「…はぁ」
 
電車に揺られた体を休め、ため息をひとつ吐く。
こんな長い旅路はきっと初めてで、あのお袋の息子でいる限りはまたこんなこと
が起こるんだろうかと思うと…
 
「…はぁ」
 
…自然にもうひとつため息がでるのも不思議じゃないわけで。
 
初めての学校。初めての町。初めての空気。
これまた初めての駅を出て、俺は少し立ち止まってみる。
 
…何?状況がわからない?
奇遇だな。俺にもよくわかって無かったところだ。
ま、適当におさらいでもしてみますかね。
 
◇◆◇◆◇
 
「あんたは此処の高校ね。それ以外認めないから」
「お、おいハルヒ。そうすると、こいつは県外に行っちまうことになるぞ?」
 
高校受験を半年後に控えたある日。志望校について親父と話し合っていると、い
きなりお袋がとある学校のパンフレットを持ってきた。
何でもお袋と親父が一緒だった高校であり…
 
「面白そう!」
 
というお袋の提案によって、今現在不毛とも言えるような話し合いが開催されているわけで。
 
…親父、そんな目で俺を見るなよ。
お袋が言い出したら止まらないのはあんたが一番知ってるだろうに。
 
「…いいかハルヒ。百歩譲ってこいつを北高に入学させたとしよう。あっちでのこいつの生活はどうするんだ?」
「一人暮らしでいいじゃない!」
 
…一人暮らしは憧れるなぁ。
 
「駄目だ。何だかんだでまだ中三だぞ?誰か安心できる人のところに……」
 
と、ここまで言いかけて親父が「しまった!」とでも言いたそげな顔をする。
…いるのか。北高付近に心当たりのある人物が。
 
「ふーん。知り合いの元でならOKってわけねぇ…」
 
ニヤリと笑い、お袋が携帯電話を取り出して居間を出て行く。
誰かに電話をかけるようだ。
 
…なぁ、親父。
 
「…どうした?」
 
俺、これからどうなんの?
 
「…知らん。ただ、北高に受かりでもしたら…いや、受かるか。ハルヒが望んでいるんだから…」
 
お袋が望んでるから何なんだよ。
 
「…妄言だ。忘れろ」
「キョン!あっちはOKだって!」
「OKなのかよ…」
 
さも嬉しそうな顔でお袋が戻ってくる。
 
…で、俺はどうなんの?
 
「…ある意味この世で一番安全な所だ」
「何よそれ。ま、あの子に任せとけば安心だけどね」
「とりあえず受かってからの話だ。お前は勉強に専念してろ」
 
…了解。
しかし、普通のレベルとはいえ、お袋が行くような高校なんだ。
俺なんかが受かるとは思えないんだが…
 
◇◆◇◆◇
 
「…受かっちまったんだよな」
 
初めての町で三度目のため息を吐く。
そりゃそうだ。親父にだって受かることができたんだ。
本当に普通のレベルな高校だったということか。
 
…まぁ、兎にも角にも「長門有希」という人の下でこれから俺は暮らすらしい。
親父から貰った地図を頼りにその人のマンションを目指す。
 
しかしまぁ、なんだ。良い町じゃないか。
賑わいもあるみたいだし、少し安心したよ。
どうせなら散策でもしてみよ──…ん?メールだ。
親父からか…どれどれ…
 
『眉毛の太い子に気を付けろ』
 
…意味不明だ。
え?何?眉毛の太い人間はみんな敵だとでも思えばいいのか?
わけのわからぬまま下にスクロールすると、また一文を見つけ出した。
 
『PS.鞄の中に役に立ちそうな本を入れといた』
 
…本?
 
立ち止まって鞄の中を漁る。
すると、見知らぬ一冊の大学ノートを発見した。
…タイトルが書いてある…
 
『長門有希取扱説明書』
 
…あぁ、うん。
…意味不明だ。またしても。
 
これをどうしろっていうんだ。
長門さんとやらが故障したときに参考にでもすりゃいいのか?
 
馬鹿馬鹿しい。人間を何だと思ってやがる。
 
悪態をつきながら俺はマンションに入る。
 
それともあれか?自分の息子のコミュニケーション力が低いとでも思っているのか?
いいだろう。こんなものに頼らずとも長門さんと接してみせようじゃないか。
 
「708号室…ここか」
 
…しかし、いざとなると緊張するな。何気に初対面だし…
いや、お袋の遺伝かしらんが好奇心が勝ってるってのはあるんだが。
 
ボーっとしてても仕方がないのでチャイムを鳴らす。
…しかし、反応が無い。
 
「あれ?留守かな…」
 
もう一回チャイムを鳴らす。
 
しばらくしてガチャ、と子機を外す音。
良かった。いたみたいだ。
 
…が
 
『………』
「…あ、あの…」
 
今度は無言。
…どうすりゃいいんだよ。
 
未だかつてこんな状況に陥ったことは無い。
開けゴマだのビビデバビデブーだの呪文を唱えなきゃならんのか?
 
『…ビビデバビデブー』
 
インターホン越しに聞こえる静かな声。
…いや、遊んでないで玄関の扉を開けてくださいよ。
 
『………』
 
…またしても無言。
だぁ!もうどうすりゃいいんだよ!
 
「…仕方がない」
 
…長門有希取扱説明書、オープン。
 
ノートを開くと、親父の筆跡でいくつか箇条書きがされていた。
何々…
 
『1.扉を開けてもらう際、長門流のジョークをかまされる場合があります。キチンと要件を伝えましょう』
 
「………」
 
………。
 
「…長門さん?」
『…何』
「これからこちらにお世話になることになりました、涼宮ハルヒの息子です」
『…入って』
 
カチャ、という音と共に扉の鍵が外れる。
 
「…めんどくせぇ」
 
というか、疲れる。
まだ家にお邪魔すらしていないのに何なんだこの虚脱感は。
扉を開け、中を覗き込む。居間と思われるところから一人の女性がやってきた。
 
「あ、えと…初めまして」
「…初めまして」
 
可愛らしくも無表情なその人、長門有希は相変わらず静かな口調で淡々と話す。
…いや、ひとつつっこみたいところがあるんだが…
 
「玄関先で立ち話も何なんですが…親父達と同級生なんですよね?」
「…そう」
 
いやいやいやいや。
どう贔屓目に見ても俺と同い年か年下にしか見えないぞ。
お袋や親父だってシワの一本や二本はあっても不思議じゃないのにこの童顔っぷりは何なんだ。
 
「……?」
「…年は38ですよね?」
「…私は永遠の17歳」
 
いや、そういうのは良いですから。
そんな俺のツッコミを無視しつつ、長門さんは居間へと戻ろうとする。
 
まぁいいか。
玄関で突っ立ってても仕方がないので俺も長門さんの後に続くことにする。
 
「…戸籍上は26歳」
 
長門さんが何か呟いた気がしたが、俺の耳には届いちゃいなかった。
 
◇◆◇◆◇
 
…シンプルな部屋だなぁ。
 
「…荷物はそこに置いて」
「わかりました」
 
居間に通され、辺りをみまわしても家具と呼べるようなものは殆ど無かった。
中央に陣取られた机と隅に置かれた本棚。
あとはテレビが一台くらいか。
 
「とりあえず、高校に通う間お世話になります」
「…そう」
「………」
「………」
 
…会話が…続かん。
 
と、ここで徐に席を立つ長門さん。
しっかし無表情だったな…何考えてるのかさっぱりわからん。
鞄を漁り先程のノートを再び取り出す。
案外役に立つかもしれんな。
 
『2.お茶を出された場合は適量で断りましょう』
 
もうそこはかとなく意味不明なんだがな。
…お茶って、出されたら有り難くいただくものじゃないのか?
そんなことを考えていると、長門さんが戻ってくる。
手には急須と2つの湯のみ。
 
「…飲んで」
 
…これか。
見たところ、何もおかしなところはないが…うん、美味しい。
 
「美味しいお茶ですね」
「…教わった」
「お袋にですか?」
「…違う」
 
そう言って、彼女はひとつお茶を啜る。
つられて俺もひとつ。
 
「…まだ、彼女のようにはいかない」
「そうなんですか…もしかして、お袋達の団活の一員ですか?」
「………」
 
何も言わず、肯定の動作。
そういやお袋達の団活の話って聞いたこと無かったな。
 
「どんな人だったんですか?」
「…上手く言語化出来ない。ただ、暖かい人」
「暖かい…ですか」
「…そう。ただ、体の一部がとても不快。あからさまに不必要」
「…何の話ですか」
 
…いや、そりゃ気付いていたさ。
何だかんだでお花畑な年頃ですよ俺は。
 
長門さんがとても可愛らしいことも、ただ少し感情を表に出し辛いんだってことも
 
「…あなたの母親に関してもそう。少しは私にわけるべき」
 
…胸がとっても小さいことも。
ブツブツと長門さんが呟き始める。
…変なスイッチが入ってしまったか。
 
お茶を飲み干して湯のみを置く。
間髪入れずに彼女が再びお茶を淹れる。
 
「…あ、ありがとうございます」
「…思えばあなたの父親もそう。いつも彼女の一部ばかり見つめていた。不潔。とても不潔」
 
…怒ってんのかなこれは。
俺の目をじっと見つめてひたすら喋り続ける長門さん。
 
というか親父。
不潔とか思われてるみたいだぞ。
 
「…あなたはどう思う?」
「…何をですか?」
「…無用の長物について」
 
あえて「何のことか」言わないのが答え辛いというか何というか…
 
「あー…いりません、かな?」
「…そう」
 
…満足してくれたのかね?
今一度自分の湯のみにお茶を汲み、静かに飲み干す彼女を見て何となく思う。
 
何考えてるかさっぱりわからん、と。
 
必要最低限のことしか話そうとしない彼女。
お袋とは正反対のタイプだからなぁ…
もう少し表情から感情が読み取れればいいのだが。
 
「…飲む?」
「いえ、もう結構です」
 
恐らくはもう5度目になるであろうお茶のおかわりを丁重にお断りして、俺は昼先から何にも食べてないことを思い出す。
 
「…ご飯、食べる?」
 
そんな俺の考えを見透かしたかのように、長門さんが静かに訪ねる。
参ったね、実はさっきからカレーの良い匂いがしてたまらなかったんだ。
 
「じゃあ、お願いします」
「…了解した」
 
何はともあれ、直ぐに北高の生活が始まるんだ。
早くこの生活にも慣れなきゃいかん。
 
おそらくは昨日の内からきっちりと煮込んでおいてくれたのだろうか。
その日、長門さんが出してくれたカレーの味はお袋のものに勝るとも劣らない美味しさであった。
 
◇◆◇◆◇
 
「…起きて」
「ん…うー…ん…」
「………」 ガン!
「痛ってぇ!」
 
雷が頭に落ちたかのような衝撃を受けて俺は目を覚ます。
頭を抑えつつ起き上がると、フライパンを携えた長門さんが立っていた。
 
「…朝」
「…おはようございます…もっと普通に起こせないんですか…」
「…おはよう。ならばあなたはもう少し普通に起きるべき」
 
と、長門さんが俺の目覚ましを指差す。
…あぁ、既に起きるべき時間を相当過ぎてしまっている。
目覚ましもそれなりに機能はしていたのであろうか。単に鳴っても俺が起きなかっただけか。
 
「…ご飯、できてる」
「あ、じゃあ着替えてから行きます」
「………」
「…な、何ですか?」
「…手伝う?」
「結構です」
「…そう」
 
そう言うと、キッチンへと戻っていく長門さん。
あの人は冗談と本気の境目がよくわからんから困る。
 
初めて彼女の家に来てから約一月が立とうかとしている朝、俺は幾百回目かのため息をついた。
 
いやしかし、手伝うったってどういう風に手伝ってくれるのだろうか。
気にならないといえば嘘ではある。少しわくわくした自分がいたが…
 
「ま、あれは冗談だろうな…」
 
既に何度も着た制服に袖を通す。
此処での生活も高校に通うのも何となくだが慣れてはきた。
やはり長門さんは少しずれた存在で、戸惑うこともあるんだが…
 
例えば───
 
『7.とりあえず、わからないことは何でも聞いてみましょう。自分自身のこと以外に対しては殆ど答えてくれます』
 
「あの…長門さん」
「…何」
 
今でお茶を啜っている彼女に俺は話しかける。
夕食の後片付けを終えた所申し訳ないが、これを終わらせないと俺は厳しい訳で…
 
「…出された課題でわからないとこがあるんですが…教えてもらえますか?」
「…了解した」
 
何が何だかさっぱりなので俺としたらスルーしていきたいんだが…
こんなんで内申点等を下げられてしまうとお袋からきっついお咎めを受けてしま
う。
 
「…物理なんですが大丈夫です──…あれ?」
「…出来た」
 
俺が差し出したノートには既に彼女の筆跡で、回答までのヒントが
いくつか書かれていた。
…しかもこれ、授業の数倍わかりやすいぞ…
 
「あ、ありがとうございます」
「…いい」
 
そう言うと、長門さんはもう一度お茶を啜った。
…学生の時に相当勉強していたんだろうか。
 
『8.ただし、読書中は遠慮しましょう』
 
ヤバい…また別の問題でつまづいた。
30分近く考えたがさっぱりわからん。
 
「…また長門さんに聞くか」
 
再び居間に戻ると、長門さんは何やら本を読んでいた。
此処に来てからよく読書姿は見かけるのだが、如何せん何を読んでいるのかはさっぱりわからん
 
ただ一つ言えることは、それで人を殴ったら簡単に殺せるんじゃないかってくら
い毎回本が分厚いことくらいだ。
 
まぁいい。
とりあえずさっきみたいに質問を…
 
「あの、長門さん…」
「………」 ペラ
 
俺の呼びかけを無視して無表情でページを捲る。
 
「…また教えてほしいことがあるんですが…」
「………」
「…聞いてますか?」
「…ユニーク」
 
駄目だこりゃ。
 
『14.好物はカレーです』
 
ある学校の帰り道、飲み物のストックを補充する為に近所のスーパーに寄ること
にした。
長門さんに教えてもらって以来、近場で便利なのでよく通うことにしている。
 
「……あ」
「長門さん。買い出しですか?」
 
すると、やはり近場なのでよく通う長門さんとも自然と鉢合わせするわけで。
 
見ると、カートの中には様々な食材が詰め込まれている。
どう贔屓目に見ても二人分の量では無いが、なかなかどうして、いつも彼女はペ
ロリと平らげてしまうのだ。
 
自炊歴が長いのだろうか。
長門さんの料理はても美味しく…ある意味ではレパートリーは多いと言える。
少なくともおんなじ料理に出会ったことはない。
 
…本当にある意味ではだが。
 
「…今日はカレー」
「…今日もカレーの間違いじゃないんですか」
 
山と積まれたカレールーを眺め、彼女は嬉々として答える。
 
「…カレーは至高の食事」
「…ちなみに今日のトッピングは?」
「…春巻き」
 
…普通に食わせてくれ。
 
『15.好きすぎて文句を言われると怒ります』
 
まぁ、美味しいから良いんだが…
 
「あの…流石に飽きませんか?」
「…何が?」
「その…俺が来てから殆ど毎日な気がするんですが…」
「…あなたは何もわかっていない」
 
…何がですか。
 
「…カレー。それは安価にして手軽に作れ、そして素晴らしく美味しい食べ物。トッピングにより味は無限大。これに勝る食事は地球上に存在しない」
「…はぁ」
「…そもそも、カレーとは300年前────」
 
このままスーパーのド真ん中で三時間コースです。
 
「…わかった?」
「とりあえず長門さんがカレーを愛してると言うことは…」
 
『16.そこはかとなく怒ります』
 
で、その日の夕食。
 
「…俺の分のカレーが見当たらないんですが」
「…罰。悔い改めるべき」
 
…春巻きだけ虚しく食べることにしたさ。
 
◇◆◇◆◇
 
…とまぁこんな感じだ。
 
「御馳走様でした。それじゃ、学校に行ってきます」
「…待って」
「…またやるんですか?」
「…必要不可欠」
 
渋っていても仕方がないのでいつものように彼女の方を向く。
ポンポン、と二度長門さんが俺の頭を軽く叩く。
 
「本当に意味があるんですか?…この、何でしたっけ」
「…平和のおまじない」
 
…まだまだ説明しても足りないくらいの奇行はあるが。
ちなみに彼女、この行為を俺が出かける時に毎回執り行っている。
忘れた時なんざ小走りで追いかけてくるほどだ。
まぁ、別にいまさらどーってことはないがな。
 
長門さんに見送られ、ほんのりと日差しが差す外にでる。
いい天気だ。
無理矢理送り込まれた所ではあるが、俺はこの町が好きになっていた。
 
「…毎日親父はこれを登っていたのか」
 
…学校前の登り坂は嫌いだけどな。
 
「あら、溜め息なんてついてどうしたの?」
 
果てしなく続いているように見える坂道を恨めしげに見つめていると、後ろから声をかけられた。
 
「…先生、おはようございます」
「うん、おはよう」
 
担任の朝倉先生である。
 
美しい顔立ちと柔らかな性格で、どんな生徒からも好かれている人気者である。
本人曰わく、長門さんの古くからの友人らしい。
 
「天気が良いと元気がでるわね。ほら、急がないと遅刻しちゃうわよ」
「あ、はい」
 
…長門さんにいくら朝倉さんのことを尋ねても無視されるのが気にかかるが。
そんな俺の心残りを他所に朝倉先生は前を歩く。
 
「…あの、ひとついいですか?」
「何かしら?」
「本当に長門さんとは友人だったんですか?」
「…どうしてそんなことを尋ねるの?」
「だって、長門さんが貴女のことを何も話そうとしないから…」
「何も話さないだけでしょ?否定したならまだわかるけど」
 
それもそうなんだが…
今日あたりもう一度長門さんにでも尋ねてみようか。
 
「あんまり自分に関することは話そうとしないのよ。あの子は」
「ん、あぁ。説明書にも書いてありました。それ」
「説明書?」
 
…あ。
 
『23.あまり自分のことは話そうとしません』
 
「…何でもないです」
「ふーん? まぁ、仲良くしてあげてね」
「…まぁ、同居人として差し障りの無い程度に接しますよ」
「…それ、どういう意味かな?」
 
彼女が歩くのを止める。
振り向いた先生は、少しばかり怒っているように見えて。
 
「どうって…そのままの意味ですよ。そもそも俺はお袋に言われて来ただけですし」
「長門さんはきっと、あなたのことを息子のように思ってるわよ?」
「…突拍子もなく何ですかいきなり」
「…この鈍さ。誰に似たのかしら」
 
あからさまなため息をつかないでくださいよ。
 
「とにかく、長門さんを悲しませるようなことはしないでね?」
「…わかりました」
 
その言葉を聞いて険しい顔を解いた先生が、何か呟いたように見えた。
 
「…え?」
「ううん、何でも無いわ」
 
だけどその言葉は聞こえなかった。
もしかしたら聞こえてたのかもしれないけれど、これ以上ゴチャゴチャしたくな
いと脳が拒否したのか。
 
ただ、聞いていたにしろそうでなかったにしろ。
俺に降りかかる災難ってのはもう振り払えるものではなかったようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「…そうでないと、私、貴方を殺さなくちゃいけなくなるから」
 
 
 
 
 
その日の夜
 
「…おかえり」
「ただいま帰りました…」
 
いつものように彼女が玄関で出迎えてくれる。
なんら変わらない、いつもの風景。
 
「…ご飯、できてる」
「あ、はい。すぐ手洗いしてきます」
「…待ってる」
 
キッチンから良い匂いがする。
察するにまたまたカレーのようだ。
 
制服を脱ぎ捨て居間に行くと、既に盛りつけられた料理が俺を出迎えていた。
 
「「いただきます」」
 
手を合わせて一礼をして、まず一口。
 
「…美味しい?」
「うん、今日のも美味しいですよ」
「…そう」
 
相変わらず無機質な目。
喜んでくれてるのだろうか?
 
「…何?」
「いや、何でも無いです」
 
…何となく嬉しそうだな。
勘だが。
 
そうだ、今日も先生のことを聞いてみるとするかね。
 
「あの、ひとつ質問して良いですか?」
「…いい」
 
カレーを頬張りながら長門さんは答える。
 
「朝倉先生のことなんですが…」
「………」
 
彼女のスプーンを持つ手がピタリと止まる。
…そんなに気に障る話なんだろうか。
 
長門さんはこの話になるといつも動きを止める。
拒絶、というよりは…話すのを躊躇っているような、そんな感じだ。
 
「…あの、嫌なら無理に話そうとしなくていいですよ? 毎回すみません」
「………」
 
その言葉を聞いて、スプーンに持ったカレーを一口パクリ。
だが、その手に持ったスプーンに、再びカレーが盛られることはなく。
静かにテーブルに置かれた。
 
「食べないんですか?」
「…最近どう?」
「へ?」
「…どう?」
「…どう…とは?」
 
彼女らしくない質問である。
 
「えーっと…まぁ、楽しいですが…」
「………」
「…長門さん?」
「…朝倉涼子とは?」
「先生ですか?…まぁ、登校時に会ったりだとか、そんな感じですが…」
 
俺のことをじっと見つめる長門さん。
 
「…あまり彼女に近づかない方がいい」
「…何故ですか?」
「…理由は言えない。ただ、必要最低限の場合以外は接触を避けるべき」
 
理由は無いって…
 
「…そこまで気にすることも無いと思いますがね」
 
少しふてくされてカレーをパクリ。
 
「…言うことを聞くべき。あなたは今、私のお世話になっている立場にある」
「んなこと言ったって、お袋じゃないんですから…」
 
言いかけて気がつく。
 
「………」
「………」
 
しまった、と。
 
人間、失敗するまで何も気が付かないものである。
先生の言う意味もやっとわかったよ。
 
きっと長門さんは、両親から離れた俺に気を使って、今まで不器用ながらも俺に
接してきてくれたのだ。
なかなか伝わりにくくはあるが、
 
母親
 
としてだ。
 
任された身として、代わりとして、そりゃもう必死だったんじゃないかと思う。
 
俺の目の前にいる長門さんは、明らかにショックを受けたような顔をしていた。
無表情ではあるが、感じでわかる。
 
「…ごめんなさい」
 
何故彼女が謝るのだろうか。
何故俺は何も言い返さないんだろうか。
 
いや、言い返せなかったんだ。
 
きっと今は何を言っても空回りしそうな気がして。
 
「…あの、俺…頭冷やしてきます」
 
言うが早いか俺は居間を飛び出して外にでる。
 
「…あ」
 
何か言いかけた彼女の声の、弱々しさがとても痛くて。
必死に必死に逃げるために、俺はがむしゃらに走りつづけた。
 
◇◆◇◆◇
 
「…此処は」
 
駅前の公園か?
 
…ひたすらに走り回ったようだが、何だかんだでマンションの近くまで来ていたみたいだ。
 
…はぁ。
 
ため息を吐き出してベンチに座る。
 
「…腹減ったな」
 
一応鞄を持って出てきたが…財布に資金は入っておらず。
じゃなくて、長門さんにどうやって謝ろうか…
 
どうしようもなく、空を仰ぐ。
そんな時、不意に聞こえる女性の声。
 
「…約束、破ったんだ」
「…朝倉先生。何してるんですかこんな所で」
「さぁ?」
 
さぁ、って…
 
「長門さんを悲しませたでしょ?」
「………」
「駄目じゃない」
「…すみません」
「…もう遅いわ」
「…え?」
「今のあなたにプロテクトはかけられていない」
 
………はい?
 
俺の目の前にいる女性は一体何を言っているんだ?
プロテクト?俺に?
 
「ま、わからないのも無理は無いわね。でも、教えたところで無駄でしょ?」
 
そう呟く彼女が、手元で何かを遊び始める。
…あれは…ナイフ?
 
「だから、さよなら」
 
言うが早いか突進してくる。
ナイフをしっかりと、俺の体に向けながら。
 
「のわっ!」
 
紙一重、ナイフが服をかすめる。
何だ?何が起こっているんだ一体。
 
プロテクト?
一体…あ。
 
『…平和のおまじない』
 
…あれか!
 
「あなたがあんなことを言わなければこんなことは起こらなかったのに」
「説明くらいしてくれ!」
「それ、無理。うまく説明できないの。何かがあたしに制限をかけるから」
「とりあえずそのナイフをしまってくれ!」
「駄目よ。今の私に力は無いから、あなたを殺せない」
 
全身が硬直する。
確かに、俺の聞き間違いじゃなければ「あなたを殺せない」って言ったよな?
 
何故だ?
長門さんを悲しませたからだってのか?
 
「違うわ。これは、ずっと昔から決まっていたこと」
「昔?」
「そう、あなたの両親が初めて出会った時から。私はそんなの反対したんだけどね」
「…先生…いや、お前は一体…」
「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。わかりやすいように宇宙人って言った方がいいかしら?」
「………」
「信じられないって顔ね」
「証拠を見せてほしいもんだな」
 
なるたけ冷静を装って返答する。
くそ、冷や汗が気持ち悪い。
 
「残念だけど、今の私には何の権限も無いの。力を使えた時期はあったんだけどね」
「権限?」
「うん。情報統合思念対。鍵はふたつもいらないんだって」
 
また摩訶不思議な単語が…というか、鍵?
まてまて、そんなことより俺は彼女の言うことを鵜呑みにしていいのか?
 
「あなたのお父さんは、世界に必要な鍵だった。誰にも開け方のわからない。ただ一つの扉を開けるための」
「…俺もそれだってのか?」
「そうよ。でもそうなると観察対象が増えて、面倒なことになる。また対になる人間も現れる。だから、消さなくちゃって」
 
…ぶっ飛んだ話だ。
 
「でも真実なの」
「というか、なんだかんだで説明はするのな」
「…ふふっ」
「…何がおかしいんだよ」
「あの時の私はわからなかった。有機生命体の概念なんて。だけど、今ならはっきり言える」
 
不意に強い風が吹く。
舞った木の葉に乗るように、静かに訪れた一つの影。
 
「貴女に私を止めてほしかった」
「…そう」
 
長門さんが、そこに立っていた。
…どうして此処が?
 
「長門さんも、私と同じ存在なの。あなたが相手なら、力も与えられる。だけど私はそんなの望まない」
「…でも、それが貴女の役割」
「…止めて?お願い…もう、彼を殺そうとすることしかできないの」
 
彼女のかき消されそうな声も、俺の心臓の鼓動も、忘れてしまうような声で、長門さんは呟く。
 
「…了解した」
 
刹那、空気が歪むんじゃないかってくらいの速度で朝倉から何かが放たれる。
槍?いや、全く見えん。
 
ただひとつわかることは
 
「…伏せて」
 
それは確実に俺を狙ってたらしいってことだけで。
 
衝撃は…こない?
 
「私は普通に過ごしたかった。こんな存在ではなく。一人の女の子として」
 
受け止めたのか、はたまたかき消したのか。
ビビって目を塞いだ俺には何がなんだかわからなかったが、長門さんが俺を護ってくれていることは理解した。
 
「長門さん、貴女は違うの?」
「…私は今のままでいい」
 
呟きながら片手をかざす。
彼女の目の前にシールドが張り出され、攻撃が遮断される。
 
「…もう何が何やら」
 
ついさっきまで日常の中に俺は確かにいたはずなのに。
目の前にいた人は、親父の知り合いだったはずなのに。
向かいで泣いている人は、俺の教師だったはずなのに。
 
俺の目の前には、ただただ絶え間なく衝撃が走っていた。
 
「…聞いて」
 
そんな轟音に負けない程芯の通った声で長門さんが呟く。
 
「…もうすぐこの防御壁は破壊される。そうなれば最後」
「最後ったって…どうすりゃいいんですか」
「…逃げて」
「…え?」
「…今の私に力はほとんど残っていない。一方、朝倉涼子には情報統合思念体の手によって、ある程度の力が与えられてある」
 
淡々とした口調で、だけど少し急いているような。
 
そうしている間にもシールドにひびが入る。
 
「でも、長門さんを置いて行くわけには…」
「…私の役割は、あなたの保護」
「それとこれとは話が別です!」
 
ガクン、と足下が揺れる。
地面が…くぼんでる?
 
「ほら、長門さん。目の前ばかりに気を取られてると、足下を掬われるわよ?」
 
あぁ、わかった。
足場が無くなったんだな。
スローモーションで視界が低くなるのが分かる。
 
落ちる。
 
不味いぞ。
 
「…手を伸ばして」
 
混乱した意識の中でも確かに聞こえる声がする。
 
…手?
右手か?左手か?
 
「…早く」
 
迷った末に出した両手が小さな手に掴まれる。
 
「…な、長門さん…」
 
こんな華奢な体のどこにそんな力があるのか。
気がつけば、俺の体は彼女にしっかりぶら下がっていた。
 
「…あがれる?」
「な、なんとか……くっ!?」
 
再び衝撃。
長門さんの体が激しく揺れる。
 
「…だから言ったじゃない。目の前ばかりに気を取られちゃ駄目だって」
 
彼女の体から雫が落ちる。
真下に広がる暗闇に、赤い花が咲いて。
 
「大丈夫ですか!?」
「………」
 
そんな俺の言葉を意に介さず、無言で俺を引っ張り上げる。
 
「あら、──長門さ──で脱出し──」
 
駄目だ、朝倉の言葉が耳に入らない。
ナイフが長門さんの体に確かに刺さっている。
 
致命傷なのか?
助かるのか?
なんでこうなった?
なんで俺は泣いているんだ?
 
「…終わった」
 
ポツリ、と長門さんが呟く。
 
「喋らないでください!傷口が…!」
 
俺の言葉など聞く気がないという風に、彼女は言葉を重ねる。
 
「パーソナルネーム『朝倉涼子』の攻撃システムを解除」
「…止めはささないのかしら?」
「…そこまでの力は…残っていない」
「…そっか。で、私はこれからどうすればいいのかしら?このままそのナイフで彼を殺すこともできるけど?」
「…彼に…任せる」
 
そう言って、自分の腹部からナイフを抜き、俺に手渡す長門さん。
おい、ちょっと待ってくれ。
どういうことだ。
 
「…あとは…貴方の自由」
「いや、そんなことより怪我の手当を…!」
「…無駄…どうしようもない」
 
…そんな…
 
「…約束を…守れなくて…ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいんですってば…」
 
次第に彼女の呼吸が小さくなる。
抱きかかえられた小さな体が冷えてくる。
 
「…嘘だ…嘘だろ?」
 
小さな砂となり、足下から消えていく。
 
この砂は、風に乗ってどこまで行ってしまうのだろうか。
 
尋ねたところで、いつも答えてくれる親父達の親友の姿は消えていて。
 
「…このまま、どうするの?」
「…黙ってください」
 
朝倉の声が、とても耳障りで。
唯一彼女が残してくれたナイフを握る。
 
冷たい血に少し身の毛がよだった。
 
涙を流している朝倉に、その切っ先を向ける。
 
何だ?
これが長門さんの望んだことか?
 
違うだろ。
一ヶ月。
短くて長かったこの期間、俺は彼女の何を見ていたんだ?
 
「…カレー」
 
声を絞り出す。
もう、口の中がカラカラだ。
 
「…え?」
「…長門さんの作ってくれたカレーがあるんだ」
「…そう」
「…食べに行きましょう」
「…私のことはどうするの?」
「…長門さんの親友に…手を出すことなんかできないですよ」
 
静かに言い切ってナイフを落とす。
 
「…ごめんなさい」
 
震える声で彼女が呟く。
 
「…謝るくらいならこんなことしないでくださいよ」
 
俺も負けじと声を震わせる。
 
きっと、お互いに我慢の限界だった。
 
泣いた。
馬鹿みたいに。
声をあげて泣いた。
とてもとても大切な人が、いなくなったから。
 
片方はなにもできずに、片方は自分を抑えられずに。
そんな二人を長門さんは救ってくれた。
そんな長門さんに二人は何も出来なくて。
 
無口で何考えてるか分からなければ胸も小さいし童顔だし。
それでも変わらない二人目の母親に対して。
ありがとうと言うでも無く、ごめんなさいも伝えられず。
 
ただただ、泣いた。
 
涙も枯れて、声が出なくなった頃。
公園に朝焼けがさした。
 
それでもまだ泣いてた朝倉の手を引っ張って、俺はマンションに戻ることにした。
長門さんが残してくれた、大切なカレーを食べるために。
 
◇◆◇◆◇
 
「…ただいま」
 
誰もいるわけでもない玄関の扉を開ける。
嗚咽を漏らす朝倉を置いて、リビングへ入る。
 
「…おかえり」
「…だからただいまって言ったじゃないですか」
 
聞き覚えのある、小さな声。
 
「…長門さん?…何で?」
「……?」
 
二皿カレーが置かれたテーブルで、本を読んでいる長門さん。
 
…あれ?
確かに数時間前、俺の手の中には血まみれの長門さんがいて…あれ?
 
「…貴方が帰ってこないから、カレーが冷めてしまった」
「いや、そんなことは心底どうでもよくてですね…」
 
…話が見えないぞ?
 
「おじゃましまーす」
「…いらっしゃい」
 
先程まで泣きじゃくっていたくしゃくしゃの顔はどこにいったのか。
いつものスマイルで朝倉が入ってくる。
 
「…朝倉?」
「…教師の立場である彼女にはキチンと先生と付けるべき」
「じゃなくてですね!これはどういうことなんですか!?」
「あぁ、公園での出来事のこと?」
 
おいおい、なんであんたはそんなに楽しそうなんだ。
長門さんをナイフで刺しておいて…
 
「あれ、全部お芝居よ?」
「…なんですと?」
「ちょっと待ってね…」
 
ほら、と指差した先に、血まみれの長門さん。
その真横にちょこんと本を読んでいる長門さん。
 
「…長門さんが二人?」
「正確にはコピーね。ごめんね?騙すようなことして」
 
唖然とする俺をよそに、パタンと本をたたんで片付けにいく長門さん。
 
「君がどんな人か知りたかったの。あそこで私にナイフを刺すか、刺さないか。それだけじゃなくて、色んな分岐点があったんだけど」
「………」
「…ま、合格かな」
 
…じゃあ、長門さんは…いや、本物の方の長門さんは…?
 
「だから、そこにいるじゃない」
「…朝倉涼子はタチの悪い悪戯をよくする」
 
…いやいや、悪戯ってレベルじゃないですよこれは。
貴女殺されてたんですよ?
 
「…そう」
 
…もうなんでもいいや。
 
「ま、これからもヨロシクね?」
「…わかりました」
 
どでかいため息をついて、俺は言うべきことを思い出す。
 
「長門さん、さっきのことなんですけど」
「……?」
「すみませんでした。折角長門さんが俺の心配してくれたのに、無神経なこと言ってしまって…」
「…気にすることはない。母親として、当然のこと」
 
少し嬉しそうに言った彼女を見て、俺はもう何も言えなかった。
親父とお袋が、俺を長門さんに預けた理由が何となく分かった気がする。
 
「それじゃ、私カレー温め直してくるわね」
 
キッチンに皿を持っていく朝倉を見送って、俺は例の大学ノートを開く。
パラ、パラとめくり、最後のページが目についた。
 
「…やれやれ」
「…どうしたの?」
「いや、何でも無いですよ」
 
馬鹿親父。
そんな当たり前のこと書いてどうするんだ。
 
…今度、この人のためにお袋からレシピを聞こう。
再現できるか分からないけど、長門さんの大好きなカレーのレシピを。
ちゃんと作ることが出来た暁には、彼女は喜んでくれるだろうか?
 
「…嬉しそう」
「…そうですか?」
 
三年なんてちっぽけなことは言わず、なるたけ長く、一緒にいたいと思う、大切な母親のために。
じっくり作り上げたカレーは、どんな味がするのだろうか?
 
願わくば。
それが俺の初めて見る、長門さんの笑顔をもたらす味でありますように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『最後になるが、無口で何考えてるか分からない長門も、立派な女の子です。お互いに、大切に支え合ってすごしましょう』
 
おわり

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最終更新:2020年03月11日 19:56