『長門の湯』


なに、給湯器が壊れたから風呂には入れないだって。
なんてことだ、一日の疲れを癒すべくささやかな楽しみにしていた風呂に入れないとは、許しがたい暴挙だ、責任者、出て来い!
と、ぼやいたところでどうしようもないが、ぼやかせてくれ。
「キョンくーん、行こうよー」
しかも、妹を連れて銭湯に行け、とは、うちの親も無茶なことをいう。なんだかんだ言ってもあの妹だって、すでに男湯には入れないような年頃だから、なにも俺が連れて行くこともなかろうに。
まぁ、いいか。たまには銭湯の大きな湯船にゆっくりつかるのもいいだろう。
そういえば、銭湯などというものには長らく行ったことがなかった。昔行ったはずの近所の銭湯も当然のように廃業して今はマンションが建っている。
しかたなく俺は、初めて銭湯に行くことにやたらとうきうきしている妹を連れて少し離れたところで今も営業をしている銭湯に向かってチャリンコを転がしている。
「キョンくん、まだぁ?」
「もう少しだから。黙ってついてきなさい」
思ったより遠い。これだと帰り道は湯冷めに注意しないといけないな、などと考えながら、ふと前の交差点で信号待ちをしている見慣れた制服の後姿が目に留まった。
その小柄な姿の隣に自転車を止め、俺は片足を地面に下ろして話しかけた。
「よぉ、長門。買い物か?」
もはや見間違うこともないその姿は、SOS団の貴重な戦力である究極の無口キャラ、長門有希であった。
俺の呼びかけに黙って振り向くと、わずかに首を傾けて挨拶をしてくれた。
「あ、有希ちゃんだー」
追いついた俺の妹の呼びかけに対しても同じように無表情で答えるアンドロイド。
あれ、二人でどうしたの?
と、でもいいたげな漆黒の瞳の輝きを感じた俺は、
「いやー、うちの給湯器が壊れてな、風呂に入れないもんだから、銭湯に行くところさ」
「そうなの、銭湯、銭湯! あたしはじめてー、有希ちゃんも一緒に行かなぁーい?」
無邪気に答える妹のはじけるような笑顔を不思議そうに見つめていた長門は、何を思ったのかポツリと言った。
「一緒には行かない。しかし、わたしのうちのお風呂を使ってくれてもいい」
「なに?」
「え、有希ちゃんちのお風呂? 行ってもいいの?」
「いい。問題ない」
「行く行くー、キョンくん、行ってもいいでしょ?」
「ちょっと待てよ、長門、それはちょっと……」
「困ったときはお互い様、遠慮は無用」
いや、お互い様ではなくて、知り合ってからこの方、ほぼ一方的に俺が世話になりっぱなしのような気がするのだが。
「いや、あのな、長門……」
「そうだ、有希ちゃん、一緒に入ろうよ、お風呂、背中、流しっこしよう」
それになんだ、お前は銭湯に行きたかったのではないのか?
二人に軽く無視された俺は、楽しそうに長門に話しかける妹の声を聞きながら、青に変わった信号を受けて、横断歩道を並んで渡り始めた大小二つの後姿を追いかけていくしかなかった。

自転車を押しながらなので、思ったより時間がかかった。素直に銭湯に行った方が手っ取り早いのに、と思いつつも、俺たちはお馴染みのリビングに通された。
「すぐに沸かすからしばらく待って」
そういい残して消えていく長門は、心なしか少し照れているように見えたのだが気のせいに違いない。
「へー、あたし有希ちゃんちはじめてー。なーんにもないんだね」
コタツ机の一辺に座った妹はきょろきょろと室内を見回している。
妹には、この殺風景な部屋はどう映るんだろうか。俺も初めて来たときは目が点になったものだ、しかもその後、延々と電波な話を聞かされたしな。
この後の成り行きを危惧しながら、ふぅ、と溜息をついたところで、長門がお茶とジュースをお盆に載せてリビングに戻ってきた。
「お茶、どうぞ」
「すまないな、長門。妹のせいで変なことになっちまって」
「気にすることはない」
「有希ちゃん、テレビ見ないの?」
「見ない」
「ふーん、普段何してるの?」
「本を読んでいる」
「楽しい?」
「楽しい。本はいい」
「どんな本読んでるの?」
「なんでも」
無邪気に続く妹の質問攻めに、表情一つ変えることなく淡々と答え続ける有機アンドロイドに俺は今更のように感心することしきりだった。それにしてもだ、俺の妹に指摘されるまでもなく、そろそろテレビのひとつぐらいは置いてもよかろうに。統合思念体も金がないわけではあるまい。

ピピピ、ピピピ

微妙に不毛な長門と妹の禅問答を遮る様に、風呂が沸いたことを告げるアラームがなった。長門もそれを待っていたかのように振り返って俺に言った。
「沸いた。わたしは最後に入るから、お二人からお先にどうぞ」
「えー、有希ちゃんも一緒に入ろうよ」
「おいおい、こらこら、それは……」
と、言いかけた俺が全てを言い終わらぬうちに、
「わかった、では少し狭いかもしれないが三人一緒に」
「わーい、一緒に入った方が、ガスも電気も無駄にならないからエコなんだよー」
何のためらいもなくすっと立ち上がる二人を目の前にして、俺は、
「だから、待てって、長門。三人一緒はないだろ、それはいかん」
「なぜ? わたしは別にかまわない」
「あたしもいいよー」
こいつらは何を言っているんだ? 妹と一緒に入ることは百歩、いや千歩ぐらい譲る必要はあるかも知れないが、何歩譲ろうが長門と一緒に風呂に入るわけにはいかない。いくら宇宙人製のアンドロイドとはいえ、一応は年頃の同級生の男女なんだから。
「通常の男子高校生は、同年代の女性の体躯に興味を持っているはず。せっかくの機会なので観察してもいい」
「な、なんだって? 何を言っているんだ、お前」
「あなたは、あなたのベッドのマットレスの下に潜ませている数冊の雑誌で女性の特徴について研究している」
すました様子で軽く首を傾げた長門は、パチパチと瞬きをして俺のことを見つめている。
「な、な、なんだとぉ、お、お前、何でそれを知っている?」
思わぬ長門の攻撃にしどろもどろの俺……。
「当たった? カマを賭けただけ」
や、やられた。確かに谷口から回ってきた数冊のその手の雑誌がベッドの下に隠されている。それにしてもだ、妹の前で何を言い出すのだ、このアンドロイドは……。
唖然として二の句を継げない俺を追い立てるように、長門は、
「知的な好奇心を満たすために行動することは、科学を探求する上で必要なこと。是非、二次元ではなく三次元の世界で研究を継続して欲しい」
「いや、だから、別に好奇心とかそういうものでは……」
「有希ちゃん、もうほっといて二人で入ろう」
さらに何か言いたそうな長門の手を強引に引っ張って、妹たちはリビングを出て行った。ありがとう、妹よ、兄の窮地を救ってくれて……。

それにしても長門のやつ、なかなか妙なことをしてくれるじゃないか。自律進化の可能性だって? もう十分進化しているんじゃないのか、長門自身は……。
そんなことをぼんやり考えながらリビングで一人、お茶を静かに飲んでいた。
そう、長門が言うように、俺だって健康な男子高校生さ。
扉の向こうの浴室から、少しばかりのエコーとともにかすかに耳に届く妹の笑い声と長門の冷静な受け答えが聞こえてきて、俺の頭の中には湯気とともにいろいろな妄想が渦巻いて仕方なかった。
やはり、長門にはテレビを買うように言っておこう。テレビでも見て気を紛らわせないことには、この状況は如何ともしがたい。

ふと気がつくと、浴室の扉が開くような音に続いて衣擦れの音が聞こえている。どうやら二人は風呂を出たようだ。
すぐに妹がリビングに飛び込んできた。着ている服は来たときとは変わらない。そもそもチャリンコで銭湯に行く予定だったから、下着以外は特に着替えは持ってきていないからな。
「気持ちよかったよー、キョンくん」
まだ少し湿っている髪を白いバスタオルで拭きながら、妹は俺の隣で立っている。
「そうか、よかったな」
「あのね、有希ちゃんねー……」
と、妹が何か言いかけたところで、長門もリビングに登場した。
妹と同じようにバスタオルで髪を軽く拭きつつ、タンクトップとショートパンツからは少し上気してうすピンクに染まった有機アンドロイドのしなやかな四肢がすらりと伸びて輝いている。
その姿に一瞬どぎまぎした俺は、その動揺をごまかすためにも妹に話しかけた。
「ざ、残念だったな。銭湯なら、フルーツ牛乳が飲めたのに」
「あ、そうか。忘れてたー」
片目を閉じて、しまったー、という表情の妹に対して、
「大丈夫、フルーツ牛乳は用意している」
長門はそれだけいうと、頭の上のバスタオルを手で押さえながらキッチンの方に消えていった。
そして長門が戻ってきたときには、薄いオレンジ色の液体が入った牛乳ビンを片方の手に持っていた。反対側の手に持つビンはどうやら普通の牛乳のようだった。
「どうぞ」
と言って差し出されたビンには『フルーツ牛乳』の文字が見えた。受け取った妹は珍しそうにそのビンを眺めている。
「よくそんなものが自宅の冷蔵庫にあるんだな、長門」
長門は、自分の分の牛乳のふたを開けながら、小さく首肯した。
いまどき、牛乳瓶にはいったフルーツ牛乳など手に入れるのも至難の技のような気がするのだが、そこは情報統合思念体の力の見せ所ということか。それにしても、もう少し建設的な用途に使ったほうがいいだろうに、思念体も案外ヒマなのかもしれない。
「ふた、開かないよー」
妹は、ビンの口の紙のふたで苦労をしているようだ。気をつけないと指突っ込むぞー、と思った矢先、
バチュッ、
と湿っぽい音とともに、あまい香りの液体が少しばかり飛び散った。
「きゃー、やっちゃったー」
突っ込んだ指先をひらひらさせながら、飛び散ったフルーツ牛乳を眺めていた妹のやつは、すぐに指をぺろぺろとなめて、「ごめんなさーい」とだけは言った。
長門は飲みかけの牛乳ビンを俺に手渡すと、キッチンに雑巾を取りにいったようだ。
「こらー、気をつけないとだめだろ」
「えへっ、だってこのフタ、開けにくいだもん。給食の時もときどき失敗する子いるんだよ」
まぁ、確かにそうだったかも知れないないな。
小さく肩をすくめた妹は、手に持ったフルーツ牛乳のビンを俺に見せるようにかざして、
「おいしいよ、これ」
といって、残りを一気に飲み干した。

フルーツ牛乳の騒動が一段落したところで、
「じゃあ、すまないが俺も風呂、入らしてもらうわ」
「どうぞ。お湯は残しておいてかまわない。後で洗濯に使うから」
長門の人間的な言葉に感心しながら、俺はリビングを後にして洗面・脱衣場に向かった。
一番生活感があふれるであろう洗面所にさえ特に何もなく殺風景なのはもはや驚くには値しないな。
服を脱ぎながら、鏡の周りを見渡しても、泡のハンドソープのボトルが置いてあるぐらいだ。コップや歯ブラシなどはおそらく棚の中にでもしまってあるのだろう。
床の上の脱衣かごには真新しい白いバスタオルがきちんとたたまれて入れられている。俺は、そのかごの中に脱いだ服と着替えに持ってきた下着を入れると風呂場に入った。

浴室内も新築マンションのモデルルームのようにピカピカだった。長門がここで暮らしだして三年は経過しているはずだ。普通なら多少の汚れや黒ずみなんかがあっても普通なのだが、そんなものはこれっぽっちも感じられない。
一度、うちの風呂も長門に掃除してもらうと新品同様まできれいにしてくれるのではないかな。
そんなことを考えながら、湯船でのんびりとさせてもらっていると、脱衣場に人影が動くのが見えた。おやっ、と身構えると、ドアが開いて長門が首を突っ込んできた。
「湯加減はどう?」
俺は、湯船の中で思わず体をこわばらせながら、
「お、おう、いい感じだ、ありがとう」
「背中、流す?」
「え、え、いや、それは……」
「さっきも言った、遠慮は無用」
「だから、それはいいって。気持ちだけでいいよ、ありがとう」
「そう? 必要ならそこの呼び出しボタンを押せばいい。では」
かちゃん、とドアの音がして長門は引っ込んだ。
俺は長門が指差した給湯リモコンのパネルにある「呼び出し」ボタンを眺めながら、思わず押してしまいそうになる衝動を抑えているうちに、のぼせる一歩手前までいってしまった。

やっとの思いで風呂場を出てやや足元をふらふらさせながら、リビングに戻った時には、すでに四十五分も経過していた。リビングでは長門と妹がトランプをして遊んでいた。
「キョンくん遅かったねー、何してたの?」
「……ん、いや、ちょっとな、考え事を……」
「何か飲む?」
手にしたトランプをテーブルに置き、すっと立ち上がった長門の問いに対して、
「すまん、冷たいものが欲しいのだが」
「少し待って……」
キッチンに引っ込んだ長門は、俺の予想通りコーヒー牛乳を持ってきてくれた。俺は、よく冷えたビンを右手に持ち、左手を腰に当てて一気に飲み干した。
うまい、うますぎる。
少しのぼせかけの体によく冷えたコーヒー牛乳が一気に沁みわたって行くのがこれほどよくわかったのは初めてだ。実に心地よい。そしてやっと一息つくことができた。

その後しばらく三人でババ抜きなどで遊ばせてもらった上に、帰り際に長門は、お土産にと、フルーツ牛乳とコーヒー牛乳を一本ずつ持たせてくれた。
「世話になったな、すまない」
「気にすることはない。いつでも歓迎する」
「また来るね、有希ちゃん」
そういい残して、俺と妹が長門のマンションを後にした時には、家を出てから二時間も経過していた。いったい何時間銭湯に行っていたんだと、お袋にどやされるだろうな。しかし風呂上りに長門のリビングでくつろいだおかげで、帰り道で湯冷めすることを心配する必要はなくなった。

家に帰ってみると、ちょうどガス屋が壊れた給湯器を修理し終えて変えるところだった。ということは、明日からはまた我が家の風呂に入れると言うことだ。よかった、よかった。
俺は、長門にもらった二つの味の牛乳ビンを冷蔵庫にしまいながら、もう長門の家の風呂に入れてもらうことはないだろうな、と考えていた。少しばかり残念な気がしないではない。
が、それはともかく――。

いい湯だったよ、長門、ありがとう。


Fin.

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最終更新:2020年03月12日 01:22