「兄者、艦隊名が決定したぞ」
SOS帝国宇宙軍の迎撃部隊が首都星を進発した十一月二十一日、コンピケン連合の首都星トナッリ・ベアーの衛星軌道でも、集結した宇宙艦隊が進発の命令を今や遅しと待ち構えていた。宇宙艦隊総司令部である小惑星をくりぬいて建設された宇宙要塞では、ブ・イン・エーが自室で艦隊運動のシュミレーションを行っていた。味方の艦隊の一つが壊滅するのと時を同じくしてブ・イン・ビーが一枚の紙を携えて室内に入ってきた。その紙には戦争の度に艦隊名を変更するコンピケン連合の悪しき伝統が文章化されていた。
「どれ……ディエス・イラエ、イクイノックス、ルペルカリア、ブラインドネス、ムスペルヘイム……何だこの機能性の欠片もない名前は?」
シュミレーションを一時停止にしたブ・イン・エーは、弟から渡された報告書を見てため息をついた。弟の方はすでにため息をつき終えていたらしく、突き放したように返事をしただけであった。
「教皇が銀河の深淵から無作為に飛ばされた電波を受信した結果だ。いつものことさ、気にするまでもないだろう」
「通信士が気の毒だな。舌を噛みかねん……と、俺が心配してもしょうがないな。計画通りだと……俺はブラインドネス、弟者はムスペルヘイムの担当。イクイノックスとルペルカリアが囮の艦隊か」
止めたままの三次元戦況図に目をやると、ちょうど壊滅した艦隊は報告書に記してあるルペルカリアであった。
「兄者、それは…」
「SOS帝国との艦隊戦だ」
「また負けているのか、不吉な」
弟のぼやきを聞いてもブ・イン・エーは肩をすくめただけだった。無理もないな、とも思う。せめて仮想世界の中では勝利の美酒を味わっておきたかったが、彼のささやかな願望に反して戦の女神は無慈悲であった。机上演習が繰り返され、その数は二桁に達していたが、コンピケン連合は敗北の二文字を重ねるのみであった。いくら自軍が貧弱で敵軍が精強だとしても、この結果は何か人知を超えた存在の悪戯ではないかと思えてくる。ブ・イン・ビーなどはコンピケン連合に寄生する宗教屋どもが崇拝する神とやらが真っ先に浮かんだようだった。
戦争では頻繁に発生することだが、戦闘が始まる前の段階ではSOS団とブ・イン兄弟の双方が相手の実力を過大評価していたのだ。SOS団は自軍の訓練不足に起因する艦隊指揮の自信の喪失が相対的に相手を過剰に強大化していた。一方、ブ・イン兄弟では自国の祭政一致体制からくる軍上層部の腐敗と、皇帝スズミヤ・ハルヒの比類なき名声と実績がレンズを歪ませ、相手を実力以上に巨大な虚像と見ていた。
「仕方がないだろう。新技術のテストも数えるほどしかやってないのだから、ほとんどぶっつけ本番に近い。何よりも味方の提督どもの頭が別の世界にぶっ飛んでるからな。これで勝つ方がおかしい」
「せめて、我らの指示通りに動いてくれるといいが」
二人は同時に不安を取り除くように首を振った。妙なところでも馬が合ってしまうブ・イン兄弟であった。
実務上の話を二、三交わしてからブ・イン・ビーが退室しようとすると、兄が呼び止めた。
「そうだ、艦隊が進発する前に親父とお袋に連絡を入れておいてくれ」
「は?前回の戦いのときも俺が連絡をしたではないか。今回は兄者がやってくれよ」
「俺は忙しい」
ブ・イン・エーは熱心に三次元戦況図を見ているふりをした。
「俺だって忙しいさ。なあ、兄者。親父達が苦手なのは分かる。それでも肉親なんだ、モニター越しでもかまわないから、たまには顔を見せるのもいいじゃないか」
ブ・イン・ビーは兄を尊敬していたが、唯一看過できない点があるとすれば、舌打ちをしながら両親との仲の点を挙げるだろう。コンピケン連合宇宙軍随一の提督は、どうも厳しいわけでも偏屈であるわけでもない両親が苦手なようであった。
「俺だけが帰省したときも、兄者の顔が見れなくて寂しいとしきりに…」
「嫌なものは嫌なのだ。さあ、さっさと連絡してこい」
ブ・イン・エーは自分で呼び止めたくせに手を振って弟に出て行くよう求めた。弟はまだ何か言いたそうだったが、結局首を振ってからドアに向かった。弟が出て行ったのを確認すると、ブ・イン・エーは今日何度目かの深いため息をついた。ただし、それまでのため息とはどこか異質のため息であった。
「これはこれは、我が軍が誇る勇将ブ・イン・ビーではないか」
「……猊下に覚えていただけるとは、光栄のきわみでございます」
兄に追い出され駆け足で自室に向かっていたブ・イン・ビーは、要塞内に張り巡らされた回廊の途中で、最も会いたくない人物筆頭の行列に出くわしてしまった。露骨な敵意の視線を送る取り巻き達よりも、無垢な笑顔と邪気のない口調で褒めてきた教皇の方が癪に障った。それでも、兄との会話でように悪意の塊を吐き出すことはなく、無個性で型通りな返事を述べるにとどまった。
教皇ブッチョー・コンピケン三世。コンピケン教の最高指導者にして、コンピケン連合の実質的な支配者。敬虔ならざる信徒であるブ・イン兄弟にしてみれば、国家を衰退させ国民を惑わす病巣そのものであり、侮蔑の対象にしかならない存在だった。
「どうだ、今度の戦は勝てるか?」
発作的に、手前が我ら兄弟に全軍の指揮権を委ねて旗艦の隅っこで震え上がってくれたら勝てるさ、と叫びたくなったが、どうにか堪えて心にもないことを口にすることが出来た。
「もちろんにございます。敵は異教徒の小娘に率いられた烏合の衆。我が方の偉大な提督と勇猛果敢な兵に敵うはずがございません。ましてや、猊下自らがご出陣あそばせられるのです。敗北とやらが入り込む余地がございましょうか?」
「その通りですぞ!」
「大神コンピケンは我らを守護したもう。正義の勝利はまさにうたがいあるなし!」
取り巻きの一部が教皇のお褒めのおこぼれにあずかろうと同調の声を上げたのを見て、ブ・イン・ビーは腰に提げた銃に手が伸びそうになった。寸前のところで抑えると、俺の自制心に感謝することだな、と彼は胸の内で悪態をついた。
「ふむふむ、精強なる我が軍の向かう先勝利しかないか。よきかな、よきかな」
周囲におだてられた教皇は満足そうにうなずいた。しかし次に出てきたのは、それまでの無邪気な笑顔とは打って変わった乾いた冷笑だった。教皇の豹変に、ブ・イン・ビーは思わず息を呑んだ。
「だが、敵はかの英雄スズミヤ・ハルヒ。我が軍は過去、あやつと矛を交えて一戦でも勝利をもぎ取ったことがあっただろうか?余の記憶が正しければ一度もなかったはずだ。違うかね?」
取り巻き達は絶句していた。かろうじてブ・イン・ビーが、猊下のおっしゃる通りでございます、と反射的に答えたのみだった。彼も混乱していた。こいつは本当にあの忌々しい教皇なのだろうか。やつは神に祈るしか能がなく、狂信者どもと一緒にはしゃぐだけの存在であって、自分の国を自嘲するような勇気のあるやつではなかったはずだ。
「いくら新技術があるとはいえ、艦隊の陣容もそれほど変わっているわけではあるまい。順当な計算でいくと次の戦、我が軍は負けるのではないか、んん?」
ブ・イン・ビーと取り巻き達は一言も発しない。いや、発せないのだ。宇宙空間に浮かぶ要塞の回廊の一角は、無駄に派手なだけでなく、悪趣味でさえある衣装を着た教皇の独壇場となっていた。彼以外に台詞を言う資格は与えられていない。観客達は三流以下だと思われていた大根役者の怪演技の前に、自分が総毛立っていることを実感するのみだった。
「ふふふ、まあよい。坂を転がりだした玉は、もはや誰にも止めることは出来ないのだからな。それに…」
教皇の乾いた唇の隙間から漏れる声は、聞く者の精神を貪欲に蝕んでいた。青白く生気のない彼の顔の中で一対の目だけがギラギラと輝いているのが異様だった。
「スズミヤ・ハルヒが自身の野望を叶えたとしたら、我々の名は銀河統一を成し遂げた英雄と戦い、華々しく散っていった勇者として歴史に名が刻まれる。まさに滅びの美学の真骨頂ではないか!うむ、素晴らしい!素晴らしいぞ!」
電子頭脳が狂ったロボットのように音程の外れた笑い声を響かせると、教皇は胸をそらして昂然と大股で歩み去った。我を取り戻した取り巻き達がブ・イン・ビーに嫌味を飛ばすのも忘れて大慌てで後を追い、彼らの指導者の真意を問いただそうとする。しかし、努力は報われることなく、ただ教皇の口元でゆがんだ笑みがこぼれるだけだった。
ブ・イン・ビーは呆然として立ちすくんでいた。意識の水面下から巨大な水竜が音もなく浮上するのを知覚せざるを得なかった。蛇の尻尾だと笑っていたものが、実は得体の知れない化け物の尻尾だったのではないか。
豪胆で鳴らすブ・イン・ビーは神聖なる神の代理人、ブッチョー・コンピケン三世に初めて恐怖したのだ。





ウィンダーズ星系においてSOS帝国軍の将兵が、敗北の側より勝利の側へ一マイクロメートルでも近づこうと労力を注いでいた頃、全軍の間を流れる潮流に逆らって総旗艦ブリュンヒルトの中を泳いでいる人物がいた。広大な艦内の片隅に設けられたSOS団専用サロンに、ノートパソコンを持ち込んで雑務をこなしていたコイズミは、半ダースの缶ビールと三次元チェスのボードを抱えてきた不届き者を苦笑を持って迎えた。
「ちゃんと給料分の仕事はしたぞ」
キョンはそううそぶいたが、食堂から缶ビールをせしめるまでは給料十回分ほどの仕事を処理していた。SOS団員の給料が彼らの功績に反比例して低く設定されている財政事情と団長の矜持を考慮しても、まず堂々と超過勤務料を要求しても許される量だった。それでも、身体中から不平の声が上がるようになると生来の面倒くさがり癖が勤労意欲に目覚めたらしく、酒を飲む相手を探して艦内を徘徊することとなった。コイズミの方も仕事は一段落着いていたらしく、さしたる抵抗もなく不届き者の一員となった。
「こんなところで飲んでいてもよろしいのですか?」
形の良い顎にこれまた形の良い指でさすり数分間熟考した末、コイズミはビショップを動かすのと同時に質問を発した。
「ん?どういう意味だ」
こちらは缶ビールを片手に、というスタイルのキョンは数回小さな戦場の上に目をやっただけでルークに手をかけた。コイズミは素早くクイーンを進めて移動したばかりのルークを奪う。
「僕などと飲んでいても良いのですか、という意味ですよ。僕よりもふさわしい方がいると思いますが?」
「もちろん先に行ったさ。で、多忙につきと断られた。ありがたい罵声と一緒にな。ほら、チェックメイトだぞ」
キョンはクイーンがいなくなってがら空きとなった陣地にナイトを突入させ、コイズミ側のキングを射程に収めた。援護にはクイーンとポーンがついており、どうやら逃走は不可能なようであった。コイズミは額に手をやり、素直に負けを認めた。
「いやいや、してやられました」
「初心者が使うような見え透いた手に引っかかるのはお前くらいだよ。ったく、相変わらずの腕前だな。ハルヒに勝るとも劣らない戦歴の持ち主と噂のコイズミ提督はどこで昼寝をしているんだ?」
キョンとコイズミの心温かい親交は士官学校から続いているが、艦隊指揮の腕前はキョンが一歩譲るも、ボードゲームの類でのコイズミの勝率は常に地を這っている。なぜ、艦隊戦における豊かな戦術眼がゲームには活かされないのか。これはミクルの艦隊運用音痴と同様にSOS団の謎となっている。一時期、故意に負けているのではないかという噂も立ったが、大勢の部下が見ていた三次元オセロの試合でキョンをあと一息のところまで追い詰めたにもかかわらず、凡ミスをして逆転された時、本気で悔しがったため立ち消えとなった。
「ははは……返す言葉が見つかりません」
コイズミは悔しげな表情をビールと共に飲み干して肩をすくめた。しばらく勝利の余韻を味わっていたキョンだったが、ふと思い出したように興味深げな視線を敗北者に送る。
「どうだ、以前の上司達を顎で使う気分は」
「そうですね……」
コイズミは率直な感想を述べる前に、アラカワ、モリ、タマル兄弟ら人民統合機関出身の人々に命令している光景と、彼らの下について任務をこなしていた過去とを比べ、ほどなくして苦笑した。皆現在の方が生き生きしている事実に気がついたのだ。
半年前まで彼らは現在の敵対国、人民統合機関に所属していた。SOS帝国が五つの星系が連合して独立したことを考慮すれば当然だが、その中でもアラカワは特殊な存在だった。彼は宇宙軍の提督でありながら、私的な諜報機関を保有していたのだ。これは、国防省直属の諜報機関である国防保安委員会の腐敗により偽の情報を渡された上に、その情報を信頼して艦隊戦に挑み、手痛い敗北をして降格されたという苦い経験に基づいての行動だった。幾分かの自己保身を兼ねてもいた。
艦隊の運用資金の一部を流用して諜報活動を開始したが、アラカワは本職である艦隊指揮を越える辣腕振りを発揮し、組織は急速な発展を遂げることとなった。彼が諜報畑への転身を考え始めた頃、新人類連邦の士官学校へ潜入させていたある工作員から奇妙な報告が届いた。一見破天荒な思想の持ち主ではあるが、その思想を具現化する可能性を秘めている士官候補生を発見、と。
アラカワはスズミヤ・ハルヒなる逸品に強く興味を惹かれ、また注意深く見守った。絶え間なく報告される言動と、士官学校卒業後のいくつかの戦闘により彼女の才能と思想が本物であることを確信すると、彼は決意を胸に秘めて準備に取り掛かった。ある意味ではこれは恋だったのかもしれない。果てなく続く戦いに疲れた老人は、誰もが望みつつも忘れてしまった壮大な夢をがむしゃらに叶えようとする少女、もしくは彼女の持つ若きエネルギーに惚れたのだ。彼は愛する少女のために尽くそうとした。
SOS帝国が五つの星系を糾合して独立した際、人民統合機関に属していたローザンヌ星系の宇宙要塞に“たまたま”寄港していたアラカワ艦隊は、星系首脳部のタマル兄弟らと共に帝国の一員となることを選んだ。彼らは帝国の基礎固めに揚々として尽力することとなる。
なお、大勢の生きる道を変えることとなった報告を放った工作員は、宰相として彼らを監督する立場に出世していた。戦闘が間近に迫った現在、第二艦隊司令官として総旗艦でビールを飲んでいる。彼は苦笑したまま空になった缶をテーブルに置いた。
「あまり良い気持ちではありませんね。むしろ居心地が悪いくらいです。気を抜くと現在の上下関係を忘れて、平身低頭してしまいそうですから。もっとも、それをするくらいの価値がある立派な方々ですけどね」
「ま、相手より不利な者が頭を下げても意味はない。優位に立ってから頭を下げて、ようやく効果が出るとも言うしな。気長にやるこった」
「確かに、その通りですね」
「そうだ、もっと横柄になるべきだぞ。いびられた恨みを倍返しするくらいの気持ちでガツーンと…」
キョンは熱い息を吐きながらもっともらしくのたまった。彼の体内に入った酒精は舌を景気良く回し、記憶層を必要以上に刺激しているらしかった。突然、彼の脳裏に会議中にふと疑問に感じた光景が映し出された。
「そういや、最近ナガトがぶら下げてる古い鍵、あれってお前の持ち物だった気がしたが?」
不意打ちを受けてコイズミの眉が微妙な角度に動く。頬もわずかに上気したように思われた。視界に薄く靄がかかっていてもキョンは相方の変化を見逃さなかった。
「お気づきになられましたか。あなたもなかなかどうして目の付け所が鋭い」
「馬鹿にしているのか?あれだけ目立つんだ。気がつかない方がおかしいぞ」
「これは失礼。あの鍵はあなたのおっしゃる通り僕のものです。正確には僕のものでした」
「俺の興味は鍵の持ち主がお前からナガトに移った経緯にあるのだが。差支えがなければご教授願いたいんですがね、コイズミさん?」
「ええ、かまわないですよ、キョンさん」
二人は青春期の秘密を共有したいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「あれはナガトさんが個人的な事柄で悩んでいた時期の話です。具体的にはナガトさんご自身の帰属を。それで、僕も何かしら彼女の苦痛を軽減してはあげられないものかと一人愚考した末、幸運のお守りと称してあの鍵をプレゼントしたわけです。今から考えてみると我ながら幼稚な方法だったと冷や汗を掻く思いですよ」
「ああ、なるほど。あの時に渡したのか」
キョンは数年前の情景に思いをはせる。五人の団員の内、三人までが敵対国のスパイといういびつ極まりない構成のSOS団は瓦解の危機に直面したのだ。団内に潜む不埒者の内一人は上司の意向と自身の望む方向が一致したのでさほど苦労はなかった。だが、残る二人は上司と決定的な対立が生じてしまった。今までどおりの服従か反逆か。ミクルは反逆を選び祖国と姉を失った。程なくしてナガトも反逆を選択した。キョンも団長の知らぬところで奔走していたのだが、ナガトに反逆を選ばせた思考の中には、キョンの成果と同等以上にコイズミが渡した鍵の存在があった。
コイズミも同じ敵対国の工作員であったが、上司と精神的なベクトルが合ったため安心した未来が約束されていた。それゆえに、自らの立場に苦悩する仲間に対して負い目があった。彼が渡した古い鍵はささやかな贖罪だったのかもしれない。
「でも、幸運のお守りだというのは嘘ではありませんよ。あの鍵は我が家に代々伝わる家宝でして、軍人だった祖父は胸ポケットに入れておいたおかげで敵のレーザーの直撃を免れたそうです。普通の学校の入学試験に落ちて工作員養成校に合格するよう毎日あの鍵に向かって祈っていた父は論外ですが、現に僕はあれを持っていたおかげで、士官学校の寄宿舎が同じだったあなたに敵国の工作員であることを通報されなかったのですから」
「おいおい、鍵は関係ないだろう。ありゃSOS団員の中から校則違反者が出て、それを口実にSOS団の活動が制限されないか心配だったからだ。ただでさえSOS団は教官達に白眼視されていたんだからな」
キョンはさも当たり前の行動したふりをしていたが、背中は冷たい汗で濡れていた。士官学校生時代のとある深夜、眠りの浅かったキョンは物音で目を覚ましてしまい、ちょうど部屋を抜け出そうとしていたルームメイトを発見してしまった。消灯時間後の外出は禁止されており、これを破ると厳しい罰則が待っていた。しかも、その年の生活指導主任は嫌味ったらしい説教を垂れることで有名な教官であった。それでもなお外出しようとするのは、よほどの事情があるようであった。
不穏な空気が支配する数瞬が流れたが、双方にとって不幸な事態が発生する前に幸運の女神が微笑んだ。コイズミの手の中で鈍く光る鍵を見てキョンが合点したのだ。あの鍵はガールフレンドの部屋の合鍵であり、深夜に抜け出すのは二人だけの逢瀬を楽しむためだと。彼は朝の点呼には間に合えよ、とだけつぶやいてから夢の国へ戻っていった。
本国との通信のために部屋を抜け出していたという真実を知るのは、コイズミから彼が人民統合機関の工作員であることを打ち明けられてからである。キョンはこの赤面ものの事実を墓の中まで持っていくと心に誓っている。よって、これ以上鍵について聞くと自らの醜態を露呈する可能性があり、彼は話題をさりげなく別の方向へ向ける必要性にかられた。
「それはそうと、そんな霊験ある大事なお守りを渡して不安にならなかったのか?もしかしたら自分から運が離れていったんじゃないかって」
「不安……ですか」
キョンは口元に缶ビールを運ぼうとして停止した。コイズミの表情と態度が、それまでとは異質なものに変化したように見て取ったからだ。彼は缶をテーブルに戻し、注意深くコイズミの返事を待った。
「これは鍵があるかないかは関係ないのですが、僕は恥ずかしながら心の内にある一つの不安要素を打ち消せないでいます」
「ハルヒに対する、か」
無言は肯定を意味していた。
「一流の権力者の目的は権力によって何をなすか、にあるが、二流の権力者の目的は権力を保持し続けること自体にある。この格言が正しければ、皇帝の権力を使用することで、銀河統一を主目的とする対外戦争を起こしたスズミヤさんは一流の権力者に分類されます。権力を乱用することなく、また国民に圧制を強いていないため、まず高潔な指導者として称えられてもよいでしょう。が、一流の権力者と認められていた人物が権力に魅入られてあっけなく二流の権力者へと転落した例、高潔な指導者が権力を手中に収めるにつれて醜く変貌していった例は歴史上掃いて捨てるほどあります。このまま戦争に勝利していけば、スズミヤさんの元に集まる権力は増える一方になる。果たして彼女は大丈夫なのでしょうか。歴史上の例外として後世に記憶されることが出来るのでしょうか?」
コイズミの固く握られたままの両手と真っ直ぐにこちらを射抜く視線に、信頼すべき団長を疑ってしまった背徳と、拭い去ることの出来ない不安がうっすらとにじんでいた。キョンはうめくと同時に、奇妙な安堵感に包まれた。無駄に頭の働くコイズミらしい不安だと思ったからだ。彼らしくもないする浅慮や妄想をするよりどれだけましなことだろうか。
キョンは苦悩する親友を救うべく慎重に言葉を選ぼうとして、意味のない行為だと理解して中断した。発言すべき言葉は早々と舌端に整列していて、脳裏では人知れず悩んでいるハルヒの横顔が浮かんでいたからだ。
「そうだな、強大な権力を手に入れて“超”権力者になったスズミヤ・ハルヒはどうなることやら。もしも、あいつが権力の使い方を間違えたなら…」
キョンは思わず苦笑した。独裁者ハルヒ。なかなかどうして彼女に似合った服ではないか。ただし、この服を着て喜ぶかどうかは別であったが。
「その時は、人々の期待を一身に受けたSOS帝国は暗黒帝国と化し、銀河中に迷惑をばら撒きながら華々しく滅亡。かくして、元英雄である超残念皇帝スズミヤ・ハルヒは歴史年表上を騒がせた挙句、後世の学生の頭を悩ませる勉強材料を配るだけさ。俺達はやれやれと肩をすくめなくちゃならない」
ここでキョンは話を切った。予想通りの沈黙が降りる。コイズミは身動きせず次の言葉を待っていた。
「まあ、俺は不安性な誰かさんほど心配しちゃいないよ。あいつはブラックホールに放り込んでも変化しそうにない超純粋物質だ。とにかく恐ろしいほど自分の欲求に正直なやつだからな。権力ごときに負けるような“たま”じゃないさ。それに、コースは始まったばかりなんだ。次の料理の味をうんぬんするよりも、まずは目の前に置かれた料理をたいらげるべきだろ。皿が綺麗にならないと、次は出てこないぞ」
我ながら下手な比喩だったな、と思いつつキョンは冷気の消えたビールを渇いた喉に送り込んだ。彼はため息をつきたい気分だった。ここのところ季節柄かどうも精神状態が不安定になる連中が多い気がする。もう少し楽観的に物事を考えてもよいではないか。しかも、治療担当は軍委託のカウンセラーではなく俺自身ときている。誰か俺を褒めてほしいね、まったく。せめて超過勤務料を払ってくれ!
キョンは他人の心情を読み取ることに長けていたが、自己客観視はからっきし不得意、もしくは進んで行なおうとしなかった。この状況下で彼以上に肝が据わっている人物はそうそう見つからないことに彼は気づいていなかった。
「あなたは信じるのですか、スズミヤさんの全てを?」
「信じざるを得ないね。さっきと似たような話になるが、特急ハルヒ号はすでに走り出しちまったんだ。ものの見事に脱線するか、それとも無事に終着駅に到着するかは分からん。どうせ止めることは出来ないし、仮に止めたとしても途中駅で待っているのは黒ずくめの服を着た不幸ばかりだろうよ。だから、俺はせいぜい後悔しない程度に努力して、最後まで付き合ってやることにしたんだ。ただそれだけのことさ」
目を閉じたままコイズミは沈黙していたが、やがて唇が動き笑みがこぼれた。一撃で婦人兵の一個中隊を籠絡せしめることができると噂の極上の微笑みだった。
「ふふ、羨ましいです」
「何がだ?」
「あなたとスズミヤさんの間にある、見えざる信頼関係がですよ。現在のSOS帝国宇宙艦隊の状況を見てみると、五カ国の混成艦隊であり練度も十分ではなく、過去に経験したどの戦いよりも不利であると認めざるを得ません。しかし、スズミヤさんが負けるはずがないとあなたは考えている。必ずや敵を打ち破る奇策を思いついて実行すると、そのように信頼しているからです。また、スズミヤさんもあなたが傍にいて艦隊の指揮をとるなら、自軍を勝利に導くだろうと信じている。敵艦隊の足止めをするなり一時撤退をして演習のための時間を作ろうとせず、正々堂々正面から戦いを挑むのは、どんなことがあって負けるはずがないと確信しているからです。決して言葉に出したりはしませんが、あなた方二人は理想形といってもいいくらいの信頼感で結びついているんです。いくらお互いが相思相愛のべた惚れであることを知ってるとはいえ、ちょっとした嫉妬を覚えますよ」
「べた惚れではない。あいつと一緒にいることに悟りを開いた。そう言ってくれるとありがたいね」
キョンは平然と答えようと努めた。もっとも、コイズミから見ればアルコールとは異なる成分がキョンの顔を赤く染め上げていることは明白だったが。
「分かりました。そういうことにしておきましょう、今のところは。あなたも早く自分に素直にならないといずれ……」
コイズミは最後まで続けることが出来なかった。渦中の人物が興奮と躍動を伴ってサロンに入ってきたからだ。ハルヒはテーブルを挟んで座っている二人の元に来るなり顔をしかめた。彼女は厳格な聖職者のように禁欲的ではなかったが、過去の失敗により飲酒に関する独自のルールを持っていた。
「あっ、いたいた……げっ、本当に酒飲んでるの?あんた達こんな状況下でよく酒を飲めるわね?」
「おいおい、こんな状況だからこそ飲むんじゃないか。素面でやってられるか」
「そうですよ。我々は伊達と酔狂で戦争をやっているのですから」
「お、コイズミもたまには真面目なことを言うな」
「恐縮です」
「何馬鹿なこと言ってんのよ。それよりも、キョン!コイズミくん!」
SOS団団員に伝えられたばかりのニュースを知らせるために団長は大きく息を吸った。にわかに活性化した瞳の中のプラズマが、戦乱の訪れを予兆していた。
「敵艦隊を発見したわ!」
キョンはあらぬ方向を視線を送りながらしかめっ面をして、コイズミは両手の指を絡ませながら口元だけを微笑ませて、それぞれの態度でささやかな酒宴の閉幕を飾った。敵艦隊の規模、首都星からの距離から計算すると、ほぼ予測通りの時間だった。
「今から標準時で十二分前に、ウィンダーズ星系外縁部で待機していた無人偵察艇が約100隻の艦艇のワープを確認。七分前に合計10000隻以上の大規模ワープを確認して、直後に先にワープした部隊の攻撃を受けて撃破されたわ。目下のところ増援の無人偵察艇を急派中。でも、最初の偵察艇のおかげで大体の位置はつかんだわ。まずは定石通りの場所。ユキの情報管理局によると向こうの提督連中にはブ・イン兄弟もいるらしいから、当然といえば当然ね。これは気を抜けないわよ!」
嬉しそうに口角泡を飛ばしながら報告するハルヒに、キョンは酔った頭で感慨深くうなずいた。やはり現在のハルヒには敵が必要なのだ。悩み過去の行いを後悔し、憂鬱にしている姿は似つかわしくない。敵艦隊を撃滅し、この戦争に勝つことを不敵な笑顔で考えてくれなければ。何かに熱中しているハルヒ、すなわち壮年期の恒星のごとく生命力を発散させているハルヒ、これほど美しいものが宇宙に存在するだろうか!
導き出した結論に酔いしれていたキョンは、自らに不幸が降りかかったことを咄嗟に理解できなかった。一秒前まで心の中で褒めちぎっていた相手に、笑顔で襟首をつかまれたのだ。
「さあ、キョン!飲んだくれている場合じゃないないわよ!作戦会議!作戦会議!」
「分かった。分かったから手を離してくれ。息が出来な……」
「あら、これは?」
急にハルヒの手から力が抜け、バランスを失ってよろめいたキョンはテーブルの足と自分の足をしたたかに衝突させた。ハルヒの視線は足を抱えて転げまわるキョンではなく、コイズミが持ち込んだノートパソコンの隣に鎮座する「歴史から発見するシリーズ13 古代の戦場から見る戦略と戦術」なる紙媒体の本に注がれていた。出版物は電子媒体が主流になった現代で、このような形で本を読む趣向の人物をハルヒは一人しか知らなかったが、その人物はこの場にはいなかった。
「ナガトさんに貸していただいた本です。仕事が終わったら返しに行こうと思って、持ってきたんです。統一政府時代の本ですが、なかなか含蓄に富んだ本ですよ」
「著者は……ヤン・ウェンリー?聞いたことのない名ね」
「ええ、ナガトさんによるとほとんど無名で終わってしまった歴史家だそうですが、独特の思考を持っていて特に軍事方面の着眼点も鋭く、近年になって再評価されつつある人物だと」
「歴史家なのに軍事に造詣が深いの?」
「はい。これは個人的な感想なのですが、彼の戦略および戦術のセンスは驚異的なものです。戦乱の時代に生を受けていたら、間違いなく名だたる名将の一人として後世に記憶されていたでしょう……ともかく、こうして他人の論評を聞くよりも、読んでみるのが一番手っ取り早いかと」
「平和な時代の歴史家のくせに生意気ね。んー、コイズミくんをびっくりさせるくらい……」
「おいおい、ヤン・ウェンリー氏を馬鹿にするな。裏表紙に印刷されている言葉を見てみろ。“世の中、やってもだめなことばかり。どうせだめなら酒飲んで寝よか”どうだ、言い得て妙じゃないか」
キョンはそう援護したが、別にヤン・ウェンリーなる人物を敬愛していたわけではなく、単に痛めた足の敵討ちとしてハルヒに反論したかっただけである。彼の一撃でハルヒの中のヤンに対するイメージが、キョン・ウェンリーに決定してしまったのは皮肉なことだ。
「ふん、あたしは騙されないわ。そんなもの敗北主義者の虚言じゃないの」
「何を言う。自分の限界を的確に見定めて引く度量を持つことこそ…」
「とにかく、こんな変人の本は読んじゃだめよ。ユキにもきつーく言っておくかなきゃ……む…………ふーん……なるほど。ちょっとくらい見るべきところはあるようね。コイズミくん、ちょっと借りるわよ」
「ナガトさんにその旨を伝えていただけるなら、僕はかまいませんよ」
流し読みをしていた文章の中に何やら光るものを見つけたらしく、ハルヒは先ほどと態度を180度回転させた。彼女の変節ぶりにキョンは呆れ気味にため息をついた。対照的にコイズミは納得した表情でうなずいた。彼も最初にナガトから本を渡されたときは半信半疑だったのだ。実戦を経験していない歴史家の本にどれほどのものがあるのかと。それが本を読み進めていく内に驚愕へ、驚愕から感嘆へと鮮やかに心情が移り変わった。実績が豊富な提督をうならせる価値を、この本は秘めていた。
「さっ、二人とも行くわよ!」
無名で終わった歴史家、もしくは歴史に名を残し損ねた提督の著書を得た皇帝の軽やかな掛け声に促され、キョンは足をさすりながら空き缶を集めて、コイズミはノートパソコンとチェスのボードを抱えて立ち上がった。先頭を行くハルヒの足取りは力強く一歩一歩を確実に踏みしめていた。それに従う二人の足取りはふらつくことはなく明晰で、酔いを感じさせなかった。もし、彼らが歩くのは運命に従っているからだと決め付ける者がいたならば、彼らの首魁たる少女はこう叫ぶであろう。
「運命?運命なんかにあたしの人生を左右されてたまるものですか!」
ある者は信奉にも似た無制限の信頼を携えて、ある者は不安と敬愛を友として、ある者は強き意思とそれを貫くことを可能にする才能を伴って、三者三様に自らの意思で戦場へと向かっていた。戦場の先に何が待ち構えているかは、まだ誰も分からない。それでも彼らは進み続ける。その先に幸福があるのだと信じて、またはあるのだと願って。

 

 

 

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