「ミクル~、入ってもいいかいっ?」
補給艦隊旗艦キャゼルヌの艦上では、副司令官ツルヤ少将が扉がロックされていないことを良いことに、返答を待たないで司令官専用の執務室に入った。秩序と規則が服を着て歩いているタイプの軍人から見れば眉をひそめるような規則違反なのだが、この明朗闊達な女性将官はなぜかそれを許してしまう不思議な空気を持っていた。
事実、階級や役職にとらわれることのない自由奔放な性格と、頼りがいのある姉御肌に惹かれている兵士は多い。後方任務以外の分野では役に立たない司令官も、士官学校以来の親友であるツルヤを信頼しきっており、艦隊指揮の全権を彼女に預けて自らは事務に専念している。
ちなみに、司令官が艦隊指揮に関与しないことが兵士達に知れ渡ったとき、多くの者は不謹慎ながら安堵のため息をついた。ミクルの艦隊指揮に対する評価の低さはナガトの貧乳と並んで帝国軍将兵の間で有名だったのだ。
「演習の件だけどさ、あたしからは……」
執務室の中に足を踏み入れた瞬間、ツルヤは自分が無数の星々が乱舞している暗黒の舞台の上へ投げ出されたかのごとき錯覚に襲われた。足を置いた床が旗艦の周囲に列を成して停泊している巨大な補給艦や輸送艦さえもかすんでしまうほど広大な宇宙空間を浮遊していたからだ。だが、その錯覚も半瞬後には理解へと変化していた。視覚神経が執務室の壁と天井に艦外映像が映し出されているだけだと報告してきたからである。
「……ミクル?」
ツルヤは微量の不安が混ざった司令官の名前を呼んだ。返事はなかったが、働き者の視覚神経がいつも通り部屋の中央に位置する執務机備え付けの椅子に座っている親友を発見した。ミクルは椅子にもたれて床以外の面を埋め尽くす光点の狭間に視線を向けていた。まるで、孤独な放浪の旅を続ける彗星の一つに魂を奪われてしまったかのように。
ツルヤはもう一度だけ名前を呼んで返事がないことを確認すると、防音性の高い高級な絨毯の特性を最大限に利用しながらミクルに近づいていった。椅子の背後に立ったツルヤは、肉食動物が油断していたひ弱な小動物を捕らえた時に浮かべるような勝ち誇った表情で、乳児の頬と何ら変わりない質感を保っているミクルの両頬を思いっきりつまんだ。
「ふひゃっ!?ひゃんへふかぁっ!?」
完全な奇襲攻撃を受ける形となったミクルは、普段より三倍増しの不明瞭な叫び声を上げてまま手足をばたつかせた。士官学校で習った軍格闘術や護身術はとうの昔に忘却の地平線の向こうだ。もっとも、当時は本人がどれだけ努力しても落第点を易々と踏み越えてしまう点数しか取れず、他の教科の得点を鑑みた教官のお情けによって赤点を免れていたのだが。
目を閉じてただ必死に二本の手から逃れようとするその姿は、食物連鎖の底辺に位置する生物の断末魔そのものであった。さすがに後ろめたくなったツルヤが頬をつまんでいた手を離すと、ミクルはそのままバランスを崩して椅子から転げ落ちてしまった。
「ツッ、ツルヤさん……痛いですよう」
ようやく自分を襲撃した敵の正体を確認すると、ミクルは目に涙をためて上目遣いで弱々しく呟いた。その上目遣いの動作一つ一つには、世の男どもの半数以上を悩殺できる破壊力が秘められている。戦艦の主砲など比にならない。ある意味SOS団最強の兵器である。
「いやぁ、ごめんよ……ぷっ。ミクルが可愛くて可愛くて…くくっ。おじさんついつい手を出しちゃったのさっ!あ~おっかし!」
後ろめたさは感じたものの、あまりの滑稽さに結局ツルヤは笑い転げてしまい、数分たってミクルとは違う種類の涙を手の甲でぬぐうと、それでもまだ腹筋を痙攣させながらようやく返事をした。
人を笑うという行為は、ほとんどの場合笑われた側に大なり小なり不快感を与えてしまうのだが、彼女の笑いにはその手の相手を不快にさせる要素が一切ない。相手を馬鹿にするでもなく、見下すのでもない。純粋に愉快なことに対して笑っているのだ。一片の邪気もない笑い。見ていてすがすがしくなるようなそれは、ツルヤという人間の魅力を形成するのに少なからず寄与している。
「んもぅ。ツルヤさんったら」
ミクルも肩をすくめて仕方がない、といった感じのため息をすると、クスリと笑って許してしまった。ミクルにとっても、親友が時たま仕掛けてくるこの手のいたずらにはもう慣れっこだ。むしろ着慣れた服を着るような居心地の良さを感じている。ありがたいことに、これは二人が上官と部下の関係になっても一向に変わることがなかった。
「さぁてさて、我らが司令官アサヒナ・ミクル女史は宇宙空間を物憂げに眺めながら何を考えていたのかなぁ?」
緊張を緩めてしまったミクルと違い追撃の手を緩めないツルヤはここでいったん言葉を切ってわざとらしく考え込み、電波に乗って移動できない人か、盗聴防止のためにあえて書類化された重要機密かを運ぶために旗艦から離れていく連絡艇をしばらく眺めていた。ミクルは次の手が読めず気の毒なほどビクビクしていたが、壁に映し出される連絡艇が星と同じ光点となった瞬間、演出感たっぷりにツルヤが振り向いた。
「もしやっ!愛しの彼のことだったのかいっ!?SOS帝国軍全ての男性兵の心を虜にしているSOS団のマスコット、アサヒナ・ミクルを包む恋の炎。そのお相手はいかに!こりゃあ、大スクープだねっ!いったいどれだけの男衆が泣くことやら。ささっ、誰にも口外しないから、おじさんにだけ言ってみ?」
大部分の人間が大人になる過程で忘れてしまういたずら心に瞳を輝かせ、背の低いミクルを覗き込むようにして尋ねる。
「ううっ、それは……禁則事項です……」
今にも消え入りそうな声でかろうじて対抗するが、追い詰められた小動物に逃げ道は無い。捕食者に弄ばれるがままだ。
「んふふ~。報告書も片付けないで物思いに耽るとは、なかなかいい度胸してるにょろ?」
特徴的な犬歯を見せ付けるように笑いながら、ツルヤは執務机の上で山脈を形成している報告書の中から「旧人民統合機関所属ベネビデス級輸送艦の積載能力改善案に関する事前調査報告」という長ったらしい題名の付いた書類をつまみ上げ、職務を放棄していた司令官の目の前でひらひらと見せ付ける。しばしの間目を泳がせていたミクルだが、健康的な小麦色をした手が二枚目の「民間徴用貨物船の船員の待遇に関する報告」に伸びたところで折れた。
「ツルヤさんの意地悪ぅ……分かりました。言いますよ。お姉さんのことです。わたしのお姉さんのことを考えていました」
「あ……」
ツルヤの表情が絶対零度の吐息を吹きかけられたかのように凍りついた。彼女は知っていたのである。ミクルの過去を。そして、ミクルの姉の過去を。





アサヒナ・ミクルは宇宙暦1996年、スズミヤ・ハルヒに一年先んじて新人類連邦宇宙軍士官学校に入学した。入学試験での成績は中の下。首席にはほど遠く、入学後もそれなりに努力しているにもかかわらず、それに見合う成績を上げることができずにいた。士官学校の教材に引っ張りだこにされるほどの優れた手腕を発揮することになる後方任務分野でさえも平凡な成績、一部分野は壊滅状態というさえない生徒であった。
ミクルには同じ士官学校出身の姉がいたが、こちらは成績優秀、惜しくも首席の座を逃したがそれでも次席で卒業していた。姉を知る戦術理論担当の教官は
「同じメーカーのティーパックだが、どうやら出がらしのようだな」
などとうっかり口を滑らせてしまい、アサヒナ親衛隊なる正体不明の集団に吊るし上げを食らう羽目になった。後日、親衛隊構成員と思われる生徒数名が事情聴取を受け、停学処分にされる尾ひれが付いたのだが、幸か不幸かこの騒動は当の本人の耳に入ることは無かった。
数年後の活躍の片鱗さえ見ることが出来ない士官学校時代のミクルだが、彼女は出がらしと呼ばれるには少々不釣合いな肩書きを持っていた。未来同盟中央諜報局直属の工作員。多数の工作員を抱える組織が二十歳にも満たない、しかもお世辞にも有能とは言いがたい少女に、敵対国の士官学校に入学させるなどという大役を任せたのにはそれ相応の理由があった。
宇宙暦1990年代前半、度重なる軍事情報の流出に業を煮やした新人類連邦は、国内の不穏分子を一掃するために大規模なスパイ狩りを決行した。安全保障局が主導した奇襲的かつ、疑わしきは罰するをモットーとする容赦のない清掃作業は成功裏に終わり、近隣勢力から送り込まれていた工作員、工作員に協力していた内通者、あらぬ疑いをかけられた無実の市民を多数摘発することが出来た。
これにより未来同盟中央諜報局も例外なく被害を受け、諜報網が穴開きだらけになって機能不全に陥ってしまった。大急ぎで再建計画が立案されたのだが、作成された計画案は諜報局の幹部は顔を蒼白にさせた。強化された新人類連邦当局の監視の目を縫って諜報網を再構築し、その諜報網が完全に復活するには最低でも十年はかかると記してあったのだ。情報収入源の十年の空白を埋めるための計画が早急に必要なのは明白だった。
焦った諜報局は敵国内に送り込んだ工作員に金銭的報酬や弱みを握ることで協力者を作らせそこから情報を手に入れる、というそれまでの十八番であった手法とは異なる作戦を立案した。それは経歴を偽装した若い工作員を敵国内の士官学校に入学させ、その工作員を軍内部で昇進させて情報を入手するといった方法だった。発覚するリスクは大きいものの、工作員を直接軍内部に潜入させることができるので手っ取り早くうまみも大きい計画だった。
くしくも、この時期天の川情報共同体と人民統合機関でも類似の計画が提唱されていた。歴史に“もし”は禁物なのだが、この三カ国の内、たった一カ国だけでもこの計画が立案され実行されることが無かったら、若き英雄の野望を乗せた船は出港一日目にして大宇宙の藻屑となっていただろう。
未来同盟中央諜報局の計画は速やかに実行に移され、記念すべき工作員第一号にはミクルの姉に白羽の矢が立った。幼くして両親を戦争で失って妹と共に軍の戦争孤児支援施設で育ち、そのまま諜報局にスカウトされて工作員養成所で訓練を受けた彼女は、祖国に対する忠誠心、敵国に対する憎悪共に申し分なかった。
ミクルの姉は密かに新人類連邦内に潜入すると、首都星に住むとある男の邸宅に身を寄せた。この男はスパイ狩りで摘発されなかった数少ない工作員の一人で、表向きは星間貿易商を営んでいた。ミクルの姉はその男の愛人の娘であり、母が病死したため遺言に従ってを頼ったという筋書きだった。未来同盟中央諜報局が総力を上げて作成した偽の経歴と、男に疎まれ強引に士官学校の入学試験を受けさせられて体よく追い払われた、という話をミクルの姉から涙ながらに聞かされた士官学校の担当者はすっかり信じ込んでしまい、ここに試験の得点が合わさって彼女が士官学校に入学することが決定されたのであった。
こうして士官学校入学という最初の難関を突破したミクルの姉は手始めに士官学校の内部資料を奪取、おまけとして士官学校長が公金を横領している証拠を発見して、それを脅迫の材料にしてさらなる情報を引き出させるなど、当初から与えられた任務を十二分にこなした。
彼女の成功に気を良くした中央諜報委員会が次に送り込んだのがミクルだった。ただし、ミクルには工作員としての能力は最初から期待されていなかった。彼女に与えられた任務は中間点、すなわち姉が奪取した情報を受け取り工作員の男に渡すことだ。男の手に移った情報は男の所有する会社の貨物船に隠して輸送され、第三国経由で未来同盟入りすることになっていた。手の込んだことに、姉と違って男に気に入られた妹は帰省することを許されていたという作り話さえ用意されていた。
現役、退役を問わず軍人は素性の怪しい人物との接触が発覚すると、憲兵隊なり情報保全隊なりの防諜を職務をする者に周囲を詮索されてしまう。機密度の高い情報に触れることのできる立場にいる軍人ならなおさらだ。ならば、肉親ならどうか。妹と会うだけなら怪しまれることは何も無い。中央諜報局の思惑としては工作員を二人一組で行動させ、一方に出世街道を歩ませて新人類連邦軍中枢への浸透を図り、情報の収集を担当させる。もう一方は情報に触れる機会の無い閑職に回されるように仕向け、相方から受け取った情報を未来同盟へ送る、という分業制を目指していた。
よって、ミクルは先に潜入した工作員の実の妹という理由だけで敵地へ送り込まれたのだ。それも自らは能動的に動くことは許されず、むしろ周囲から好奇の目で見られることを避けるために地味であることを強要されて。
ミクルの士官学校に入学してから最初の一年間は、ただひたすら最愛の姉から渡された情報を貿易商の男へ送るだけだった。諜報網という名の巨大で複雑な機械を構成する一部品としては大過のない、まず合格点をもらえる成績だっただろう。だが、暦が一巡して新人類連邦での生活が二年目に入ると、ミクルは彼女が予想だにしなかった変化の嵐に襲撃される形となった。結果としてこの嵐はミクルという名の宇宙船の航路を大きく逸脱させ、彼女を時代の奔流へと突き落とすこととなる。
きっかけは工作員としての素性が露呈してしまったわけではなく、後方任務に対する能力を見出されたわけでもなく、実に些細で外面的要因だった。めちゃめちゃ可愛い。たったそれだけの理由でミクルは未来の英雄に腕をつかまれ、SOS団が根城にしていた空き部屋へ連れて行かれたのだ。現場を目撃したさる士官候補生は、犯人が女でなければ教官か憲兵隊に通報していたところだったと後に語っている。
ハルヒが常人が聞いたら狂気の沙汰だと呆れる銀河統一計画を大真面目に語り、キョンがため息をつきながら反論し、ナガトが黙然と本を読みつつハルヒの話に耳を傾け、コイズミが微笑みと共に提案をする、そんな英気と野心がたっぷり詰まった濃厚なスープの中に投げ込まれたミクルは確実に変化していった。特にSOS団の首魁たるハルヒの影響たるや並々ならぬものがあった。銀河統一という途方もなく遠大な目標に向かって、エネルギーを撒き散らしながらひたすら邁進する恒星風は、一介の歯車としての立場に甘んじて無気力無彩色の日々を送っていた大きく少女を揺さぶったのだ。
なお、産声を上げたばかりのSOS団のゆりかごとして大役を果たした空き部屋は、動乱終結後に国立戦史博物館へ移築されて、毎日大勢の見物客を迎えるやや平穏ならざる余生を過ごしている。それでも将来歩むべき道を決定する五者五様のドラマが繰り広げられていた時期よりかは幾分覇気に乏しい日常だろう。
ミクルの変化の兆しはまず後方任務分野の成績に反映された。定期試験の点数は爆発的な伸びを見せ、コンピューターを使用したシュミレーションでは天性の才能を思う存分開花させた。輸送システムの講義を担当した教官の中には自信を喪失して転属願いを出した者までいた。
ミクルの豹変は真の上司達に驚かれはしたが、工作員の仕事もいたって真面目にこなしていたので、さして問題にされなかった。本職を大過無くこなせさえすれば彼らは満足だったのだ。
ミクルを包む変化の嵐が最高潮に達したたのは士官学校を卒業した後、SOS団の団長が軍内部での地位を確固たるものとした頃だ。ハルヒに引っ張られるようにして出世街道を進んでいたミクルは、ついに姉を追い抜いてしまったのだ。しかも自国にとって邪魔で仕方がない英雄気取りの小娘の寝首を掻くには絶好のポジションにいる。中央諜報局にしてみれば嬉しい誤算だった。早速これからの扱いについての検討会議が行われたのだが、そこへ「アサヒナ・ミクルに離反の恐れあり」の急報が入った。発信元は彼女の“父”である貿易商の男だった。
情報の受け渡しの頻度が減ったこと、さらにハルヒに不利な情報をまったく渡さないことを不審に思った男は、“家族”であることを利用して軍管理区のミクルの官舎を堂々と訪れた。職務多忙を理由に訪問を断ろうとする部下を無視して男は官舎へ押し入り、まず最近の職務怠慢を責め立てた。あやふやな回答を繰り返す小娘に上司として看過出来ない部分を見出した男は、次に「愛国心」だの「家族の仇」だの使い古された言葉を並べて、工作員の誇りと任務への情熱を取り戻すよう諭し始めた。
当初は無言で男の話を聞いていたミクルだが、未来同盟を脅かす憎き敵スズミヤ・ハルヒに言及した時、ついに意を決して叫んだ。
「わ、わたしは、もうあなた達の言いなりになんかなりません!スズミヤさんのためにだけ働きます!」
未来同盟の工作員を脱したミクルが完全にSOS団の団員となった瞬間だった。温厚でお人よしのミクルがここまで明確に反抗の意思を示したことは、彼女の人生において初めてのことだった。この短い叫びが年若い美少女にとってどれほど勇気が必要な行動だったのか想像するにたやすい。彼女は生まれ育った故国を裏切り、最愛の、たった一人の肉親をも裏切ったのだ。平均的な精神力の持ち主だったら実行のはるか以前で投げ出し、現実に目を背け耳を塞いでいただろう。しかし、驚愕のあまり石像と化した男を貫く瞳にはわずかな揺らぎさえもなく、城門のごとく閉ざされた口に代わってミクルの意志の固さを能弁に語っていた。彼女はSOS団という強力な支えに背中を預けることが出来たのだ。
もしもミクルが狡猾で打算的な性格の持ち主であったなら、未来同盟の工作員として暗躍しながらハルヒのために働くことも可能であっただろう。それが不可能だったのは、彼女が良い意味でも悪い意味で生真面目で器用に立ち回ることが出来なかったからだ。ここが彼女の限界点であり、長所とも言える部分だった。
SOS団と後世の歴史にとって幸いだったことに、男の手が隠し持っていた銃に届く寸前、ほのかな酒気をまとった陽気な親友がミクル邸のチャイムを押して返事を待たずに中へ入ってきた。男は舌打ちすると脱兎のごとく走り去り、一種の放心状態となったミクルは何事かと驚くツルヤの胸に顔を預けた。体内で荒れ狂う感情は全て液体化して頬を濡らし、ミクルはただただ子供のように泣き続けていた。優れた洞察力の持ち主である親友は何も言わず、黙って幼子をあやすように背中をさすったのだった。
ミクルのこれからの扱いを検討するはずだった会議は、裏切り者の処分を検討する会議と変貌した。もはや工作員として役に立たないばかりか、未来同盟にとって目下最大の脅威に利する者を生かしておくわけにはいかなかったのだ。
ここで一つ問題が発生した。工作員の男はツルヤが憲兵隊に働きかけたために軍管区立ち入り禁止となり、ミクルを暗殺するどころか接近することすら困難になってしまったのだ。諜報網は未だ再建の途上であり、現地の暗殺者を雇うにしても今をときめく英雄の部下の警備は厳重過ぎた。
会議の場が混乱の見えざる手に支配された中、ミクルの姉に妹を暗殺させることが提案された。妹と違い依然として忠誠を誓っているはずの姉なら、姉の地位を利用して妹を暗殺することは容易である。少なくとも平常心を失った出席者にはそう魅力的に見えた。
ミクルが動揺から回復し、姉に事態を伝えるよりも前に暗殺は了承された。中央諜報局の面々は成功の報を待ちわびたが、再び混乱と失望の渦へと落とされることとなる。“父”に召集をかけられたミクルの姉が、苛立たしげに妹が工作員としての任務を放棄したむねを伝え、姉の地位を利用して不貞な裏切り者を暗殺するよう命令した男をその場で射殺し、いずこかへ姿をくらませたのだ。
中央諜報局は美しき姉妹愛を心の底から呪ったが、もはやなすすべはなかった。その上、未来同盟と隣接する人民統合機関との関係が悪化して開戦は時間の問題となってしまい、そちらへの諜報に力を入れなければならなくなったために、工作員二名の裏切りという不名誉な事件は上層部の判断もあってうやむやの内に処理されてしまった。
手を引いた中央諜報局に代わってミクルの姉を探したのは、妹の親友であり彼女とも交流があったツルヤだった。病気療養の名目で休暇を取って心を落ち着かせていたミクルが、ニュースで第八艦隊司令部に勤務していた姉が失踪したことを知り心労で倒れてしまうと、ツルヤは親友を病院へ入院させて看病をSOS団の面々に引き継ぐと無言の内に動いていた。
多数の星間国家に根を張り巡らし、戦争によって生み出される莫大な利益を吸い上げるツルヤ財閥の跡取り娘、それがツルヤのもう一つの顔である。地位と権力を約束された道を外れて軍隊に入ったのは、親族間で果てしなく繰り広げられる陰謀から逃れるためと、本人が財閥の跡を継ぐことを避忌したためだ。鼻と目先が利く少女にとって、財閥から漂う腐臭と金庫でうなる血にまみれた金は耐え難いものだったのだ。一介の軍人として生涯を終えると公言して回ってさえいた。
それゆえに新人類連邦首都星のツルヤ財閥本部に軍服姿のままのツルヤが現れたとき、事情を知る者の多くは驚愕と疑問と好奇の三姉妹と共に彼女を迎えた。周囲からの視線を無視してツルヤはそのまま本部に居座ると、財閥跡取りの地位をフル活用して情報を集め始めた。小国の諜報組織をゆうに上回る星間財閥の情報収集能力を持ってすれば、行方不明になった軍人を探すことなど「めがっさ簡単にょろ」だった。
一週間後、平凡なサラリーマン十人分ほどの生涯年収を惜しみなく投入した情報収集の結果、首都星の地方都市にひっそりとたたずむ安ホテルにミクルの姉らしき人物が投宿していることを突き止めた。娘がついに跡取りの決心をしたと誤解して狂喜した父からの通信を無視して、ツルヤは件の安ホテルへと急いだ。
情報は正確だった。渋るホテルのオーナーを札束でひっぱたいてマスターキーを持ってこさせ、一室へ押し入ったツルヤの目にまず飛び込んできたのは、妹よりも三割り増しの胸を震わせ、不埒な侵入者へ向けて銃を構えている麗しい女性だった。ツルヤは生まれて初めて財閥の当主の一人娘として生まれたことに感謝した。
ミクルの姉は銃を向けたことをわび、逃亡と精神的な負担により憔悴した顔で姉妹の秘密と事の顛末を妹の親友に語った。いつになく真面目な表情で話を聞き終えたツルヤは、部屋に滞留する陰湿な空気を吹き飛ばすような笑みを浮かべ、二人に財閥の保護下へ入り、新人類連邦の一士官として再スタートすることを提案した。幼少の頃から財閥の影の部分を見続けていたツルヤは、財閥の持つ力の強大さを嫌というほど知っていた。それゆえに力が正しい方向へ向けられた場合、どれほどの効果を上げるかも心得ていた。
だが、銀河を統べる大財閥の威光をもってしても、傷ついた工作員の心に取り付いた闇を払拭することは出来なかった。発見は真実へと直結してはいたが、幸福へ繋がるにはまだ時間が必要だったのだ。ミクルの姉は力なく笑い、財閥の跡取り娘の提案を半分謝絶した。
「ミクルはスズミヤさんの仲間である限り安全でしょう。それに加えて、かのツルヤ財閥が守っていただけるなら心強い限りですわ。頼める立場ではありませんけど、ぜひともよろしくお願いします。でも、わたしは……わたしはあの子と同じ舞台に立つことは出来ません。そんな資格はないのです」
ここで一旦話を切り、ミクルの姉は備え付けの安っぽいサイドテーブルへ視線を落とした。頬がこけて目の下に隈ができても、なお美貌を損ねることのない顔には、妹を世界へ引き込んでしまったことへの後悔と、同等以上の自分への怒りが混じり合って複雑な表情を形成していた。
「わたしは自分の成功に浮かれていました。工作員として成功することが戦乱の中で死んでいった両親の敵討ちになっていると信じて。しかも、自分と同じようにミクルも工作員でいることに喜びを感じているとさえ思い込んでいたのです。あの男にミクルが裏切ったと告げられた時、頭を思い切り殴られたように感じました。ふふ、救いがたい低脳ですよね。押し付けられた生き方と、自分の望む生き方との狭間で葛藤して傷ついている妹にこれっぽっちも気づいてあげられないなんて。いまさら姉の顔をして現れることなど到底出来ません。ミクルは優しい子です。謝ればすぐに許してくれるでしょう。けど、それではだめです。いくらミクルが許してくれてもあの子が傷ついた事実は消えません。それに……それに、わたし自身が妹を傷つけた愚かな姉を許すことが出来ません!」
胸の内で暴れる感情を吐き出し続けるミクルの姉を、ツルヤは沈黙でしか迎えることが出来なかった。妹を愛する気持ちが見えざるナイフを持ち、ミクルの姉の心を一言ごとに切りつけていたのだ。それを止める方法を、ツルヤは知らなかった。
「わたしはこれからミクルに降りかかる厄災を少しでも減らすために、少しでも悲しむことを減らすために、あの子の背中を守る影として生きていきます。二度とミクルの前に現れるつもりはありません。だから、どうかわたしのことは忘れてください。妹にも、そう伝えてください」
ようやくサイドテーブルからツルヤへと向けた顔を、固い決意がこもった表情と呼ぶにはあまりにも悲愴で儚かった。それでもツルヤはすごすごと帰路につくことはなかった。財閥の跡取り娘でもなく新人類連邦の軍人でもなく、ただの妹の親友として説得を開始した。この機会を逃したら二度とミクルの姉に会えなくなるかと錯覚したかのように。
ミクルの姉が泊まっている部屋の隣室を取ると、ツルヤは昼夜を問わず説得を続けた。時にはしつこさから激高されることがあっても、決して諦めることがなかった。ミクルの姉がホテルを抜け出さなかったことから、彼女も心の奥底ではツルヤに救われることを望んでいたかもしれない。
「ハルにゃんは頂上がかすんで見えない、険しい山に挑み続ける孤高の登山家に似ているっさ。ミクルはその背中を支えて苦楽を共にする仲間になる決心をしたってことだよねっ。もし、ハルにゃん達が頂上に到達することが出来たなら、未来同盟や新人類連邦といったしがらみを全て破壊して銀河に統一と平和をもたらすことが出来たなら、ミクルに会ってもいいんじゃないかな。だって、ミクルの頑張りを褒めて、頭がクシャクシャになるまでなでなでして、ぎゅぎゅっと抱きしめて、思う存分甘えさせてあげられるのは、宇宙広しといえどもお姉さんしかいないじゃないかっ!」
申請しておいた休暇を消費しつくしてもホテルを離れなかったため軍から出頭命令を受けた日、ツルヤはかたくなに妹との再会を拒んでいた姉から、承諾とも取れる一度のうなずきを得ることが出来た。ミクルと会う絶対の保証はなく、またSOS団が銀河を統一する保証もなかったが、ツルヤはこのうなずきを信じるしかなく、彼女自身にとってもそれだけで十分だった。
ツルヤはしつこく説得したことを謝ると、別れを告げてすっかり根を張ってしまっていた安ホテルを去った。後ろを振り返ることはなく、むしろ春を謳歌する小鳥のようにさっそうとしていた。その足で勤務先だった後方勤務本部へ出向いたツルヤは、時折思い出したかのように身勝手な振る舞いをするじゃじゃ馬娘に、業を煮やしていた上司と正対することとなった。初老の上司は全身の筋肉を総動員して叱責の言葉を投げかけようとしたが、息を吸い込む動作の途中で若い部下に先を越され、思わぬ攻撃を受ける羽目になってしまった。老人と若者、どちらが衰えているかは明白だった。
「いや~悪いねっ!ちょっちょっとやらなきゃいけない仕事が出来ちゃったから、あたしは少~しの間だけ休職するさっ。おやっさん、もろもろの面倒ごと、よろしくうっ!」
にゃはは、と笑いながら上司にとって平穏ならざる休職届けを耳元に届けると、さっと身をひるがえして部屋の出口へと向かった。あまりのことに口を開けたまま呆然と立ち尽くす上司に、
「心配ご無用にょろ。ちゃーんと戻ってくるっさ!じゃあね~」
と再度声をかけてじゃじゃ馬娘は姿を消した。老人はかなりの時間を費やしてから椅子に座ると、行き場を失った肺の空気をため息に変えた。そして、ツルヤ財閥の軍に対する影響力と、しばらく会っていないおてんばな孫娘に思いをはせながら、部下の休職届けを代筆し始めた。
この上司は数年後、老体に鞭打ってSOS帝国軍に参加し、ツルヤの元で働くこととなる。
ある意味お情けで軍を休職させてもらったツルヤは、それまで一方的に断ち切っていた父親との関係を修復して、ツルヤ財閥幹部の列に名を連ねることに成功した。銀河の経済面での名士達が一同に会する席、それまで利権と陰謀の泥沼と揶揄して見向きもしなかった席に初めて参加したツルヤは、過剰なまでに壮麗でどこか空虚な会議場に臆することなく、驚くべき計画が進行中であることを暴露した。いわく、新人類連邦が誇る英雄スズミヤ・ハルヒは銀河統一の野望を本気で実現しようとしている、と。
SOS団において“名誉顧問”の立場にいたツルヤは、ハルヒの脳内で発案されSOS団内で具象化された銀河統一計画を知る数少ない人物の一人であった。それゆえに文明発達以来、人類が常に悩まされてきた問題、金不足が遠からず計画と正面衝突を起こすことを知っていた。不幸な事故を回避するためには資金を集めなければならなかったが、SOS団の面々は軍人であり行動が制限され、いくら英雄と称えられていても軍人の棒給ではたかが知れていた。
ツルヤは自分が最善の策の鍵であることを熟知していた。権力から逃げて軍人になった以上、そこに譲れない一線が存在することも。一ヶ月内に発生した一連の事件は、ツルヤの背中を押して一線を越えさせたのだ。
ツルヤは銀河統一事業と統一に伴う安定によって発生する利益を強調して財閥の支援を得ようとしたが、反応は芳しくなかった。ツルヤは演説を終えて周囲を見回し、出席者の半数が拒否、残りが嘲笑していることを確認すると、ハルヒのごとく不敵に微笑んで指を鳴らした。その刹那、会議場に一つしかないドアから武装した一団が乱入してきた。
銃口を突きつけられ、出席者達が蒼白になると、舞台の主演女優は声高らかに宣言した。“支援か死か”無論、ツルヤは話し合いの場で死者を出すような馬鹿げたまねをするつもりはなかった。最高の演出をして最大の効果を引き出そうとしたのだ。
努力は報われた。ただ一人平然としていた財閥総裁は娘の意図を看破し、呵呵大笑して叫んだ。
「百年前に銀河統一政府が崩壊してから、その手の計画は掃いて捨てるほど現れては消えていった。我が娘よ、お前が持ってきた話はそこまでして成就させたい代物なのか!?」
「当ったり前さあっ!」
「くくく……小気味良い返事だ。よかろう、お前の目を信じる。その賭け乗った!」
ツルヤ親子二人によって劇は成功裏に終わった。これにより、ツルヤ財閥はSOS団のパトロンとなり、一世一代の大博打に出ることが決定した。
SOS帝国独立後、財閥は表向き“周辺国を脅かして財閥の利益を損ねようとする帝国と、帝国に参加するけしからん娘とは絶縁”したことになっているが、裏で超低利子の融資を続けている姿勢に変化はない。ハルヒはさも当然のように融資を受け取り、それでいてツルヤには有形無形の謝意を表しているので、素直ではない性格をキョンなどに笑われている。ツルヤもキョンに便乗して笑う。ただし、彼女独特の毒がないまっさらな笑顔で。
「財閥の力を未来の笑顔のために使ってくれるなら、あたしにとってこれ以上幸せはないさっ!」

 

 

 

 


ミクルの姉がどこで何をしているか、それはミクルもツルヤも知らない。しかし、ツルヤは知っている。いつの日か、もしかしたらそう遠くない未来、ミクルは姉と再会するということを。記念すべきその日は銀河中が笑顔で埋め尽くされる日であることを。
また、ツルヤはミクルの姉が何故失踪し、どんな約束をしたかをミクルに伝えていない。警察やナガト率いる情報管理局に出した捜索願もことごとく握りつぶしてしまっている。これは道の途上で二人が再会しても、悲劇しか生まないという確信めいた予測からの配慮だ。何よりも幸せは長い間待たされて、しかも突然現れた瞬間が最も嬉しい、という彼女の考えに基づいた親友に対するいたずらでもある。
「ツルヤさん……ツルヤさん?」
ミクルに呼びかけられて、ツルヤはようやく驚愕の魔の手から逃れることができた。どうやら意識が宇宙の大海に浮かぶ戦艦から、遠く離れた空間をさまよっていたようだ。惚けていたことをからかったのに、自分が惚けてしまったな、と心の中で苦笑してから、心配そうに覗き込んでくる艦隊司令官を見た。何と美しく、何と儚い瞳をしているのだろうか、とツルヤは思った。
「だっ、大丈夫でっ…わひゃあ!?」
ツルヤが次に気づいたとき、彼女の愛らしい親友はすでに胸の内にいた。宇宙艦隊司令官が副司令官に抱きつかれるという、2000年あまり続く宇宙史の中でもそうお目にかかれることの出来ない事態が発生したのだ。ツルヤは、あまり後悔していなかった。
「ツ、ツ、ツルヤさん!?」
「いつか会えるよ。ミクルが生きている限り、絶対に」
ミクルは固まった。耳元でささやかれた言葉に、ただの慰めではない感情が込もっていることを感じ取ったからだ。返事をするのに言語は必要ないことも。しばしの間、ミクルはツルヤに身体を預けて、数万光年先の星々の瞬きを眺めていた。
「だから…」
二本の腕から開放されたミクルは今度こそ本当に動けなくなった。彼女を見つめる親友の瞳は、獲物に襲い掛かる肉食獣のそれであったからである。悪い予想は的中した。しなやかな身体から生まれる強靭な瞬発力によってミクルの背後に回り込んだツルヤは、男の視線を魅了して止まないふくよかな胸を、文字通りわしづかみにしたのである。
「ふええええええええええ!?」
「今は生き残ることだけを考えるのさっ!さしあたって、戦いが始まるまではミクルの力が勝敗を左右するんだ。きりきり働けぇっ!!」
「むっ、無理ですぅぅぅぅぅ!!」
SOS帝国補給艦隊司令官の悲痛な叫び声は誰の耳にも届かなかった。副司令官の暴挙は執務室に入ってきたもう一方の副司令官、シャルロット・フィリスが抱えていた報告書の山を落とすまで続いた。
ミクルはハルヒと銀河のために自分が選んだ道を多くの幸福につなげるために。ツルヤは財閥の力を多くの笑顔につなげるために。それぞれの思いを胸に秘めた少女が立つ戦場は燃え上がるのを待つばかりだった。



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