遠くで虫が鳴いている、蒸し暑い夜だった。
赤信号の光に、僕がペダルを漕ぐ足を止めると、僕の右手にぶら下げられたコンビニエンスストアのビニールの袋が、カサカサと音を立てた。
時刻は二十三時。信号機の赤い光の玉のすぐ隣に、僅かに書けた丸い月が浮かんでいる。
信号が青に変わるのを待ち、横断歩道を渡る。交差点を右に曲がると、機関の寮の裏門に取り付けられた、オレンジ色の蛍光灯が光っているのが見えた。
やがて、蛍光灯の光の元に、僕はたどり着く。
自転車を止め、常温のスポーツドリンクが二本だけ入った袋を手に、急ぎ足で屋内へ向かう。
エレベーターで四階へ移動し、一番奥の部屋。表札には何も書かれていない。僕と森さんの暮らす部屋だ。
「森さん?」
玄関に入り、室内に向けて声をかける。返事は無いが、居間の電気がついていて、そこからうー、うーと唸る声が聞こえる。
ダイニングの食卓の上にスポーツドリンクを置き、居間を覗く。二人掛けのソファの上に、横になってうずくまる森さんの姿があった。
月に一度。おそらくこの世で唯一の、彼女が恐怖する痛みが、彼女の体を襲う期間。
今日はまさにその、佳境の日だった。
「森さん、スポーツドリンク買って来ましたよ。今飲みます?」
「……冷たくない?」
「はい、大丈夫です」
「薄くして」
いつもの彼女と比べて、極端に口数が少ない。
うずくまった体勢では、表情も見て取れないため、一瞬、長門さんあたりと会話をしているような気分になる。
僕は言われたとおり、ガラスのコップに半分ほど、スポーツドリンクを注ぎ、そこに常温のミネラルウォーターを注ぎ、彼女の元に届ける。
森さんは体を起し、ソファの背もたれに力なく体を預けて待っている。細い両手が、コップをしっかりと握ったのを確認し、手を離す。
彼女がスポーツドリンクを飲んでいる間に、僕は洗面所からタオルを持ってきて、蛇口の水でぬらし、固く絞ったあと、電子レンジへ放り込んだ。
「まだつらいですか?」
「……少しマシになった」
「何か食べます?」
「それはまだいい」
引き続き長門さんモードの森さんは、コップの中身にちびちびと口をつけながら、僕に掠れた声でそう返した。
クーラーの風が、僕の足元とフローリングの床を一度に冷やしている。
電子レンジが声を上げるのを待って、僕は彼女の元にタオルを届ける。
「頭に乗せます?」
「お腹がいい」
そういうと、彼女はコップを右手に持ち替え、左手でタンクトップのすそをたくし上げる。
白いお腹と、その中心にぽっかりと空いたくぼみに、一瞬僕の左胸が高鳴る。
何を今更。と、心の中で呟き、僕は彼女の穿いているホットパンツのホックを外し、チャックを下ろし、下腹部を露出させる。
黒い下着と白い肌の境目の辺りに、湯気を立てるタオルを乗せる。うー。と、森さんが唸る。
「入院中のほうが楽だったなー」
「退院していきなりこれですもんね」
「お前はいいなー古泉、コレが無くて。私もコレが無いなら、男に生まれたかった」
含み笑いをしながらそう言う口調は、最も過酷なときのそれと比べれば、随分と余裕を取り戻しているようだった。
彼女の言うとおり、僕には生理の経験はない。よって、そのつらさがどの程度のものなのかは分からない。
しかし、彼女のそれは同年代の女性たちが覚える症状と比べて、いささか重過ぎるものであるようなのは分かった。
と、言うよりも、彼女自身がそう言うから、そうなのだろう。という程度のことなのだが。
「この世にこの苦しみさえ無かったらなー」
「この世で唯一、森さんが怖がる痛みですもんね」
「ばか、他にも少しはあるよ。なあ、それよりもうちょっと味のあるもの飲みたい」
「いいですよ、何がいいですか?」
「レモネード。アメリカンなほう」
彼女の唇がにやりと半月形を描く。彼女が所望しているのは、レモネードとは名ばかりの、レモンと砂糖とシナモンを入れたホットワインだった。
「ワインがないんですよ、ザンネンながら」
「じゃあ透明なほうでいいや。てか、そっちのがいい」
そういって、森さんは再びソファに体を預けた。
僕の見る限りも、彼女の体が今、アルコールを求めているとは思えない。
冷蔵庫からレモンジュースの瓶を取り出し、きつめのレモネードを作る。
「閉鎖空間が出なくて良かった、一昨日から」
グラスにストローを添えたところで、彼女がぽつりと呟く。
「もったいないもん、こんなときに出たら」
僕はなんと返すべきか少し考えた後、それが彼女の独り言であるという事実に思い当たり、小さくため息をつく。
「サンキュー」
僕が無言でグラスを差し出す。彼女はストローに口をつけ、ふう。と息を吐く。
手持ち無沙汰になった僕は、彼女の右隣のスペースに腰を下ろし、左手で、汗によって彼女の額に張り付いた髪の毛を指先で取り払う。
上気した肌に触れていると、やがて彼女の上半身が、こつりとこちらへと倒れこんでくる。
濃く濃密な匂いを孕んだ彼女の頭が、僕の左胸の辺りにくる。
僕は心臓の音が彼女に聞こえてしまわないかと、下らない心配をする。
先週まで続いた治療で、彼女の体は幾分軽くなっているようだった。
強がってはいたものの、体中の傷を完治させるのに掛かった体力は、傷の重さ相応の、多くを要したようである。
つい先日まで包帯に包まれていた彼女の肩に、僕はそっと手を乗せる。
お互いの汗によって、濡れた肌同士がぺたりとはりつく。
「最近優しいなお前」
彼女が髪の毛の間から僕を見上げ、軽口をたたく。
何か言葉を返す代わりに、僕はため息をつく。
森さんの言うとおり、僕は近頃彼女に甘い。大概のわがままは聞き入れているし、自分で言うのもなんだが、日常生活では、彼女が女王様のようだった。
「やっぱりお前、私が好きなんだな」
その一言で、僕はあの日、彼女が入院した初日の病室でのやりとりを思い出す。
そして、そのときとまったく同じ思考を走らせる。
僕は森さんが好きなのだろうか?
彼女の体から立ち上るにおいを嗅ぎながら、考える。
やがて、前回と同じ答えに行き着き、僕は三つ目のため息をつく。
「ええ、好きですよ」
「あれ、素直になったな」
「この状況でそれを聴くのはズルです」
森さんが笑うと、彼女の体と僕のからだが触れたところを介して、彼女が揺れ動くのが伝わってくる。
それが一瞬、彼女が体を痙攣させているような気がして、僕はひやりとする。
「耳の後ろの傷、消えたな」
彼女の指先が、僕の髪の毛を掻き分け、敏感な部分に触れる。
ひと月前に彼女に噛まれたその箇所には、もう痛みはない。
「新しいの、つけてやろうか」
「元気になったらにしましょう」
「そうだな。明日だな」
そういって、彼女は再び体を僕に預ける。
僕は不意に、今、携帯電話が鳴らないものかと心配になる。
「あのさあ、さっき、私にも怖いものがあるって言っただろ」
「ええ」
「知りたくないか? 私の弱みだぞ」
「罠っぽいですね。まんじゅう怖いですか」
「あはは、そうかもな」
短く笑った後
「私さ、怖いよ。閉鎖空間が」
彼女は、言った。
窓の向こうで光る夜の街の光景が、一瞬、閉鎖空間を舞う狩り手たちのように見える。
窓を開けたら、涼しい風が入ってきそうだった。
「あそこにいるとさ、自分がどんどん取り返しが付かなくなってくのがわかるんだ」
森さんはぽつぽつと、空中に風船を浮かべるように語った。
「こないださ。あのイカみたいなのにやられたとき、武装を解いて落下したの。あれ、わざとだった」
僕の記憶の中に、ひと月ほど前。彼女と共に戦った、あの三体の神人たちの姿が蘇ってくる。
僕には東京タワーに見えたあの神人は、彼女にとってはイカの神人であったようだ。
「吹っ飛ばされながら、このまま落ちたら、どうなるんだろうって思ったの覚えてるんだ。そしたらもう、体が言うこと利かなかった」
「僕を助けてくださった、あの日、ですよね?」
「助けたのかな。どうなんだろう」
少しの沈黙の後
「私はただ、あそこから落ちたかっただけかもしれない。そう考えると、怖くて怖くて仕方ないんだ」
僕は黙っていた。
「最高だったよ。お前も狩り手なら、わかるだろ? ドキドキした、頭からどんどん血が抜けてくのが分かってさ。
全身がぞくぞくして、ドンドン体が軽くなって。ああ、こりゃイッたなって思ったよ、正直。
だって、あんな最高の気分が、人生の最後じゃなかったら、そのあとの人生、何を求めて生きたらいいんだってぐらい良かった」
僕は想像してみる。彼女の言う、自分が死へと駆け下りているときに生じるであろう快感を。
それは僕の想像でしかなく、おそらく、本来のそれとはまったく違うものだろう。
それでも、僕はその快感を想像することが出来る。
自分のからだが傷つく快感を知っているのだ。
「でも、私は生きてた。たったの三週間ですっかり元通りになっちゃった。
なあ古泉。私さ、あのときのアレが愛しくてしょうがないんだよ。
そのために、また同じことをやるかもしれない。
でも、それでもまた、私は生きてるかもしれない。
あと何回、こんなことが出来るんだろう?
入院してる間、ずっとそんなこと考えてた。お前が来てくれてるとき以外」
「森さん」
それは、僕が何度となく考えたのと、まったく同じことだった。
森さんが、どんどん閉鎖空間に捕らわれていく。
僕から見てもわかるそのことが、彼女自身に分からないはずがなかったのだ。
「おかしいよな。私はあの神人どもを倒して、神様ができるだけ閉鎖空間を作らないようにするためにいるのに。
なのになんで……私が、あの空間がないと生きていけないみたいになってるんだろうな。
ていうか、本気でさ。私、閉鎖空間が無くなったらどうなるんだろう?」
「それは……」
僕は黙り込んでしまう。
「生理のときがさ、一番まともだよ、私は。このときだけは、普通の人間と同じように、痛みにうーうー言ってる。
でも、明日の朝になったらそれもおわりだろうな。私は元気になって、またドマゾに戻ってる。
もうさ、なんか疲れたなって思ったんだ。さっき、お前がコンビニ言ってるとき。
このまま、生理で苦しんでるまともな女のままで死んだら――――」
森さんの言葉は、そこで遮られる。
僕が、彼女の体を抱き寄せたからだ。
「……古泉?」
「すいません」
僕らの周囲の湿度が、僅かに上がったような気がした。
彼女の体から漂う、月経のにおいで、頭がくらくらする。
僕は彼女の言葉を、最後まで聴かずに済んだことを安堵した。
「……お願いします。行ってしまわないでください」
自分の言葉が、どこか遠くの世界で鳴く、虫の鳴き声のように聞こえた。
「古泉」
「すみません、でも……僕は、たとえ閉鎖空間がなくなっても。
あなたがいなくなってしまったら……僕は、ダメなんです」
それが、怖いんです。
自分が何を口走っているのか、うまく整理が出来なかった。
ただ、遥か前から、彼女に告げたかったいくつもの言葉や気持ちが、火蓋を切られた流水のように、頭の中に押し寄せていた。
「あなたを失いたくないんです」
あふれ出す。
「僕はあなたのことが好きなんです」
ひとしきりの気持ちが流れ出してしまうと、僕の頭は熱暴走を起したように、まったく回らなくなってしまった。
クーラーの風がそよぐ部屋の中心で、僕は彼女を抱きしめたまま、しばらくの間放心していた。
どれくらいの時間が経ったのか、それは一瞬、数秒であったようにも思えたし、一時間も二時間もそうしていたようにも思えた。
「ふふ」
やがて、僕の腕の中で、彼女が小さく笑った。
それを合図に、僕の意識はゆっくりと動き出す。
僕は今まで何をしていたんだっけ? ああ、そうだった。たしか、森さんのためにコンビニへ行って……
「ありがとうな、古泉」
ぽんぽん。と、彼女の手が、僕の頭をたたく。
生理の発熱と、僕の体温とで、赤く上気した森さんの頬に、一筋、涙が伝っていた。
絶頂のとき以外では見たことの無い、彼女の涙の意味が、僕にはしばらく分からなかった。
「なんで、私とお前みたいのが、同じところにいるんだろうな」
そう言いながら、彼女は僕の頭をなで続けた。
彼女の言葉の答えを考えようとしたけれど、早くなった心音に邪魔されて、うまく考えることは出来なかった。
ただ、今までで一番、僕から近い場所に、森さんがいる。その一つだけが理解できた。
◆
僕は閉鎖空間の夢を見ている。
どこかの街ではない、ただ、360度、地平線以外を見つけることが出来ない、空と地面だけの閉鎖空間だった。
僕の目の前に、一体の神人がいる。あの日に戦ったのと同じ、イカ、あるいは東京タワーの姿に酷似した神人だ。
僕の体は半ば自動的に、赤い波動を纏い、目の前の神人に攻撃を始める。
僕は空中を大きく迂回しながら、赤い波動球を四つ放ち、そのうちの三つが神人の体に触れ、爆ぜる。
神人の体が折れ曲がり、僕は更に攻撃をしようと、接近する。
……そこで、気づく。
ああ。これはあの日と同じだ。
このままでは、僕は――――
気が付いたときには、もう時は遅い。神人の肉体から、まっすぐに、僕に向けて、新たな触手が放たれる。
細い触手が、一瞬で僕の周囲を舞い、次の瞬間、首元につよい圧迫感を感じる。呼吸ができない。僕は、首を絞められている。
「う……」
触手は僕の首に強力に巻きついている。それを取り払おうと、両手で掴みかかるが、触手を引く力は強く、それはままならない。
やがて、僕の脳は、ぼんやりとした、温かい水のようなものに包まれる。
目の前が薄く曇っていき、今の今まで苦しみに満たされていた胸が、すっと軽くなる。
――ああ、これが。
彼女の言っていたものなのだろうか。
頭の中から、余計なものが一切抜けていき、ただ、体が軽くなって行く。
上を向いているのか、下を向いているのかも分からない。喉の熱さと、頭を燃やすぼんやりとした快楽だけが、世界を包み込んでいた。
◆
「うっ……!!」
泥濘に包まれた意識の中で、首に撒きつくそれを引き剥がしたのは、僕と言う人間の最後の本能だった。
喉に張り付くやわらかいものを掴み、一心不乱にかきむしる。
やがて、強力な力で僕の呼吸を遮っていた何かが、木の実が枝から離れるような感触と共に取り除かれる。
求めていた酸素が、一気に僕の体に流れ込んでくる。それを上手く処理することが出来ず、僕は強く咳き込んだ。
「はあ、はあ……」
気が付くと、僕は仰向けに寝転がっていた。
ここは閉鎖空間ではない。僕と森さんの暮らす部屋の、今のソファの上だった。
酸素の供給と共に、ぼやけた視界がゆっくりと明確になってゆく。
窓から差し込む朝の光が見える。そして、それを背に、僕のからだの上に、何かが圧し掛かっている。
「……こいずみ」
頭の上から、声が降りそそぐ。森さんの声だ。
僕はたった今まで締め付けられていた首に両手を当て、もう三度、深く咳き込む。
「も、り……さん?」
やがて、僕の体の上に覆いかぶさっているその物体が、森さんの肉体であることに、僕は気づく。
逆光で暗く焼きついた森さんの表情は、笑顔。
どうして、森さんが、僕の上に乗っているのだろう。
「古泉、お前も来いよ」
森さんが何を言っているのか分からない。喉が痛い。もう一度咳をする。
森さんは、僕の前で、更に笑顔を綻ばせて
やがて、右手を僕のほうへと差し出してきた。
何がなにやら分からずに、僕は差し出された手を見る。
指の外側に、爪の跡のような傷がある。まだ新しいものだ。
手のひらの中心に、何かが乗っている。
それは、白い錠剤のように見えた。
森さん?
「古泉、一緒になろう」
森さんが、笑う。
「私と一緒に」
END