トキニヘイサクウカンデーノボクハー♪
 
 「む……」
 
 耳元で鳴り響く奇怪な音楽が、僕を夢の世界から現実へと引き戻した。
 音の発生源である携帯電話を手探りで取り、アラームを解除する。
 
 土曜日の朝7時。今日は定例、SOS団不思議探索の日。
 カーテンの間から陽光が射し込んでいて、布団越しの僕の体に、光の線を描いていた。
 
 「ふあーあ」
 
 あくびをしながら半開きになっていた襖戸を開け、廊下に出る。森さんの部屋から、ブーンと言う扇風機の音がする。
 初夏の熱気が篭った廊下を横切り、洗面所へ行き、歯を磨く。
 
 森さんはまだ寝てるのだろうか。それならば、朝食を僕が用意する必要がある。
 でもまあ、休日なんだし、森さんも外食する可能性もある。
 何にしろ話を聞こうと、手早く歯磨きを終えた僕は、森さんの部屋へ向かった。
 
 「あれ、森さん?」
 
 洋室のドアを開けた僕は、そこに探し求めていた人物の姿が見えないことに少しびっくりする。
 布団は敷かれてすらいない。珍しい、自分でたたんだのかな。
 早くから出かけてしまったのだろうかと思い、玄関を確認する。しかし、森さんの二種類の靴は、ちゃんとそこに揃っていた。
 
 再び森さんの部屋に戻った直後。僕は不審な点に気づいた。
 先ほどから聞こえ続けている、このブーンというくぐもった音。
 僕はこれが扇風機の音であると考えていた。しかし、室内の扇風機のスイッチは切られている。
 音は、別の場所からしていた。
 
 「……まさか」
 
 嫌な予感がして、僕はその音がどこから聞こえてくるのかを探し、室内を歩いた。
 探すまでも無く、音の発生源は見つかった。

 ……備え付けのクローゼットの中。
 よーく耳を澄ますと、むー、むーという、うなるような声が聞こえる。
 ……恐る恐る、クローゼットの扉に手を掛ける。
 

 
 
 「……何やってんですか、森さん」
 

 

 
 扉を開くと同時に、内側から立ち込めたのは、人間の体温によって温められた空気。
 そして、クローゼットのカビ臭い匂いの中に、汗のにおいと、それとは別の分泌液との匂いとが混ざり合あった、形容し難い濃厚なにおいだった。
 
 「むー、むー……」
 
 森さんはそこにいた。
 クローゼットの床板の上に、細い体を丸めるようにして、半裸で横たわっていた。
 
 
 「……何言ってんだかわかんないですよ」
 
 何から手をつけたものか。とりあえず、森さんの口を覆い、頭の後ろで縛られている手ぬぐいを取り去る。
 
 「けほ、ひー、ひー……め、目、とって……」
 
 どれぐらいこうしていたのだろう、森さんの口の周りには、タオルの生地の跡がくっきりと残っていた。
 いわれるがままに、僕は続いて、目隠しになっているアイマスクを外してやる。
 森さんは空ろな目いっぱいに涙をためて、しばらく眩しそうに瞬きをした後で、僕を見た。
 
 「お、はよう、こいずみ……これ、とって……」
 
 これ、じゃあわかりません。
 僕はとりあえず、森さんの下半身……性器と、その後ろとに押し込められたまま、ブンブンと唸り続けている二つの獲物を引き抜いた。
 
 「あうっ」
 「この後ろで手縛るのとか、どうやって一人でやったんですか?」
 「ぜー、ぜー……いや、こう、前でやって……縄跳びみたいに……」
 
 体が柔らかいですね。
 僕は続いて、乳首の部分にガムテープで止められているピンクローターを外し、体中のいくつかの部分をつねり上げていた洗濯バサミを取り除いた。
 これでようやく、すこしはまともな姿になった。
 
 「や、昨日の夜、ふと思いついて……でもこれ、酸素うすくなってきて……やば……よかったあ……」
 
 後ろ手を拘束していたテープからも開放されたあとも、森さんは余韻に浸っているのか
 単に疲弊した体を休めているのか、クローゼットの中に横たわったままでいた。
 
 「僕が見つけなかったら、夕方までこのままでしたよ。……シャワーでも行きますか?」
 「ああ、うん、あとでいく……」
 「これは洗って洗面所に置いときますから」
 
 そう言って、先ほどまで森さんの体中に張り付いていたエモノたちを拾い上げ、洗面所へと運ぶ。
 
 「僕今日、不思議探索ですからね。朝ごはんとかどうしましょうか」
 「あー……どっかいく……てきとーにするー」
 
 どうやら朝食の準備に時間をとられる心配は要らないようだ。
 僕は森さんの愛用品たちを手早く水洗いした後、洗濯物の中から半そでのシャツを取り出し、袖を通した。
 いつもの服装に着替えを終え、バッグを肩に下げる。
 家を出る間際に森さんの部屋を覗くと、森さんは体を起し、裸のままクローゼットの床の上で、ぼんやりと虚空を見つめていた。
 
 「……気をつけてくださいね。じゃ、急ぐんで」
 
 そう言い残し、僕は機関の寮を後にし、いつもの駅前を目指して歩き出した。

 
 
      ◆
 
 
 「最近、閉鎖空間のほうはどうだ」
 
 午前中のゲームセンター。コーヒーを飲みながら、ガンゲームでゾンビ無双をしている長門さんを見ていると、不意に彼にそう尋ねられた。
 
 「ええ、最近はそれほど。安定状態にありますよ」
 「そうか。それならいいんだがな」
 「あなたと涼宮さんが大きな諍いを起したりもしていませんしね。感謝してますよ」
 「ま、あいつの機嫌がいいんだろうさ。俺はいつもどおりやってるだけだぜ」
 
 彼はそう言って、微糖の缶コーヒーに口をつける。
 彼に答えたのは事実だ。ここひと月ほどは、閉鎖空間の発生率はとても低く、週に1度、小さなものが有るか、無いかくらいのものだ。
 
 「前から思ってたんだが、訊いてもいいか」
 「はい、何でしょう?」
 「お前らの機関の、神人狩りをする連中ってのは、どういう基準で選ばれてるんだ? やっぱ、超能力の有無か?」
 「そうですね。それや、閉鎖空間への適正……色々とありますが、これらは訓練で多少、伸ばすことが出来ます」
 「超能力もか?」
 「ええ、能力の素養のある人というのは、意外といるものです。もっとも、貴方はその貴重な、素養ゼロの人間でしたが」
 「別にうらやましくも無い」
 「ですから、それらの能力は、素養が皆無でない限り、選定の枠に入りますよ。その中から、色々な点でふるいに掛けるのです」
 
 そう。機関が神人の狩り手を定めるにあたって、最も重要的な先天性の要素がある。
 
 「……先天的マゾヒズムの有無?」
 「はい。それが最も重要です。付け焼刃じゃなくて、生まれながらの、ドマゾってやつです」
 「……冗談で言ってるんだよな?」
 「いいえ、真実ですよ? 神人狩りを行う超能力者はみんな、被虐嗜好者なんです。……僕も例外ではありませんよ」
 「聞きたくも無いカミングアウトだな……」
 
 それは失礼。
 長門さんを見ると、今度は音楽にあわせてタップを踏むゲームで、汗一つ流さずに華麗な舞いを披露している。
 
 
 「……先天的マゾヒズムの有無?」
 「はい。それが最も重要です。付け焼刃じゃなくて、生まれながらの、ドマゾってやつです」
 「……冗談で言ってるんだよな?」
 「いいえ、真実ですよ? 神人狩りを行う超能力者はみんな、被虐嗜好者なんです。……僕も例外ではありませんよ」
 「聞きたくも無いカミングアウトだな……」
 
 それは失礼。
 長門さんを見ると、今度は音楽にあわせてタップを踏むゲームで、汗一つ流さずに華麗な舞いを披露している。
 
 「……マゾと超能力者との間に、どんな関係があるんだ」
 「そうですね。率直に言うと、マゾのほうが強いんですよ。単純に」
 「どうして」
 「僕らは能力を使って身体能力を上昇させて戦いますので、まず、生来の肉体的な要素はあまり重要視されません
  チートを施した上で斗うにあたって、大事なのは、恐怖を感じるか否か、と言うことなのです」
 「恐怖」
 「はい。つまり……一般人は、危険。痛みを感じること。それに直面したとき、どうしてもそれを回避しようとしてしまう」
 「それはそうだろうな」
 「ですが……能力を持つマゾヒストならば。彼らは、自分の身体能力が上昇しており
 通常の人間よりも多くのダメージを受けても耐えられることを知っています。
  その上で……神人の攻撃に対して、恐怖を感じずに……むしろ、その攻撃が自分にもたらすダメージ、その痛みに、一抹の期待を持つんです。
  それによって、我々は神人という、常識を逸脱したモンスターを相手に、捨て身の攻撃を行える……お分かりいただけましたか?」
 「……ようは、痛いのが怖くない奴がいい、って事か」
 「ええ。ただ、単純に痛みへの恐怖が無いだけでなく、そこに快楽を求める精神がある。
  閉鎖空間、神人との戦いに対する期待。それが戦士たちを奮起させる原動力にもなっているんです」
 「……俺にはどうにもこうにも無縁の世界だってことだけは分かった」
 「ええ、貴方はマゾヒストじゃありません。それに超能力の素養も無い。閉鎖空間にはまったくもって向いていない人間ですよ」
 「安心したぜ」
 
 正午まではまだ大分時間がある。
 僕と彼は、長門さんに連れられて、太鼓のゲームがあるという一階へと場所を移された。
 お目当ての太鼓を前した長門さんは、バチを手に、ぱかぱかと軽快な打撃音を鳴らしている。
 
 「しかし、お前らが閉鎖空間を楽しんでるとは思いもしなかったな」
 「不思議でしょう? でも、ある意味、あの状況を楽しめるくらいでなければいけない……そういう方針なんでしょう」
 「でも、それじゃあ……閉鎖空間の出現率が減ってるってのは
  お前らにとって必ずしもいい事だとは言えないじゃないか」
 「はは、そこはさすがに。
  それほど強烈にあの空間に病みつきになってしまうものは……めったにはいませんよ」
 「……お前がそのめったにのヤツじゃなくて良かったよ」
 「ええ、僕もそう思います」
 
 温くなったコーヒーに口をつける。
 
 
 そう。閉鎖空間がもたらす快楽に取り付かれてしまう人間は、めったにはいない。
 そのめったにの内の一人を……僕は良く知っている。
 
 「おー、お帰り」
 
 不思議探索を終えて寮に戻ると、森さんはタンクトップにホットパンツといういでたちで、缶ビールを手にひらひらと僕を出迎えた。
 朝の疲れはもう取れたらしい。シャワーを浴びたばかりなのか、僅かな石鹸の香りがした。
 
 「飯」
 「あれから大丈夫でした? 何か食べたんですか?」
 「いや、結局昼過ぎまでボーっとしてたし、部屋の片付けと風呂とでまだ何も食べてない」
 「よく体力保ちますね。今作るから、ちょっと待っててくださいね」
 「なんか先におつまみね」
 「はいはい」
 
 シャツの上からエプロンを着け、今しがた持ち帰ってきた買い物袋から食材を取り出す。
 鍋に少量のお湯を沸かして、そこにヘタを取り除いて塩をまぶしたオクラを放り込み、数十秒加熱する。
 それをざるにとって、小鉢に並べ、脇に塩を盛り、鰹節をかける。
 
 「さんきゅー」
 
 既に食卓についている森さんは、僕が運んだ小鉢の内容に満足したらしく、塗り箸を手に食事を始めた。
 僕は続いて、メインディッシュに取り掛かる。先ほどから沸かしている、スパゲッティ用の大鍋の湯が、そろそろころあいだ。
 
 「……ねえ森さん、今朝みたいの、出来るだけ控えてくださいよ」
 「え? ああ、あれか。いいじゃんか、別に怪我もしないしさ」
 「今回は良いほうでしたけどね。前みたいにヘンなガス出して救急車のお世話になったり、窒息寸前まで首絞めたりとか」
 「わかってるわかってる、あれはやりすぎたって。ごめんごめん」
 
 僕は本気で心配していても、森さんはあっけらかんとした様子で、笑いながらビールを飲んでいる。
 その感覚の違いに、僕は少しあきれた気分になりながら、スパゲッティを茹でる。
 
 「……最近、閉鎖空間が少ないからですか?」
 「何が?」
 「今朝みたいのするのは」
 「……まあ、そりゃそうだけどな。でも、古泉」
 
 缶をテーブルの上に置き、森さんは少し、声のトーンを落として言う。
 
 「勘違いしちゃダメだ。涼宮ハルヒの精神が安定して、世界の崩壊が免れる。閉鎖空間も縮小する。
  それが私たちの機関が目指す世界の安定なんだ。
  その本文を忘れるほど、私もバカじゃない」
 
 ……口ではそう言ってくれますけどね。僕は声に出さず、ため息を漏らす。
 そう言いながら、閉鎖空間がご無沙汰になると、下手すりゃ死ぬかもしれないようなオナニーに走り始めるのは、森さん自身じゃないですか。
 
 「……こないだの夜なんか、覚えてます? あれ」
 「あ? 酔っ払ってるとき? だとちょっと覚えてないかも」
 「……そうですか、ならいいです」
 
 僕はため息をつきつつ、数日前の夜、泥酔した森さんに寝込みを襲われ、言われた一言を思い出す。
 
 
 "なあ古泉、これであたしのこと刺してくれないか?"
 
 
 ……森さん。アイスピックはバイブとは違うんですよ。
 そう言って僕は、森さんを自室へと運んだ後、森さんの部屋中から、怪我をする危険性のあるものを片っ端から排除し、その晩はドアの前で一晩中見張り続けた。
 放っておけば、彼女が自分で、アイスピックやナイフで体を慰めはじめてしまうと思ったからだ。
 
 「……ほんと、ああいうの心臓に悪いんだから」
 
 ぼやきながら、茹で上がったスパゲッティをソースパンの上に移し、オイルを絡める。
 二人分のそれを大皿に盛り付け、専用のトングを添えた後、二人分の小皿と共に食卓へ運ぶ。
 小鉢をすっかり平らげた森さんは、三本目の缶ビールを手に取り、僕の運んだ料理を楽しそうに自分の皿へと取る。
 
 「うまいうまい、やっぱ古泉帰ってくるまで待っててよかったわ」
 「お粗末さまです」
 
 冷蔵庫から作りおきされていたポテトサラダを取り出し、タッパーのまま机に置く。
 イタリアかぶれのドイツ人のような食卓になったな。と、どうでもいいことを考える。
 
 
     ◆
 
 
 「それよりお前さ、ここんとこ……してないじゃないか?」
 「は?」
 
 食事を終えた後。ちゃぶ台の上で課題を広げていた僕に、森さんがそう言ってきた。
 見ると、もう4、5本はビールを飲んだらしく、肌は上気し、目が潤んでいる。
 
 「だからあ、あれよあれ。朝から目に毒なもの見せちゃったしさー」
 
 嫌な予感。それを感じると同時に、僕の右肩が、森さんの足の裏に蹴られ、体がぐるりと回転する。
 一瞬の抵抗の余地もなく、僕は仰向けに寝かされ、森さんにのしかかられてしまう。
 
 「閉鎖空間なくて溜まってるんじゃないかなーと思って」
 「そんな、別に……」
 「はいはい、抵抗しない、同居人のよしみで手伝ってあげようか」
 
 こうなった森さんは、誰に求められない。僕のシャツのボタンは彼女によって手早く外され、ベルトとショーツを一度に取り去られてしまう。
 森さんが僕の胸に口をつける。最初は、唇のやわらかな感触。その後に、すぐに硬い歯の感触がして、僕の背中に、快楽の波が押し寄せてくる。
 森さんは乳首を含む胸のあちこちに歯を立てながら、両手で僕の下半身をまさぐり、徐々に隆起しはじめた男性器の根元を掴み
 もう一方の手の指を、僕のアヌスへと宛がう。
 
 「森さん、ちょっと……あ、やめ……」
 「いまどきそんな声、女の子でも出さないぞ」
 
 そんなことはないだろ。なんてことを考えているうちに、森さんの指が、僕の直腸の中へと押し込まれる。
 冷たい感触。伸びた爪が腸壁に触れると、痛い。無造作にうごめくそれが、徐々に痛みから快感に変わって行く。
 腸を弄られながら、彼女は僕の胸につけた歯形を、一つづつ、今度は暖かい舌の先で愛撫する。
 森さんの指と舌が、一挙一動蠢く度に、背中を快感が走る。久々に受ける愛撫に、これ以上は保ちそうにない。
 彼女の舌が、僕の右耳の後ろに触れる。その直後、これまでよりもよほど強い痛みが走る。
 
 「あいっ……ちょっと、森さん!」
 「悪い、強すぎた。ここは閉鎖空間じゃなかったっけな」
 「こんな閉鎖空間、ないですよ……」
 
 森さんは最後まで楽しそうに、僕のからだ中を蹂躙していた。
 泥の中でもまれるような感覚の中で、僕は彼女の手の中に射精した。
 腰から何か大事な筋が引き抜かれてしまったような気がした。
 
 
     ◆
 
 
 「……森さんにとって」
 
 行為の後で。手を洗い終えて、居間へと戻ってきた彼女に話しかける。
 
 「閉鎖空間は……今してくれたよりも、気持ちのいいものなんですか?」
 
 彼女はきょとんとした顔で、僕を見る。
 僕の記憶の中にある、いくつかの森さんの顔……神人の攻撃を受け、地面に伏したときに浮かべていた、快楽の表情たちが重なり、フラッシュバックする。
 
 「さあ、そんなのお前にも私にも分からんだろ。自分で確かめるしかない」
 「……そんな勇気は、僕には無いです」
 
 神人の腕に体をへし折られながら、神人の足に体を踏み砕かれながら、オーガズムに喘ぐ。
 僕にそんなことが可能だとは思えなかった。
 
 
     ◆
 
 
 僕は思い出す。
 彼女と同じように、閉鎖空間に快楽を求め、閉鎖空間を天国とまで呼んだ人のことを。
 そして、やがて本当の天国へと旅立ってしまった、その人のことを。
 
 
     ◆
 
 
 「今日は不思議探索いかないの?」
 
 ベランダで洗濯物を干していると、ミネラルウォーターの容器を片手に、森さんが話しかけてきた。
 タンクトップにホットパンツのいつもの姿。僕はそれとなく、窓の外から森さんの姿が見えないように、立ち位置を調節する。
 
 「ええ、先週は特例だったんですよ。今日はお休みです。彼と涼宮さんはなにやら出かけられるそうですが」
 「デートってやつかあ。いいなあデート。調査対象のご機嫌も良好でなによりだな」
 
 森さんは笑う。
 確かに、彼と涼宮さんはこのごろ特に仲が良い。
 それ故に、安心だとは思う。けれど……彼と涼宮さんが外出するということは、一歩間違えれば、涼宮さんの心象を大きく変える可能性もある。
 何事も無ければ良いんだけどな―――僕は声に出さずにそう呟く。
 しかし、その直後。

 pipipi...
 
 通常の着信音とは異なる、専用の機械音が、僕と森さんの二つの携帯から、同時に鳴り響いた。
 
 
     ◆
 
 
 新川さんの車を降りた直後から、空は灰色に染め替えられていた。
 遠くに三体。繁華街を這うようにうごめく、大型の神人の姿がある。
 
 「こりゃ、でかいな。キョンめ、やってくれたな」
 「彼が原因と、決まったわけではないですよ」
 
 森さんの言葉に、友人としての一抹のフォローをしながら、全身に波動を纏う。
 僕が飛び上がると同時に、森さんもまた、赤い球体となり、空中に舞い上がった。
 
 「B班、E班が後に合流します!」
 「はいよっ」
 
 空中で別の超能力者にそう告げられ、僕は戦線を確認する。到着した僕ら二人を含めて、戦闘中の狩り手は5人。
 人数的には問題なかったが、何しろ神人がトップクラスの大きさのやつだった。
 キョン君。本当にやってくれましたね。と、心の片隅で、僅かに彼のことを呪う。
 
 「いっきまーす!!」
 
 確認もそこそこに、僕の隣の空間を貫き、森さんが戦線へと突撃して行く。僕もそれに続いた。
 程なくして、残りの超能力者も到着し、数は3vs9。一体に3人で取り掛かれば、そう難しい戦いでもなかった。
 僕はやがて、3体のうちの一体を細切れにすることに成功し、残る2体と戦う組へと合流しようとした。
 森さんとB班が対峙しているのは、さきほど形状を変え、東京タワーに触手を生やしたような、巨大な神人だった。
 僕はその触手に触れないように軽快しながら、波動球を撃つ。
 四度放ったうちの三発が胴体に命中し、神人の体は、その部分を境目に折れ、上半身が傾き始めた。
 そこに更に弾を撃ち込もうと、接近した瞬間だった。
 
 「古泉!」
 「!」
 
 背後で仲間の声がする。が、遅い。
 神人の体の折れた口から、新たな触手が生まれ、それが一直線に、僕に向けて放たれたのだ。
 攻撃は速く、確実に僕を標的としている。しかし、回避できない。間に合わない。
 やられる……のか?
 僕が覚悟を決め、両手を前に突き出し、攻撃を受けようとした瞬間。
 
 「てえ!」
 「えっ」
 
 左耳元、よく聴き慣れた声がした。それと同時に―――僕の体が急降下を始めたのだ。
 頭に鈍い痛みを感じる。体が落下してゆく。しかし、触手の攻撃を受けたならば、僕は後方へ吹き飛ばされるはずだ。
 抗いようのない衝撃の中で、無理に体をひねり、先ほどまで僕がいたはずの場所を確認する。
 そこには、伸びきった神人の触手と……その遥か遠くに、錐揉みになりながら飛ばされて行く、細い体が視認できた。
 
 
 「森さん!!」
 
 その名前を叫ぶと同時に、僕の体は地面へとたどり着き、周囲が土ぼこりを上げた。
 ずん。という重い衝撃が、全身を襲った。
 それを最後に、僕の意識は遠のいていった。
 
 
     ◆
 
 
 天井から壁、床、あらゆる面が白い室内。
 窓際のベッドに、森さんの姿があった。
 
 「よう」
 
 森さんは僕を見ると、いつものように微笑み、包帯まみれの手でふりふりを挨拶をした。
 僕はどんな顔をしたら良いか分からず、小さくお辞儀をした後、固まってしまう。
 
 「そこ座ればいいだろ」
 「……すいませんでした、僕の所為で」
 「いいって、お前は大丈夫だったんだろう?」
 
 僕の怪我は軽いものだった。ただ、森さんに突き飛ばされた衝撃で地面に墜落しただけだ。
 脳震盪と、全身の軽い打撲。一応、節々には湿布を張ってある程度だった。
 しかし、森さんは違う。神人の攻撃をまともに正面から受けた上に、波動を失ったまま空中を舞い、地面にたたきつけられた彼女は、重傷だった。
 
 「機関の医療なら、これぐらい、2、3週間あれば治るだろうさ。しばらく閉鎖空間にはいけないらしいけどな」
 「そりゃ、そうです」
 
 包帯まみれの森さんを見つめながら、僕はその一言を尋ねようかどうか迷っている。
 ……攻撃を受けたあと、波動を解いたのは、わざとだったのではないのか。
 ……しかし、その一言を繰り出す勇気が、僕にはない。
 
 「……お前が機関に入ってすぐのときも、似たようなことがあったな。あのときのあれはすごかった」
 「……あり、ましたね」
 
 それはたしか、新潟に閉鎖空間が発生したときのことだった。
 当時、まだ未熟だった僕は、今回と同じように……僕は神人の攻撃を食らわざるを得ない状況に陥った。
 そこを、森さんが僕を庇ってくれたのだ。
 二人まとめて飛ばされ、僕は軽症。森さんは重傷。
 あの時、僕と森さんが墜落した場所で。助けが来るまでの間、朦朧とする意識の中で、確かに見たのを覚えている。
 耳元で……今にも消えてしまいそうな声で、それでも確かに嬌声を上げる、彼女を。
 
 「……森さん」
 「どうした?」
 
 僕は彼女を見つめたまま、黙る。
 ……今回も。彼女は、あの顔をしていたのだろうか。
 肋骨と両手をへし折られ、地面にたたきつけられたその場所で。
 あの声をあげ、オーガズムに浸っていたのだろうか?
 
 「……なんだよ、つめたいぞ」
 
 気が付くと、僕は森さんの頬に触れ、包帯のない部分に指先を這わせていた。
 温かい。生きている。
 
 「気持ち悪いな。触るんじゃなく、つねってくれたまえ」
 
 森さんは笑う。あの快楽におぼれた笑顔ではない。五月の太陽のような笑顔。
 
 「古泉、お前……私が好きなのか?」

 そう訊ねられて、僕はしばらく考える。
 森さんが好きなのか。
 ……そうなんだろうか。
 
 「…………好きになんてなれませんよ」
 「なんだよ、随分な事いってくれるな。私はそんなにお前好みじゃないか?」
 
 僕は首を横に振る。
 
 「……僕は、心の痛みには耐えられません。森さんを好きになったら――」
 
 
 いつか、こころをへし折られる日が来てしまうような気がして。
 
 
 
     ◆
 
 
 僕は知っている。
 神人の狩り手が、マゾヒズムで無ければいけない理由。
 上層部にとって、僕らは捨て駒なのだ。
 能力の素養を持ったマゾヒズムは、この世に五万と溢れかえっている。
 世界の安定を守るために、閉鎖空間のとりことされた狩り手が、時々、死んで行く。
 しかし、その変わりとなる人間は、いくらだっているのだ。
 
 
 「すまんかった」
 
 月曜日の昼休み。彼は僕にコーヒーを差し出しながら、彼らしからぬ低姿勢で僕のもとへとやってきた。
 
 「大丈夫ですよ。しかし、なかなか大きなケンカをされたようですね?」
 「ああ、まあ……でも、出来るだけのフォローはしたつもりだ」
 「そのお言葉で、随分と安心できますよ」
 
 僕はコーヒーを受け取り、プルタブを引く。
 
 「……鳥と河馬のことを考えていました」
 「トリとカバ?」
 「はい。どこかの奥地で暮らすカバは、時折体を水上へと上げ、鳥に体の掃除をさせるそうです。
  それによって、鳥は食料を得る。カバは清潔を保てる。……そういう、生命の仕組みなんだそうです」
 「ふむ」
 
 彼は僕の言葉にこれといった感想を持たなかったのか、コーヒーを片手に、曖昧な言葉を漏らした。
 僕はなんて矮小な存在なんだろうか。晴れた空を眺めていると、そんなことを思った。
 
 
     ◆
 
 
 「なあ、古泉」
 「なんですか?」
 「それでさ、私のほっぺを、ちょっと切ってくれないか。ちょっとだけ」
 
 彼女の手は、僕がりんごを剥いている手元を示している。
 
 「……絶対ダメです」
 「なんだよ。それじゃあ、私がお前をぶっ刺すぞ」
 「両手骨折してる人が、どうやってですか」
 「あはは、冗談だよ」
 
 彼女は笑う。
 その笑顔に、僕は愛しさと、僅かな狂気を感じる。
 冷えた指先で、土曜日に森さんに付けられた、耳の後ろの傷に触れる。
 指が触れると、そこはズキリと痛み、やがて、じわりとした快感が背中に走った。
 
 
 もし、閉鎖空間がこの世から無くなる日が来たら。
 彼女は一体どこへ行くのだろうか。
 僕は彼女と共に行けるのだろうか。
 彼女と共に、この深い森の中から抜け出すことは、出来るのだろうか?
 
 

 

 
 
 END

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最終更新:2021年01月05日 12:53