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 日が落ちてもまだ闇には染まりきらない、濃い藍色の夏の夜空に。
 幾つもの打ち上げ花火が、ドン!ドン!パパパパン!とにぎやかな音と共に乱れ咲く様に、会長は遠く目を細めていました。


「うむ、絶景だな。さすがは高級分譲マンション、ロケーションは最高といった所か」
「お気に召しましたなら、幸いです」


 軽い会釈で応じて、わたしもまた彼方の花火へと視線を戻します。これだけ手放しでの賛辞を頂けたなら、ご招待した甲斐があったというものです。でも。


「でも、どうしてわざわざベランダへ?」
「うん?」
「室内でしたら、クーラーもございますのに」


 そう、別にベランダになど出なくても、室内から窓越しに花火を観覧する事は出来るのです。なのにお招きした会長は、それでは駄目だとテーブルを運び出し、キャンプ用の折り畳み式デッキチェアや蚊取り線香までいちいち用意して、このベランダに陣取ったのでした。


「花火という物が単純にその象形を眺めるだけなら、それでも良かろう。だが、お前はひとつ思い違いをしている」


 サンダルにカーゴパンツに開襟シャツというラフな格好で、伊達メガネもテーブルに放り出した会長はそう前置きすると、したり顔でわたしの疑問に切り返してきました。

 

「花火というのはな、この炸裂音、そして空気の震え。それら諸々が加味されてこそ趣きのある物なのだ。窓ガラス越しに見る花火など、テレビの映像と何ら変わらん。喰い道楽番組の料理と同じだ」


 片手のうちわをパタパタと鳴らしながら、会長はもう片方の手を伸ばして茹でたてのとうもろこしの輪切りをひとつ大皿からつまみ上げ、無造作にがぶりと喰い付いてみせます。


「匂いも歯触りも無く、じゅわっと口の中に溢れる汁気も無く、立ち昇る湯気の熱さも無い。居並ぶ果肉の列に前歯を突き立て、一息にこそぐこの愉悦も無い。画面の中の御馳走がどれほど美味そうであっても、結局、本物の感動には敵うまいよ」
「臨場感こそが大事、と?」
「別にテレビの映像を否定はせん。画面で見ても美しい物は美しい。
 が、造形や色彩だけに囚われていては見失ってしまう物もある。目で見る美しさと、肌で感じる美しさ。それらの相乗こそ花火観賞の醍醐味だと言えるのではないかな」


 はあ、と生返事をして、わたしは再び花火の方へ向き直りました。人間の言う美意識に関しては、わたしにはまだまだ理解し難い部分があります。彼のこだわりように、正直「うざっ!」と思うような部分も無くはありません。けれど。


「…そうかもしれませんね」


 ぽそりと、わたしはそう呟いていました。

 

「去年の夏休みにも、わたしはこの部屋から花火を眺めたんです。15498回のループの間に、何度も、何度も。ですがその時は象形として美しい図案を模している程度に思うばかりで、意識を鷲掴みにされるような圧倒的な感慨などは抱けませんでした」


 ちょうど、その時。ドンッ!という大音量が響いたかと思うと、ひときわ大きな六尺玉が夜空一面に広がります。人々の歓声と一緒に届くその爆発音は、ぴりぴりとわたしの肌を震わせました。


「でも今夜の光景は、ずっと記憶に残るような気がします。
 いえ、検索すればわたしは去年の花火のパターンも全て把握できるのですけれど。そういうデータにアクセスするまでもなく、あの色、形、音。薄く漂ってくる硝煙の匂いさえ、目を閉じるだけで全て鮮明に思い出せるような。そんな気がするんです」


 そう伝えてにこりと微笑みかけると、会長は芯だけになったとうもろこしをゴミ袋に放り込んでテーブルに片肘をつき、ふむ、と一声洩らしました。


「来年は直接、花火会場まで出向いてみるか。川べりにレジャーシートを敷いて、耳をつんざくほどの轟音と白煙の中で、出店の肉の少ない焼きソバなんぞをすすりながら下から花火を見上げるのも、なかなか乙なものだ」
「あら、会長は混雑した場所がお嫌いなのでは? 人の群れなどは上から見下ろすに限る、と常々仰っていらしたのに」  
「たまにはそういうのも良かろう。彼女連れならば、人混みに揉まれるのも一概に悪くはない」
「まあ」

 顔は花火の方へ向けたまま、まるで他人事のような口調でうそぶく会長に、ついその真意を確かめたくなって。わたしは柄にも無く、悪い冗談を口にしてしまいました。


「では来年、ぜひお誘いください。その時、わたしがこの世界に存在していれば、ですけれど」

 

 と、そう言い終えた途端。会長が怪訝そうな眼差しをこちらへ向けている事に、わたしは気が付きました。あら、いけません。少しばかりおふざけが過ぎてしまったようです。花火の幻想的な美しさと儚さとが、わたしをしてメランコリックな気分に至らしめたのでしょうか。

 事実、わたし――喜緑江美里は情報統合思念体の指令に従うべき存在であり、その意向によっては来年と言わず明日にでも、あっけなく存在を抹消されている可能性もあり得るのですが。しかしせっかく二人きりの今この時に、そんな仮定の話を持ち出すのは、いかにも愚かしい女のする事です。
 ともかく、この湿った空気を入れ替えなければ。わたしはつとめて明るい声を張り上げました。


「そういえば、冷蔵庫のスイカがちょうどよく冷えた頃合ですね。ただいまお持ちしましょう」


 そうして席を立ったわたしは、そそくさと網戸の方へ向かおうとします。
 ところが、その道すがら。会長の横を通り抜けようとしたわたしの、手首が唐突に掴まれて。「あ」と声を上げる間も無く、ぐいと腕を引かれたわたしの身体は花柄のワンピースごと、羽をもがれた蝶のように彼の胸の中に堕ちていました。
 薄くまぶたを開けば、すぐ目の前に会長のお顔。その細められた双眸が、まっすぐにわたしを見据えています。

 

「綺麗だ」
「………花火が、ですか?」
「ああ、そうだな」


 そらとぼけるわたしに苦笑しながら顔を寄せ、会長は同意も得ずに唇を塞ぎました。わたしを手中にする強引な手段とは裏腹の、そっと撫ぜるようなキス。その切なさに、わたしは抗議の言葉も何もかも忘れさせられてしまいます。そして、ああ。

 確かに、とわたしは胸の内で独りごちました。会長に身を委ねている今は、咲き誇る花火の様相を目にする事は出来ないのですけれど。でも逆にその分、後ろから届く和太鼓の連打にも似た爆音のリズム、そして背中に受ける大気の震動だけで、花火の勇壮さがきちんと伝わってくるのです。なるほど、これが会長の仰っていた『肌で感じる美しさ』というものですか。悪くありませんね。思わずまぶたを閉じ、うっとりとこの雰囲気に浸ってしまいたくなるほどに。


 次々と夜空に昇る大輪の花。麦茶のグラスから響く氷の音。熱い吐息。明滅する光彩と狂気のような炸裂音の奔走の中、互いの素肌からにじむ汗と汗とが、二人の境界線を曖昧にぼやかして。
 フラッシュ撮影のように瞬間だけ照らし出されるベランダに、ふたつの影は、やがてひとつに溶けて行きました。
 
 

 

はなびのよるに   おわり

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