せた状態で写真立てが入っていた。
 普通、写真立ては机の上に飾る物だと思うんだが……。
 何となく手に取ってみたその写真立ての中には、見覚えのある男の寝顔が写っている。
 っていうか、これ俺じゃねーか?!
 それは、教室の机で眠る俺の顔写真だった。
 あの馬鹿、なんつー悪趣味な物を飾ってるんだ?
 一応確認してみたが、画鋲の跡や落書きは無い様だ。そのままゴミ箱に入れてしまおうかと
も思ったが、それはそれで後が怖い気もする。
 俺は元のあった位置に写真立てを戻し、何も見なかった事にして引き出しを閉めた。
 ――やれやれ、こんなもんかな。
 その後は黙々と作業を進めた結果、それ程時間もかからず蝉の掃除は終わった。
 ったく、今日は散々な目にあったなぁ……。
 ハルヒの奢りで甘い物でも食べて、今日の事は忘れよう。
 レジ袋の中に蝉の死骸を入れてハルヒの家を出た所で、脱衣所で回収した俺の携帯が鳴り始
めた。
 相手は――
「掃除は終わった」
 ああ、ちょうど今終わった所だ。
 ハルヒから預かった家の鍵をかけつつ、俺は長門にそう返事をした。
「あなたがまだ来ない事を、涼宮ハルヒは不満だと口にしている」
 あの馬鹿、長門に対する恩って物を感じてないのか? 下手をすれば、俺達はまだあの部屋
で震えてたかもしれないってのに。
「すまん、なるべく早く行くからもう少し我慢しててくれ。あ、その前に」
 蝉の死骸って普通に捨てていいのか? どっちかって言えば可燃だとは思うが。
「長門、蝉って普通に捨てていいんだっけ」
「蝉?」
「そう、蝉。ハルヒの家に転がってた奴なんだが、家の中のゴミ箱にも捨てるわけにはいかな
いし困ってるんだ」
 どこかその辺に都合良く可燃物収集所が無いかと見まわしていると、
「その蝉の事で、あなたに伝えておく事がある」
 そう前置きした後、長門は静かに話し始めた。
 
 
 ――ゆるゆると立ち上る細い煙が薄れて消える中、俺は自分の足元に作られた小さな土の山
に手を合わせていた。
 街灯の明かりだけが照らす夜の林には、当たり前だが俺以外に誰の姿も無い。
 コンビニで買った線香もこいつらにとってはただ煙いだけかもしれんが……すまん、俺は他
に弔う方法を知らないんだ。
 今日の朝、俺達が捕獲するまでの間自由に飛び回っていた林の一角に、蝉達は今静かに眠っ
ている。
 何て言って詫びればいいのか。それとも、詫びる事すら許されないのか……もしくは、あい
つらにとってはこんな形の終わりですら自然の摂理の一つだと思うのだろうか。
「――あの蝉は、涼宮ハルヒの願望に従っただけ」
 長門は俺に、蝉の異常行動に関する全てを俺に教えてくれた。
 ハルヒは蝉を逃がす時、漠然とした思いで恩返しを望んだんだろう。
 普通に考えれば蝉が人間に出来る恩返しなんて早朝は静かにするくらいだが、そんな人間の
価値観が蝉に通じるはずもない。
「だから蝉達は、涼宮ハルヒを選んだ」
 ……蝉が鳴くのは繁殖の為、自らの子孫を残す為の純粋過ぎる程の欲求。
 お前達はその相手に……ハルヒを選んだだけだったんだな。
 蝉と人間の間に子孫が成立するはずはない、そんな事は遺伝子レベルで解っている事だろう。
 だが、ハルヒの欲求の前にそんな常識すら忘れて……自分達に、出来る限りの方法でハルヒ
の思いに応えようとした。
「……その結果、ハルヒに疎まれ……叩き落とされても」
 その事実は俺の胸に重い何かを残し、俺は中々その場から立ち去る事ができなかった。
 何年も何年も土の中に居て、ようやく出てきたってのに……こんな終わり方を迎える為に、
お前達は産まれてきたのか?
 そんな……そんな事って……。
 夜もなお林の中から聞こえる蝉の鳴き声は絶えず、俺の溜息はその喧噪の中に紛れて消えた。
 
 
 
 後味の悪い話し お題「蝉の恩返し」 ~終わり~

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最終更新:2009年07月20日 01:59